(25)人も幸せ、自分も幸せ(117頁)
素晴らしいだろう。僕が素晴らしいのでなく世界が素晴らしいから安心である。まさに廓然無聖なのだ。本当に幸せになる。悩んだり苦るしんでいるとしたら、自分の小さな欲望の充足感に悩み苦るしんでいるのであって、それさえ「どうでもいい」と解脱すれば、つまり竿灯進歩である。この先、手を離したら落ちて死ぬではないかと恐怖にかられても、それでも進めばいいので、そういう真理を武術も言うのだろう。
まだテレビのない頃、ラジオの講談で聞いて子供ながら納得したのだけれど「見切り」ということ。物事を見切るということ。ここに幅一メートルの橋がかかっているとする。田んぼの小川ではまるで何ともない。ところが千尋の谷のようなところにその橋がかけられたら、とても幅が一メートルには見えない。刃のやり取りもそう。相手の刀の切っ先と自分の距離を恐怖心で正確に認識できない。目の前に届かない位置でも、自分から離れていたら大丈夫なのに、それを見切れない。「見切る」というのは、一メートルを一メートルと明確に認識すること。谷が深いと一メートルが細く見えるのと一緒である。
ただそれだけのことなのに、戦場では命のやり取りだから、見切ることができるか否か命がけになる。相手の刀が自分に触れないことを見切ることができるか。恐怖心が先に立つとダメで、ラジオの講談で聞いた高柳又兵衛の話などに出てくる、竹刀では強いけれど木刀や真剣では勝てない。それを克服するにはというと刃を当てなければいい。音無しの構えということであいての刀と自分の刀を交差させなければよい。練習場では強いのに真剣では弱いのは、恐怖心が先に立って見切れないわけだ。
つまりランダムドットステレオグラムの立体視ができない、ドットしか見る事ができなければ世界を見切れない。自分の欲望でお金が欲しいとか、命が惜しいとか、食べたいモテたいとかの執著(しゅうじゃく)心を持って世の中を見ると、世界を正しく見ることができない。恐怖心こそ一番の敵である。勝つか負けるか、幸せであるかないかなど二元論で考えると、負け組はルサンチマンを、勝ち組もまた、勝ったは勝ったでその幸せを逃したくない、今度負けたらどうしようという不安と恐怖を抱える。地位とか名誉とかお金がなくなったらどうしようと、せっかく勝ち組になっても、次にはパナマ文書が曝かれるように、何代も食べられるだけの金があっても死ぬまで四苦八苦する。
そこを諭したのがお釈迦さまの教えである。異性に執著(しゅうじゃく)すれば嫉妬心に駆られ、金持ちになれなければ負けたという敗残者意識とで結局は勝っても負けても苦しみの連続である。もともと自分と他者の間を境界線を引いて分けた世界観で、勝った、負けた、損した、得したという思考だったものを、全元論に世界観を組み換えれば人の幸せは自分の幸せになるのである。
僕がいうのは「世界がそうなのだ!」「世界はそうなっているのだ!」ということである。自分も幸せ、人も幸せ。そういう考えに行き着いた僕が凄いだろう、と言いたいのではない。子どもの頃からの世界との直接体験で僕は分かってしまった。道元もそう言っている。お釈迦様もそう言っている。
マチスも絵が変遷するが、若いときに斬新な革新的ことをやって、前衛の旗手だった。40歳台の終わりのニース時代から、もう一度描写に戻ってくる。そこでマチスはかなり周囲の美術界から攻撃を受けた。ライバルのピカソは華々しいし、一人でやっていてオファーもなく反応もなく、すると不安になる。ピカソは共産党に入り、マチスの「私は人々を癒す肘掛け椅子のような絵を描きたい」という言を批判して「マチスの肘掛け椅子はブルジョアジー用の椅子だ」と言う。絵を描く時は一人ぼっちなので、有名無名に関わらず、どんな画家も同じような状況に出遇うことはある。そのときにマチスが思ったのは、自分がもしかしたら間違っているかもしれない。しかしマチスはそのとき、「僕が間違っているならセザンヌも間違っている」と言った。セザンヌも、自分と同じ美意識の絵を描いているのだ、セザンヌが正しいのだから、自分も正しい。たとえ、たった一人でも自分のやっている方向に間違いない。
僕もだからこれを進めると、「僕が間違っているならモネもセザンヌも間違っているのか」加えて「僕が間違っているならお釈迦さまも道元も間違っていると言うのか」。僕個人が正しいとか間違っているとか、そんなのことはどうでもよい。だから本当に幸せなのだ。廓然無聖だ。