■個々の定理の証明などは一つ一つわかっても、全体系を作り上げるのに、なぜその一つ一つの定理がそういう順序でつみ上げられねばならないか、そういう点までわからないと、その勉強は結局ものにならないようである。数学者にきくと、数学の仕事は、一つ一つの定理の証明などはむしろあとからでっち上げるもので、実際は結論がまっさきに直感的にかぎつけられ、次にそこへ至るいくつかの飛び石が心に浮かんできて、最後にそれを論理的につなぐ作業が行われるということである。数学を勉強してほんとにわかったという気もちは、おそらくその数学が作られたときの数学者の心理に少しでも近づかないと起り得ないのであろうか、一つ一つの証明がわかったということは、ちょうど映画のフィルムの一こま一こまを一つずつ見るようなもので、それでは映画のすじは何もわからない、そんなものではなかろうか。
そうなると、数学がわかるというのは、数学者のもっているような見通しの力がないとだめだということになる。しかし、小学生は小学生なりに算術ができ、中学生がいつの間にか負に負を乗じて正になることを不思議に思わなくなるのは、凡人でも時間をかけて数学をいじくっているうちに、無自覚のうちに全体の未通しが脳のどこかに形づくられるのであろうか。(138㌻)
■原子物理学者の行き方に三つの方法がある。第一は現在の事実には一切眼をつぶって、千年先のことを考えて純粋な研究をすること。第二は千年先の研究は抛って、現在のことに捲込まれ、正しいと考える主張を実現すべく己を無にして努力すること。第三はどっちつかずの立場で、適当に研究もし、現実の問題にも捲込まれない程度にタッチする。(中略)
泥まみれになって戦う意義は認めるけれど、近頃の不愉快な実例を見ていると、やはり先の第一の行き方が一番純粋で力強い気持ちがする。そうは思っても非人情になり切れない僕の弱さがある。本当の人情は、ある面からいえば、非人情に徹するところから産まれると思う。ゴーギャンがタヒチ島は行っての仕事が多くの人に喜びを与えたように、自分自身の喜びが他の人を喜ばせる仕事が一番理想的なものであると思うだが……。(151㌻)
『鏡のなかの世界』朝永振一郎著 みすず書房 2007年3月15日