(64)「これは何だ」は反語(230頁)
ピカソが、画面に1本の線を引いて「これは何だ。これは何だ…」と独り言をつぶやきながら絵を描いているフィルムがあるそうだ。その事を引用して野見山暁治氏(1920~)は著作の文章の中で、画家をピカソとマチスの二つのタイプに分け自分やピカソは、キャンバス上にまず何か描いておいて、それから発想していく、というような意味合いのことを書いていた。
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ピカソとマチス
いつだったか、ピカソとマチスが絵を描いている実況のフィルムを見たことがある。ピカソは画面に向かってかなり困っているようだった。どうしようか、という独り言が録音ではっきり伝わってきた。一本の線を引いたとき、これは何か?という問いを自分にしていた。マチスはそうではない。すらすらと顔の輪郭を描き、頬につける赤い色をパレットの上で吟味して、ある位置にきちんと塗った。それを消した。パレットでまた吟味して、また塗った。また消した。
つまり風格の大小は別として、ピカソは私と同類の気分屋だ。マチスは違う。この画家は頭の中ですっかり絵が出来上がってから筆を取るのだ。大雑把に言って人はこのどちらか二つのタイプに分かれるだろう。
(『さあ 絵を描こう』 野見山暁治著 河出書房新社 1979年発行 102Pから引用)
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僕は、この解釈は間違っていると思う。ピカソはたしかにそう言ったと思う。しかし、そう言ったけれど、「これは何だ」というのは反語なのだ。「これは何だ」というのは、これはリンゴだとか、これは机だとかという答えを、指差し点呼のように心の中で確認しているのだ。
「何だ」というのは疑問ではなく反語なのだ。「これは何だ」というのは、心の中では「これはリンゴだ」とか、「これは机だ」という意味であって、ピカソの絵は何処を見ても、画面の中で「これは何だ?」と聞いてくるような構成ではない。
「これは何だ」と言って、むしろ確認しているわけだ。これは何だと言いながら、何でもない無意味な部分を作らないようにするために、反語として言っているのだ。一本、線を引いておいてから「これは何だ」と考えるなんて、それは解釈が間違っていると僕は思う。
マチスに対する解釈も間違っている。<この画家は頭のなかですっかり絵ができ上がってから筆を取る>…そんなことはない。マチスの晩年の技法は後で述べるが、いわゆる一発描きではない。苦労の跡を微塵も見せないが、推敲に推敲を重ねているのだ。モデル兼助手のナディアが撮った完成までのマチスの作品の変化を見れば一目瞭然だ。おまけに、一日ごとにナディアが画面を拭取っているいるのだ。
僕の絵画理論と相容れない、シュールリアリズムや表現主義の技法にフロッタージュやデカルコマーニーやオートマチズムがあるが、これらを技術ではなくて発想に取り入れて制作したりすると芸術の迷路におちいってしまうだろう。自分の目指すべき目的地のないままに、歩いているうちに目的地が出来るだろう、などと考えてはいけない。そういう考えで絵を描いていると、一生かかっても、せいぜい自分の周囲をグルグル廻るだけなのだ。僕の独断だが、画家がそんなふうに絵を描くとしたら、そういう方法論で画学生を指導したとしたら、教わった人は不幸だ。