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『般若心経 金剛般若経』中村 元・紀野 一義 訳注 岩波文庫

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『般若心経 金剛般若経』中村 元・紀野 一義 訳注 岩波文庫

般若心経

■全知者である覚った人に礼したてまつる。

求道者にして聖なる観音は、深遠な智慧の完成を実践していたときに、存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。

シャーリープトラよ、

この世においては、物質的現象(注1)には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得る)のである。

実体(注2)がないからといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。

(このようにして)およそ物質的現象とというものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。(11頁)

これと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである。

シャーリプトラよ。(11頁)

この世においては、、すべて存在するものには実体がないという特性がある。

生じたということもなく、滅したということもなく(注1)、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということもなく、増すということもない。

それゆえに、シャーリープトラよ、

実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、意志もなく、知識もない。眼もなく、耳もなく、舌もなく、身体もなく、心もなく、かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。眼の領域から意識のりょういきにいたるまでことごとくないのである。

(さとりもなければ、)迷いもなく、(さとりがなくなることもなければ、)迷いがなくなることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなるなることもないというにいたるのである。苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない。知ることもなく、得るところもない。それ故に、得るということがないから、諸の求道者の智慧の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住している。心を覆うものがないから、恐れがなく、顛倒した心を遠く離れて、永遠の平安に入っているのである。(13頁)

過去・現在・未来の三世にいます目ざめた人々は、すべて、智慧の完成に安んじて、この上ない正しい目ざめを覚り得られた。

それゆえに人は知るべきである。智慧の完成の大いなる真言、大いなるさとりの真言、無上の真言、無比の真言は、すべての苦しみを鎮めるものであり、偽りがないから真言であると。その真言は、智慧の完成において次のように説かれた。

ガテー ガテー バーラガテー バーラサンガテー ボーディ スヴァーハー

(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸いあれ。)

ここに智慧の完成の心が終わった。(15頁)

般若心経 注

(7)五蘊;「五つの集り」の意。色(物質的現象)と受想行識(精神作用)の五つによって一切の存在が構成されていると古代のインド仏教徒は考えたのである。(20頁)

(8)一切の苦役厄を度したまえ;「一切の災厄をとり除く」の意。(20~21頁)

(10)色;物質的現象として存在するもののこと。(21頁)

(11)空;「なにもない状態」というのが原意である。これはまたインド数学ではゼロ(零)を意味する。物質的存在は互いに関係し合いつつ変化しているのであるから、現象としてはあっても、実体として、主体として、自性としては捉えるべきもがない。これを空という。しかし、物質的現象の中にあってこの空性を体得すれば、根源的主体として生きられるともいう。この境地は空の人生観、すなわち空観の究極である。(21頁)

(12)受想行識;「受」は原語ヴェーダナーの訳である。vedana はvid (知る)から作られた語である。本書では「感覚」と訳しておいた。

「想」は原語サンジャニャーの訳。本書では「表象」と訳しておいた。

「行」は原語サンスカーラの訳。「意志」と訳しておいた。「意志的形成力」といえばもっと近いであろう。

「識」は原語ヴィジュニャーナの訳である。ふつう六識に分けていう。眼・耳。鼻・舌・身・意という六種の認識作用が、形・声・香・味・触れられるもの・心の対象を認識する働きを総称してここで「識」という。ここでは「知識」と訳しておいた。(21~22頁) 

(17)シャーリープトラ;その原名は Sariputra である釈尊の高足の弟子の一人。智慧第一といわれた。シャーリーとは、さぎの一種で、プトラとは「子」と言う意味であるから「鶖鷺子」と訳されることがある。(23頁)

(19)物質的現象には実体がない……;「色空空性是色」である。物質的存在をわれわれは現象として捉えるが、現象というものは無数の原因と条件によって刻々変化するものであって、変化しない実体よいうようなものは全然ない。また刻々変化しているからこそ現象としてあらわれ、それをわれわれが存在として捉えることもできるのである。

(20)実体がないといっても……;「色不異空空不異色」と漢訳されている。われわれとしては、実体がないという渾沌とした主客未文の世界を、唯一のもの、全一なもの、一即一切一切即一なるものとして、実感の上で掴まなければならない。しかし、そのためには、現象にまず眼を向け、仮に、これを頼りとし手掛かりとして行かねばならない。現象は、実体がないことにおいて、言いかえると、あらゆるものと関係し合うことによって初めて現象として成立しているのであるから、現象を見すえることによって、一切が原因と条件によって関係し合いつつ動いているというこの縁起の世界が体得できるはずである。(25頁)

(23)生ぜず滅せず--;すべての存在するものは根源的には空なるものであって、生ずることも滅することもないの意。また不生不滅は、「すべての存在するものには実体がないという特性がある」ことにおいて言われていることである。実体がない(空)よいうことは、相関的(縁起・相依性)ということである。ことに中論では『不生不滅なる縁起』ということを冒頭にかかげているほどである。この意味では、生を離れた滅はなく、滅を離れたせいはないという解釈も成り立つ。真言密教では「阿字本不生」を言う。梵字の阿字はすべての語の根本であるだけではなく、一切万有のこんげんであり、この根源的な一者がそのまま森羅万象と現れ、根本も不生、万物も不生であるという。江戸時代の禅僧盤珪は「不生にして黎明なもの」「不生の仏心」を説いて倦まなかった。

(24)垢つかず浄からず--;すべての存在するものは、本来、清浄であるとも不浄であるとも言えないものであるの意。不生不滅と同じく、汚れを離れた清浄さはなく、清浄さを離れた汚れはないという解釈をなし得る。

(25)増さず、減らず--;存在を、渾沌たる主客未分の一なる世界を摑むときには、増すことも、減ることもないのである。(27~29頁)

(29)滅;滅(mirodha)という語をチベットでは「制する」という意味に解していた。また遡って原始仏教聖典の中の古い詩によると mirodha とは「制する」という意味である。例えば「欲望を制する」というのと、「欲望を滅す」というのとでは大変な相違である。この点でこの漢訳語は誤解を起すおそれがあった。(31頁)

(29)菩提薩埵;原語ボーディサットヴァ(bodhisattva)の音訳。註(5)を参照。→菩薩;原語ボーディサットヴァ(bodhisattva)の音訳。「さとりを求める者」の意。本書では「求道者」と訳してある。菩薩という称号は、元来はジャータカすなわち前生物語のなかで、釈尊の前生における呼び名として釈尊を意味して用いられていたものである。大乗仏教興起時代に革新的な仏教者たちが、すべての人間は仏たり得ると確信し、さとりを求めて努力する者すべてボーディサットヴァと呼びならわすようになってからは、求道者一般を指す言葉となった。(31~32頁)

(32)心に罣礙なし;罣とは引っ掛けるの意。礙はさまたげる、あるいは、さわり、障碍の意。原語アーヴァラナは、「覆うもの」の意であり、ここでは、「心を覆うものがない」という意味となる。こころを覆うものがないとは、迷悟・生死・善悪等の意識によって心を束縛されることがないという意味である。(32頁)

(34)涅槃を究竟す;涅槃は原語ニルヴァーナ(nirvana)の音訳。一切の迷いから脱した境地をいう。小部経典ウダーナ(『自説経』)の一節にニルヴァーナを説明して次のようにいう。「修行者たちよ、そこには地も水も火も風もなく、空観の無限もなく、識の無限もなく、無一物もなく、想の否定も非想の否定もなく、この世もかの世もなく、日も月も二つながらない。修行者たちよ、わたしはこれを来ともいわず、去ともいわず、住ともいわず、死ともいわず、生ともいわない。よりどころなく、進行なく、対象のない処、これこそ苦の終りであるとわたしはいう。修行者たちよ、生じないもの、成らぬもの、造られないもの、作為されないものがある。修行者たちよ、もしその、生ぜず、成らず、造られず、作為されないものがないならば、そこには、生じ、成り、造られ、作為されたものの出離はないであろう。修行者たちよ、生ぜず、成らず、造られず、作為されないものがあるから、生じ、成り、造られ、作為されたものの出離があるのである。」(33頁)

(43)阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい);原語アヌッタラー・サムヤックサンボーディの音訳。無上正等正覚と意訳する。「この上もない、正しく平等な目ざめ」「完全なさとり」の意である。仏の覚りを指していう。(35頁)

(44)大神咒(だいじんしゅ);原語マハー・マントラの訳。神の字は漢訳者の挿入であり、不思議な霊力を意味するとかんがえられる。マントラは通常、「咒」「明咒」「真言」と訳される。仏教以前に古くヴェーダにおいては、宗教的儀式に用いられる神歌のことであり、リチュ、ヤジャス、サーマンの三種から成っていた。マントラはバラモン出身の修行僧によって仏教の教団にも持ち込まれ、ブッダは初めこれを禁じたが、後に毒蛇・歯痛・腹痛等を治癒させる呪は使用を許可した。大乗仏教においてはダーラニー(陀羅尼)と並んで広く用いられるようになった。特に密教では、マントラあるいはダーラニーは真理そのものであると尊重し、翻訳することなくそのまま口に誦える。誦えれば真理と合一することができると説かれる。如来の真実の語であるとして真言というのである。(35~36頁)

(49)心;原語フリダヤの訳である。フリダヤとは心臓の意味であるが、ここでは精髄・精要を意味する。心臓を尊ぶ思想は、ウパニシャッドにまで遡ることができる。ウパニシャッドでは、心臓はアートマン(我)の宿る場所、であると説かれ、さらには、フリダヤは心であると説かれ、ブラフマンであると説かれた。たとえば、「これすなわち心臓の内部にそんするわがアートマンである。」「ブラフマンは心である。」そこでは、巨大なブラフマン(宇宙我)が、人間の心臓の中にあるアートマンと同質であり、同一であると考えられている。この思想をうけて、ブラフマンに相当する「空」の世界が、心臓にも比すべきこの短い真言の中に、全的に表現されている、納められているという意味で、この真言をフリダヤと名づけたのでないかと思われる。しかしやがて密教ではフリダヤを心に対して肉団心(心臓のかたちをとって現れている心)として特別の意味をこつようになる。この点でも『般若心経』は後代の密教的解釈を容れ得る可能性をもっている。(37~38頁)

金剛般若経(金剛般若波羅蜜経)(1)

尊ぶべき、神聖な、智慧の完成に礼(らい)したてまつる。

1 わたくしが聞いたところによると、――あるとき師は、千二百五十人もの多くの修行僧たち〔と、多くの求道者・すぐれた人々〕とともに、シュラーヴァスティー市のジュータ林、孤独な人々に食を給する長者の園に滞在しておられた。

さて師は、朝の中に、下衣をつけ、鉢と上衣とをとって、シュラーヴァスティー大市街を食物を乞うて歩かれた。師はシュラーヴァスティー大市街を食物を乞うて歩かれ、食事を終えられた。食事が終ると、行乞から帰られ、鉢と上衣をかたづけて、両足を洗い、設けられた座に両足を組んで、体をまっすぐにして、精神を集中して坐られた。そのとき、多くの修行僧たちは師の居られるところに近づいた。近づいて師の両足を頭に頂き、師のまわりを右まわりに三度まわって、かたわらに坐った。

2 ちょうどそのとき、スプーティ長老もまた、その同じ集まりに来合わせて坐っていた。さてスプーティ長老は座から起ちあがって、上衣を一方の肩にかけ、右の膝を地につけ、師の居られる方に合掌して次のように言った。(43頁)

「師よ、すばらしいことです。幸ある人よ、まったくすばらしいことです、如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人によって、求道者・すぐれた人々が《最上の恵み》につつまれているということは。師よ、すばらしいことです。如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人によって、求道者・すぐれた人々が《最上の委嘱》をあたえられているということは。

ところで、師よ、求道者の道に向かう立派な若者や立派な娘は、どのように生活し、どのように心を保ったらよいのですか。」

このように問われたとき、師はスプーティ長老に向かって次のように答えられた――

「まことに、まことにスプーティよ、あなたの言う通りだ。如来は求道者・すぐれた人々を最上の恵みでつつんでいる。如来は求道者・すぐれた人々に最上の委嘱を与えている。だからスプーティよ、聞くがよい。よくよく考えるがよい。求道者の道に向かう者はどのように生活し、どのように行動し、どのように心を保つべきであるかということを、わたしはあなたに話して聞かせよう。」

「そうして下さいますように、師よ。」と、スプーティ長老は師に向かって答えた。

3 師はこのように話し出された。(45頁)

「スプーティよ、ここに、求道者の道に向かう者は、次のような心をおこさなければならない。すなわち、スプーティよ――

『およそ生きもののなかまに含められるかぎりの生きとし生けるもの、卵から生まれたもの、母胎からうまれたもの、湿気から生まれたもの、他から生まれず自から生まれ出たもの、形のあるもの、形のないもの、表象作用のあるもの、表象作用のないもの、表象作用があるのでもなく無いのでもないもの、その他生きもののなかまとして考えられるかぎり考えられた生きとし生けるものども、それらのありとあらゆるものを、わたしは、《悩みのない永遠の平安》という境地に導き入れなければならない。しかし、このように、無数の生きとし生けるものを永遠の平安に導き入れても、実は誰ひとりとして永遠の平安に導き入れられたものはない。』と。

それはなぜかというと、スプーティよ、もしも求道者が、《生きているものという思い》をおこすという思い》は《個人という思い》などをおこしたりするものは、もはや求道者とは言われないからだ。(47頁)

4 ところで、また、スプーティよ、求道者はものにとらわれて施しをしてはならない。なにかにとらわれて施しをしてはならない。形にとらわれて施しをしてはならない。声や、香りや、味や、触れられるものや、心の対象にとらわれて施しをしてはならない。

このように、スプーティよ、求道者・すぐれた人々は、跡をのこしたいという思いにとらわれないようにして施しをしなければならない。

それはなぜかというと、スプーティよ、もしも求道者がとらわれることなく施しをすれば、その功徳が積み重なって、たやすくは計りしられないほどになるからだ。スプーティよ、どう思うか。東の方の虚空の量は容易に計り知られるだろうか。」

スプーティは答えた――「師よ、答えられません。」

師は言われた――「スプーティよ、これと同じことだ。もし求道者がとらわれることなく施しをすれば、その功徳の積み重なりはたやすくは計り知られない。(49頁)

実にスプーティよ、求道者の道に向かうものは、このように、跡を残したいという思いにとらわれまいようにして施しをしなければならないのだ。」(51頁)

5 「スプーティよ、どう思うか、如来は特徴をそなえたものと見るべきであろうか。」

スプーティは答えた――「師よ、そう見るべきではありません。如来は特徴をそなえたものと見てはならないのです。それはなぜかというと、師よ、〈特徴をそなえているということは徴をそなえていないことだ〉と、如来が仰せられたからです。」

このように答えられたとき、師はスプーティ長老に向かって次のように言われた――「スプーティよ、特徴をそなえているといえば、それはいつわりであり、特徴をそなえていないといえば、それはいつわりではない。だから、特徴があるということと、特徴がないということとその両方から如来を見なければならないのだ。」(51頁)

6 このように言われたとき、スプーティ長老は、師に向かって次のように訊ねた――「師よ、これから先、後の時世になって第二の五百年代に正しい教えが亡びる頃には、このような経典の言葉が説かれても、それが真実だと思う人々が誰かいるでしょうか。」(51頁)

師は答えられた――「スプーティよ、あなたはそういう風に言ってはならない。これから先、後の時世になって、第二の五百年代に正しい教えが亡びる頃に、このような経典の言葉が説かれるとき、それが真実だと思う人々が誰かいるに違いない。

スプーティよ、また、これから先、後の時世になって、第二の五百年代に正しい教えが亡びる頃に、徳高く、戒律を守り、智慧深い求道者・すぐれた人々は、このような経典の言葉が説かれるとき、それは真実だと思うに違いない。スプーティよ、また、かれら求道者・すぐれた人々は、ひとりの目ざめた人(仏)に近づき帰依したり、ひとりの目ざめた人のもとで善の根を植えたりしただけではなく、何十万という多くの目ざめた人々(諸仏)に近づき帰依したり、何十万という多くの目ざめた人々のもとで善の根を植えたりしたことのある人々であって、このような経典の言葉が説かれるとき、ひたすらに清らかな信仰を得るに違いないのだ。

スプーティよ、如来は目ざめた人の智慧でかれらを知っている。スプーティよ、如来は目ざめた人の眼でかれらを見ている。スプーティーよ、如来はかれらを覚っている。スプーティよ、かれらすべては、計り知れず、数えきれない功徳を積んで、自分のものとするようになるに違いないのだ。(53頁)

それはなぜかというと、スプーティよ、実にこれらの求道者・すぐれた人々には、自我という思いはおこらないし、生存するものという思いも、個体という思いも、個人という思いもおこらないからだ。また、スプーティよ、これらの求道者・すぐれた人々には、《ものという思い》もおこらないし、同じく、《ものでないものという思い》もおこらないからだ。また、スプーティよ、かれらには、思うということも、思わないということもおこらないからだ。それはなぜかというと、

スプーティよ、もしも、かれら求道者・すぐれた人々に、《ものという思い》がおこるならば、かれらには、かの自我に対する執着があるだろうし、生きているものに対する執着、個体に対する執着、個人に対する執着があるだろうから。

もしも、《ものでないものという思い》がおこるならば、かれらには、かの自我に対する執着があるだろうし、生きているものに対する執着、個体に対する執着、個人に対する執着があるだろうからだ。

それはなぜだろうか。

実にまた、スプーティよ、求道者・すぐれた人々は、法をとりあげてもいけないし、法でないものをとりあげてもいけないからだ。(55頁)

それだから、如来は、この趣意で、つぎのようなことばを説かれた―-『筏の喩えの法門を知る人は、法さえも捨てなければならない。まして、法でないものはなおさらのことである。』と。」

7 さらに、また、師はスプーティ長老に向かってこのように問われた――「スプーティよ、どう思うか。如来が、この上ない正しい覚りであるとして現に覚っている法がなにかあるのだろうか。また、如来によって教え示された法がなにかあるのだろうか。」

こう問われたときに、スプーティ長老は師に向かってこのように答えた――「師よ、わたくしが師の説かれたところの意味を理解したところによると、如来が、この上ない正しい覚りであるとして現に覚っておられる法というものはなにもありません。また、如来が教え示されたという法もありません。それはなぜかというと、如来が現に覚られたり、教え示された法というものは、認識することもできないし、口で説明することもできないからです。それは、法でもなく、法でないものでもありません。それはなぜかというと、聖者たちは、絶対そのものによって顕(あらわ)されているからです。」(57頁)

8 師は問われた――「スプーティよ、どう思うか。立派な若者や、あるいは立派な娘が、この《はてしなく広い宇宙》を七つの宝で満たして、如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人々に施したとすると、その立派な若者や立派な娘は、そのことによって、多くの功徳を積んだことになるのであろうか。」

スプーティは答えた――「師よ、幸ある人よ、その立派な若者や立派な娘は、そのことによって、多くの功徳を積んだことになるのです。それはなぜかというと、師よ、〈如来によって説かれた、功徳を積むということは、功徳を積まないということだ〉と如来が説かれているからです。それだから、如来は、〈功徳を積む、功徳を積む〉と説かれるのです。」

師は言われた――「そこでスプーティよ、立派な若者や立派な娘があって、このはてしなく広い宇宙を七つの宝で満たして、如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人々に施すとしても、この法門から四行詩ひとつでもとり出して、他の人たちのために詳しく示し、説いて聞かせる者があるとすれば、こちらの方が、このことのために、もっと多くの、計り知れず、数えきれない功徳を積むことになるのだ。それはなぜかというと、スプーティよ、実に、如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめたひとびとの、この上ない正しい(59頁)覚りも、それから生じたのであり、目ざめた人である世尊らもまた、それから生まれたからだ。それはなぜかというと、スプーティよ〈目ざめた人の理法、目ざめた人の理法というのは、目ざめた人の理法ではない〉と如来が説いているからだ。それだからこそまた目ざめた人の理法と言われるのだ。」(61頁)

9•a (世尊がいわれた――)「スプーティよ、どう思うか。《永遠の平安への流れに乗った者》が、〈わたしは、永遠の平安への流れに乗った者という成果に達しているのだ〉というような考えをおこすだろうか。」

スプーティは答えた――「師よ、そういうことはありません。永遠の平安への流れに乗った者が、〈わたしは、永遠の平安への流れに乗った者という成果に達しているのだ〉というような考えをおこすはずはありません。それはなぜかというと、師よ、実に、彼はなにものも得ているわけではないからです。それだからこそ、《永遠の平安への流れに乗った者》と言われているのです。かれは、かたちを得たのでもなく、声や、香りや、味や、触れられるものや、心の対象、を得たわけでもありません。それだからこそ、《永遠の平安への流れに乗った者》と言われるのです。師よ、もしも、永遠の平安への流れに乗った者が、(61頁)〈わたしは、永遠の平安への流れに乗った者という成果に達しているのだ〉というような考えをおこしたとすると、かれには、かの自我に対する執着があることになるし、生きているものに対する執着、個体に対する執着、個人に対する執着があるということになりましょう。」

9•b 師は問われた――「スプーティよ、どう思うか。《もう一度だけ生まれかわって覚る者》が、〈わたしは、もう一度だけ覚る者という成果に達しているのだ〉というような考えをおこすだろうか。」

スプーティは答えた――「師よ、そういうことはありません。もう一度だけ生まれかわって覚る者が、〈わたしは、もう一度だけ覚る者という成果に達しているのだ〉というような考えをおこすはずがありません。それはなぜかというと、もう一度だけ生まれかわって覚る者になったといっても、なにもそういうものがあるわけではないからです。それだからこそ、《もう一度だけ生まれかわって覚る者》と言われるのです。」

9•c 師は問われた――「スプーティよ、どう思うか。《もう決してうまれかわって来な(63頁)い者》が、〈わたしは、もう決して生まれかわって来ない者という成果に達しているのだ〉というような考えをおこすだろうか。」

スプーティは答えた――「師よ、そういうことはありません。もう決して生まれかわって来ない者が、〈わたしは、もう決して生まれかわって来ない者という成果に達しているのだ〉というような考えをおこすはずがありません。それはなぜかというと、師よ、実に、もう決して生まれかわって来ない者になったといっても、なにもそういうものがあるわけではないからです。それだからこそ、

《もう決して生まれかわって来ない者》と言われるのです。」

9•d 師は問われた――「スプーティよ、どう思うか。《尊敬さるべき人》が、〈わたしは、尊敬さるべき人になった〉というような考えをおこすだろうか。」

スプーティは答えた――「師よ、そういうことはありません。尊敬さるべき人が、〈わたしは、尊敬さるべき人になった〉というような考えをおこすはずがありません。それはなぜかというと、師よ、実に、尊敬さるべき人といわれるようなものはなにもないからです。それだからこそ、《尊敬さるべき人》と言われるのです。師よ、もしも、尊敬さるべき(65頁)人が、〈わたしは尊敬さるべき人になった〉というような考えをおこしたりしたとすると、かれには、かの自我に対する執着があることになるし、生きているものに対する執着、個体に対する執着、個人に対する執着があるということになりましょう。(67頁)

9•e それはなぜかというと、師よ、如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人は、わたくしのことを、《争いのない境地を楽しむ第一人者》と仰されました。師よ、わたくしは、尊敬さるべき人であり、欲望をはなれている〉というような考えはおこしません。師よ、もしも、わたくしが、〈わたしは尊敬さるべき人という状態に達している〉というような考えをおこしていたとするならば、如来がわたくしのことを『立派な若者であるスプーティは、争いをはなれた境地を楽しむ第一人者であり、どこにもとらわれないから、争いをはなれた者である。争いをはなれた者である』などと断言したりはなさらなかったでありましょう。」(67頁)

10•a 師は問われた――「スプーティよ、どう思うか。如来が尊敬さるべき人・正し(67頁)く目ざめた人であるディーパンカラ(然燈)如来のみもとで得られたものが、なにかあるだろうか。」

スプーティは答えた――「師よ、そういうことはありません。尊敬さるべき人・正しく目ざめた人であるディーパンカラ如来のみもとで得られたものは、なにもありません。

10•b 師は言われた――「スプーティよ、もしも、ある求道者が、『わたしは国土の建設をなしとげるだろう』と、このように言ったとすれば、かれは間違ったことを言ったことになるのだ。それはなぜかというと、スプーティよ、如来は〈国土の建設、国土の建設というのは、建設でないことだ〉と説かれているからだ。それだからこそ、〈国土の建設〉と言われるのだ。

10•c それだから、スプーティよ、求道者・すぐれた人々は、とらわれない心をおこさなければならない。何ものかにとらわれた心をおこしてはならない。形にとらわれた心をおこしてはならない。声や、香りや、味や、触れられるものや、心の対象、にとらわれた(69頁)心をおこしてはならない。

スプーティよ、たとえば、ここにひとりの人がいて、その体は整っていて大きく、山の王スメール山のようであったとするならば、スプーティよ、どう思うか。かれの体は大きいであろうか。」

スプーティは答えた――「師よ、それは大きいですとも、幸あるひとよ、その体は大きいですとも、それはなぜかというと、師よ、如来は、『体、体、というがそんなものはない』と仰せられたからです。それだからこそ、〈体〉と言われるのです。師よ、それは有でもなく、また、無でもないのです。それだからこそ、〈体〉と言われるのです。」(71頁)

11 師は問われた――「スプーティよ、どう思うか。ガンジス大河の砂の数だけガンジス河がるとしよう。それらの河にある砂は多いであろうか。」

スプーティは答えた――「師よ、それだけのガンジス河でさえも、おびただしい数にのぼりましょう。まして、それらのガンジス河にある砂の数にいたってはなおさらのことです。」

師は言われた――「わたしはあなたに告げよう。スプーティよ、あなたによく理解させ(71頁)よう。それらのガンジス河にある砂の数だけの世界を、ある女なり、あるいは男なりが、七つの宝で満たして、如来・尊敬すべき人・正しく目ざめた人々に施したとしよう。スプーティよ、どう思うか。その女なり、あるいは男なりは、そのことによって、多くの功徳を積んだことになるのであろうか。」

スプーティは答えた――「師よ、幸ある人よ、その女なりあるいは男なりは、そのことによって、多くの、多くの、計り知れず、数えきれない功徳を積んだことになるのです。」

師は言われた――「実に、また、スプーティよ、ある女なり、あるいは男なりがそれだけ、もしも立派な若者や、あるいは立派な娘が、この法門から四行詩ひとつでもとり出して、他の人々のために示し、説いて聞かせるとすれば、こちらの方が、このことのために、いっそう多くの、計り知れず、数えきれない功徳を積むことになるのだ。

さらにまた、スプーティよ、どのような地方でも、この法門から四行詩ひとつでもとり出して、話したり、説いて聞かせたりされるとすれば、その地方は、神々と人間とアスラたちを含む世界にとって、塔廟にもひとしいものになるだろう。ましてや、この法門を(73頁)余すところなく記憶し、読み、研究し、他の人々のために詳しく説いて聞かせる者どもがあるとすれば、スプーティよ、かれらは《最高の奇端をそなえた者》となるに違いない。

スプーティよ、そういう地方には師と仰がれる者が住み、また、さまざまな《聡明なる師の地位にある者》が住むのだ。」

13•a このように言われたときに、スプーティ長老は師に向かって次のように問うた――「師よ、この法門の名は何と申しますか。また、これをどのように記憶したらよいでしょうか。」

このように問われたときに、師はスプーティ長老に向かって次のように答えられた――「スプーティよ、この法門は《智慧の完成》と名づけられる。そのように記憶すればよい。それはなぜかというと、スプーティよ、『如来によって説かれた《智慧の完成》は、智慧の完成ではない』と如来によって説かれているからだ。それだからこそ、〈智慧の完成〉と言われるのだ。

13•b スプーティよ、どう思うか。如来によって説かれた法というものがなにかあるだ(75頁)ろうか。」

スプーティは答えた――「師よ、そういうものはありません。如来によって説かれた法というものはなにもありません。」

13•c 師は問われた――「スプーティよ、どう思うか。このはてしなく広い宇宙の大地の塵は多いであろうか。」

スプーティは答えた――「師よ、それは多いですとも。幸ある人よ、それは多いですとも。それはなぜかというと、師よ、『如来によって説かれた、大地の塵は、大地の塵ではない』と如来によって説かれているからです。それだからこそ、大地の塵と言われるのです。また、『如来によって説かれたこの世界は、この世界ではない』と如来によって説かれているからです。それだからこそ〈世界〉と言われるのです。」

13•d 師は問われた――「スプーティよ、どう思うか。如来・尊敬すべき人・正しく目ざめた人は、偉大な人物に具わる三十二の特徴によって見分けられるであろうか。」

スプーティは答えた――「師よ、そうではありません。如来・尊敬すべき人・正しく目(77頁)ざめた人は偉大な人物に具わる三十二の特徴によって見分けられるものではありません。それはなぜかというと、実に、師よ、『如来によって説かれた、偉大な人物に具わる三十二の特徴は、特徴ではない』と如来が説かれているからです。それだからこそ、〈偉大な人物に具わる三十二の特徴〉と言われるのです」

13•e 師は言われた――「また、実にスプーティよ、ひとりの女、または男が、毎日、ガンジス河の砂の数だけの体を捧げ、このように捧げつづけて、ガンジス河の砂の数ほどの無限の時期のあいだ、その体を捧げつづけたとしても、この法門から四行詩ひとつでもとり出して、他の人々のために教え示し、説いて聞かせる者があるとすれば、こちらの方が、このことのために、いっそう多くの、計り知れず、数えきれない功徳を積むことに」なるであろう。」

14•a そのとき、スプーティ長老は、法に感動して涙を流した。かれは涙を拭ってから、師に向かってこのように言った――「師よ、すばらしいことです。幸ある人よ、まったくすばらしいことです。《この上ない道に向かう人々》のために、《もっとも勝れた道に向か(79頁)う人々》のために、この法門を如来が説かれたということは、そして、師よ、それによって、わたくしに智が生じたということは。

師よ、わたくしは、このような種類の法門を未だかって聞いたことがありません。師よ、この経が説かれるのを聞いて、真実だという思いを生ずる求道者は、この上ない、すばらしい性質を具えた人々でありましょう。それはなぜかというと、師よ、真実だという思いは、真実でないという思いだからです。それだからこそ、如来は、〈真実だという思い、真実だという思い〉と説かれるのです。

14•b〔しかし、師よ、この法門が説かれているときに、わたくしがそれを受け入れ、理解するということは、それほど難しいことではありません。しかし、師よ、これから先、後の時世になって、第二の五百年代に正しい教えが亡びる頃に、ある人々がこの法門をとりあげて、記憶し、誦(とな)え、研究し、他の人々のために、詳しく説明するでありましょうが、その人々はもっともすばらしい性質を具えた者ということになるでありましょう。〕

14•c けれども、また、師よ、実にそれらの人々には、自己という思いはおこらないし、(81頁)生きているものという思いや、個体という思いや、個人という思いもおこらないでありましょう。また、それらの人たちには、思うということも、思わないということもおこりません。それはなぜかというと、師よ、自己という思いは思わないということにほかなりませんし、生きているものという思いも、個体という思いも、個人という思いも、思わないということに他ならないからでです。それはなぜかというと、みほとけである世尊らは、一切の思いを遠く離れていられるからです。」

14•d このように言われたよき、師はスプーティ長老に向かってこのように言われた――「その通りだ。スプーティよ、その通りだ。この経が説かれるときに、驚かず、恐れず、恐怖に陥らない人々は、この上ない、すばらしい性質をそなえた人々である。それはなぜかというと、スプーティよ、如来の説かれたこの最上の完成は、実はかんせいではないからだ。またスプーティよ、如来が、最上の完成であると説いたそのことを、無量の、目ざめた人々である世尊らがまた説いているからだ。それだからこそ、〈最上の完成者〉と言われるのだ。(83頁)

14•e けれども、さらにまた、スプーティよ、実に、如来における忍耐の完成は、実は完成ではないのだ、それはなぜかというと、スプーティよ、かって或る悪王がわたしの体や手足から肉を切りとったその時にさえも、わたしには、自己という思いも、生きものという思いも、個体という思いも、個人という思いもなかったし、さらにまた、思うということも、思わないということもなかったからである。

それはなぜかというと、スプーティよ、もしも、あの時に、わたしに自己という思いがあったとすると、その時にまたわたしに、《怨みの思い》があったに違いないし、もしも、生きているものという思いや、個体という思いや、個人という思いがあったとすると、その時にまたわたしに、怨みの思いがあったに違いないからだ。

それはなぜかというと、スプーティよ、わたしはありありと思い出す。過去の世に、五百の生涯の間わたしが《忍耐を説く者》(Kasantivadin)という仙人であったことを。その際にもわたしには、自己という思いはなかったし、生きているものという思いもなかったし、個体という思いもなかったし、個人という思いもなかったからだ。

それだから、スプーティよ、求道者・すぐれた人々は、一切の思いをすてて、この上なく正しい目ざめに心をおこさなければならない。かたちにとらわれた心をおこしてはなら(85頁)ない。声や、香りや、触れられるものや、心の対象にとらわれた心をおこしてはならない。方にとらわれた心をおこしてはならない。法でないものものにとらわれた心をおこしてはならない。どんなものにもとらわれた心をおこしてはならない。それはなぜかというと、とらわれているということは、とらわれていないということだからだ。それだから如来は、〈求道者はとらわれることなく施しをしなければならぬ。かたちや、声や、香りや、触れられるものや、心の対象にとらわれないで、施しをしなければならぬ〉と説かれたのだ。

14•f さらに、また、スプーティよ、実に求道者は、生きとし生けるもののために、このような施しを与えなければならない。それはなぜかというと、スプーティよ、この生きものという思いは、思いでないということに他ならないからだ。このように、如来が生きとし生けるものと説かれたこれらのものどもは、実は生きものではない。それはなぜかというと、スプーティよ、如来は真実を語る者であり、真理を語る者であり、ありのままに語るものであり、あやまりなく語る者であるからだ。如来はいつわりを語る者ではないのだ。(87頁)

14•g さらに、また、スプーティよ、実に、如来が現に覚られ、示され、思いめぐらされた法の中には、真理もなければ、虚妄(こもう)もない。スプーティよ、これをたとえて言うと、〔たとい眼があっても〕闇の中に入った人がなにものも見ないようなものだ。ものごとの中に堕(お)ちこんだ求道者もそのように見なすべきである。かれはものごとの中に堕ちこんで施しを与えるのだ。

スプーティよ、また、これをたとえて言うと、眼をもった人は、夜が明けて太陽が昇ったときに、いろいろな彩(いろど)りを見ることができるようなものだ。ものごとの中に堕ちこまない求道者もそのように見なさるべきである。かれらはものごとの中に堕ちこまないで施しを与えるのだ。

14•h さてスプーティよ、実に、立派な若者たちや立派な娘たちが、この法門をとり上げ、記憶し、誦(とな)え、理解し、他の人々に詳しく説いて聞かせるとしよう。スプーティよ、如来は、目ざめた人の智慧でこういう人々を知っている。スプーティよ、如来は、目ざめた人の眼でこういう人々を見ている。スプーティよ、如来はこういう人々を覚っている。スプーティよ、これらすべての人々は、計り知れず、数えきれない福徳を積んで、自分のも(89頁)のとするようになるに違いないのだ。

15•a また、実に、スプーティよ、女なり、男なりがあって、午前中に、ガンジス河の砂の数ほどの体を捧げ、同じように昼間にも、ガンジス河の砂の数ほどの体を捧げ、夕刻にも、ガンジス河の砂のかずほどの体を捧げ、この方法によって、無限に永い間、体を捧げるとしても、この法門を聞いて謗(そし)ったりしないならば、こちらの方が、このことのために、さらに多くの、計り知れず、数えきれない福徳を積むことになるのだ。況(いわ)んや、書き写してから学び、記憶し、誦(とな)え、理解し、他の人々に詳しく説いて聞かせる者があれば、なおさらのことだ。

15•b さらに、また、スプーティよ、実に、この法門は不可思議で、比べるものがない。スプーティよ、如来はこの法門を、この上ない道に向かう人々のために、もっとも勝れた道に向かう人々のために説かれた。ある人々は、この法門をとり上げ、記憶し、誦(とな)え、理解し、他の人々に詳しく説いて聞かせるだろう。スプーティよ、如来は、目ざめた人の智慧によってこういう人々を知っている。スプーティよ、如来は目ざめた人の目でこういう(91頁)人々を見ている。スプーティよ、如来はこういう人々を覚っている。これらすべての人々は、計り知れない福徳を積んだことになるだろう。不可思議で、比べるものがなく、限りなく、無量の福徳を積んだことになるだろう。スプーティよ、これらすべての人々は、みずから目ざめに与(あずか)るようになるだろう。

それはなぜかというと、この法門を、信解の劣った人々は聞くことができないからだ。自己に対する執着の見解ある人、生きているものに対する執着の見解ある人、個体に対する執着の見解ある人、個人に対する執着の見解ある人々は聞くことができないからだ。求道者の誓いを立てない人々は、この法門を聞いたり、あるいはとり上げたり、あるいは記憶したり、あるいは誦えたり、あるいは理解したりすることはできない。そのようなことわりはあり得ないのだ。

15•c けれども、さらにまた、スプーティよ、実に、どのような地方でも、この経が説かれる地方は、神々と人間とアスラたちを含む世界が供養すべきこととなるだろう。その地方は右回りに礼拝されることとなるだろう。その地方は塔廟(とうびょう)にもひとしいものとなるだろう。(93頁)

16•a けれども、スプーティよ、立派な若者たちや立派な娘たちが、このような経典をとり上げ、記憶し、誦え、理解し、十分に思いめぐらし、また他の人々に詳しく説いて聞かせたとしても、しかもそういう人たちが辱しめられたり、また甚(はなはだ)しく辱しめられたりすることがあるかも知れない。これはなぜかというと、こういう人たちは前の生涯において、罪の報いに導かれるような幾多の汚れた行為をしていたけれども、この現在の生存において、辱しめられうことによって前の生涯の不浄な行いの償いをしたことになり、目ざめた人の覚りを得るようになるのだ。

16•b それはなぜかというと、スプーティよ、わたしはありありと思い出す。数えきれないほど無限の昔に、ディーパンカラ(燃燈)という如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人がおられ、それよりも以前、もっと以前に、数かぎりもない目ざめた人々がおられた。わたしは、これらの人々に仕えて喜ばせ、仕えて喜ばせてはやめることがなかった。

スプーティよ、わたしはこれらの目ざめた人々・世尊がたに仕えて喜ばせ、仕えて喜ばせるのを休むことはなかったけれども、後の時世になって第二の五百年代に正しい教えが(95頁)亡びる頃になって、このような経典をとり上げ、記憶し、誦え,理解し、他の人々に詳しく説いて聞かせる者があるとすれば、スプーティよ、また、実に、こちらの方の福徳の積みかたに比べると、前の方の福徳の積みかたは、その百分の一にも及ばないし、千分の一にも、百千分の一にも、億分の一にも、百億分の一にも、百千億分の一にも、百千億兆分の一にも、及ばないのだ。数量にも、区分にも、計算にも、譬喩にも、類比にも、相似にも、堪(こた)えることができないのだ。

16•c また、スプーティよ、もしもわたしが、これらの立派な若者たちや、立派な娘たちの積む福徳について説明するとしたらならば、その際にこれらの立派な若者たちや立派な娘たちが、、どれだけ福徳を積んだり、身につけたりするかを聞くに及んで、人々は気が変になったり、心が散乱したりするようになるだろう。さて、また、スプーティよ、実に、この法門は不可思議であると、如来は説かれたが、その酬(むく)いも不可思議であると期待されるのだ。」

17•a  そのとき、スプーティ長老は、師に向かって次のように問うた――「師よ、求道(97頁)者の道に進んだ者は、どのように行動し、どのように心を保ったらよいのですか。」

師は答えられた――「スプーティよ、ここに、求道者の道に進んだ者は次のような心をおこすべきだ。すなわち、『わたしは生きとし生ける者を、汚れのない永遠の平安という境地に導き入れなければならない。しかも、このように生きとし生ける者を永遠の平安に導き入れても、実は誰ひとりとして永遠の平安に導き入れられたものはないのだ。』と。

それはなぜかというと、スプーティよ、もしも求道者が、《生存するもの》という思いをおこすとすれば、かれはもはや求道者とは言われないからだ。個体という思いや、乃至(ないし)個人という思いなどをおこしたりするものは、求道者とは言われないからだ。

それはなぜかというと、スプーティよ、〈求道者の道に向かった人〉というようなものはなにも存在しないからだ。

17•b スプーティよ、どう思うか。如来がディーパンカラ如来のみもとで、この上ない正しい覚りを現に覚ったというようなことがらがなにかあるのだろうか。」

このように問われたときに、スプーティ長老は師に向かって次のように答えた――「師(99頁)よ、わたくしが師の仰られた言葉の意味を理解しているかぎりでは、如来が、尊敬さるべき人、正しく目ざめた人であるディーパンカラ如来のみもとで、この上ない正しい覚りを現に覚られたというようなことがらはなにもありません。」

このように言われたとき、師はスプーティ長老は向かってこのように言われた――「そのとおりだ、スプーティよ、そのとおりだ。如来が、尊敬さるべき人・正しく目ざめた人であるディーパンカラ如来のもとで、この上ない正しい覚りを現に覚られたというようなことがらはなにもないのだ。

スプーティよ、もしも、如来が現に覚られた法がなにかあるとするならば、ディーパンカラ如来がわたしのことを、『若者よ、あなたは未来の世に、シャーキャムニという名の如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人となるだろう』などと予言したりはなさらなかっただろう。

けれども、スプーティよ、今、如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人が、この上ない正しい覚りとして現に覚られたような法はなにもないのだから、それだから、わたしは、ディーパンカラ如来によって『若者よ、あなたは未来の世に、シャーキャムニという名の如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人となるだろう。』と予言されたのだ。(101頁)

17•c それはなぜかというと、スプーティよ、〈如来〉というのは、これは、真如の異名なのだ。

〔スプーティよ、如来というのは、これは、生ずるということはないという存在の本質の異名なのだ。スプーティよ、如来というのは、これは、存在の断絶の異名なのだ。スプーティよ、如来というのは、これは、究極的に不生であるということの異名なのだ。それはなぜかというと、生ずることがないというのが最高の真理だからだ。〕

17•d スプーティよ、もしも誰かが、『如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人が、この上ない正しい覚りを現に覚られた』と、このように言ったとすると、その人は誤りを言ったことになる。スプーティよ、かれは、真実でないことに執着して、わたしを謗(そし)っていることになるだろう。それはなぜかというと、スプーティよ、如来がこの上もない正しい覚りを現に覚ったというようなことがらはなにのないからだ。また、スプーティよ、如来が現に覚り示された法には、真実もなければ虚妄もないのだ。それだから、如来は、『あらゆる法は、目ざめた人の法である』と説くのだ。(103頁)

それはなぜかというと、スプーティよ、『あらゆる法というものは実は法ではない』と、如来によって説かれているからだ。それだからこそ《あらゆる法》と言われるのだ。

17•e たとえば、スプーティよ、身が整い、身の大きな人があると言うようなものだ。」

スプーティ長老は言った――「師よ、如来が、〈身が整い身の大きな人〉と説かれたかの人は、師よ、実は体のない人であると、如来は説かれました。それだからこそ、〈身が整い、身が大きい〉と言われるのです。」

17•f 師は言われた――「スプーティよ、そのとおりだ。もしも、ある求道者が『わたしは生きとし生けるものどもを永遠の平安に導くだろう』と、このように言ったとすれば、その人は求道者であるとは言うことはできない。それはなぜかというと、スプーティよ、一体、かの求道者と名づけられるようなものがなにかあるのだろうか。」

スプーティは答えた――「師よ、そうではありません。かの求道者と名づけられるようなものはなにもありません。」

師は言われた――「スプーティよ、『〈生きているもの〉〈生きているもの〉というのは、実(105頁)は生きているものではない』と如来は言っている。それだからこそ、生きているものと言われるのだ。それだから、如来は、『すべてのものには自我というものはない、すべてのものには、生きているというものはない。個体というものはない。個人というものはない』と言われるのだ。

17•g スプーティよ、もしも、ある求道者が、『わたしは国土の建築をなしとげるだろう』と、このように言ったとすれば、このひともまた同様に(求道者ではないと)言わなければならない。それはなぜかというと、スプーティよ、如来は、『〈国土の建設〉、〈国土の建設〉というのは、建設でないことことだ』と説いているからだ。それだからこそ、〈国土の建設〉と言われるのだ。

17•h スプーティよ、もしも、求道者が、〈ものには自我がない。ものには自我がない〉と信じて理解すれば、如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人は、その人を求道者・すぐれた者であると説くのだ。

18•a 師は問われた――「スプーティよ、どう思うか。如来には肉眼があるだろうか。」

スプーティは答えた――「師よ、そのとおりです。如来には肉眼があります。」

師は問われた――「スプーティよ、どう思うか。如来には天眼があるだろうか。」

スプーティは答えた――「師よ、そのとおりです。如来には天眼があります。」

師は問われた――「スプーティよ、どう思うか。如来には智慧の眼があるだろうか。」

スプーティは答えた――「師よ、そのとおりです。如来には智慧の眼があります。」

師は問われた――「スプーティよ、どう思うか。如来には法の眼があるだろうか。」

スプーティは答えた――「師よ、そのとおりです。如来には法の眼があります。」

師は問われた――「スプーティよ、どう思うか。如来には目ざめた人の眼(仏顔)があるだろうか。」

スプーティは答えた――「師よ、そのとおりです。如来には目ざめた人眼があります。」

18•b 師は問われた――「スプーティよ、どう思うか。ガンジスの大河にあるかぎりの砂、その砂を如来は説いたであろうか。」(109頁)

スプーティは答えた――「師よ、そのとおりです。幸ある人よ、そのとおりです。如来はその砂を説かれました。」

師は問われた――「スプーティよ、どう思うか。ガンジスの大河にあるかぎりの砂の数だけ、ガンジス河があり、そしてそれらの中にある砂の数だけの世界があるとすれば、その世界は多いであろうか。」

スプーティは答えた――「師よ、そのとおりです。幸ある人よ、そのとおりです。その世界は多いでありましょう。」

師は言われた――「スプーティよ、これらの世界にあるかぎりの生きものたちの、種々さまざまな心の流れをわたしは知っているのだ。それはなぜかというと、スプーティよ、『〈心の流れ〉〈心の流れ〉というのは、流れではない』と、如来は説かれているからだ。それだからこそ、〈心の流れ〉と言われるのだ。それはなぜかというと、スプーティよ、過去の心はとらえようがなく、本来の心はとらえようがなく、現在の心はとらえようがないからなのだ。

19 スプーティよ、どう思うか。立派な若者や、娘が、このはてしなく広い宇宙を七つの宝で満たして、如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人々に施したとすると、その立派な若者や立派な娘は、そのことによって、多くの福徳を積んだことになるだろうか。」

スプーティは答えた――「師よ、多いですともす。幸ある人よ、多いですとも。」

師は言われた――「そのとおりだ、スプーティよ、そのとおりだ。立派な若者や立派な娘は、そのことによって、多くの功徳を積むことになるのだ。それはなぜかというと、スプーティよ、『〈功徳を積む〉〈功徳を積む〉ということは、積まないということだ』と如来が説いているからだ。それだからこそ、〈功徳を積む〉と言われるのだ。スプーティよ、もしも、功徳を積むということがあるとすれば、如来は、〈功徳を積む〉〈功徳を積む〉とは説かなかったであろう。

20•a スプーティよ、どう思うか。如来を、端麗な身体を完成しているものとして見るべきであろうか。」

スプーティは答えた――「師よ、そうではありません。如来を、端麗な身体を完成しているものとして見るべきではありません。それはなぜかというと、師よ、『〈端麗な身体を完成している〉〈端麗な身体を完成している〉というのは、実はそなえていないというこ(113頁)となのだ』と、如来が説かれているからです。それだからこそ、〈端麗な身体を完成している〉と言われるのです。」

20•b 師は問われた――「スプーティよ、どう思うか。如来は特徴をそなえたものと見るべきであろうか。」

スプーティは答えた――「師よ、そうではありません。如来を、特徴をそなえたものであると見なしてはならないのです。それはなぜかというと、師よ、『特徴をそなえていると如来の説かれたことは、実は特徴をそなえていないということだ』と如来が仰せられたからです。それだからこそ、〈特徴をそなえている〉と言われるのです。」

21•a 師は問われた――「スプーティよ、どう思うか。〈わたしが法を教え示した〉というような考えが如来におこるだろうか。」

スプーティは答えた――「師よ、そうではありません。〈わたしが法を教え示した〉というような考えが如来におこことはありません。」

師は言われた――「スプーティよ、『如来は法を教え示した』と、このように説く者が(115頁)あるとすれば、かれは誤りを説くことになるのだ。スプーティよ、かれは、真実でないものに執着して、わたしを謗(そし)るものだ。それはなぜかというと、スプーティよ、〈法の教示〉〈法の教示〉というけれども、法の教示として認められるようなことがらはなにも存在しないからだ。」

21•b このように言われたときに、スプーティ長老は師に向かって次のように問うた――「師よ、これから先、後の世になって第二の五百年代に正しい教えが亡びる頃に、このような法を聞いて信ずるような人々が果たしているでありましょうか。」

師は答えられた――「スプーティよ、かれらは生きているものでもなければ、生きているものでないものでもない。それはなぜかというと、スプーティよ、『〈生きているもの〉〈生きているもの〉というものは、すべて、生きているものでないということだ』と如来が説かれているからだ。それだからこそ、〈生きているもの〉と言われるのだ。

22 スプーティよ、どう思うか。如来が、この上ない正しい覚りを覚ったというようなことがなにかあるだろうか。」(117頁)

スプーティ長老は答えた――「師よ、そういうことはありません。如来が、この上ない正しい覚りを覚られたというようなことはなにもありません。」

師は言われた――「そのとおりだ。スプーティよ、そのとおりだ。微塵ほどのことがらもそこには存在しないし、認められはしないのだ。それだからこそ、《この上ない正しい覚り》と言われるのだ。

23 さらに、また、スプーティよ、実に、その法は平等であって、そこにおいてはいかなる差別もない。それだからこそ、《この上ない正しい覚り》と言われるのだ。この、この上ない正しい覚りは、自我がないということにより、生きているものがないということにより、個体がないということにより、個人がないということによって、平等であり、あらゆる善の法によって現に覚られるのだ。それはなぜかというと、スプーティよ、『〈善の法〉〈善の法〉というのは法ではない』と如来は説いているからだ。それだからこそ、〈善の法〉と言われるのだ。

24 さらに、また、スプーティよ、実に、ひとりの女あるいはひとりの男が、このはてしな(119頁)く広い宇宙にあるかぎりの、山々の王スメールの数だけの七つの宝を集めて持っていて、それを如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人々に施すとしても、また他方で、立派な若者やあるいは立派な娘が、この智慧の完成という法門から四行詩ひとつでもとり出して、他の人々に説いたとすれば、スプーティよ、前の方の功徳の積み方は、こちらの方の功徳の積み方に比べると、その百分の一にも及ばないし、乃至、類似にも堪えることができない。

25 スプーティよ、どう思うか。〈わたしは生きているものどもを救った〉というような考えが、如来におこるだろうか。スプーティよ、しかし、このように見なしてはならないのだ。それはなぜかというと、スプーティよ、如来が救ったというような生きものはなにもないからである。また、スプーティよ、如来が救ったというような生きものがなにかあるとすれば、如来に、自我に対する執着が、生きているものに対する執着が、個体に対する執着が、個人に対する執着があることになるだろう。スプーティよ、『自我に対する執着とは執着がないということだ』と如来は説かれた。しかし、かの愚かな一般の人たちは、それに執着するのだ。スプーティよ、〈愚かな一般の人たち〉というのは、愚かな一般の人(121頁)たちではないにほかならぬ』と如来は説いた。それだからこそ、《愚かな一般の人たち》と言われるのだ。

26•a スプーティよ、どう思うか。如来は特徴をそなえたものであるとして見るべきであろうか。」

スプーティは答えた――「師よ、そうではありません。如来を、わたくしが師の仰られた言葉の意味を理解しているところによると、如来は特徴をそなえたものであると見てはならないのです。」師は言われた――「まことに、まことに、スプーティよ、そのとおりだ、スプーティよ、あなたの言うとおり、そのとおりだ。如来は特徴をそなえたものであると見てはならないのだ。それはなぜかというと、スプーティよ、もしも、如来が特徴をそなえたものであると見られるようであるならば、転輪聖王もまた如来であるということになるだろう。それだから、如来は特徴をそなえたものであると見てはならないのだ。」

 スプーティ長老は、師に向かって次のように言った――「師よ、わたくしが師の仰せらられた言葉の意義を究めたところによると、如来は特徴をそなえたものであると見てはならないのです。」(123頁)

さて、師は、この折に、次のような詩を歌われた。

かたちによって、わたしを見、

声によって、わたしを求めるものは、

まちがった努力にふけるもの、

かの人たちは、わたしを見ないのだ。

〔目ざめた人々は、法によって見られるべきだ。

もろもろの師たちは、法を身とするものだから。

そして法の本質は、知られない。

知ろうとしても、知られない。」

27  スプーティよ、どう思うか。特徴をそなえていることによって、如来は、この上ない正しい覚りを現に覚ったのか。けれども、スプーティよ、あなたはそのように見てはならないのだ。それはなぜかというと、スプーティよ、特徴をそなえていることによって、如来が、この上ない正しい覚りを現に覚ったというようなことはないからだ。さらに、また、スプーティよ、実に、誰かが、『求道者の道に向かう者には、なにかの法が滅んだり、(125頁)断ちきられたちするようになっている』と、このように言うかも知れない。けれども、スプーティよ、このように見てはならない。それはなぜかというと、求道者の道に向かう者には、いかなるものも滅びたり、断ち切られたりするようになってはいないからだ。

28  さらに、また、スプーティよ、実に、立派な若者や立派な娘が、ガンジス河の砂の数だけの世界を七つの宝で満たして、それを如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人に施したとしよう。他方では求道者が、〈法は自我というものがなく、生ずることもない〉と認容し得たとすれば、この方が、そのことによって、計り知れず数えきれないほどにさらに多くの功徳を積んだことになるだろう。けれども、また、実に、スプーティよ、求道者・すぐれた人は、積んだ功徳を自分のものにしてはならないのだ。」

スプーティ長老は訊ねた――「師よ、求道者は、積んだ功徳を自分のものにすべきではないのでしょうか。」

師は答えられた――「スプーティよ、自分のものにすべきであるけれども、固執すべきではない、そういう意味をこめて、《自分のものにすべきではない》と言われているのだ。

29  さらに、また、スプーティよ、実に、もしも誰かが、『如来は去り、あるいは来り、あるいは住し、あるいは坐り、あるいは床に臥す』と、このように説くとすると、その人は、スプーティよ、わたしが語った言葉の意味を理解していないのだ。それはなぜかというと、スプーティよ、如来と言われるものは、どこへも去らないし、どこからも来ないからである。それだからこそ、《如来であり、尊敬さるべき人であり、正しく目ざめた人である》と言われるのだ。

30•a さらに、また、スプーティよ、実に、立派な若者や立派な娘が、たとえば、このはてしない宇宙にあるかぎりの大地の埃の数だけの世界を、無数の努力によって、原子の集合体のような粉にした場合に、スプーティよ、どう思うか、その原子の集合体は、多いであろうか。」

スプーティは答えた――「師よ、そのとおりです。幸ある人よ、そのとおりです。その原子の集合体は多いのです。それはなぜかというと、師よ、もしも、原子の集合体が実有(じつう)であったとすれば、師は、《原子の集合体》と説かれなかったであろうからです。それはなぜかというと、師よ、『如来が説かれたかの原子の集合体は、集合体ではない』と如来が(129頁)説いておられるからです。それだからこそ、《原子の集合体》と言われるのです。

30•b また、『如来が説かれたはてしない宇宙は宇宙ではない』と如来は説かれています。それだからこそ、《はてしない宇宙》と言われるのです。それはなぜかというと、師よ、もしも、宇宙というものがあるとすれば、《全一体という執着》があることになりましょう。しかも、『如来が説かれた全一体という執着は、実は執着ではない』と如来が説かれています。それだからこそ、《全一体という執着》と言われるのです。」

師は言われた――「スプーティよ、《全一体に対する執着》は、言葉で表現できないもの、口で言えないようなものだ。それはものでもないし、《ものでないもの》でもない。それは、愚かな一般の人々が執着するものなのだ。

31•a それはなぜかというと、スプーティよ、誰かが、『如来は自我についての見解を説いた。生きているものについての見解、個体についての見解、個人についての見解を如来は説いた』と説いたとしよう。スプーティよ、その人は正しく説いたということになるだろうか。」(131頁)

スプーティは答えた――「師よ、そうではありません。幸ある人よ、そうではありません。その人は正しく説いたことにはなりません。それはなぜかというと、師よ、『如来の説かれた、かの自我についての見解は、見解ではない』と如来が説かれているからです。それだからこそ、《自我についての見解》と言われるのです。」

31•b 師は言われた――「スプーティよ、実に、そのとおりだ。求道者の道に進んだ者は、すべてのことがらを知らねばならないし、見なければならないし、理解しなければならない。しかも、ことがらという思いさえも止まらないように、知らなければならないし、見なければならないし、理解しなければならないのだ。それはなぜかというと、スプーティよ、『ことがらという思い、ことがらという思いというのは、実は思いではない』と如来が説かれたからだ。それだからこそ、《ことがらという思い》と言われるのだ。

32•a さらに、また、スプーティよ、実に、求道者・すぐれた人が、計り知れず、数えきれないほどの世界を、七つの宝で満たして、諸の如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人に施したとしよう。また他方では、立派な若者や立派な娘が、この智慧の完成という(133頁)法門から四行詩ひとつでも、とり上げて、記憶し、誦(とな)え、理解し、他の人々に詳しく説いて聞かせたとすれば、この方が、そのことによって、計り知れず、数えきれないほどの、さらに多くの功徳を積むことになるのだ。それでは、どのように説いて聞かせるのであろうか。説いて聞かせないようにすればよいのだ。それだからこそ、《説いて聞かせる》と言われるのだ。

現象界というものは、

星や、眼の翳(かげ)、燈し火や、

まぼろしや、露や、水泡(うたかた)や、

夢や、電光や、雲のよう、

そのようなものと、見るがよい。」

師はこのように説かれた。スプーティ上座は歓喜し、そして、これらの修行僧や尼僧たち、在家の信者や信女たち、また、〔これらの求道者たちや、〕神々や人間やアスラやガンダルヴァたちを含む世界のものどもは、師の説かれたことをたたえたという。

切断するものとしての金剛石、聖なる、尊むべき、智慧の完成、終る。(135頁)(金剛般若経終わり)

*****

金剛般若経 註

2 天竺三蔵——天竺とはインドのこと。三蔵とは経・律・論の三蔵(すなわち仏教聖典の三つの区分)に通暁した僧を指していう。ただし鳩摩羅什(くまらじゅう)は純粋のインド人ではないが、インド文化圏である中央アジアから来たので、このように呼んだのである。(136頁)

3 鳩摩羅什(くまらじゅう)――クマーラジーヴァ(344-413)の音訳。中央アジアの亀茲(きじ)国(現名クッチャ)の生まれである。父はインド人で、母は亀茲国の王の妹であった。諸方を遊学して後、亀茲国で大乗仏教を宣揚し、401年に姚秦(ようしん)の国王姚興(ようこう)に迎えられて長安に入り、13年間に300余巻の経典を漢訳した。かれの歿年に関しては種々の異説があるが、最近の研究によると、かれは弘始11年(409年)に歿したと解するのが、最も穏当であり、かれは、52歳(401年)の末から60歳(409年)まで長安で活動した。(塚本善隆博士、「鳩摩羅什の活動年代について」『印度学仏教学研究』第三巻第二号、1955年、224-226頁)(136頁)

8 求道者――「求道者」とは bodhisattva の訳である。漢訳では「菩薩」と音写し、「大士」「開士」などと訳す。(138頁)

11 シュラーヴァスティー市――「舎衛城(しゃえいじょう)」と漢訳される。仏陀の外護者プラセーナジット王(波斯匿(はしのく)王)の居住地で、コーサラ国の首都であった。仏教史上著名な大都市。(138頁)

12 ジェータ林――祇樹給孤独園に同じ。(138頁)

17 スプーティ――「須菩提」と音写し、「善現」「善吉」「善実」「妙生」など種々に訳される。仏弟子の一人。(139頁)

19 善男子善女子――原語 kula-putra,kula-duhitrの慣用句的訳語。kulaは「家族・種族」、特に「良家」の意で、「善」の意味はないが、kula-putraというときは、「生まれ正しい息子」kula-duhitrというときに「生まれ正しい娘」となる。本書では「立派な若者」「立派な娘」と意訳しておいた。(139頁)

20 阿耨多羅三獏三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の心――「この上ない正しい覚り(無上正等覚)に向かう心」の意。(139頁)

26 求道者の道に向かう――直訳すれば、「菩薩の乗り物で進んで行く者」という意味。(141頁)

29 無余涅槃――仏教徒の理想であるニルヴァーナに二種ある中の一である。一切の煩悩を断ち切って本来の生死の原因を無くした者が、なお体だけを残しているのを有余涅槃と言い、その体までも無くしたとき、無余涅槃という。具体的に言えば、無余涅槃とは迷いが全く無い状態で死し、永遠の真理に還って一体となったことを指している。(141頁)

30 他から生まれず自から生まれたもの――原語はupapadukaである。普通は「化生(けしょう)」と漢訳されている。托する所なしに忽然として生まれたものである。神々(諸天)や宇宙の最初の人などはこれに属する。(141~142頁)

34 生きているものという思い――原語sattva-samijnaの訳。実態としての生きものが実存するという考えを指す。この他、自我atman・個体jiva・個人pudgalaなどを実体視するのは求道者の態度としてふさわしくないと言われている。(142頁)

37 チベット訳では「求道者はものにとらわれることなしに施しをす〔べきである〕」となっている。以下同様に「いかなるもの(法)にもよらわれることなしに施しをし、形にもとらわれることなしに施しをす〔べきである〕という。クラーマジーヴァの漢訳も同様である。(143頁)

40 跡をのこしたいという思い――原語 nimitta-samjna の訳。ニミッタとは事物の表相のことである。具体的には私が・誰に・何をしてやった、という三つの念を離れて施与せよ、ということを教えているのである。これを仏教では「三輪空寂」とか「三輪清浄」という。「三輪」とは「施者」「受者」「施物」をいう。(143頁)

51 筏の喩えの法門……――筏の喩えは多くの経典に記されている。たとえば、(中略)〔修行僧たちよ、このように、わたしは、のり超えさせるために、執着させないために、筏の喩えの法を説いた。修行僧たちよ、実に筏の喩えを知る汝らは、法さえも捨離しなければならない。まして、法でないものはなおさらのことである。〕唯識説の開祖マイトレーヤは、法には教示の法と証得の法と二種あって、教示としての法が筏に喩えられるのだという。(146頁)

59 須陀洹(すだおん)――「預流(よる)」「入流(にゅうる)」とも意訳される。迷いを断ち切って始めて聖者の琉類に入った者という意。聖者の段階をあらわす小乗仏教の聖者の階梯である「四向(しこう)」または「四果(しか)」の初位である。原語を直訳すれば、「流れに入った」であるが、本書では「永遠の平安への流れに乗った者」と訳してある。(148頁)

61 斯陀含(しだごん)――「一来(いちらい)」と意訳される。小乗仏教の聖者の階梯である四向または四果の第二位。原語を直訳すれば、「一度来る者」ということである。インドでは、覚った聖者は再び生をうけることがないと言われるが、斯陀含は天か人かの世界にもう一度だけ生まれかわって覚り、それ以後はもう死後の天か人かの世界に生をうけることがないのである。すなわち人間の世界にあってこの果を得ると、必ず天上に往き、再び人間の世界に還ってきてニルヴァーナに入る。また天井の世界でこの果を得ると、先ず人間の世界に往き、再び天上に還ってニルヴァーナに入る。このように必ず一度天上と人間世界とを一往来するがゆえに、一往来果ともいう。(148~149頁)

62 阿那含(あなごん)――「不還(ふげん)」「不来」と意訳する。原語を直訳すれば、「決して帰って来ない者」ということである。欲界の煩悩を断じ尽くした聖者をいう。この聖者は欲界の煩悩を断ちつくしていて、死後には色界、無色界に生じ、欲界には二度と生をうけないから、不還・不来などとよばれるのである。小乗仏教の聖者の階梯としての四向または四果の第三位である。(149頁)

73 まさに住する所無くして、しかもその心を生ずべし。―― この句は古来有名である。日本では歌題とされたことがある。『哀れなり雲井を渡る初雁も心あればぞねをば鳴くらん。』(続拾遺集)たとえば、愛して、愛にとらわれず、憎んで憎しみにとらわれない境地をいう(補註)。(151頁)

〔補註〕この句は特に南宋禅において重要視せられ、頓悟説の典拠の一つとされた。六祖慧能はこの句を聞いて悟ったといわれるが、それは後世に成立した伝えであるらしい。唐代の南宋禅では、「而生其辛(にしょうごしん)」の四字に深い意義を認め寂知(じゃくち)(本智)の用(はたらき)を強調する根拠としている。しかしともかくサンスクリット原文はこのように簡単なものである。86頁には「応生無所住心」とあるが、そこの原文には「どんなものにもとらわれた心をおこしてはならない」となっていて、漢訳は積極的な表現に改めたおもむきがある。(166~167頁)

88 塵―― 原語は rajas であるが、チベット訳は原子の意味に解している。クラマジーヴァ始め多くの訳者は「微塵(みじん)」と漢訳している。(153頁)

127 われに受記を与えて……――「受記」とは、ブッダが、ある人に対して、将来、目ざめた人になるだろうと予言することである。(159頁)

130 真如―― 宇宙の万有に普遍的にゆきわたっている永遠の真理をいう。(159頁)

131 生ずるということはないという存在の本質――常住不変な存在の根本的真理という立場から見れば、生起という現象はあり得ない。それが存在の本質(法性)だということである。(159頁)

141 すべてのものには生きているものというものはない……――マックス・ミュラー校訂本には(すべてのものには、個体というものはない、人格的存在というものはない)とある。(160頁)

『般若心経』解題

 

◾️ 日本の仏教はほとんどすべて大乗仏教に属するものであるが、大乗仏教の根本思想は空の理法をさとることであると言われている。空の理法は、詳しく説けば限りがなく、『大般若経』一巻の中におさまると言われている。そのためにこの『般若心経』(特に玄奘訳による)は、日本では浄土教以外の殆んどすべての宗派によって重んぜられ、講説され、読誦されている。

この経には大本(広本)と小本(略本)と二種のサンスクリット本が伝えられていて、ともに Prajnaparamita-sutra と称する。小本と大本とは所説の内容については差異はないが、大本は小本に相当するものの前後に序論(序分)と結末の文句(流通分)とがついている。

小本は玄奘訳の『般若心経』に相当するものであるが、興味深いことにはそのサンスクリット写本が、インドにも他のアジア諸国にも残っていないで、わが日本の法隆寺に保存されているのである。これは西紀609年(推古天皇17年)に小野妹子がシナから伝来したものであると伝えるが根拠は薄弱である。これの存在は日本では昔から知られていたらしく、江戸湯島の霊雲寺の浄厳(じょうごん)が法隆寺の原本を写したもの(1694年)が伝わっている。(かれの『普通真言蔵』中巻におさめられている。)また『阿叉羅帖』(安政6年)の中にも古体のサンスクリット文字(梵字)でしるされている。

法隆寺でこのような写本が発見されたことは、西洋のインド古文書学者にとっては大きな驚異であった。インド古文書学の確立者であったオーストリアのビューラー(Georg Buhler)は法隆寺写本について長文の論文を書いて、その学問的意義を論じていう、『法隆寺で発見された棕櫚(しゅろ)の写本は、同類の一切の古文書よりもはるかにすぐれている。古文書学者にとって至上の意義をもたらすものである。六世紀の始には北インドでは二つのやや異った字体の行われたことを示してくれた。またインドにおける碑文における字体の変化は一般文書の字体から影響されて起こったものであることも解った。』など。日本で発見された資料が、古代インド文化史の諸相をあきらかにしてくれたのである。(170~171頁)

◾️ 日本の註釈としては、

智光『般若心経述義』一巻(大正蔵、五七巻三頁以下、『日本大蔵経』般若部、三五八頁以下)

これは日本における最も古い註釈であり、三論宗の立場からのべられている。

天台宗には、

最澄『摩訶般若心経釈』一巻(日本大蔵経』、般若部、三七四頁以下)

があり、天台その他諸宗でもその後註釈が多数著された。

この経典は密教では特に重視された。

空海『般若心経祕鍵』一巻(大正蔵、五七巻、一一頁以下)

これは秘密真言の趣意によってクラーマジーヴァ訳の『般若心経』を解釈したものである。(180~181頁)

◾️ 盤珪(ばんけい)永琢(1622-1693)『心経鈔』(国文東方仏教叢書、続、第三巻、講説部)

日本で『般若心経』の講義がなされて千年になるのに、それは漢文ばかり書かれていた。われわれ日本人のことばで書かれることがなかった。ところが盤珪はこの習慣を意識的に破った。われわれは日本人だから、日本人の話す平生のことば(平話)で語るべきだというのである。

ところがどうしたことだろう。こういうはっきりした自覚を以て書かれたこの書が、日本の学者の編纂(へんさん)した『大正新修大蔵経』続編にも、『日本大蔵経』にも『大日本仏教全書』にも入っていない。一昔前までの仏教者は『般若心経』を講義する場合にもこの書を省みようとしなかった。近代日本の仏教学者までが、漢文で偉そうに書かれたものは尊く、われわれのことばで書かれたものは賤しいという驚くべき権威至上主義にとりつかれていたように見受けられるのである。(182頁)

大本『般若心経』邦訳

 

「このようにわたしは聞いた。あるとき世尊は、多くの修行僧、多くの求道者とともにラージャグリハ(王舎城)のグリドゥフラクータ山(霊鷲山)に在した。そのとき世尊は、深遠なさとりと名づけられる瞑想に入られた。そのとき、すぐれた人、求道者・聖アヴァローキテーシュヴァラは、深遠な智慧の完成を実践しつつあったときに、見きわめた、――存在するものには五つの構成要素がある」――と。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。そのとき、シャーリプトラ長老は、仏の力を承(う)けて、求道者・聖アヴァローキテーシュヴァラにこのように言った。「もしも誰か或る立派な若者が深遠な智慧の完成を実践したいと願ったときには、どのように学んだらよいであろうか」と。こう言われたときに、求道者・聖アヴァローキテーシュヴァラは長老シャーリプトラに次のように言った。「シャーリプトラよ、もしも立派な若者や娘が、深遠な智慧の完成を実践したいと願ったときには、次のように見きわめるべきである――《存在するものには五つの構成要素がある。》と。そこでかれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。(このようにして)、およそ物質的現象というものは、すべて実体がないことである。およそ実体がないということは、すべて物質的現象なのである。これと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである。

シャーリプトラよ、この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということもなく、増すということもない。

それゆえに、シャーリプトラよ、実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、意志もなく、知識もない。眼もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、身体もなく、心もなく、かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。眼の領域もなく、乃至、意識の領域もなく、心の対象の領域もなく、意識の識別の領域もない。

さとりもなければ、迷いもなく、さとりがなくなることもなければ、迷いがなくなることもない。かくて、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである。苦しみも、苦しみの原因も、苦しみをなくすことも、苦しみをなくす道もない。知ることもなく、得るところもない。得ないということもない。

それ故に、シャーリプトラよ、得るということがないから、求道者の智慧の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住している。心を覆うものがないから、恐れがなく、顚倒(てんとう)した心を遠く離れて、永遠の平安に入っているのである。

過去、現在、未来の三世にいます目ざめた人々は、すべて、智慧の完成に安んじて、この上ない正しい目覚めを覚り得られた。

それゆえに人は知るべきである。智慧の完成の大いなる真言、大いなるさとりの真言、無上の真言、無比の真言は、すべての苦しみを鎮める真言であり、偽りがないから真実であると。

その真言は、智慧の完成において次のように説かれた。

往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。

シャーリプトラよ、深遠な智慧の完成を実践するときには、求道者はこのように学ぶべきである」――と。

そのとき、世尊は、かの瞑想より起きて、求道者・聖アヴァローキテーシュヴァラに賛意を表された。「その通りだ、その通りだ、立派な若者よ、まさにその通りだ、立派な若者よ。深い智慧の完成を実践するときには、そのように行われなければならないのだ。あなたによって説かれたその通りに目ざめた人々・尊敬さるべき人々は喜び受け入れるであろう。」と。世尊はよろこびに満ちた心でこのように言われた。長老シャーリプトラ、求道者・聖アヴァローキテーシュヴァラ、一切の会衆(えしゅ)、および神々や人間やアスラやガンダルヴァたちを含む世界のものたちは、世尊の言葉に歓喜したのであった。

ここに、智慧の完成の心という経典を終わる。(193~196頁)

『金剛般若経』解題

 

◾️『金剛経』または『金剛般若経』というのは略称であって、詳しくいうと漢訳で『金剛般若波羅蜜経』として伝えられている経典である。諸の般若経典のうちで最も簡潔でひろくよまれているのが『般若心経』であり、それにつづいて広くよまれているのが『金剛経』である。

『金剛経』はすでにインドでも重んぜられていた。のちのインドの仏典の中にこの経典の文句が度々引用されている。またシナでも同様に重んぜられた、山東省の泰山の磨崖にこの経典の全文がきざみつけられてあるが、それは六朝時代の仕事であるといわれている。禅宗でも五祖弘忍以来特に重要視され、六祖慧能はまだまだ出家しないとき、人がこの経文を読誦するのを聞いて発心したという。日本の道元も

『曹渓の六祖は新州の樵人にて、薪を売って母を養いき。一日市にて客の金剛経を誦するを聴いて発心し、母を辞して黄梅に参ぜし時、銀子十両を得て母儀の衣料にあてたりと見えたり。』

といって、修行に入る人の覚悟のほどを説いている。日本では仏教諸宗で読誦されるのみならず、上代には歌題とされたこともある。(199~200頁)

◾️「能断金剛」(Vajracchedika)の意味については「金剛石(ダイヤモンド)のようによく切れる」または「金剛杵(雷)のようにひきさく」の意味であると解せられている。すなわち一切の疑いや執著を断ち切るという意味で、このように名づけられたのであると古来説明されている。(殊にシナの諸注釈では細かに論じている。)これに反してコータン語本が「金剛を断つ」と解釈していることは、すでにしるしたとおりである。(209頁)

◾️思想

いかなる宗教といえども善の行為を行うべきことを説く。その点では大乗仏教も同様である。しかしこの『般若経典』では倫理的実践を空の思想によって基礎づけているのである。人に何ものかを与えて助けるというこよは善い行為である。しかし、とらわれるところのない清らかな心でなさねばならぬ。『求道者はものにとらわれて施しをしてはならない。なにかにとらわれて施しをしてはならない。』(四節)チベット訳ではその趣意をもっと適切に『求道者はものにとらわれることなしに施しをしなければならぬ』という。世間で人が何か善いことをする場合にはとかくそれをはっきりした形に残してやがては自分の利益をはかろうとする場合も少なくない。だから、それを戒めて、『求道者・すぐれた人々は、跡をのこしたいという思いにとらわれないようにして施しをしなければならない。』という。(なお14・e参照)求道者がもしも自分は人々を導くのだというような思いを起こしたならば、もはやかれは真実の求道者ではない。(17・f)

こういう理想を実現するためには自我と他の自我との対立感を撥無しなければならない。『それはなぜかというと、実にこれらの求道者・すぐれた人々には、自我という思いはおこらないし、いきているものという思いも、個体とという思いも、個人という思いも怒らないからだ。』

対立の撥無(すなわち空)ということも、それにとどこおるならば、また新たな対立をよび起すことになる。対立の撥無はそれ自身を否定しなければならない。『これらの求道者・すぐれた人々には、《ものという思い》もおこらないし、同じく《ものでないものという思い》もおこらないからだ。かれらには思うということも、思わないということもおこらないからだ。』(六節)

宗教はドグマにもとづいて構成される。しかし真の宗教はドグマを捨てなければならぬ。『求道者・すぐれた人々は、法をとりあげてもいけないし、法でないものをとりあげてもいけない。……筏の喩えの法門を知る人は、法さえも捨てなければならない。まして法でないものはなおさらのことである。』(六節) 人をみちびく教えは筏のようなものである。人をわたして彼岸に至れば捨てられねばならない。筏である教義に固執するならば、宗教の真義を見失うことになる。こういう立場にもとづいて、さとりはさとりではない、とか、さとりというものはなにものも存在しない、とか、理想の境地(ニルヴァーナ)に達するということはあり得ないとか、否定的な表現がのべられるのである。(七節以下)

『真実もなければ虚妄もない』(17・d)とか、善と悪、さとりと迷いというような区別にとらわれることなかれ、という主張は、倫理的価値を破壊することになりはしないか、という疑問が、殊に西洋的知性の立場から発せられる。しかし大乗仏教の立場からいうと、反対である。とらわれることがなくなった境地に達すれば、行いはおのずから善に合致し、そこに対立をのこさない。技術を学ぶようなものである。例えばドライヴを習うとき、始めは非常な困難を意識し、一つ一つのことに気をくばる。しかしドライヴに熟達しきってしまうと、極めて安楽な気持で運転しながらも、決して規則を犯すことがない。ちょうどこういう境地をめざしていたのである。だからこそこの経典では、この境地を『全くすばらしいこと』と呼んでいるのである。(219~220頁)

2023年5月6日了

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