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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記(上)』 杉浦明平訳 岩波文庫

投稿日:2020-12-08 更新日:

『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記(上)』 杉浦明平訳 岩波文庫

■失われうるものを富と呼んではならない。徳こそ本当のわれわれの財産で、それを所有する人の本当の褒美なのである。徳は失われえない、まず生命がわれわれをはなれぬかぎり、われわれを見捨てない。財貨や外面的な富はいつもこれをびくびくしながら保っているが、一旦所有財産をうしなうと、しばしばその所有者を侮辱のうちに見捨て嘲弄の的にする。(33頁)

■経験のうちに存しないものを経験から期待するものは道理にはずれている。(33頁)

■食欲なくして食べることが健康に害あるごとく、欲望を伴わぬ勉強は記憶をそこない、記憶したことを保存しない。(35頁)

■鉄が使用せずして錆び、水がくさりまたは寒中に凍るように、才能も用いずしてはそこなわれる。(35頁)

■同じ眼でながめた対象があるときは大きく、あるときは小さく見える。(36頁)

■どのようなものであれ認識するということは常に知識に有益である。けだし無用なものを自分から追い放ってよきものを保存することができるであろうから。それゆえ、まず第一にその物の認識を有たないならば、いかなるものを愛することも憎むこともできぬ。(37頁)

■十分に終わりのことを考えよ。

まず最初に終わりを考慮せよ。(33頁)

■「幸福」が来たら、躊らわず前髪をつかめ、うしろは禿げているからね。(40頁)

■穴は掘るもののうえに、穴は崩れる。(41頁)

■壁を崩すもののうえに、壁は崩れる。(41頁)

■木は自分の破滅をもって木を伐るものに復讐する。(41頁)

■こわがればこわがるほど、逃げれば逃げるほど、近くによってくるものがある。それは貧窮だ、逃げれば逃げるほど、君は悲惨になり安らぎをうしなう。(41頁)

■堅忍不抜(コンスタンツィア)、はじめる人は必ずしも守る人ではない。(42頁)

■鋳物は型次第。(43頁)

■生のわれ甕は作り直せるが、焼いたのはだめ。(45頁)

■自由のあるところに秩序(レゴラ)はない。(45頁)

■孤りなればおとなしく虫も殺さざるもの、悪しき仲間ゆえに戦慄すべき獰猛なるものとなり、残酷極まりなくも多数の人々の生命をうばわん。洞窟より現るる霊魂なき物にしてかれらを防がずんば、さらに数多の人をも殺すべし。――自分一人では決して誰にも害をはたらかぬ刀や槍について。(164頁)

■「絵画」は「彫刻」よりも大きな知的論究を要し、より偉大なる技術的至驚異に属する。というわけは、必要に従って画家の知性(メンテ)は自然の知性そのものに変らざるをえず、かつ自然法則によって必然的に生せしめられたもろもろの現象の原因を芸術を以て解釈することによって、その自然と芸術との間の通訳者たらざるをえないからである。また眼を取り囲む対象の映像がどのように本当の相似光素(シムラクリ)となって瞳に集るか、大きさの等しい諸対象のうちいずれがより明るく、又はより暗く見えるか、等しい低さのもののうちいずれが多少とも低く見えるか、等しい高さにおかれたもののうち、いずれが多少とも高く見えるか、相異る距離におかれた等しい対象のうち何故甲は乙よりはっきり見えないのかということをも通訳するのである。かかる芸術は自己のうちにありとあらゆる可視物を包みとらえている。しかるに「彫刻」の貧困、すなわちあらゆる物象の色彩とその縮小〔の欠除〕はそうすることをゆるさない。この〔縮小法〕が透明な物象を形象化すのだが、彫刻家は細工をせずに自然のものを君に見せるだろう。画家は対象と眼との間に介在する空気の色合いの変化によってさまざまな距離を君に示すだろう、かれは霧を〔描く〕、対象の光素は辛うじてその霧を透過する。かれは雨を〔描く〕、そのうしろには山や谷とともに、雲があらわされる。かれは埃を〔描く〕、埃のなかに、またそのうしろに埃をおこしたものらの戦闘があらわされる。かれは多少とも濁った河〔を描く〕、この中でかれは水面と水底との中ほどであそびたわむれるうろくずを見せてくれるだろう。かれは、水面の底、緑なす草にかこまれた川底の洗われた砂のうえに色とりどりのきれいな甕がおかれているのを〔描く〕し、かれはわれわれの頭上さまざまな高みにある星辰その他同様に無数の現象を〔描く〕が、「彫刻」はそういう現象に及びえないのである。(206~207頁)

■私は「絵画」に劣らず「彫刻」に骨折り、どちらをも同じ程度に作るのであるが、両者いずれがより大きな天才と困難と完璧とを要するか、たいした非難もうけずに、宣告を与えることができるようにおもう。第一に、「彫刻」は一定の、すなわち上からの光に左右されるが、「絵画」はいたるところに光と影とをたずさえてゆく。しかも光と影は「彫刻」に大切なものなのである。彫刻家はこの場合、おのずからそれを生む盛上げ(リレーヴォ)の性質(ナトウラ)に援助してもらうが、画家は人為的な技術によって、自然が理屈に合ったようにつけるのと同じ場所に光と影とをつける。彫刻家は物体の色彩の相異なる性質に応じて変化を与えるわけにゆかない、が「絵画」はいかなる点にも欠けるところがない。彫刻家の遠近法〔浅浮彫〕は全然本当らしく見えない、が画家のそれは作品から何百マイルかなたのように見える。空気遠近法はかれら〔彫刻家〕の作品とは縁遠い。かれらは透明な物体を形象化しえず、発光するものを形象化することができぬ、反射光線もだめ、鏡のような光る物体や同じく艶のあるものもだめ、霧もだめ、曇った天気もだめ、限りないものがだめなのだが、退屈を慮って言わないでおく。(207~208頁)

■画家は万能でなければ賞讃に値しない――画家の心は鏡に似ることをねがわねばならぬ。鏡はつねに自分が対象としてもつものの色に変わり、自分の前におかれるものそのままの映像によって自己を満たすものである。従って、画家よ、君は自分の芸術をもって「自然」の産み出すあらゆる種類の形態を模造する万能な先生にならぬかぎりは、立派な画家たりえぬと知らなければならぬ。しかるに君はそれ〔あらゆる種類の形態〕を見てこれを頭に写しておかぬかぎり、これをなしがたいにちがいない。それゆえ君は野辺をゆくときには、種々の対象に判断力を向け、次々にこのものあのものと目を配りつつ、余り上等でないものの中から選択された各種の事物を一まとめにしなくてはならない。そして、自己の空想に倦み疲れると、仕事をやめて、散歩によって運動をとるけれど、頭には疲労を持ちつづける、そこらの画家たちのようにしてはならぬ。連中は種々の物象に気をとめようともしないどころか、しばしば、友人や親戚に出会って挨拶されても、これを見もせず聞きもせず、まるで何処を風が吹いていると思ってるのに異ならない。(211~212頁)

■画家は「自然」を師としなければならぬ――画家が手本として他人の絵を択ぶならば、かれは取柄の少い絵をつくるようになるだろう。然るに自然の対象をまなぶならば、立派な成果をあげるであろう、われわれがローマ以後の画家においてみとめるように。――中略――

私はこれらの数学的な仕事について、もっぱら粉本のみを学んで自然の作品を学ぶことをしない人々は、立派な作家の先生たるあの自然の嫡子ではなく、人工による甥〔即ち私生児〕にすぎないと言いたい。その自然の弟子にすぎぬ作家たちを放擲して、自然から習う人々を非難する者が愚の骨頂であることをよくきいておきたまえ。(214頁)

■顔を自然そのままに写すのを専門の業とするあらゆる人々は、一般に、よく似た顔をかく人ほど、他のどの画家よりも歴史画構成に拙劣なのをわたしは見てきた。こういうことが生じる所以は、一つの対象だけをより巧みに描くということは、自然がその人をば他の対象よりそういう対象にそれだけ適するように作ったこと、明瞭であり、このゆえにかれはそれだけ多くの愛情をもち、その大きな愛情がかれをそれだけ勤勉にしたわけだが、一部分にそそがれた分の愛情が全体には欠けているからである。何故ならかれは個のために普遍を捨てて、自分の好みのすべてをもっぱらその対象に集注するからである。――中略――

上に述べたような画家たちも、画のうちただ人間の顔だけしか好まないのだから、如上の働きをする。しかももっとわるいことには、かれらは芸術でも自分の好みに合った部分、または自分の判断できる部分しか認めない。そしてかれらの懶惰(らんだ)とものぐさ両方のために、その作品に全然動きがないものだから、かれらは、自分のかいた画より大きな迅速な動きをもっている作品をば、狐憑きやモール踊りの教師みたいだと言って、非難するのである。(215~216頁)

■つまり銭をふんだんに有っていても、君はそれを使いつくすわけにはゆかず、従って君のものではない、使えない財産はすべて一様にわれわれのものなのであって、君が自分の生活の役に立たないほど儲けてもそれは悉(ことごと)く君の意のままにならぬ他人の掌に握られている〔も同様な〕のである。しかし2つの遠近法の理論によって研究しよく推敲するならば、きみは銭よりも偉大な名誉を賦与する作品を残すことになるだろう。けだしそれのみがひとり名誉なのであって、銭を有っている人はそうではない。そういう人はしょっちゅう嫉妬羨望の的、泥棒のねらいの的となり、その生命といっしょに富豪の名声も消え去り、財宝の名はのこるが、財をためた人の名はのこらない。人間の技倆の名誉はかれらの財宝のそれよりはるかに偉大な光栄である。いかに数多の王侯が何の記憶ものこさずに過ぎさったことだろう!かれらは自己の名を残さんがために、一途に豪壮な生活と富とを求めたのである。技倆をゆたかならしめんがために銭の足りない生活をおくった人がいかにたくさん居ったことであろう!技倆がかの富にまさればまさるほどかかる願望は、金持よりも芸術の名人(ヴィルトオーソ)名を遂げるところとなるものだ。君は財宝というものが科学のようにそれ自身で金をためた人の名を死後まで揚げるものでないことを知らないのか。科学こそ永遠にそれを創った人の證據となりラッパとなる、けだしそれは、銭のように、継子ではなくて、それを生んだ人の娘だからである。

もた、もし君がその財貨によれば貧欲や色欲をよりよく満足さすことができるが、技倆ではだめだというなら、他の畜生同然、もっぱら汚らわしい肉体的欲望に仕えてきた他人のことをつくづく考えてみたまえ。一体かれらのどんな名が残るだろうか?もし君が生活の必要とたたかわねばならぬために研究したり自分を本当に立派な人間にする余裕がないと弁解するならば、それは君自身に罪を着せることにほかならない。けだし技倆の研究のみが霊肉の栄養だからだ。富豪に生まれながら、財宝によって汚されないため、自ら財宝と縁を断った哲学者がどんなに多いことであろう!

またもしも子供を扶養する必要があるからと弁解するなら、子供たちにはわずかなもので十分なのだから、忠実なる富である技倆を滋養となるようにするがいい。何故かなら技倆は、死なないかぎり、われわれを見捨て去ることがないのである。そしてもしも君が老後の年金(ドーテ)にするよう、予め一定の貨幣資本をこしらえておきたいというなら、この研究は絶対に著手されないだろうし、君を老熟させることもなく、技倆の容器〔たる頭〕は夢とむなしい希望でいっぱいになってしまうであろう。(217~218頁)

■絵画はまずそれを思索する人の脳裡に存在するが、手の操作をまたずには完全なものになりえない。この絵画の科学的で真の原理は第1に、陰翳のある物体とは何か、根源的な影および派生的な影とは何か、明暗すなわち、闇、光、色彩、形態、情景、遠近、運動および静止とは何かを定めることであるが、以上のものは手の労働を経ずもっぱら頭脳によってのみ把握せられる。これこそ絵画の科学〔たる所以〕であろう。すなわち絵画は観照者の脳裡に存し、しかるのち上述の観照または科学よりはるかに立派な制作活動が生れるのである。(224頁)

(2012年4月20日)

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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