岡野岬石の資料蔵

岡野岬石の作品とテキスト等の情報ボックスとしてブログ形式で随時発信します。

テキストデータ 芸術の杣径 著書、作品集、図録

(2)超越

投稿日:2022-03-03 更新日:

(2)超越(18頁)

僕は意志が強いように思われているが、その事は私の性格とは無関係なのだ。自己の内部に超越を抱え込んだ人間は、それを行動の最上部に置くので、他の事をさておいてそうせざるをえない。

自分一人の場合は自己責任で問題ないのだが、困ることは家族内で、違う「超越」を持ち出された場合、その超越と僕の超越がぶつかったときに困る。芸術、真善美は、私にとって超越だと思っている。ところがたとえば主婦は、家庭が超越なわけだ。

戦後一時期「女性とストッキングは強くなった」と言われたけれど、「家庭」の超越に対抗する超越を男が持てなくなると、当然、この家庭の超越に負けてしまう。

たとえば「忠臣蔵」の事件が今現実に起こったとしたら、男からはともかく、主婦からは絶対笑いものになるだろう。自分が赤穂浪士の一人として、女房に討ち入りの決心を話したとすると、彼女はきっとこういうだろう。

「あんた馬鹿じゃないの。上司が討ち入りするからといって、なんであなたが一緒に討ち入りしなくてはならないの。退職金を少しでも多く貰って、さっさとやめるのよ」

社長が親会社に意地悪されたからといって、その社長の不始末で会社がつぶれたからといって、そのためになんであなたが仇討ちをしなくてはいけないのよ」

「残された家族の生活はどうなるの」

主婦は、この論理だ。

たとえば、かって隠れキリシタンの「踏み絵」があったが、踏まなければ拷問を受けて殺される。これにしても、女房がクリスチャンでなければ(実際にこんな例はないのだろうが)「あんた、踏むのよ」と言う。「簡単じゃないの。踏んでおいて、コッソリ蔭で信仰すればいいことでしょう。踏んだからって何なのさ」と言う。こういう論理で全部くるんだ。家族思いで、稼ぎがよければご主人の仕事は問はない。たとえ泥棒でも、という訳だ。

走り高跳びの話をいつもするが、ここが地面だとすると、芸術は地面から高く跳び上がりたいために、地面を踏み切って「どれだけ跳ぶか」という事を日々やっている。地面とは日常。稼いで、食べて、家庭を持ってという日常。そこから「跳びたい」わけだ。

超越的なものを自己の内部に持って人生を送っている人たちの多くは、生涯独身だったり、女性関係や家庭(人間関係までも)がうまくいかなかったりする。芸術家、哲学者…すぐに、次々と名前が浮かんでくる。

-テキストデータ, 芸術の杣径, 著書、作品集、図録

執筆者:

関連記事

(20)参照文「うなぎ(男が決断する時は…)」

(20)参照文「うなぎ(男が決断する時は…)」(65頁) 現在(2004年)私は58歳だから、50年位前の話です。小学校の5年生前後の夏休みだっただろうか。その頃の夏休みは嬉しいのは休みの最初の頃だけ …

(74)ゴーキーと等伯

(74)ゴーキーと等伯(258頁) 明るい緑のパートを作る場合に三つの方法がある。一つ目は白と緑を混色して平塗りする。二つ目はキャンバスの白または白を塗っておいて透明色の緑を塗る。三つ目は白と緑を点描 …

 (6)お釈迦さまも現成した、誰もが現成した

お釈迦さまも現成した、誰もが現成した ちなみに美とは決して「人それぞれ、百人百通り」ではない。美は、真や善と同じく実存の内在ではない。これは描写絵画における大前定である。人それぞれだとしたら、「自分、 …

(24)世界観をきれいにする

(24)世界観をきれいにする(113頁) しかし経済から何から、世界はそのもとに経済活動し、そのもとに芸術活動をするのだから、大元の人間の「世界観」そのものをきれいにすれば、仏教的全元論の世界観を世界 …

嶺北だより(2023年)

嶺北だより(2023年)  2023.09.19 【嶺北だよりプロローグ】 明日朝、始発のバスで四国の棚田を描きに行きます。1週間滞在し、四国の帰りに玉野に寄り、来月の始めに帰柏します。それまでルーテ …