(54)記憶の総体としての自分(195頁)
こういった記憶の総体が、今の僕の世界観になっている。一つひとつが特にどう影響しているとは言えないけれど、それらの全体から、もし一つひとつを外していって何もなくなったら、僕自信の世界も、何もなくなってしまう。説教臭い言い方だが、勉強はそれが一見まるで関係のない知識のように見えても、そうではないんだ。これが何の役に立つの?これがいくらになるの?というものでなく、それらの総体が自己を形成するのだから。
たとえば古文をやったからといって、何になる?哲学をやったからといって何になるの?そう言われても、何かになるんだよ。そういう断片を組みあわせて出来るだけ大きなピースを作り(これがコツ)、それを又組み合わせてたくさんのブロックを組んでできた全体が現在の僕であり、過去から色々のことを為してきた事の総体が今の僕であり、どこかのブロックを取り去ったら、今の僕と違った僕になるわけだ。
勉強する時に一番大事なのはひと固まりにする事である。座標軸を思い描いて、座標軸全体のふさわしい位置に、しっかりと知識を嵌め込んでいく。単にばらばらに孤立して存在しても役に立たない。テレビの『トレビアの泉』のようなああいう知識では、いくら勉強しても、きっちりとした座標、つまり時間と空間の中にしっかりと組み立てていかなければ、役に立たないのだ。そうでなければ、かえって勉強が無駄な知識になってしまう。
自分の世界観の時空の中に、うまくあてはめて、ひと固まりにしていくと、知識が生きてくる。以前の章でいったいくつかの時間、空間の話も、次第にひと固まりになってきたのだ。いくつかに分断されていた記憶が、「あっ、あれもそうだ。これもそうだ」というふうに。
たとえば芥川竜之介の小説『トロッコ』を読んだおかげで、僕の中の同じような経験が蘇った。あるいは映画のワンシーンが、過去にバラバラにあったものを、ひと固まりのストーリーに組み立ててくれる。組み立てられて、構造化、形態化されていくと、自分の中で明らかに生き生きと息づいてくる。
そういう記憶も、僕の中の時空のズレのようなものに注目い始めると、その部分を拾っていくわけだ。すると、それらが再び関連づけられていく。
数学などもそうだ。抽象的な数字だけの世界ではない。現実の世界や哲学、芸術にまで関わり合っているのだ。数学も世界の表象なのだ。そう考えないと、勉強する意味がない。
だいたい知識は、分断された知識というものは、生きてこない。分断というか、部分的な、受験勉強的な知識というのは、本当に生きない。将来、実人生に入ってみると、それらは生きてこないんだ。