(10)日常・非日常(38頁)
昔、僕が10代の頃、芸術家の間に実存主義が流行った時期があった。日常生活を破綻して、酒や女や病気に惑溺して、そういう非日常的生活を創作の手がかりにしようというような風潮があった。その延長線上で、芸大時代にはヒッピー、サイケデリック、マリファナ、文学ではヘンリー・ミラー、ジャック・ケルワック、映画では『イージー・ライダー』の世界が、一時流行した時があった。ロマン派の系統で、人生派や無頼派や破滅型の芸術家の一群だ。
去年(2004年)、何年ぶりかで映画館でジャクソン・ポロックを主人公にした映画を観たが、映画の中の画家というと非常識でテンション高く、人生にのたうちまわるといったステレオタイプに描かれるのにはいつも、画家の僕からみれば不満だ。現実の画家にも、そういったタイプの画家は存在するが、エコール・デ・パリの画家達と同じように超一流ではない。美を超越と措定して絵を描いている画家の仕事ぶりは、映画のように絵具まみれになって周りを汚したりはしない。映画監督の小津安二郎に画家の映画を撮って欲しかった。
本人の世界観(パースペクティブ。空間、時間)は常識的なのに、その中身の出来事だけをを日常から超えようとしても無理じゃあないかな。わざわざ、そういう状態に追い込んでとか、無意識や偶然性を取り込んで、自分を超えた表現をしようとするのは間違いだと思う。
昔のお百姓さんのように、陽が出たら仕事をして、暗くなったら寝るというような、ごく日常的な日課的な生活をしていて、本体のところのパースペクティブ(空間観、時間観)が常識的、日常的でないという風にならないと。
現実にそういう、日常をあえて崩さないようにしていた画家の生活が、僕は好きだ。海老原喜之助や坂本繁二郎。熊本出身の同級生に聞いた話だが、海老原喜之助は散歩も近くしか行かない。あまり遠くへ行ったり、いつもと違う道を歩いたり、日常と違うことをすると、どうも絵の制作の調子が出ないという。
僕も日常生活が変わってしまうのはいけない。個展のときなど、生活ペースが変わると、元に戻るのに少し時間がかかる。いつものように、生きられている空間がジッと凝縮していないと…。そうなると、次から次と、こうしてとか、ああしたいとか、アイデアが出てくる。
若いときは、不規則な生活をしていても、柔軟性や再生力も旺盛なので気にもならないが、五十才を過ぎれば絵に全ての人生の残り時間を使うくらいの気持ちでちょうどいいんだ。人間は本来の大欲を忘れて、目前の小欲に惑わされがちだから、食欲、性欲、金銭欲、権力欲、名誉欲等の実存に属する小事は適当にサッサと処理して、芸術の記録をのばすという大欲に専念すべきだ。どうせ、実存としての人間は死ぬんだもの。