(68)世界を描出する「抽象印象主義」(243頁)
印象派と、僕の「抽象印象主義」はどう違うのか。
まず、色の使い方が違う。印象派はピンクの色面を塗る場合に赤と白を点または筆のタッチで、二色を混色しないで併置してピンクに見せるのに対して、僕はピンクを平らに塗る。僕の経験から言うと、色は平塗りが最も美しい。しかし、その塗られた色面を光らせる事は、大変に難しい。僕もやっと最近その一端に取付いた所だ。
それと、描画対象の具象と抽象の違い。しかし僕の抽象は、具象と切り離されていない。だから今でも具象の絵を描いているが、境界が無いのだから何の問題も抵抗もない。難しくもない。
何故抽象に進んで行ったかというと、去年の画集に入れた文章にも書いたが、世界の実体存在から関係存在へとの認識の変化と、水平線と垂直線の意味の発見があって、現実には変化していったのだけれど、要は世界の認識がどんどん変わっていったのが原因だ。
世界そのものが昔は、物は実体的にゴツンとしたフォルムがあって、全体が部分の無い一様で無垢な、黒っぽいパチンコ玉のような原子の存在へのナチュラルな信頼があったのだけれど、それが時代が進むに従って、目に見えている物の存在自体やニュートンのプリンキピア的世界が、最先端の物理学では何時の間にか無くなってしまう。
つまり、きちんと縦、横、奥行き、の三次元の空間があって、カチンとここに物があるという、普通に常識的なナチュラルな世界存在の信頼があって、一方で最新の知の世界は、精神世界のモナドばかりか物質世界のアトムさえも、剥いても剥いても種の無い玉ネギのような核の無い、頼り無いフワフワした感じの世界がある。
すなわち、「場」とか「空間が曲がっている」とか「絶対時間は無い」とか、世界をそういうものだと知り、感じたら、具象だけではとても「世界」を描けきれなくなってくる。僕は元来描写するタイプの画家である。世界を描出していくという描写の仕事なのだ。描写しながら、「美」に向かって造形していくという方法論で仕事をしている。決して表現の仕事ではない。描写の仕事であって、世界を何とか描写したいと思ったら、具象だけでは描写しきれないという事になるのだ。