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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

読書ノート(2011年)全

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読書ノート(2011年)

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『プロティノス「美について」』 斎藤忍随・左近司祥子訳 講談社学術文庫

■雑多なものと1つのもの。雑多なものは、変化きわまりないほとんど「夢」といったほうがいいようなこの世のものであるのに対して、1つのもの、それこそが本物なのだという考え方は、プラトンという、古めかしい、ひょっとすると、頭でっかちといってもいい男の嗜好の結果にすぎない、と思われる方もあるかもしれないが、実はそうではない。

普通、プラトンと対極にあると思われているデモクリトスというほぼ同時代の男がいる。私たちのなじみのアトム(科学の用語としてであれ、漫画の主人公としてであれ)という言葉を初めてあのような、「原子」という意味で使った哲学者である。彼の主張では、色は人が見るのと蜂が見るのとで違うし、下手をすれば隣にいるあなたでさえ、同じ対象を見てはいるが同じ感覚を持っているかは分らない、「ただ決まりによって、同じ言葉で名づけているだけである。そのとき、本当にあるのは、ただアトム(と空虚)だけである」、と彼は言っているのだ。確かにアトムは、数は無数といっていいほど大量である。決して単純化された1ではないと言えるかもしれない。しかし、アトムの内容は1つなのだ。アトムたちはまったく同一のものである。違いはただ形にしかない。(11~12頁)(プロティノス哲学の中の美・左近司祥子)

■雑多なこの世を1つのもののもとに、無理だったら、限りなく1に近いもののもとに押し込めたいという試みは、だから、学問のはじめからあったのである。

1つのものから、すべてを説明する、1つのものからすべてのものを作りだす、これがギリシャ人が、はじめから、学問に寄せている期待だった。そして、当然、この場合こういった最初の(あるいは最後の)1つのものは、完全なものというレッテルがつけられることになる。ギリシャ人の学問は、この完全なものの探求ということになった。

プラトンが、イデアを、あるいはイデアの世界を、この世界やこの世界のものよりはるかに完全なものとして、提案したのは、だからギリシャの学問の伝統の上に立ってのことだった。だが、プラトンの潔癖さはそこにとどまらなかった。この世界を個々のものの住処としたのにあわせようと、イデアの在り処を「かなたの世界」と呼んだのである。(13~14頁)(プロティノス哲学の中の美・左近司祥子)

■世界というようにまとめて言えるということは、イデアが多数あるということである。世界とはそれらを束ねるところということだからである。確かに、プラトンの対話篇を見てもイデアとして多数のものが挙がっている。正義とか勇気とか節制、敬虔、思慮という、いわゆる哲学者好みの徳はむろん、類似、主人―召使、大―小などという関係の概念、4角形、対角線などの幾何学の概念、そして、人間、牛など生き物のイデア、寝椅子、机などの工芸品のイデアなど、決して少なくない量である。そうだとすれば、プラトンとしては落ち着かなかったはずである。イデアは多になってしまうからである。解決はただ1つ、それらを統括するたった1つのイデアを立てることである。そして、それが、『国家』に出てくる善のイデアだったのである。(11~12頁)(プロティノス哲学の中の美・左近司祥子)

■とすれば、源である水とこの水、統括者と被統括者とは、たとえ、名が同じでも、ランクの異なるものなのだと考えなくてはならない。絶対的な統括者を神とするなら、ここの人間は被統括者である。そして人間は神はランクが異なり、移動不可能というのがギリシャ人の日常の考え方だった。だから、イデア界とこの世がランクの違うもの、移動不能なものというプラトンの主張は、ギリシャ人にはかなり説得的だったろう。(15頁)(プロティノス哲学の中の美・左近司祥子)

■このソクラテスの美=善という考え方は、先述のように、古代ギリシャ人の考え方だと言われ続けてきた。近現代風に考えれば、善は倫理学、美は美学あるいは芸術学担当ということになり、明らかに、範疇が異なるものとなるだろう。また、善については、主観的な問題だと思う人も多いとはいえ、それでもなお、客観的であることを信じている人もいるのだが、美となれば、圧倒的に、ほとんどの人が、主観的な問題だということになる。古代ギリシャ人にとっては、あるいはソクラテスにとっては、本当に両者は同じものだったのだろうか。同じだという主張が出されたにもかかわらず、その後の話は違うほうに進んでいくようにみえる。

そもそも、ここで展開される、ソクラテスのエロス讃歌は、彼が昔、異国の女性、ディオティマから教えてもらった話だという前提のもと、語られる話である。彼女は、エロスの奥義に入る前に、ソクラテスを相手に対話をする。そこにちょっと注目してみたい。

ソクラテスは、美を欠いているから美を愛するというエロスは人間にどんな利益をもたらすのかを気にしだす。その問いに対して、彼女は、まず「美を愛するとき、人は何を求めているのか」と問い返す。ソクラテスは「美が自分のものとなることを」と答え、さらに「美を自分のものにすると何を得たことになるのか」と再質問されると、ここで詰まってしまうのだ。彼女は、「たとえば、美の代わりに善を置いて、善を愛するとき、人は何を求めているのかと訊いたら」と問いを変える。もちろんソクラテスは直ちに「自分のものとなることを」といい、「そのとき手に入るものは」との質問に、「今度は答えられます。幸せになるのです」という。そして、幸せになるというのは人間の究極の望みであることから考えて、この話はここで終わる旨を同意しあうのである。(27~28頁)(プロティノス哲学の中の美・左近司祥子)

■だが、本物を見たいと思う人は、地図を見ることによって自分の行動を決めていくのだ。

人の憧れの最高形態として哲学を捉えていたプラトンを、プロティノスは地図を作りつつも無視していなかったのだ。善が動かしがたくかなたのものでも、そして魂の位置は下方でも、その事実が変えられないとしても、憧れにみちている私の魂は、一者と何らかのかかわりが持てると確信していたのである。そうだとすれば、善を語るにも、善に行き着きたいと憧れる人と善の関係、それを無視して語るわけにはいかなくなる。このときの善は、鳥瞰図の中に描かれている、究極の完全無欠なもの、言い換えれば、、完全無欠とさえ言えないほどの完全無欠なもの、善とさえ呼べないものでありながら、すでに述べたように、私の欲求の対象であることによって、私にとっては善と呼べるものだったのである。(44~45頁)(プロティノス哲学の中の美・左近司祥子)

■そう考えてよければ、第1の論文の第9章、90ページの、「善は自らの前に美を幕としている」と語られるのが、美の体系上の位置を考える手がかりとなるだろう。美は、第1位の一者を覆う位置にある。だが、一者から流れて出て来た第2位の知性のことも同時に覆っているなどとは書かれていない。そのことを考え合わせれば、美は、第2位の知性よりもはるかに一者の近くにいるはずである。一者、それに密着して美、そして知性……という鳥瞰図ができる。(47頁)(プロティノス哲学の中の美・左近司祥子)

■なぜ幕の比喩が使われたのだろうか。幕というものは、隠すものであり、内を(この場合は善だが)人が見るのを妨げるものである。実は、この、もの暗さは、第3の論文の第3章で、美が比喩的に語られるときにも感じられるのだ。そこでは、美は、第1の神(善)の出現以前に姿を現す、先駆けである第2の神として語られるのだが、すばらしい第2の神を見て、満足して立ち去った人は第1の本当の神を見ることがないのだと言われもする。先駆けの神は、ある人間には、、幕と同じく、第1の神を見ることの妨げになるのだ。(48頁)(プロティノス哲学の中の美・左近司祥子)

■確かに、美は、彼の作品の中で、ある種の暗い響きをもって語られている。確固たる成果の保証なしに、人を日常から本物の探求、要するに哲学に引きこんでしまう根源的力だからである。当然、できれば、障りを引き起こす可能性のある美について、完全否定で語ってくれたほうが気が楽だったのにと思う人々も入るだろう。それでも、プロティノが語りやめなかったということは、プロティノスは哲学者として、あるいは魂である人として、芸術家だけでなく、魂である人すべてに、外からの美に心動かすことのできる感受性をもってほしいと願っていたからではないかと考えるのである。(56頁)(プロティノス哲学の中の美・左近司祥子)

■すなわち魂が善くなり、美しくなるとは、「神に類似すること」であり、その理由は、美しいものも、それ以外の存在者たち(すなわち真の存在者たち)も神に由来をもつ点にあると。しかし、このように、美しいものとそれ以外の存在者たちというような言い方よりも、むしろ、美は真の真の存在者であると言うべきかもしれない。そして醜は真の存在者ならぬ別のものであり、この同じ醜こそ、根源的第1の悪なるものなのである。したがって神にとっては、前の一組のもの、つまり善なるものと美なるものあるいは善と美とは同じということになる。だから善と美、醜と悪は類似の方法で探求しなければならない。まず、美を根源的第1の美として始めにおき、それをばまた善でもあるとしなければならない。(80頁)(美について・第6章)

■そのようなかのものを見た時、それを眺め続け、それを味わい、それに同化するとすれば、他のいかなる美をその人はさらに求めるであろうか。というのも、ほかならぬそのものこそ最高度の美意識、根源的美であって、それを恋し、それを慕う者は、それによって美化され、恋い慕われるにふさわしい品位を得るからである。ここには実に、魂にとって根源的美をかけての最大の戦い、至高の戦いがある。魂は至善の眺めに与り、そこなうまいとして、根源的美のためにあらゆる労苦を傾ける。この至善の眺めをかち得た者は、その眺めに接して至福であり、至善の眺めをかち得ない者は、真実、不幸である。(83頁)(美について・第7章)

■だが、いかにすれば、善い魂の素晴らしい美しさがどんなものかを見ることができるようになるのだろう。汝自身に立ち帰り、汝自身を見よ、これがその方法である。たとえ未だ美しくない自分を、君が見たとしても、彫刻家のように振舞うべきである。彫刻家は美しい作品に仕上げなければならない大理石を前にして、あるいは削り、あるいは滑らかにし、あるいは磨き、あるいは拭い、ついに大理石の中に美しい顔を浮き出させるに至る。これが彫刻家のとる道だが、君もそのように、余分な不必要な部分はすべて取り除き、曲がった部分はすべて正すべきである。暗い部分はすべて浄めて、明るく輝くようにしなければならない。汝自身の像を刻む、この務めを中絶してはならない。このように努めていけば、遂には徳の神的光が君の前に輝き出るであろう。遂には「節制の美徳が聖なる台座に就く」光景に君も接することができるようになるだろう。(88頁)(美について・第9章)

■そして善は自らの前に美を幕としている。したがって、大まかな言い方をすれば、善が根源的美である。もし知性的なものを善と区別するとなると、純粋な「形」、つまりイデアの場を知性的美と見なし、美のかなたにあって、美の泉、美の源をなすものを、善と見なすべきであろう。あるいは善と根源的美とを同一視すべきである。ただしいずれの場合にも、美はここにではなく、かしこにある。(90頁)(美について・第9章)

■芸術によって美しい姿になるように作られたものが美しく見えるのは、石であるからではない。そうだったら、どんな石像も同じように美しかったろう。その像が美しいのは、芸術が植えつけた姿かたちのおかげなのである。そもそも、素材のほうはそういった姿かたちを持たないのである。姿かたちは、それが石に宿る以前でも、それを心で観ている作り手のうちにはあったのである。だが、作り手のうちにあるといっても彼が目と手を持っているからではない。彼が芸術に触れているからなのである。したがって、芸術のうちにある美は、作品のうちにある美より、はるかに優れたものである。なぜなら、かの、芸術のうちにある美がそのまま石に入ってくるわけではない。この美は一歩も動いたりしないものなのだ。石に到達するのは、芸術に由来はするが、それとは別の美である。この美は、当然、芸術の内にあるかの美より劣っている。しかも、石の内にあるこの美は、純粋なままあるわけではないし、芸術が望んだほどのものではない。石が芸術の技に服従したかぎりのものにすぎない。芸術が、自分の本当の姿に、あるいは、所持している姿に似せてものを作るとき――芸術は作品の形成原理(ロゴス)にしたがって美しい作品を作るはずである――、そのときの芸術は、外界のどんなものと比べても、はるかに卓越して美しい、芸術の美を持っているのであり、だから、芸術自身も、はるかに卓越して、真に美しいのである。(108~110頁)(知性の対象である美について・第1章)

■だが、もし誰かが芸術を馬鹿にして、自然を真似しているではないかと文句をつけるなら、まず言ってやらなくてはならないのは、自然もまた別のものを真似しているのだということである。次に、知らせるべきなのは、芸術は、感覚対象を単純に真似しているのではなく、自然が由来した、かの形成原理(ロゴス)を目指しているのだということである。(110頁)(知性の対象である美について・第1章)

■そうだとすれば、残るのは、この世界のすべてのものは他のもののうちにもとあるのだということである。両者の中間には何もなく、実有が他のもの(世界の材料)と隣接することによって、いわば突然、かの世界の痕跡を持った映像が出現するのである。その出現が、自分からなのか、魂の手助けによるのか、あるいはある種の魂の手助けによりのかは、今のところ、どうでもいいことである。ただ、この世のすべてのものはかしこからきたものであるが、それにもかかわらず、かしこのもののほうが、より美しい状態にあるのだ。なぜなら、こちらのものは(素材との)混ざりものであるが、かしこのものは混じりけのないものだからである。とはいえ、この世のすべてのものも、最初から最後まで形相の支配下にある。(131頁)(知性の対象である美について・第7章)

■あなたは(この世界のことについて)、大地はなぜ宇宙の中心なのか、なぜ円形なのか、黄道の傾きはなぜこのようなのかについて語ることはできる。しかし、かしこのものについては、かしこのものはこのようでなくてはならないので、このように計画されたのだとは言えず、ただ、かしこのものハ、現にあるようにあるので、そのためこの世のものどもも美しいのだといえるだけである。これは、たとえば、原因を推論する際、結論が前提から出てくるのではなくて、推論以前にすでにあるのと同じである。要するに、論理的必然や反省から出てくるのではなくて、論理的必然、反省以前にすでにあるものなのである。(131頁)(知性の対象である美について・第7章)

■確かに、始原の原因を探求してはならないという言葉は、正しい忠告である。特に、目的と同一であるような、完全な始原の場合には。初めでもあり、終りでもある、この始現は、実に、同時に宇宙全体なのであり、欠けるところのないものである。(134頁)(知性の対象である美について・第1章)

■かの知性界は、根源的に美しく、全体として美しいのだ。全体といっても、そのどこをとってもどこも全体なので、美を欠いた部分が残ってしまうこともないのだ。こういった世界を美しくないといえる人があるだろうか。確かに、それが、全体として美しいのではなく、部分的に美しいだけか、あるいは、美しい部分さえ持たないならば、別である。だが、かの世界が美しくないとすれば、他の何が美しいだろう。かの世界の前(=上位)にあるものは美であることなど望みはしないのだ。観照されるために現れる最初のものは、知性の観照対象でもある形相である。そしてそれが見るものの賞賛を浴びることになる。(135頁)(知性の対象である美について・第8章)

■実際、他のものを手本に作られたどんなものにしろ、それが驚嘆されるときには、その驚嘆は、かのイデアに向けられているのだ。この、賞賛されている作品の手本はイデアだったのだから。(136頁)(知性の対象である美について・第8章)

■「(世界の制作者が)賞賛した」という言葉が手本に向けて述べられたのだということを、プラトンは、以下の言葉を続けることで明らかにしようとした。彼は言った。「制作者は賞賛し、さらにそれをもっと手本に似るようにしたいと考えた」と。プラトンは、この生成世界のものが美しいのは手本のおかげで、この世のものはかのものの映像にすぎないと語ることによって、手本の美がどれほどのものかを示したのである。だから、かの世界が「途方もない、法外の美」を備えた、この上もなく美しいものでなかったりしたら、この可視的世界以上に美しいものなどなくなるのだ。だから、この世界に文句をつける人は間違っている。この世界がかの世界ではないという点で、文句をつけるのなら別であるが。(136~137頁)(知性の対象である美について・第8章)

■確かに、「存在」を奪われた美などどこにもないし、「美しくあること」を欠いた実有などどこにもない。美が欠如しているしているときには、実有も欠けているからである。だからこそ、美と同一である存在が欲求の対象になるのだ。そして美が心を惹くのは、存在と同じだからである。(141頁)(知性の対象である美について・第9章)

■ところで、見る力のある人が、見るときには、どの人も、その神ばかりでなく、神に関わるものも眺めるのである。もちろん、すべての人が、みな、いつも同じものを観るわけではない。ある人は、目を凝らして、正義の源泉とその本性が輝いているのを見るし、他の人は、節制の眺めを満喫する。かしこの節制は、人々がここで持つような姿はしていない。なぜなら、ここでの節制を何らかの仕方で真似しているにすぎないからである。これらの上にあって、かしこの、いわば全領域をあまねく覆う、美の本性は、これらすべてを鮮明に観たものたちだけが最後に見るものなのである。神々は一人ずつ、しかも「一度に全員」で、美を見る。また、かしこですべてを見、すべてを踏まえて生まれた魂も同じである。それだから魂は、自分自身で、初めから終りまで、すべてのことを自分のうちに持つことになる。魂の中でも、生まれつき、かしこにとどまることになる部分は、すべてかしこにいるし、また、魂が部分分けされていないときには、魂全体でかしこにいるのが常である。(143~144頁)(知性の対象である美について・第10章)

■しかし、全体を見ない人は外から来る印象だけしか認識しないが、

(143~144頁)(知性の対象である美について・第10章)(143~144頁)(知性の対象である美について・第10章)(143~144頁)(知性の対象である美について・第10章)(143~144頁)(知性の対象である美について・第10章)

■しかし、全体を見ない人は外から来る印象だけしか認識しないが、全体をあまねく見た人は、いってみれば、神酒で満たされ酔ってしまった人の場合のように、美が魂全体にいきわたり、ただの観照者ではすまなくなっている。なぜなら、観照の客体と主体は互いに異なるものとして外にあるのではなく、鋭いまなざしで見てとる人にとっては見る対象は自分のうちにあるからである。だが、多くの場合、自分のうちに持っていても、持っていることに気づかず、外にあるものと思って、眺めるのである。そのわけは、彼はそれを見る対象として眺めるし、眺めたいと思うからである。人が観る対象として眺めるものは、すべて、自分の外のものとして眺められているのである。だが、本当は、それを自分のうちに持ち込んで、自分と1つのものとして眺め、自分自身として眺めなくてはいけない。あたかも、神に乗り移られたもの、たとえばアポロン憑きとか、あるいは詩神の1人に憑かれたとか、そういう人が自分のうちに神を観る場合のように、である。もちろん、神を観る力が自分のうちにあればのことだが。(145~146頁)(知性の対象である美について・第10章)

■私たちのうちの誰かが、自分自身を見る力もないのに、かの神に乗り移られて、神を見ようと、見る対象として目の前に取り出すとき、彼の取り出しているのは自分自身であり、眺めているのは、美化された自分の映像である。だが、美しい映像を捨て去り、自分自身と1つになって、もはや分裂することがないなら、そのときその人は「1度にすべて」の1となり、音もなく傍に立つ、かの神のもとにいることになる。彼は、できるかぎりそして望むかぎり、神とともにいるのである。たとえ、向きを変えて、2となっても、純粋であり続けるかぎり、神の近くにいるのだ。だから、もう1度神のほうに向きを変えさえすれば、再び以前のように神のもとにいるはずである。この、向きを変えることには、次のような利益がある。まず第1に、人は、神と異なる自分自身を感覚する。次に、人は、自分の内部に駆け込むことで、すべてを獲得する。つまり、神と異なることを恐れて、感覚を後に投げ捨て、かしこの世界で1つとなるということである。それでも、神を異なるものとして見たいと思うなら、その場合には、自分自身を外に出せばいいのである。(147~148頁)(知性の対象である美について・第11章)

■どうして、人は、美のうちにいながら、美を見ないでいられるのだろうか。そうではないのだ。美を自分と異なるものとしてみるときには、美のうちにはいないのである。美と1つになってはじめて、完全に美のうちにいることになるのだ。(148頁)(知性の対象である美について・第11章)

■要するに、私たちが美しいのは、自分自身を認識しているからで、醜いのは、自分を知らないからなのである。

というわけで、美はかしこにあり、かしこから来る。(155~156頁)(知性の対象である美について・第13章)

■さらに言えば、知性は、自分が本当に把握したということをどういうふうにして知るのだろうか。また、それが善であるということ、正義であるということ、美であるということ、それを知性はどのようにして知るのだろうか。それらのそれぞれは知性と別のものであり、しかも知性のうちに確信できる判断根拠がないのである。それらは外にある。だから、真理もそちらにあるのだ。そうであるとすると、この知性の対象は、知覚を持たず、生命や知性を欠いているか、あるいは、知性を持つものかの、どちらかであろう。(166~167頁)(知性の対象は知性の外にはないこと、さらに善について・第1章)

■以上のことから、知性、全存在者、真理は1つのものであると私たちは結論づけるのだ。もしそうなら、それはある種の偉大な神である。ある種のというよりは、むしろ、すべてのとされるのがそういったものにはふさわしいだろう。このものは神であるが、かの神を観る前に姿を現す第2の神である。(174頁)(知性の対象は知性の外にはないこと、さらに善について・第3章)

■そこで、1へ、しかも本当の1へ上昇しなくてはならないのだ。この1は、それ以外のものが、多でありながら、1を分有することで一になっているというのとは違っている。本当の1を捉える場合、分有に拠らない1、1でありながら多でもあるということのない1、それを捉えなくてはならない。(176頁)(知性の対象は知性の外にはないこと、さらに善について・第4章)

■確かに、家は、連続体という観点から見ればⅠであるが、本質的にも、量的にも1とはいえない。では、5を束ねる1は、10を束ねる1と同じなのだろうか。そうではない。すべての船とすべての船、小さいものも大きいものも、それらが互いに同じものだとすれば、さらにポリスとポリス、軍隊と軍隊、それらが互いに同じだとすれば、その場合には、束ねる1は同一であろう。だが、同じでないなら、その場合にはそうはならない。(178~179頁)(知性の対象は知性の外にはないこと、さらに善について・第4章)

■したがって、一者は「存在を超えている」ということになる。だが、存在を超えたものとは何か一定のものではないからである。しかも、「存在を超えたもの」というのは、そのものの名前でもない。ただ、存在ではないものといっているにすぎない。もし名前をつけようとしても、それで一者はつかみきれない。彼の広大な本性をつかもうとするなど、お笑い種である。そういうことをしようと望む人は、自分で自分の邪魔をして、何らかの仕方でほんのわずかでも一者の足跡に到達しようとする試みさえ駄目にするのだから。そういうことはせず、知性的なものを見ようと望む人が、感覚対象のどんな表象も持たずに、感覚対象を超えて存在するものを見るのと同じように、知性対象を超えたものを観ようと望む人は、知性対象をすべて捨てたとき、それを観ることになるだろう。それがあるということは、知性対象を通して学ぶのだが、どのようであるかを知るためには知性対象を捨てなくてはいけないのだ。(184頁)(知性の対象は知性の外にはないこと、さらに善について・第6章)

■ひとつの意味では、目が見るのは感覚事物に備わる形相であるが、今ひとつの意味では、感覚事物の形相を目が見る際の助け手(光)のことである。助け手も、それ自身、感覚対象であるが、形相とは異なり、形相が見られることの原因である。これは、形相の内にあるとともに、形相を覆い、形相とともに見られるのだ。そこで、このときには、(光は)自分についての明確な感覚を与えないのである。なぜなら、目は光に照らされたものに向けられているからである。しかし、光以外の何もないとき、じっと目を凝らしてみれば、確かにそのとき光は見えてくるが、それは、あくまでも他のものに寄り添っている光である。光がそれだけになり、他のもののもとにない場合には、感覚は光を捉えることはできないのだ。実際、太陽の内にある光も、感覚で捉えることはできないだろう、もし、より硬い塊が光のもとにないとすれば。だがもし、太陽はすべて光なのだとの主張があれば、それを使って私の言おうとしていることの意味を明らかにすることができるだろう。要するに、太陽は光であるが、その光は、他の視角対象が持っているどんな形相の内にもなく、たぶん、ただ見られるだけのものなのだ。それ以外の見られる対象は、単なる光ではないのだから。(187~188頁)(知性の対象は知性の外にはないこと、さらに善について・第7章)

■もし、全体を見られないのであれば、あなたは思惟する知性でしかないだろう。たとえ、かのものにであったとしても、かのものは逃げ去るだろう、というよりあなたがかのものから逃げ去ることになろう。だから、見るときには、全体を眺めなくてはならないが、思惟するときには、かのものについて記憶していることなら何であれ、取り上げて思惟すべきである。(198頁)(知性の対象は知性の外にはないこと、さらに善について・第10章)

■したがって、究極の善、善そのものはすべての存在者を超えて、単独の善であり、自分のうちに何ものも持たず、どんなものとも混ざることなく、すべてのものを超え、すべてのものの原因であるということが私たちに明らかになったことになる。というのも、悪からは美も存在物も生じないし、また、善でも悪でもないものからも生じるはずはないからである。そのわけは、作るものは作られたものよりよいものだからである。作るものはより完全なのである。(210頁)(知性の対象は知性の外にはないこと、さらに善について・第13章)

■相手がどう思うかが大事なのではなく、本当にどうあるかが大事だと彼らは考えたのである。しかし、「無知の自覚」、「自分は何も知らない、そのまま知らないと思っている」という標語を持つソクラテスが、神でないたかが人間である自分が、「本当にどうあるか」を知ることが出来ると思っていたわけもなく、彼は最後の日にこのようなことを言っている。「実際私は、私の言っていることが真実であると周りの人々に思ってもらおうと努力しているのではなく、まあそういうことがあったっていいのだけれど、そうではなくて、そのようであると思わせようと努力しているのは、実にとりわけこの私自身に、なのだ」。(217~218頁)(解説・小島和男)

(2011年2月6日)

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『メルロ=ポンティ・コレクション』 中山元編訳 ちくま学芸文庫

■1906年9月、死を1ヶ月後に控えた67歳のセザンヌは、こう述べている。「頭の状態があまりにひどいので、私のか弱い理性では、耐えられないのではないかと心配だった時もあったほどです……。今は良くなっているようだし、私の研究も正しい方向に進んでいると思います。これほど模作し、長い間探求して来た目標に、果して到達できるでしょうか。私はいつも自然を研究してきましたが、私の歩みは遅々たるもののようです」。絵画はセザンヌの世界であり、存在の仕方であった。弟子ももたず、家族からの賛辞も受けず、審査員たちから激励されることもなく、孤独のうちに制作した。セザンヌは、母親が亡くなった日の午後にも絵を描いていた。1870年、憲兵たちが徴兵忌避者として捜索している間にも、エスタックで絵を描いていた。(240~241頁)(セザンヌの疑い)

■セザンヌは1852年の時点、すなわちエクス・アン・プロヴァンスのブルボン中学に入学したばかりの頃からその怒りと気鬱によって、友人たちを心配させていた。(241頁)(セザンヌの疑い)

■42歳の頃に、早死にすると思って、遺書を書いた。46歳の頃、半年間にわたって苦しく、耐えがたい恋愛の情熱に襲われたが、その結末については知られていないし、彼も決して語ろうとしなかった。51歳でエクスに引退。そして自分の天才にもっともふさわしい自然を見いだした。しかしそれは自分の幼年時代に、母親と妹への愛着に回帰することだった。母親が亡くなると、こんどは息子を頼りにするようになる。「おそろしいものだ、生きるということは」とよく言っていた。(242頁)(セザンヌの疑い)

■要するにセザンヌは、自然をモデルとする印象派の美学から離れずに、立ち戻ろうとしたというべきだろう。エミール・ベルナールはセザンヌに、古典派の画家たちのタブローでは、輪郭でオブジェをくまどりし、光を構成し、配分する必要があったことを指摘した。するとセザンヌは、「彼らはタブローを作ろうとしていた。私は自然の断片を作ろうとしている」と応じる。巨匠たちについて、「彼らは現実を想像力と、想像力に伴う抽象で置き換えようとする」が、自然とは「その前に膝をおるべきものなのだ」と指摘する。「すべては自然の方から訪れてくる。そしてわたしたちは自然によって生きているのだ。ほかのことはすべて忘れよう」と。彼は印象主義を「なにか博物館の芸術のように確固としたもの」にしたかったと宣言する。セザンヌの絵は、1つの矛盾だろう。感覚を捨てずに、自然の導きの糸をじかにえられた印象以外に求めず、輪郭を限らず、デッサンによって色に枠組みをつけようとせず、遠近法も、タブローも構成しようとせずに、現実を模索するのである。(247頁)(セザンヌの疑い)

■遠近法に関するセザンヌの模索は、その現術への忠実さによって、最近の心理学定式化しようとした事柄をあらわにしている。わたしたちの知覚の遠近法は、生きられた遠近法なのであって、幾何学的な遠近法でもないし、写真の遠近法でもない。知覚では、写真の遠近法と比較すると、近くの事物は小さく見え、遠くの事物は大きく見える。これは映画と比較して考えてみればよくわかる。同じ条件の現実の汽車と比較すると、映画の汽車ははるかに急速に近づき、大きくなる。円を斜めから見ると楕円に見えるということは、実際の知覚の代わりに、わたしたちが写真を撮影する装置だったら見えるような図式を採用することである。現実にはわたしたちは、楕円の周囲を振動する形を見るのであり、その形が楕円になることはないのである。(250頁)(セザンヌの疑い)

■精神はまなざしのうちに自らを見るし、自らを読み取る。しかし視線は色どられた総体にすぎないのである。他人の精神は、顔や身振りに受肉し、付着しない限り、わたしたちに示されることはない。ここで魂と身体、思考と視覚を対立させても意味がない。セザンヌはこうした対立する観念が生まれる原初的な経験、わたしたちにこうした観念を分離できないものとして与える原初的な経験にたち戻っているのである。まず思考し、次に表現しようとする画家には神秘というものがない――わたしたちがだれかを眺めるたびに、だれかが自然のうちに現れるたびによみがえる神秘が。バルザックは『あら皮』で、「降ったばかりの雪のようなテーブルクロスの上に、左右の釣り合いのとれた食器がそびえ、その上をブロンド色の小さなパンが飾る』と表現していた。セザンヌは、「青年時代を通じて、私はこれを、すなわち降ったばかりの雪のようなテーブルクロスを描きたいと思っていた……。しかし今では、左右の釣り合いのとれた食器がそびえているところや、ブロンド色の小さなパンしか描こうとしてはならないことがわかっている。もしも『飾る』を描いたら、私の絵は1巻の終りだ。おわかりかな。ほんとうに食器やパンの色調を自然のニュアンスのままに描きだし、バランスをとれば『飾る』も雪もすべてのふるえも、みんなそこに現れるだろう」と語っている。(254頁)(セザンヌの疑い)

■しかしこのようなまなざしでものを見ることができるのは、まさに人間だけなのでであり、構成された人間性の手前で、根の部分にまで視線が届くのである。動物は眺めるということができないこと、真理だけを求めて事物の中に入り込むことができないことは、あらゆる事実から明らかである。エミール・ベルナールは、実在を描く画家はサルだと言ったが、これは真実とは逆である。セザンヌは、芸術についての古典的な定義、すなわち芸術とは自然プラス人間であるという定義を述べることができたはずだ。(255~256頁)(セザンヌの疑い)

■画家の動作を動機づけるものは遠近法だけではないし、幾何学だけでもない。あるいは色彩の分解の法則でもないし、何らかの知識でもない。絵を少しづつ作り上げていくすべての動作には、たった1つしか動機(モチーフ)がない――全体としての風景であり、絶対的に充湓した風景である。セザンヌはまさにこれを「モチーフ」と呼んでいたのである。(256頁)(セザンヌの疑い)

■すべての部分的な光景をつなぎあわせ、目の移りやすさのために拡散しようとするこうけいをまとめ、「自然のばらばらな手を結び合せる」必要があったとギャスケは語っている。「世界の1分間が過ぎ去る。その実在において、これを描きだすことだ」。そして瞑想はある時点で一挙に完成する。セザンヌは、「私はモチーフをつかんだ」と言い、自然には帯を締める必要があるが、その場所が高すぎても、低すぎてもならないと説明していた。あるいは、なにも漏れない網にいれて、自然を生きたまま持ち帰らなければならないと。セザンヌはあらゆる方角から一挙に風景を絵に描こうとする。地質の骨格を描く木炭の最初の一筆に、色斑で陰影をつける。イメージは次第に飽和し、たがいに結びつけられ、形態を作り出し、バランスを取り、そして一挙に成熟にいたる。セザンヌは、「風景が私の中で考える。私は風景の意識なのだ」と語っていた。(256~257頁)(セザンヌの疑い)

■画家がいなければ、それぞれの人の分離された意識の生のうちに閉じ込められたままだったはずのもの、すなわち事物の揺籃である外見の震えを、画家は捉え、これをみえるものにするのである。(257~258頁)(セザンヌの疑い)

■人間がはじめての言葉を発した時のように、芸術家は作品を〈発する〉のである。そして作品が〈叫び〉以外のものとなるかどうか、作品が生まれた個別の生の流れから独立したものとなりうるかどうか、そして同じ生の未来において、あるいはこの生と共存するモナドにおいて、将来のモナドの開かれた共同体において、確認可能な1つの意味の独立した実存を提示することができるかどうかは、芸術家にもわからないのである。芸術家が語ろうとする意味は、どこにも存在しない。まだ意味になっていない事物においても、芸術家自身においても、その無定形な生においても存在していないのである。芸術家はすでに構成されている理聖から――「教養のある人々」はこの理性のうちに閉じこもっている――、本来の起源を含むはずの理性へと呼びかける。ベルナールがセザンヌを「人間の知性」の場に連れ戻そうとすると、セザンヌは「私は全能の父の知性に頼る」と答える。いかなる場合にもは、無限なる〈ロゴス〉の観念や企てに頼るのである。(260頁)(セザンヌの疑い)

■生涯が作品を説明しないのはたしかであるが、生涯と作品が互いに交流しあうのもたしかである。創作すべき作品が、その生涯を要求したと表現するのがただしいだろう。最初から、まだ未来にある作品を支えとしなければ、セザンヌの生活はバランスをみいだすことができなかった。生活は作品の〈企て〉であり、作品は予兆によって生活の中に自らを告知していた。(263頁)(セザンヌの疑い)

■哲学とは、問いを提起し、この問いに答えることで、欠けていた空白部分が少しずつ埋まっていくという性質のものではない。問いとは、人間の生と人間の歴史の内側に属するものであり、ここで生まれ、ここで死ぬ。問いに解答が見つかると、問いそのものが姿を変えてしまうことも多い。いずれにせよ、空虚な欠落部分に到達するのは、経験と知の1つの過去である。哲学は文脈を所与のものとして受け取ることはない。哲学は問いの起源と意味を探るために、答えの意味、問い掛ける者の身分を探るために、文脈に立ち戻る。そしてここから、すべての知識への問いを活気づけている〈問い掛け〉へと至るのである。〈問い掛け〉は、問いとは異なるものなのである。(70頁)(問い掛けと直観)

■哲学がすべての存在者から自己を解放することができるのは、懐疑の道によってではなく、「……とは何か」という問いによってである。これによって哲学は存在者をその意味に変えるからである。すでに科学が同じやり方をしていた。イエスとノーの間で逡巡してるにすぎない生活の問いに答えるために、科学はすでに受け入れていたカテゴリーを問い直し、新しい種類の「存在」、新しい本質の〈天空〉を作り出した。しかし科学は、この仕事を最後までやり遂げない。科学はこうした本質を世界から完全に分離させることはなく、事実の管轄のもとに置き続ける。そして事実は明日にでも、作り直すことを求めるかもしれないのである。(76頁)(問い掛けと直観)

■哲学とは、この意味の読解を極限にまで推し進める営みであり、厳密な学となるだろう。そして哲学だけが厳密な学である。自然とは何か、歴史とは何か、世界とは何か、存在とは何かを知ろうとする営みを最後まで進めるのは、哲学だけだからである。哲学では物理学の実験や計算を通じて、または歴史的な分析を通じて、これらのものと部分的および抽象的に接するだけではない。世界と存在のうちに生きながら、自分の生を十全に眺めようとする主体、世界に住みながら、世界における自己について思考し、自らのうちにおける世界について考え、その混乱した本質を解明し、最後に「存在」の意味を形成しようとする主体による全体的な接触が行われるのである。(77頁)(問い掛けと直観)

■すべてのイデア化は、それがイデア化であるということから、実在の空間の内部で、わたしという持続の保証のもとで発生する。そしてこのわたしという持続は、自らに立ち戻らなければ、一瞬前にわたしが考えていた観念すらふたたび見いだすことができず、この観念を他者において見いだすためには、他者に移行しなければならないのである。すべてのイデア化は、このわたしの持続と複数の他者の持続という〈ツリー〉によって支えられている。そしてこの樹木(ツリー)から染みだす知られざる樹液が、観念の透明性をはぐくむのである。観念の背後には、すべての現実的な観念と可能的な観念の同時性と統一性があり、ただ1つの「存在」のすみずみまで浸透している一貫性が存在している。本質と観念の堅固さの背後には、経験の織物、この時間の〈肉〉がある。そしてわたしが存在の堅い〈核〉の内部にまで入り込めたかどうかを疑問に感じるのはそのためである。(82~83頁)(問い掛けと直観)

■というのは、可視的で現前するものは、時間と空間の内部にあるのではなく、もちろんその外部にあるのでもない。この可視性に対抗することができるのは、その前にも、その後にも、その周囲にもないからである。しかしそれは単独ではなく、それですべてでもない。正確には、それはわたしの視線をふさぐ。時間と空間がその彼方にまで広がっていると同時に、その背後にあり、奥行きとして、隠れているということである。このように可視的なものはわたしを満たし、わたしを〈占める〉が、それが可能であるのは、見ているわたしが、無の背景の上にそれを見るのではなく、それ自体の場において見ているからである。それを見る者であるわたしそのものも〈見えるもの〉である。それぞれの色、それぞれの音、それぞれの手触りの肌理(きめ)、現在と世界の重さ、厚み、〈肉〉が生まれるのは、それを感受する者が、ある種の〈捲き込み〉や〈二重化〉によって、それらのもののうちから自分が生まれると感じるからであり、自分がそれらと必然的に同じ質でできていると感じるからである。それを感受する者は、自らに到来した感受的なものそのものと感じ、逆に感受的なものは、自分の〈肉〉を2重にし、延長したものと感じられるからである。事物の空間と時間、これらはそれを感受するものの断片であり、自らの空間化であり時間化である。【岡野注;ここの内容は、内と外を、フラクタルなマンデルブロー集合のパターン構造にあてはめると分かりやすい】(86頁)(問い掛けと直観)

■それでは、本質はどこにあるのか。実存はどこにあるのか。「このようにある存在」(Sosein)はどこに、「存在」(Sein)はどこにあるのか。わたしたちが目の前に見るのは、純粋な個体ではなく、分割できない存在の〈氷河〉でもない。場所も日付ももたない本質ではない。ましてや、こうした本質が別の場所に、わたしたちが把握できない場所に存在するのでもない。それは、わたしたちが経験であり、すなわち思考だからである。わたしたちは、自ら思考する空間、時間、「存在」そのものの重みを、自己の背後に感じている思考だからである。この思考は、そのまなざしのもとに、直線的な時間と空間や、系列の純粋な観念を所有する思考ではない。。積層、増殖、侵食、混沌といった性格をもつ時間と空間に囲まれている思考である。この時間と空間は、絶えず繰り返される受胎、絶えず繰り返される分娩、生殖性と一般性、なまの本質となまの実存であり、これが同じ存在論的な振動の腹部であり、結び目なのである。【岡野注;ここの内容は、内と外を、フラクタなマンデルブロー集合のパターン構造にあてはめると分かりやすい】(89頁)(問い掛けと直観)

■フッサール自身、本質直観という概念を獲得した後も、つねにこれを取り上げ、修正しているのは明らかだろう。それは本質直観を否定するためではなく、最初にまだ完全に言い尽くしていなかった事柄を語らせるためである。だから感覚の基底や観念の〈天空〉に、堅固さを探すのは、素朴(ナイーブ)なことと言えるだろう。堅固さとは、現れの上にでも、その下にでもなく、その結び目に存在する。(90頁)(問い掛けと直観)

■心理学、文化人類学、社会学が何かを教えてくれたのは、病的な経験や古代的な経験、要するに〈他なる経験〉をわたしたちの経験に接触させることによって、言い換えれば、わたしたちの経験と〈他なる経験〉が互いに照らし出し、相互貫入を組織し、最後に形相的な変様を実行することによってであるのは明らかである。フッサールの唯一の過ちは、この形相的な変様とは、科学という名前で呼ばれる「共通の意見」の支えであり、場そのものであるにもかかわらずこれを最初は哲学者の孤独なまなざしと想像力だけのものと考えたことにある。少なくともこの道筋においては、客観性に到達することができるのは、「即自」とかいうものに入り込むことによってではなく、外的な所与とこの外的な所与についてわたしたちがわたしたちが獲得している内的な複製を互いにあばきだし、互いに吟味することによってであるのはたしかだ。そしてこれが可能なのは、人間は感じる者であると同時に感じられる者であり、人間性と生の原型であると同時に、その変様であるから、すなはち人間は生と人間存在と「存在」そのものに内在する者であると同時に、これらのものが人間において内在するものだからである。(91頁)(問い掛けと直観)

■事実と本質はいずれも抽象されたものだ。実際にあるもの、それはさまざまな世界、1つの世界と1つの「存在」であり、事実の合計でも、理念の体系でもない。無=意味とか、実在論的な空虚というものは、不可能だということだ。それは空間と時間が、個々の場所と時間の総計ではなく、こうした個々の場所や時間の背後に、他のすべての場所や時間が現存し、あるいは潜在的に存在しているということ、そしてわたしたちはそれが何であるか知らないが、少なくとも原理的にはそれが規定可能なものであることを知っているということである。この世界、この「存在」は、分割できない事実性であり、理念性である。これは世界が含む個体と同じ意味で「1つ」であるのではなく、ましてや「2つ」であるのでも、「多数」であるのでもないが、なんら神秘的なものでもない。わたしたちがこれについて何を語ろうとも、わたしたちの生、わたしたちの科学、わたしたちの哲学が棲みついているのは、この世界なのである。(92頁)(問い掛けと直観)

■事実についても本質についても重要なのは、問題としている存在を外部から眺めるのではなく、その内側に身を置くことであり、結局は同じことだが、その存在をわたしたちの生の織り目のうちに置き直し、その〈開け〉に内側から立ち会うことである。これはわたしの身体の〈開け〉に似たものであり、存在を自らに開き、わたしたちを存在に開くものである。本質にかかわりながら、話すことと思考することの〈開け〉なのである。見えるものの1つであるわたしの身体は、同時に自らを見るものであり、これによって、自らの内部を見えるものに開きながら、自らを自然の〈光〉とする。そしてわたしの身体はわたしの〈見え〉となり、いわゆる「存在」から「意識」への奇跡的な昇格、わたしたちの用語では「内側」と「外側」の分離が可能となるのである。(93頁)(問い掛けと直観)

■懐疑の否定主義と同じように、本質の肯定主義は、あからさまに主張していることとは逆のことをこっそりと語っているのである。絶対に確かな存在に到達しようとする本質の賭けは、自己が何ものでもないという偽りの主張を隠している。【岡野注;私は自己は何ものでもないという主張は偽りではではないと思う】(98頁)(問い掛けと直観)

■こうした情報によってわたしたちは、ある空間の背後にはまた別の空間があり、ある時間の後には別の時間があるというわけのわからぬ法則を示されるのだが、わたしたちの事実の問いが目指しているのは、この法則そのものなのである。この法則の究極の動機とでもいうものを調べることができるとすれば、わたしたちはどこにいるのか、いま何時かという問いの背後に、問い掛けるべき存在者としての空間と時間についての秘められた知を発見することになるだろう。これは、「存在」への究極の関係としての問い、存在論的な〈器官〉としての問いについての秘められた知である。事実と同様に、本質の必然性も、哲学が求める「答え」ではないだろう。哲学が求める「答え」は、「事実」よりも高い場所にあり、野生の「存在」の「本質」よりも低い場所にある。この野生の「存在」においては、事実と本質がまだ未分化である。わたしたちの文化が獲得した分割線の下あるいは背後において、事実と本質は未分化であり続けるのである。(99~100頁)(問い掛けと直観)

■また、現在のそれぞれの一瞬が、わたしのうちに自らを刻印しながら、その〈肉〉を失うのとすると、そして現在の一瞬は純粋な記憶と変化し、不可視なものになるのだとすると、たしかに過去は存在するだろうが、過去との合致は存在しない。わたしと過去の間には、わたしの現在の厚みがあり、これがわたしと過去を隔てている。過去がわたしのものとなるためには、どうにかしてこの厚みに過去の場所を見つけ、そこで新たな現在となるしかない。事物と事物についての意識が同時に存在することはありえないし、過去と過去についての意識が同時に存在することもありえない。(9101~102頁)(問い掛けと直観)

■言語もまた生きている状態、生まれつつある状態において、その参照するすべてのものとともに捉えればよいのである――言語の背後にあるもの、言語をそれが解釈する無言の事実に結びつけるもの、言語が自分の前に送り出すもの、語られた事物の世界を作りだすもの、その運動、その微細さ顚倒、その生とともに、裸の事物の生を表現し、これを幾重にもするものとともに。言語は1つの生である。人間の生であるとともに、事物の生である。言語が生を奪い、それを自らのために保存するのではない。語られた事物しかなかったならば、言語は何を語る必要があるのだろうか。言語が自己についてしか語らないかのように、言語の世界を閉じてしまうのは、意味論的な哲学の誤謬である。(108頁)(問い掛けと直観)

■純粋な本質というものを、世界に位置を占めないものが眺めるように、すなわち無の根底から眺めようとすることも、事物が存在するその場所と時間において、その実在する事物と解け合おうとすることも、事物そのものに対する同じ関係を表現しているのである。前者の無限の距離と後者の絶対的な近さは、朝刊と融合という2つの仕方で、同じ関係を表現するのである、どちらも実定的な見かたである。これは自分の位置を、本質の固有の秩序である発語の水準に撰ぶか、物の沈黙のうちに撰ぶかのちがいであり、すなわち言葉を絶対的に信用するか、逆に言葉を絶対に信用しないかであり、いずれも言葉の問題に無知であることを示すものであり、いかなる媒介も知らないことを意味する。(問い掛けと直観)(90頁)

■わたしたちのかだいは、その沈黙のうちにこれを忘却することや、わたしたちの饒舌のうちにこれを閉じ込めることではない。哲学とは、沈黙と言葉を互いに転換することだから。「この……まだ沈黙している経験を、その固有の意味において、純粋な表現にもたらすことが重要だ」。(問い掛けと直観)(90頁)

■自然哲学とは、精神、歴史、人間を純粋な否定性として考えることを、自らに認めるという態度である。逆にいうと、自然哲学に立ち戻ると、こうした主要な問題を回避するように見えるとしても、それは見掛けだけのことである。わたしたちは自然哲学において、これらの問題を非唯物論的でない解決策を見いだそうとする。すべての自然主義は別として、自然について口をとざすすべての存在論は、身体を欠いたもののうちに閉じこもることであり、まさにこの理由から、人間、精神、歴史について、幻想的なイメージを与えるものである。自然の問題を強調するのは、自然の問題はそれだけでは存在論的な問題を解決できないと確信すると同時に、自然の問題がこの解決策の2次的な要素でも、従属的な要素でもないと確信するからである。(168~169頁)(自然の概念)

■じつのところ、この問題に少しでも取り組み始めると、主体、精神、歴史、さらにすべての哲学がまきこまれる謎に直面することになる。というのは、自然とはたんなる対象ではなく、認識のうちで意識という相手と対面する存在ではないからである。自然という対象は、人間がたち現れた場であり、人間が生まれるための条件が少しずつ形成され、やがてある瞬間にこれが1つの実存として結ばれた場であり、人間を支え続け、人間に素材を与え続けてきたものである。誕生という個人的な事実にせよ、制度と社会の誕生にせよ、人間と存在との根源的な関係は、対自と即自の関係ではない。これは、知覚するすべての人間のうちで維持されている関係である。(170~171頁)(自然の概念)

■自然とはつねにわたしたちに先立って存在していたものであり、しかもわたしたちのまなざしにおいてつねに新しいものとして登場する。自然においては、現在のうちに存在する太古のものが示され、現前する太古のもののうちに新しいものが呼び出されるのであり、これが反省的な思考をとまどわせる。この思考の前では、それぞれの空間の断片は自立的なものとして存在する。これらが共存するのは、この思考のまなざしのもとで、このまなざしを通じてだけである。世界のそれぞれの瞬間は、それが現在であるのをやめると、存在するのをやめてしまう。そして反省的な思考によってのみ、瞬間は過ぎ去った存在のうちで支えられるのである。(171頁)(自然の概念)

■人間という複合的なものの生を、それにふさわしく理解するのは、やはり生である。しかし純粋な知性には、事実として存在する世界を認識するための根拠が欠けているとしたらその純粋な知性に、存在するものと真なるものの定義をまかせておくことはできるのだろうか。また、たとえば空間を定義するのに、わたしたちに実体として結びついている身体の空間の定義を考慮にいれるとすれば、空間を〈延長するもの〉と呼ぶ知性の定義を維持できるのだろうか。(177頁)(自然の概念)

■出来事としての自然、あるいは出来事の総体としての自然は、対象としての自然、対象の総体としての自然とは異なるものである。(177頁)(自然の概念)

■客観的な存在を構成する哲学者も1人の人間であり、身体を持つ者であり、この身体は自然の中にあるものである。そのために哲学そのものも、その時間とその場所において、「実在的なものの宇宙」に位置を占めるのである。(187~188頁)(自然の概念)

■他者の身体もまた、別の「わたしは考える」なしでは不可能であることを考えると、この知覚は同時に、他なる〈わたしは考える〉を担う身体についての知覚でもある。その瞬間からわたしは、独我論のあの〈比較するもののない怪物〉などではなくなる。わたしはわたしを見る。わたしはわたしの経験から、わたしの身体だけに結びついているものを差し引く。わたしの目の前にある事物は、本当の意味ですべての人々にとっての事物である。(190頁)(自然の概念)

■フッサールは地球を、前客観性の空間性と時間性のすみかであり、まだ解放された観察者になっていない〈肉的な〉主体の祖国であり、歴史生であるもの、真理の土壌であり、知と文化の種子を未来へと運ぶ方舟(アルケー)として描くことを試みる。真理が明らかになり、「客観的なもの」となる前は、複数の〈肉的な〉主体のひそかな秩序に住みついているのである。デカルト的な自然の源泉と深みにおいて、別の自然が存在している。これは「根源的な現前」の領域であり、これが1つの〈肉的な〉主体の全体的な反応を呼び求めるという事実によって、原則として他のすべての主体にも現前しているのである。(191頁)(自然の概念)

(2011年2月28日)

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『志賀直哉』 ちくま日本文学全集 筑摩書房

■34年前、座右宝の後藤真太郎が九州の坂本繁二郎君を訪ねた時、何の話しかららか、坂本君は「青木繁とか、岸田劉生とか、中村彝とか、若くして死んだうまい絵描きの絵を見ていると、みんな実にうまいとは思うが、描いてあるのはどれもこっち側だけで、見えない裏側が描けていないと思った」と云っていたそうだ。帰って、それを梅原龍三郎にいうと、梅原は「面白い言葉だ」と同感したそうだ。私はこの話を聞き、これは理窟も何もない正に作家の批評であって、批評家の批評ではないと思った。そして同じ事が小説についても云えると思った事がある。

私自身の場合でいえば、批評家や出版社に喜ばれるのは大概、若い頃に書いたもので、自分ではもう興味を失うつつあるようなものが多い。年寄って、自分でも幾らか潤いが出て来たように思うもの、即ち坂本君のいう裏が多少書けて来たと思うようなものはかえって私が作家として涸渇してしまったように云われ、それが定評になって、みんな平気で、そんな事を書いている。私はそういう連中にはそういう事が分らないのだと思う。そして、常に云っているように批評家というものは、友達である何人かを例外として除けば、全く無用の長物だと考えるのである。そういう批評家は作家の作品に寄生して生きている。それ故、作家が批評家を無用の長物だといったからとて、その連中の方から作家を無用の長物とは云えない気の毒な存在なのだ。(400~401頁)(白い線)

■そして私も芥川君のものを評したが、それはよく覚えている。それは主に芥川君の技巧上の欠点――わざわざ云う必要はなかったが、私は前にそれを他の人に云っていたので、蔭で云い、前で口を閉じている事が何かの場合両方によくない事が出来るのを恐れる気持だった。

芥川君の「奉教人の死」の主人公が死んでみたら実は女だったという事をなぜ最初から読者に知らせておかなかったか、と云う事だった。今は忘れたが、あれは3度読者に思いがけない想いをさせるような筋だったと思う。筋としては面白く、筋としてはいいと思うが、作中の他の人物同様、読者まで一緒に知らされずにおいて、仕舞いで背負投げを食わすやり方は読者の鑑賞がその方へ引っぱられるため、そこまで持って行く筋道の骨折りが無駄になり、損だと思うと私は云った。読者を作者と同じ場所で見物させておく方が私は好きだ。芥川君のような1行1行苦心していく人の物なら、読者はその道筋のうまさを味わっていく方がよく、そうしなければもったいない話だというような意味を云った。あれでは読者の頭には筋だけ残り、せっかくの筋道のうまさは忘れられる、それは惜しい事だと云う意味だった。

一体芥川君のものには仕舞で読者に背負投げを食わすようなものがあった。これは読後の感じからいっても好きでなく、作品の上からいえば損だと思うといった。気質(かたぎ)の異いかも知れないが、私は夏目さんの物でも作者の腹にははっきりある事をいつまでも読者に隠し、釣っていく所は、どうも好きになれなかった。私は無遠慮にただ、自分の好みを云っていたかも知れないが、芥川君はそれらを素直にうけ入れてくれた。そして、

「芸術というものが本統に分っていないんです」といった。(449~450頁)(沓掛にて)

■「妖婆」という小説で、2人の青年が、隠された少女を探しに行く所で、2人は夏羽織の肩を並べて出掛けたというのは大変いいが、荒物屋の店にその少女が居るのを見つけ、2人が急にその方へ歩度を早めた描写に夏羽織の裾がまくれる事が書いてあった。私はこれだけを切り離せば運動の変化が現れ、うまい描写と思うが、2人の青年が少女へ注意を向けたと同時に読者の頭もその方へ向くから、その時羽織の裾へ注意を呼びもどされると、頭がゴタゴタして愉快でなく、作者の技巧が見えすくようで面白くないというような事もいった。こんな欠点は私自身にもあるかも知れず、要らざる事をいったようにも思ったが、当時そんな事を思っていたので、これも私は云った。芥川君は「妖婆」は自分でも嫌いなもので書きかけで、後を止めたものだと云った。(451頁)(沓掛にて)

■黒田家の画帖を見た帰り、私は日本橋の方へ行くのですぐ別れたが、芥川君は南部修太郎君を訪ねると、その時一緒だった梅原とちょうど同じ方向なので、2人は同じ自動車で帰って行った。そしてその時芥川君は梅原の家へも寄ったとか、あとで梅原は「なかなか気取屋だね」と云っていた。そういう自身昔は気取屋でない事はなかったが、作者としての芥川君が少し気取り過ぎていた事は本統だ。アナトール・フランスの妙な影響が大分あったのではないか。(452頁)(沓掛にて)

■偉(すぐ)れた人間の仕事――する事、いう事、書く事、何でもいいが、それに触れるのは実に愉快なものだ。自分にも同じものがどこかにある、それを眼覚まされる。精神がひきしまる。こうしてはいられないと思う。仕事に対する意志を自身はっきり(あるいは漠然とでもいい)感ずる。この快感は特別のものだ。いい言葉でも、いい絵でも、いい小説でも本当にいいものは必ずそういう作用を人に起す。一体何が響いて来るのだろう。

芸術上で内容とか形式とかいうことがよく論ぜられるが、その響いて来るものはそんな悠長なものではない。そんなものを超絶したものだ。自分はリズムだと思う。響くという聯想でいうわけではないがリズムだと思う。

このリズムが弱いものは幾ら「うまく」出来ていても、幾ら偉そうな内容を持ったものでも、本当のものでないから下らない。小説など読後の感じではっきり分る。作者の仕事をしている時の精神のリズムの強弱――問題はそれだけだ。

マンネリズムがなぜ悪いか。本来ならば何度も同じ事を繰返していればだんだん「うまく」なるから、いいはずだが、悪いのは一方「うまく」なると同時にリズムが弱るからだ。精神のリズムが無くなってしまうからだ。「うまい」が「つまらない」と云う芸術品は皆それである。幾ら「うまく」ても作者のリズムが響いて来ないからである。(456頁)(リズム)

■フィリップの「野鴨雑記」リズム強く、捨身な処大いによし。情熱的な点もいいが、少し情熱過ぎて不安心な所あり。この点西鶴のつっぱなした書き方、効果強し。西鶴でもフィリップでも、話、いきなり堀を飛越し、向う岸へ行って、また続けるような「うまい」所あり。これを技巧と考えるのは浅い。彼等のリズムがそれをさせるのだ。本人からいえばこれは意識的でもなく、無意識的でもない。(458頁)(リズム)

大阪の友達の家で小さいコロー作の風景画(硲氏蔵)を見た。油画の事で感銘書きにくいが、非常に感服した。近年見た絵の稀なる収穫だった。こういうものになると東洋画も西洋画もない感じだ。感服するのに油画として、などいう意識はまるで起らなかった。いいものというものはいいものだと感じた。

武者の「二宮尊徳」も大変面白かった。自分の祖父が今市時代の尊徳の弟子だった関係で、尊徳の名は子供から親しんでいたが、まとまって知ったのは今度が始めてだ。尊徳の捨身なリズムの強い生活には非常にいい刺激を受けた。(459頁)(リズム)

(2011年3月7日)

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『複眼の映像(私と黒澤明)』 橋本 忍 文春文庫

■私の習作に対する伊丹さんの意見には貴重なものが多く、生涯の指標となるものもかなりある。だがその反面、私には理解できない、やや感情的とも思える怒りや叱正に似た言葉も多かった。

(視点はどこだ、どこにある!)(視点が迷っている!)(作者の目はなにを見ている!)(人物像が歪んでいる!)(長い、ト書きが長すぎる!)

こうした言辞が私には消化不良で、鬱積する永久凍土のような不愉快なものになっていたが、それらが四分五裂で雪崩のように崩壊し始める。(78~79頁)

■ところが、小説家からシナリオライターになった例は一例もなく、これからもそれはあり得ない。これはシナリオが特別に難しいものという意味ではない。小説は読み物、シナリオは設計書、という全く性質の異なる別々の生きものであることと、後は経済的な問題――シナリオで稼ぐよりは小説のほうが楽に稼げるということではあるまいか。(81頁)

■私は話し合った断片をノートに取り、自分のノートに前から記入している部分を確かめる。

「話は前後しますが、渡辺勘治は中肉中背で、眼鏡はかけておりません」

「眼鏡なし?」

「そうです。老眼鏡……眼鏡を掛けるのは書類を見る時だけです」私は付け加える。勤めが終わってから、部下と一緒に屋台で熱燗を呷るとか、縄のれんをくぐるとか、そういうことはしない。付き合い程度の酒は飲めるが、自分の金を使い酒を飲むことはない。勿論煙草は吸わない。

小國さんが付け足す。

「で、その市民課だが……渡辺勘治以外にも、係長や窓口の係、他にも役らしいのが2、3は必要だな」

「ああ、それと、特色のあるのが1人欲しいよ」

私が黒澤さんに聞き返した。

「特色のある?」

「例えば女の子……謂いたいことをズケズケ言って、自分の思い通りにする、ここの勤務がイヤになり辞めたがっているんだ。こんなのが1人いると、いろいろのことが楽に捌ける」

ちょっと会話が途切れ3人とも黙り込み、黒澤さんがぼそッという。

「主人公については少し固まってきたが……なにかもう1つ2つ、決定的なものが欲しいね」

小國さんが入歯をガタつかせ、モグモグ口を動かした。

「渡辺勘治は、夜寝る時にだよ……背広のズボンをきちんと延ばし、布団の下へ敷き、丁寧に寝押しをする、ここ30年間、毎晩だよ」

私は息をつめ、黒澤さんも息をつめている。

「それから……昼はいつもうどんだが、先ずうどんをツルツル時間をかけ啜りおわると、丼鉢をこういうふうに持って(両手で丼鉢を回して汁を啜る、これを2、3度……しかし、全部を飲み干すのではなく、少しだけ残した汁を、しげしげと見つめ、その、丼鉢を置く……それが渡辺勘治の昼食……うどんの喰い方だ」

黒澤さんと私は思わず顔を見合わせた。渡辺勘治の立体像がかなりはっきりしてくる。それと同時に主人公がもそもそと蠢きだす気配を見せ、作品そのものにも動き出しの胎動が強くなる。流石は小國英雄……ほとんど無限とも思える膨大な引き出し(ドラマの核)の所有者である。(113~115頁)

■映画の製作に1番重要なのは脚本で、その脚本にとり最も重要なのは、1にテーマ、2にストーリー、3に人物設定(構成を含む)であることは、映画の創成期からの定説だが――脚本が映画には最重要なものであるとする処遇や扱いを、映画界やその周辺から受けたことがないように、脚本にとっても基礎の3重要事項を的確に用意し書かれたものはあまりない。

(もし大多数の脚本がその基礎条件を満たしていれば、映画も、テレビのドラマも、今よりはもっと面白い上等なものになるはずである)

脚本家、シナリオライターにとっては、この基礎の3条項が、いかに面倒臭くやり辛いかは、ほとんど生理的なものともいえる。

伊丹さんに脚本を見て貰っていた時、私がその要素をおざなりにすると、伊丹さんは烈火のごとく怒り、テーマを絞れ、ストーリーは形のある短いものにしろ、人物は彫れるだけ彫れと、執拗なまでに声を荒げる。自分にもそれがいかに重要かは分かっているが、なにかを書く時には、またぞろいい加減になってしまい、この基礎を整えることがなかなか出来ず、すべてをきちんとやったのは、今度の仕事が初めてで、しかし、それらはいずれも黒澤さんの強制によるものである。(126~127頁)

■このシナリオは剛直で、観客には極端な緊張を強い、異常なまでに目に強くスクリーンに凝縮させ話が進んでいくだけに、すべてを現実形で押す以外に手がなく……いいかえれば、ほッとした昼の食事と休みがあるから2人のしみじみした交流や、子供時代の懐旧の回想なども、春、夏、秋、冬と自由自在にやれるのだ。

もし、彼にはこんな友達がありましたのシーンが、ほんの少しでも質感の万全でない、説明的なものになったら、この映画はそこで瓦解し、モロに崩壊してしまう。他のシチュエーションでは駄目、結論的にいえば、使い番の侍から昼弁当と昼休みがなくなれば、この映画の企画そのものが成立しなくなるのだ。(144頁)

■彼は能好きで、仕事が終わった夜の食事の際には能についてよく話すが、いつも話題にするのが世阿弥である。世阿弥は室町期の人で、足利将軍の後援と庇護を受け、数多い名作を生み出し、今日まで伝わる能の芸術性を確立して人だが、その世阿弥がある日、川船に乗り川を渡っていると、中程で向こうから渡し船がやって来て、船頭がお互いに声を掛け合う。おう、いい天気だな。ああ、いい天気で有り難いが、今日は体がしんどいよ。しんどい?どうしてだ?昨日は仕事を休んだからな。

世阿弥は思わず膝をたたく。これだ!これがコツだ、休めば逆に体が疲れる。稽古ごとには1日も体を休ませてはいけないのだ。

私も黒澤さんのいう通りで、シナリオはマラソン競走に似ており、辛くなって顔を上げたら、挫折にも繋がり、おしまい……苦しくても顔を上げず、頑張り通すより他に方法がないことはよく心得ている。(200頁)

■良イシナリオカラ、悪イ映画ガ出来ルコトモアル。

シカシ、イカナルコトガアッテモ、悪イシナリオカラ、

良イ映画ガ出来ルコトハナイ。

伊丹万作の映画憲法の第1条である。(220頁)

■ある日、自分の原稿が黒澤さんから菊島さんに回った時、菊島さんは次の小國旦那には回さず、首を傾げていたが、顔を上げ、私にいう。

「橋本君、こんなふうに突っ込んでしまうから、動かなくなる。この手前でこうすれば捌(さば)ける」

といって小國旦那には回さず、自分で私の原稿を直し始めたが、直し終わると、正面から直接私に渡した。私は受け取って見て自分の目を疑い驚嘆した。何と言う見事な捌き方なのだろう。菊島さんの芝居の捌きには定評があるが、まさに絶妙である。

私がその原稿に魅入られたようになっていると、隣りの黒澤さんが手を伸ばし、自分にも見せろという。黒澤さんは私から菊島さんの直した原稿を手に取って見ると、途端に顔が引き攣り息を詰めてしまう。

黒澤さんと私の脚本は先行直進型、菊島さんと小國旦那は追い込み型、私の欠点や長所は黒澤さんの欠点であり長所でもあるのだ。自分が見過ごした原稿――いや、必ずしもそれがうまくいっているとは思わないが、自分にはどう直すのか、直感での直す力、捌く技術がない。だが菊島さんはスラスラとそれをやってのける。その菊島さんの前捌きの妙には、黒澤さんも感嘆のあまり声も出ない。(270~271頁)

■前捌きの上手さとは?なにがどのように上手いのか、専門用語過ぎるので、こういう形で表現すれば分かりやすいとも思う。

例えば東映映画の任侠物で、兄弟分を殺られた高倉健が、死を賭けた最後の殴り込みで、敵地に乗り込んで行く。だがそれを途中で、藤純子が「待って!」と町並みから飛び出し取りすがる。「お願い!……いかないで!」

私や黒澤さんはここで立ち往生だ。高倉健の動きがつかない。ここで棒立ちのままじゃどうにもならないし、さりとて、藤純子を突き飛ばし駆け出す訳にもいかず、ニッチもサッチもいかなくなりドラマが止まってしまう。

ところが東映の作品を書くライターは手慣れたものである。藤純子は高倉健に縋り付き離さず、泣き続けるが、暫くして「でもどんなに止めても、あなたは行くのだは」といって涙を拭って離れ、

「じゃ、行ってよ……行って!」

「すまねぇ!」高倉健は藤純子を片手拝みにし一気に走り出す。

捌きとはこうした芝居に類するもので、私や黒澤さんは相撲でいえば四つ相撲、相手力士を力で土俵際まで持って行くが、相手に粘られるとそこで動けなくなる。だが菊島さんはこれ以上押せない時には、押すと見せて押さず、逆に引いて相手の形を崩し、自分の得意技に引き込み仕留めてしまう。

前捌きとはこうした引き技が多く、いずれにしても効果的だが、多用するとあざとく、わざとらしさが目立つ。また引き技には変わり身が付いてまわるから、多用すれば相撲ではケレン相撲……芝居でいえば、ゴマカシとかはったり芝居、いわゆる俗受け芝居になる。(271~272頁)

■だが2人の初顔合わせの『糞尿譚』の出来はそれほどよくなかった。原因は監督独断の脚本の直しである。大きな直しではないが、鼠がアチコチ齧るようなチョコマカした直しだった。通常、私は脚本直しをした監督とは、2度と組むことはない。第1線級の監督は脚本の直しなどはしない。脚本を直すのは、腕のない2流もしくは3流監督の、偏狭な私意や私見に基づくもので、脚本にとっては改悪以外のなにものでもなく、私たちはこうした無断改訂の常習者を「直し屋」と呼ぶが、「直し屋」はそれが習性で、脚本が誰であれどんな作品であれ、改作をやめない。だから私は相手が「直し屋」と分かると、徹底して仕事を忌避する。(284頁)

■ある日、野村さんと一緒に銀座のヤマハホールで、スピルバーグの『ジョーズ』の試写を見、終わると近くの喫茶店でコーヒーを飲んだ。だが2人とも暫くはなにもいわない。やがて私が、

「出来のいい映画ですね」

野村さんは黙って頷いた。その通りである。

映画を見る場合の私は、ごくありふれたファンの1人にすぎない。だがどこかに職業意識があるせいか、がめんには時折NGカットも見受けられ、1本全部がOKカットで繋がっている作品は滅多にない。俳優さんの限界、予算の限界、時間の制約などで、元来ならNGカットだが、やむを得ずOKにせざるを得ないものがどうしても入りこんでくるのだ。

だがジョーズの場合、私にはNGカットが見受けられない。例えば桟橋が鮫に引っ張られ水中に消えてしまう印象的なシーンがあるが、これらは1発OKでなく、5回も6回も桟橋を作り直し、スピードを変えて行われ、その中からこれがOKといえるカットを撰んで使っているのだ。(285~286頁)

■従来の経験法則(定規やコンパスの類)を、いかに効率的に駆使しても、新しい面白いものの作れる可能性はもうあり得ないと思われる。つまり、そうしたものが力と利便を発揮するのは、先見とか予見(先読み)を必要とする、テーマとか、ストーリー、人物設定、話の構成などにおいて、最も顕著なのだが……作るべきものの骨格を、こうした不確実極まる先見とか予見に頼ることは、海のものとも山のものとも、作品はまだ片鱗さえ出来てもいないのに、作るべきものの大半を、あやふやに先読みし形成するため、作品がその枠の中に縮こまり――矮小化されイビツになってしまう。

先ずこうした従来の事前準備的なものを、一切なくさない限り、新しい作品の可能性はなく、従って決定稿のための準備稿、ライターが打ち合わせして先行する第1稿の必要などはあり得ず、今後はテーマなし、ストーリーなし、人物設定も、話の構成もない、「いきなり決定稿」でいいのだ(黒澤さんとしては、こうした事前準備に類するものは、作品の進行とともに自然に醸成され、やがて完成した作品の中で明確な形を示すのが、最も理想的であり、かつ自然であると腹を括ったとしか思えない)。

2人の岐路――私は『7人の侍』でやっと定規とコンパスを得て、なんとか職人の仲間入りしたが、逆に黒澤さんは述べたような憶測の推移(いきさつ)で、定規とコンパスを捨ててしまったのだ。では職人でなくなった黒澤さんは、いったいなにに? ゴッホの耳切りが芸術家の性なら、あたかもそれを暗示するように、黒澤さんも芸術家に?……層、黒澤さんは最高級の腕を誇る偉大な職人から、1人の芸術家に変貌してしまったのである。(328~329頁)

■しかし、短編物で確実にいえることは、過去の原作物のストック消化より、ライターのオリジナル物が急速に増えることだ。今までとはドラマと作法が全く違い、中編物には必要不可欠だったあの面倒臭い、起承転結がいらない。序、破、急,の3楽章、ワン、ツウ、スリー!のパターンで話が作れる。(357頁)

■『7人の侍』の時のことだが、仕事が終わったある日の夜、水割りのコップをテーブルの上に置いた小國旦那が突然に、

「橋本よ……死んだ万作(ばんさく)(伊丹万作)に代わり、お前に言う」

私はドキッとして居住まいを正した。師匠の名前の一言で電気のような物が5体を疾る。

「いいか、シナリオライターには3種類ある。鉛筆を指先に挟み、指先だけでスラスラ書く奴、指先に挟み込んだ鉛筆を、指先でなく掌全体の力で書く奴、ほとんどがこの2種類だが……お前は肘で書く、腕力で書く」

「…………」

「その腕力の強さじゃ、お前にかなう者は日本には誰もいないよ。しかし、腕っ節が強すぎるから、無理なシチュエーションや、不自然なシチュエーションを作る。成功すれば拍手喝采だが……これは失敗する可能性のほうが遥かに高く大きいよ」

小國旦那は入歯の下顎をガクガクさせ言葉を締めくくる。

「シナリオはな、冬があって、春がきて、夏がきて、秋がくる……こんなふうに書くんだよ」

私は黒澤さんを見てギクッとした。黒澤さんが水割りのコップを手にしたまま旦那を注視し、息をつめている。忠告を受けている私よりも息を凝縮し、小國旦那をⅠ直線に見つめている。(362~364頁)

■広い太平洋、弧状列島、細長い島国の日本、亜熱帯なのに温度と湿度の変化の四季がある。その四季を……自分が作りたいものを思うがままに作った作品なのに、実に順序よくそのまま四季を象徴しているようにも見え、同時に黒澤さんの人生や生涯をも示しているようにも見える。

始めと終わりは単独脚本、しかし、大多数は共同脚本である。単独作品は芽生えの春であり、共同作品の「ライター先行形」は夏、同じ共同作品でも「いきなり決定稿」は秋、そして再び単独作品の孤高な冬になる。

春(芽生え)『姿三四郎』『一番美しく』『虎の尾を踏む男達』

夏(盛り) 『素晴らしき日曜日』『酔いどれ天使』『羅生門』『生きる』『七人の侍』

秋(実り) 『用心棒』『椿三十浪』『天国と地獄』

冬(孤高) 『夢』『八月の狂詩曲(ラプソディー)』『まあだだよ』

簡略に示せばこんな形かとも思うが、これらを一見した感じでは、黒澤さんは日本の四季と共に、映画の王道を歩いた最も典型的な日本人の一人ではあるまいか。

と同時に30作品をもう1段高く引き俯瞰すると、こんなことも言えると思う。30作品の全部が高次元では繋がっており、テーマが一貫して同じであるということだ。

この世に善人はいない。しかし、悪人もいない。

誰もが善と悪を背負って生きている――。(392~393頁)

■橋本さんの映画への道は、伊丹万作監督との出会いによって拓けた。

原作物に手をつける場合にはどんな心構えが必要かと、脚本の師である伊丹万作に訊ねられた橋本忍さんが答える。

「牛が1頭いるんです(中略)……私はこれを毎日見に行く。雨の日も風の日も……あちこちと場所を変え、牛を見るんです。それで急所が分かると、柵を開けて中へ入り、鈍器のようなもので1撃で殺してしまうんです……」

そして、鋭利な刃物で頸動脈を切り、流れ出す生血で仕事をする。必要な物は、原作の姿や形ではなく、生血だけ……。

1946年、まだ28歳の橋本青年は、伊丹万作にそのような私説を述べた。

それから、28年後、橋本さんは、山田洋次とのコンビで、『砂の器』の脚本に取りかかることになる。

山田洋次は、原作が、あまりにも複雑なストーリーなので、映画化は無理なのではないかと感じた。そんな山田さんに、橋本さんが、原作小説の赤鉛筆で線を引いた部分を見せた。

そこには、病気に父親と一緒にお遍路さんの装束を身にまとい、物乞いをしながら全国を放浪したという主人公の過去が書かれてあった。

その悲しい過去という僅かな記述部分こそが、松本清張原作『砂の器』の急所であった。ここから、「名声のために過去を捨てた男が、過去に復讐される」というテーマが紡ぎ出された。

こうして、『砂の器』は、単なる推理映画という枠を打ち破り、壮大な人間ドラマとして、不朽の名作となった。

原作は、1撃で仕留められたのである。〈解説・加藤正人〉(400~401頁)

(2011年4月17日)

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■完全なものは1つしかなく、しかもこの世にはない。(アントニ・ガウディー)

(2011年5月20日)

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『アインシュタインの宇宙』 佐藤勝彦著 角川ソフィア文庫

■そういう意味では、自然科学はすべて、量子論と相対論が支えていると言っても過言ではないでしょう。

では物理学は、いったいなぜ、科学の根源を支えるようなものになっているのでしょうか。物理学が目指しているのは、「私たちが住んでいるこの物質世界はいったいどうなっているのか、どのような構造になっているのか、それがどうして今あるように変化・運動しているのか」ということを、根本的なところから探求し、解明していくことなのです。

このような物理学による〝物質の探求〟の成果によって、いま、私たちの世界は、ごく小さな素粒子の世界に始まって、大宇宙~深宇宙まで広がっているのだという認識を持つことができました。(21頁)

■小さくは、「プランクの長さ」、10(―33)センチメートルから、大きくは宇宙の観測的な果てで、10(28)センチメートルの世界が広がります。つまり、小さいほうにもだいたい30桁、大きいほうにもほぼ30桁ぐらいの階層構造を、私たちは認識したことになります。(23頁)

■いろいろな現象に対し、その現象ごとに法則があったのでは、法則は法則でなくなります。いろいろな現象や運動を簡単な法則で説明できるように、一般的なルールをつくるために、物理学は長い間簡単な法則を求めてきました。それは物理の歴史でもあったのです。(24頁)

■ニュートンが発見した運動法則を基礎に組み立てられた「ニュートン力学」は、地球上の物体の動きや、太陽系・惑星の運行まで、その動きの規則性を単純な方程式で表わすことに成功しました。ニュートンの運動方程式を使えば、惑星や星の未来の位置、それに当時、望遠鏡で発見されていなかった未知の惑星・海王星などが存在することさえも予言できたのです。ニュートンは、1687年に出版された『プリンピキア(自然哲学の数学的諸原理)』のなかで、時間と空間について次のようにはっきりと規定しています。

 ◆絶待時間:その本質において、外界とは何ら関係することなく、一様に流れ、これを持続と呼ぶことのできるもの。

◆絶対空間:その本質において、いかなる外界とも関係なく、常に均質であり、揺るぎないもの。

そして、ニュートン力学は2つの法則でできています。

◆第1法則:慣性の法則……外からの力が作用していないとき、物体は静止しているか、等速運動をする。

◆第2法則:運動の法則……物体の加速度は、外からの力に比例する。(26~27頁)

■こうなると、物理学は、ニュートン力学と熱力学の体系ですべて解けるのではないか、仮に細かなブレが出たとしても、応用するだけで分かるのではないかと考えられた時代だったのです。(29頁)

■そして、ニュートン力学、熱力学、電磁気の法則――これら3つの分野の知見を駆使すれば、もう世の中のことはすべてわかる、予言できるというような雰囲気になっていったのです。「もう物理学は終わったんだ……。あとは、いろいろな分野に応用するというのが学問なんだ」というような状況になっていったのです。(30頁)

■ところが実は当時、2つの暗雲が物理学の前途に立ちこめていたのです。晴れて入る空に、2つのちょっとした雲がある。多くの人は、「たいした雲じゃないだろう、熱力学と電磁気学、ニュートン力学を使えば、その謎も解けるんじゃないか」と思っていたのです。

その2つの暗雲のうちの1つは、光を伝える伝達物質であるとされた〝エーテル〟が観測で見つからないことと、光速度はどうも変わらない一定の値を持つということでした。そしてもう1つの〝暗雲〟とは、古典力学を用いて計算しようとすると、どうしても発散してしまう「黒体放射」のエネルギーの謎でした。しかも熱力学と電磁気学が予言しているように、あらゆる光の波長が出てきていいはずなのに、実際は出ていない……。

2つの暗雲は、いずれも〝光に残された2つの謎〟だったのです。しかも、光を波だと考えたとき、この2つの謎に行き着いてしまうのでした。(30~31頁)

■まさにこの2つの暗雲から、20世紀になって現代物理学を支えるような、相対性理論と量子力学という2つの大きな柱が生まれてきました。(31頁)

■以上述べてきたように、プランクの「エネルギー量子仮説」は、物理学のなかに初めて〝飛び飛び、不連続〟という考えを持ち込んだ画期的な仮説でした。(40頁)

■このプランクの「エネルギー量子仮説」は、光がエネルギーを、ある固まりで受け渡しをするという考え方です。けれども彼は、光そのものがごく小さな粒状の物質でできているとまではいわなかったのです。

それでアインシュタインは、プランクの仮説から5年後、その考え方を取り入れつつ、さらに一歩進めて、「光はエネルギーを持った粒の集まりと考えられる」というアイデアに行き着きました。このアイデアを発展させて、アインシュタインは当時、やはり謎とされていた「光電効果」という現象を見事に説明しました。2つの暗雲のうち1つは、アインシュタインによって「量子力学」の基礎を構築する道につながっていったのです。(41~42頁)

■仮に、光に「速度合成の法則」や「運動の法則」という考え方が通用しないとなれば、「宇宙のどのような運動も説明できる」とされていたニュートン力学に、重大な欠陥があるということになります。当時の物理学者たちは、この実験結果をニュートン力学で何とか説明しようとしましたが、うまくいきませんでした。(46頁)

■マクスウェルは、「光とは、実は電磁波じゃないか、つまり、電気や磁気の波にすぎないのではないか」ということに、気がついたのです。(47頁)

■光の媒質であるエーテルが見つからないことと、光の速度が常に一定に見えること、この2つの〝現実〟は、19世紀末から20世紀にかけての物理学上の最大の謎だったのです。

この謎に対してアインシュタインは「光量子論」のなかで、光の正体が光量子(光子)というごく小さな物体であることを示しました。光を波でなく物質と考えれば、エーテルなどとという媒質がなくても、真空の宇宙のなかを進んでいけるのです。

また、光速度の謎については、特種相対性理論という革新的な発想に思い至り、見事に解明しています。

光速がどの慣性系でも同じ値であることを「光速度不変の原理」といいます。この実験から17年後、アインシュタインは、マクスウェルの方程式をはじめ、物理学の法則はすべての座標系(慣性系)で同じでなければならないことをはっきりと認識し、特種相対性理論を作り上げたのです。(52頁)

■これをまとめると、光の強さと振動数の関係は、光量子の「量と質」の関係(違い)に相当するのです。

このようにアインシュタインは、それまで波だと考えられてきた光を「光量子」(現在では光子(フォトン)と呼んでいます)という粒の集まりだと考えることで、光電効果の仕組みを解き明かすことに成功しました。(57~58頁)

■このように、光は粒子でもあり、また波でもあるという不思議な二重性を示すことがわかってきました。ここでいう二重性とは、たとえば粒が波打って動いたり、粒の集まりが全体として波のようにうねるといったことではありません。光はちょうどジキル博士とハイドのように、従来の物理学(古典物理学)ではまったく別のものとして取り扱って来た「粒としての性質」と「波としての性質」を併せ持つ存在であることがわかり、古典物理学のいわば〝異端児〟だということがわかりました。(58~59頁)

■このように、特種相対性理論は、新たな真理を次々と示していきました。この特種相対性理論の本質的な意義は、「時間と空間を統一した」ことにあります。私たちは普通、時間と空間はまったく別なものだと思っていますが、特種相対性理論は、両者の間に密接な関係があり、1つの時空としてまとめて考えられることを明らかにしたのです。

一方、物体に力を加えると、スピードが変化したり、進む向きが変化します。こうした運動を、加速度運動といいます。一般相対性理論は、観測者自身が加速度運動をしている場合でも適用できる理論です。(64~65頁)

■ニュートン以来、時間は宇宙のどこでも同じように経過していくと考えられていました。こうした時間を「絶待時間」といいます。けれどもアインシュタインは、絶待時間をを否定し、それぞれの観測者が持っている「固有時間」こそが〝本当の時間〟だといったのです。(62頁)

■時空が曲がった世界を記述しようと思うと、数学の道具としては、曲がった空間の数学を使わなければだめだということになります。これは、本当に驚くべきことなのですが、アインシュタインが登場する50年くらい前から、(時間は数学では考えていないのですが)数学の問題として曲がった空間、つまり、球面幾何学の研究が進んだのです。(84頁)

■このように、「宇宙飛行士の足が床に着いている」という状態を引き起こす点で、重力と観測者の加速度運動が、同じ役割を果たしているといえます。これを「等価原理」と呼んでいます。重力と加速度が等しい価値を持つならば、観測者が加速度運動をすることで重力が働いているような状態を作り出したり、逆に存在して居る重力を消したように見せることも可能になります。重力は加速度運動によって作られる「見せかけの力」であるとも考えられます。(89頁)

■もし重力が加速度運動によって作られる「見せかけの力」なら、加速度運動を行うことで重力の影響を完全に消せるはずです。ところが、そうはいきません。(90頁)

■この時、機内の人が両手に1つずつボールを持ち、無重力状態になってからボールを手放すと、ボールも無重力状態になり、フワフワ浮かんでいますが、そのうち2つのボールが少しずつ近づき、間隔が狭くなっていきます。2つのボールが近づくのは、自由落下運動(加速度運動)によっても消えずに残っている重力の影響のためです。つまり、二つのボールはそれぞれ地球の中心に向かうため、ボールとともに落下する人から見れば、次第にボールが近づくように見えるのです。(90頁)

■アインシュタインはこの考えを重力に当てはめて、革命的な説明をしました。「重力による落下とは、曲がった時空の中を物体が運動することである」というものです。(91頁)

■ボールを載せると、2次元のトランポリンの表面がゆがむように、アインシュタインは「物質があると、その周囲の空間(正しくは時空)は曲がる」と考えました。重力とは、時空の曲がりそのものだと推論し、さらに、重力の働く仕組みを、「物質が時空を曲げ、その曲がった時空の中で物質が運動するためだ」と説明しました。(92頁)

■奇妙な振る舞いというのは、一度でもこの半径の内側に落ちてしまった場合、光やあらゆる物質も外に出ていけなくなるような時空構造になっていることがわかったのです。しかも、シュバルツシルト半径よりも内側では、時間の軸と空間の軸が逆転しているのです。普通、tという座標を使って時間を表わしていますが、その半径の内側の領域に入ると、tという座標は空間のように振る舞います。(110頁)

■粒子と反粒子が出会うと、2つの粒子はエネルギーを放って消滅し、無に帰してしまいます(対消滅)。逆に真空中に莫大なエネルギーを与えると、何もなかったはずの空間から粒子と反粒子のペアが出現します(対生成)。(135頁)

■一般相対性理論によればエネルギーは質量が形を変えたものですから、マイナスのエネルギーをもつ粒子を飲み込めば「マイナスの質量を得た」ことになり、ブラックホールは質量を減らすことになります。しかもこの際、ペアだったもう一方の粒子がブラックホール(の近く)から飛び出してくるので、これを「ブラックホールは粒子を放出して質量を減らした」、すなわちブラックホールが蒸発したと考えることができます。(135~136頁)

■また、ミニブラックホールがどんどん蒸発して「極小」の大きさになった時、どんなことが起こるのかよくわかっていないのです。この時は、ブラックホールそのもの(つまり時空そのもの)に量子論を適用する必要があるのですが、量子論と相対性理論を合体させた「時空の量子論」(量子重力理論)はまだ完成していません。さらに、ブラックホールが蒸発した後には何が残るのか、あるいは何も残らないのかも、まだわかっていません。これを解き明かすためにも、やはり量子重力理論の完成を待つ必要があります。現代物理学にとって「究極の理論」である量子重力理論を完成させるうえで、ブラックホールの蒸発という現象の解明がその鍵になるとみられており、のちに述べる「LHC」という巨大加速器での研究結果が待たれるゆえんです。(136~137頁)

■19世紀末には物理学はほぼ完成したと考えられており、ニュートン力学とマクスウェルの電磁気学を使えば、説明できないものはないとまで言われていました。とりわけ、マクスウェルの電磁気学は、「光=波動説」の集大成ともいえるものでした。

ところが、黒体放射のスペクトルなどの研究を進めていくうちに、「量子」は飛び飛びの値をとりうるとする考え方や、物質が粒でもあり波でもあるという二重性を示すことなどが次第にはっきりしてきました。これは、古典物理学ではまったく説明できない、物理学場の大発見でした。量子の誕生は、従来の物理学(古典物理学)が決して〝完璧〟ではないことを示す歴史的な事件でした。(140頁)

■2人(岡野注;プランクとアインシュタイン)の「量子論」によれば、光は波でなく、「ある時は波であり、ある時は粒である」、または「波でもなく、粒でもない」という〝量子〟であると考えなければならないのでした。(145頁)

■マクスウェルの電磁気学では「電子が回ったときに光を出す」と説明しましたが、ボーアの理論では「電子が遷移したときに、光を出す」というようになります。

ここで、ボーアの仮説を示しておきます。

①原子には、ある飛び飛びの軌道があり、電子が軌道を回っており、その時には光を出さない。このような状態を「定常状態」という。

②電子が軌道から軌道に遷移するとき、光(光量子)を出す(または吸収する)。

③電子が軌道上を回っているとき(定常状態)は、古典物理学に従う。(147~148頁)

■この方程式のなかのi(imaginary=想像上の、という意味の頭文字)は、虚数を現す記号で、虚数iは2乘すると-1になる数字、つまり√-1のことです。虚数の反対は実数で、実数を2乘すると、もとの実数がプラスの数であれマイナスの数であれ、必ずプラスの数になります。波動関数ψ(プサイ)にこの虚数が入り込まない限り、アインシュタインの関係式と、ド・ブロイの関係式が同時に満足されないのです。(154頁)

■詰まるところ量子論は、《自然や物質がただ1つの状態に決まらず、非常に曖昧であること、またその曖昧さこそが自然の本質であること》を示したのです。(172頁)

■つまり彼(岡野注;アインシュタイン)は量子論は自然現象を〝一定のレベル〟では正しく表現しているが、完全ではないため、確率などの考えを持ち出さざるをえないのだ――と評価していました。量子論は完全かつ無欠の最終的な理論ではなく、自然界にはまだ、私たちが知らない「隠れた法則」があり、その法則の中で、ある要素(変数)が電子の発見位置をただ1つに決めているのだ、と考えたのです。アインシュタインは、この「隠れた変数」というテーマに基づいて、量子論を完全なものと考えるボーアたちと、しばしば論争を行っています。アインシュタインは論争のたび「神はサイコロ遊びを好まない」という言葉を繰り返し、量子論の不完全さを主張したのです。

ところがアインシュタインは、量子論の決定的な誤りを指摘したわけでもなく、自説の「隠れた変数」を十歳に提出できなかったので、ボーアとの論争はいわばボーアの「判定勝ち」に終わったようです。(172~173頁)

■アインシュタインは結局、アスペの実験結果を知ることなく亡くなりました。しかし生前、「量子論の言い分が正しいのであれば、月は我々が〝見た〟からそこにあり、我々が見ていないときにはそこにはいないことになる。これは絶待に間違っていて、我々が見ていないときにも、月は変わらず同じ場所にあるはずだ」といったそうです。

確かに量子論を突き詰めて考えれば、誰も月を見ていない場合、月はある1ヶ所にはいないことになります。誰かが見たときだけ、月の位置が確定できるのです。量子論が述べる世界観は、私たちの常識にはなじまないのですが、アスペの実験は、それもまた真実だといっているのです。(178頁)

■アインシュタインは、自分の方程式が最初にこの謎を解く方程式になるのだと考え、宇宙は「4次元空間にある3次元の表面を持つ球の表面」だという、いわゆる「アインシュタインの宇宙モデル」を考えました。その第一原理で、「宇宙は一様であり、等方である」としました。ここでいう一様とは、まず密度に凸凹はないということであり、等方というのは、密度は同じだとしても、ある方向に物質が流れているとか、そういうふうな特別な方向はないし、いわゆる一様と等方を仮定したのです。今日でも「宇宙原理」といわれている仮定をまず行うのです。このように仮定した条件でアインシュタイン方程式を解いて、宇宙の構造や型を決めてやろうと思ったのでしょう。(192頁)

■フリードマンは、その解の安定性を詳しく調べることによって、その解が表わす宇宙が、膨張と収縮のつりあった静止状態にとどまることはできず、宇宙は膨張するか収縮するかどちらかの運命にあることを示したのです。(201頁)

■このエディントンの報告には、《アインシュタインの静止宇宙は決して安定したものではなく、微小な揺らぎによって必ず膨張に転ずること》が明記されていました。ですからエディントンもすぐ、ルメートルの論文の重要性を見て取ったのです。(215頁)

■1935年に書かれた著書『科学における新しい道』でエディントンは、次のような表現で、一般相対性理論における宇宙定数の意義を強調しています。

《万が一、(一般)相対論が不評を買うようなことがあっても、宇宙定数がその最後の砦となるだろう。宇宙定数を落すことは、宇宙の底をたたき割ることにつながるのだ》(217頁)

■ここから彼(岡野注;ルメートル)は「原始原子(Primeval Atom)の概念を打ち出しています。宇宙のすべての元は、この原始原子だと主張しています。(219頁)

■このように、「ルメートル膨張宇宙」にせよ、また原始原子から始まる初期宇宙についての考察にせよ、次章で紹介するビッグバン宇宙論の仕方そのものでした。1930年代の話ですから、ルメートルはそれ以上細かく議論することはできませんでしたけど、彼の考え方が宇宙が火の玉状態から始まったというビッグバン宇宙論のひとつ前の段階にあったのは間違いない事実でしょう。(220頁)

■〝宇宙の晴れ上がり〟以降も、宇宙黒体背景放射が他のなにものの影響も受けなかったとすれば、引き続き進行する宇宙膨張によって温度は低下していき、その時々の温度の黒体放射として宇宙をくまなく満たしてきたと考えられます。そしてその残照は、今日の宇宙をも満たしているはずです。(234頁)

■次に、4つの力を強い力の順にまとめておきます。

①強い力:陽子のなかでクォークとクォーク、あるいは原子核のなかで陽子や中性子を互いに強力に結びつけている力。力の及ぶ距離は10(-12)センチ。はたらく素粒子とはたらかない素粒子がある。湯川秀樹博士が発見した。

力を媒介する粒子……グルーオン

②電磁気力:電気を帯びた粒子に対してはたらく。原子どうしを結合して分子を形成したり、原子核と電子から原子をつくったりする。これも強さは距離の2乗に反比例。マクスウェルが理論を完成した。

力を媒介する粒子……光子

③弱い力:放射能や星の内部の核反応(原子核のベータ崩壊など)に関係する。力のおよぶ距離はわずかに10(-16)センチ。

力を媒介する粒子……W粒子、Z粒子などのウィーク・ボソン

④重力:あらゆる粒子にはたらくが力は非常に弱い。強さが距離の2乗に反比例するので、理論的には無限遠方まで及ぶ。重力(万有引力)の法則はニュートンが発見した。

力を媒介する粒子……グラビトン(未発見)(252頁)

■つまりヒッグス粒子は、宇宙が誕生した時には水蒸気のように真空を満たしていたのですが、すぐに水や氷のような状態に変化したと、物理学者は考えています。これが「相転移」といわれている現象です。そのため、多くの素粒子は氷海を進む砕氷船のように、ヒッグス粒子の抵抗を受けることになり、この動きにくさが質量として観測されることになります。光子のように光速で飛ぶ質量ゼロの粒子は、抵抗を受けないスケート靴を履いているようなものです。温度が下がると水蒸気が水になる(水の相転移)現象とよく似ているので、これを「真空の相転移」と呼びます。(259頁)

■標準模型は、「相互作用を記述する運動方程式がゲージ変換に対して不変」であるように定式化されています。「ゲージ(gauge)」とは「物差し」という意味です。ゲージ変換に対して不変であることを「ゲージ不変』と呼び、ゲージ不変生に基づく理論を「ゲージ理論」と呼びます。(261頁)

■電磁気力では電荷、「弱い力」ではウィーク荷に相当するものを考えてきましたが、「強い力」の主役は、〝色荷(カラー荷=カラーチャージ)〟です。これは南部陽一郎氏が提案し、ゲルマンが命名したことに基づきます。もともとこのクォークには3種類あって、3つ全部混ざり合うとそれがなくなってしまうところから、3色混じると「白」色となる光の3原色に似ているため、色荷という名前がつけられました。(279頁)

■温度が下がると水蒸気が水になる、逆に温度が上がれば水は水蒸気になる(水の相転移)のように、同じ物質が物質としての同一性と保ちながら、その存在のあり方(存在のフェーズ、様態)を変えることを意味します。この現象を〝真空〟に適用して、これを「真空の相転移」と呼びます。私たちの宇宙は、ビッグバンに先立つ宇宙創世の瞬間に存在した、ほんのちょっとの「対称性の破れ」から生まれた、とされています。物質が創られたのは、宇宙創世の瞬間の「真空の相転移」によって生まれたと考えられています。「真空の相転移」とは、〝真空〟という「物質のまったく存在しない空間」が、その存在のフェーズ(様相、もしくは相貌)を変えると、そこにたちまち物質が生成される、ということです。(288~289頁)

■この粒子が壊れてしまった後の宇宙には、クォークが10億個と1個、反クォークが10億個存在するというほんのわずかな差が生じてきます。宇宙の温度が下がるにつれ、10億個のクォークと10億個の反クォークはすべて対消滅して光となり、わずか1個だけ残ったクォークは、陽子や中性子を作り、今の宇宙を作った。そのため、私たちの宇宙には反物質は存在しない、というのです。確かに、現在の宇宙で陽子や中性子などの物質粒子の数と光の粒子の数を比べると、物質粒子1個に対して、光粒子は10億個程度になっています。(297頁)

■そうすると、物質宇宙、反物質対称宇宙ができます。対称宇宙というものができるわけです。

しかしながら、このモデルにはとても大きな困難があります。物質でつくられた領域と反物質でつくられた領域が平等に存在している対称な宇宙は、時間がたつと消えてしまいます。これらの領域は、時間がたてば因果関係でつながりますから、物質の領域と反物質の領域がぶつかります。物質と反物質は合体して消えてしまい、光になってしまいます。再びバリオン数0の元の木阿弥の宇宙に返ってしまうのです。これでは、いけません。

そこで、宇宙がインフレーションを起こすと仮定します。こういう領域自身、それぞれインフレーションではきょだいに大きくなってしまうのですから、もはや、あとで消そうと思っても消せないほど巨大な宇宙になってしまいます。もちろん、このシナリオでいいますと、物質宇宙と反物質の境界ではいくらかγ(ガンマ)線が生まれているかもしれません。しかし、それは私たちが見ている宇宙から見ると、はるかかなたの遠いところで起こっていること――そういうふうになるのです。インフレーション宇宙理論によれば、物質と反物質が同時に存在している対称宇宙が、消滅せずに存在できることになります。(299~300頁)

■宇宙定数とは、第5章でみたように、アインシュタインが静的で有限な宇宙を生み出そうと重力場方程式に持ち込んだ宇宙項のことです。アインシュタイン自身は後にこれを放棄してしまったものの、ルメートル宇宙などにみられるように、初期の宇宙を考える場合、その存在は無視できないものでした。それが、場の量子論による真空の〝再発見〟によって、復活したのです。(312頁)

(2011年5月23日)

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『道元』 和辻哲郎著 河出文庫

■もとより自分(岡野注;和辻)は「解し得た」だけを自分の生活に実現し得たとは言わない。たとえば、自分は彼(岡野注;道元)が「衣糧に煩ふな」と言い、「須(すべから)く貧なるべし、財おほければ必ずその志しを失ふ」といった心持ちを解し得たと信ずる。これらは「1日の苦労は1日にて足れり。」「往きて汝の有(も)てる物をことごとく売りて、貧しき者に施せ。さらば財宝(たから)を天に得む。」「富めるものの神の国に入るはいかに難いかな」というごとき言葉とともに、唯一なる真理を体得した人の自由にして晴朗なる心境、その心境に映った哀れな人間の物欲を、叱責しつつ憐れみ嘆く心、の表現である。じぶんはその心を理解し、その心境に憧憬する。(15頁)

■人類の持った宗教が単一の形に現れずしてさまざまの「特殊な形」に現れるのは何ゆえであるか。またその特種の形に現われた宗教が「歴史」を持つのは何ゆえであるか。

宗教の真理はあらゆる特殊、あらゆる差別、あらゆる価値をしてあらしむるところの根源である。それは分別を事とする「世の智慧」によってはつかまれない。ただ一切分別の念を撥無(はつむ)した最も直接なる体験においてのみ感得せられる。人はその一切の智慧を放擲して嬰児のこころに帰ったときに、この栄光に充ちた無限の世界に摂取せられるのである。――自分はこのことを自証したとは言わない。しかし自分はそれを予感する。そうしてしばしば「知られざるある者」への祈りの瞬間に、最も近くこの世界に近づいたことを感ずる。しかもそれは、世の智慧を離脱し得ない自分にとっては、確固たる確信の根とはならないのである。自分がそれをつかもうとするとき、確かにそこには一切の「根源」がある。それは自分の生命でありまた宇宙の生命である。あらゆる自然と人生とを可能にするところの「1つ」の大いなる命である。それは永遠なる現在であり、この瞬間に直感せられ得るものである。が、かく理解せられたものは、祈りの瞬間に感ぜられるあの暖かい、いうべからざる権威と親しみとを持った「あのもの」ではない。自分の「あのもの」は、「アバ父よ、父には能はぬことなし」というごとき言葉に、「御意(みこころ)のままをなし給え」という言葉に、はるかに似つかわしい表現を得る。しかしこれらの言葉の投げかけられたあの神は、自分の神ではない。「あのもの」は畢意知らざるある者である。

自分はロゴスの思想に共鳴を感ずる。不断に創造する宇宙の生命の思想にも共鳴を感ずる。時にはかくのごとき全一の生がたとえば限りなく美しい木の芽となって力強く萌えいでてくる不思議さに我を忘れて見とれることもsる。しかしこの種の体験は自分の内に真理を植えてはくれない。自分の求めるのは「御意(みこころ)のままに」という言葉を全心の確信によって発言し得る心境である。「しられざるある者」が「知れれたる者」に化することである。自分は永い間それを求めた。しかし現代の「世の智慧」に煩わされた自分にとって、このことはきわめて困難なのである。(18~20頁)

■我々はこの種の果てしのない思慕と追究を人類の歴史の巨大なる意義として感ずる。いかに彼らが迷い苦しみ願望しつつ生きて行くか。いかに彼らがその有限の心に無限を宿そうとして努力するか。人は永遠を欲する!深い永遠を欲する!しかも欲する心は過ぎ行く心である。ある者はその心に無限なるものの光を湛(たた)えた。人々は歓喜してその光を浴びた。しかし――その光もまた有限の心に反射された光であった。人々はさらに新しい輝きを求めて薪を漁る。これら一切の光景が無限なるものの徐々たる展開でなければ、――神の国の徐々たる築造でなければ、総じて人類の生活に何の意義があるだろう。(26~27頁)

■栄西が死んだのは道元16歳の時である。道元は真実の道心のゆえに山門を辞して諸方を訪い、ついに栄西によって法器とされた。(32頁)

■栄西の死後道元は、建仁寺の明全に就いた。道元の言葉によれば、「全公は祖師西和尚の上足として、ひとり無上の仏法を正伝し」た人である。

後年の道元はこの明全についてもただその人格をのみ語っている。

(中略)

この時道元も末臘にあって言った。「仏法の悟りが今はこれでよいと思われるならば、お留まりになる方がよい。」明全は答えた。「さよう、仏法の修行はこれほどでよかろう。始終このようであれば、出離得道するだろうと思う。」道元は言った。「それならばお留まりなさるがよい。」そこで評議がおわって、明全は言った。「おのおのの評議、いずれも皆留まるべき道理のみである。が、自分の所存はそうでない。今留まったところで、死ぬにきまった人ならば死んで行くであろう。また自分が看病したところで、苦痛が止むはずはない。また自分が臨終の際にすすめたからといって、師が生死を離れられるわけでもない。ただ師の心を慰めるだけである。これは出離得道のためには一切無用だと思う。むしろ自分の求法の志しを妨げたために罪業の因縁となるかも知れない。たとい一人の人の迷情に背いても、多くの人の得道の因縁となるであろう。この功徳がもしすぐれているならば、師への報恩にもなるわけである。たとい渡海の間に死して目的が達せられなくとも、求法の志しをもって死ねば本望と言ってよい。玄奘三蔵の事蹟を考えてみよ。一人のために貴い時を空しく過ごすのは仏意にはかなうまい。だから今度の入宋の決意は翻すことができぬ。」かくて明全はついに宋に向かった。(33~35頁)

■ここに真理の探究と体現との純粋な情熱がある。ここから彼の真理の世界に対する異常な信仰が生まれた。後年の彼はいう、――仏法修行は、すなわち真理の探究と体現とは、ある目的のための手段ではない。真理のために真理を求め、真理のために真理を体現するのである。真理の世界の確立が畢竟の目的である。行者自身のために真理を求めてはならない。名利のために、幸福のために霊験を得んがために、真理を求めてはならない。衆生に対する慈悲は、自分のためでも他人のためでもなくして、真理それ自身の顕現なのである。従って慈悲の実行は、「身を仏制に任じ、」「仏法のためにつかはれて」なさしめらるる所、すなわちただそれ自身を目的とする真理の発動にほかならぬ。(随聞記1、5、学道用心集4)――この覚悟にとっては自らの修行は自らのためではない。自他を絶した大いなる価値の世界への奉仕である。このことを道元は明全の人格から学んだ。それは道元の生活にとって、一つの力強い進転であったと思われる。(36~37頁)

■道元の天童禅院追悼は、如淨の鍛錬の仕方をつぶさに語っている。――如淨は、夜は二更の三点まで座禅し、暁には四更の二点より起きて座禅する。弟子たちもこの長老とともに僧堂の内に座するのである。彼は一夜もこれをゆるがせにしたことがない。その間に衆僧は多く眠りに陥る。長老は巡り行いて、睡眠する僧をばあるいは拳をもって打ちあるいは履(くつ)をぬいで打つ。なお眠る時には昭堂に行いて鐘を打ち、行者を呼び、蠟燭をともしなどする。そうして卒時に普説して言う、「僧堂の内で眠って何になる。眠るくらいならなぜ出家して禅堂に入ったのだ。世間の民衆は労働に苦しんでる。何人も安楽に世を過ごしているのではない。その世間を逃れて禅堂に入り、居眠りをして何になる。生死事大、無常迅速といわれている。片時も油断はならない。それを居眠りするとは何たるたわけだ。だから真理の世界が衰えるのだ。」ある時近仕の侍者たちが長老に言った、「僧堂裡の衆僧、眠り疲れて、あるいは病にかかり退心も起こるかも知れぬ。これは坐禅の時間が長いからであろう。時間を短くしてはどうか。」長老はひどく怒って言った、「それはいけない。道心のないものは片時の間僧堂に居ても眠るだろう。道心あり修行の志あるものは、長ければ長いほど一層喜んで修行するはずだ。自分が若かった時ある長老が言った、以前は眠る僧をば拳が欠けるかと思うほどに打ったが、今は年とって力がなくなり、強くも打てぬ。だからいい僧が出て来ない、と。その通りだ。」(随聞記第2)

が、如淨の鍛錬は、坐禅が真理への道であることの確信に基づくのである。従ってかれの呵嘖は彼の慈悲であった。道元はこのことについて言っている。――淨和尚は僧堂において眠る僧を峻烈に呵嘖したが、しかし衆僧は打たれることを喜び、讃嘆したものである。ある時上堂のついでに淨和尚のいうには、「自分はもう年老いた。今は衆を辞し、菴に住して、老いを養っていたい。が、自分は衆の知識として、おのおのの迷いを破り、道を授けんがために、住時人となっている。そのために呵嘖し打擲する。自分はこの行を恐ろしく思う。しかしこれは仏に代わって衆を化する方式である。諸兄弟、慈悲をもってこの行を許してもらいたい。」これを聞いて衆僧は皆涙を流した。(同上第1)

この慈悲心とあの厳しい鍛錬と、それが道元の心に深く記された如淨の面目である。我々はここにも真理の世界を確立しようとする火のごとき情熱の具現者を見ることができる。この如淨の道が唯一の道であるか否かは別問題として、その力強い人格は嘆美に値する。道元はこの人格に打たれて、恐らく衆僧とともに泣いたのであろう。「これ人に逢ふなり」の詠嘆は、まさしくこの人格に対する嘆美の声なのである。(40~42頁)

■が、道元に力を与えたものは、右のごとき淨和尚の人格のみではない。淨和尚を中心とする天童禅院の雰囲気もまた彼に力強い影響を及ぼした。彼はいう、――大宋国の叢林には、末代といえども、学道の人千人万人を数える。その中には遠国の者も郷土の者もあるが、大抵は貧人である。しかし決して貧を憂えない。ただ悟道のいまだしきことをのみ憂え、あるいは楼上にあるいは閣下に、父母の喪中ででもあるかのごとくにして、坐禅をしている。自分が目のあたり見た事であるが、ある西川の僧は遠方よりの旅のために所持の物をことごとく使い果たして、ただ墨2、3丁のみを持っていた。彼はそれをもって下等な弱い唐紙を買い、それを衣服に作って着た。起居のたびごとに紙の破れる音がする。しかし彼は意としなかった。ある人が見かねて、郷里に帰り道具装束を整えてくるがいい、とすすめると、彼は答えていう、「郷里は遠方だ。途中に暇をかけて学道の時を失うのが惜しい。」こうして彼は寒さにも恐れず道を学んだ。こういう緊張した気分のゆえに、大国にはよき人が出るのである。(同上第6)同様にまた彼はいう、――大宋国によき僧として知られた人は皆貧窮人である。衣服も破れ、諸縁も乏しい。天童山の書記道如上座は官人宰相の子であったが、親類を離れ、世利を捨てたために、衣服のごときは目もあてられなかった。自分はある時如上座に問うて言った、「和尚は官人の子息、富貴の種族だ。どうして身のまわりの物が皆下品で貧窮なのか。」如上座は答えて言った、「僧となったからだ。」(同上第5)(42~43頁)

■坐禅は如淨の最も重んずるところであった。彼は如淨のもとに昼夜定坐して、極熱極寒をもいとわなかった。他の僧たちが病気を恐れてしばらく打坐をゆるがせにするのを見ると、彼は思った、「たとい発病して死ぬにしても、自分はこれを修しよう。修行しないでいて体を全うしたところで、それが何になる。また病を避けたつもりでも、死はいつ自分に迫るかわからない。ここで病んで死せば本意である。大宋国の善知識のもとで、修(しゅ)し死(じに)に死んで、よき僧に弔われるのは、結構なことだ。日本で死ねばこれほどの人には弔われまい。」かくして彼は昼夜端坐を続けた(同上第1)(44~45頁)

■もとより人は、この瞬間に導ききたる難行工夫について、詳しく語ることができる。またこの瞬間を経た後の、自己と宇宙とを一にする光明の世界についても、豊かな象徴的表現を与えることはできる。ただこの両者を結びつける身心脱落(しんじんとつらく)の瞬間のみは、自らの心身をもって直下(じきげ)に承当(じょうとう)するほかないのである。

が、我々は知っている、人を動かし人を悟らせるものは真理を具現した人格の力である。動かされて悟りにたどりつくものも同様に人格である。道元はいう、「仏祖は身心如一なるが故に、一句両句、皆仏祖の暖かなる身心なり。かの身心来たりてわが身心を道得す。」(正法眼蔵行持)その最奥の内容は説くべからずとするも、その内容を担える人格は、我々の前に明らかに提示せられている。我々はいかなる人格が道元を鍛錬したかを見た。また道元の人格がいかにしてこれらの人格に鍛錬せられたかを見た。ここに道元の修業時代は終わるのである。(45~46頁)

■絶対の境界――永遠なる最高の価値の顕現が究竟の目的であるならば、何ゆえに直ちに自余の価値を放擲しないのか。罪悪の根拠が畢竟滅尽せらるべきものであるならば、何ゆえに罪悪を離れようとしないか。たとい人は弱いものであるにしても、ある人々はそれをなし遂げたのである。我々のみがその道を踏み得ないわけはない。もとよりこの道は困難である。が、本来仏法そのものが釈迦の難行苦行によって得られたものではないか。本源すでにしかりとすれば流末において難行難解であることは当然であろう。古人大力量を有するものさえも、なお行じ難しと言った。その古人に比すれば今人は9牛の1毛にだも及ばない。今ひとがその小根薄織もってたとい力を励まして難行するとも、なお古人の易行には及ばないのである。その今人が易行をもってどうして深大な仏の真理を解し得るか。困難であるゆえをもって避け得られる道ならば、それは仏の真理ではない。(学道用心集第6)54~55頁)

■しかし彼は、生涯「帝者に親近せず、丞相(じょうしょう)と親厚ならざりし」天童如淨の弟子であった。彼の目ざすのは真理王国の建設であって、この世に勢力を得ることではなかった。彼は「仏法興隆のために」関東への下向を勧めたものに答えて言っている――否、自分は行かない。もし仏の真理を得ようとする志しがあるならば、山川紅海を渡っても、来たって学ぶがよい。資力を得、世間的になをなすために人を説くごときは、自分の最も苦痛とする所である。(随聞記第2)(57頁)

■彼はいう――世間の無常は思索の問題ではない。現実の事実である。朝(あした)に生まれたものが夕(ゆうべ)に死ぬ。昨日見た人が今日はない。我々自身も今夜重病にかかりあるいは盗賊に殺されるかもわからない。もし生命(いのち)が我々の有する唯一の価値であるならば、我々の存在は価値なきに等しい。(随聞記第2)(59頁)

■道元はいう――もし行者が、このことは悪事であるから人が仏法者と思うだろうと考えてある善行をする、というような場合には、それは世情である。しかしまた世人を顧慮しないことを見せるために、ほしいままに心に任せて悪事をすれば、それは単純に我執であり悪心である。行者はこの種の世情悪心を忘れて、ただ専心に仏法のために行ずべきである。。(同上第2)遁世とは世人の情を心にかけないことにほかならぬ。世間の人がいかに思おうとも、狂人と呼ぼうとも、ただ仏祖の行履に従って行ずれば、そこに仏弟子の道がある。(同上第3)仏道に入るには、わが心に善悪を分けて善しと思い悪しと思うことを捨て、己れが都合好悪を忘れ、善くとも悪くとも仏祖の言語行履に従うべきである。苦しくとも仏祖の行履であれば行わなくてはならない。行いたくても仏祖の行履になければ行ってはならない。かくして初めて新しい真理の世界が開けてくるのである。(同上第2)(62~63頁)

■この修行の態度は自力証入の意味を厳密に規定する。確かにここには「たまたま生を人身に受けた」現実の生活に対する力強い信頼がある。が、この信頼は吾我我執に対する信頼ではない。吾我、我執を払い去った時にのみ明らかにされる「仏への可能性」に対する信頼である。すなわち自己の内にあってしかも「自己のものでない力」に対する信頼である。従って我々は、自己を空しゅうして仏祖に乗り移られることを欲する。乗り移られた時に燦然として輝き出すものが本来自己の内にあった永遠の生であるとしても、とにかく我々は自力をもってそこに達するのではない。我々がなし得、またなさざるべからざることは、ただ自己を空しゅうして真理を要求することに過ぎない。すなわち修行の態度としては「自らの力」の信仰ではない。(64頁)

■死の恐怖に打ち勝ったものでなくては、すなわち10丈の竿のさきにのぼって手足を放って身心(しんじん)を放下するごとき覚悟がなくては、仏の真理へ身を投げかけたとは言えなかろう。かくのごとく前者は肉体のために弥陀にすがることを是認し、後者は真理のために肉体を放擲することを要求する。しかし前者は解脱をただ死後の生に置き、後者はこの生においてそれをじつげんしようとする。一は自己の救済に重心を置き、他は仏の真理の顕現に重心を置く。自己放擲という点ではむしろ後者のほうが徹底的であると言えよう。(66頁)

■懐奘を初めて首座に請じた夜、道元は衆に向かって言った、――当寺初めて首座を請じて今日秉払(ひんぼつ)を行なわせる。衆の少なきを憂うるなかれ。身の初心なるを顧みるなかれ。汾陽(ふんよう)はわずかに六七人、薬山(やくさん)は十衆(じっしゅ)に充たなかった。しかし彼らは皆仏祖の道を行じたゆえに、叢林盛んであると言った。見よ、竹の声に道を悟り、桃の花に心を明からむるものがある。竹に利鈍あり花に浅深があるのではないまたこの竹の響きを聞きこの花の色を見るものがすべて得梧するわけでもない。修行の功によって得悟の機に迫ったものが、これらを縁として悟るのである。学道の縁もそれに変わらない。真理はすべての人の内にある。しかしそれをつかむには衆を縁としなくてはならない。ゆえに衆人は心をひとつにして参究すべきである。練磨によって何人も器となる。非器なりと自ら卑下することなく、時を惜しんで切に学道に努めよ。云々。(随聞記第4)(70~71頁)

■彼は「自己の救済」を目的とせずして、「真理王国の建設」を目的とした。もとより自己は真理の王国において救われる。しかし救われんがために真理を獲ようとするのではない。真理の前には自己は無である。真理を体現した自己が尊いのではなく、自己に体現せられた真理が尊いのである。真理への修行はあくまでも真理それ自身のためでなくてはならぬ。(71頁)

■彼にとって仏法の修行は他のある物を得んがための手段ではなかった。「仏道に入り仏法のために諸事を行じて、代わりに所得あらんと思うべからず」。皆無所得!皆無所得!これ彼の言説を貫通して響く力強い主導音である。仏法は人生のためのものでない。人生が仏法のためのものである。仏法は国家のためのものでない。国家は仏法のためにあるのである。(72頁)

■この種の邪道を別にしても、真実信心と言われるものの多くは、福利を得んことを目ざしている。「わが身のために。」「己が悩みを救われがために。」「己が魂を救われんがために。」「永遠の安楽を得んがために。」これらはすべてなお我欲名利の心に根ざしたものである。有所得のこころである。魂の救い、永遠の幸福が究竟の目的であるならば、仏法は手段であって最高の価値ではない。真実の仏法修行はこの種のこころをも放擲しなくてはならぬ。「ただ身心(しんじん)を仏法に投げすてて、さらに悟道得法までをも望むことなく」修行しなければならぬ。(73頁)

■道元は仏法のために身心(しんじん)を放擲せよという。そうしてこの身心の放擲は、「汝の隣人に対する愛」にとってきわめて重大なる意味をもつものである。愛を阻む最大の力は道元のいわゆる「身心」に根ざした一切の利己心、我執にほかならない。自己の身心を守ろうとするすべての欲望を捨て、己を空しゅうして他と触れ合う喜びに身をまかせるとき、愛は自由に全人格の力をもって流れる。親鸞の絶望した人間の慈悲も、身心を放擲した人にはかのうとなるであろう。なぜなら前者において自ら否認する以外にいかんともすべからざるものであった宿業は、後者においては捨て得られるものだからである。他の苦しみを完全に救い得る力が自分にあるかどうかは、ここでは問題でない。ただ自分の内にあって隣人への愛を阻む一切の動機を捨て得るかどうか。ただ1つ愛の動機にのみなり得るかどうか。それによってのみ自己の問題として慈悲心は解決せられるのである。(83~84頁)

■ここにおいて親鸞の慈悲と道元の慈悲との対象が明らかになる。慈悲を目的とする親鸞の教えは、その目的を達するために、一時人間の愛から目をそむけて、ただ専心に仏を念ずることを力説し、真理を目的とする道元の教えは、その目的を達するために、人間の没我の愛を力説するのである。前者は仏の慈悲を説き、後者は人間の慈悲を説く。前者は慈悲のに重きを置き、後者は慈悲の心情に重きを置く。前者は無限に高められた慈母の愛であり、後者は鍛錬によって得られる求道者の愛である。(86~87頁)

■頼む人に一分の利益をも与える事ならば、自己の名聞(みょうもん)を捨てて頼まれてやるがいい。仏菩薩は人に請われれば身肉手足さえも截った。この道元の言葉に対して、懐奘は問うていう、――まことにそうである。しかし人の所帯を奪おうとする悪意のある場合とか、あるいは人を傷つける場合などにも、助力していいかどうか。道元は答える、――双方のいずれが正しいかは、自分の知ったことではない、ただ1通の状を乞われて与えるだけの話である。その際言うまでもなく正しい解決を望むと書くべきであって、自分が審くべきではないであろう。またたとい頼み手の方が正しくないと知っている場合でも、一往その望みをきいて、手紙には正しい解決への望みを披瀝しておけばよい。「一切に是ならば、かれもこれも遺恨あるべからざるなり。かくの如くのこと、人にたいめんをもし、出来(いできた)ることにつきて、よくよく思量すべきなり、所詮は事にふれて、名聞我執を捨つべきなり。」(随聞記第1)(91頁)

■道元はこの意味で僧の徳と俗の徳を明白に区別する。「孝順に在家出家の別あり。在家は孝経などの説を守って、生につかえ死につかふること、世人皆知れり、出家は恩をすてゝ無為に入る故に、恩を報ずること一人に限らず」というごときそれである。在家はただその「親」に孝順であればよい。しかし出家は万人に対してその親に対すると同じくふるまわなくてはならない。すなわち「孝」というごとき特殊の人に対する徳に拘泥してはならない。在家にとっては親のために自己を犠牲にすることは徳の中の徳である。しかし出家にとっては、親のためにその道心を捨てるというごときは、私情に迷ってその本分を傷(そこな)うことである。在家は利己心のために親を捨ててはならない。しかし出家は道心のために親を餓死せしめてもよい。(同上第2)(99頁)

■ある僧が道元に問うて言った――自分には老母があって、ひとり子である自分に扶持されている。母子の間の情愛もきわめて深い。だから自分は己を枉(ま)げて母の衣糧(えりょう)をかせいでいる。もし自分が遁世ち籠居すれば母はⅠ日も活きて行けないであろう。が、そのために自分は仏道に専心することができない。自分はどうすればいいのか。母を捨てて道に入るべきであるのか。道元は答えていう――それは難事である。他人のはからうべき事でない。自らよくよく思惟して、まことに仏道の志があるならば、どんなほうほうでもめぐらして毋儀を安堵させ、仏道に入るがよい。要求強きところには必ず方法が見いだされる。母儀の死ぬのを待って仏道に入ればすべてが円く行くように思えるが、しかしもし自分が先に死ねばどうなるか。老母は真理への努力を妨げたことになる。これに反して「もし今生(しょう)を捨てて仏道に入りたれば、老母はたとひ餓死すとも、1子をゆるして道に入らしめたる功徳、豈(あに)得道の良縁にあらざらんや。」(同上第3)(100~101頁)

■彼が「俗なほかくのごとし」として僧侶に訓える美徳は、すべて儒教の徳なのであるが、彼はそれを仏徒にもふさわしいと見るのである。そうしてこれら一切の美徳に共通な点は、それが我執や私欲を去るということである。「俗は天意に合(かな)はんと思ひ、衲子(のっす)は仏意に合はんと思ふ。」「身を忘れて道を存する。」畢竟これが――絶対者の意志に合うように「私」を去って行為することが、――あらゆる人間に共通な道徳の原理として道元の暗示するところである。(103~104頁)

■「衣糧に煩ふことなく」とは明日の準備をあらかじめしておくことではなくして、明日の食を全然念頭に置かないことでなくてはならぬ。もとよりこのことは、寺院に常住物(もつ)なく、乞食の儀もまた絶えて伝わらないわが国においては、特に困難であるかも知れない。しかしそれにもかかわらず仏徒はあらかじめ食を思うべきでない。絶食するに至って初めて方便をめぐらすべきである。「三国伝来の仏祖、一人も飢え死にし寒(こご)え死にしたる人ありときかず。」世間衣糧の資は「生得の命分」があって、求めても必ずしも得られない。求めずとも必ずしも得られぬのではない。道元自身は「一切一物を持たず、思ひあてがふこともなうして」10余年を過ぎた。わずかの命を生くるほどのことは、いかにと思い貯えずとも、天然としてあるのである。「天地これを授く。我れ走り求めざれども必ず有るなり。」ただ任運にして心を煩わすなかれ。たとい餓え死に寒え死にするにしても仏教に随って死ぬのはこれ永劫の歓びである。(随聞記第1、第3)(110頁)

■以上説くところの道元の思想は、すべて彼の根本の情熱――身心(しんじん)を放下して真理を体得すべき道への情熱に基づいている。(117頁)

■道元によれば、真理を修行体得しようとするものにとって、第1に重大なのは導師である。正しい師に面接し、「人を見る」のでなければ、求道者は永遠の理想を把捉することができない。第2に重大なのはこの師に従い、一切の縁を投げ捨て、寸陰を惜しんで精進弁道することである。師を疑い精進を欠くものは同じく真理を体得することができない。しかしかくのごとく迷蒙を断じて仏の真髄を体得した場合に、彼をして体得せしめた畢竟のものは、他の何人でもなくして彼の自己である。彼の人格の底よりいづる至誠信心である。「髄を得ること法を伝ふること、必定して至誠により信心による。」しからばこの至誠信心とは何であるか。それは外より与えられるものではない。が、また自分の心よりいづるものでもない。自ら欲し、自ら努めて至誠信心をつくり出すことはできぬ。「たゞまさに法を重くし身を軽くするなり。世をのがれ道をすみかとするなり。いさゝかも身を顧みること法よりも重きには法伝はれず、道得ることなし。」すなわち真理体得の究極の契機は、法を重くし身を軽くすることである。(119~120頁)

■この念仏宗の立場に立てば、弥陀仏の前での人の平等の上に、さらに価値の段階を持ち来たすごときことは、思いもよらない。弥陀の大いなる慈悲を思うとき、人間に保持する微小な価値が何の権威を持ち得よう。救われるために仏を念ずるか、否か、それのみが問題である。価値を作り出すための一切の努力は何の意味も持たない。高き価値を体現した人が自分の前にあるということも顧みるに足らず、得髄を礼拝するというごときことも不必要である。人はただ大いなる弥陀仏を念ずればよい。

しかし道元は別の道を歩いた。彼にとって「法と人との関係」は「弥陀と人との関係」のごときものではない。法は弥陀のごとき人格的存在者ではなくして、人間に保任せられるものである。人に憑くことによって、現われ働くものである。釈迦仏はその模範であるが、しかし唯一の仏ではない。あらゆる人は、釈迦仏に従って、自己において法を現しめねばならぬ。すなわち人の真正の任務は自己の活動によって法を実現することである。救いとは赤児が母のふところに抱き取らるるがごとく何物かに抱きとらるることではなくして、自己を仏にすることである。法を我々において具現することである。(127~128頁)

■ここに道元の思想の優れたる特徴がある。彼の「脱落身心(とつらくしんじん)」が何を意味するにもせよ、とにかく彼は、永遠の理想(法)を自己の全人格によって把捉せんとする人間の努力に、十分な意義を与えた。それによって此岸の生活が再び肯定せられる。絶えざる「精進」が人性の意義になる。精進を斥け文化の展開を無意義とした弥陀崇拝に対して、これは明らかに人類の文化への信頼の回復である。「礼拝得随」は文化の上昇を可能にする重大な契機と見ることができる。「法を重くし身を軽くすべし」という道元の標語は、かくして、「努めてやまざるものはついに救われる」という思想に接近する。それは生活を永遠の理想に奉仕させることである。人類の健やかな生活は、この精神に導かれることを措いてほかにないであろう。(130頁)

■道元のいわゆる「法」が、人類の文化の根源でありまた目標であるところの1つのものを、余蘊(ようん)なく意味しているか否かは別問題である。しかしその究極の意義に対する止み難い根本的要求――現世のいかなるものをもってしても結局満たし切られることのない心は、ここに欠くことができない。(130頁)

■彼が『正法眼蔵仏性』においてまず考察するのは、「一切衆生、悉有仏性、如来常住、無有変易」という涅槃経(巻25、師子吼菩薩品の1)の言葉である。「一切衆生、悉有仏性」は、通例、「一切衆生、悉(ことごと)く仏性有り」と読まれる。そうして涅槃経の文(巻25)から察すると、この仏性は「仏となる可能性」である。「一切衆生、未来の世にまさに菩提を得べし、これを仏性と名づく。」ある者はすべて菩提を成じ得る。一闡提(いっせんだい)(極悪人)も成仏し得る。それゆえに彼らに仏性があるのである。しからば「一切衆生悉有仏性」は「現在煩悩に捕われている一切の衆生にも、悉(ことごと)く、解脱して仏となる可能性がある」という意味でなくてはならない。しかし道元にとっては、涅槃経においてこの語がいかに解されるべきかは問題でなかった。彼はこの仏語を経から独立させ、直ちにその中を掘り下げて行く。彼はいう、「悉有は仏性なり。悉有の一分を衆生といふ。正当恁麽時(しょうとういんもじ)は、衆生の内外(ないげ)、すなはち仏性の悉有なり。」ここに道元は「「一切衆生、悉有仏性」を全然異なった意味に読んでいるのである。悉有は、「衆生に悉く仏性が有る」、あるいは「衆生が悉く仏性を有する」というごとく、衆生と仏性との関係を示す言葉としてではなく、独立に、「悉く有ること」、すなわち「普遍的実在」を意味すると解せられている。悉有すなわちAll-seinである。従ってそれは一切を包括する。衆生も仏もともに「悉有」の一部分に過ぎない。そうしてこの「悉有」が仏性なのである。だから悉有仏性はまた仏性の悉有(仏性の遍在)でなくてはならぬ。かくのごとく道元は悉有の語義を涅槃経の知らざる方向に深めた。もはやここでは衆生の内に可能性として仏性が存するというごとき考え方は成り立つことができぬ。逆に仏性のうちに衆生が存するのである。衆生の内(心)も外(肉体)もともに同じく悉有であり仏性であって、この仏性に対立する何物もない。(131~133頁)

■ここにおいて道元は、「悉有」の「有」を絶対的な有として、あらゆる相対的な有の上に置く。有無の有、始有、本有、妙有などは、限定せられた有として皆相対的である。しかし悉有は、「心境性相にかゝはらず」、ただ有である。因果性に縛られない。時間を超越し、差別を離れる。「尽界はすべて客塵なし、直下さらに第二人あらず。」すなわち、我に対する客体も、我に対する彼、汝もない。従って我が悉有を認識する、というごときことは全然不可能である。仏性を婆羅門の「我(アートマン)」のごとくに解するものは、仏性の覚知を説く点において、右の消息を知らない。彼らは「風火の動著する心意識」を仏性の覚知と誤認しているのである。仏性は悉有であって覚知を絶する。「まさにしるべし、悉有中に衆生快便難逢(かいびんなんふ)なり。悉有を会取することかくの如くなれば、悉有それ透体脱落(ちょうたいとつらく)なり。」(133~134頁)

■かくて道元は諸方実相の思想を徹底させる。「この山河大地みな仏性海なり。」山河大地はそのままにお「仏性海のかたち」なのである。山河を見るはすなはち仏性を見るのであり、仏性をみるとは驢馬の顋(あご)、馬の口を見ることである。ここに現象と本体との区別は全然撥無(はつむ)される。世俗諦(たい)(シナにおいてはこの語は自然的態度における真理の義に解された)と、勝義諦あるいは第1義諦との区別もない。有るものはただ仏性のみである。否、「有るものは」と言うこともできない。ただ「仏性」である。ただ「悉有」である。(137頁)

■驢馬の顋を見て仏性を見るのは、驢馬の顋を驢馬の顋とする世俗諦を超脱して第1義諦に立つゆえでない。また世俗諦すなわち第1義諦と言う実在論的な立場を取るがゆえでもない。認識をより高き立場の「行」において活かせ、行の権利によって認識するがゆえである。「悉有仏性と道取する力量がある」がゆえである。すなわち、悉有仏性と知って解脱(成仏)するのではなく、解脱して悉有仏性と知るのである。道元はこの点に仏法参学の正的を置き、「かくのごとく学せざれば仏法にあらざるべし」と言う。我々は道元の説く悉有仏性をかくのごとき真理体得の指標として解せねばならぬ。(138~139頁)

■すなわち、仏性の有無を問題とした言葉でなく、仏性が成仏の後に具足するという立場に立って、いまだ成仏せざるもののために仏性の真義を説いて無仏性と道破したのである。(142頁)

■仏性の意義はかくのごとく悉有あるいは無において現わされる。しかしそれは単に思惟されるべきものではなくして、大力量にやって体得され、住持さるべきものである。従って、いまだ成仏せざる立場にあって仏性を知ろうと思うならば、それを思索するのではなくして、それを住持せる「人」において見なくてはならぬ。(145頁)

■道元が、人における仏性の具現をいかに考えたかは、明白に現されている。彼が石頭草庵歌の欲識菴中不死人、豈離只今這皮袋〔菴中不死の人を識らんと欲すれば、あに只今のこの皮袋を離れんや〕を引いて、肉体の主人たる不生不滅者は、たとい誰の(釈迦や弥勒の)それであっても、決してこの皮袋(肉体)を離れることはない、と説いているのを見ても、仏性を最も具体的に、人格において現わるるものと見たことは確かである。そうしてここに我々は、彼の悉有と、差別界に住する我々の生活との、直接な接触点を見いだすのである。(147~148頁)

■悉有仏性あるいは無仏性の真理は、ただ解脱者にのみ開示せられる。逆に言えば、この真理の体得者はすなわち解脱者である。そうしてそこに達する道は、道元に従えば、ただ専心打坐のほかにない。単に思惟によっては、人はこの生きた真理を把捉する事ができぬ。もし我々が道元を信ずるならば、彼の宗教的真理は哲学的思索の埒外にあるものとして、思索によるその追究を断念せねばならぬ。しかし一切の哲学的思索が結局根柢的な直接認識を明らかにするにあるならば、我々はかかる直接認識が何であるかをこの場合においても思索することができよう。彼によれば仏性は人格に具現する。仏性を具現せる人は仏性と我々との間の仲介者である。我々は「人」を見ることによってその真理にふれ得る、また触れねばならぬ。彼の場合について言えば、悉有仏性あるいは無仏性の真理は、彼の人格を通じて我々に接触する。この真理を真理を体得した彼は、真理を真理のために追究する熱烈な学徒、生活の様式において教祖への盲目的服従を唱道する熱烈な信者、無私の愛を実行する透明な人格者、真理の王国を建設するために一切の自然的欲望を克服し得た力強い行者、として我々の前に現われる。我々はこの人格を通して彼の「悉有」の認識を思索せねばならぬ。その時にこの悉有の内的光景が幾分かは彷彿せられるであろう。思うにそれは、最も深き意味における「自由」である。彼の「身心脱落」の語も、恐らくこれを指示するのではなかろうか。(148~149頁)

■道元はこの種の汎神論的思弁を斥けていう。仏祖の保任する即心是仏は、外道の哲学のゆめにもみるところでない。ただ仏祖と仏祖とのみ即心是仏しきたり、究尽しきった聞著(もんじゃ)、行取(あんしゅ)、証著(しょうじゃ)がある。ここにいう「心」とは一心一切法、一切法一心である。宇宙の一切を一にしたる心である。かくのごとき心を識得するとき、人は天が墜落し地が破裂するごとくに感ずるであろう。あるいは大地さらにあつさ3寸をますごとくに感ずるであろう。かくのごとき打開によって人格的に享取せられたせられた心は、もはや昔の心ではない。山河大地が心である。日月星辰が心である。しかもその山河大地心はただ山河大地であって、波浪もなく風煙もない。日月星辰心はただ日月星辰であって、霧もなく霞もない。この極度に自由にして透明なる心、――自ら生くるほかには説明の方法のない心、――その心こそすなわち仏である。だから即心是仏は発心、修行、菩提、涅槃と離して考えることができない。一瞬間、発心修証するのも、また永劫にわたって発心修証するのも、ともに即心是仏である。長年の修行によって仏となるのを即心是仏でないと考えるごときは、いまだ即心是仏を見ないのである、正師にあわないのである。「釈迦牟尼仏、これ即心是仏なり。

かくのごとく悉有あるいは無の無がすなわち心であり、この絶対的な意識において山河大地がそのまま心でありまた山河大地であるという思想には、我々は1つの深い哲学的立場を見いだし得ると思う。(150~151頁)

■さらに一歩進んでこの道得は、それ自身独立の活動として規定される。修行者が他人に従って、あるいは「わがちからの能(岡野ルビ;はたらき?)」によって、道得を得るのではない。「かの道得のなかに、むかしも修行し証究す、いまも功歩し弁道(はんとう)す。仏祖の仏祖を功夫して仏祖の道徳を弁肯(はんけん)するとき、この道得おのづから3年8年30年40年の功夫となりて尽力道得するなり」(同上道得)。すなわち一切の修行は道得のなかに動くのである。道得が功夫として活動し、努力して道得するのである。道得自身の自己道得である。修行者(その修行が道得のなかにある意味においてすでに仏祖である)が数10年の修行は、道得がそれ自身を実現する過程にほかならない。ここに道得は、何人かが道い得る道得ではなくして、主客を抜き去れる道い得ること、すなわち道の能動的な活動として立てられる。ロゴスの自己展開である。(168頁)

■かく道得がイデーのごとき働きをするものとすれば、この道得の働きとして現われる功夫は、道得が内より産み出す開展の過程であるほかはない。「いまの功夫、すなはち道得と見督とに功夫せられてゆくなり」という言葉は、恐らくそう解すべきものであろう。達せられるべき道得を内に具えた1つの見解が、その道得に呼び出されて現われてくる。しかしそれはまだ道得ではない。従ってそこに疑団が生ずる。この見解と疑団との対立のために功夫が必要となるのである。ところでこの疑団もまた右の見解に内具する道得が呼び出したものであるゆえに、この功夫は道得と見得とに功夫さられると見られなくてはならぬ。かくて一切の功夫は、人が任意に取り上げるものでなく、道得自身の内より必然に開展しいづるものと解し得られるのである。そうしてそれは、1つの疑団が解けて新しい見解に達しても、その見解が道得でない限り決して止むことがない。新しい見解はさらに新しい疑団を産む。「道得と見得とに功夫せられてゆく」という言葉がこの事を含意すると見られるであろう。やがてついに、「この功夫の把定の月ふかく年おほくかさなりて、さらに従来の年月の功夫を脱落するなり。」脱落とは恐らくaufhebenに当たる言葉であろう。いまの道得はかの時の見得をそなえたるものであり、一切の功夫は今の道得の内に生かされる。脱落は滅却ではなくして、とり高き立場に生かせることである。ここに道得は、一切の見解一切の功夫をそれぞれその立場において殺し、より高き1つの立場において殺し、より高き1つの立場において全体的に生かせたものとして現われてくる。(161~163頁)

■道元は日本においてまだ禅宗の伝統の確立されない時にシナに渡った。真に禅宗の思潮に没入し得た日本人は、彼が最初であったと言ってよい。しかるに彼は、すでに67百年の伝統を有する末期のシナ禅宗の中に飛び込むとともに、敢然として、このただひとりなる如淨を正しとしたのである。すなわち彼は、禅宗の伝統よりも、如淨一人を択んだのである。彼の後にいかなる禅宗がシナ人によって日本へ導き入れられたにもせよ、とにかく最初に力強くそれをなしたこの日本人は、その禅宗に対する抗議者として「禅宗」なるものを否定しつつそれをなしたのであった。この点から見ても、禅宗の非論理的傾向に対する彼の反抗の思想が、当時のシナの流行思想をそのまま輸入したものでなかったことは明らかであろう。ここに我々は、彼の道得や葛藤の思想の特に重大視せらるべきゆえんを見るのである。(174頁)

(2011年6月17日)

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『セザンヌ』 アンリ・ペルショ著 みすず書房

■人を、その到達すべき目標にまで連れて行くことの出来るのは、ただ根本の力、即ち、気質だけである。セザンヌ「シャルル・カモワンへの手紙」1903年2月22日付(115頁)

■ブールギニョン・ド・ファーブルグールの蒐集(コレクション)の油画を見ながら、例えばモネが一心にしているようなあの戸外での制作という試みについて、考えずにはいられなかった。これら昔の巨匠の絵は、「自然が与える真の、特に独自の様相」に欠けている。そのことは疑い得ない。そうだ。事は明白だ。アトリエの絵は、決して戸外の絵には及ばないであろう。「外の光景を描き現わす時、大地の上のそれぞれの物の姿の対照は実に驚くべきものがあり、また風景は素晴らしい。すべてのものが素晴らしいものに見える……」とセザンヌは思う。(147頁)

■ギュメはかってコローの弟子だったので、彼はしばしばセザンヌに、この偉大な風景画家のことを話した。しかしセザンヌは、ほとんどコローをアングル以上には評価してはいなかった。「君のコロー先生は、ちょっと気質(タンペランマント)に欠けているとは思わないかい?」と彼に言ったかと思うと、突然、断乎とした調子で、自分のヴァラブレーグの肖像について語り出し、「鼻の先の光った点、それは純粋の朱(ヴエルミオン)だ!」と叫ぶのだった。(148頁)

■愛国心は、パティニョールの全ての画家を、このような同じ情熱で燃え立たせたわけではなかった。セザンヌがエスタックにいたように、モネもまたロンドンに逃避し、そこで、ドービニィやピサロに遭った。また彼は、ロンドン滞在中に、新しい絵画に興味を持っているデュラン・リュエルという画商とも知り合った。(180頁)

■数カ月前から、オルタンスはみごもっていた。彼は絆でしばられた。しばられたのだ!だが彼は本当にそれを欲していたのだろうか?彼は本当にこの夫婦生活を望んでいたのだろうか?殆んどそれと知らぬ間に、事物はひとりでに結ばれて行くのだ。「人生は恐ろしい!」(181頁)

■セザンヌは、このポントワーズで、最良の雰囲気に恵まれた。ピサロは、すでに40歳を過ぎ、セザンヌに対して、真に、先輩の役目を果たしてくれた。(セザンヌは、この時33歳であった。)しかも、彼は、まことに親切で、優しい心遣いに満ちた先輩であった。ピサロは、実に驚く程よくセザンヌの性格を呑み込み、実に見事に、彼らの仲を、スムースにする術を知っていた。しかも彼は、ほとんど、そのために努力する必要もなかった。彼の生まれながらの謙虚さと気だてのよさだけで、このエクスの人間の気難しい疑い深さを解くのに充分であった。セザンヌは、エルミタ-ジュ街のピサロの簡素な家に行く度に、心の安まる思いがした。そこには、控え目で、しかも、夫に劣らず親切なピサロ夫人が、せっせと立ち働いていた。(185頁)

■ピサロは、セザンヌ二、風景の前に身をおいて、彼が見るものを、ただ極く素直に、極く平凡に述べるよう、網膜に受ける印象をどんな風にであれ理解しようなどとはせずに、ただ素直に翻訳するようにと忠告した、すなわち、「自己」から逃れ、ただ、外的実在の、注意深く、細心綿密な観察者でのみあるようにと、勧めるのである。セザンヌは、ピサロの言うことに耳を傾け、この方法の卓越さを認め、それに従った。(186頁)

■また、彼らは、新しい一派を立てようとしているのだと見られるのを甚だしく怖れるあまり、ルノワールなどは、ドガがこのグループに提案した「ラ・カピュシーヌ」というおとなしい呼び名さえ、はねつけるにいたった。そして、出品者はただ、「画家、彫刻家、版画家、等協同組合」という、全然無色な名前で、公衆の前に姿をあらわすことになった。

遂に、計画は、少しずつはっきりして来た。「カプシーヌ」という名を、ドガが思いついたのは、写真家のナダルが、カプシーヌ大通り35番地の、ドヌー通りとの角にある大きな店を使っていたが、そこから移転することになって「組合」にこの店を貸すことに同意したからだった。(198~199頁)

■事実、展覧会が開かれるや否や、最もはげしい敵意、嘲笑と非難の爆発の口火が切られた。観客の群がナダルの店を一ぱいにし、壁にかけられた作品の前で、あるいは威嚇し、あるいは哄笑しながら、押し合いへし合いした。ドガの期待していたところとは反対に、公衆は、かなり普通の手法で描かれた絵は、ほとんど決まったように無視して、「非妥協派」の作品の前でのみたちどまった。(199~200頁)

■1870年来、父の代わって、エクスの美術館とデッサン学校の指導にあたっていたオノレ・ジベールが、ある日セザンヌに、アトリエに伺いたいと申し込んで来た。ジベールは、「印象主義者」についての記事を読んで、「絵画の危機が、どの辺りまですすんでいるかを、自分の目で見」たいと思ったのであろう。セザンヌは、とても上機嫌だったので、すぐにこの申出に応じたが、ジベールにあらかじめ、皮肉たっぷりに、こう告げておきはした。私の「作品」を調べても「病毒の進行」を正しく判断するわけには行かないでしょう。そうするためには「パリの大犯罪者たちの絵を見る」ことが必要でしょう、と。(207頁)

■彼はピサロに説明している。「ここはまるでトランプのカードのようです。青い海の上の赤い屋根……太陽は極めて強烈で、そのため私には、事物のシルエットは単に白あるいは黒ではなく、青、赤、褐色、菫色に浮き出ると思われるほどです。私はまちがっているかもしれませんが、これはかたどり(モドレ)の正反対だと私には思われます。」(220頁)

■彼らは次第に光のために一切を犠牲にするようになった。彼らは空間の表現――ルネッサンス以来これまでのすべての絵画の本質的な関心事であり、遠近法と明暗法がその特徴的な方法であった空間の表現を、多かれ少なかれ放棄した。同様に彼らは物のヴォリュームと素材の現実そのものを表現することを多かれ少なかれ放棄した。ところが、セザンヌはこれを認めることができなかった。自然のさまざまな要素のうちの或るものを、ただ1つの要素のためにないがしろにすることを、彼は認めることができなかった。(230頁)

■彼が画家として捉えたいのは現実であり――なに1つ棄てることなくその全体を彼は捉えたいのである。光の印象主義的分析は彼に多くのことを教えてくれたが、彼はそれを超えて、現実のもののさまざまの要素が同じ1つの全体として融合しているような綜合、光の投射をも綿の空間的配置や物の形やその物質性をも考慮にいれるような綜合をめざすのである。(230頁)

■且つまた、知性にもその言い分がある。詩人のようなよろこびをもって、印象主義者たちは、自然から与えられる感覚を、新鮮な姿でそのまま記録することで満足している。ところがセザンヌは、なんの努力もせず、単に感覚の所与を迎えるだけ、というようなことは一層認めることができない。「芸術家は小鳥が歌うように自分の感動を記録するのではない、彼は構成するのだ」と彼は言う。セザンヌが求めている統一は、厳密さと意志によってのみ、知的禁欲によってのみ得られるのだ。感覚は高められて様式に変らなければならない。絵の目的は単に世界をその表面的過渡的な姿で映すことだけではあり得ない。それはまた世界の内的構造をあらわれさせ、物の表面の混乱からその隠れた秩序をひきださなければならない。(230~231頁)

■アトリエで、彼は静物を描き、自画像を描く。が、同時に彼は、水浴の男たち及び女たちを描くことによって、構成的画面を――古典的芸術のあの成果を試みる。彼は人体の形を見出すために以前のクロッキーを用い、モデルは使わずに仕事をした。というのは、モデルはどうしても駄目!彼にはとうていモデルを頼みに行けない。ある日、彼は専門のモデルに来てもらった。しかし、その女が衣服を脱ぎ、裸になって自分の前に立つのを見た時、彼は狼狽した。「先生は慄えていらっしゃるようですわ……」とそのモデルはやさしく彼に言った。この言葉もほとんど彼を落着かせるのに役立たなかった。は絵筆をもつことができず、モデルを帰さざるを得なかった。「人生は怖ろしい!」(247~248頁)

■1885年、春、ジャ・ド・ブーファンの邸には、ファニィという女中がいた。

健康でみずみずしく、頑丈で陽気で大胆な逞しい娘であった。どんな重い荷物にもびくともしなかった。「ジャの女中がどんなに美しいか、まあ1度見て下さい。まるで男の子のようです」とセザンヌは誰かに言ったことがある。(276頁)

■セザンヌは、もう自分で自分のしていることが解らない。アトリエの中でデッサンの1つを取り上げ、その裏にファニィへの下書きを始めた。

「貴女を見、貴女が私に接吻を許してくれたその時から、僕の心はひどく乱れて、止みそうにもありません。不安に悩まされている1人の友(注1)が、貴女に手紙を差し上げるときをどうかお許し下さい。貴女がこれをどう思われるか僕には解りません。多分大へん失礼だと思われるでしょうが、僕を締めつけるこの重苦しさの下に、これ以上我慢していられるでしょうか。この気持を隠しているよりも、いっそ、言ってしまう方がいいのではないでしょうか。お前の苦痛をなしているものをどうして黙っているのだ?と僕は自分に言いました。言ってしまえば苦悶も少し軽くなるのではないだろうか?肉体的な苦痛は、呻いたり、叫んだりしてそれを訴えることによって、少しは楽になるようですから、心の悲しみもまた、愛する人に告白することによって、安らぎを見出そうとするのは当然のことではないでしょうか?……勿論、向こう見ずに尚早に、今こんな手紙を出すことは、不謹慎であることも、充分承知してはいるのですが、でもこの手紙は、ただ貴女への誠意の……(注2)」

(注1)おそらく「1人の友」ではなく、「1個の魂」と解読するべきであろう。

(注2)この手紙の下書きのつづきは発見されていない。(277頁)

■オルタンスは、セザンヌと自分との間には、1人の子供と、、16年共に暮らした惨めな日々の生活以外には、何の絆もないことを、誰よりもよく知っていたので、彼女の安全を脅かされることを厳しく拒んだ。彼女はいつの間にか、彼女を軽蔑しているマリーと組になった。内縁関係、私生児、そして絵を描く事、これだけでもセザンヌは既に途方もないことを沢山しているではないか。その上にまたこの下女とのこの不名誉な恋愛をめぐるばかばかしいスキャンダル。そんなことが、あってよいものか。彼は早くオルタンスと結婚すべきだ。それは早ければ早い程よい、と彼女達は考えた。(278頁)

■マリ(岡野注;セザンヌの妹)は、先ずこの美しい女中に大急ぎで暇を出したらしい(注1)。

(注1)多くの点でこのアヴァンチュールはまだ不明なところが多い。(278頁)

■彼は、ファニィへの愛に絶望的に縋りつき、どうしても放すまいとし、マリとオルタンスに挟まれてじたばたし、追い込められたもののごとくに感じて、気も狂わんばかりであった。恐怖に襲われ、彼はついに、最後の手段に訴えることを決心する。攻撃を避けて逃げ出すのである。6月半ば、パリ地方へ到着、ラ・ローシュ・ド・ギュイョンのルノワールのもとへ避難した。

こうして彼は妹とはなれることには成功したが、オルタンスが、小さなポールを連れて、彼に従いてくるのを妨げることは出来なかった独立独行のオルタンスは、いつものように、彼が好きなところへ行くのに委せた。彼女はセザンヌの長い留守のも、また緩んだ夫婦の絆にも慣れて平気でいた。だが今は、自分はその子の父から少しでも離れてはいけない。セザンヌが非常に愛しているこの子供だけが、結局は彼女の最も確かなチャンスではなかろうか。(279頁)

■エミール君  1886年4月4日 ガルダンヌにて

君が送って下さった「制作」只今受け取りました。僕は、ルーゴン・マカール叢書の作者に、この楽しい思い出の記録を感謝し、昔の日々を想いつつ彼に握手します。

流れ去った時の感動をもって    敬具

ポール・セザンヌ(293頁)

■その後3週間たった4月28日、セザンヌはエクスの役場にオルタンスとの結婚を届けた。式はほんの形式に過ぎず、列席者には食事を出すだけにとどめた。(294頁)

■またゴーガンは(彼は3年前にそれまでの富裕な生活と縁を切り、証券取引所を去って、勇敢にも画家という不安定な職業に身を投じたのであった。)セザンヌの作品が近き将来、或いは遠き将来に於て必ず非凡にして最も重要なる地位を占めるであろうということを、ますます確信するにいたった。

彼は非常な貧困にもかかわらず、セザンヌの作品をお金にかえたがっている妻がそのいくつかを売ることには、断乎として反対した。前の年の11月、彼は彼の持っているセザンヌの作品のうちの2点について妻に手紙を書き、「この2点のには特に愛着をもっている。彼はこれほど完成された絵は、少ししかつくらなかったからだ。いつかそれらは非常に高い値になるだろう」と彼は予言した。(298頁)

■タンギー爺さんが、その夏にセザンヌをファン・ゴッホと共に夕食に招待したことがあった。この情熱家のオランダ人は、言うことも為すことも熱狂的であり、彼は、たえまなく動揺する彼の心情のぎりぎりの極致を、絵画の中に客体化しようとしていたが、このゴッホも、セザンヌに1つの大きな驚きをひきおこしただけだった。然しながら彼らにはその情熱において何と多くの共通なものがあったことか。何よりも、彼らは2人とも、ドラクロワを熱烈に愛していた。然しこの2人の人間は非常に違っていた。ファン・ゴッホの冒険に富む生涯は、セザンヌのあの辛抱強く瞑想を続ける労苦とは、全くかけ離れていた。だから、このオランダ人を理解し、彼の言動やその絵、或いは何事につけ彼が示す情熱的な興奮を見て、少々気を悪くしないでいることは、セザンヌにとって、非常に難しかっただろうと推察される。激しい調子で表現された絵をゴッホに見せられて、彼はそれらを好きにはなれなかった。彼の非難の気持が思わず叫んだ。「率直に言いますが、あなたは、気狂いじみた絵を描いておられる。」(299~300頁)

■彼にとって、教会は1つの隠れ家となった。「私はあと4日間はまだこの地上にいるような気がする。それから?その後も私は、生きつづけると思う。だから私は、永遠の中で身を焼かれるような危ない真似はしたくない」と彼は言うのだった。彼は地獄に堕ちたもののように誓いをし、司祭達には心を許さず、宗教を尊敬はしたが、その尊敬には、疑惑と皮肉が混っていた。然し彼は、告白をし、聖体を拝受し、礼拝式に臨んでは、心鎮まり或る安らぎを見出しさえするのであった。(306頁)

■タンギー爺さんのコレクションの競売が7月2日、土曜日、オテル・ドルーオで行なわれた。タンギー婆さんは、夫の忠告に従って、彼らの唯一の財産である絵を、とうとうお金にかえることに決心したのであった。ああ、だが気の毒にも、この競売は、オクターヴ・ミルボーという作家によって企画されたにも拘らず、予定の売上げを得ることはできなかった。

ただモネの1点の作品にだけ、かなり高価な値がつけられた。3000フランの買手があった。それに引き換えセザンヌの作品は6点全部で合計たった902フランにしかならなかった。1点の値段は、95フランから215フランの間であった。然し、その他の多くの作品にも、セザンヌ以上の値がつけられたわけではなかった。たとえば、ピサロの作品は全部で400フランを少し上まわったが、ゴーガンの作品6点は、平均おのおの100フラン程度、6点のギョーマンは、それぞれ80フランから160フラン、そして人々はスーラーの得を50フランでせり落し、ファン・ゴッホの1枚の絵を30フランで落した。然し、何とか言っても、売上げは全部で14621フランに達した。要するに、これはかなりの額であり、とりわけタンギー家のように一生貧しい暮しをしてきたものにとっては、大したお金ではあった。

競売の価格査定員は、値が殆んどせり上げられなかったにもかかわらず、買い手の一人が示した「勇気」を、ほめたたえた。この買手こそ、他ならぬ若いアンブロワーズ・ヴォラールで、今セザンヌの6点絵のうち5点迄彼が落札したのであった。然し彼は今、全部を買い取るには、少々お金が足りないものだから、この価格査定員の讃辞に少し当惑しながら、植民地のズーズー弁で、「お金はちょっと待ってくれ」と頼まねばならなかった。(328頁)

■クロード・モネは、8年ばかり前から、セーヌ河とエプト河が合流するヴェルノンの傍のジヴェルニー村に住んでいた。セザンヌはその秋、このモネの許に行った。相変わらずやさしい心遣いにみちたモネの友情、彼の親切さは、セザンヌの身にしみた。その上、セザンヌはこの芸術家を、高く評価していた。「空は青い、確かに。だけどそれをそう見たのはモネだ……。モネは1つの目に過ぎない。ああ、だがそれは何と素晴らしい目だろう!」(329頁)

■ジェフロアが、本棚に背を向けて、机に向い、安楽椅子にかけているところを描こうというのだ。テーブルの上には、数枚の紙片があり、1冊の本が開かれており、ロダンの小さな石膏と、花瓶に生けられた1輪の花とがあった。セザンヌがこの絵を描き終えない限り、誰もこれらの物をなに1つ動かすことは許されないのである。更に、彼は、ジェフロアが毎朝いつものポーズをしやすいように、椅子の足を置くべき場所を、床にチョークで印しをつけた。バラの花はと言えば、それは紙の造花を使った。彼の仕事が余りにも遅いので、彼は生きた花を使うことができない「そいつ」はあんまり早くしなびすぎる、と彼は言った。(333頁)

■セザンヌがいくら「芸術のはかない追究」と言っても、やはり彼は描かねばならぬということ――そして最後の息をひきとるまで、描き続けるであろうということ――を彼自身がよく知っている。朝の5時から彼はカンヴァスを据え、夕暮れまで描き続ける。休むことなく、他の何事も、自分の病気のことも、妻のオルタンスのことも、既に失われた56年の月日のことも何一つ考えずに。「世界は一瞬ごとに移って行く、その一瞬を現実のままに描くこと。そしてその為には全てを忘れること」と彼は言う。ただ描く。彼の詩的感激(リリシズム)は膨らみ、宇宙的な激情の沸騰となって爆発する。「私は自然の中に自らを失い、自然そのものとして自然と共に蘇りたい」と彼は言う。(337~338頁)

■(岡野注;ヴォラール画廊の展覧会で)モネは、この不運な旧き仲間に敬意を表したいという気持から、早速その3枚を買い取った。ドガもまた一点か2点買った。ピサロもまた作品の交換を申し出、目を輝かせて言った。「1861年に、私はオレルと一緒にアトリエ・スイスでこのプロヴァンスの変った人に遭ったのですが、あの時私は正しく見ていたでしょうか。あのアトリエでセザンヌは、その学校の無能な連中の物笑いの種にされながら、幾枚かの裸体画の習作をしていました。その連中の中にはあの有名なジャッケもいましたが、彼はずっと前から小ぎれいな絵ばかりを描き、その絵は高い値で売れていたのです。」(346頁)

■――私は無垢なる世界を呼吸する。さまざまな色調に対する鋭い感覚が私に働きかける。自らが無限のあらゆる色調で彩られているのを感ずる。私はもう絵と一体でしかない。我々の存在は虹色に輝く渾沌(カオス)である。私は己のモチーフに立ち向い、やがてその中に自分を失う。私は、夢見、夢の中を彷徨う。太陽がひそかに私の中に滲み通る。まるで遠くにいる友のように。そしてそれは私の沈滞を熱して豊かな創造力に変えるのだ。吾々は芽を出すのだ。セザンヌ(352頁)

■彼は一体何を考えているのだろう?その時、突然、群衆をかき分けて、一人の若者が彼に近づいて来て、おそるおそる呟くように、「芸術の友の会」に出品された彼の作品に、自分がどれ程感心しているかを伝えた。セザンヌにとって、この意想外な出来事があまりにも出し抜けにやって来たので、彼は真赤になり、口籠り、身を起し「恐ろしい目つき」でその若者を見据えた。そして目の前の小さな丸テーブルを拳骨でどんと叩くと、「君、人を馬鹿にしないでくれ、ええ?」と怒鳴りつけた。お蔭でテーブルの上にあったコップや瓶はひっくり返った。彼は、へたへたと坐り込むと涙が目に溢れて来た。そして目の前にいる若者が、友人のパン屋の息子、ジョアシャンであることを知った。

「アンリ、頼むから冗談は止してくれ。ねえ、君、本当かい?君の息子が僕の絵を好きだというのは?」「本当もくそも、お近づきになれないと、あいつは病気になっちまうぜ」と親爺のパン屋は答えた。するとセザンヌは、くるりとジョアシャンの方を向き、震える声で、「まあ、そこへ掛けてくれ給え、君は若い。君はまだ何も知らない。私はもう絵は描きたくないのだ。もうすっかり止めてしまったよ……。まあ、ちょっと聞いて下さい。私は不幸者だ。私に腹を立てないでください。しかし、私の写しを作った人達でさえ、ちっとも解ってくれなかったのに、たった2枚の私の作品を見た君が、私の絵をそれ程信じてくれようとは、とても信じられなかったのです。ああ、あいつらが、よってたかって私を痛めつけたんだ……君の目に止まったのは、特にあの『サント・ヴィクトワール山』の方ですか。あの絵が気に入ったのだね?……明日、あの絵は君の家にとどけましょう。署名してあげます……」(355頁)

■その後、1週間の間、セザンヌとジョアシャン・ガスケとは、殆んど毎日のように逢った。彼らはエクスの田舎を果てしなく歩き廻った。この若き詩人との出遇い、、この紛れもなく心から示される熱い賞讃、そして今や熱烈な汎神論的崇拝にまでもなっているこの燃えるような生命力に触れて、は己の中に何物かが再び蘇えるのを感じた。彼は今までになかったような調子で話した。彼はだんだん昂奮し、絵において何を成就しようと努力したかを説明し、描きたいと思う国のことを夢中になって喋り出した。「偉大なる古典の国々、僕達のプロヴァンス、ギリシャ、イタリアは、僕が想像するところでは、光が霊化され、風景が鋭い知性の漂う微笑となる国だ……。あのサント・ヴィクトワール山を見給え。何という躍動、何という止むに止まれぬ太陽への渇望、そして夕べのあのメランコリー、その時、山の全ての重みがまた落ちかかるのだ!これらの岩塊はむかし火だった。そして今もなおあの中には火がある。影と光は震えつつ退き、あの山を恐れているように見えるだろう。あの高みにはプラトンの洞窟がある。よくご覧、大きな雲が通る時、そこから降りてくる影は、まるで今にも焼かれて、火炎の口に呑み込まれようとしているかのように、あの岩の上で身震いしているのが見えるだろう。私は長い間、何も出来ず、このサント・ヴィクトワール山をどうして描いてよいか解らなかった。それが私が、よく見ない人々と同じように影は凹面だと思い込んでいたからだ。だがほら、よく見給え、あれは凸面だ。影は自らの中心から速かに逃げ去るのだ。面も影は堆積するのではなく、気化し、或いは液化するのだ。そしてすっかり青味を帯びたその影は、周囲の空気の呼吸に参加するのだ。ほら、あそこ、あの右手の『王の杵(ピロン・デュ・ロワ)』の上では、反対に光が緩かに揺れながら濡れてきらきら光っているのが見えるだろう。それは海なのだ。あれを描かなくてはならない。」(356~357頁)

■ある日の夕方、例の詩人(ガスケの息子のこと)と2人で、いつもの長歩きから帰ってくると、彼は今まで一度も話したことも、考えたことさえもなかったようなことをしゃべり出し、突然、「現在生きている本当の画家はただの一人しかいない。それは私だ!」と断言した。

何という宣言だろう!セザンヌはそう言ったとたん、拳を握りしめ、沈黙し、身を痙攣させた。その様子はまるで、「地震か雷か何かが突然彼を襲った」かのようであった。そして彼は慌ててガスケのもとを去り、逃げ帰った、その翌日は、Ⅰ日ジャ・ド・ブーファンの邸の中にうずくまり、訪ねて来たガスケにも逢うことを断った。それから数日を経た4月15日、――それまで、毎日ガスケはジャの邸の格子の門までやって来たが無駄だった――この私人は郵便物の中にセザンヌからの手紙を見付けた。

親愛なるガスケ君

私は明日、パリへ発ちます。

心をこめて御挨拶まで 頓首

ところが、その2週間後、ガスケは、ミラボー大通りの下手で、モチーフから帰って来るセザンヌを見付けてどんなに驚いたことだろう。急いで彼の方に馳けよろうとしたが、セザンヌの様子にまたびっくりして足を止めた。画家は、「打ちしおれ、沈み込み、まるで落雷でも受けたかのように」歩いていたからだった。自分迄苦しくなる程、深く心を動かされたガスケは、おじぎするだけにとどめたが、画家の方は彼にも気づかず行ってしまったように思われた。だがその翌日、ガスケは次のような手紙を受け取った。(358頁)

■アンブロワーズ・ヴォラールは、この冬の展覧会の成果のまことに満足の色を示していた。彼の誤算でなければ、このエクスの画家と組めば、彼が「見付け出して」期待をかけているもう一人の画家、スペイン人のイチュリノの場合と同様勝目がある筈である。だがそれには先ず商品が必要だ。そこでヴォラールは商売に抜け目のないセザンヌの息子と親しくなっていたのを幸い、早速調査をすすめ、ついに自らエクスに赴くことを決心した。

人々の言うところによれば、セザンヌは誰にでも自分の作品を差し出し、ほとんど到る処に作品を打ち捨てておくとのことである。――ルノワールさえ、エスタックの丘に投げ出されている「浴女達」の水彩画を発見したというではないか!――だから要するに「エクスに行って身を屈めさえすれば、セザンヌの作品を拾い集め」、商品のストックを仕入れることが出来る、とヴォラールは考えたのであった。彼は早速出発した。セザンヌの妻と息子とは、彼に数日先立って、プロヴァンスに行っていた。(361~362頁)

■というのもこの町の他のところでは、到る処で彼は狂人とみなされ、ヴォラール画廊での展覧会以後は、悪口と羨望の的となっていたからである。エクスにはサロンにも入選し、規則通りに仕事をしている「立派な」画家が沢山いるのに、セザンヌだけが、パリで成功を得たというので、人々は彼を許さない。そしてまた彼があの父の息子であるというので彼を許さない。(368頁)

■彼はしゃべり出し、独りで興奮している。――「絵描きというものは、解るかね、巴旦杏の木がその花を作り、かたつむりがそのからを作るように、自分の絵を作らねばならないのだ……」と彼は宣言し、そして突然、夢想に耽り、やがて、握ったこぶしの上の「光から影への移り変わりの有様」を見守った。(369頁)

■若いセザンヌ(岡野注;息子)は、人々が父の作品を求め始めたのを見て、ヴォラールと共同して買い手を見つけ出すのに努めた。大いに喜んだセザンヌは、売上げから1割の手数料を彼に支払った。息子とヴォラールのお蔭で、彼は今にきっと、自分の絵筆で年に6千フランぐらい儲けられるようになるだろう。この息子は父に、裸婦の絵をもっと描くようにとすすめるのであった。裸婦の絵を描けば「もっとずっとお金になりますよ」と息子は父に請け合った。(374頁)

■また1892年、オノレ・ジベールの後を継いで、デッサン学校の校長兼美術館管理人となったアンリ・モデスト・ポンティエは、自分が生きている限り、セザンヌのどんな作品によってもエクスの美術館が汚されるようなことはさせない、と言い、更に、1877年のサロンで注目されて名声を打ち立て、今ではエクス美術館の名誉ともなっている彼自身の彫刻、『ジュノンを愛して拷問にかけられたラビットの王、イクション』とならべてセザンヌの作品をおくなどはもってのほかだと声高く宣言するのであった。(375頁)

■この画商は、初めてのポーズをしに、エジェジップ・モロー街にやって来た時、アトリエの真中にセザンヌがわざわざポーズの為に用意した踏み台のようなものを見て、少なからず驚いた。箱の上に、椅子が置いてあるのだが、その箱がまた「4本の貧弱な支柱」の上に載っているのだ。ヴォラールは不安気にみえた。セザンヌは彼をなだめて言った、「ヴォラール君、君が平均を失いさえしなければ、決して落ちる危険はないよ。それに、ポーズを取るのは、動く為ではないからね、」と。そして仕事が始まった。人が一旦セザンヌのモデルになると、彼はその者を、もう「りんごと同じ」にみなされるということを、ヴォラールは全然知らなかった。この度は、ヴォラールは決して彼の居眠りの喜劇を演じる必要はないのだが、厳密な不動の姿勢を強いられて、彼は間もなく本物の眠りに落ち込んでしまった。彼は突然、椅子と箱と4本足の台と共に転落した。「畜生、君はポーズを狂わしてしまった!」とセザンヌは叫んだ。ヴォラールは、これからは、ブラックコーヒーを飲んで居眠りをしないように気をつけることを承知した。(377頁)

■更に5月、アマン・ドリア侯爵の死後の競売で「フォンテーヌブローの森の雪どけ」という絵が、6千7百50フランという殆んど信じられない値に達した。これを見て唖然として湧き立った群衆は、いんちきだと叫び、買手の名を知らせるようにと要求した。するとその時、会場の中から1人の鬚もじゃの肥った男がしっかりと足をふんばって立ち上がり、「買手は私だ。クロード・モネだ!」と騒ぎ立てる群衆に叫んだ。(378頁)

■油絵、油絵、

これは大へん難しい

だが水彩画より

はるかに、はるかに美しい……(378頁)

■次のことは、明らかにセザンヌのこの頃の幸福の気分の証拠であるとヴォラールには思われた。即ち、肖像画と並行して「浴女群像」を描いていた彼は、とうとう職業モデルの助けを借りる決心をした、とヴォラールに告げたのである。ヴォラールは暫し茫然として、「何ですって、セザンヌさん!裸婦ですって!」すると即座にセザンヌは、自分の潔白を言い張りながら、「おお、ヴォラールさん、私は非常に年よりの醜い女を使うつもりだよ」と言った。だがこの「あばすれ」も、この画家は長いことは、利用しなかった。ああ、この頃では誰も、ポーズの仕方を知らん!……「それなのに私は随分高いポーズ代を払ったのですよ。凡そ4フランもかかる。これは1870年前に比べたら20スーもたかいのです」(378頁)

■夏の間に、ローヴの小屋の建築が完成した。――中略――もし神が、彼に生命をかし給うなら、彼はこのアトリエで、「大きな水浴の女達」の絵を仕上げることが出来るだろう。この絵の中で、彼はアーチのような曲線をなす木々の繁みの下に、一群の女達を置いた。この巨大な絵を、戸外で吟味することが出来るよう、アトリエの壁に細長い穴を開けさせた。こうすればそこから作品を庭に下ろすことが出来るのである。(393頁)

■ミルボーはセザンヌがレジョン・ドヌール勲賞を貰えるように運動を進めていたが、話を持ちかけられた美術学校(ボー・ザール)の校長、ルウジョンは、最初の言葉を聞くや否や、ミルボーをさえぎり、「ああ、駄目だよ。何ならモネはどうだ?モネは欲しがってはいないのかい?じゃあ、シスレイにしよう。何だって?彼は死んだのか!ではピサロはどうだい?まあ誰でもいいから君自身で選んでくれ給え。ただあのセザンヌのことはもう私に言わないでいてくれ!」と言った。(393頁)

■ガスケとのいざこざの理由は、これまで、決してすっかり明らかにはなっていない。ジョン・リウォードはこう書いている。「この問題に関して、ひろまっているいろんなうわさにもかかわらず、この深い原因を見つけ出すことは困難である。どうもガスケは、ある種のデリカシーに欠けていたらしい。そしてセザンヌは、自分は「利用されて」いると思ったらしい……セザンヌは、時に、彼の絵を、感心している数少ない友人によろこんであたえはしたが、人がこれを贈物としてもらいたいという欲望をあまりはっきりと表明することを好まなかった。……ところでジョシュアン・ガスケは……セザンヌに、彼の絵に「爪をたて」ようとしているような印象をあたえたらしい。」(395頁)

■1904年2月の或朝、セザンヌがローヴのアトリエに行こうとして階段を降りて行くと、未だ若い1人の男に出くわした。彼は豊かな髪に頬鬚と口鬚を生やしていた。「ポール・セザンヌ氏をお呼び下さいませんでしょうか」とその男はセザンヌに訊ねた。セザンヌは仰山な身振りで帽子を脱ぎ、「彼はここに居りますよ!彼に何の御用で?」と答えた。

この早朝の訪問者はエミール・ベルナールであった。(401頁)

■だがベルナールは執拗に自己を主張し、理論を展開した。老画家はついにある日かっとなって叫んだ。「儂が全ての理論を空しいものと考えているのが解らんか!それから儂は絶待に誰にも爪をたてられたくないことを覚えておき給え!」と。そして、彼は、ベルナールを1度ならず、路上におきざりにして、行ってしまった。「真理は自然の中にある。儂が、それを証明しよう」という言葉を投げかけながら。(405~406頁)

■「感動という原理をもたない芸術は、芸術ではない」と彼は言う。しかし「よく考えなければいけない。目だけでは充分ではない。よく考えることが必要だ」とも言うのである。(410頁)

■それでもやはり、故郷の美術館にはただの1枚も入れられることなく死んで行かねばならぬことを、彼はよく知っている。館長、ポンティエが、決して彼に対する敵意を捨てないであろうことを彼はよく知っているのである。(412頁)

■主よ、御身は我を強く孤独に創り給いぬ。

願わくば我に大地の眠りを眠らしめ給え。

彼は時折り心身共に打ちひしがれると、こんな風にヴィニィの詩句を少しばかり変えて誦するのであった。(413頁)

■十月の初めに、例の馭者が料金を値上げし、シャトー・ノワール迄のせて行くのに今迄の3フランを5フランにしてくれと要求した。言語道断な途方もない要求ではないか!「頑固爺」――セザンヌは自分でこう名乗っていた――は、あの威張りくさった馭者に、この上40スーも決して出したりするものか。それくらいなら車なしで済まして、自分で絵道具を運ぶ方がましだ。「到る処で儂は搾取にあうような気がする」と彼は歯ぎしりしながら言った。(416頁)

■その日の午後、晴れ間を利用して彼はローヴのアトリエから少し離れたところにある彼のモチーフのところ迄歩いて行った。その時また夕立が激しく降り出した。しかしセザンヌはこの雨をも顧みず、夢中で描き続けた。数時間が過ぎた。雨は絶え間なく降り続けていた。雨は着物に滲み通り、セザンヌは熱が出て身体がぶるぶる震えて来た。それでとうとう残念がりながら、モチーフから離れた。用具、画架、絵具箱等を持てあましながら、やっとの思いで歩いていたが、突然、眩暈に襲われた。老画家は気を失って道の真中に崩れた。少したってそこを通りかかった洗濯屋の車の運転手が、見付けて、彼をブールゴン街に連れて帰った。彼は相変わらず気を失ったままだった。(416頁)

■パリでオルタンスはブレモン夫人の電報をたしかに、受け取った。だが彼女は急いでそれをポールからかくした。彼女は、今のところまだ、エクスに行くことが出来ない。彼女の服の仮縫いがまだ済まないのだ。(417頁)

(2011年7月10日)

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『児島善三郎が大久保泰氏へ宛てた葉書の文章』 

■長く沈滞していた私の画境も北海道以来堰を破る奔流の様に力強く闊達とした世界が開けてきたことを我ながら身に感じます。個性を捨て我執を越え、技法に捕われない悠久、神厳な生命に満ちた芸術境が、目の前に展開しつヽあることを強く感じます。

(2011年7月22日)

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『アルベルト・アインシュタインの言葉』

■“All that ever has been,or ever shall be,is in the now.”

(すべてこれまでに存在したもの、また今後、存在するであろうものは、現在の中に在る)

(2011年8月26日)

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『新約聖書』

■「だれもあかりをともして、それを何かの器でおおいかぶせたり、寝台の下に置いたりはしない。燭台の上に置いて、はいって来る人たちに光が見えるようにするのである。隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない。」(『ルカ伝』8章16、17節)

■「汝の内の光、闇ならば、その闇いかばかりぞや」(マタイ伝、弟6章)

■「汝らがいかに聴くかを見よ。持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう」(18節)

(2011年9月10日)

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『宮本常一著作集4』 日本の離島 第1集 未来社

■寛政5年3月16日に、阿賀浦のエビ漕網が鹿老渡の沖で網をこいでいると、水死体がかかった。ふねからおちて溺死したものらしく着物は着たままであった。その肌身につけていた通行手形で肥前国の者とわかった。無縁墓地へうずめた。

安政4年2月26日に大田屋へとまった肥前島原の松木末吉という者が病気で死んだ。伊勢詣りの道中で連れがあった。信順寺では無縁墓地にうずめた。それから46年すぎた明治36年4月20日、信順寺をおとずれた肥前の松本末太郎というものがあった。松本末吉の養子であった。父が伊勢参宮の途中鹿老渡で死んだということを一緒に詣った人びとからきいて、いちどはそこを訪れたいと思っていたのが、50歳をすぎてその機会ができ、伊勢参宮の途中を鹿老渡へ寄ったのである。46年まえに旅人を埋めて供養した僧はまだ生きていた。そして古い記憶をよびおこして、墓をほりおこしてみると白骨はそのままのこっていた。死んだ父親は前歯が3本かけていたというので目じるしであったが、まさにそのとおりであった。子は涙をながして喜び、白骨を背負うて伊勢へ詣った。そして老僧にぜひ肥前にあそびに来るようにとのことで、老僧は肥前の松本家をおとずれた。松本家では親類一同よりあつまって老僧を心のかぎりもてなしてくれた。老僧はこの世の極楽にあうたようだと思った。古い港にまつわるエピソードである。(186~187頁)

(2011年9月17日)

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『青木繁と坂本繁二郎』 河北倫明著 雪華社

■「同じ年に同じ土地に生まれて同じく絵が好きといふのは、よくよくの縁であつたらう。小学時代のとき同じ級になつて、自分の直ぐ後ろに君の机があつた事がある。自分が後ろを振り向くと、君はいつも優しい顔でにこにことした。昔のことを思ふと、わけなく淋しくなる。君は芸術の気分に些かの不浄をも容さなかった。君の作物を見れば分かる通り、少しも俗気と云ふものがない。作物は何より能くその人を語るのである。無理なところを押し進んだ君の周囲には、非難の声も随分あるけれども、君が中心の人格を認め得る者は、恐らく之を恕するに吝かならざる事を信ずる。」(岡野注;坂本繁二郎の言。以後名前のないカギカッコは坂本繁二郎、その他のカギカッコは後に発言者の名前を入れます)(91~92頁)

■「色彩の気持でも、坂本君のは、曇った空の銀灰色、それに透けて見ゆる薄黄の太陽、湿潤な地面の土地のやうに悲愁で、沈鬱な色である。坂本君は、或る種類の画家の様に色彩を全く自己が主観の犠牲にするやうなことなく、常に自然の光に興味を持ち、其心持を画くに忠実なところ、一種のルミナリストである。故に其絵の色彩は画かれた題材に固有のものであるけれども、其題材は同君の主観に導かれた題材であるから、それに固有な色彩も亦、同君の性情と共鳴するものであるのは明らかである。」

「筆技に於ても同君は、自己の主観に委せて、客観現象を無視するといふことはなく、寧ろ対象に忠実であるが、其懐に現はるゝ手法や筆触の心持は、簡朴で地味である。練達はあるけれども、派手な気のきいたといふやうな心持ちはない。坂本君の絵に現はるゝ感情は、斯く、題材ばかりでなく、構図、色彩、手法等、総ての諸要素がそれを助けているのである。」(森田亀之輔)(97~98頁)

■「物の存在を認むる事に依って、自分も初めて存在する。存在によりて存在する意識の心は、只自分の外には何物もないけれども、物の存在を認むる事は、自分なる事ではない。物なる只其事のみである。自分なる者があつては、真の物は未だ認められない。物認められねば、自分の存在がない。自分を虚にして初めて物の存在を認め、認めて初めて真の自分が存在して来る。」(98~99頁)

■「有島さんの処にあった水彩の《白い馬》は好い絵ですね。帰朝後間もない頃の御作ですか。私はいつも放心して眺め入ったものです。セザンヌの水彩も掛かっていて大切にされていた様ですが、わたくしはあの白い馬の方に魅力を感じました。貴方がスペインの絵は概して影が暗すぎて面白くないと語られた意味を理解できます。また『油絵の色は美しいと思わない、油絵具の強味は調子の深さにあるので、色としては日本画の絵具の方がずっと良い』と言われたのもおぼえて居ります。」(硲伊之助)(104頁)

■「阿蘇の馬は少しも人を恐れないで嬉しがつた。鼻先や頭を撫でてやると喜んで差出して来るし、果てはあとからついて来るといふ風で、赤、黒、栗毛、ごま塩、色々な馬共が皆人に親し味を持つ。仔馬も居て、親馬と共に遊んでいる。仔馬も人を恐れない、それは犬猫のやうにべたべたするのでなく、もくねんとして親しみを持つところ何とも云えず嬉しい。放牧場は草も深くないので臥ころぶにも丁度よい、阿蘇は此の牧場のうねうね山の広場から、外輪山を馬と共に、それこそ人つ気もなく只馬と共に、臥ころびながら眺められる。迚もよい気持である。のびのびと晴れ晴れと自由で静かな楽しい馬共の生活、この辺から人間の生活を思ふと、人間がみじめに見える。馬共の頭を揃へて青草の上を進む其の素晴らしい体形、隆々とした肉塊から肉塊の動きの流れ、立ち髪と尾毛は之に一層の抑揚をつけて、あり丈の立派さがはち切れるやうに輝き渡って居る。」(110頁)

■「描くべきものがわからぬというが、描くべき自分がないのに描けるはずがない。自分に内容があれば、迷っていてもその人の可能性はあるでしょう。描きたい気持がうずうずしている……それがほんとうに描く資格のある人間だ。クラシックの作品を観ても結局真実が中心となり、人間の本能にかなったものが生き残っている。これからも必然そういう真善美にゆくだろう。それが想像できなければ暗夜の船だ。新しいのがいいか、旧いのがいいか、時代がたってみなければわからぬが、要するに道は東方にありというおぼろ気なものはあると思う。だから方法ではなしに真実以外行く道はない。」(113~114頁)

■「物の存在を認むる事に依って、自分も初めて存在する。存在によりて存在する意識の心は、只自分の外には何物もないけれども、物の存在を認むる事は、自分なる事ではない。物なる只其事のみである。自分なる者があつては、真の物は未だ認められない。物認められねば、自分の存在がない。自分を虚にして初めて物の存在を認め、認めて初めて真の自分が存在して来る。

真存在の心は、一元と泳動した意識である。刹那々々のみを、自分たり得る心である。強ひて説明すれば消滅する心だろう。」(118頁)

■「自分の五体の現肉欲に依りて見たるものは、たった皮肌的神経の力の範囲である。音も、色、熱も、確かに認め得るには相違ない。けれども自分丈の事、例へば不透明の物のあちらは見えない丈の認め方である。それで此神経が動いて居る間は、其れ以外の泳動と云ふ様な意識は隠れてしまって居る。虚の意識は我利と相容れない。

人体には自分の肉丈の欲を充たす丈の神経と共に意識の欲望と其の可能性が存して居る。若し之がないならば、哲学などと云ふ只の知識以外の意識の喜悦があるわけがない。」

「芸術が、自己の欲望希望に一致するものを得しときのみ喜悦さるゝならば、虚の現した芸術は総ての人の意識に関係を持って居る何物かの伏在があるに相違ない。所謂達人の芸術が人心と深き交渉を持つところは、虚の意識或は一元の意識に接触の境地、又は其れに近いあるものの存在であると思ふ。一元意識の上に認められた芸術は、其の喜びは衣食住の嬉しさの如くに、限内の喜びではなく、大きな世界に大きな自分を発見した喜びである。併し其の神経の発源地は、脈動こそは広義に通じて居るのであるが、五体の盛衰と共に盛衰させられる位置に在るので、衣食住を無視しては存在されないものである。衣食住の満足が足りた上に、祖後に現われて来る意識界である。此意識に依つて衣食住を無視した境地に入る事は出来るだろ。しかし意識の働きは何処までも生肉でなければなるまい。」(118~119頁)

■「哲学に渉つた芸術は、必ずしも人間と関係を保たない方面と、又最も適切な関係の方面とあるだらう。無論人的立場より求むる心の要求には、関係の適切なる方面が交渉するに相違ない。肉的範囲の芸術は其れ丈一元的の芸術意識にないところが存在して居るに相違ない。一元的芸術には、又肉的立脚の芸術では及ばない、そして之が世間と云ふところに用事を持つとき、肉的立場のものは狭い近い周囲にのみ関係を持つもので、時代でも過ぎれば直ちに忘却さるゝ芸術である。一元的のものは総べてに脈動して居る。肉的立場の其儘に直ちに立ち入りは出来ないだらうが、総べての心に関係を持つて居る。時代を経た世界にまで何処までも関係を持つだらう。斯く哲学意識は、却つて最も世間的用事を発揮して来る。哲学的芸術は、只其れ丈ならば其質さへあれば大小深浅なくとも、満足さるゝ筈であるが、之を楽しみ或は欲望等の人的立場に求めらるゝとき、其処に肉体の要求は、より美しくより高きものをと、たとへ同質のものゝ内にも差別を付ける。哲学的一面は人欲の内の大なるもので、人欲が肉身上にのみ注がるゝ間は、哲学的方面を稍ともすると消極的態度になるかの如く思ふ事もあるだらうが、哲学的欲望より見れば、人肉的欲望は亦狭い消極的の満足にしか見えないだろう。」(120~121頁)

■「日本画の境地にはその東洋的性質のために西洋に於て理解の困難な一面がある。東洋思想の一元論的傾向は西洋に於ては外延的となる所を集中へと導いた。我々の後期哲学の小宇宙的観念は、最も単純な手法を以て、最も複雑な思想を表現する傾向を強めた。或る場合には理念の純粋さを維持する熱心のあまり、色とその明暗法が棄てられた事がある。それは象徴主義ではなくして無限の暗示である。それは童心の単純さでなくて達人の直截である。」(岡倉天心)(121~122頁)

■虚の一元世界はいかにして画的造型的にあらわしうるか。光と色と物の感覚世界、外延の多元世界を写して、どこまでこれを集中し、どこまで小宇宙にとういつしうるか。それは油絵技術に東洋哲学の幽玄なすじみちの一線を通すことであったともいえる。同時にまた、従来ただ勘によって把まれていた無形の世界というものを、どこまでも組織的に有形化し、墨にまで単化された色彩をふたたび外延的に取りかえすことであったともいえる。しかもそれは近代日本の一等地についた絵を作るという実に平凡きわまる目標だったかもしれない。

坂本氏の長い画業は、あくことなく倦むことなく、ただ一すじに、この平凡なしかし雄大な目標を探求したものであったと思う。(123~124頁)

■印象派においてはなお従来の伝統の余勢が絵をつくっているけれども、セザンヌをこえて、一段と分解がすすんでゆけば、もはや多元世界は本来の統一の靱帯とほとんど無縁のところまで分裂する。そこからいかに人工統一、知的綜合をこころみても、もはや失われた生命を吹きこむことは不可能であろう。人造人間はたとえ驚嘆するほど精巧に構成されているとしても、なお一匹の虫に流れる自然の生命の大きさに及ぶまい。ピカソの個展をみた坂本氏の感想は、その才能には感心したが、結局新時代の標本とその説明を見せられたばかりで、人間的な感銘とはまったく別のものだったという。そこにあったものは「露骨なる理智的意志であり、真のピカソが別に何処かで澄ました顔をして居るやうで何だかだまされたやうな思で会場を出た」と氏はかいている。(125~126頁)

■坂本氏は雪舟を最高に評価される。(127頁)

■「新しいといふ事はそれ自体、明日は旧くなる約束にある。平面的に新しいのであるばかりでは意味をなさない。本質的の高度深度、即ち永遠性が具はることによって新しさも意味をなす。又『時代性』といふ事は作品と之に対してそれを感得する人との関係にのみ之を指摘される外、作品それ自体に固有した時代性は、実は有るが如く、無きが如きもので、強いていへば作品の性格がより高度、より深度を具有するほど、即ち永遠性が高度であるほど、時代に通ずる性格だといふ外ないと思ふ。」(135~136頁)

■「単に鑑賞する立場にあつては、日に月に新時代の空気を求められるのも当然であるが、作家としての実行となるとさうはいかない。こゝでは一生涯を賭しての一個人としての最高能率を目標としての歩みでなければならない。作家その人の性格にもよる事であるが、凡そ日に月に新しさの方向に進むが如きは、希望は別として実際問題としては自殺をするに等しい結果を見る外あるまい。平面的な単なる更衣的変化ならば比較的仕易い事でもあらうが、高度、深度を重点とする者にあっては、之を一言にしていって見るならば、十年間のたゆまぬ励精で一歩前進向上を遂げられたのなら、それは好成績と解される。人間本質的の向上脱皮は容易な事ではないのである。単なる絵描き技術的のみの変化が屢々真の向上と履き違へられないやうにすべきである。劇作家としては此の意味で時代性といふことに対しても、自らの歩みを考へねばなるまい。私の考へでは、永遠性人間性を期する高度、深度に力点をおいて歩む者にあっては観者の要求のごとく刻々新を追ふよりも、或程度保守の形となるのは当然止むを得ないものと思ふ。批評家の中には新傾向に同情の余り、さういふ傾向の作家を推奨して、却ってしいきの引倒しをしているやうなものも見られる。作家自身としても此点錯覚しない用心が必要だらう。」(136~137頁)

■彼は自分にみえる以上の世界を理論や型によってデッチあげようなどという大それた愚かしさからはとっくに身をひいていたのだ。しかし、それかといって同じく観念上のレアリズムなどでまごまごもしていない。彼は全身全霊をこめて見うるだけを表出しようとする。作品と作者のずれを厳密に丹念に正していくことによって、つねに作者独自の統一深い調子が歴然として滲んできているのだ。日本の近代画家坂本のまわりに、そのままとって役に立つような伝統などあるわけがなかったのである。彼はなるほど印象派のものの見方に大へん厄介にもなっている。けれども、いってみれば彼は分解よりもむしろ統一へと向うわけだ。上ずった流派の先入主などに一向動かされる必要はない。坂本そのものであるためにはどうすればよいか。一分の嘘をつかずに表すためにはどうすればよいか。たよりになるのは、しかとして実在する自然、およびそれに向う彼自身の動きのほかにはないのではないか。(144頁)

■「大正十年渡仏によつて得た教訓の内、重なるものは此世始まつて以来多くの天才に残された実績、また現代画壇の大波浪、それ等の総合によつて絵画の持つ重要性が何であるかの暗示を得たこと。日本にあるとき持つていた考へにどんな鉄槌をうけるか、それを期待して楽しみであったのが、私の考へには遂に動揺を来さなかつたばかりでなく一層自信を加える結果となつた。ルーブル美術館や巴里画壇の如きところに立入って自分の歩みに動揺を来たさないといふのは私の痴鈍を意味する恥ずべきことかも知れない。私は当時自分を幾度か疑つて反省をしたのであるが、事実は正直にそれがじじつである外なかった。これは勿論作品の価値のことではない。画人としての歩みやうに就いてである。」(146頁)

■「絵画に於ける物感は、凡そ絵である限り、何程かは必づ裏付いているに相違ないが、人によって物感の厚薄は甚しい相違がある。中には殆ど物感など無視されたものもある。しかし其いかによき色彩の趣味性であり、明確らしい線条が引かれてあるとしても、それに物感の裏付いているものがないならば、それだけ物足らぬものであり、作家の趣味又は主観的意志以上の生活感は稀薄となる。物感は特に作家の本能的個人的なもので、形や色の如く人間相互の感化伝習が容易でない。趣味色彩も勿論個人的なものではあるが、物感に比すれば遥かに共通消長のものである。物感はそれだけ画者個人的生活感の実証が裏付いている。時代思潮や趣味やを超越して、尚且つ今日の人にも働きかゝるものをもつ古代作品の如きは、作家の偉かった本能物感の裏にあるとも云へるであろう。」(148~149頁)

■「画家の素質によって、物感にあまり要がなく、描写の問題にして色や形其物、技術其物にのみ関心してあっさり片付いている人は多い。画から文字を撥撫することを早解して画を単に画模様的範囲に止めているような人も或はあるであろう。近代仏国画壇の行きづまりの如きも、要するにタブロー上の技巧的思索関心に過ぎて、物感的本能の方が栄養不良になったのではあるまいか。勃興時代の作品は物感んの脈搏が凡そ盛んだが、世紀末的になる程技巧が之と入りかはる。技巧の練達、思想の新奇を誇られても、物感的実質が之に裏付いていないのでは、遂に問題が問題ともならないのである。東洋画の如く気韻墨色精神に重きを置かれ、一見物感と云ふ如き実形を超越された如きものでも、其事実は矢張り画面の墨色に裏付く物感なくして何の表現でもあり得ないのである。気韻も精神も物感に確実性があつての上の事で、よい作品になればなるほど此事は明らかに示されていると思ふ。」(149~150頁)

■「写実の力強さは、直ちに筆触色調と共に物感に作家のメスの刃先が触れるところにある。之迄に写実以上に出ようとする各種の運動は方々に飛躍を試みられはしたが、今のところ此本格さを圧倒する如き本道が外に現われたのをまだ見る事が出来ない。絵画の約束が視覚を通して現るゝ本能にある限り、此真理を跳躍して百尺竿頭更に歩を進めるのは至難であるらしい。遂に之に満足し切れない者は、絵具以外の物質迄を利用して画の領域外に走って行った。予覚は色々とつい其処にちらついて居ながらも中々到達する事が出来ない。丁度滝の下迄寄せて来た魚群が尚上流に水の暗示を受けながらも滝にせかれて渾沌としている形で、新しい運動が色々と動いては立消えて、矢張り写実の本道に立ちかへるやうな有様である。写実と云ふ事も単に理論にのみ考へると妙な事に帰負しなければならぬけれども、之が画人の本能に依って解釈されるとき、初めて意義が光って来るのである。だから写実の味覚なき人が単に理論的に写実を形通り進めたとしても、それは結局よく往って写真機械位のところであらう。』(150頁)

■「自分の五体の、現肉欲に依りて見たるものは、たった皮肌的神経の力の範囲である。音も、色も、熱も、確かに認め得るには相違ない。けれども自分丈の事、例えば不透明の物のあちらは見へない丈の認め方である。それで此神経が動いて居る間は、其れ以外の脈動と言ふ様な意識は隠れてしまって居る。虚の意識は我利と相容れない。我利も極度に達すれば又別であるが、要するに文字は只仮示である。人体には自分の肉丈の欲を充たす丈の神経と共に、意識の欲望と其の可能性が存して居る。若し之がないならば、哲学などと言ふ意識探求の喜悦があるわけがない。哲学的進路に誰が眼を円くして心を引かるゝものがあるだろうか。直接衣食住其事でない此の道に、人が興味を持つ筈がない。或は哲学に無感興の人もあるに相違ないが、其等は根本的に意識力が少ないか無いかで、其無い意識を辿る事ならば、無論馬鹿気た無用事に相違ないから、感興もないだらう。此種の人はそれ丈狭い範囲に存在して居るので、其人の叫ぶ権限は従って狭い範囲にしか力が及ばない。怒りと笑ひと泣くのと而して相論ずるときは、必ず喧嘩である。火に手をあてゝ熱いと言ふ意識を、馬鹿として笑ふ事の出来ない様に、哲学の意義は理窟でなく本能意識に於いてである。狂とは違ふのである。それが一見非実際なるかの如き形なるが故に、狭い実際場裡に稍ともすれば無視せられる。しかし哲学意識程、実際界に密接して離るゝ事の出来ぬ意味のものはない。」(「存在」明治44年)(158頁)

■「哲学に渉つた芸術は、必ずしも人間と関係を保たない方面と、又最も適切な関係の方面とあるだらう。無論人的立場より求むる心の要求には、関係の適切なる方面が交渉するに相違ないが、一元的芸術には、又肉的局限立脚の芸術では及ばないものが宿る。それで之世間と言ふところに用事を持つとき、肉的立場のものは狭い近い周囲にのみ関係を持つもので、時代でも過ぎれば直ちに忘却さるゝ芸術であるが、一元的のものは総てに脈動して時代を経た世界に迄、何処迄も関係を持つだらう。斯くして却つて尤も世間的用事を発揮して来る。之は人間向上欲の大なる1つの方向で、この立場より見れば、人肉限内的欲望は狭い消極の満足にしか見えないだらう。」(「存在」明治44年)(159頁)

■「時勢や知識は何処までも横には拡がる。しかし、それは必ずしも感能の深さではない。作品の上では之が屢々混同されて、唯時勢に依って作られた形式の変化に過ぎないものでも、直ちに感能の深さであるかの様に間違へられる事がある。

平面的進行は左程の骨は折れずに、時勢や流行の力で以て、無性者でも働き者でも差別なしにどんどん押しやつて仕舞ふ。今日の小学生徒は遊ぶ半分に、十四五年前の大家の苦心惨憺で以つてやつと仕上げた様な事を、御茶の子で仕て退ける。但し多くは平面丈の意味での事で、深さの方は時勢や流行と必ずしも倶はないから、各自の先天的器量の依る外仕方がない。だから此方面にレコードを破る程の進行をする人は容易に出て来ない。」(「寸感」大正2年)(161頁)

■「画が出来るのは、元より物が是認されたときに限られて居る。若し否定するならば絵画などとは無論縁が切れる。しかし是認と言ふ事には自づから否定が裏付いても居る。其れは丁度否定の心理が即是認である様に、吾人の心は在るとか無いとか言ふものが常に遠心力と求心力との様に連絡を保って居る。それで心の働きと共に物の見え方なども余程位置が違って来る。例へば麦の生えて居るのを見ても、只麦が生えて居ると見た丈では其れ丈で終へる。麦は麦、吾は吾で明々白々ではあるが、只其れ丈である。けれど一たび麦なるものが否定され出すと、其次に麦は確かに麦に相違なき働きが一層感ぜられて来る。此否定は自づから心に迫って来るもので理由は何う言ふものか分らない。

例へば或る物を敲く場合に、只当てた斗りでは其れに触る丈で打当る迄にはならないけれど、1度他の一方に振り上げて打下ろすと強く打当り得る様な工合である。屢々人が善を善と知って、しかも之丈が自己の行の総てだと極めて満足して居る様な場合に起る反感の如きもので、之は一寸事は違ふけれど要するに同じ意味になると思ふ。吾等は善人に反感を持つ事を普通の心では不条理とも見えねばならぬが、一面に此の動かす可からざる或る物は根強くより真実を求めんとする心に隠れて居るから仕方がない。

この心持は直ちに作品の上に屢々見るのである。才器溌剌として、何処迄も、只自己と言ふ馬力だけが推進器となった作品に殊に多く見らるゝのである。一見すれば眼を眩する斗りに正直でもあり華やかであるが、認識浅き才器は遂に何処迄進んでも才器であって、何物か隠れたる骨格の様なものゝ不足を感ぜざるを得ない。物の捉まつて居ない不足である。此例証は現在の我画界の人と作品についても思当たるゝものがある。物を否定したり是認したりするのも理窟の上丈での是認では無論だめである。其人格から出る必然のものでなければならぬ。」(「思って居る事共」大正2年)(162~163頁)

■「画を描くからには誰でも何かつかむところがあるには相違ない。しかしつかむと言ふ事は其処に悲哀がある。画を描くからには何か其処に機縁がなければならぬだらうけれども、希望より言へば、つかむと言ふ事はしたくないものである。つかまずして現はれたものなら、まだまだ自己の真実の形を見得る丈我慢も出来る。自己に意識しない進行には、詭りのあり得様がないからである。意識して歩を進めると言ふところには、多く或る不満が伴ひ勝である。意識は智的になり易い。知らず知らずにも本能感得の純を妨ぐる事があるからである。其れかと言つて意識なしに進む事は事実される事ではない。偶然の結果以外に其れは期待する事は出来ない位置である。それでさうなると進路は只一筋の羽目から羽目を進まぬわけに行かない事になる。」

「要するに、新鮮と知とが相容れない形を持って居る間、吾等の進路は是が非でも此の無理な形に居ねばならぬ。此処に不断足の裏に火の燃えて居る悶々が起る。知は何処迄行ったところで盲に追い及ぶ事が出来ない。盲は又知に従はねばならぬ、困った形なのである。吾等は批判の心を要すると共に、愈々歩を進めるときは盲に就かぬわけにいかぬ。盲知に依って新鮮の世界に接する以上のいゝ道を、今の処思ふ事が出来ない。若し一を知って其儘に居たならば、其処にはもう堕落の第一歩が芽ぐむであらう。知って其儘居るのは安逸である。其うして安楽に居るには此世界は余りに勿体ない。進む可き唯一の信実の道は、かくて盲に就いて得る捨身本能覚の道しか開けては居ない。止むを得ず吾等の最上の難有い位置は只黙々の裏に迎号するのみにならぬわけに行かないのである。批判の上から色々と価値の上下も出来得るけれども、創作進行者には実際難有いものゝ外に難有いものゝ有り得様はない。」(「進路」大正3年)

■「進行の上に注意すべきものゝ内、根本的に大切なものは言ふ迄もなく其質の如何である。質は直ちに其人の生き甲斐、描き甲斐の如何で、画の向上と言ひ、よしあしと言ふも、要するに質を措いて他に何物もない。質の如何は直ちに意味の如何であり、其人の生き甲斐の光明の如何である。質は、主義や振りや見かけではない。只其人と自然との度合いの正味其物である。」

「所謂真とか生命とか言ふ様な感じ等も、要するに人と自然との交渉された質の純なところに起る感じ、又は之を他から見たときに起る感じだと思ふ。小児の画の真実的なのも、要するに質の純なる交渉の表現である故に外ならぬ。そして何れ丈かの質は誰しも持って居るだろうし、従って其各質其れぞれ相応丈の事は大なれ小なれ真性の画が描け得られねばならぬわけであるのに其れが描けないと言ふのは、何かつまらぬ雑念に目が眩んで居るのだと思はねばならぬ。」

「すべて無意味に属する真似の行動は、自質認識の不明か弱いところから起る。例へ自質は小さいのでも、其声は其れが其人の正味の総てで、より以上の意味の何物もない筈である。けれ共自分の側に自質以上の大きな質が現はれると、自質の声は打消され聞取り悪くなる。だからしつかりせねばならぬ。豪い芸術は一面誘惑者であり、又吾人の行く可き道を御先に失敬されたものだとも言へる。単に自質の叫びを放散すると言ふ事丈ならば、まだしも誤りは少ないけれ共、向上の努力が動くところに自質の叫びが迷ひ出す。自分以上のものは青も赤も其れが前途であるものとして現はれる。自質の手綱は此時一層の厳しさを要する。自質の叫びをよく聞き得しもののみ其歩みは太り、聞き誤つたものが後悔する羽目になる。初めから自質の声を誤つて進むならば、言ふ迄もなく結果は右往左往で、結局何も進み得ない事にならねばなるまい。」(「画の質」大正3年)(166~168頁)

■「感激、総ての事は只此一事に尽きる。理屈はない、感激が事実であるならばそれが真であらねばならぬ。優れた位置と言ふ様な形式に知らず知らず進む事がある。さう進む事に或る喜びがうつかりすると働くけれども対自然の生活味は位置の様な形式ではない。只感激丈である。其証明丈である。それ故に無智の幼年も感激に於て老年者の上に立つ事が出来る。生活味が強いのだ。それ丈高価と言つていい。複雑とか広さとかの価値は横に拡がる計りである。」

「感激とそれに伴う誠実、良心、何れも兄弟分である。人の顔に露骨に現はれるものは、誠実の有無である。そして彼は其処に彼の感激の有無を語って居る。専門家の相貌には従って芸術の有無も大抵顔に示されて居る。誠実なくして芸術の事を云々する者に対する程心持ちのわるいものはない。要するに感激の有無は直ちに善心の有無と言つてもいゝ様である。」

「作品の消えざる意味なるものは此の感激の働ける故に外ならぬ。感激を作品にする以外に芸術の作品はない筈だ。其の感激を無理した努力、感激のない只の馬力で出来た作品、之等は皆折角出来ても反古になる作品である。感激は何うしても事実の真に相違ない。感激の何物であるかを味得された者ならば、情理共に味得されたものとしてもいゝ筈だ。貴いものは実に感激である。」(「感激」大正4年)(168~169頁)

■「素描は単調であるが、澄みきった表現が出来るからいゝ。色彩も出来ることなら素描の如くぴつたりと現はれ度いものだが、色彩の持つ反映関係はどうしても時間的感情の重積となる傾向があり、特に洋画的色彩に於て祖建築的長所と共に時間的とろさが短所となる。大抵の洋画が一面面白い画でありながら、深さもありながら、常に此とろさにつきまとはれて居るのは残念である。最も此短所を見せたのは、初期印象派である。色彩には目醒めたが時間的な化学的な弊害にも取付かれた。客観的印象をたどりたどりして居ては例へ或る主観はあるにはあっても、要するに際限なき連続の集積に過ぎない。之が色彩なくして形の上に現はれたのが先年当り一時流行したやたらに細かい描写の無駄手間である。後期印象派になるとずつと此点が主観的に1図が1つの心として一元に近づいたが、しかしまだ時間的感じを脱しては居ない様である。其処に行くと、ずつと古代の絵や、ミレー、コロー等の態度は頭の中で一応嚙んだ自然で、所謂写生的とろさはない。ミレーの『絵は一応自然から放れて描く可きものだ』と言ふ心持は、此辺にあるのだろう。東洋の絵は、土台最初より此態度だから時間的な感じなどは求めてもない。しかし空間的適切さに於てこそ之でもよいが、建築的厚味と現実的直接さに於て、何うも浅く走り度がり一長一短である。更に此両方の長所を把む事が吾々の前途に横はる問題だ。」(「素描と色と」大正10年)(173~174頁)

■「今日まで僕は不思議と此国土(フランス)の感じに物足らぬものが1つあります。それは事毎に神秘性の欠けていることで、土質にも、立樹にも、草花の如きものでも、其等の自然に魅力がかわいています。美しさがすべて菓子か友禅式です。趣味はあるが驚嘆がありません。――仏国は美と科学とを調和させることを誇りとしているさうですが、全くこゝでの美の展開は実に合理的で、事によつては其道筋が余り見え透いて微笑されることがあります。」(「巴里通信」大正11年)(174~175頁)

■「タゴールが、西洋は自然を棚の内に引入れ、東洋は自然の中に歩み入った文明だと言ったことは全く当つた心持であると思はれます。仏国は人間も少なく自然は余って日本の人口の過多に苦しんで居るのに引かへのびのびとして居るにも不拘、矢張り自然の野山の間にある一軒の家でさへ、柵内に自然を取入れた感じがあるのは、全く何処と言ひやうもない微妙な一種の作用であるのです。此の気分は吾々は門外漢ながら、音楽の如きものにも又美術上に於ても感ぜらるゝ思ひがあります。あり余つた自然も此社会気分の為に不思議な程一種の自然性が害されて作りものゝ感を呈して居ます。色彩も其他美的感覚の豊富な仏国であるのにも不拘、此点実に小生にとつての大なる不足であるのです。ロダンが自然を叫んだ心持、又はマダム貞奴の舞を自然だと言った事、又日本でならばつまらぬお花さんと言ふ女をモデルとして特別に興味を覚へた事など思合はせますと、流石にロダンの自然は日本の自然の匂ひを之等の婦人の中にかぎ出したものと察する事が出来るのです。日本に居つたとき僕は此事をそれ程注意する事が出来ませんでしたが、当地に来て其自然の害されて居る情状に就き初めてロダンの心事が察せらるゝやうな気がしてならぬのです。ミレーやピサロやドーミエーなどの天才は自然を臭ぎ出して居ますが、殊にミレーに至つては彼は仏国よりも日本に生きる可き人であつたかのやうな気がしてなりません。」(「地主悌助宛書簡」大正12年)(175~176頁)

■「絵画に於ける物感は凡そ画である限り何程かは必ず裏付いて居るに相違ないが、人によりて物感の厚薄は甚しい相違がある。中には殆ど物感など無視されたものもある。しかし其いかによき色彩の趣味性であり明確らしい線条が引かれてあるとしても、それに物感の裏付いて居るものがないならば、それ丈物足らぬものであり、作家の趣味又は主観的意志以上の生活感は稀薄となる。物感は特に作家の本能的個人的なもので、形や色の如く人間相互の感化伝習が容易でない。趣味色彩も勿論個人的なものではあるが、物感に比すれば遥かに共通消長のものである。物感はそれだけ画者個人的生活感の実証が裏付いて居る。時代思潮や趣味やを超越して、尚且つ今日の人にも働きかゝるものをもつ古代作品の如きは、作家の偉かつた本能物感の働いて居る力に因るところが深いのである。永遠性の如きは物感の裏にあるとも言へるであろう。」(「硲君について」昭和5年)(179~180頁)

■「勃興時代の作品は物感が凡そ盛んだが、世紀末的になる程技巧が之と入れかはる。技巧の練達、思想の新奇を誇られても、物感的実質が之に裏付いて居ないのでは、遂に問題が問題ともならないのである。東洋画の如く気韻黒色精神に重きを置かれ、一見物館と言ふ如き実形を超越された如きものでも、其事実は矢張り画面の墨色に裏付く物感なくして何の表現でもあり得ないのである。気韻も精神も物感に確実性があつて上の事でよい作品になればなる程此事は明らかに実証されて居ると思ふ。紙本に於ける墨色、床の間との調和等の上から、表現の約束が自づから東西洋の画風を甚敷別趣にして居るけれ共、絵画成立の帰するところにかはりはないであらう。」(「硲君について」昭和5年)(181頁)

■「単に観賞する立場にありては、日に月に新時代の空気を求めらるゝのも当然であるが、作家としての実行となるとさうは行かないのである。こゝでは、一生涯を賭しての一個人としての最高能率を目標としての歩みでなければならない。作家其人の性格にもよる事であるが、凡そ日に月に新しさの方向に進むが如きは、希望は別として実際問題としては、自殺をするに等しい結果と見る外あるまい。平面的な単なる衣更へ的変化ならば、比較的仕易い事でもあらうが、高度、深度を重点とする者にありては、之を一言にしていつて見るならば、十年間のたゆまぬ精励で一歩前進向上を遂げられたのならそれは好成績と解される。人間本質的の向上脱皮は容易な事ではないのである。単なる画描き技術的のみの変化が屢々向上と履き違へられないやうにすべきである。創作家としては此意味で時代性と言ふ事に対しても、自らの歩みを考へねばなるまい。私の考へでは、永遠性、人間性を期する高度、深度に力点を置いて歩む者にありて観客の要求の如く刻々新を追ふよりも、或程度保守の形となるのは当然止むを得ないものと思ふ。批評家の中には新傾向に同情の余り、さう云ふ傾向の作家を推奨して、却つて、ひいきの引倒しをして居るやうなのも見られる。作家自身としても此点錯覚しない用心が必要だらう。」(「当面些語」昭和21年)(184~185頁)

■「古今の歴史を見ると、一応新旧の隔たりがあるやうに見えるが、之は日常外形の生活事情の隔たりに錯覚さるゝところ多く、作品の実質的働きが人間に交渉して居るところは、古作品と新作品の時代性は超越して居ると思ふ。又実際に現はれて居るところに見ても、結局高度、深度のより大なるもの程応用の働きをもして居ると思ふ。大衆性と云ふ如き事も結局はそれであると思ふ。深度、高度の増大はそれだけ共通性となり、超国家的となり、人間的となる。即ち美術が超時代性を具有する限り、此の事情に消長するものだらうと思ふ。勿論之は美術の本質的要用の意味で応用美術方面を云ふのではない。」(「当面些語」昭和21年)(186頁)

■「古来、日本画の組織は大体丈山尺樹等の組立てで出来て居りますが、用紙との関係もある事ですが、気持丈走った具体組織の根柢不充分の悲しさ。之が実に古今を通じての大作家になる程一層痛切な意味に響いて居り、此事は単に美術以上何だかすべての文化乃至政治の如きも同様東洋の悲哀を意味するやうで此組織不足の為東洋は兎角西洋から押されて居る感があり兄の御著(構図の研究)の如きは正に此不足を補不絶好の滋養に違ひないと思ひます。しかし現今の日本画畑に何処迄生きた意味にあれを吸収出来て居るかどうか、組織不足のさまざまの現象として古来の流派を利用して居る作家のみ辛うじて画がまとまって居る有様。組織の根本なくして西洋流を取入れようとして居る新派作家のあはれな苦労。此点日本の洋画畑の方は立体観念も組織力も余程向上して居りますが、之は又西洋流の悩みをぬけずに居るやうで、つまり印象派以後に現はれた多元的写生神経の為統一不足。西洋の作家も之を克服すべく努力はされて居りながら仲々それが六ケ敷いものとなつて居ると思はれ、セザンヌもさうですが、ヂュッフィの如く心性作家でも、バラバラを組立てた一元形をやつと整へて居り、ルオーの如き努力も小品は相当迄行って居るやうですが、矢張り息切れを見せて居る。日本の洋画も西洋流の多元性がまだ一元を得て居るところ迄なって居ないのが大部分ではないでせうか。」(「黒田重太郎宛書簡」昭和21年)(187~188頁)

■「東洋は作品の質に力点が傾いて居り、之に比して西洋のそれは量的にも要求が深いやうに思はれます。此2つの帰着は、勢東洋にては人間性人格が問題の主要性となり西洋は仕事と云ふところに傾き易い。西東室内装飾の好みにも此要求のあり方がさまざまと現はれて居り、東洋と云つても支那や印度はやゝ日本よりは西洋味が加はるやうですが、吾々にありて心からの満足を得るには結局量よりも質になるやうに思はれ、尤も量的又は計画性、構成の如きも質の一面と云へますが、矢張りそれに人格の質が備はらないならば頭は下がらぬやうです。」(「黒田重太郎宛書簡」昭和25年)(188~189頁)

■「小生の抱いて居る油彩についての考へを云つて見ますと、油彩表現の長所が実相表現に便宜であるところにあるのですが――絵画表現に就いて現在考へられる理想的状態は、実相具象つまり作家の姿が出来る丈そのまゝの実相を現はす事、例へ表現法、其形式の如何にかゝはらず抽象となりシュールとなりキュービックとなつても、此実相具象を帯同せる範囲にある事が必要と思はれる事。若し此根本性が他に外れて抽象が勝手な形の抽象化となれば、其造形が如何に明確愉快に絵画的構成色調の美しさ等が発揮されたとしても、結局は絵画としての目標よりも工芸美の方へ近づく事となり、作品として面白くとも人間表現としての力が稀薄に傾く。近代抽象作品に共通せる一長一短がこゝにあり。あらゆる方面に自由明晰、多様性の装飾性、構成、表現に於て魅力的であり、会場効果的である事は結構ですが、絵画が単に面白く又美しい装飾的魅力に留まつてよろしいものならば、特に絵画としての独立した境地もなくなり、他の工芸品とかはらぬ存在でしかない事になります。絵画は絵画の長所であり得る人間表現でなければならぬと思ふのです。」(「井上三綱宛書簡」昭和25年)(189~190頁)

■「絵画と彫刻が特に、単なる装飾美以上の表現に適して居るのは写実力のためであり、折しも児童自由画の殆どが面白さはあつても足りないのは此写実の不足から来るもの足りなさで、大人の画でも写実のないものは面白いものでも児童画に近似する。写実の真実(広い意味の)こそ人類的エスペラントの大道のあるところで大事な問題のあるところと思ひます。しかし抽象とか写実とか名づけても明瞭な境界線があるわけではないので此要点を把握するのが天才の仕事でせう。」(「井上三綱宛書簡」昭和29年)(190頁)

■「作家の社会的関係は、一般に評価されている線より偉すぎる場合でも、また力が足らぬ場合でも、夫々悲劇ではないでせうか。当面の社会に、ジャーナリズムの波に乗って何か迎合されたとしても、それは作家として大した誇りではありません。画家は一般の人より割合に社会から可愛がられている様に思はれます。然しそれでありながら、社会的関係には悲劇の運命に晒され易い事情もあります。画家はただ自らの作品そのものの歓びに浸る希望があつてこそ、生甲斐ともなるものです。

絵画を趣味乃至修養としてやるのならば別ですが、作家道に身を進めるといふことは、対社会関係に兎角矛盾を生じ、生やさしいものではありません。そして真に向上を意味する創作の新しさは、本質的に過去以上の偉さ良さが備はったものでなければなりません。単に新奇といふだけのものでしたら、変質者でも、気狂でも出来ることです。

新しい実質のある作品が人間の能力の限度で愈々尋常一様では出来なくなつてから先の事を仮に想像しますと、新しい作品よりも古代作品が人間の憧れとなるやうな、皮肉なことにならぬとも限らない様に思はれます。現在でも、或る程度はこの事実が現存している様に考へます。実質不足の単なる形骸や、新しさを単に種探しの様に躍起になつて求める作家には、同情はされても所詮それは哀れであります。」(「坂本繁二郎夜話」昭和35年)(192~193頁)

■「芸術において形式こそ違っていますが、古来よりの東洋の作品も、西洋の作品も、高度のものほど自然に淘汰摘出されていまして、つまり、よいものはよい、といふ至極平凡な帰着点に落着いて、東洋も西洋も夫々微笑み合つている様に思はれます。若しこの事実がないなら、私達はそれこそ芸術の向上の方向も希望もあり得なくなりませうし、それこそ一切将来の光明もなく、ただ単に現実場当りの仕事のみになつてしまつて、過去、現在、未来、一切の総べてが無意味となるでせう。これでは考へただけでもやりきれないことになります。」(「坂本繁二郎夜話」昭和35年)(193~194頁)

(2011年9月17日)

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『カント』 坂部恵著 講談社学術文庫

■クヌツェンの論理学提要には、まったく経験論的な、(ロックをおもわせると同時に)すでに後年のカントをおもわせもするつぎのような章句がみられる。

「知性のなか、さらには一般的にいって人間のすべての認識のなかで、すでにある意味からして感覚のなかになかったものは1つとしてない。……われわれのすべての認識の源泉は、内的なまた外的な経験である。」

クヌツェンはなかんずく、ニュートンの物理学に関心をよせており、その世界にカントを導いたことによって、これ以後のカントの思考の展開にたいして、決定的な影響をおよぼすことになった。ボロフスキは、つぎのように述べている。

「人の賢愚を見分けることに敏であったクヌツェンは、カントがすぐれた素質を有することに気づき、個人的な談話の機会にカントを激励し――のちにはカントにたいして特別にニュートンの書物を貸し与え、そうしてカントがこうした方面に興味をもつようになると、彼の立派な、豊富に備えられたなかからカントの望むものは何によらず皆貸し与えた。こうしてカントは研究に着手し、研究においてすぐに師をもしのぐようになった。クヌツェンはさらに、自分が植えつけ、なにくれとなく世話をしてきた若樹がひとを驚嘆させる果実をつけるのを見た。と言うのは、大学入学後4年にしてカントはすでに活力の測定に関する著作に手をつけはじめたからである。』(61~62頁)

■カッシラーは『啓蒙主義の哲学』(中野好之訳)のなかで、ニュートンについて、つぎのようにいっている。「――中略――。ニュートンの業績が比較を絶するほど偉大であるといわれたのは、単にその研究成果やそれの目指す目標によってばかりではない。この目標に到達するまでの手続きこそ真に偉大なものであった。ニュートンこそはじめて自然科学にたいして、恣意的・幻想的な仮定から明晰な概念への、闇から光への道を示した人物なのである。

『自然と自然法則は夜のうちに埋もれていた。神が言った〝ニュートンよ生まれよ〟と。――そうしたらすべてが明るくなった。』

このポウプの詩のなかにはニュートンにたいして啓蒙思想が捧げた尊敬の特質が最も簡潔に表現されている。」(62~63頁)

■この著作からほぼ40年ののち、思想的に成熟をとげたカントは、有名な「啓蒙とは何か」(1784)という論文の冒頭で、啓蒙をつぎのように定義する。

「啓蒙とは、人間が自分自身に責任のある未成年の状態から抜け出ることである。未成年の状態とは、他人の指導を受けずに自己の悟性〔知性〕を使用する能力のないことである。自己に責任があるとは、未成年状態の原因が悟性の欠乏にあるのではなく、他人の指導を受けずに悟性を使用する決断と勇気の欠乏にある場合のことである。知ルコトヲ敢テセヨ!自己自身の悟性を使用する勇気をもて!というのが、したがって、啓蒙の標語なのである。」(65~66頁)

■「……晴れわたった夜、星しげき空をながめるとき、ひとはただ高貴な魂のみが感ずる一種の満足を与えられる。自然の一葉な静けさと耳目の安らいのなかに、不滅な精神の隠された認識能力は、言いえざる言葉を語り、感受されはするが記述することのできない解きほぐされていない概念を与える。」(『天界の一般自然史と理論』1755)(76頁)

■と同時に、また一面で、このことばは、これから30年あまりのち『実践理性批判』(1788)のおなじく「結語」で、老境に入り成熟したカントが書きしるすことになるつぎの有名な一句とはるかにこだまし合うものでもある。

「それを考えることしばしばであり、かつ長きにおよぶにしたがい、つねに新たなるいやます感嘆と畏敬とをもって心を充たすものが2つある。わが上なる星しげき空とわが内なる道徳法則がそれである。」(77頁)

■「私はありていに告白する――デヴィド・ヒュームのうながしこそが、はるか過ぐる年にはじめて私の独断のまどろみを破り、思弁哲学の分野における私の研究に、まったく別の方向を与えてくれたものであった。ヒュームの諸帰結に聴従することからは、私ははるかに遠ざかっていたが、それというのも、それらの諸帰結は、彼が彼の課題を全体において考えず、全体を考えに入れなければなんの収穫も得られないのに、その一部分だけを思いついたために生じたものだからである。もしわれわれが、他人ののこした、十分展開されてはいないけれども、基礎づけをもった思想から出発する場合には、考えをさらに先へと進めることによって、この光明の最初の火花をその人に負わねばならぬこの聡明な人の到達したよりも、はるかに成功を収めることを期待することができるのだろう。」

後年『プロレゴーメナ(学として現われうるあらゆる将来の形而上学のための序説)』の序言の有名な箇所で、カントはこのようにいう。(106頁)

■詳しい話は追い追いすることにして、ヒュームのいわゆる懐疑論哲学による因果律批判は、カントが奉じていたライプニッツ=ヴォルフ流の形而上学の構築の要を危くするものであり、その意味で、われわれがすでにみた1750年代おわりのカントの心という重層的な織り物の表面に決定的といってもよい亀裂を入れるものにほかならなかったのである。(107頁)

■「私は気立てからしても学者だ。知ることを渇望し、また、ものを知りたいという貧欲な不安にとらわれ、あるいは、一歩進むごとに満足をおぼえもする。一時期、私はこのことのみが人間の名誉を形づくると信じ、無知な賤民を軽蔑した。ルソーがこの私を正道にもたらしてくれた。目のくらんだおごりは消え失せ、私は人間を尊敬することを学んだ。もし、その尊敬が、他のすべての研究に、人間の諸権利を顕揚するという価値をあたえうると信じなかったならば、私は私自身をありきたりの労働者よりずっと無用な者と考えるだろう。」

すでにわれわれが第1部でもみたこの断章は、1764年初頭カントが公にした『美と崇高の感情に関する観察』という小さな書物の手沢本に、心おぼえのために記された、今日「覚え書き」として知られる断片の集成ののうちに含まれるものであり、カントに対するルソーの影響のあり方をカント自身の口からあかしすることばとして有名なものである。

この断章によってみれば、1750年代のカントの心の宇宙の構築を、いわば上方から打ちくだいたのがヒュームであるのに対して、ルソーはむしろそれを下方から、いわば決定的に風通しのよいものとしたことがあきらかだろう。ルソーは、1750年代のカントに見られた知的貴族主義ないしは学問至上主義とでもいうべき傾向を打ち破り、学者の看板をはずした人間としての人間の広く自由な世界へとカントをつれだしたのである。(107~108頁)

■「青年の教育ということは、本質的に次のような困難をもっている。すなわち、自然的な順序からいえば、訓練と経験を積んだ理性によってはじめて理解されるはずの知識を、悟性の成熟を待つことなく、年月の先を越して与えることを、承知の上で余儀なくされる、ということである。」

カントは、「講義計画公告」をこのようなことばで説き起す。

「〔大学以前の〕学校教育から解放された若者は、学ぶことに慣れていた。いまや彼は考える。彼は、哲学を学ぶであろう、と。だがこれは不可能なことだ。というのは、彼は、いまや、哲学することを学ばなければならないからである。」

「哲学ではなくて哲学することを学ぶ」というこの表現は、のちに『純粋理性批判』にもとり入れられて、今日では大変よく知られているものだが、では、哲学することを学ぶとはどういうことか。

人間の認識は、普通まず、経験から直観的判断へ、そこから概念へと達することによって理性が形作られ、次に、この概念がその根拠と帰結との関係において、理性によって、最後に秩序づけられた全体において、学問によって認識される、と言う段階をたどって発展する。教育も、また、この自然の順序をたどらねばならない。

「まず、経験的判断を訓練し、諸感覚の印象を相互に比較することから知られるものに注意を向けさせることによって、悟性を熟させ、その成長を促進する。この判断あるいは概念から、学生は、より高くへだたった判断あるいは概念へと一気に飛躍してはならず、彼を一歩一歩と導くより低い概念の、自然な踏みならされた道を通って、そこに達しなければならない。しかも、これらすべてのことは、先行する訓練が充分に準備した理解力に応じてなされねばならず、教師が認めあるいは認めたと信じて、誤って聴講者に前提した理解力をあてにしてなされてはならない。」(121~122頁)

■ヘルダーの回想「私は、私の師でもある一人の哲学者を識るという幸運に恵まれました。彼は生涯の最も輝かしい時代において、若々しく、はつらつとした生気に満ちていましたが、それは、私のみるところでは、老年になるまで衰えることがありませんでした。彼の広く考え深げな額は、尽きることのない快活さと歓びをたたえており、口からは、含蓄に富んだ言葉があふれ出し、諧謔や機知やユーモアはたちどころに口をついて出ました。彼の講義は、最も楽しい談話の時でもあったのです。ライプニッツ、ヴォルフ、バウムガルデン、クルジウス、ヒュームの思想を吟味し、ケプラー、ニュートンをはじめとする物理学者たちの自然法則につき従う、それと同じ精神をもって、彼は当時世に出たばかりのルソーの著作、つまり『エミール』と『新エロイーズ』を、また彼の知るところとなったすべての自然科学上の発見を受容し、その価値を認め、そして、つねに、自然についてのとらわれのない知識と、また人間の道徳的価値とにたち返ってきました。人間、民族、自然の歴史、自然科学、数学、そして彼自身の経験が、彼の講義と談話に活気を与える素材であり、およそ知るに価するもので彼の関心を逃れるものはなく、どんなたくらみも、どんな党派も、どんな利益も、どんな名誉欲も、真理の拡大と解明にくらべれば、彼には無に等しかったのです。彼は学生たちに、みずから考えることをうながし、勧めました。独裁主義は、およそ彼の気質とうらはらでした。この人物は、私はその人を最大の感謝と尊敬をもって名指すのですが、イマヌエル・カントにほかなりません。彼の姿を、私はよろこびをもって思い浮かべるのです。」

1762年から2年間、若い学生としてカントの講義を聴き、個人的にも、その詩的才能によって師に深い印象を与え、何かと世話になったヘルダ-(1744-1803)は、後年このようにカントのことを回想している。(125~126頁)

■「……真の徳はただ原則の上にのみ、接がれうるもので、この原則が普遍的であればあるほど、徳はますます崇高にもなり、高貴にもなる。この原則は、思弁的な規則というようなものではなくて、すべての人の胸中に生き、同情とか厚意とかの特定の支えとなるものの範囲をはるかに越えて、広くにまで及んでいる感情の意識である。人間性の美と尊厳との感情であるといえば、すべてを集約したものだとわたしは思う。前者は普遍的な厚情の根底であり、後者は、普遍的尊敬の根底である。そして、この感情がある一人の人の心において最高の完全性を獲得したと仮定すれば、この人は自分自身をも愛しまた尊ぶであろうが、それはただ、彼が彼の広くに及びまた高貴な感情のひろがる範囲の全人類の一人であるというかぎりにおいてのみなのである。」

『美と崇高の感情に関する観察』のよく知られた箇所で、カントはこのようにいっている。(130~131頁)

■この小論のおわり近くで、カントが「私は、人が意志の堕落を心情の病気と呼ぶように、認識能力の疾患を頭脳の病気と呼んだ。また私は心における病気の現象面に対してだけ注意をはらい、その根拠をさぐろうとしなかった」と述べていることから、この著作のもつ性格と位置がほぼあきらかとなる。

すなわち、この著作は、あい前後して書かれた『美と崇高の感情に関する観察』が、「心情」のむしろ価値高い道徳的な側面をあつかうのに対し、「頭脳」ないし認識能力の病的ないしは異常な諸相を叙述する点で、ちょうど表裏の関係、あるいは対極の関係にある。と同時に、それは、「心における病気の現象面に対してだけ注意をはらい、その根拠をさぐろうとしない」という行き方、今日のことばでいえば、因果的説明を排して現象的記述だけにみずからの考察を意識的に限定するという行き方においては、『美と崇高の感情に関する観察』とまったく軌を一にする。(137~138頁)

■実際のカントの講義のあり方についても、伝記者のヤハマンは、つぎのように伝えている。

「形而上学の授業もまた、その対象が哲学の初心者にとって難しいものであったということを別にすれば、明快で魅力的なものでした。カントは形而上学的概念を提示し定義するにあたって一種特別の伎倆を示しました。というのは、カントは、あたかも自分自身がこの対象について考察をはじめ、しだいに新しい規定的な概念を付け加え、すでに試みた説明を段々に修正してゆき、最後に十全な、あらゆる側面から仔細に吟味された概念にたどりついたかのように、聴講者の前でいわば実験をやって見せましたので、真面目で注意深い聴講者はその対象に関して教えられるばかりでなく、さらにそれについて方法的に思索することをも学ぶようになったからです。カントの講義の進めかたを心得ず、最初の説明をすぐさま正しい説明だと思い込んで、注意を弛めずにカントの後についてゆかなかった人は、たった半分の真理をしか刈り入れなかったのした。」(141頁)

■「啓蒙とは、人間が自分自身に責任のある未成年の状態から抜け出ることである。未成年の状態とは、他人の指導を受けずに自己の悟性〔知性〕を使用する能力のないことである。自己に責任があるとは、未成年状態の原因が悟性の欠乏にあるのではなく、他人の指導を受けずに悟性を使用する決断と勇気の欠乏にある場合のことである。知ルコトヲ敢テセヨ!自己自身の悟性を使用する勇気をもて!というのが、したがって、啓蒙の標語なのである。」

1784年12月、既述のピースターの「ベルリン月報」に発表された「啓蒙とは何か」という論文の冒頭で、カントは、啓蒙をこのように規定する。啓蒙が要求するのは自由以外の何物でもなく、ここにいう自由とは、sらゆる事柄において、なかんずく宗教にかかわる事柄において、みずからの理聖を公的に行使する自由にほかならないのだが、現在のフリードリヒ大王の時代は、啓蒙された時代とは呼べなくと啓蒙の時代と呼ぶにはふさわしいだろう。(175~176頁)

■「世界市民的な意味における哲学の領域は、つぎのような問いに総括することができる。

⑴私は何を知りうるか。⑵私は何をなすべきか。⑶私は何を希望してよいか。⑷人間とは何か。

第1の問いは形而上学が、第2のものには道徳が、第3のものには宗教が、第4のものには人間学が、それぞれ答える。根底において、これらすべては、人間学に数えられることができるだろう。なぜなら、はじめの3つの問いは、最後の問いに関連をもつからである。」

カントは、『論理学』の序論で、彼の考える哲学のあらましの枠組をこのように述べている。(191頁)

■さて、われわれの認識の起源と根拠はどうなっているかといえば、認識は、すべて、純粋理性か、もしくはさらに理聖自身によって整序される経験から得られる。

純粋な理性的認識は、われわれの理性によって与えられる。一方、経験的認識は、感覚を通じて獲得される。しかし、われわれの感覚は、世界の彼方にまで及ぶということはありえないものであるから、われわれの経験認識もまた、ただ現在目前の世界のみをその範囲とするものにほかならない。

ところで、われわれは2重の感覚、すなわち外的感覚と内的なそれとをもつゆえに、経験的認識をとりまとめて、世界をやはりこの2つにしたがって観察するのが理にかなってる。すなわち、外的感覚の対象としての世界は自然であり、他方、内的感覚の対象としての世界は、ないし人間である。

自然と人間とに関する経験は、あわせて世界認識となる。われわれは、人間の知識を人間学によって学び、自然の知識は自然地理学に負っている。いうまでもなく、もっとも厳密な意味でいうならば、じつは、経験というものは存在せず、たんにもろもろの知覚が存在するだけでであり、それらがより集まって経験になるというべきだろう(岡野注;身体の経験、記憶というものがあるのではないか)。とはいえ、ここでも実際には、その経験ということばを、たんにありふれた表現として、知覚の意味で使っていくことにする。(204~205頁)

■今日の教育になおいちじるしく欠けているのは、すでに獲得された認識をいかに使用すべきか、そして自分の置かれた状況のなかで、その知識に見合った役に立つ用途を、いかにしてみずからつくりだすべきか、ないし、われわれの認識に対して実践的なものを、いかにして与えるべきか、ということである。そしてこれこそが、世界の知識にほかならないのである。(206頁)

■世界は、われわれの運命という芝居の演じられる基盤であり、舞台である。世界は、また、われわれの認識が決定され、使用される基礎である。しかし、そこに生ずべきであると悟性の語るものが、実際に実現されうるためには、不可欠の前提として当の世界とという主題の性格が、知られなければならない。

ただし、その場合さらに、われわれの諸認識がけっしてたんなるよせ集めでなくて、1つの体系をなすように、経験の対象が1つの全体としてとらえられていなければならない。なぜなら、体系においてこそ、全体が部分よりも先にあるからであり、これにたいしてたんなるよせ集めにおいては、あらかじめあるのは部分部分にすぎないからである。

この事情は、われわれにおいて1つの連関を生み出すすべての学問、たとえば諸学汎論〔百科全書〕において、あてはまるものであって、そこでは、その全体が連関においてはじめてあらわれるのである。この観念は、建築術的であって、それが学問をして1つの学問たらしめる。たとえば、1軒の家を建てようと思うものは、最初に全体に対する1つのアイディアをいだき、そこからすべての部分のあり方が導かれてくる。というわけで、われわれが現在準備しようというのも、また世界の知識の1つの全体的な観念にほかならない。ここではまた、同時に、建築術的な概念、すなわち多様なものが1つの全体から導かれるような概念を、みずから作り出してゆくのである。(206~207頁)

■しかし、われわれは、自然の経験的法則、すなわち、つねに特殊な知覚を前提する法則と、純粋な、ないしは普遍的な自然法則、すなわち、特殊な知覚にもとづくことなく、たんに、1つの経験における知覚の必然的合一の制約のみを含む法則とを、区別しなければならない。そして、後者に関しては、自然と可能的経験とは、まったく同一である。この場合には、自然の合法則性は、1つの経験における現象の必然的結合(この結合なしには、われわれは、感性界の対象をまったく認識することができない)、すなわち悟性の根源的法則にもとづくものだからである。したがって、私がこの悟性の法則に関して、つぎのように言えば、たしかにはじめは奇妙にきこえるかもしれないが、それでも間違いなく確かなことなのである――悟性は、その法則(ア・プリオリな)を自然から組みとるのではなく、反対にこれを自然にたいして規定するのである。(岡野の考え;しかし、反対に身体はその法則を自然から組みとる)

〔以上の部分は、『純粋理性批判』の「概念の分析論」と「原則の分析論」を含む「超越論的分析論」に対応する〕(268頁)

■さて、勝手に考えだされたものなどではなく、人間理性の本性に根ざしており、それゆえに避けるべくもなく、またけっして終結することもない、この2律背反は、つぎの4つの相互に矛盾する命題からなっている。

1、定立 世界は、時間および空間に関して、始まり(限界)をもつ。

反定立 世界は、時間および空間に関して無限である。

2、定立 世界におけるすべては、単一なるものから成り立つ。

反定立 単一のものは何もなく、すべては複合されている。

3、定立 世界にはに自由よる原因がある。

反定立 何の自由もなく、一切は自然である。

4、定立 世界原因の系列のうちに、何かある必然的存在がある。

反定立 この系列のうちでは、何ものも必然的ではなく、すべてが偶然的である。(274~275頁)

■最初の2つの2律背反は――これは、同種のものの付加、あるいは分割に関するものであるから、私は、これを数学的2律背反と名づけるが――〔自己自身のうちに〕自己矛盾を含む概念にもとづいている。そのことからして、この2つの2律背反における定立も反定立も、ともに偽であることがどうして起るかを説明することにしよう。

私が、時間および空間のうちにある対象について述べる場合には、それは物自体そのものに関していうのではなく――というのは、私は物自体について何も知っていないから――、ただ、現象における物について、いいかえれば、それだけが人間に許されているところの、客観の特別な認識様式としての経験について、述べているにすぎない。それゆえ、私が空間または時間のうちで考えるものについて、それがそれ自体において、私のこの思考を離れても、空間および時間のうちに存在する、などと言ってはならない。なぜなら、もしそう言えば、自己矛盾をおかすことになるだろうからである。というのは、空間および時間は、それらのうちにある現象とともに、なんらそれ自体において私の表象の外に存在するものではなく、それ自身表象様式にすぎず、それゆえ、たんなる表象様式が、われわれの表象の外にも存在するなどと言うのは、矛盾以外の何ものでもないからである。ようするに、感官の対象は、ただ、経験においてのみ存在する。しかるに、経験を離れても、あるいは経験に先立って、感官の対象にそれ自体で成り立つ固有の存在を与えるのは、経験が、経験を離れても、あるいは経験に先立って実際に存在する、と想像するに等しいのである。(岡野の考え;客観世界と、主観世界が境界のないマンデルブロー集合のような形態、構造であるとしたら、上記の論旨の矛盾はなくなる)(276~277頁)

■これだけは確実なことであるが、ひとたび『批判』を味わった者は、すべての独断的なおしゃべりを永久に嫌悪する。かって彼がこのおしゃべりにやむをえず甘んじていたのは、彼の理性が、みずからを支えるために何ものかを必要としたのに、よりよいものを何も見いだすことができなかったからにすぎない。『批判』が通常の学派的形而上学にたいしてもつ関係は、ちょうど化学が錬金術にたいして、あるいはまた、天文学が予言的な占星術にたいしてもつ関係に等しい。私はうけあっていうが、たとえこの『プロレゴーメナ』においてであろうと、『批判』の諸原則を熟考し理解した者は、だれもいつか2度と、あの古い、詭弁的な偽学問にまいもどることはないであろう。むしろ彼は、ある種の喜びをもって、1個の形而上学を目ざすであろう。(281頁)

■すでに『人間学』の解説のところでもみたように、カントは、

哲学《⑴純粋哲学⑵応用哲学》 純粋哲学《⑴予備学――批判⑵体系――形而上学》 形而上学《⑴自然の形而上学⑵人倫の形而上学》

というヴィジョンをもっていたが、(284頁)

■そこで、定言命法はただ1つだけであり、つぎのようなものである。「それが不変的法則となることを、それによって君が同時に欲しうるような準則に従ってのみ行為しなさい。」(312頁)

■さて、結果がそれにしたがって生起するところの法則がもつ普遍性は、本来もっとも一般的な意味における(形式からみての)自然、いいかえれば、それが普遍的諸法則にしたがって規定されているかぎりでの、諸事物の存在を形づくるゆえに、義務の普遍的命法は、またつぎのように言い表わすこともできよう。「君の行為の準則が君の意志によって、あたかも普遍的自然法則となるであろうように行為しなさい。」………

あるものが存在し、そのものの存在がそれ自身において絶対的な価値を持ち、それがそれ自身における目的として一定の法則の根拠でありうるとしてみれば、このもののなかに、ただこのもののなかにのみ、可能な定言的命法、すなわち実践的法則の根拠が存しうるということになろう。

さて、そこで、私は言う。人間および一般にあらゆる理性的存在者は、それ自身における目的として存在する。すなわち、それは、たんにあれやこれやの意志にとっての、任意の使用のための手段としてではなく、自分自身および他の理性的存在者に向けられた彼のすべての行為において、つねに同時に目的とみなされなければならないのである。……

というわけで、もし最上の実践的原理が、ということは、人間の意志に関しては定言的命法が存在すべきであるならば、それは、そのものがそれ自身における目的であるがゆえに、必然的にあらゆる人間にとって目的であるものの表象にもとづいて、意志の客観的原理を形づくるような原理でなくてはならない。すなわち、この原理の根拠は、理性的存在者はそれ自身における目的として存在するということにほかならない。(312~313頁)

■………このようにして道徳法則は、純粋実践理性の客体であり究極目的である最高善の概念を通じて宗教へと、すなわちあらゆる義務を神の命令として認定することへと導く。神の命令とは、この際、聖断、すなわちある〔絶待〕、他者の意志がほしいままにくだすそれ自身偶然的な指令ではなく、むしろおのおの自由な意志それ自身の本質からする法則であり、しかし、それが、それにもかかわらずなお最高の存在者の命令と見なさなければならない類のものをいう。というのも、道徳法則は最高善をわれわれの努力の対象とすることを義務づけるが、われわれがこの最高善を希望できるのは、道徳的に完全で(神聖で慈悲深い)しかも同時に全能な意志によってのみであり、それゆえにこの意志と一致することによってそれに到達することを希望できるからである。それゆえ、ここでもすべては非利己的であり、もっぱら義務にのみもとづくのであって、恐れや希望が動機として根底に置かれることがあってはならない。もしそれらが原理とされるなら、行為の道徳的価値は総じて無に帰するからである。道徳法則は、世界における最高の可能な善を私のすべてのふるまいの究極の対象とせよと命ずる。私が最高善の実現を希望できるのは、しかし、私の意志が神聖で慈悲深い世界創始者の意志と一致することによるほかにはない。そして最高善においては、最大の幸福と最大量の道徳的な(被造物において可能な)完全性とがもっともふさわしく厳密な割合で結合して1つの全体をなしていると考えられるが、この最高善の全体の概念のうちに、たとえ私自身の幸福がともに含みこまれているとしても、意志に最高善を促進するよう指示する決定根拠は、それでも私自身の幸福ではなく、道徳法則(それは、むしろ、幸福への私の無際限な要求をさまざまな制約のもとに厳しく制限する)にほかならないのである。(330~331頁)

■それを考えることしばしばであり、かつ長きにおよぶにしたがい、つねに新たなるいやます感嘆と畏敬をもって心を充たすものが2つある。わが上なる星しげき空とわが内なる道徳法則がそれである。2つながら、私はそれらを、暗黒あるいははるか境を絶したところに閉ざされたものとして、私の視界の外にもとめたり、たんに推し測ったりするにはおよばない。それらのものは私の眼前に見え、私の存在の意識とじかにつながっている。(332頁)

■「今や早速『人倫の形而上学』の完成にとりかかります。でしから、しばらくの間は「一般文芸誌」に何もお渡しできないとしても、どうか今後ともお許し下さい。私はもうかなりの年齢ですし、以前とおなじように種々の仕事へと素早く調子を変えるような敏捷さをもはや持ち合せていません。体系全体を結びつける糸を失うまいとすれば、自分の思索を絶えず凝集していなければなりません。」(シュッツ宛の手紙、1785年)(334~335頁)

■趣味とは、あらゆる利害関心ぬきの愉悦ないしは不愉快による対象ないしは表象様式の判定能力のことである。そのような愉悦の対象が美しいと呼ばれる。(368頁)

■美しいのは、概念なしで普遍的に意にかなうものである。(368頁)

■ある一定の概念の制約のもとに対象を美しいと言明する趣味判断は純粋ではない。(370頁)

■美は、合目的性が目的の表象なしである対象で知覚されるかぎりにおいて、その対象の合目的性の形式である。(371頁)

■ところで、自然の本来の不変の根本尺度は1つの自己矛盾する概念であるから(終りのない前進の絶対的総体などというものは不可能であるがゆえ)、構想力がみずからの総括する全能力をそこでは無益に浪費するような、自然の対象の大きさは、自然の概念を1つの超感性的基体(この基体は、自然の根底に、同時にまた思考するわれわれの能力の根底になければならない)へと導くにちがいないが、この基体は、感官のあらゆる尺度を超えて大であり、したがって、、対象というよりも、むしろ対象を評価するときの心の調和的気分を崇高として判定させるものなのです。(379~380頁)

■ところで、われわれはその対象を恐怖することなしに、恐ろしいものとみなすことができる。つまり、それは、われわれがその対象になんらかの抵抗をしようとする場合をたんに思い浮かべてはみるが、そのときにはすべての抵抗がまったく空しいものにおわるにちがいないと、その対象を判定するような場合である。そこで、有徳なひとは、神を恐怖することなしに、神を恐るべきものとみなすが、それは、神とその命令とに抵抗しようと欲するのは、彼にはおこる気づかいのない場合であると、彼がかんがえているからである。しかし、彼がそれ自体として不可能ではないと考えるそのようなあらゆる場合に、彼は恐るべきものと認めるのである。

恐怖をいだくひとが自然の崇高なものについてまったく判断することができないのは、欲求や嗜好にとらわれているひとが美しいものについて判断しえないのと同様である。(381~382頁)

■切り立ち、突出した、いわば脅かすような岩石、電光と雷鳴をともないつつ天に重なる雷雲、破壊的威力のかぎりをつくしてみせる火山、荒廃をあとに残して行く台風、怒濤さかまくはてしない大洋、力強く流れる高い瀑布などは、われわれの抵抗能力をこれらのものの力と比較して取るに足りないほど小さなものにしてしまう。とはいえ、これらのものの眺めは、われわれの身が安全であれば、それが恐るべきものであればあるだけ、ますます心をひきつけるものとなるのみであり、しかもわれわれはこれらの対象を好んで崇高と名づけるが、それは、これらの対象が、精神力を常ならず高揚せしめ、まったく別種の抵抗能力がわれわれのうちにあることを発見せしめて、この抵抗能力が、自然の見かけの全能と匹敵するという気力をわれわれにあたえるからである。

なぜかというに、たしかに、われわれは、自然の領域の大きさの審美的評価に釣り合った尺度を立てるには、自然は測りがたく、われわれの能力は不十分であるがゆえに、われわれ自身の制限を見いだしはしたが、それにもかかわらず、同時に、われわれの理聖能力においても、ある非感性的な別の尺度を見いだしたのであって、この尺度は、あの無限性自身を単位としてそのもとにもち、それにくらべれば自然におけるすべてのものが小であるようなものであり、こうして、われわれは、われわれの心のうちに、自然が測りがたいものであるときですら自然にたいする卓越をあらわにするのであり、この卓越は、われわれの外なる自然によって脅かされ、危険におとしいれられることのありうる自己保有とはまったく別種の1つの自己保存の基礎となっているのであるが、そこにおいては、たとえ人間はあの威力に敗北せざるをえないとしても、われわれの人格における人間性はあくまでおとしめられることがないからである。こうして、自然がわれわれの審美的判断において崇高と判定されるのは、それが恐怖を喚起するものであるかぎりにおいてではなく、それがわれわれの力(この力は自然ではない)をわれわれの内に呼びおこし、こうして、われわれが気づかうもの(財産、健康、生命)を小なるものと見なし、したがって自然の力(われわれは、財産、健康、生命などに関しては、いうまでもなく自然の力に屈服している)をも、われわれとその人格性にとっては、それにもかかわらずやはり、われわれの最高の諸原則とそれらの遵守ないしは放棄が問題であるかぎり、われわれがそのもとに屈服しなければならないような威力とはみなさないからである。こうして、自然がここで崇高と呼ばれるのは、それが、自然にすらまさる心の使命そのものに固有な崇高さを心に感じうるようにさせる場合を描出するよう、構想力を高揚するという、たんにその理由からしてにほかならないのである。 (382~384頁)

■さて、その現存ないしは形式をわれわれが目的という制約のもとで可能なものとしてみなすようなものの概念は、その物の偶然性(自然法則にしたがう)の概念と分かちがたく結びついている。というわけで、われわれが目的としてのみ可能であるとみとめる自然の諸事物もまた、世界全体の偶然性にとって最大の証明となり、世界全体が、世界の外に存在していて、しかも(あの合目的形式のために)知性をもっているある存在者に依存しており、そうした存在者を根源としているということの、常識にとっても、おなじくまた哲学者にとっても、等しく妥当する唯一の証明根拠である。こうして、目的論はその諸探求の解明のいかなる完結をも、神学において以外には見いだせないのである。

ところで、しかし、このうえなく完璧な目的論といえども、一体何を証明するというのだろうか?それは、たとえば、そうした知性的存在者が現に存在することを証明するのだろうか?そうではない。それは、われわれがそうした世界のある意図的に作用する至高の原因を考えることなしには、われわれの認識諸能力の性質にしたがって、ということは、理性の至高の諸原理との経験の結合において、われわれはそうした世界の可能性をおよそ理解することができないということ以上の何ものをもしょうめいしはしない。それゆえ、われわれは、ある知性的な根源的存在者が存在するという命題を客観的に立証しうるのではなく、ただ、自然における目的について、それをある最高の原因の意図的因果性という原理以外のいかなる原理にしたがっても思考されえないものとして反省するときの、われわれの判断力の使用にとって主観的にのみ立証しうるにすぎないのである。(389~390頁)

■すなわち、それは、自然のすべての産物と出来事を、もっとも合目的なものですら、われわれの能力(その限界をわれわれはこの探求様式の内側に指示することはできない)がつねになしうるかぎりにおいて、機械的に説明すべきではあるが、しかし、そのさい、われわれが理性の目的についての概念のもとでのみまさに探求のために提示しうる産物と出来事を、われわれの理性の本質的性質にかなって、あの機械的な諸原因にもかかわらず、われわれはやはり最終的には目的にしたがう因果性に従属させざるをえないことを、けっして見失ってはならないということである。(393頁)

■【論理哲学論考】における主体

「5・631 思考し表象する主体なるものは存在しない。

〈私の見出した世界について〉という表題のもとに、私が1冊の書物を書いたとしよう。その書物は、私の肉体について報告するであろうし、さらに肉体のどの部分が自分の意志に従い、どの部分が従わないかについても語るであろう。すなわち、これは、主体を孤立化させる方法、というより、ある重要な意味においていかなる主体も存在せぬことを教える方法なのである。つまり、この書物のなかで話題にすることができぬ唯一のもの、それが主体なのである。

5・632 主体は世界に属さない。それは世界の限界だ。

5・633 世界のどこに、形而上学的な主体がみとめられるのか。

君は、眼と視野との関係とまったくおなじ関係が、ここになりたつという。しかしきみは、自分の眼を実際に見ているわけではない。

そして視野のうちにあるいかなるものからも、それが眼によって見られていることは推論されない。……

5・634 これは、われわれの経験のいかなる部分もア・プリオリでないことと関係している。

われわれが見るすべてのものは、それとは別の仕方であってもよかった。

およそわれわれが記述しうるすべてのものは、それとは別の仕方であってもよかった。

事物には、ア・プリオリな秩序は存在しない。

5・64 ここにおいて、独我論を徹底すれば、純粋の実在論に合致することがわかる。独我論の自我は延長をもたぬ点へと萎縮し、残るものはそれに対応していた実在のみとなる。

5・641 したがって、心理学とは異なる方法で哲学が問題とすることができる、自我の意味はたしかにある。

〈世界とは私の世界にほかならぬ〉という宣言を通じて、自我は哲学に入りこんでくる。

哲学的な自我。それは人間ではなく、人間の肉体でもなく、心理学のあつかう人間の心でもない。それは形而上学てきな主体であり、世界の部分ではなくて、世界の限界である。」

認識の主体について、『論理哲学論考』のよく知られた箇所で、ヴィトゲンシュタインは、このように述べる。(447~449頁)

■カント哲学の陰画

「6・52 科学上のありとあらゆる問題に解決が与えられたとしてもなお、人生の問題はいささかも片付かないことをわれわれは感じている。もちろんそのとき、すでにいかなる問いも残っていない。まさにこれこそが解答なのだ。

6・521 ひとは人生の問題が消滅したとき、その問題が解決されたことに気づく。

(まさにこのゆえに、長い懐疑のはてに人生の意味を悟ったひとびとが、その意味が奈辺に在るかを語りえないのではないか。)

6・522 いい表わせぬものが存在することは確かである。それはおのずと現われ出る。それは神秘である。」(449~450頁)

(2011年10月3日)

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『私の日本地図 12』 宮本常一著 同友館

■島の旧家西村弥次兵衛ももとを正せば伊豆八丈島の出身であった。元文3年(1738)の冬直島の源次郎は大阪土佐堀の柏屋勘兵衛持舟の沖船頭として江戸へ向う途中時化にあって八丈島へ漂着した。幸船員一同の命に別状なく、その翌年乗組の者一同は便船を得て江戸へ帰り、さらに郷里へ帰った。源次郎だけは積荷を処分しなければならないので島に残った。船がいたんでいて、そのまま江戸まで廻送できないからである。処分するといっても八丈島は小さくて、住んでいる者は貧しく、荷はなかなかさばけず、処分してしまうまでに3年かかってしまった。

源次郎は菊池弥惣右衛門という者の家を宿にしていたが、弥惣右衛門の末子庄之助は、源次郎をしたってつきあるいていた。そこで源次郎もかわゆくてたまらず、島を去るとき養子にもらいうけて来た。

源次郎は元文5年(1740)3月1日に島をたち、江戸へかえって破船の後始末をして大阪へ帰り、柏屋との話もつけて郷里へかえった。庄之助は利発な子であったから極楽寺の恵道法師のところへやって手習させた。ところが間もなく源次郎は病気にかかって死に、源次郎にはまた身内の者もなかったので庄之助は天涯孤独の身になった。そこで恵道は手もとに引きとって養った。恵道の弟西村茂兵次には娘が2人あって男の子がない。そこで恵道は庄之助を茂兵次の長女の婿にした。そして西村弥次兵衛と名乗った。よくできた人で島の庄屋を勤めたこともある。茂兵次の2女は神主の三宅外記に嫁いだ。西村家はその後栄えて今日に至っている。私はこの話を八丈島へいってしたことがあり、多少の手がかりになるものは残っていないかと思ったが僅かの滞在では何にも得られなかった。(46~47頁)

■島民の移り気のためではない。島外の人の移り気のためであった。初めは皆美しい花を求め、美しい花を喜んだ。そしてそれらは切花として主として大阪・神戸の市場にも送られていた。ところが前衛派生花が流行するようになると、美しい花の需要がずっと減ってしまった。そしてキビの穂のようなものが盛んに売れはじめたのである。

キビはさきにも書いたように畑作の風害を防ぐために風垣として多く植えられたものである。島を丸裸同様に開いて畑にしているこの島では風あたりもつよかった。そこで畑のまわりにキビを植えて風を防いだばかりでなく、その茎は風呂の薪にもしたのであった。そのキビの穂が生花の材料として、美しい草花より値が高く売れるようになっては、人はもう本気で草花を栽培する者はない。

一時は花の島として世間からもさわがれ、島民もそれを誇にしていたものが、新しい前衛生花なるものが無雑作に島民の夢や勤勉をたたきつぶしてしまったのである。(201~202頁)

(2011年10月16日)

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-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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