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(11)修証一等

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(11)修証一等(63頁)  

曹洞宗の二祖で、道元の最初の弟子の懐弉(えじょう)が、『正法眼蔵随門記』を書いている。これがまた面白いのだ。道元が宋から帰国したとき、あちらから日本に帰るときは空海や最澄は法具や経典などの多くの土産物があったし、僧にかぎらず、ふつうは何らかのお土産を持って帰ったものだ。ところが道元は手ぶらで帰ってきた。帰国してすぐの言葉が「空手還郷、眼横鼻直(がんのうびちょく)」というものだった。まあ「手ぶらで帰って来たよ、眼は横に付いている、鼻は縦に付いているという当然のことが私の持って帰ったものだ」というような意味である。

宋から帰って一時建仁寺に仮寓していた道元をたずねて、法戦を挑んだのが孤雲懐奘であった。懐弉は、三日三晩と言われるが、ずっと道元を相手に論破しようとしたが、最後は道元に心酔して師事を願い出た。実際に師事できたのは道元が深草に移ってからであるが、ともかく道元の教えを伝え、広めることに懸命だったのが懐弉である。

懐弉が道元に出会う前に属していた達磨宗、今では日本達磨宗と呼ばれるが、無認可というか異端扱いのようなその教団から、のちに多くの僧が道元のもとにやってくることになる。彼らが曹洞宗の僧の中核となっていったとも言える。その懐弉が、論戦のすえに「まいりました」と、道元に心酔した肝心なところは何かというと、ひと言でいうなら「修証一等」である。座禅というのは修と証があって、証は証明の証でありつまり悟りにむかって、毎日、毎日、修行する。それが座禅でしょう、と懐弉が言ったら、道元は違うと言う。

じつはこれとよく似た話が中国にあり、六祖の慧能に関わる逸話である。しかしその前に懐弉と道元の論戦の結論をいうなら、悟りのために行くというのは、違う。修証一等である、と道元は言うのであった。修証一如(いちにょ)ともいうが修と証は一つなのだ、というのが道元の説。修と証は分けられない。ここが肝心なところで、全元論はすべてのものは分けられない。全てのものは全体から分別して存在しない。

千歩の道も一歩からといって、千歩のなかの一歩一歩はすべてが平等でどの一歩も分けて全行程から外せない、じつは千と一は一つなのであるということだ。懐弉は、その時、道元の言葉に心から打たれ、深く納得し、その後の彼の人生はぴったりと道元に影のごとく終生仕えた。『正法眼蔵』をはじめとする道元の膨大な著書が記録として残されているのも懐弉の筆写や原稿の整理などのサポートが大きな力になった。懐弉自身の著者も、道元から直接聞いた言葉を懐弉が『正法眼蔵随門記』として残した。懐弉は、示寂(じじゃく)後の自分の墓は道元の近くに、仕える者として埋葬されることを望んだ。

先述の、六祖慧能のそっくりな話というのはこうである。五祖弘忍という人物がいて、初祖達磨から数えて五祖だから達磨の嫡嫡伝承者である。慧能はもともと薪を売って母一人、子一人で生活していた。ところがある時、読経の金剛経の一句を聞いて、一切を投げ打って弘忍のところに参じた。

それまで母を養っていたが、銀10両ほどを出してくれる人がいて、母に渡して慧能は家を出ていく。しかしすぐに修行ができるのではなく、米つきの下働きのような所にいた。後に、他の寺で正式に「具足戒」を受けて出家するのだが、当時は「廬安者(ろあんじゃ)」とよばれていた。弘忍の弟子の僧のなかでは、筆頭ともいえる神秀(じんしゅう)がいて、神秀が弘忍の法嗣(ほっす)となるだろうことはもう周知のことだった。

弘忍の後継者を決めるにあたり、悟りの境地を的確に詩に表しなさいと弘忍が言った。そこで神秀が壁に書いたのは「心は鏡のようなものだから、塵や埃で汚さないように…」といった内容。しかし慧能は別の壁に「心も鏡も本来ないのだから、塵や埃を払拭する必要がない」との詩を書く。そこで神秀よりも慧能を評価した五祖弘忍は、米をついていた作業場に来て、慧能に、自分の法衣を伝衣(でんえ)した。伝衣にはいろんな方法があるとされるが、自分が敵敵伝承した法をお前に嗣(つ)がせたという意味だ。法衣を渡してこっそりと逃げさせたわけだ。正式な僧でもない、年月も経っていない慧能が、弘忍から嗣法されてそのまま寺にいては神秀の一派から疎まれ、襲われるおそれがあるので、寺から出奔させた。

慧能は法衣を持って隠れながら過ごしたが、やがて慧能の優れた法力が次第に理解され、慧能のもとに優れた俊英たちが集まってきた。そして、慧能の流れのほうが南宗禅(神秀の方は北宗禅)としてその後興隆していく。このあたりは僕なりの説明になるが、ともかくそのときの鏡の世界観が、修証一等と似ているのである。修と証を分けない。「悟りの世界は、向こうにあるのでなく、自分の中にあるのでもなく、向こうにあり、こちらにあり、向こうとこちらと分けられない。向こうとこちらを分けない全部の存在が、世界存在の真の形態(かたち)だ」、というのだ。分けてはいけない。つまり、全体は要素に還元できないのだ。

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