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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

読書ノート(2016年)(全)

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読書ノート(2016年)

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『正法眼蔵(4)増谷文雄 全訳注 講談社学術文庫

海 印 三 昧 ( かいいんざんまい )

■開 題

この一巻は、仁治三年(1242)の四月二十日、宇治県の興聖宝林寺において記されたものである。巻末の奥書には「孟夏二十日」の文字が見える。孟夏とは、夏のはじめの意をもって、陰暦四月の異称となすことばである。その好時期にあたって、道元は、さきに「行持」の大巻を脱稿したほか、この「海印三昧」の巻についでは、さらに「授記」の巻、「観音」の巻と、都合四巻をこの月うちに制作しておられる。連日の執筆であったことと察せられる。

ー中略ー

かくて、その意味するところは、大海が一切の存在をそのあるがままの相(すがた)において印写することによって、仏祖が三昧にある心境が、また一切の存在をそのあるがままの相において印象することを語っているのだと知られる。かくて、海印三昧とは、大海をもって象徴せられる仏の三昧であるとでもいうことをうるであろう。

では、そのような仏の三昧における心境とは、どのようなものであろうか。それが、いま道元のこの巻において説こうとするところである。その説くところは、おおよそ、その前半とその後半二分して受領することができるようである。

その前半には、まず『維摩詰所説教』の中巻、文殊師利問疾品(もんじゅしりもんしつぼん)における維摩詰のことばの一節があげられ、それに馬祖道一の説明が加えられている。それに依って、道元は、大海の印写する一切の存在のすがたを、いうなれば分析的に解説するのである。その一切の存在のありようは、馬祖道一によって、つぎのように語られている。

「前念後念、念念相待せず、前法後法、法法相対せず。是れ即ち名づけて海印三昧となす」

そこでは、これを時間的にいえば、前なる念(刹那)と後なる念とは、たがいになんの関係もなく、これを空間的にいえば、前なる法(存在)と後なる法は、それぞれに絶対である。それが、大海をもって象徴せられる三昧の心境に印象する一切の存在のありようであるという。

その後半では、洞山(とうざん)の法嗣(ほっす)である曹山本寂(そうざんほんじゃく)の、一人の僧の問いに答える問答があげられる。その問答の主題は『華厳経』の十字品(じゅうじぼん)にみえる「大海は死屍を宿(とど)めず」という一句である。それは、この経が説く「大海の十徳」の一句であるが、その意(こころ)をいまこの問答によって追求してゆくと、そこに、いうところの大海、もしくは、大海をもって象徴せられる仏の三昧の境地が、いうなれば全体的に打ち出されてくるのである。活潑潑地(かつぱつぱつち)として具現されてくるのである。

ここでも、道元の解説は、微にわたり細にわたり、あるいは高古(こうこ)にして綿密をきわめ、例によって難解ではあるが、読みきたり、思いめぐらした末、もう一度、冒頭の一節にいたれば、もろもろの仏祖といわれる方々は、みなかならず海印三昧という定を得ておられて、法を説くにも、証する時にも、行ずる時にも、いつもこの三昧にひたっておられる」

というのが、やっとほのぼのと判ってくるのである。(16~18頁)

■もろもろの仏祖といわれる方々は、みなかならず海印三昧すなわち大海をもって象徴せられる定(じょう)を得ておられて、法を説くにも、証するにも、行ずる時にも、たえずこの三昧にひたっている。その大海をゆくさまは、あくまでも徹底するがゆえに、これを「深々として海底を行く」と表現するのである。世の生死に流浪する衆生たちをその本源に還らしめたいと願うのも、このような心のうごきではないか。さらに、これまでに関所をこえ、煩悩のまどわしを破って解脱しきたった仏祖の面々も、もとよりことごとくこの三昧の大海に流れ入るものである。

仏はいった。

「ただ、もろもろの存在があって、結合してこの身を成すのである。その起るときにはただ存在が起るのであり、その滅するときにはただ存在が滅するのである。だから、その起るときには我が起るとはいわず、その滅するときにも我が滅するとはいわない。また、(これを時間的にみれば)前なる刹那と後なる刹那は、たがいになんの関係もなく、(これを空間的にいえば)前なる存在と後なる存在は、それぞれ絶対である。これを名づけて海印三昧というのである」

この仏のことばを、くわしく学びいたり、思いめぐらしてみるがよい。仏道をさとることは、かならずしも多くを学ぶことによるものでもなく、また多くを聞くことによるものでもない。多聞広学の人も、さらに四句を聞いて仏道を会得し、微細に学べる人も、最後には一句の偈(げ)によって悟るというものである。ましてや、いまの仏のことばは、本覚(がく)つまり人がもともと有する覚性を前提としたものでもなく、また始覚(がく)つまり教えを聞いてそれが悟りの花をひらくといったものでもない。いったい、仏祖というものは、その本覚などということを実現するものではあるが、その本覚だ始覚だという覚性を論じわかって、それで仏祖となるではないのである。

いうところの海印三昧のなる時は、それはただもろもろの存在のみの時である。だから、それを大海をもって象徴するのである。さらに、その時には、それらが結合してこの身を成すという。もろもろの存在が結びあって成れる一つの集合体、それがつまりこの身である。この身を一つの集合体だというのではない。ただ、もろもろの存在が寄り集まるのであり、寄り集まってこの身をなしている、それをこの身と表現するのみである。

「その起る時にはただ存在が起るのである」という。それは、ただ存在が起るのであって、べつになんぞ起るということがあるのではない。だから、その起るのは自分がそれと気がつくのでもなく、それを知ることもできない。これを「われ起るといわず」という。また、われ起るとはいわないからとて、別に人があって、この存在が起るのを見たり聞いたり気がついたり、あるいは、あれこれと思い量り、知りわけるわけでもない。だから、他日一歩をすすめて自己を直視する時には、おのずからあるがままなる姿を直視するには、まことに好都合というものである。

しかるところ、その起るというは、かならず時期が到来してのことである。時をほかにして起ることはありえないからである。では、その起るとはどのようなことであろうか。それはただ成るのであろう。すでにそれはある時の成立である。だから、その時にあたって皮肉・骨髄がおのずから現われたとしてもすこしも不思議ではない。だが、その成立はすでにいうがごとく結合して成るのであるから、そこに成るこの身、そこに起るわれは、「ただ、もろもろの存在をもって」成るのである。それは、見る物、聞く声といった対象であるばかりでなく、いまや、われ起るというもろもろの存在である。いや、それは、われ起るとはいえないわれが成ったのである。いえないとは、いわないということではない。いうというのは、それはただ表現であって主張ではないからである。また、その「起る時」とは、ただこの存在が起るのであって、世のいわゆる時をいうのではない。この存在そのものがその起る時なのであって、その時、意志や欲望など三界(がい)ことごとくが競い起るのではない。

 かって、古仏はいった。

「忽然(ねん)として火起る」

その起ることの、なにかに関連して相対的ならぬことを、ここに「火起る」と表現しているのである。

また、古仏に問うていった者がある。

「起滅とどまらざる時いかに」

というのは、その起ると滅するとを、自分で自分が起るのだと思い、自分で自分が滅するのだと思うから、それが停(とど)まらないのを、どうすればよいかというのである。だが、その起と滅のとどまらぬのは、起滅そのものに任せておけばよいのである。むしろ、その気滅のとどまらぬを、そのままに仏祖の御いのちとして断続せしめるのである。それで古仏は、問う者を叱していった。

「それはいったい、誰が起滅するというのじゃ」

そのいう意味は、起滅は起滅にまかせて、「まさにこの身をもって得度すべし」であり、あるいは、「すなわちこの身を現ずる」のであり、そして「ために法を説く」のである。あるいは、「過去心は不可徳」であって、「汝はわが髄を得る」のであり、「汝はわが骨を得る」のである。いったい、誰が起滅するのだというのは、このことなのである。

また、「この存在の滅する時、われ滅すとはいわず」とある。まさしく「われ滅すとはいわず」の時が、それが「この存在の滅する時」である。その滅というのは存在の滅である。滅するとはいうけれども存在といってよかろう。そして、それは存在であるから、煩悩に関わらぬものである。煩悩に関わらないから清(しょう)浄である。そして、その清浄なるものが、とりも直さず諸仏であり初祖である。しかるに、「汝もまたかくのごとし」という。誰が汝でないものがあろうか。さきの刹那もあとの刹那も、みんな汝でであろう。また、「われもまたかくのごとし」という。われであらぬものが誰であろうか。あとの刹那もさきの刹那も、すべてわれだからである。

この滅には、いろいろの見方が具(そな)えられている。いわゆる最高の涅槃という見方もある。それを死というものもある。あるいは、生の執(しゅう)に対していえば断となすものもある。あるいはまた、ついに帰するところとなすものもある。そのようにいろいろの見方があるが、それらすべて滅のありようを示している。だから、その滅が自分のこととなった時にも「われ起る」とはいえないけれども、そのいえない道理は、生のときにはみな同じでも、死の場合にはけっして同じではあるまい。すでに、さきなる存在の滅があり、あとなる存在の滅があり、また、存在にはまえなる刹那があり、あとなる刹那がある。つまり、存在のありようは、前後の存在としてあり、前後の時をもつのみであって、その間になんの関連もなく、絶対であるのが、存在のありようなのである。だから、存在とは、絶対にして、なんの関係もないものだといえば、それでほぼ完全な表現だといえよう。だが、また、その滅を四大・五蘊について見れば、またいろいろことがあり、あるいは、四大・五蘊の移り変わりとして滅を見ても、また一歩をすすめて、ああそうかと思うところがあろう。しかし、そういうことになると、身体(からだ)じゅうに眼のある手があっても、なおまだとても及ばないことであろう。いそがしいことじゃ。だが、ともあれ、滅ということは、仏祖にとっての大事なもんだいである。

しかるに、いま起も滅も、絶対のものであって、たがいに相待つものではないといったが、そこには、やっぱり、物の起るには初めがあり、中があり、また後なるがある。そこは、建前は針をも容れないが、裏では車馬でもおおっぴらで通れるというところであろうか。だからといって、滅をその初・中・後に関連せしむべきではない。そこは、やっぱり絶対である。たとい、さきに滅した処に忽然として存在が生起したとしても、それは滅したものがまた生起したのではない。ただ存在が起ったのである。ただ存在の生起であるから、相待ではなく、絶対である。また、滅と滅とも、相待つものではなく、それぞれ絶対である。むろん、滅にもまた、初めなるがあり、中ごろなるがあり、後なるがあるが、そこに到ってこれが滅だと滅をつまみだそうとしても何ものもない。ただ、心に問うてみれば、やはりそれがあると知られる。また、これまで存在したものが忽然として滅したからとて、それは起が滅したのではない。ただ存在が滅したのである。ただ存在の滅であるから、相関ものではなく絶対である。かくて、たとい、これがすなわち滅というものがあり、これがすなわち起というものがあっても、ただ海印三昧をもって名づけて、それがもろもろの存在だとするのである。これが起これが滅だということが判らないわけではないが、そこをただ、ずばりと名づけて海印三昧というのである。

この三昧というのは、直観であり、その表現である。またいわば、人が夜間に手をうしろにして枕をさぐるがごときである。夜そのようにして背なかに手をやって枕をさぐることは、とおいとおい昔からのことであるが、また仏はそれを「われは海中において、ただつねに妙法華(け)経を宣べ説く」といわれた。けだし、「われ起るとはいわず」であるから「われは海中において」である。その前面も、一波わずかに動けば万波これに随って、つねに宣説するのであり、その後面も、万波わずかに動けば一波これに随っての妙法華経である。たとい千尺万尺の釣糸をのばしてみても、残念ながら、それはただまっすぐに垂れるのみである。いまここに前面といい後面というは、「われは海面において」の意であって、たとえば、前面といい後面というようなものである。前面・後面というのは、わが頭のまえ、頭のうしろということである。

いったい、海のなかには人がいる道理はない。「われ海において」では、世人の住むところでもなく、聖(しょう)者の愛するところでもない。それをいま「われひとり海中において」といい、そこでただ常に宣説するという。その海中というのは、海のなかというのでもなく、海の内だ外だというのでもなく、ただとこしえに法華経を説いているという。それは、東西南北のどこに居るわけではないけれども、船子(し)徳誠(じょう)が偈をもっていえば、「満船空しうして月明を載せて帰る」というところである。その帰るとは、まさしく帰り来るのである。それをあくまでも水に関わって考えるものは誰もないはず。それはただ仏道の関わるところにおいてのみ理解できることである。それは水をもって象徴せられる心境である。さらにいえば、空(そら)をもって象徴せられる心境であり、さらにいえば、泥をもって象徴せられる心境である。水をもって象徴せられる心境は、なおかならずしも海をもって象徴せられるそれではないけれども、さらにそれを超えてゆけば、それは海をもって象徴せられる心境にいたるであろう。これを海印という。また水印といい、泥印といい、心印ともいうのであり、その心印を直々に伝えられて、水をもって象徴し、泥をもって象徴し、また、空をもって象徴とするである。(23~29頁)

〈注解〉海印三昧;その原語は“略”である。“略”とは、大海を意味し、“略”とは、印すること、印象すること、象徴することをいい、また“略”とは、三昧と音写し、定(じょう)と意訳する。よって「大海をもって象徴せられる定」をかくいうのだと知られる。その心行が、いかなる道理によって仏祖のそれとされるかは、いま道元のつづいて精細に解説するところである。

     本覚・始覚;人間の本来有する覚の可能性と、人が教法を聞いてはじめて覚の可能性を実現することとである。

     但以衆法、合成此身;「ただ衆法をもって、この身を合成(ごうじょう)す」と読まれる。そこの「衆法」とあるは、いろいろな存在というほどの意で、それらが合せ結んでこの身が成立しているというのである。たとえば、この身は四大所成(しだいしょじょう)であるといった趣きである。

     道得・言得;言と道は、いずれも「いう」と読むことばであるが、いま道元は、言得を主張するの意にとり、道得はただ表現するの意にもちいている。したがって、そのまえの句に「不言は不道にはあらず」とあるのは、「いえないとは、いわないということではない」となる。

     前念後念;念とは、ここでは最小の時間の単位、いわゆる刹那である。

     手眼;千手観音には、そのそれぞれの手に眼がある。それによって、ここでは、いろいろの見方があるというのであろう。

     印;それはもと“略”の訳語であり、「しるし」とか、「印象」とかの意である。いまここでは、仏祖の心境を、「海」や「水」をもって語っているのであるから、「象徴する」の意にとってよかろうと思われる。(30~32頁)

■曹山の元証大師に、ひとりの僧が問うていった。

「承(うけたま)われば、教えには、「大海は死屍(しし)を宿(とど)めず」ということばあるとのこと。その海はどのようなものでございましょうか」

師はいった。

「万有を包含しているのだ」

僧はいった。

「いかなれば、それは死屍(しし)を宿(とど)めないのでありましょうか」

「息の絶えたものは宿めないからである」

僧はいった。

「すでに万有を包含しているというのに、どうして息の絶えたものは宿ねずとするのでありましょうか」

師はいった。

「万有は、その役をはたさなくなった時に、息が絶えるというのだ」

この曹山本寂は、雲居道膺(うんごどうよう)と同門の兄弟弟子であって、洞山良价(とうざんりょうかい)の宗(むね)とするところは、ぴたりと彼らによって受け継がれている。いま、「教えにこういうことばがある」というのは、仏祖の正しい教えであって、凡庸の聖者のいうところではなく、仏法にかこつけたつまらぬ教えではない。(36頁)

■師は答えて、「万有を包含しているのだ」といった。それは海をいっておる。その意(こころ)の表現するところは、なにか一つの物が万有を包含するというのではなく、ただ包含万有(ほうがんばんゆう)である。大海が万有を包含するというのではない。包含万有というのが大海であるとする。なにものとも判らないが、かりにそれを万有とするのである。仏祖の面々に相見(まみ)えることも、かりに万有と思ってよいのであるが、いま包含という時には、たとえば山も、ただ高き峯の頂(いただき)に立つのみではなく、たとえば水も、深々として海底を行くのみではない。それを集約していってもそうであろうし、また、拡大していってもそうである。たとえば、仏性海といい、あるいは、毗盧蔵海(びるぞうかい)というのも、すべてただ万有のことである。その海の面はどこにも見えずとも、仏祖の面々がその大海に遊泳せられることは疑いない。たとえば、多福禅師は一つの竹やぶについて語って、「一本二本は曲がっている」といい、また、「三四本は斜めだわい」といったが、それも万有を会得せしめる手だてであった。だが、そこのところは、どうして千曲万曲といわなかったのか。また、どうして千叢万叢(せんそうばんそう)もまたしかりといわなかったのか。だが、ともあれ、一むれの竹やぶもまたこうなのだという道理を忘れてはならない。そして、いま曹山が「包含万有」というのも、それもまた万有のすがたである。

そこで、僧がまた、「どうして息の絶えたものはとどめずとするのか」といったのは、ちょっと見ると疑問のようであるが、そこはもうそのような心持ちになっているのである。これまで疑問として抱いてきたものは、いつしかその疑問としたものに相見えるというものである。どんな処だから、どうして息の絶えたものはとどめないのか、どうしてそこには死屍を宿めないのか。そう疑っているうちに、いつしか、ああそれは、すでに包含万有であるから、息の絶えたものはとどめないのだなあと判ってくる。つまり、包含というのは、とどめるのではない、宿(やど)すのでもないと知られるのである。万有は、たといすべてが死屍であろうとも、けっしてそれを宿すことはしない。そんな石は、この老僧は一子も打たないのである。

すると、曹山は、「万有は、その役を果たさなく時に、息が絶えるというのだ」といった。そういう意味は、万有は、たとい生きているものでも、死んでいるものでも、そのなかに宿めるわけではない。たとい死んだ屍(しかばね)であろうとも、万有にあずかる行動のあるものは、すべて包含するであろう、いや、包含しているのであろう。万有のさきにまたあとに、その役を果しているものは、けっして息が絶えたのではない。そこでは、いわゆる一人の盲人がもろもろの盲人の手を引いているのである。その道理はまた、そのまま、一人の盲人が一人の盲人の手を引いているのであり、またもろもろのの盲人がもろもろの盲人の手を引くことである。そして、もろもろの盲人がもろもろの盲人の手を引くとき、それは、包含万有を包含するというものである。かくて、さらにどこの国のどこの世界に行ってみようとも、万有でないものはどこにも見出すことはできないのである。それを海印三昧というのである。(37~39頁)

〈注解〉明頭来明頭打……;普化和尚の鈴鐸偈文として知られる句である。なにが来ようと、その情況に応じて渋滞なきをいう。(40頁)

授 記 ( じ ゅ き )

■仏祖が一人より一人へと直々に法を伝えること、それが授記である。いまだ仏祖にまみえてまなばぬものには、夢にも見えないところである。

その授記の時期にはいろいろある。まだ仏道をまなぼうとする心を発(おこ)さないものに授記することもある。仏性なきものに授記することもあれば、仏性あるものに授記することもある。あるいは、姿あるものに授記するすることもあり、姿なきものに授記することもある。あるいはまた、もろもろの仏に授記するすることもあり、仏はすべての仏の授記を保持しているのである。だが、仏は、授記を得たのちに仏となるのだとまなんではならない。また、仏となってのちに授記を得るのだとまなぶべきでもない。まことは、授記のその時に仏となるのであり、授記のその時に修行がなるのである。だから、すべて仏には授記があるのであり、また、身心に授記を得るのである。したがって、授記がよくよく受領せらるれば、そのとき、仏道もまたよくよく受領せられるのである。だが、その授記には、また身前の授記というのがあり、身後の授記がある。つまり、自己に知ることができる授記があり、自己に知られない授記があり、また他に知らせることができる授記があり、他に知らせることのできぬ授記があるのである。

それによって判るように、授記とは自己を実現することである。あるいは、授記とは実現されたる自己なのである。だから、仏から仏、祖から祖へと、じきじきに相承(あいうけ)てきたものは、ただ授記のみである。べつになに一つとして授記ならざるものはない。ましてや、そのほかに山(せん)河大地があり、大山巨海があろうはずはなく、いわんや、その間にべつにあれこれの人々があろう道理もない。その授記というのは、やっぱり、一句を説くことであり、一句を聞くことである。それは会得できない一句であることもあり、会得せられる一句であることもある。それを行ずるのであり、それを説くのである。その時、それが退くべきことを教えてくれ、また進むべきことを教えてくれるのである。いまわたしどもが坐して衣(ころも)をまとう。それも古来からの授記によるのではなかったならば、けっして実現しないのである。それをわたしどもは合掌して頂戴(ちょうだい)する。かくしてそれが実現するのも授記なのである。

仏はいった。

「いったい、授記にはいろいろあるけれども、いまはかりにその要をとっていえば八種がある。つぎのごとし、

一には、自分だけが知って、他は知らないもの

二には、人々はみな知っていて、自分だけが知らないもの

三には、自分も、また人々も、ともに知っているもの

四には、自分も、また人々も、ともに知らないもの

五には、近い者は気がつき、遠い者は気がつかないもの

六には、遠い者は気がつき、近い者は気がつかないもの

七には、近い者も、遠い者も、ともには気がつくもの

八には、遠い者も、近い者も、ともに気がつかないもの」

このようないろいろの授記がある。だからして、いまこの人間のこころに知られないからとて、授記などあるものかと思ってはならない。あるいは、まだ悟っていない人間が、容易に授記を得るなどあるはずはないといってはいけない。世のつねの人々は、修行の功がみちて成仏のことが決定した時に、はじめて授記のことがあるのだと、そのようにまなんできているようであるが、仏道はそうではないのである。あるいは善知識にしたがって一句をきき、あるいは経巻によって一句をまなぶ。そのことのある時、それがとりも直さず授記を得るのである。それはもともと諸仏の行じたまえるところであり、それが百草の善根というものだからである。

もし授記が語られたならば、それを聞くことを得たものは、みな究極地にいたる人である。しるがよい、一塵もなお無上であるという。一塵すらもなおどこまで向上するか知れない。ましてや、授記がそうでないはずはあるまい。授記こそは大事実現の一法でなかろうはずはない。いや、それは万法であり、修(しゅ)証であり、仏祖であり、坐禅弁道であり、大悟大迷であって、そうでなかろうはずはないのである。かって黄檗が臨済に語って、「わが宗は汝にいたって大いに興(おこ)るであろう」といったのも授記である。けだし、授記とは目標であり、旗じるしであって、かならずしもこれでなくてはならぬというものではない。破顔微(み)笑もそれである。生死去(こ)来のこともそれである。この十方世界のことごとくがそれであり、また、あまねく世界がなんの蔵(かく)すところもないのも授記というものである。(46~49頁)

〈注解〉授記;それはもと“略”の訳語であって、音写して「和伽羅那(わからな)」と記す。その意味するところは、道元がいうがごとく、一般には「修行の功みちて成仏の定まれるとき」、はじめて与えられる決語として解されている。だが、道元の解釈はもっとそれを拡大して、それは「いまだ菩提心を起こさざるものにも」与えられるとする。(50頁)

■「われはいま仏にしたがって、授記の荘厳(しょうごん)のこと、および転次に決を受けるであろうことを聞きて、身心はあまねく歓喜せり」

そのいうところは、まず「授記というすばらしいこと」は、かならず「われがいま仏にしたがって聞く」ということである。わたしがいま仏にしたがって聞くところは、やがてまためぐって「転次に決を受けるであろう」というのであるから、「身心があまねく歓喜している」というのである。それがやがて、つぎつぎに巡って、このわたしが授記を受けるのであろう。それは、過去のわたしか、いまのわたしか、未来のわたしか、それとも他人のことかと思いまどうてはならない。それに「仏にしたがって聞いた」のである。他人から聞いたのではない。迷いか悟りかの問題でもない。また、それは衆生のことでもなく、草木国土のことでもなく、「仏にしたがって聞いた」授記というすばらしい事であり、そして、転次に決を受けるであろう」というのである。その転次というのは、けっして一隅にのみとどまるものではない。だからして「身心があまねく歓びにみちる」のである。その歓びは、必然、身体いっぱいに満ちあふれ、心のすみずみにまで行きわたるのである。さらにいえば、身はかならず心にゆきわたり、心はかならずに身ゆきわたるのであるから、身心にあまねしというのである。かくて、その歓びは世界にあまねく、四方にあまねく、身にあまねく、心にあまねく、まさに、特上にしてまじりけのない歓喜である。それは、疑いもなく、寝ても寤(さ)めても歓ばしめ、迷うにも悟るにも喜ばしめる歓喜であって、それぞれの人が身をもって知ることができるところであるが、それでいて、それぞれの人に関わりのない純粋な歓喜である。その故にこそ、「転次に決を受ける」という、素晴らしい授記のことがなるのである。(62~63頁)

■そこでは、一句一偈を聞いて、たちまちに歓喜の心をもよおす。そういう聞き方をするのがよいのである。さらに皮肉骨髄のことを考えているような暇はないのである。ただ、無上の智慧にいたるであろうとの授記を与えられたならば、それでわが願いはすでに満たされたのである。そう考える人がよいのである。また、それでみんなの望みも充たされるのである。そのように受領するのがよいのであろう。かっては、松の枝をもって授記したこともあり、優曇華をもって授記したこともある。あるいは、瞬目(しゅんもく)をもって授記し、破顔をもって授記したこともあるし、また、皮の鞋(くつ)を与えて授記した先例もある。そうしたことは、すべてこのことが、思量分別のよく解するところではないからであろう。さらにはまた、「わが身はこうだ」との授記もあり、「汝の身はこうだ」という授記もある。そのいう意味は、授記がよく過去・現在・未来の三世にわたるものであることを語っている。それは授記における過去・現在・未来であるから、あるいは自己の授記として実現し、また他己の授記として実現するのである。(67~68頁)

〈注解〉四部・八部;四部は四衆。比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷(うばい、女性の在家仏教者)をいう。八部は八部衆であって、さきの天・龍王以下の八種の異類である。

我身是也・汝身是也;「わが身はこれなり」「汝の身はこれなり」と読まれる。それは、六祖慧能が南嶽懐譲に「我亦如是、汝亦如是」との授記を与えたことを指しているのであろう。(68頁)

■維摩詰は、弥勒菩薩にいった。

「弥勒よ、世尊がそなたに記を授けて、一生にまさに最高の智慧を得るであろうと仰せられたのは、いったい、いずれの生をもって授記を得たというのであるか。過去であるか、未来であるか、それとも現在であるか。もし過去の生(しょう)というならば、過去の生はすでに滅した。もし未来の生というならば、未来の生はまだ至らない。またもし現在の生といわば、現在の生はとどまるところがない。仏の説きたまうところによれば、比丘よ、汝のいまの時は、あるいは生、あるいは老、あるいは滅である。もし無生(むしょう)にして授記をうるといわば、無生はすなわち正しいありかたである。だが、その正しいありかたのなかには、また授記もなく、最高の智慧を得るということもありえない。いったい、弥勒よ、そなたが一生の記を受けたというののは何であるか。真実の生によって授記を得たというのか。それとも真実の滅によって授記を得たというのであるか。もし真実の生をもって授記を得たというのであるならば、真実には生があるはずはないのであり、もし真実の滅によって授記を得たとするならば、真実の境地には滅はないのである。生きとし生きる者はみな真実であり、一切の事どももまた真実である。あるいは、もろもろの聖者賢者もまた真実であり、弥勒にいたるまでみな真実である。したがって、もし弥勒が授記を得るならば、生きとし生ける者もまた当然授記するはずである。その故いかんとなれば、真実は二つならず、異らざるゆえである。だから、もし弥勒が最高の智慧を得るならば、生きとし生ける者もみなまた最高の智慧を得るであろう。その故はいかにといわば、生きとし生ける者はみなさとりの印相(しるし)をまとうているからである」

いま維摩詰がいうところは、如来もこれを間違いとはいうまい。しかるに、弥勒が授記のことはすでに定まっている。したがって、一切衆生が授記のことも、また同じく決定(けつじょう)であろう。けだし、もし衆生の授記がなかったならば、また弥勒の授記もありえないはずだからである。すでにいうがごとく、「生きとし生ける者はみなさとりの印相(しるし)をまとうている」のである。そもそも、授記というものは、今日ここにある衆生と諸仏の智慧のいのちである。だから、一切の衆生もまた、弥勒とともに発心するのであるから、またともに授記するのであり、ともに悟りを得るのである。

だが、しかし、維摩がいうところの「正しいありかたのなかには、また授記もない」というのは、正しいありかたがすなわち授記であることを知らないようである。それは「正しいありようがすなわち悟り」だといいえないとするのと同じことではないか。また維摩は、「過去の生はすでに滅した。未来の生はまだ至らない。現在の生はとどまるところがない」などという。だが、過去はかならずしもすでに滅したのではない。未来はかならずしもいまだ至らないわけではない。あるいは、現在はまたかならずしも住(とど)まらないわけでもない。住(とど)まらないもの、まだ至らないもの、すでに滅したもの、それが現在であり、未来であり、過去あるとまなんできたのであろうが、そこは、さらに一歩をすすめて、さらに、いまだ至らない未来が、それがそのまま過去であり現在である道理もまたいいうるのでなくてはなるまい。

とするならば、生においても滅においても、ともに授記があってよい道理である。滅にあっても生にあっても、ともにさとりを得ることがあってよいはずである。そして、一切の衆生が授記をうる時、そのとき弥勒もまた授記をうるのである。では、かりに一つ維摩に問うてみよう。

「いったい、弥勒と衆生とは、同じなのか別なのか。こころみに答えてみよ」

すでにさきにいうように、もし、弥勒が授記を得るならば、生きとし生ける者もまた授記を得るだろうという。もし弥勒が衆生でないというならば、衆生は衆生ではないし、弥勒は弥勒ではないであろう。どうでござる。そして、まさにここにいたれば、維摩もまた維摩ではないであろう。もしも維摩でないのならば、そなたのいうことはなんの役にも立たないだろう。

かくいうことができるであろう。授記が一切衆生をあらしめる時、一切衆生もまた弥勒もあるのである、と。つまり、授記はよく一切をあらしめるのである。(71~73頁)

〈注解〉維摩詰;在家仏教の経典としての『維摩詰所説経』の主人公である。在家として、菩薩の行を修し、究極地をきわめた人物という想定である。

弥勒;『弥勒経』の主人公であり、「一生補処(ふしょ)」の菩薩として知られる。つまり、この一生において記をうけ、次世には釈迦仏の処を補うと信じられているが、いま維摩は、その一生を問題としているのである。

無生;生滅をはなれたありようをいう。つまり「生滅滅已」の境であって、涅槃がそれであるとする。

;存在のあるがままのすがた。それが真実であり、実相であるとするのが仏教の真理観である。

授決;授記である。記をしばしば決と表現する。(74頁)

観 音 ( かんのん )

■開 題

この一巻が制作されたのは、仁治三年(1242)四月二十六日のこと。例によって興聖宝林寺においてしるしたものであろう。すでにいうがごとく、この年の四月には、「行持」の巻より、この「観音」の巻にいたるまで、じつに四巻が制作されているが、そのなかにおいて、この一巻のみが衆に示されているのは、なんといっても、その主題がポピュラーであることにもよるところがあったであろうか。

さて、観音とは、一応整理しておいたがよいであろうが、もと“略”(音写すれば、阿縛慮枳低湿伐羅(あばらきていしゅばら))の訳語であるが、いわゆる旧(く)訳と新訳とによって、その訳語にも、その理解にも、ややニュアンスのちがいが存している。旧訳においては、その訳語は、観世音であって、略して、また観音とする。したがって、観世音とは、よく世の人々の救いを求める声を聞いて、直ちに赴いて救済の手をのべたもう菩薩といった考え方がつよい。それに対して、新訳においては、その訳語は、観世自在、もしくは観自在である。そこでは、一切諸法の観察はいうまでもないこと、また、世の人々のありようを観察すること自在にして、そのありように応じて自由に慈悲を行じたもう菩薩という考え方が前面に出てきている。つまり、同じく大衆の救済を志向しながらも、聞(もん)より見(けん)にその重点が移ったとでもいうことができようか。

しかるに、これまで、仏祖先徳によって、観音について語られたおびただしいことばの存するなかから、いまここに道元がとりあげるものは、ただひとつ、雲巌(うんがん)と道吾(どうご)の対話である。その理由について、道元は、その奥書にはっきりといっておる。

「いま仏法の西来よりこのかた、仏祖おほく観音を道取すといへども、雲巌・道吾におよばざるゆえに、ひとりこの観音を道取す」

その二人の対話は、すでにこの一巻の冒頭にくわしく記され、かつ、この全巻にわたってくわしい注釈がほどこされているのであるから、もはや、わたしの冗舌を加える余地もないところであるが、ただ一つ、では道元は、この二人の対話が語る観音論が、どの点において余地の仏祖たちのそれに勝るとするのかというならば、それは、その対話がみごとに観音の性と相、つまり、今日の表現をもっていうなれば、観音の本質とその作用をいい得ているというのである。それを道元は、こんないい方をしている。

「たとえば、余仏のいう観音は、ただ十二面であるが、雲厳はそうはいわない。あるいは、余仏のいう観音は、おおよそ千の手眼(しゅがん)があるとするが、雲巌はそうはいわない。また、たとい余仏のいう観音が八万四千の手眼があるといったとしても、雲巌のいい方はそれともちがう」

では、どうちがうというのか。それはもう、その対話のはじめに、雲巌が、「大悲菩薩は、眼のある手をあまたもっておられるが、どうするのですか」という、その問いの構造のなかにはっきりと打ち出されているとする。

大悲の菩薩ということばは、観音の本質を表現することばである。そして、手眼の菩薩を語るときには、そのいとなみをこそ表現しておるのである。だから、雲巌はただ「許多の手眼」つまり、あまたの手眼としかいわない。それを、なにごとぞ、ただ十二面だとか、三十三身とか、千手眼だとか、そんな形状にのみとらわれている観音の考え方は、とうてい「雲巌・道吾におよばず」というのである(76~78頁)

■雲巌の無住大師が、道吾山の修一(しゅいつ)大師に問うていった。

「大悲菩薩は、眼のある手をあまたもっておられるが、どうするのですか」

道吾はいった。

「ひとが夜背なかに手をやって、枕をさぐるようなものだ」

雲巌はいった。

「ああ、わかった。わかった」

道吾がいった。

「そなた、どんな具合にわかったというのだ」

雲巌はいった。

「からだじゅうが、あまねく眼のある手なのでしょう」

道吾がいった。

「いうことは、なかなかいいよるわい。ただ、それでは八九分どおりいい得たところだ」

雲巌はいった。

「それがしは、まあ、そういうところですが、では、兄弟子は、どんな具合に仰せられる」

そこで道吾がいった。

「からだじゅうが、すべて眼のある手なのだ」

観音を語ったことばは、むかしから今まで、あれこれと沢山にあるけれども、いずれもこの雲巌と道吾の問答にまさるものはない。観音についてまなぼうと思うならば、いまの雲巌・道吾のことばを研究してみるがよい。

いまいうところの大悲菩薩というのは、観世音菩薩のことであり、また観自在菩薩ともいう。諸仏の父母ともいうべき菩薩であって、まだ得道しない、仏よりも以前の存在だと学んではならない。過去には正法明(しょうぼうみょう)如来であられたのである。(82~83頁)

■しかるに、いま、道吾が「ただいい得ること八九分のところか」ということばを聞いて、それは、十分にいわねばならぬところを、よくいい得るにいたらずして八九分どおりというのかと受取るものが多い。もし仏法がそんなものであるならば、とても今日にまでも続いているはずはない。いうところの八九分どおりというのは、百千といってもよいのである。「あまた」というところだとまなぶべきである。すでに八九分といっているのだから、それはもう八九分にはとどまらぬはずである。それが判らなければいけない。仏祖たちのことばは、そのようにまなびいたるべきものなのである。

すると雲巌は、「それがしは、まあ、そういうところですが、兄弟子は、では、どう仰せられます」よいった。道吾が「八九分どおりいい得たところだ」というのであるから、雲巌もまた「ただ、かくのごとし」というのである。それは、わが跡をとどめずというところであるが、それでいて、そのいわんとするところは、ちゃんといい得ているのである。いましがた自分のいわんとしたことを、いわないままで差し控える時には、「それがしは、ただ、かくのごとし」などとはいわない。

すると道吾は、「からだじゅうがすべて、手眼なのだ」といった。いうところの意は、手眼があそこにもあり、ここにもあって、それで「からだじゅう」というのではない。そうではなくて、「からだじゅう」がすべて手眼であるのを、「通身これ手眼」というのである。

ということは、身体がそのまま手眼であるということではない。だから、「あまたの手眼をもって」という。手と眼を用いることがさまざまであるならば、その手眼は、どうしても「通身これ手眼」でなくてはなるまい。だから、もしも、「あまたの身心(しんじん)をもって、それをどうするのだ」と問うときには、「通身これいかに」といってもよいであろう。ましてや、雲巌が「遍」といい、道吾は「通」といったが、それらはいずれも美事にいい得たるものであって、かの「あまたの手眼」をいうには、それぞれそのような表現があってよいであろう。

それなのに、釈尊の説きたまう観音は、たいてい千手眼(しゅげん)であり、十二面であり、あるいは三十三身といい、あるいは八万四千の相好(ごう)があるという。そして、いま雲巌・道吾の語る観音は「あまたの手眼」をもつという。だが、よくよく思いみれば、それらはすべて多い少ないをいったものではない。とするならば、この雲巌・道吾のいう「あまたの手眼」ある観音をまなびいたれば、すべての仏もまた、観音の三昧の境地を、ほぼ八九分どおり成就することを得るであろう。(94~95頁)

阿 羅 漢 ( あ ら か ん )

■開 題

この一巻が、制作せられ、そして衆(しゅ)に示されたのは、仁治三年(1242)の夏五月十五日のこと、いつもの通り、宇治の興聖宝林寺においてのことであった。五月雨(さみだれ)の季節にはいって、ようやく雨もよいの日々がつづいていたであろうと察せられる。

この一巻はごく短いものであるが、わたしには、いささか興味をそそられるものが存する。なんとなれば、阿羅漢とは、よく知られているように、いわゆる小乗仏教の聖者をいうことばである。パーリ語でいえば“arahant”,サンスクリットでは“arahat”,それを音写して阿羅漢となし、それを意訳して応供(おうぐ)となす。修学すでに成って、またまなぶべきところなく、世の供養を受くるに応(あたい)する位にいたれる者というほどの意である。つまり、世の供養に応(あたい)するから応供(おうぐ)であり、既にまなぶべきところがないから無学位とて、これを、四果すなわち仏道修行の四つの段位の最高位として揚げるのが、小乗仏教の考え方である。

それに対して、大乗仏教のよってたつ立場は、阿羅漢道を批判して、あらたに菩薩道をたてるところにあるとするのが、世のつねにいうところである。とするならば、いったい、いま道元はこの巻題を揚げて、その間のずれをいかに処理するのであろうか。あるいは、阿羅漢そのものに対して、いかなる評価を付与しようとするのであろうか。それが、わたしの、いささか興味をそそられる点であったのである。

だが、いま道元は、阿羅漢という名字をも、その考え方をも、けっして却(しりぞ)けない。それをもって、「名づけて仏地(ぶつじ)となす」のが、まさしく「仏道の通軌(つうき)」であるとする。

「阿羅漢を称して仏地とする道理をの参学すべし、仏地を称して阿羅漢とする道理をも参学すべきなり。阿羅漢果のほかに、一塵一法の乗法あらず、いはんや三藐三菩提あらんや」

そのいうとこらは、阿羅漢の実現する境地を描いて、このほかに仏教の究極とするところはないということであり、それこそが仏地すなわち仏の境地であり、それこそが阿耨多羅三藐三菩提を志求(しぐ)するゆえに」

である。まさしく仏道は無窮である。最高の智慧の追求には窮(きわ)まるところはなく、したがってまた、阿羅漢の追求にもまた窮まるところがあろうはずはないとする。

そこまでいたった時、ふるい小乗仏教の聖者としての阿羅漢の面目は、そのままにして、まったく新しい大乗仏教の光のもとに齎(もたら)されて燦(さん)として輝く存在となる。もはや、それは枯木寒巌のごとき存在ではない。いまや、それは、あくまで最高の智慧を追求し、精魂をかたむけて打坐(たざ)しているのであり、あるいはまた、いまも昔も、師と弟子とがたがいに機に投じて、破顔しまた瞬目しているのである。いま道元がその瞼のうちにえがくものは、そのような阿羅漢のすがたなのである(100~102頁)

〈注解〉;煩悩をいう。

第四果;小乗の修行の段階を、預流果、一来果、不還(げん)果、無学果とたてる。その第四果はその最高の段階であって、また阿羅漢果という。(105頁)

栢 樹 子 ( はくじゅし )

■開 題

この一巻が制作せられたのは、仁治三年(1242)の五月二十一日のこと。例によって興聖宝林寺において衆に示された。奥書の日付に「五月菖(しょう)節二十一日」と見えているのは、雨にぬれる菖蒲のすがたをでも眺めてであろうかと思わせられることである。

さて、巻頭にみえる「栢樹子」の栢は、柏の俗字であって、ふるい語録などには、「柏樹子」でみえている。その柏は、いうまでもない、「かしわ」であって、わたしどもにも親しみ深い木である。だが、それにも増して、わたしども仏教者にとってよく知られているのは「庭前(ていぜん)の栢樹子」の一句である。それがこの一巻の主題であることは申すまでもない。

だが、道元がまず語りいずるところは、その有名な公案のことではなくて、それを打ち出した趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)その人の行履についてである。そして、あまり長からぬこの一巻の三分の一をこえる分量を、まずその行履を語ることにあてているのである。おそらく、道元は、よほどこの仏祖に心を寄せていたものと思われる。そのなによりの証拠には、道元はそのくだりにおいて、古仏ということばを趙州のために二度まで用いている。古仏ということばは、道元が仏祖を語る場合に、その最高の表現として用いることばであって、滅多なことでは用いていないのである。

わたしも、もともと、この仏祖の自由闊達なことばに、ひそかに心を惹かれていたのであるが、いま、道元が語る趙州の行履を訳するに当たって、その心持ちのいよいよ新たなるものを感じたことである。なかでも趙州の「十二時の歌」と称されるもののうち「辰の刻」(いまの午前八時ごろ)すなわち食事のことを歌った詩を訳していて、わたしはなにか身震いするようなものを感じた。その原文は、訓読すればこう読まれる。

「烟火徒労にして四鄰を望む

饅頭(食ヘンに追)子(たいす)は前年に別れたり

今日思量して空しく津(しん)を嚥(の)む

持念すくなくして嗟歎(さたん)しきりなり」

「米なくむなしく四隣の炊煙をながむ

饅頭・団子はすでに前年に別れたり

今はただ思いいでてつばきを呑む

嗟歎しきりにして法を念(おも)うはまれなり」

それは、一見して洒脱をきわめる詩であるが、わたしはそれを訳しているうちに、これは到底、洒脱とか闊達とかといって済ませることのできないものであることを感ぜしめられた。なにか、その底には、身震いするような凄いものが蔵せられているのである。そして、趙州従諗(しん)とは、そのような古仏であったにちがいないと思う。

では「庭前の栢樹子」ということばも、「栢樹仏性」と問答も、いまはただ、古仏が古仏のことばを解説するままに、推し頂くのほかはあるまいと思う。(118~119頁)

■趙州真際(ざい)大師は、釈尊より数えて第三十七世である。六十一歳にしてはじめて発心し、出家して仏道を学んだ。その時、彼は誓うていった。

「たとい百歳であろうとも、もし彼がわたしよりも劣っているならば、わたしは彼をおしえよう。たといわずかに七歳であろうとも、もし彼がわたしよりも勝れているならば、わたしは彼におしえを乞うであろう」

そのような誓いをたてて、南のかたに旅し、道を求めているうちに、南泉にいたって普願和尚を拝した。その時、南泉は方丈にあって横になっていたが、趙州がやってきたので問うていった。

「どちらからおいでじゃ」

趙州はいった。

「瑞像(ずいぞう)院からでございます」

南泉はいった。

「では瑞像は見たかなあ」

趙州はいった。

「瑞像は見ませんでしたが、横になった如来を見ました」

そこで、 南泉は身をおこして問うていった。

「そなたは、いったい、誰ぞ師によって得度した沙弥(しゃみ)か、それとも師はないのか」

趙州は答えていった。

「師について得度いたしました」

南泉はいった。

「では、そなたの師はどなたじゃ」

趙州はいった。

「まだ春のはじめで寒うございます。伏しておもんみれば、尊体には御機嫌うるわしゅう存じあげます」

そこで南泉は、維那(いのう)をよんでいった。

「この沙弥をしかるべくとりはからえ」

そのようにして、趙州は、南泉に身を寄せることとなり、さらに余処に赴くことなく、そこで修行すること三十年におよんだ。その間、寸陰をもむなしゅうすることなく、雑事にかかわることもなかった。ついに、南泉の法を嗣いでからのちは、趙州の観音院に住すること、また三十年におよんだ。その住持としてのありようは、世のつねの諸方の住持どもとはまったくちがっていた。

ある時には、趙州はこんな偈を説いたこともあった。

「米なくむなしく四隣の炊煙をながむ

饅頭・団子はすでに前年に別れたり

今はただ思いいでてつばきを呑む

嗟歎(さたん)しきりにして法を念(おも)うはまれなり

近くの村びとにも碌なやつはなく

来る者はただ茶を飲みにきたという

茶をのんで食うものがなければまたぶつぶつとぬかす」

かわいそうに、飯をたくことも稀であり、おいしい物はむろんすくない。饅頭や団子は前年にたべたきりだという。近隣の村びとがくるのは茶をのみにくるだけである。だから、茶をもって来るもの(入門するもの)は、その辺りの者ではあるまい。彼らは賢者をもとめる雲水であるが、この趙州のなりたいと思うものはあるまい。

その趙州は、またある時、偈をなしていった。

「ひそかに天下の出家人を思いみるに

わが住持のごときはいくばくかある

土の寝(ね)台にやぶれた粗竹をしいて

楊(やなぎ)を編んだ枕には被(おお)いものもない

尊像のまえには焚(た)くべき香もなくて

牛糞のにおいのみがただようている」

この表現をみただけで、その寺の暮しがいかに貧しいかがよく判るのである。その暮しかたをよくよくまなぶがよいのである。とどまる僧たちも多くはなく、二十人に満たないというのは、このような行き方がむつかしいからである。僧堂も小さなもので、前架・後架のわかちもない。夜のあいだも灯火がなく、冬になっても炭火もない。ふとみれば、かわいそうな趙州の老後のくらしであるが、これこそ古仏のみさおというものである。

また、ある時のこと、僧堂の床几(しょうぎ)の脚がおれたことがあった。すると趙州は、もえさしの材をそえ木として、縄でしばって、いつまでもその儘にしておいた。知事の役の僧が、あれは取りかえたいと申しあげたが、趙州はそれを許さなかった。まったく世にもめずらしい事である。

日々の生活は、朝めしも昼めしもまったく米粒のみえない粥ばかり、ただ空しく窓に対して坐し、隙間風にさらされるばかりであった。時には、木の実をひろうて、自分も雲水も、それを日用の糧(かて)にあてはまることもあった。いまの後進者たちが、かの師の行履を讃(ほ)めたたえるのは、とてもその行履には及びもつかないが、せめて古をしたう心ばえをというのであろう。

また、ある時には、衆(しゅ)に示してこのように語った。

「わしは南方にあること三十年、ただ一筋に坐禅した。なんじたちも、この一大事を成しとげたいと思うならば、理を究めて坐禅してみるがよい。三年・五年・二十年・三十年とそうしたならば、道を得ないということはない。もし得なかったならば、わしの首をとり、その髑髏を柄杓にして、小便を汲むがよろしい」

趙州はそのように誓ったが、まことに坐禅によって道をもとめることこそ、仏道の直路というもの。まさに理を究めて坐禅するがよろしい。

のちに、人々は「趙州は古仏である」といったことである。(124~128頁)

〈注解〉趙州真際大師;趙州従諗(897寂、寿120)。南泉普願の法嗣(ほっす)。趙州の観音院に住した。諡して真際大師と称する。

     南泉;南泉普願(834寂、寿87)。馬祖道一の法嗣(ほっす)。池陽の南泉山に住す。

沙弥;出家してまだ比丘とならぬ小僧をいう。有主・無主は師のありやなしやを問うのである。

     維那;寺中にあっていろいろの事務をつかさどる役名をいう。

前架・後架;僧堂にて、前架は役僧の坐席、後架は雲水の坐席をいう。(125頁)

■趙州の真際大師に、ひとりの僧が問うていった。

「いったい、祖師が西の方から来られたのは、どういう意(こころ)でありましょうか」

趙州がいった。

「庭前の栢樹子じゃ」

僧はいった。

「和尚よ。外境をもって人にしめしてはなりませぬ」

趙州がいった。

「わしは、外境をもって人に示しはしないよ」

僧はいった。

「では、いったい、祖師が西の方から来られたのは、どんな意(こころ)でありましょうか」

趙州がいった。

「庭前の栢樹子じゃ」

この一則の公案は、趙州から始まったものであるが、突きつめてみれば、もろもろの仏たちがその全身をもって成しきたったところであって、誰のことばというべきものでもないのである。

ついては、まず知らねばならぬことは、いま「庭前の栢樹子」というのは、外境を語ったものではないということである。また、かならずしも自己を語ったものでもないのである。祖師が西来の意味は、けっして外境にもまた自己にも属するものではないのである。だから、「和尚は外境をもって人に示すべきではない」というのであり、また、「わしは外境をもって人に示しはしない」というのである。

いったい、いずれの吾だって吾であってよいのだから、吾もまた人でなかろう道理はない。だが、外境の問題となると、それはどうしても西来の意(こころ)に関わってくる。西来の意をほかにして、その外境はありえないからである。だからといって、外境があってはじめて西来の意が起こるというものでもなく、また、祖師の西来の意は、かならずしも正法の眼目とするところ、涅槃のふしぎな心というわけでもない。それはただの心でもなく、ただの仏でもなく、また、ただの物でもないのである。

いまかの僧が「祖師が西の方から来られたのは、どういう意(こころ)であろうか」といったのは、ただの問いばかりではない。だからといって、師も弟子もともに判っているというわけでもない。いったい、こういう問答の時は、向うもまだはっきりと判っていないし、こっちもまたどれほど判っているかというところである。事がめんどうであるから、ずばりと矛盾をこえて裁断するのである。「虚を承(う)けて響きに応ずる」とでもいうところであろうか。是も非もこえてずばりといってしまえば、「庭前の栢樹子」ということになる。それが外境のものでなくっては、栢樹子であろうはずはない。だが、たとい外境であっても、「わしは、外境をもって人に示しているのではない」のであり、「和尚は外境をもって人に示してはならない」のである。

思うに、その柏樹子は、古祠(こし)の栢樹子ではない。古祠のそれではないから、そのうちに枯れてゆくであろう。枯れてなくなるとすれば、またわが工夫が必要となってくる。だが、工夫がいるということは、「わしは外境をもって人に示してはいない」証拠である。では、今度はなにをもって人に示せばよいかというなれば、今度は「吾もまたかくの如し」とでもいおうか。(130~133頁)

〈注解〉;人の認識作用の対象をいう。外界であり、外境である。

     公按;もと「公布の案牘(とく)」の意のことばであるが、それによって、仏祖のことばを求道者に与えて工夫させる一定の問題をいう。さだまれる問題というほどの意であろう。

古祠;思うに古祠とは、孔子廟のことであろう。そこには、二十四株の柏があって、犯すことを禁じていたので、永年にわたって保存せられたという。いま庭前の栢樹は、そうでないとするのである。(133頁)

■趙州(じょうしゅう)の真際(ざい)大師に、またひとりの僧が問うていった。

「栢樹もまた仏性がありましょうか、どうか」

趙州はいった。

「有り」

僧はいった。

「では、栢樹はいつ仏となるのでありましょうか」

趙州はいった。

「虚空が地に落ちるのを待ってである」

僧はいった。

「では、虚空はいつ地に落ちるでありましょうか」

趙州はいった。

「栢樹子が仏になるのを待ってである」

いまの趙州のことばをよく聴き、またかの僧の問うところも捨てないがよろしい。いま趙州がいう「虚空が地に落ちる時」というのと、「栢樹が仏になる時」というのとは、たがいに関連したことをいっておるのではない。いまかの僧は栢樹を問い、仏性を問い、成仏を問い、時節を問うているのである。あるいは、虚空を問題とし、また、その地に落ちることを問題としているのである。また、趙州がかの僧に答えて、「有り」といっておるのは、「栢樹に仏性あり」というのである。そのことばをよくよく理解して、仏祖のいのちとするところに通暁(ぎょう)しなければならない。

いったい、栢樹子に仏性があるなどとは、世のつねにいい得ないことであり、いまだかっていわれたことはないのである。だが、いまやそれはぶっしょうがあるという、そのありようをはっきりと知らねばならない。では、栢樹には仏性があるとして、その仏性が果(み)をむすんだ時には、どんな仏になるのか。また、その寿命の長短や、身長の大小はいかに。あるいは、その種類もまたききたい。さらには、たくさんの栢樹がああるが、みんな同じ種族であるか、それとも別種のものもあるのか。さらにまた、仏となる栢樹のほかに、修行する栢樹もあり、発心する栢樹もあるのであろうか。それとも、栢樹には成仏の事はあっても、修行や発心のことはないのであろうか。さらにはまた、栢樹と虚空とは、どんな関係があるのか。栢樹の成仏は、かならず虚空が地に落つる時を待つというのは、栢樹の功を樹(た)てるのはかならず虚空におうてだというのであるか。とするならば、栢樹の位置すべきところは、虚空の初位なのか最上位なのか、それらのことも、審(つまび)らかに思いめぐらしてみるがよい。

そこで、わたしは、ひるがえって老いたる趙州に問うてみたい。「あなたもまた一本の枯れ栢樹でござるなれば、そのような事どもを経てこられましたか」と。いったい、栢樹に仏性があるなどとは、外道や小乗の輩(やから)の考えうるところではなく、また、経・論の研究にのみ没頭している学者などの見聞しうるところでもない。ましてや、枯木寒岩(こぼくかんがん)のやからのことばにそんな花の咲こう道理はない。ただ趙州の同類どものみが、よくこのことを学びきたり、追求しいたることができるのである。

いま趙州は栢樹に仏性があるといった。だが、栢樹といえば栢樹にこだわり、仏性といえば仏性にひっかかる。かくて、この表現は、だれでもすぐ判るといったものではない。仏法をまなぶ人々でも、かならずしもこのことばを究めつくすことはむつかしい。たといもろもろの仏たちだって、それをいい得る仏もあり、いい得ない仏もあるというものである。

そこで趙州は、「虚空が地に落つる時を待つ」といったが、それは、あり得ないことをいうのではない。栢樹子が仏となる度ごとに、虚空が地におちるのである。その響きは、百千の雷(らい)よりもはげしい。その栢樹が成仏する時は、いちおうこの世の十二時のなかのそれであるが、またそれはこの世ならぬ時でもある。その地に落ちる虚空というのも、この世の人々のみる虚空のみではない。そこには、もう一つの虚空があるが、それは余人の見ざるところ、ただ趙州ひとりの見るところである。また、虚空が落ちるところの地というのも、この世の人たちの住む地ではなくて、そこには、もう一つの地がある。それは、光も闇もいたらぬところ、ただ趙州一人の到るところである。そして、虚空が地に落ちる時には、たとい日月でも山河でも、ともに落ちざるはないであろう。

では、いったい、仏性あるものはかならず成仏するといったのは誰であるか。そもそも仏性とは、仏となって以後にい得ること。せいぜいのところ、成仏とともに生ずる仏性もある。そこは、いうなれば、なんぞ必ずしも然(しか)らんやというところであろうか。では、いったい、それをどういったらよいものか。(136~139頁)

〈注解〉初地・果位;菩薩修行の五十二位のなかで、第四十一位より五十位までを十地という。その第一位、歓喜地(かんぎち)を初地という。それに対して果位とは、さとりの位であって、これを究竟(くきょう)位とする。ただし、ここでは、栢樹が成仏するのは、虚空のどの辺でかといっているのであって、べつに五十二位に関係はあるまい。

枯木死灰;小乗の聖者の非活動的境地をいうに、枯木といい、灰心といい、滅智といい、あるいは寒巌という。いまは、枯木寒巌と訳しておいた。

仏性は成仏以後の荘厳;仏性とは、仏となって以後にいい得ることというほどの意である。その点において、道元はあきらかに、「一切衆生、悉有仏性」というところを、そのままに受けとっていない。その仏性についての道元の所見は「仏性」の巻につまびらかである。(140頁)

光 明 ( こうみょう )

■開 題

(前略)道元は、まず、その冒頭に長沙景岑(ちょうしゃけいしん)のことばをあげる。そこでは、かの師は「仏祖の光明」について語っているようである。この「十方世界のことごとく」がすべて、仏祖のまなこであり、仏祖のことばであり、仏祖の全身であり、仏祖の光明ならざるはないというのである。それは、けっして、単なる象徴的なことばではないのであるから、それをまずつぶさにまなびいたらなければならない、と道元はいう。

ついで、道元は、雲門文偃(ぶんえん)のことばをあげて語る。それによって道元がいわんとするところは、そのような光明を有するものは、けっして仏祖のみの限ったものではないということである。

「人々ことごとく光明の在るあり」

だが、

「見ようとしても見えない。なんにも判らない。では、いったい、人々に光明があるとはどういうことだ」

それは、雲門が高座から衆にむかっていったことばであった。だが、僧たちは、誰も答えるものがなかった。すると、雲門がみずから代わって答えていった。

「僧堂・仏殿・庫裡(くり)・山門じゃ」

わたしは、その雲門の一句にたいへん心を惹かれる。だが、それはどういうことかと問われるならば、むろん、わたしにも説明することはできない。かくて、道元がこの巻末にしるす奥書の一句が、ふしぎな雰囲気をまとうて生きてくるのである。

「時に、梅雨は霖々として降り、軒端の雨だれは滴々として已まぬ。いったい光明はいずこにかある。やはり人々は雲門のことばに教えられねばならないものであろうか」(143~144頁)

■いうところの仏祖の光明とは、十方の世界のことごとくがそれである。すべての仏、すべての祖がことごとく光明である。仏と仏とがすべて光明なのである。仏が光であり、光が仏である。つまり、仏祖は、仏祖を光明としているのである。この光明を修行して、仏となり、仏として坐し、仏を証(あか)しするのである。その故をもって「この光は東方の一万八千仏土を照す」というのである。このことばそのものがすでに光明である。「この光」というは仏なる光である。「東方を照す」とは、東方はすなわち光のあるところだからである。東だ西だという方角の俗論ではない。それがもろもろの存在の世界の中心なのである。拳(こぶし)の中央なのである。つまり、ことばの上では東方というけれど、まことはそれは光明の幾分の一かにすぎない。だから、この世界にも東方があり、他の世界にも東方があり、さらには東方にも東方があることを学ぶがよろしい。

また「一万八千」というのは、万とはいえど、拳の半分ぐらいのもの、心の半分ぐらいのものである。かならずしも、いくつというわけではない。そもそも、仏土というものは眼睛のなかのことことである。それを、なんぞ、東方に照すということばを聞いて、なにか一条の白絹(しろぎぬ)が東の方にずっと渡っているかのように想像するのは、ほんとうの仏教の学び方ではない。十方の世界のことごとくが、ただ東方なのである。東方をもって十方の世界のことごとくを語るのである。かくして、そこに十方の世界のことごとくがあり、また、十方の世界と語ったことばが、一万八千の仏土と聞えてくるのである。(148~149頁)

〈注解〉長沙招賢大師;長沙景岑(ちょうしゃけいしん、生没年不詳)。南泉普願の法嗣(ほっす)。(140頁)

■一つ一つの光明が、さまざまの草まのである。さまざまの草である光明は、その茎もその葉もその花もその果も、その光の色はすべて他から与えられたものではない。いろいろさまざまの光明がすでにそこにあるのに、なにをまた光(こう)と説き明(みょう)と説こうぞ。いったい、どうして山河大地が忽然として生じたというのであるか。そこのところは、長沙がいうところの「十方の世界はことごとく自己の光明である」という表現をこそ、つまびらかにまなびいたるがよろしい。光明なる自己が十方の世界のすべてであることをまなびいたるべきである。

生まれ来り死して去るのも光明の去(こ)来である。凡をこえ聖(しょう)をこえるというも光明の色どりである。仏となり祖となるというのも光明の色彩のことに過ぎない。修行する証得するということがないわけではないが、それもまた光明のいたすところである。草木といい牆壁(しょうへき)といい、あるいは皮肉といい骨髄というも、すべて光明の赤きであり白きである。山水に霞たなびき、鳥とんで天にいたるも、みな光明のめぐらすところである。自己の光明を見聞するは、仏に値(あ)えるしるしであり、仏に見(まみ)えるあかしである。けだし、十方の世界のことごとくが自己であり、この自己こそは十方世界のすべてであって、もはやそれを避(よ)けて通る余地はありえない。たとえ避けてゆく路があるとしても、それはただ差別の世界をこえて彼方にいたるだけのことである。詮ずるところは、この髑髏(どくろ)をささえる七尺の身が、とりもなおさず全世界のすがたであり形である。仏道においていうところの尽十方世界とは、この独露・形骸(ぎょうがい)・皮肉・骨髄のほかはないのである。(154頁)

身 心 学 道 ( しんじんがくどう )

■開 題

この一巻が、興聖寺において制作され、衆に示されたのは、仁治三年(1242)の秋の重陽()ちょうようの節句、つまり九月のことであった。菊花くそい咲いて天日うららかの頃とて、来ってこの師の説法に耳を傾ける者もすくなくなかったことであろう。かの『建撕記(けんぜいき)』が、

「この深草寺は、皇城(こうじょう)に近ふして、月卿雲客(げっけいうんきゃく)、花(か)族車馬、往来耐えず」

と記しているのも、このころの興聖寺の繁昌ぶりをしるしたものであろう。

だが、このころの道元の心中は、かならずしもその秋天のように静かに晴れわたったものではなかったように、わたしには思われてならない。いまもいう『建撕記(けんぜいき)』はしるしていう。

「同(仁治三)年八月五日、天童如浄和尚語録はじめて至る。同六日上堂あり」(ただし『如淨和尚語録』の後序によれば、仁治二年二月中旬とあるが、それは相弟子の瑞巌義遠が書写して道元あてに送った日付でもあろうか)

そして、その上堂のときのことばには、つぎのような一句がしるしとどめられている。

「箇是天堂打ボツ跳、踏翻東海龍魚驚」(これはこれ天堂ボツ跳を打ち、東海に踏翻(とうはん)して龍魚おどろく)

ちょうどこの『身心学道」の巻のなかにも「ボツ跳」という語がみえている。ぱっと魚のはねるさまをいうことばである。先師如浄がなくなったのは、道元が告暇(こくか)したあくる年、紹定(じょう)元年(1228)のこと。それからもう十四年の歳月をけみしているのだが、いま、その先師の語録に接するにあたって、道元の心中のおどろきというか、目覚めというか、それはまさに察するに余りありというところである。それをいま道元は、東海の龍魚のおどろきをもって語っているのである。

ここに、そのようなことを敢えて挿(さしはさ)んでいうのは他でもない。この『身心学道」の巻は、その語録到来ののちの最初の制作であるからである。むろん、この一巻のなかには、別に際立ってその影を投じているわけではない。おそらくは、この一巻の構想は、その到来の以前になっていたものにちがいあるまい。東海の龍魚の驚愕がその果を結ぶためには、なお藉(か)すにもっと時をもってしなければならぬであろう。ただ、このころより以後しだいにあらわとなってくる道元の内的展開を理解するためには、この東海の龍魚のおどろきと目覚めは、その不可欠の要素であることを、ここにはっきりと言及しておかねばなるまい。

さて、この『身心学道」の巻の構想は、きわめて簡明である。学道とは、仏道をまなぶということである。その仏道のまねびを、道元はかりに二つに分って語ろうとするのである。その二つとは、いうまでもないこと、心をもって学することと、身をもって学することである。『身心学道」とは、その二つを併せたる巻題にほかならない。

ついで道元は、まず心学道について語り、さらに身学道について説明する。それでこの一巻はつきる。その二つの部分には、それぞれ道元が心を砕いて語る核心をなす問題がある。その一つは、心である。そのもう一つは、身である。

それをもっと具体的にいえば、心学道の部分においては、「山(せん)河大地・日月星晨これ心なり」との表現について注釈するのが中心であり、また、身学道を語っては、「尽十方界是真実人体」(尽十方界、これこの真実人体)ないし、「生死去(こ)来真実人体」の句について究(ぐう)尽することが主たる課題として語られている。とすると、心をもって学道するとは、また身をもって学道するとは、詮ずるところ、心をまなぶことであり、また身をまなぶことだといってもよいのであろうか。この一巻を訳しながら、わたしの胸中には、「仏道をならふといふは、自己をならふ也」というあの「現成公案」の一句が、しきりと明滅したことであった。(166~168頁)

■仏道は、行ぜざるには得ず、学ばざるにはうたた遠い。南嶽の大慧禅師はいった、「修行証得ということはないわけではない。ただ純粋でなくてはいけない」と。もし仏道をまなばなかったならば、外道や極悪なものの道に堕ちるであろう。だから、前の仏も後(のち)の仏もかならず仏道を修行するのである。仏道をまなび習うには、いまかりにいわば二つある。心をもってまなぶことと、身をもってまなぶことがそれである。

まず、心をもってまなぶとは、あらゆる心をもってまなぶことをいう。その心というものには、質多(しった)すなわち慮(おもんばか)る心があり、汗栗駄(かりだ)すなわち心臓の心があり、また矣栗駄(いりだ)すなはち要をあつめた心要をいう場合もある。また、仏と人の気持が相通じて、さとりを求める心をおこし、仏祖の大道に帰依して、求道(ぐどう)のことを学習するということもある。その時には、たといまだ真実の求道の心はおこっていなくても、すでにさきにその道を行じたもうた仏祖のあとに倣(なら)うがよい。それが菩提心をおこすというものであり、それが赤心というものであり、古仏の心というものであり、また、いわゆる平常心というものであり、三界一心というものである。

さらにいえば、それらの心をすべて打ち忘れて仏道をまなぶものがあり、また、とくに心を取りあげて仏道をまなぶものもある。だから、思量しながらまなぶものもあれば、また思量をすててまなぶものもある。あるいは金襴の衣を正伝しまた頂戴するということもある。あるいは、礼拝して位置に就いたとき、「汝はわが髄を得たり」とのことばを頂くということもあれば、あるいは、米を碓(つ)き、衣を伝えられて、心をもって心をまなぶということもある。(171~172頁)

〈注解〉南嶽大慧禅師;南嶽懐譲(なんがくえじょう、744寂、寿68)。六祖慧能の法嗣(ほっす)。南嶽の般若寺観音院に住す。(後略)

     金襴衣……;仏祖と迦葉のあいだに行われた伝衣のことをいうのである。

碓米伝衣……;五祖弘忍と六祖慧能のあいだに行われた嗣法のことをいうのである。

     色にかかる・空にかかる;物質の世界で考え、抽象の世界で考えられているというほどの意。古来、六欲天といい、四(し)無色界いえるものが、道元の頭にあるのである。有形の世界と無形の世界といってもといであろう。(175~176頁)

■菩提心を発(おこ)すという。その心は生死のことにあたって得ることもある。あるいは、涅槃に入りてこれを得ることもある。あるいはまた、生死や涅槃をほかにして得らるることもある。どんな場合とかぎったものではなく、発心と境涯とは関係はない。境によって発(おこ)るものでもなく、智によって発るものでもなく、ただ菩提心が発るのであり、あるいは、ただ菩提心を発すのである。だから、菩提心を発すということは、有でもなければ、無でもないし、善でもなければ、悪でもなく、あるいは、善悪いまだ定まらぬものでもない。また、それは、業によって報いられる境遇を因由として発るものではなく、天の住みびとはけっして発さないといったものでもない。ただ時期がきさえすればきっと菩提心を発すであろう。けだし、菩提心を発すことは、その住むところになんの関係もないからである。そして、まさしく菩提心を発したその時には、存在の世界はことごとくこの心を発すにいたる。そういえば、あたかもこの心がその住むところを転ずるように思われるであろうが、そのことは、その住むところの知るところではない。ただ、身心(しんじん)・住処がともに一本の手を出すのであり、ただ、おのずからにして手を出すのである。どんな輩(やから)のなかに住んでいようとも独立独歩の道をゆくのである。たとい、地獄・餓鬼・畜生・修羅などのなかにあろうとも菩提心を発すのである。

また、赤心片々という。片々とはきれぎれなるさまをいう。そして、赤心というものはすべて片々たるものである。一きれ、二きれといったものではなく、ただ片々としているのである。蓮の葉は団々として、そのまるきこと鏡に似ているし、菱の実の角は尖々(せんせん)として、その尖(とが)れること錐に似ている。だが、鏡に似ているとはいっても片々であり、錐に似ているとはいってもやはり片々である。

また、古仏心というのは、むかし一人の僧があって、大証国師に問うていったことがある。

「いったい、古仏心とはどういうことでありましょうか」

すると、国師は答えていった。

「牆壁瓦礫(しょうへきがりゃく)じゃ」

それによって知るがよい。それは、古仏の心が牆壁だ瓦礫だというのではない。また、牆壁瓦礫をもって古仏心だというのでもない。ただ、古仏の心というものは、このようにまなぶべきだというのである。

また、平常心というのは、この世界と他の世界をとわず、すべて平常心なのである。昔という日はここより去り、今という日はここより来る。去るときには天もことごとく去り、来るときには地もことごとく来る。これが平常心である。その平常心は、この家の内にあって開きまた閉じる。それが、いずれの門いずれの家においても、同時にして然るのである。だから平常心なのである。思うに、いまわたしどもは一向に気がつかないけれども、この天地の全体にはなにかことばがある。地から噴(ふ)き出してくる声のようなものがある。いや、ことばといえばことばであり、心といえば心であり、あるいは、法といえば法といってもよい。それは、人の寿命やその営みの生じまた滅するものであるから、聖者の境地にいたる以前のものにはすこしも判らない。判らないけれども、発心すればかならず悟りへの道につくことができる。すでにここにあるのであるから、悟りにいたるであろうことはなんの怪しむことがあろうか。とはいっても、現に怪しむ気持は発(おこ)ってくるが、それがとりも直さず平常というものである。(179~181頁)

〈注解〉生死涅槃;ここには生死と涅槃が対照的にとりあげられている。その場合には、生死とは、生死に束縛せられた迷いの境地をいい、涅槃とは、その迷いを解脱した究極安穏の境地を指す。

     無記;善悪無記である。いまだ善とも悪とも決定しないことである。

赤心;まごころ。それを片々として語るのは、何ものにも纏(おお)われ、縛せられられない心だからであろう。

     大証国師;南陽慧忠(775寂、寿不詳)。六祖慧能の法嗣(ほっす)。諡して大証国師と称する。(後略)(181~182頁)

■身学道というのは、身をもって仏道をまなぶのである。肉体をもってする学道である。いったい、身というものは学道によって得られるものであって、学道によって獲得されるものもまた身である。十方世界のことごとくが、それが一箇の真実の人体というのもそのことに他ならず、あるいは、生死去(こ)来のすがたこそまことの人のありようだというのもそれである。そして、その身体をもってして、よく十悪をはなれ、八戒をたもち、仏・法・僧の三宝に帰依し、あるいは家を捨てて出家する。それがまことの学道というものである。だから、そのすがたをもって真実の人体というのである。後より来りまなぶものも、けっして自然外道(じねんげどう)どもの邪見に同じてはならない。

かって百丈大智禅師はいった。

「もし、人は本来清浄にして、もともと解脱しているのであって、それがおのずから仏であるとか、あるいは、それがおのずから禅道なのだなどという見解に執する者があったならば、それは、とりも直さず自然外道の輩(やから)というものじゃ」

そのことばは、けっして、人なき家のやぶれ道具ではなく、まさに、学道において積みかさねてきた功徳というものである。そのありようをいわば、たとえば大魚の飛ぶ跳ねて八面玲瓏(れいろう)たるがごとく、あるいは万緑ことごとく脱落してなお藤の樹に依るがごとしともいうべきか。あるいはまた、古経における仏のことばをもっていわば、あるいはその身を現じ、得度して法を説くのであり、あるいは他の身を現じ、得度して法を説くのであり、あるいはその身を現ぜずして、得度して法を説くのであり、あるいは他の身を現ぜずして、得度して法を説くのであり、乃至はまったく法を説かぬのである。

しかるところ、その身を棄つるといいその命を捨てるというのは、いかにも矛盾したことに思われるであろうが、それは音をとどめるために声を揚げるがごとく、また臂(ひじ)を断って髄を得るようなものと知るがよい。たとい威音王仏(いおんおうぶつ)よりも以前に発心し学道したものであっても、これを「わが児孫なり」ということもあるというものである。

そして、尽十方世界というのは、十方みな世界だということである。十方とは、東・西・南・北、ないし北西・南西・北東・南東、上・下をいう。その表裏と縦横をことごとく尽した時にいうことばであると思量するがよい。思量するというのは、この人体はたとい自と他とにこだわらざるをえないものではあろうが、ともかくも尽十方だとあきらめ、決定(けつじょう)するのである。それがいまだ聞かざることを聞くというものである。けだし、十方ともに等しく、もろもろの世界もすべて等しいからである。そして、人体もまた四大・五蘊(うん)にほかならないが、その四大や五蘊の対象である六塵(ろくじん)は凡夫のよく究め尽すところではなく、ただ聖者(しょうじゃ)のみがよく究めいたるところである。

また、その対象たる客体の一つ一つについて、よくよく十方世界を観察するがよい。だが、そのいう意味は、一つの客体のなかに十方世界をおしこめてしまうことではない。それは、一つの客体をまなぶことによって、僧堂・仏殿がいかにして成るかがわかり、あるいは、僧堂・仏殿がいかにして成るかがわかれば、全世界がいかにして成るかがわかるのである。すべてはそのようにして成るのであり、成るというのはそのように成るのである。そこのところの道理が、とりもなおさず、尽十方世界は真実人体なりということである。けっして自然外道などのまちがった見解をまなんではならない。それは外界の量の問題ではないのであるから、広い狭いのことではない。つまり、尽十方世界というのは、ありとあらゆる説法のことであり、それを思い定めて動かざることであり、よく憶念して忘ぜらることである。

ありとあらゆる説法は、それはすべて仏の法輪を転じたまえるものである。その法輪の転ずるところは、いずれの世界にもわたり、またいずれの時にもわたる。だからとて、それはあてどのないものではない。そのあてどというのは真実人体である。まことの人間のありようである。そして、いまこの汝、いまこのわれこそが、尽十方世界なる真実人体なる人間である。そこを間違えないように仏道をまなぶがよいのである。

古来から、三大阿僧祇劫(あそうぎこう)といい、十三大阿僧祇劫といい、あるいは、無量阿僧祇劫というが、たといどんなにながいながい時間であろうとも、あるいは身をすて、あるいは身を受けながらも、絶えず仏道をまなんでゆけば、そこにかならず一進一退の学道がある。たとえば、師を拝して問いを呈する。それがそのまま学道のすがたに他ならない。あるいは、枯木のごとき境地を意図するものもあろう。あるいは、死灰のごとくならんと努力するものもあろう。それもまた暫時の間断もない学道である。月日のすぎゆくことは迅速であるが、学道はどこまでつづくか判らない幽遠なものである。家をすてて出家せるすがたはまことに蕭条(しょうじょう)たるものであるが、それを樵夫(きこり)とまちがえてはならぬ。あるいは、その生を支えるために力をつくすこともあろうが、それを小作人と同じとしてはならぬ。そこではもう、迷いを悟りの論でもなく、善だ悪だのの議でもない。邪正・真偽のほとりはすでに遠く超えているのである。

生死去(こ)来はまことの人間のありようだという。いわゆる生死は、凡夫の流転する境地であり、大聖(だいしょう)のすでに解脱するところである。だが、いまいうところの生死とは、凡夫と聖者の区別を超えたものであるから、それでこそ真実体とするのである。なるほど古経には、あるいは二種の生死を説き、あるいは七種の生死を語る。だが、究め尽してみれば、それらもすべてみな生死にあらざるはない。とするならば、それも必ずしも恐怖すべきものではないのである。なぜかとならば、人はまだ生をすてないのに、現にすでに死をみることができるはないか。また、いまだ死をすてないのに、すでに生をみることができるであろう。生はけっして死を碍(さまた)げるものではなく、死もまた生を碍げるものではない。その生と死の真相はいずれも凡夫の知りうるところではないが、そこを、あえて喩(たと)えをもっていうなれば、生はたとうれば一本の柏の木のようなものであり、死はたとうれば一塊ノの鉄人形のようなものである。そして、たとい柏の木が柏の木にさまたげられることがあろうとも、生はけっして死に碍げられることはない。だから、どこまでも学道につとめることができる。そもそも生に、あの生この生と、あまたの生があるわけではなく、死も二つあるわけではない。あるいはまた、死は生に相対するものでもなく、生が死と相待つものでもないのである。

圜悟禅師(えんごぜんじ)はいった。

「生もまたそのからくりはすべて明らかである。死もまたその機構はすべてあらわである。それぞれ大いなる虚空にいっぱいであって、なんのまじり気もないのじゃ」

そのことばを静かに思いめぐらして、よくよく検討してみるがよろしい。圜悟禅師はかってこのようにいったというのだが、ひょっとすると、なお禅師はまだ、生死の全からくりが虚空にいっぱいどころか、さらにそれを溢れるものだということを知らなかったのではあるまいか。

ともあれ、その去来(こらい)というを考えてみると、去のも生死があり、来にも生死があり、あるいは、生にも去来があり、死にも去来がある。去来には尽十方世界をその翼として飛び去り飛び来(きた)るのであり、十方世界のことごとくをその足として一進しまた一退するのである。

また、その生死を頭となし尾となして、その尽十方世界なる真実の人間のありようは、まことに自由自在なものであって、ひらりと身を翻(ひるがえ)せば、それはどこまでも大きく、また、ひょっと頭をめぐらせば、それはどこまでも小さい。あるいはまた、坦々たる平地かと思えば、壁のごとくそびえ立つ千仭(せんじん)の山々であり、そびえ立つ千仭の山々かと思えば、坦々たる平地である。そこにこそ、かの南瞻浮洲(なんせんぶしゅう)・北倶廬洲(ほっくるしゅう)の面目がある。それをよくよく検討して学道するのである。また、それでこそ、かの学人たちの追求する極致の面目というものであって、それを取りあげて学道するのほかになにがあろうぞ。(186~190頁)

〈注解〉尽十方界是箇真実人体;『景徳伝燈録』巻二一に見える福州慧球(えきゅう)のことばに出ずる。「ただ先師のいうがごとし。尽十方世界、是真実体」とある。先師とは玄沙師備(げんしゃしび)である。

     十悪;殺生・偸盗(ちゅうとう、ぬすみ)・邪淫・妄語(うそ)などの十種の悪をいう。

八戒;八斎戒(はっさいかい)という。殺生・不与取(与えられざるを取る)など、日々行ずべき八種の戒をいう。

自然見の外道;自然外道の考え方というほどの意。自然外道は仏陀のころの外道であって、自然のままなるをよしとする主張をした。

     百丈大智禅師;百丈懐海(814寂、寿95)。馬祖道一の法嗣(ほっす)。

     得度;修行して生死(迷い)の彼岸にわたること。

三昧・陀羅尼;三昧とは、心を一処に定めて動ぜしめざることであり、陀羅尼とは、よく聴き、理解して、忘失せしめざることをいう。

     転法輪;仏の説法をいうことばである。

枯木・死灰;小乗の聖者の境地をいうことばである。

いまだ生をすてざれども……;生死の問題の究極地であって、容易に説明しがたい。いまは、ただ「生死」の巻の一節をあげて参考に資しうるのみである。

「生より死にうつるとこころうるは、これあやまりなり。生はひとときのくらゐにて、すでにさきありのちあり。かるがゆゑに仏法のなかには、生すなはち不生といふ。滅もひとときのくらゐにて、又さきありのちあり。これによりて滅すなはち不滅といふ。生といふときには、生よりほかにものなく、滅といふときには、滅のほかにものなし」(191~193頁)

夢 中 説 夢 ( むちゅうせつむ )

■開 題

この一巻が、制作され、衆(しゅ)に示されたのは、仁治三年(1242)の秋もようやく酣(たけ)た九月二十一日、例のごとく興聖寺においてであった。

ところで、「夢中説話」とは、誰でもお判りのとおり、夢のなかにあって夢を説くということである。そのような巻題を揚げて、いったい、道元はなにを語ろうとするのであるか。この一巻に読みいたるもののまず思うところは、そのことでなくてはなるまい。

それに対する答案は、まずこの巻の冒頭において示されている。

「諸仏諸祖出興(しゅっこう)の道、それ朕兆(ちんちょう)已然(いぜん)なるゆゑに、旧窠(きゅうか)の緒論にあらず、これによりて、仏祖辺、仏向上等の功徳あり。……はるかに凡界の測度(しきたく)にあらざるべし。……これを夢中説夢す。証中見証なるがゆゑに、夢中説夢なり」

そういうところは、いささか難解の文字をつらねているけれど、その意(こころ)は判然と受けとることができる。諸仏諸祖が世に出でて語りたまうところは、永遠のことに属するものであって、現実膠着(こうちゃく)の輩(やから)の所論とはまったく異なったものである。だからして仏祖のほとりにいたらしめ、あるいは、仏祖を超えてゆかしむるほどの力があるのであって、凡人のとうてい推して測りうるところではない。それをいま夢のなかにあって夢を説くとはいうのである。悟りのなかにあって悟りを見るのであるから、夢のなかにあって夢を説くというのである。そのようにいうのである。

したがって、道元はまた、つづいていっておる。

「この夢中説夢処、これ仏祖国なり、仏祖会(え)なり。仏国仏会・祖道祖席は、証上而(に)証、夢中説夢なり。この道取説取にあひながら、仏会にあらずとすべからず。これ仏転法輪なり」

そのいうところは、だから、夢中説夢のなされるところこそ、まさしく仏祖の世界であるというのである。しかるに、世の凡俗の輩どもは、そのような表現に出会いながらも、ぽかんとして気がつかないでいるものが多い。それではいけない。それこそ仏の転法輪というものだと、声をはげまして語っているのである。

それらによって、わたしどもは、いま道元が夢をもって語ろうとしているものが何であるかを、容易に知ることができるはずである。それは疑いもなく、悟りの世界であり、仏祖の世界なのである。しかるところ、誰しもが思うところによれば、夢とは、非現実的にして、まことに頼りがたく、不確かなものなのである。しかるを、道元は、何故をもって、その夢をもって悟りの世界を譬(たと)えようとするのであるか。さらに読み進めてゆけば、やがてその答えが与えられるのである。

そこでは、道元は、夢なることばをもって、悟りの世界の非現実性を説いているのである。悟りの世界は、けっして現実的なものではない。仏の世界は、けっして「視よここにあり、かしこにあり」というべきものではない。それは、現象界に属するものではなくて、むしろ叡智界に属するものである。叡智の世界はこの世の時間と空間とを超越して存する。その世界の遊化(ゆげ)する人格であるがゆえにこそ、道元は諸仏をもって夢中に説夢されるのだと語るのである。

だが、それが非現実の世界に属するということは、けっして「夜夢のごとく」頼りないものだということではない。頼りないというのは、むしろ現実の世界である。そこでは、すべてが刻々に移ろうている。諸行が無常であるというのは、そのことに他ならない。それに反して、かの非現実なる悟りの世界は、はるかに堅碓なる世界である。かの曇鸞(どんらん)のことばを借りていうならば、「かの世界の相を観ずるに、勝れて三界道に過ぎたり」であるが、その真相がほの見えてくる時、その人は、仏教にたいしてはじめて聴く耳をもつもの、見る眼をもてるものとなるのである。(196~198頁)

■したがって、仏道をまなぼうとしない人は、この夢のなかにあって夢を説くのに出会っても、ただ徒(いたず)らに、それはありもしないものをあるように思い、迷いに迷いをかさねるようなものだと思う。だが、そうではない。それは、たとい、迷いのなかにあってまた迷うといい、あるいは、惑いのうえに惑いをかさねるといわれようとも、そう表現する表現のなかにこそ、天空に通ずる路がある。まさにそのことを思いめぐらして究めるがよいのである。(202頁)

■ともあれ、そこにおいてはじめて、仏と仏との相見(そうけん)がある。とするならば、そこに到らんがためには、誰かその頭をも目をも髄をも脳をも、あるいは、その身その肉、その手その足をも惜しむものがあろうか。惜しまないからこそ、「金(きん)を売る人はこれすべからく金を買う人」なる道理であって、それを玄の玄といい、妙の妙といい、悟りの悟りといい、また、頭のうえに頭をのせるというのである。そして、それこそ、とりもなおさず、仏祖たちの履(ふ)みきたれるところである。しかるに、それをまなぶにあたって、頭というからには、人の頂上だとのみ思うものが多く、それを毘盧遮那仏の頂上だろうなどと考えてみるものは一向にない。ましてや、それが「明明百草頭」の頭であろうと思うものにおいてをやである。頭そのものが判ってはいないのである。(204~205頁)

〈注解〉明明なる百草;「明明百草頭」なる句による。万法のあるがままのすがたの朗然たるをいうことばであって、仏祖のしきりに語りきたった句である。

     夢然;ここでは「ぼうぜん」と読む。この夢(ぼう)は、明らかならぬさまをいうことばである。

微塵;物質の最小の単位をいうことばである。

     売金須是買金人;「金を売るはすべからくこれ金を買うの人」と読む。身命を愛惜せぬ者こそが身命を得るというほどの意をあらわす。

毘盧;毘盧遮那仏の略。さらに遍一切処(へんいっさいしょ)などと訳する仏であって、全宇宙を象徴する仏である。(205~206頁)

■釈迦牟尼仏はおおせられた。

「もろもろの仏のからだは金色にして、さまざまの瑞相がすばらしかった。その法を聞いて人に伝えんとするに、つねにすばらしい夢にみちていた。ついで国の王となったけれども、宮殿をも捨て眷族をもすて、またくさぐさの栄華栄耀をもすてて、仏道の修行に身を投じた。ついに菩提樹のもとにいたり、獅子の座に端座して、道を求めること七日、七日をすぎて仏智を得、最高の道を成就して、起って法輪をぞ転じた。すなわち、もろもろの人々のために、法を説いて長時をけみし、解脱のすぐれた道を説いて、数かぎりもない衆生をすくった。かくていま永遠の静寂に入るに、燈の滅するがごとくならん。汝らもしのちの悪世のなかにあって、よくこの最高の法を説かんとするならば、その人はかならずや、いまいうがごとき功徳をうることができるであろう」

いまの仏の説きたもうたところをまなんで、よくよく諸仏のつどいというものを知るがよい。それは単なる譬(たと)えではないのである。諸仏の妙(たえ)なる教えは、ただ仏と仏の世界のことであるから、夢のなかのことも、覚(さ)めてのことも、同じく真実なのである。覚めてのなかの発心・修行・正覚(がく)・涅槃があり、また夢のなかでの発心・修行・正覚(がく)・涅槃があって、そのいずれも真実である。大小のちがいもなく、いずれが勝りいずれが劣るということもないのである。

それなのに、「また夢に国王となる」などというと、昔も今も、たいてい、それは「この最高の法を説く」ちからによって、そのような夜の夢をみるのであろうと思うようであるが、そのように解釈するのは、まだ仏説をよく知らないからである。そこでは、夢も覚ももともと同じであり、一つである。いずれも真実である。仏法では、たとい譬喩であっても、それはあるがままの真実である。しかるに、ましてやここでは譬えではなく、夢に国王となったというのは、まさしく仏法の真実なのである。釈迦牟尼仏も、そのほかのすべての諸仏も諸祖も、みんな夢のなかにおいて、発心し修行し、そしてすぐれた正覚(がく)を成就したのである。だからして、いまこの娑婆世界における仏一代の教化のいとなみのごときは、とりもなおさず夢のなかのわざなのである。七日というのは仏智を得るための期間であるが、他方、法輪を転じ、衆生を救うためには、千万億劫を経たりという。夢のなかの消息は知るべからざるところである。

また、「もろもろの仏のからだは金色であって、さまざまの瑞相(ずいそう)がすばらしかった。その法を聞いて人に伝えようとしたところが、つねにすばらしい夢にみちみちていた」という。それでも明らかに知れることであるが、すばらしい夢とは、もろもろの仏にほかならないのである。「つねにあり」と如来がいっておられるのであるから、けっして百年の夢のみではないのである。けだし、その如来がいってあられるのであるから、けっして百年の夢のみではないのである。けだし、その如来が法を人のために説かれたのは、この世にその身を現じてのことであったではないか。いったい、法を聞くというが、それには、眼をもって声を聞くこともあり、心に声を聞くこともある。あるいは、この浮世で聞くこともあり、またこの世のはじまり以前に聞くということもある。

また、「もろもろの仏のからだは金色であって、さまざまの瑞相(ずいそう)がすばらしかった」という。そのよき夢はもろもろの仏身のことであるが、それは、そのまま今にいたっても疑いえないところである。この現実の世にあって仏の教化はずっと行われていることであるが、なお仏祖がさとりえたる道理は、かならず夢のなかのわざであり、夢のなかでのことである。すべからく「仏法を謗(そし)るなかれということばをまなぶがよい。法をそしるなかれということばをまなびいたれば、いまの如来のことばも、たちまちにしてよく理解できるであろう。

〈注解〉無漏妙法;無漏は煩悩のなきをいう。解脱にみちびくすぐれた法である。

     発心・修行・菩提・涅槃;仏教の全道程であり、仏者の全生涯である。菩提は正覚(がく)であり、涅槃は入滅である。

道 得 ( ど う と く )

●原 文

諸仏諸祖は道得なり。このゆゑに、仏祖の仏祖を選するには、かならず道得也未と問取するなり。この問取、こころにても問取す、身にても問取す。拄杖(しゅじょう)払子(ほっす)にても問取す、露柱燈籠にても問取するなり。仏祖にあらざれば問取なし、道得なし、そのところなきがゆゑに。その道得は、他人にしたがひてうるにあらず、わがちからの能にあらず、ただまさに仏祖の究弁あれば、仏祖の道得あるなり。

かの道得のなかに、むかしも修行し証究す、いまも功夫し弁道す。仏祖の仏祖を功夫して、仏祖の道得を弁肯するとき、この道得、おのづから三年、八年、三十年、四十年の功夫となりて、尽力道得するなり。

(裏書云、三十年、二十年は、みな道得のなれる年月なり。この年月、ちからをあはせて道得せしむるなり。このときは、その何十年の間も、道得の間隙なかりけるなり。)

しかあればすなはち、証究のときの見得、それまことなるべし。かのときの見得をまこととするがゆゑに、いまの道得なることは不疑なり。ゆゑに、いまの道得、かのときの見得をそなへたるなり。かのときの見得いまの見得をそなへたり。このゆゑに、いま道得あり、いま見得あり。いまの道得とかのときの見得と、一条なり、万里なり。いまの功夫、すなはち道得と見得とに功夫されてゆくなり。

この功夫の把定の、月ふかく年おほくかさなりて、さらに従来の年月の功夫を脱落するなり。脱落せんとするとき、皮肉骨髄おなじく脱落を弁肯す、国土山河(せんが)ともに脱落を弁肯するなり。このとき、脱落を究竟(くきょう)の宝所として、いたらんと擬しゆくところに、この擬到(ぎとう)はすなはち現出にてあるゆゑに、正当脱落のとき、またざるに現成する道得あり。心(しん)のちからにあらず、身のちからにあらずといへども、おのづから道得あり。すでに道得せらるるに、めづらしくあやしくおぼえざるなり。

しかあれども、この道得を道得するとき、不道得を不道するなり。道得に道得すると認得せるも、いまだ不道得底を不道得底と証究せざるは、なほ仏祖の面目にあらず、仏祖の骨髄にあらず。しかあれば、三拝依位而立(さんぱいえいにりゅう)の道得底、いかにしてか皮肉骨髄のやからの道得底とひとしからん。皮肉骨髄のやからの道得底、さらに三拝依位而立の道得に接するにあらず、そなはれるにあらず。いまわれと他と、異類中行と相見(しょうけん)するは、いまかれと他と、異類中行と相見するまり。われに道得底あり、不道得底あり。かれに道得底あり、不道得底あり。道底に自他あり、不道底に自他あり。(223~224頁)

〈注解〉道得也未;「道得せりや、未だしや」と読まれる。「何といったか、それともまだか」というほどの意である。

     功夫の把定;勇猛なる精進のゆるみなきことをいう。古註に「ゆるさず功夫するなり」とみえる。

     三拝依位而立の道得底……;この一句は、その背景に、『景徳伝燈録』巻三、達磨章の一節が存する。そこでは、達磨がその門人たちに命じて、それぞれの所得を語らしめた。その一人にたいしては「汝はわが皮を得たり」といった。他の一人は「汝はわが肉を得たり」であった。さらに他の一人は「汝はわが骨を得たり」と示された。そして慧可の番になると、彼は何事も語らず、ただ「礼拝してのち位に依りて立つ」た。すると達磨は「汝はわが髄を得たり」といって、かの大法を彼に付属したという。それが慧可嗣法の消息である。いま「三拝依位而立の道得底」というはそのことである。だが、それは言語による表現ではないから、また不道得底というべきである。つづいて「「皮肉骨髄のやからの道得底」とあるのは、まことは皮と肉と骨まででよいのである。髄を得たる慧可は別格であるとしなければなるまい。

     異類中行と相見;類を異にした者に相見(あいまみ)えるというほどの意であろう。なお、「われと他」というのは、前項にいうところの「慧可と他の三人」の意であり、また「かれと他」というのは「かれら三人と慧可」の意であると受けとられる。どちらからみても、慧可と彼らとは類を異にしていたというのである。(227~228頁)

画 餅 ( が び ょ う )

■開 題

この一巻は、仁治三年(1242)十一月五日、いつものように興聖宝林寺にあって制作され、かつ衆(しゅ)に示されたものと知られる。

この巻題のよってきたるところは、すぐ気付かれるように、この巻中にみえる、

「古仏言、画餅不充飢」

の句によったものである。画餅(がびょう)は飢えを充(みた)すことができないという意味の句は、二人の仏祖をすぐ思い出させる。その一人は徳山宣鑑(865寂、寿84)であって、その消息はさきの「心不可得」の両巻につぶさにしるされている。いま一人は香厳智閑(きょうげんしかん、年寿不詳)であって、その消息もまた、すでにさきの「谿声山色(けいせいさんしょく)」の巻にくわしく記すところである。しかるに、いまここには、ただ「古仏言」とのみあって、そのいずれのことばなるかを知りがたいところである。だが、古註はたいていこれを香厳智閑のことばとしている。わたしもまた、そうであろうと思う。なんとなれば、この巻のなかには、竹の声を聞いて大悟するという句もみえているし(それは香厳の故事である)、また、道元はおそらく徳山宣鑑には、「古仏」という称をもちいないであろうと思われるからである。

それにしても、この巻における道元のこの句にたいする解釈は、驚くほどに警抜(けいばつ)なものであって、まったく常識のそとに出ずるものである。まさに刮目して見るに値いする。

その第一には、「画餅」なる語にたいする解釈である。その解釈は、一見するところ、はなはだ解し難い行文をもって充たされているようであるが、ようやく読みいたってみるならば、詮ずるところ、それは一箇の概念であるといっているのだと知られる。概念といえば、御存じの通り、この道の家風として、もっとも軽蔑するところである。「画餅は飢えを充さず」というその句の意味するところも、もともとその意にほかならない。しかるに、いま道元がその語句に与える重さははなはだ重いのである。たとえば、

「いま道著(どうじゃく)する画餅といふは、一切の糊餅(こびょう)・菜餅(なもち)・乳餅・焼餅・糍餅(じびょう)等、みなこれ画図より現成するなり」

という。あるいは、

「しるべし、画等、餅等、法等なり。このゆゑに、いま現成するところの諸餅、ともに画餅なり」

という。あるいはまた、

「このほかに画餅をもとむるには、つひにいまだ相逢(そうほう)せず、未拈出(ねんしゅつ)なり」

といって憚(はばか)らない。そのいわんとするところは、あきらかに、概念と存在と、そして存在のありようである。概念なくして存在は考えられないのであり、また存在のありようも理解せられないのである。かくして、道元が画餅すなわちその概念に与える価値は、はなはだ重いものであると知られる。

その第二には、「飢(き)」の一字にたいする解釈、もしくは、「不充飢」の句にたいする解釈である。そこでは、道元は、「飢」の一字にあてるに「所求(しょぐ)の心」をもってしている。そして画餅すなわち概念化された表現が、容易に飢すなわち所求の心をみたさないことを語りいでる。だが、それは「餅に相待せらるる飢あらざるがゆゑ」であるという。それは詰まるところ、凡夫の求むるところが、いつも見当ちがいをしているからだということであろう。かくて、『随聞記』にみえる道元のことばをもっていうなれば、結局、「学道の人は人情を棄つべきなり」ということになるのであろう。

そして、その第三には、道元はついに、

「画餅にあらざれば充飢の薬なし」

といい切ってしまう。かくして、「画餅不充飢」の一句は、まったくその常識的解釈の正反対なる意味を与えられるにいたる。そこで、わたしはひそかに、解釈とは原作の包蔵する以上のものを展開することでなくてはならない、といったシュライエルマッヘルのことばを思い出さざるを得ない。

なお、この卷きにおいて道元がいわんとするところをよりよく理解するために、さきの「夢中説夢」の巻、ならびに「道得」の巻に説くところを思い出していただけるならば幸いである。(242~244頁)

●原 文

画餅不能充飢と道取するは、たとへば、諸悪莫作、衆善奉行と道取するがごとし、是(ぜ)什麼物什麼来(いんもぶついんもらい)と道取するがごとし、吾常於是切(岡野注;漢文)といふがごとし。しばらくかくのごとく参学すべし。

画餅といふ道取、かって見来せるともがらすくなし、知及(ちぎゅう)せるものまたくあらず。なにとしてか恁麼しる。従来の一枚二枚の臭皮岱を勘過するに、疑著(ぎじゃく)におよばず、親覲(しんごん)におよばず、ただ隣談に側耳せずして不管なるがごとし。(247頁)

●原 文

しるべし、画等、餅等、法等なり。このゆゑに、いま現成するところの諸餅、ともに画餅なり。このほかに画餅をもとむるには、つひにいまだ相逢う(そうほう)せず。未拈出なり。一時現なりといへども、一時不現なり。しかあれども、老少の相にあらず、去来の跡(せき)にあらざるなり。しかある這頭(しゃとう)に、画餅国土あらはれ、成立するなり。(248頁)

■いま、描ける餅は飢えを充さずというのは、たとえば、「もろもろの悪は作ることなく、もろもろの善を奉行せよ」というがごとくであり、あるいは「いったいこんな物がどこから来たのだ」というがごとくであり、あるいはまた、「わしはいつもこのことに一処懸命だよ」というようなものである。かりにそう思ってまなびいたるがよろしい。

この画餅ということばは、これまでにも、判ったものはすくなく、よく知りえたものはまったくない。どうしてそうだと判るか。これまでの人々をあれこれと勘(かんが)えてみると、疑うにも及ばず、みずから体験することもせず、まるで近隣の話に耳をそばだてず、われ関せずといった具合なのである。

そもそもこの描ける餅なるものは、よく知るがよい。それは、この世の現実のおもかげを有するとともに、また永遠のおもかげをもったものである。もともとそれは米や麦粉をもって作らるるものであるところを、さて生ずるといおうか生ぜぬものといおうか、ともあれ、いまや描ける餅なるものが現実にあり、またその表現があるのである。それは、えがいた時にはあり描かない時にはないのだと、そんな工合に考えてはならない。けだし、餅をえがく絵具は、山水を描く絵具とおなじであろう。いうところの山水をえがくには青や赤をもってするのであり、あがける餅を餅をあがくには米や麦粉をもってする。だからして、その用いかたも同じであり、また考えかたもひとしいのである。すなわち、いまいうところの画餅なるものは、すべて米の餅も、菜餅も、乳餅も、焼餅も、黍(きび)餅も、みな画図から出てくるのである。つまり、画ひとしければ、餅ひとしく、そのありようもまた等しいのである。したがって、いま造られるいろいろの餅は、すべて画餅なのである。そのほかに描ける餅をもとめたって、めぐり逢うことはできない。あるいは造り出すこともできない。つまり、餅というものは、ある時現われてくるものであるが、それはもとはといえば、一時の出現によってなるものではない。だからして、それはまた古いの新しいのというべきものでもなく、また造ったの造らないのというべきものでもないのである。とするならば、ここには画餅の世界なるものがあって、厳として存在しているということとなる。(249~250頁)

〈注解〉画等、餅等、法等;画ひとしければ、餅ひとしく、そのありようもまた等しいという。そこには、概念と存在とそんざいのありようの関係が語られているのであって、この一節の画龍点睛の一句はこれであると知られる。(岡野注;物の世界・事の世界・法の世界の三元論)(252頁)

■また、「飢えを充さず」という。その飢えは、この世の時間に支配されているものではないが、それが容易に画餅(がびょう)と相見(あいまみ)える手立てがない。画餅をくらうといえども、なかなか飢えをとどめる効果がないのである。それは、飢えにぴったりとくる餅でないからであり、あるいは、餅にぴったりとした飢えではないからである。そのゆえに、そのはたらきも伝えられず、その風情も伝わらないのである。思うに、飢えも一本の杖である。それを横に担ぎ縦に担ぎなど、千変万化がある。餅もまた一つの身心(しんじん)の現れとして、青黄赤白あるいは長い短い、あるいは円い四角いとさまざまである。たとえば、山水をえがくには、青や緑や赤などをもちい、あるいは奇巌怪石をえがき、あるいは七宝(しっぽう)や四宝などをもってえがく。そして、餅をえがく仕方もまた同じである。あるいはまた、人をえがくには四大をもってし五蘊をもってするし、仏をえがくには、泥をもって室(むろ)をつくり、土をもってその身軀(しんく)つくり、三十二相をあらわす。あるいは、一茎の草花をもって表現することもあり、あるいは、ながいながい修行をもって表現することもある。

そのようにして一幅のえがける仏をなすのであるから、すべてもろもろの仏はみな画仏であり、また、すべての画仏はみなもろもろの仏である。そこで、画仏と画餅とをよくよく比較してみるがよい。いずれが石でつくった亀であり、いずれが鉄でできた杖なのであるか。あるいは、いずれが具体的なものであり、いずれが抽象的なものであろうか。そこを仔細に思いめぐらして究めるがよろしい。そのように思いめぐらしてみると、生死(しょうじ)というも去來(こらい)というも、ことごとくえがける画図である。無上の智慧というのも、えがいた画図にほかならない。あるいは、万有といい、虚空というも、すべていずれもえがける図にあらざるはないのである。(253~254頁)

〈注解〉飢に相待せられる餅なし、餅に相待せらるる飢なし;所求の心にえがくところと、さとりの風景とのあいだに、大きなずれがあることをいうのである。

     色法・心法;感覚界に属するものと、叡智界に屬するものである。いまは、具体的なものと、抽象的なものと訳しておいた。

     法界;ここの“dharma”すなはち法は、存在そのものの意である。つまり、万有すなわち存在の世界である。それに対して、虚空はつまり非存在の世界である。そんなものは、誰も具体的に示すことはできないから、ただその概念があるのみであり、それをいま画図であるというのである。(254~255頁)

■古仏はいった。

「道なって白雪は村里をおおいつくした。その時一切は青山数幅の画図に入りきたった」

それは大悟の境地を語った句である。弁道工夫の成就を説いたことばである。だからして、道のなれるまさにその時を表現して、白雪といい、また青山数幅というのである。つまり画をえがいているのである。けだし、その境地においては、一動一静すべて画図ならざるはないのである。そして、いまわたしどものいとなむ修行もまた、その画図によって教えられたものである。あるいは、仏の十号といい三明(さんみょう)というも、一幅の画である。あるいはまた、五根(ごこん)といい、五力といい、七覚支(しちかくし)といい、八正道というも、おなじく一幅の画にほかならない。もしも、画は実(じつ)ではないというならば、よろずの存在もまた実ではない。もしも、よろずの存在がすべて実でないならば、仏法もまた実ではあるまい。もし仏法が真実であるならば、画餅もまたしんじつであろう。

雲門匡真大師(きょうしんだいし)に、ある時、一人の僧が問うていった。

「ひとつ仏を超え、祖を越えたところのお話を承りとう存じます」

師は答えていった。

「それは糊餅(かゆもち)だよ」

このことばを、静かに思いめぐらしてみるがよろしい。すでにこの「糊餅」という表現が実現しているから、また仏を超え祖を越えたはなしを説く祖師もあるだろう。また、それが判らぬ男もあるだろう、聞いて納得する修行者もあろう。そして、また生まれてくることばもあろうが、いまこの見事にいい得たる糊餅(かゆもち)という表現は、これもまた疑いもなく画餅(がびょう)のひとつである。そこには、仏を超え祖を越える話が打ち出されていて、仏ともなり、魔ともなるほどの力がひそんでいるのである。

また、先師如浄禅師はいったことがある。

「脩竹(しゅうちく)も芭蕉も画図に入った」

そのことばは、長い短いを超えた世界を語ったものであって、いまいうところの画図をまなぶべき表現である。

修竹とは長い竹である。それを成すものはもと陰陽のはこびではあるけれども、またその陰陽のはこびをあらしめるものは、いまいうところの画中の修竹の年月である。だが、その年月その陰陽は測ることができないのである。たとえば、大聖(だいしょう)は陰陽の運行をあきらかに見ることはできるが、なお陰陽そのものを測ることはできない。なんとなれば、陰陽はもともと存在のありように等しく、その運行にひとしく、したがってまた仏の道にひとしいからである。つまり、大聖にとって陰陽は知るべき対象ではないからである。いま外道や小乗の輩が、その心その目をもって測る陰陽とはちがうのである。ここでは、それは画中の修竹の陰陽である。その修竹の年月のはこびである。修竹の世界のなかにあるのであり、そして、その修竹のなかまとして、十方もろもろの仏があるのである。よって知るがよい。かくて天地乾坤(けんこん)は、修竹の根であり茎であり枝であり葉である。だからして、天地乾坤は悠久なることをうるのであり、大海も須弥山(しゅみせん)も十方の世界のことごとくも堅牢なることができるのであり、あるいは、老師のもちいる拄杖(つえ)も竹箆(しっぺい)もいつまでも老いざらしめることができるのである。

また、芭蕉は物質的要素である地水火風空と、精神的要素としての心意識や智慧を、その根茎とし枝葉とし花果とし光や色とするものである。そのゆえに、秋風がふけば秋風のなかに消えて、一塵ものこすところがない。奇麗さっぱりしたものである。内にしていえば、眼底に筋一つ骨一つのこすのでもなく、外にしていえば、その辺りに膠(にかわ)や緑青(とりもち)をのこすのでもなく、まさにずばりと解脱そのものである。なお、その消えゆくさまは、速い遅いのことではないから、須臾(しゅゆ)とか刹那とかいったことでもない。そして、そのような営みをなす力があってこそ、はじめて地水火風をして活溌ならしめることができ、また心意識や智慧をして静かならしめることができるのである。すなわち、芭蕉は春夏秋冬をその道具として、あるいは生じ、あるいは茂り、またあるいは実り、あるいは枯れるのだと知られる。

いま、このような修竹と芭蕉のありようは、みな画図にほかならない。だからして、竹の声を聞いて大悟するというものは、大小をえらぶこともなく、あれもこれもみな画図なのであろう。それは凡情の思いはからいではないかなどと疑ってはならない。それは、あの竹はどうしてあんなに長い、この竹はどうしてこんなに短いというにひとしく、あるいは、この竹はどうしてこんなに長い、あの竹はどうしてあんなに短いというようなものである。それらはみんな画図なのだから、長い短いがあって図はちゃんと釣合いがとれるのである。長い画があれば、また短い画があってよいではないか。そこの道理をはっきりとわきまえるがよろしい。つまるところ、この世界もこの存在もことごとく画図であるのだから、人も存在も画によってあらわとなるのであり、仏祖のまた画によって成るのである。

とするならば、すなわち、えがける餅でなかったならば、飢えを充たす効能はないのである。また、えがける飢えがなかったならば、その人に逢うことはできないのであり、画によって充たされるのでなくては、まことの力とならないのである。さらにいうなれば、飢えたる時に充し、飢えざるに充し、あるいは、飢えたるに充さず、飢えざるに充さぬことも、ただ画餅にしてはじめて能(あた)うところであって、えがける餅にあらざれば能わざるところであり、またいい得ざるところである。だから、いまはまず、それらをなしうるものは画餅であることをまなびいたるがよろしい。そして、その意味するところをまなびいたった時、その時人はいささか、物に転じ、また物に転ぜられるちからが、わが身心(しんじん)にくまもなく湓(あふ)れることを感ずるであろう。いまだその功徳の湓るるを感じないうちは、まだまだ学道の力量がでてこないのである。そして、その力量を実現せしむることは、つまるところ、その画を証することによって実現するのである。(258~262頁)

〈注解〉三明;仏の三つの通力である。宿命通・天眼通・漏尽通の三つがそれである。

     根・力・覚・道;五根(信根・精進根・念根・定根・慧根)、五力(信力・精進力・念力・定力・慧力)、七覚支(択法・精進・喜・軽安・捨・定・念の七つの覚)、八正道(正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)をいう。

     雲門匡真大師;雲門文偃(ぶんえん、949寂、寿不詳)は雪峰義存の法嗣(ほっす)。諡(おくりな)して匡(きょう)真弘明禅師と称す。

     天地乾坤;乾坤というもまた天地の意にほかならない。

     画餅・画飢・画充;「画餅不充飢」の句によって、画餅のほかに、さらに画飢と画充の句をなしたのである。(262~263頁)

全 機 ( ぜ ん き )

■開 題

この一巻が制作され、そして衆(しゅ)に示されたのは、仁治三年(1242)のもおしつまった十二月十七日のことであった。ただ、珍しいことには、この一巻の示衆(じしゅ)は、いつもの興聖宝林寺においてでかなくて、京都東山なる六波羅蜜寺のちかくの波多野義重(よししげ)の京邸(やしき)において行われた。おそらく、興聖寺の成立以後、道元の開講が興聖寺以外の場処でおこなわれたのは、これが初めてのことと思われる。

(ー中略ー)例によって、道元はそのもっとも肝要のところを、その冒頭において端的に語り出でる。いわく、

「諸仏の大道、その究尽(ぐうじん)するところ、透脱なり、現成なり」

諸仏の大道というものは、それを究めつくしてみると、それはもう徹頭徹尾どこまでも透きとおって、いとも明らかに見渡せるものだという。だから、その大道を究めた仏祖たちにとっては、生の全体がくまもなく見通せるのである。したがって、死の全風景もまた曇るところなく見渡すことができる。そして、いま道元が「全機」なる題目のもとに語ろうとしていることも、また、その生と死の全体であり、全風景であるといってよかろうと思われる。

●原 文

諸仏の大道、その究尽(ぐうじん)するところ、透脱なり、現成なり。その透脱といふは、あるいは生も生を透脱し、死も死を透脱するなり。このゆゑに、出生死あり、入生死あり、ともに究尽の大道なり。捨生死あり、度生死あり、ともに究尽の大道なり。現成これ生なり、生これ現成なり。その現成のとき、生の全現成にあらずといふことなし、死の全現成にあらずといふことなし。この機関、よく生ならしめ、よく死ならしむ。

この機関の現成する正(しょう)当恁麼時、かならずしも大にあらず、かならずしも小にあらず。偏界にあらず、局量にあらず。長遠にあらず、短促にあらず。いまの生はこの機関にあり、この機関はいまの生にあり。生は来にあらず、生は去にあらず、生は現にあらず、生は成にあらざるなり。しかあれども、生は全機現なり、死は全機現なり。しるべし、自己に無量の法あるなかに、生あり、死あるなり。しずかに思量すべし、いまこの生、および生と同生せるところの衆(しゅ)法は、生にともなりとやせん、生にともならずとやせん。一時一法としても、生にともならざることなし。一時一心としても、生にともならざるなし。

生といふは、たとへば人のふねにのれるときのごとし。このふねは、われ帆をつかひ、われかぢをとれり、われさををさすといへども、ふねわれをのせて、ふねのほかにわれなし。われふねにのりて、このふねもふねならしむ。この正(しょう)当恁麼時は、舟の世界にあらざることなし。天も水も岸も、みな舟の時節となれり、さらに舟にあらざる時節とおなじからず。このゆゑに、生はわが生ぜしむるなり、われをば生のわれならしむるなり。舟にのれるには、身心依正(しんじんえしょう)、ともに舟の機関なり。尽大地・尽虚空、ともに舟の機関なり。生なるわれ、われなる生、それかくのごとし。(268~269頁)

■もろもろの仏の大道は、それを究め尽してみると、まったく透きとおって、明々白々なるものである。透きとおっているというのは、たとえば生についていえば、生のどこにも曇れるところがなく、また死についていえば、死のどこにも覆われたるところがない。だから、生死(しょうじ)を出ずることも自由自在であり、また生死に入ることも思うがままである。それもみな大道を究め尽しているからである。あるいはまた、生死を捨てることもあり、生死をこえることもあるが、それもみな大道を究め尽しているからである。かくて、明々白々たる生があるのであり、明々白々として生を生きるのであるが、そのことの成る時には、かならず生のすべてをあげてかくなるのであり、また死のすべてをあげてかくなるのである。そのからくりがあって、はじめてこの生があり、また死があるのである。

そのからくりの実現するまさにその時、それはかならずしも大でもなく、また小でもない。あるいは、この世界にあまねしというでもなく、一部に限られるというでもなく、あるいはまた、長いというでも、短いというでもない。ただ、いまの生はそのようなからくりによってなるのであり、そのようなからくりがこのいまの生にあるのである。もとより、生というものは、来るにもあらず、去るにもあらず、あるいは、現ずるでもなく、成るものでもない。ただ、生とはそのからくりの実現するすべてをいうのであり、死もまたそのからくりの実現するすべてに他ならない。誰でも知っているように、自己にはいろいろさまざまの事がある。そのなかに、生があり、また死がある。だが、静かに考えてみるがよろしい。いったい、このせいがあり、そして、この生とともにおこるさまざまの事があるのであるが、それらの事はこの生とともなるものであろうか、それとも別のことであろうか。いわずと知れたこと、いかなる時のいかなる事といえども、この生とともならざるはないのであり、いかなる事のいかなる思いといえども、またこの生と別なるはないのである。

生とは、たとうれば、人が舟に乗った時のようなものである。その舟は、われが帆をあやつり、われが梶(かじ)をとる、あるいは、われが棹(さお)をさすのであるが、それにもかかわらず、やっぱり、舟がわれを乗せているのであり、舟のほかにわれがあるわけではない。つまり、われが舟に乗って、舟を舟たらしめているのである。まさにその時のさまをよくよく思いめぐらしてまなぶがよい。まさにその時においては、すべてが舟の世界にあらざるはない。天も、水も、岸も、すべてがことごとく舟の時なのであって、舟ならぬ時とはまったくちがっている。それと同じように、この生はわれが生きているものであるとともに、またこの生がわれをわれならしめているのである。舟に乗った時には、わが身心(じん)もまたその環境もすべて舟のからくりである。いや、大智のことごとくも、虚空のすべても、みな舟のからくりならざるはない。この生なるわれ、われというこの生は、そのようなものなのである。(269~271頁)

〈注解〉機関;からくりと訳しておいたが、仕組み、構造、ありよう、はたらきといった意味のことばである。(271頁)

都 機 ( つ き )

■開 題

この一巻は、仁治四年(1243)の一月六日付の制作である。その仁治四年は、二月二十六日に改元せられて、寛元元年となるのであるから、仁治四年の制作はこの一本のみと知られる。

また、この一巻は、興聖宝林寺において制作されたまま、衆(しゅ)に示すことがおこなわれていないのであるが、その理由は、おそらく、この一巻が、さきに前年の十二月十七日、波多野義重(よししげ)の邸(やしき)において衆み示されたかの「全機」の巻と、その趣きをおなじうするものだからに違いあるまい。つまり、道元は、同じ趣きのものを、さきの示衆(じしゅ)ののち、もう一度、構想をあらたにして、暮れから正月にかけて、この一巻として制作したのであろう。

「全機」と「都機」。しかるに、都は すべてであるから、この二つの主題が、同じ趣きを表現するものであることは、人の容易に気付くところであろう。ところが、いま「都機」の都の字は、これを漢音で読めば「と」であるが、それを「呉音」をもって読めば「つ」である。人によっては、その「都機」を『とき」と読んでいる向きもあるようであるが、わたしには、それは「つき」と読むべきものであるように思われる。道元もまた、きった、そう読んでもらうことを期待していたにちがいない。そう思うのは、わたしには、この一巻の制作の動機は敢えて申しあげなくてはなるまいと思う。

すでにいうように、その前年の十二月十七日、さきの「全機」の巻を人々のまえにおいて披露した。だが、ふと考えてみると、それは「都機」はまた「つき」と読むことができる。そうと気がついた時、道元の心のなかには何かひらめくものがあった。それは、いまいうところの「全機」もしくは「都機」という主題の趣きを、仏祖たちはしばしば月をもって語ったものである。そのことに気がついた時、道元の胸中には、同じ主題のもとに新しい構想が生まれた。かくて道元は、同じ趣きを、新しい主題と構想のもとに、暮れから正月の怱忙(そうぼう)のなかにも、新草としてこれを執筆した。それがこの「都機」の巻であると、わたしにはそう想像するのほかはないように思われる。

かくて、この一巻における道元は、「都機」という主題をたてながら、その本文においては、いちども都機という文字をしるしていない。そこでは、いつも月である。月を語りながら、いつもその背後には都機がある。引用する仏祖のことばもまたすべてそうなのである。

まず最初には、『金光明経(みょうきょう)』から釈迦牟尼仏のことばが引かれる。それは「仏の真法身(ほっしん)」を語るに、虚空を語り、また水中の月を語っているのである。

ついで道元は、盤山宝積(ほうしゃく)のことばをもたらして語る。それはもう、ずばりと「心月孤円」とうち出されているが、それこそ「都機」そのもののありようなのである。

さらに道元は、投子(とうす)大同の月を主題とする問答を取りあげたのち、最後には『円覚(がく)経』の一節を引いて、もう一度、釈迦牟尼仏の月に関連したことばをあげて、これに詳細な解説を加えて結びとしている。

かくて、この一巻は、一見すれば、月を語り月を論ずることに終始しているのであるが、それら仏祖の語る月には、いつもその言裏(げんり)に「都機」があり、「心月」があり、「円覚」のありようが説かれているのである。まことに珍しい一巻の構想であるといってよかろう。

「全機」もしくは「都機」なることばの意味するところが何であるかについては、さきの「全機」の巻の開題において、及ばずながら、いささか記しておいたので、参照していただけるならば幸いである。(278~280頁)

■もろもろの月の円(まろ)やかであるのは、けして前後数日のことのみではない。いや、円やかとなれる月は、ただ前後数日のみ円やかなるにはあらぬ。だから、釈迦牟尼仏も仰せられたことがある。

「仏の真(まこと)なる法身(ほっしん)は、なお虚空のごとくであり、その物に応じて形を現ずるさまは、水中の月の如くである」

そこには「水中の月の如し」とある。その如しというのは、あくまでも水中の月であって、それは水がそうなのであり、月がそうなのであり、水にうつった月がそうなのである。だが、如(にょ)ということばは、よく似ていることをいうことばではない。如はあくまでもそのものでなくてはならない。いま「仏のまことの法身は、なお虚空のごとし」という。その虚空こそがそのまま仏のまことの法身なのである。仏のまことの法身であるがゆえに、あらゆる地、あらゆる世界、あらゆる物、あらゆる現象がそのまま虚空である。目のまえにみえるさまざまの草木、さまざまの物象がそのまま、すべて仏の真法身にあらざるはない。それが水中の月の如しということなのである。

いったい、月のでるのは、かならず夜にかぎったものではない。また、夜はかならず暗いというものではない。人間世界のみの小さな量見にのみ捉えられていてはならない。日月のないところにだって昼夜はあるであろう。日月はただ昼夜のためにあるものではない。日も月もいずれもあるがままにしてあるのであって、一月(ひとつき)の二月(ふたつき)のというべきものでも千月の万月のというものでもない。たとい、月そのものが一月だ二月だという考え方を保証するものであっても、それはたまたま月がそうだというだけのことであって、仏教はかならずしもそうはいわない。それは仏道の知見というものではない。だからして、たとい昨夜は月があったからとて、今夜の月は昨夜の月ではないのである。仏道では、今夜の月は、さきなる月もあとなる月も、あくまで今夜の月であると考えるがよいのである。月は月へと相嗣(あいつ)ぐものであるから、いろいろの月があっても、新しいの旧いのというべきものではないのである。(281~282頁)

■古仏もいったことがある。

「一心一切法、一切法一心」

だからして、心は一切の存在のほかにはなく、一切の存在は心のほかにはない。とするならば、心は月なのであるから、また月は月なのである。心にほかならぬ一切の存在は、すべてことごとく月であるから、またあまねく世界はすべて月なのである。心にほかならぬ一切の存在は、すべてことごとく月であるから、またあまねく世界はすべて月なのである。この身もまたすべて月なのである。たといかぎりもない年月のあいだにはいろいろの事があっても、それもまた月ならざるはない。いまわれらがこの身心(じん)を托(たく)する国土の今日も明日も、また同じく月のなかにあるのである。生死もむろん月のなかにあり、十方(じっぽう)世界のことごとくもまたその月のなかの上下であり、左右であるにすぎない。さらに、われらの日々のいとなみもまた、つまり、この月のなかにおけるあれやこれやにすぎないのである。(286頁)

〈注解〉心月孤円……;「心月孤円にして、光は万象を呑む。光は境を照らすに非ず、境もまた存するに非ず。光境ともに亡ず、またこれ何物ぞ」と読まれる。

     光象;さきの「火呑万象」の上下の二字をとって、光の万象を照らすをいうのであろう。

     一心一切法、一切法一心;もと『摩訶止観』にみえることばであるが、ここでは六祖慧能のことばとして『法宝壇経』の句に取意して語っているようである。かくて、「古仏いはく」の古仏は慧能のことである。(286~287頁)

■釈迦牟尼仏は、金剛菩薩につげて語りたもうた。「たとえば、目を動かせば湛(たた)うる水もゆらぐがごとく、定(じょう)に入って動かざる眼は火をも転ずるがごとく、雲はしれば月をはこび、舟ゆけば岸うつるもまた同じことである」

いま仏の説きたもう、「雲が走れば月が運び、舟が行けば岸が移ろう」というところを、よくよくまなび究めるがよい。あわただしうまなんではいけない。また凡情に準じて考えてはならない。しかるに、この仏説を仏説のとおりに受けとっているものは稀なのである。それを仏説のままに学びならうというのは、円覚(がく)というのは必ずしもこの身心のことでもなく、あるいは正覚(がく)・涅槃のことでもないことを知ることである。正覚(がく)・涅槃はかならずしも円覚ではなく、わが身心のこともまたそうではないのである。

いま仏のいう、「雲はしれば月はこび、舟ゆけば岸うつる」というのは、雲が走るときには月も動くということであり、舟が行くときには岸も移るということである。そのいう意味は、雲と月とは、時を同じうして動くということであり、歩を同じうして行くということであって、どっちが終りというでもなく、いずれが前いずれが後とするのでもない。また、舟と岸とも、時を同じうして行くということであり、歩を同じうして動くということであって、べつにいつ始まりいつ止まるというでもなく、あるいはいつまでも流転するというわけでもない。あるいはまた行(ぎょう)といえば、人間の行をまなんだものもあろうが、人間の行というものもまた、いつ始まりいつ終わるというものではなく、始まり終わりのある行は人のそれとはちがう。だが、その点をあげて、それを人間の行とならべて考えてはいけない。雲の走るも、月の動くも、舟の行くも、岸の移るも、それとはまったく別のことなのである。愚かにして小さな量見のなかに縮かんではいけない。雲の走るは東西南北を問うことなく、月の運行は昼夜古今にわたって休むことがないということ、これを忘れてはならない。また、舟の行き、岸の移ろうことは、いずれも過去現在未来の三世(ぜ)によって変わることなく、よく三世をしてあらしめるところである。これを、「直ちに如今(いま)にいたって飽(あ)いて飢えず」という。(292~293頁)

〈注解〉定眼;禅定に入って寂静に帰し、もはや対象にひかれて動揺しない眼のありようをいう。

円覚;円(まろ)やかなさとり。さとりはもとより全体性のものであり、全体性のさとりでなくてはさとりとはいえない。覚性(かくしょう)平等とはそのことである。普遍妥当なることをその性となすのである。円覚とはそのことである(294~295頁)

空 華 ( く う げ )

■開 題

この一巻は、寛元元年(1243)の三月十日、興聖宝林寺において衆(しゅ)に示されたものとある。ひそかの偲べば天地に万花の咲きいでて、まさにかの「華ひらいて世界起る」の句が思われる時節であったにちがいない。

その天地になかにあって、いま道元が語りいでるところの主題は「空華(くうげ)」とある。それは、また言葉をかえていえば、世尊の仰せられたことばをもって「虚空の華」といってもよく、あるいは「首楞(しゅりょう)厳経(ごんきょう)」の表現をもって、

「またエイ(翳、の羽が目の字。眼のかすめる)人の空中の華を見るがごとし」

といってもよいという。道元はまずその「空華」の語を解説して、そのように説きいでたのである。

「仮令(けりょう)すらくは、空華といはんは、この清氣のなかに浮雲のごとくにして、飛華の風にふかれて東西し、および昇降するがごとくなる彩色のいできたらんずるを、空華といはんずるとおもへり」

文中にそのような一節を見出して、わたしもおのずから「ははあ」と頷いたことではある。

「エイ(翳、の羽が目の字。眼のかすめる)人のエイというのは、眼のかすめるということばである。その眼のかすめる人が空中の華を見るがごとしといえば、それはそれは妄法すなわちありもしない華を虚空にみるようなものだということとなる。それが凡人の思わくのおのずからおちつくところであろう。だが、そこで道元は、ずばりと示していう。

「おろかにエイ(翳、の羽が目の字。眼のかすめる)を妄法なりとして、このほかに真法ありと学するなかれ。しかあらんは、少量の見なり」

また、

「しるべし、仏道のエイ(翳、の羽が目の字。眼のかすめる)人といふは、本覚(がく)人なり、妙覚人なり、三界(がい)人なり、仏向上人なり」(298~299頁)

■初祖達磨大師はいった。

「一華五葉を開き、結果自然(じねん)に成る」

この花のひらく時、ならびにその光輝や形相(すがた)をまなぶがよい。この花の弁は五片である。五弁のひらくとき一つの花となるのである。その花によっていわんとするところは、「われもとこの国に来れるは、法を伝えて迷える衆生を救わんがため」だということである。その光輝と形相をたずねるとは、このことを知ることである。その果の結ぶところは、その成りゆきに任せるのである。それを自然に成るというのである。

自然に成るというのは、因を修めれば果を感ずるということである。どこにも通ずる因があって、どこでも通じる果があるのである。いやしくも私(わたくし)のない因果を修して、私のない因果を感ずるのである。自というは己(おのれ)であるが、己というはまた必ず汝のことでもある。ともに四大をもってなり、五蘊によってなる人間である。そこらあたりの誰であってもよいのであるから、われでもないし、たれでもない。そして、誰でなくてはならないというものでもないから自とはいうのである。然(ねん)はゆるすというほどの意である。

つまい、時が来れば自然にしてなるというのであって、それがそのまま花ひらく時であり、果を結ぶ時である。あるいは、法を伝え、迷える衆生を救う時である。たとえば紅蓮華(げ)のひらく時ひらく処は、火のある時、火のもえる処だというようなものである。鑽(きり)の火も焔々ともえる火も、ともに紅蓮華のひらく処であり、ひらく時である。もし紅蓮華のひらく時であり、ひらくでなかったならば、一穂(いっすい)の火もはたらくことはない。それによっても知るがよい。一穂の火にも、百朶(だ)千朶の紅蓮華があって、空にひらき、地にひらき、過去にひらき、また現在にひらくのである。つまり、火のあらわれる時あらわれる処を見聞(けんもん)するには、紅蓮華を見聞すればよいのであるから、紅蓮華のひらく時と処を見遁すことなく見聞するがよいのである。

ひとりの古い先徳はいった。

「紅蓮華は火の裏(なか)にひらく」

そのいうがごとく、紅蓮華は火のなかにひらくのである。火のなかとはなにかを知りたいと思うならば、それは紅蓮華のひらくところである。この世の住みびとも見解にとらわれて、火のなかを考えてはならない。これを疑うものは、水のなかに蓮華が生ずることをも疑うであろう。枝のさきにもろもろの花の咲くことだって疑うであろう。さきに疑うならば、この世界がここに安定していることだって疑えよう。それなのに、それらは疑わずして、火のなかに花のひらくことのみを疑うというは愚かなこと。「花ひらいて世界起る」所以(ゆえん)をよく知るものは、仏祖のほかにはないのである。

「花ひらく」というのは、時と処をさだめることもなくして、森羅万象がその数かぎりもない形相を、いともうるわしく整えることである。ただに春に花あり秋に果あるのみではなく、また、時いたればかならず花あり果あることを知るがよい。花も果もともに時節をまもるのであり、時も節もすべて花果をもつのである。そのゆえに、さまざまの草にはみな花があり果があるのであり、もろもろの樹にもすべて花果があるのであり、あるいはまた、金銀銅鉄珊瑚玻璃(はり)にも、地水火風空にも、すべて花があり果があるのである。さらにいえば、また人々(にんにん)すべて花がある。若きにも花があり、老いたる人にも花がある。そして、そのようなさまざまの花のなかにあって、世尊の説きたまえるは虚空の花である。

それなのに、いまだ見聞あさきともがらは、その虚空の花が、どんな色でどんな光をおびているか、あるいはどんな葉をひろげどんな花をひらくか、そこは一向に知らずして、ただ「空華」とのみ聞き及んでいるのみである。では、はっきりと知るがよい。仏道においてのみ空華が語られるのである。外道では空華のことは語られない。ましてやそれを覚(さと)りつくすものはない。ただもろもろの仏もろもろの祖のみが、ひとり虚空の花を知り、大地の花を知り、また世界なる花の咲きまた萎(しぼ)むを知っているのである。けだし、それらの花こそは、まさしく経典にほかならず、それこそ仏道をまなぶものの依るべき規準であると心得ているからである。そして、それらもろもろの花のなかにおいても、仏祖のよってもって宗(むね)とするところは虚空の花である。それゆえに、すべて仏の世界、ならびにもろもろの仏の説きたもうところは、とりもなおさず、空華であるというのである。

しかるに、世の凡愚なる輩どもは、如来はエイ(翳、の羽が目の字。眼のかすめる)眼(げん)すなわちかすんだ眼のみるところが空華であると仰せられたと伝え聞いて、たいてい、つぎのように思っている。つまり、ケイ眼というのは、事実をありのままに見ることができない衆生のまなこをいうのであって、病める眼は事実をありのままに見えないのであるから、なんにもない虚空にありもしない華を見るのだろうと考える。そして、その考え方にとらわれているから、あるいは三界といい六道というも、あるいは仏ありといい仏なしというも、すべてみな、ありもしないのをあやまり見るのだと心得ている。さらにいえば、そのような迷妄を見る眼も病が よこなれば、もはやありもしない華などは見えないのであるから、それを「空にはもともと華などはない」というのだと、そんな解釈もするのである。

かわいそうに、そんな輩どもは、如来の語りたもうた空華とは、いかなる時、いかなる経緯で語られたものかも知らないのである。もろもろの仏たちがかすめる眼に空華をみると説かれた道理は、けっして凡夫や外道などの考えるようなものではないのである。もろもろの仏や如来は、すべてこの空華を修行しきたって、如来の室に入り、如来の衣を著し、如来の坐にいたることを得たのであり、あるいは、それによって拈華(ねんげ)し瞬目することをえたのである。つまり、それらはみな、かすめる眼の空華という公案を解いてそこに到ったのであって、それによって、正法の眼目を蔵するところ、涅槃というふしぎな心が、いまもなお正しく伝えられて断絶することがないのであり、あるいは菩提といい、涅槃といい、あるいは法身といい、自性(しょう)というなどは、すべてその空華の花のひらける花弁のひとひら、ふたひらに他ならないのである。(303~307頁)

〈注解〉高祖道……;高祖とは菩提達磨である。「一華開五葉云々」の引用句は、『景徳伝燈録』巻三、達磨伝にみえる。

四大・五蘊;人間を構成する物質的要素と精神的要素をあげて、そこよりいえば誰でも同じ人間であるといっておるのである。(307頁)

■釈迦牟尼仏はいった。

「また眼かすめる人(エイ(翳、の羽が目の字。眼のかすめる)人)の、空中の花を見るにひとしい。眼のかすみ(エイ(翳、の羽が目の字。眼のかすめる)病)がなくなれば、花は空(くう)において滅するであろう」

その表現をあきらかにした学者は、いまだかってない。空ということを知らないから、空の華を知らないから、眼かすめる人を知らず、眼かすめる人を見ず、眼かすめる人にあわず、ましてや眼かすめる人ではないのである。よく眼かすめる人と相見(まみ)えてこそ、はじめて空華のなんたるかをも知り、みずから空華をもみることができよう。そして、ひとたび空華をみてよりのちは、また華が空にさえるということもわかるし、さらに、空華はひとたび滅しても、それで無くなってしまうものではないこともわかる。そのように思うのは、小乗の輩(やから)の見解だと知られる。

では、空華が消えてなくなった時には、それはどうなったのであろうか。彼らは、それをただ捨てられたのだろうとのみ考えて、そののちの大事なことを知らないのである。空華にもまた下種の時があり、成熟の時があり、また解脱の時があることを知らないのである。いまの一般の学者たちはたいてい、かの月日のてらすところが空であろうと思い、星辰のかかるところが空なのであろうと思っている。だから、たとえていうならば、空華というのは、この大気のなかに浮かべる雲のようなものであって、それが吹く風のまにまに、あるいは東西にうごき、あるいは昇りくだる。その間にはいろいろ色合いをも現ずるのをば、さてこそ虚空の花とでもいうのであろうと思っている。したがって、存在の要素としての地・水・火・風とか、物質的世界のもろもろの存在のありようとか、あるいはまた本覚とか本性とか、それ等のことを空華というのだということは、まるで気もつかないのである。したがってまた、もろもろの存在の法則というものがあって、それによって地・水・火・風存の諸要素とが存在を構成するのだということも知らないし、あるいはまた、もろもろの存在の法則があって、それによってこの物質的世界がちゃんと存在のありように住しているのだということも知らないで、ただ物質的世界があって、そこにもろもろの存在があるのだとばかり考えているのである。つまり、眼にかすみがかかっているから空華が見えるのだとばかり思っていて、空華があるからこそ眼にかすみがかかるのだという道理をさとらないのである。

それによっても知られるように、仏道において眼かすめる人というのは、本覚の人であり、妙覚(みょうがく)の人であり、あるいは、諸仏にひとしい人であり、三界にひとしい人であり、三界を知る人であり、また仏を超えてゆく人である。それを愚かにも、眼かすむといえば、それは虚妄(こもう)の法をみるのであって、真実の法はそのほかにあるのだとまなぶようなことがあってはならない。そんなのは凡庸の考え方である。いったい、かすめる眼の花などはありもしないものだとするならば、それを虚妄だと主張する方もせられる方も、いずれもありもせぬ虚妄のことをいっておることとなる。それでは両方ともありもせぬことを論じているのであって、そんな議論は成立する道理がない。もしその議論が成立する道理がないならば、かすめる眼の花は虚妄だというようなことは、結局いいえないことでなくてはならない。(312~314頁)

〈注解〉本覚;本有の覚性の意。人はもともと存在のあるがままを見うるものえあるが、煩悩のさまたげるところによってそれを歪曲して見るのである。とするならば、人はそれを払拭し、本来の面目を恢復することによって、覚性に立ちかえることをうるとするのである。(317頁)

■「涅槃といい生死というは、これ空華なるのみなり」

涅槃というは、仏の最高の智慧であって、仏祖やその弟子たちの住するところ。また生死というは人間のあるがままの相(すがた)である。つまり、涅槃といい生死というは、仏祖や凡夫のあるがままの相であるが、いまそれを空華であるという。その空華の根や茎や、枝や葉や、花や果や、さてはその光輝や色彩にいたるまで、つまるところは、みなその空華の花ひらく姿である。空華はかならず空なる果をむすび、また空なる種子を蒔くのである。とするならば、いま見るところの三界は、その空華の五弁の花のひらけるものであって、かって三界にあって見し三界とはいささか異なっている。つまり、コれこそ諸法のあるがままの相であり、これこそ諸法の華のすがたである。乃至は、さらに測り知れざる諸法があろうとも、それもみな空なる華であり、空なる果であり、いうところの梅・柳・桃・李に異なるところはないとまなぶがよい。(322頁)

〈注解〉一念;一念とは一刹那というほどの意。それによって刹那刹那の想いを指さすのであろう。

不生;生滅を超越したものであることを意味する。

真如;それは仏教的真理の根基をなすものであるが、その原語は“(略)”であって、万有のあるがままの相にほかならない。それを中国人は「柳は緑、花は紅」と表現したこともあり、鈴木大拙はこれを訳して“suchness”としたことも思い出される。

諸法実相;もろもろの存在のあるがままの相であって、それが仏教でいう真理の根底であるが、それもまた空華のすがたであるという。(323~324頁)

■福州芙蓉山の霊訓禅師(れいくんぜんじ)は、はじめて帰宗寺(きすじ)の至真禅師にまみえた時、問うていった。

「仏とは、いったい、どんなものでございましょうか」

帰宗(きす)はいった。

「では、いって聞かせようが、そなたは信ずるであろうか」

霊訓はいった。

「和尚の御ことばを信ぜずしてどういたしましょう」

帰宗はいった。

「ではいうなれば、そなたがとりも直さず仏である」

霊訓はいった。

「それをどのように受領したならばよろしゅうございましょうか」

帰宗はいった。

「ちょっとでも眼が翳(かす、羽が目)めば、空華はたちまち乱れ散るであろう」

いま帰宗のいうところの「一翳(えい、羽が目)目にあらば空華乱墜(らんつい)す」とは、思うにすでに仏たるもののいうところである。よって知ることができる。かすめる眼の華が乱れ散るというは、仏を実現することである。眼において結ぶ空華のみのりは、仏たることの保証である。かすむことによってその眼が成るのである。そこのところは、「空華眼にあれば、一翳(えい、羽が目)が乱れ散る」といってもよいであろうし、また、「一眼空にあれば、さまざまの翳(かすみ、羽が目)が乱れ散るのだ」といってもよいであろう。かくて、翳(かすみ、羽が目)もまたあらゆる可能性を発現し、眼もまたあらゆる可能性を発現する。あるいは、空もまたあらゆる可能性を現わし、華もまたあらゆる可能性を現ずるのである。また、乱れ散るというのは、いうなれば観音の千眼(げん)であり、その身がすべて眼なのである。つまり、この一眼のある時ある処には、かならず空なる華があり、眼の華があるのである。眼の華を空なる華というのである。その眼華なることばを、きっと智見をもって明らかにするがよい。(327~328頁)

■石門山の慧徹禅師(えてつぜんじ)は、梁山縁観(りょうざんえんかん)の門下の長老であるが、ある時、ひとりの僧が禅師に問うていった。

「いかならんかこれ山中の宝」

この問いの意味するところは、たとえば、「いかならんかこれ仏(ぶつ)」と問うにおなじであり、あるいは、「いかならんかこれ道(どう)」と問うようなものである。

禅師は答えていった。

「空華は地より発(おこ)る。だが、国をあげて買わんとするも手立てはない」

このことばは、まったく他のことばに較べていうことができない。世のつねの諸方の老師たちのそれは、空華を論ずるにあたって、ただ、空華は空において生じ、さらに空にあって滅すると語っているのみである。そこをさらに一歩すすめて、それは「空より」発ると知っているものもいまだない。ましていわんや、それが「地より」開くものと誰が知っていよう。それはただ石門だけである。

その「地より」というのは、終始かならず地からということであり、また「発(おこ)る」というは「開く」ということである。まさにその時には、大地のいたるところより発るのであり、大地のありとあらゆるところに開くのである。それが「国をあげて買わんとするもその手立てはない」というのは、国じゅうにはそれが欲しいと思うものはないわけではないが、誰もそれを買うべき手立てはないというのである。また、地より発る空華があるという、それはまた、この大地のことごとくが華によって華ひらくということである。したがってまた、そこには、空華は地をも空をもともに華ひらかしめるという意味があると知るがよろしい。(329~330頁)

〈注解〉眼華;空華は眼にある華であるから、またかくいうのである。

空華の空華を論ずる;仏祖が空華について語るのは、つまり空華が空華を論ずるものに他ならずとするのである。(331頁)

菩 提 薩 埵 四 摂 法 ( ぼ だ い さ っ た し し ょ う ぼ う )

■開 題

この一巻の構成はいたって簡明である。それは、菩提薩埵すなわち菩薩の行ずべく定められた、「四摂法」の四つの項目をならべて、それをつぎつぎに解説したのみのものである。「四摂法」というのは、注解にもしるしておいたように「衆生を摂取するための四つの項目」というほどの意味のことばであって、「布施」と「愛語」と「利行(りぎょう)」と「同事」がその四つの項目にあたる。そして、この巻においては、その四つの項目がつぎつぎに解説されているのみである。

しかるに、その解説がそれぞれに素晴らしいのである。たとえば、その第一の項目である「布施」について、道元は、いきなり、

「その布施といふは、不貧(ふとん)なり。不貧といふは、むさぼらざるなり。むさぼらずといふは、よのなかにいふへつらはざるなり」

と示している。思うに、わたしどもは、これまでに、「布施」の説明として、いまだかって、それは「不貧」であると耳にしてこともないし、あるいは、それを「へつらはざるなり」と目にしたこともなかったのではないか。いったい、「布施」について、どこからそのような説明のことばが生まれてくるのであるか。それは、つまるところ、より深く掘りさげられた鍬(くわ)の下からのみ、はじめて新しい泉は滾々(こんこん)と湧きでてくるのだというのほかはないであろうし、省みて、わたしどもが従来の布施についての思索が、いかに平板にしてただ表面的現象をのみ撫(ぶ)するものであったかが歎かれるのである。「へつらはざるなり」の一句については、わが思いの及ばざるを恐れて、註解には古註の一節をひいておいた。参看していただければ幸いである。

またたとえば、ついで道元は、その第二の項目である「愛語」に語りいたるが、そこでは、今度は、まことに道元らしい簡潔にして、また美しい章句をつらねている。なかでも、わたしがしばしば愛吟して措かざる一節はつぎのようである。

「怨敵を降伏(ごうぶく)し、君子を和睦ならしむること、愛語を根本とするなり。むかひて愛語をきくは、おもてをよろこばしめ、こころをたのしくす。むかはずして愛語をきくは、肝に銘じ、魂に銘ず。しるべし、愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子(しゅうじ)とせり。愛語よく廻転のちからあることを学すべきなり、ただ能(のう)を賞するのみにあらず」(355~356頁)

■一つには、布施。

二つには、愛語。

三つには、利行(りぎょう)。

四つには、同事。

その布施というのは、不貧(ふとん)、すなわちむさぼらざることである。むさぼらないというのは、世の中にいう諂(へつら)いのこころなきことである。たとい全世界をすべて領していても、人々を教化して正しい道に帰せしめようとするならば、どうしても不貧でなくてはならない。それは、たとえば、捨つべき宝を見も知らぬ人に施すがごとくでなくてはならない。むかしより遠き山の花を如来に供養するということがあり、また前世のたからを衆生に施すということがあるが、教法にしても、物品にしても、いずれも布施するにふさわしい性質をもともと具えているのである。わが物ではなくっても、布施できないという道理はないのである。その物が軽少だからといって嫌ってはならない。それが本当に役立てばよいのである。道は道に打ちまかせて純一無難なるがよく、その時はじめて道が得られる。得道(とくどう)の時には、かならず、道が道に打ちまかされて、おのずからにしてそれがなるのである。そして、いま財貨もまたそれ自身に打ちまかされる時、その財貨はかならず布施となる。自分に施すべきものは自分に施し、他に施すべきものは他に施すのである。そのような布施のえにしによるちからは、とおく天界までも通じ、人間界にも通じ、また証(さとり)を得た聖者たちにも通ずるであろう。なんとなれば、その時、彼らは、あるいは布施の施し手となり、また受け手となって、たがいに縁を結ぶからである。だから、仏もかって仰せられたことがある。

「布施する人が衆人のなかにある時、諸人はまずその人を仰ぎみるであろう」

それによっても、目にみえずとも、心が通ずるということが判るではないか。だからして、一句一偈(げ)の法をも布施するがよい。さすれば、それが今生・他正のよき種をまくこととなる。あるいは一銭・一草の財(たから)をも布施するがよい。そうすれば、それがこの世あの世のよき報いの種子ともなるのである。法も財(たから)であろう。財も法であろう。願う心があればそうなるのである。

まことに、ふるくは、髭(ひげ)を施して民の心をととのえたという故事もあり、あるいは、砂を供養して王位を得るということもあったという。ただ相手の反対給付をむさぼることなく、自己のもてる力をわかつのである。渡場に舟をおき、あるいは橋を架けるのも、布施のいとなみである。もしよくよく布施をまなんでみるならば、よき身をうけて人のためとなるも布施、あるいは、この身を捨てるのも布施、治生産業(ちしょうさんごう)すべて布施にあらざるはない。花を風のふくに委(まか)せ、鳥を季のうつりかわりに委せるというも、また布施のいとなみであろう。むかし阿育(アショカ)大王は、半分のマンゴーをもってよく数百の僧たちを供養したというが、それをこそ大いなる供養なりとなす道理を、施すものもまた受来る人もよくよくまなぶがよい。ただにおのが身の力をつくして供養するのみならず、また時におよんでの布施というものも考えるがよいのである。

思うに、この身は、前世にうえた布施の徳があったればこそ、いまこの身を得ているのである。だから、仏も仰せられたことがある。

「この自分にだって、なおこれを受け用いることができる。ましていわんや、これを父母や妻子に与えずしてなんとするぞ」

それによっても知られるではないか。自分で用いるのも布施の一分である。父母や妻子にあたえるのも布施にちがいあるまい。もしまた、よく布施として塵ひとつほどのものでも捨てようとする時には、たといそれがいたらぬ自己の所作であろうとも、しずかに喜びの念をいただくがよろしい。なんとなれば、それは、もろもろの仏のつみたもうた功徳のひとつを、いまわれも正伝してつくっているのだからであり、また、それは菩薩の修したもうた法のひとつを、いまわれもはじめて修しているのだからである。

まことに転じがたいのは衆生の心である。だが、一つの財をきっかけとして、それで衆生の心が転じはじめたならば、それを得道にまで転じてゆくこともできようかと思われる。その手はじめは、かならず布施をもってすべきである。だからして、六波羅蜜のはじめに檀波羅蜜があるのである。心の大小もまたはかることはできないけれども、心が物を転ずるという時があり、また物が心を転ずるということがある。そして、布施とはそのことに他ならない。(359~362頁)

〈注解〉六波羅蜜;度と訳し、また到彼岸と訳する。それを修して菩薩がその目的に到達しうるところの行業である。それに、施・戒・忍・精進・定・慧の六つがあげられ、これを六波羅蜜というが、その第一にはつねに施波羅蜜すなわち檀波羅蜜がおかれている。檀とは檀那であって、それを訳すれば施もしくは布施である(363頁)

■愛語というのは、衆生をみていつくしみ愛する心をおこし、心にかけて愛のことばを語ることである。およそ荒々しいことばはつつしむことである。世俗にも安否を問うという礼儀があり、仏道には「お大事に」と自愛自重をすすめることばがあり、また「ご機嫌いかがでございますか」と問う礼儀がある。「衆生を慈しみ念ずること、なお赤子(せきし)のごとし」というが、そのような思いを内にたくわえてことばを語る、それが愛語である。

徳あるものは賞めるがよい。徳なきものは憐れむがよい。その愛語をこのむところから、いつとはなしに愛語は成長してくるのである。そうすれば、つね日頃は思いもかけぬような愛語もふっと現われてくるようなこともある。だから、いまのこの身命のつづくかぎりは、このんで愛語するように力(つと)めるがよい。また、世々生々(せぜしょうじょう)にも退転することのないようにと念ずるがよい。

思うに、怨敵をして降服(ごうぶく)せしめるにも、君子をして仲むつまじうせしむるにも、いつも愛語を根本とするのである。相向って愛語をきけば、おのずからにして面(おもて)によろこびがあふれ、心をたのしうするであろう。また、相向わずして愛語を聞いたならば、それは、肝に銘じ、魂をゆりうごかすであろう。けだし、愛語は愛心よりおこるものであり、愛心はまたいつくしみの心を種子としてなれるものだからである。まことに、愛語はよく天を廻(めぐ)らすほどの力あるものなることをまなばねばならない。ただ能力あるを賞するのみではいけないのである。(364~365頁)

〈注解〉珍重・不審;珍重とは、「御身お大事に」よ、自愛自重をすすめることばであり、不審とは、「ご機嫌いかがでございますか」と訊ねることばである。比丘が相わかれ、相見える時の作法のことばであって、朝起きた時には不審、夜寝(い)ぬるにあたっては珍重というのがならいである。

■利行(りぎょう)というのは、貴きと賤(いや)しきをえらばず、人々のために利益になるように手立てをめぐらすことである。たとえば、遠いまた近いさきざきのことまで見守って、他人を利するような手段を講ずるのである。窮した亀をあわれみ、病める雀をやしなうのもそれであるが、その時、彼らがその恩返しをすることを期待せず、ただひとえに利行を旨としてそれをなすのである。

しかるに、世の愚かなる人々は、他人を利することを先きとすれば、自分の利益がそれだけ駄目になるのだと思っている。だが、そうではないのである。利行とはそんな半端なものではない。あまねく自己をも他人をも利益するのである。むかしの人は、一たび沐浴するに三たび髪をゆい、一たび食事するに三たび口にいれたものを吐いたことがあった(岡野注;周公の三吐握)というが、それはひとえに他人を利せんとする心であった。よその国の者ならば教えないというのではなかった。

つまり、仇(あだ)も味方もひとしく利するべきであり、自己をも他人をもおなじく利するのである。もしこの心を会得すれば、草や木や風や水にまで、利行がおのずから及ぶというものであって、それこそまさに利行というものである。ただひたすらに愚かなることはなすまいと励むがよいのである。(366~367頁)

■同時というは、違(たが)わざることである。自己にもそむかず、他者にもたがわず、たとえば、人間界にあらわれた如来は、人間界の住みびとにまったく同(どう)じたもうたごとくである。人間界にあれば人間界に同じたもうたのであるから、如来はまた余(ほか)の世界にあれば、その世界に同じたまうであろうと知られる。つまり、同時ということを知るとき、自らもも他もまったく一如なのである。むかしから、琴(きん)・詩・酒(しゅ)においては、人は、人を友とし、天を友とし、また神を友とするという。人が琴・詩・酒を友とすれば、琴・詩・酒は琴・詩・酒を友とし、人は人を友とし、天は天を友とし、神は神を友とするということともなる。これが同事のまねびである。たとえば、事(じ)というのは、儀(ぎ)(のり)であり、威(い)(かたち)であり、態(たい)(さま)である。他者をして自己に同ぜしめることは、同時に自己をして他者に同ぜしめることであろう。自と他とは、時にしたがって、無限に交流するものである。『管子』にいわく、

「海は水を辞せず、故によくその大を成す。山は土を辞せず、故によくその高きを成す。明主は人を嫌わず、故によくその衆(しゅ)を成す」

よりて知るがよい。海は水を辞せずという。それが同事である。さらに知るがよい。水もまた海を辞せない性状を具備しているのである。だからして、よく水があつまって海となるのであり、また土が積もり重なって山となるのである。かくて、ひそかに思えば、海は海を辞さないからこそ、海を成し、その大を成すのである。また、山は山を辞せざるによりてこそ、山を成し、その高きを成すのである。さらにまた、明主は人を厭わざるがゆえにこそ、その衆をなすのである。衆というのは国である。だから、いうところの明主とは、帝王をいうのであろう。帝王は人を厭わないのである。人を厭わないからといって、賞罰のことがないわけではないが、賞罰はあっても、けっして人をきらわないのである。むかしの人は素直であったから、国にはいわゆる賞罰というものがなかった。かの時代の賞罰は、いまのそれとはちがうのである。いまも、賞せされることを期待せずして道を求める人があってよいはずであるが、それは愚かなるものの思慮のおよぶところではあるまい。だが、明主は心あきらかであるから、人を厭わないのである。いったい、人はかならず国を成し、そして明主をもとめる心がある。だが、明主が明主たるの道理をくまもなく知るものは稀である。だから、明主に厭われないことだけを喜ぶのであるが、同時にまたそれは、自己が明主を厭わないのだとは気がつかない。つまり明主にも、また愚人にも、同事の道理があるのであって、それがまた生きとし生けるものの願いであり、また行ずるところである。かくて、ただまさに、いつも和(おだやか)な顔容をもってすべての人に接するがよいというのである。(370~371頁)

葛 藤 ( か っ と う )

■いったい、もろもろの聖者たちは、たいてい、葛藤の根源を切断するという方向にのみ傾向して、どうも、葛藤をもって葛藤をきるという行き方をするものはない。あるいは、葛藤をもって葛藤にまつわるということも知らないし、ましてや、葛藤をもって葛藤に嗣ぐなどとはとても知るまい。嗣法はすなわち葛藤なのだといっても、そんなことを知ったもの、聞いたものは滅多にあるまい。ましてや、そんなことを言いえたものは、とてもあるまい。そうと証りえたものも、めったにありはすまい。

しかるに、先師なる如淨古仏は語っていったことがある。

「夕顔の蔓らしいものが夕顔にまつわりついているわい」

この示衆(じしゅ)のことばは、いまだかって古今のもろもろのご老師たちにおいて見聞しないところであり、ひとり先師如浄において語り示されたものである。夕顔の蔓にまつわっているというのは、仏祖が仏祖に参学し、仏祖が仏祖に印可を与えることをいっておる。たとえば、以心伝心というがごときである。

第二十八祖菩提達磨は門人たちに語っていった。

「時はまさに至らんとしている。そなたたちは、ひとつ、その得たるところをいってみてはどうじゃ」

そこで、門人の道副(どうふく)がいった。

「わたしのいまの所見をもうしますと、文字に執せず、文字を離れずして、大道の用をなすということでございます」

初祖はいった。

「そなたは、わが皮を得たのである」

ついで、比丘尼の総持(そうじ)がいった。

「わたしのいま理解するところを申しあげますれば、よろこび喜んで阿閦(あしゅく)仏の国土を見たけれど、一たび見しのちは、さらに再見せずというところでございます」

初祖はいった。

「そなたは、わが肉を得たのである」

つぎに、道育がいった。

「四大はもと空にして、五蘊もまた存するものにあらず。されば、わたしの見るところをいわば、一物として得べきものなしというところでございます」

初祖はいった。

「そなたは、わが骨を得たのである」

最後に、慧可は、初祖に向って礼拝すること三たびしてのち、あるべき位置によって立った。すると、初祖は彼に向っていった。

「そなたは、わが髄を得たのである」

そして、果せるかな、慧可を二祖となして、法を伝え、また衣を伝えたことであった。(382~383頁)

■しかるに、いまだ正伝を得ない輩たちが考えるところは、たいてい、その門下の四人の解するところにそれぞれ浅い深いがあったので、祖師もまた、皮・肉・骨・髄の四つの文字を、その浅深にあてて語りたもうたとするのである。つまり、皮・肉は骨・髄よりも浅いのだと思い、二祖の見解はもっとも勝れていたので、「髄を得たり」という印可を得たのだというのである。そんなふうにいうのは、いまだかって仏祖にまなんだこともなく、仏祖のじきじきのことばをいただいたこともないからである。

はっきりと知らねばならない。初祖がいうところの皮・肉・骨・髄とは、けっして見るところの浅深を語ったものではない。たとい門下の見解に優劣がありとしても、諸祖のいうところはただ「吾を得たり」のみである。その意味は、「吾が髄を得たり」というも、また「吾が骨を得たり」というも、いずれも「人のためにするときには人に接し、草を拈ずるときには草に落つ」というところであって、それでは足りた、それでは足りないというのではない。そこの呼吸は、たとえばかの拈華(ねんげ)のごとくであり、あるいは、たとえばかの伝衣(え)のようなものである。四人の門下のためにいっておることは、終始おなじである。ただ、祖師のことばはおなじであっても、四人の見解はかならずしも等しいわけではない。だが、四人の見解はいろいろであっても、祖師のいうところはあくまでひとつなのである。(384~385頁)

■もしも祖師の門下にもっと多くの門人があったならば、祖師はおそらく、「汝はわが心を得たり」とも説いたであろう。「汝はわが身を得たり」とも説いたであろう。あるいは、「汝はわが仏を得たり」と説いたかも知れない。「汝はわが眼睛(がんぜい)を得たり」とも説いたであろう。また、「汝はわが証(しょう)を得たり」とも説いたであろう。そして、そこにいうところの「汝」は、それが祖師である場合があり、また、慧可である場合もある。それには、その「得」の道理をよくよく思いめぐらしてみるがよろしい。つまり、「汝はわれを得たり」ともいえるし、「汝とわれを得たり」ともいうこともできよう。そもそも、祖師の身心を考えてみて、いかに達磨でも、その内と外とがまったく同じだということはありえないとか、あるいは、その全身がすべて等しいなどということはあり得ないなどというならば、それは仏祖の実現したまえる国土というものをまったく知らないのである。(386頁)

■皮を得たのならば、それは骨をも肉をも髄をも得たのである。骨・肉・髄を得たのは、それはまた皮肉をも面目をも得たのである。それはただ尽十方世界の真実のありようがそうだというのみではない。また、このわれや汝の皮・肉・骨・髄がすべてそうなのである。だからして、それをまた、「わが衣を得たり」というし、「汝はわが法を得たり」ともいう。そのように、師家のいい方にも、いろいろと凡俗を抜け出したところがあり、また、学人の聞くとこともさまざまと自由自在のところがあって、そこではもう師も弟子もまったく異なるところはない。その師と弟子のもはや異なるところのない道理を仏祖の葛藤とはいうのであり、その相からまりあっているところが、いまの皮・肉・骨・髄のいのちとするところである。つまり、拈華し瞬目したまえるのが、すなわち葛藤であり、あるいは、破顔微(み)笑したまえるのが、皮・肉・骨・髄にほかならないのである。そこをさらに学び究めてみるがよろしい。すなわち、その葛藤が種子(しゅうじ)となって、そこから枝葉をのべ、花を開き果を結び、それらが葛藤をめぐって、たがいに交渉しあうのであるから、そこに仏祖も実現するのであり、さとりも実現するのである。(387頁)

〈注解〉得吾如(にょ);吾が汝であり、汝が吾である境地にいたることをいうのであろう。それは、つまり、自他のわかちを超えていることに他なるまい。(388頁)

■趙州(じょうしゅう)の真際(ざい)大師は衆(しゅ)に示していった。

「迦葉(かしょう)は阿難に伝えた。では、達磨はどんな人に伝えたか、いって見よ」

すると、一人の僧が問うていった。

「かの二祖が髄を得たというが、そうではないのですか」

趙州はいった。

「二祖をそしってはいけない」

やがて、趙州はかさねていった。

「達磨はまた語って、外にある者は皮を得、内にある者は髄を得るといったという。では、いってみるがよい。さらに奥にあらん者は、いったい何を得るだろうか」

僧は問うていった。

「では、そもそも髄を得るというのは、どういうことでありましょうか」

趙州はいった。

「ただ皮をよく識るがよい。わしの内にだって、べつに髄などというものはありはしない」

僧はいった。

「その髄とは、いったい、どんなものでございましょう」

趙州はいった。

「そんなことをいっていたのでは、皮だって摸(さぐ)りあてることはできまい」

これによっても知るがよい。皮も摸りあてることができない時には、髄もまた判りっこはないのであり、よく皮を知りうる者は、また髄をも得ることができるのである。「そんなことをいっていたのでは、皮だって摸りあてることはできまい」というそこの道理を、よくよく思いめぐらしてみるがよいのである。(392~393頁)

■さきの仏祖も、古仏の讃辞をもって趙州を讃歎した。のちの仏祖もまた、古仏の讃辞をもって趙州を讃歎する。それによっても、趙州が古今のさまざまの仏祖をも抜きんでた古仏であったことが知られるのである。だからして、いま趙州がいうところの皮肉骨髄の微妙な関係は、かの古仏が語りともうた「汝われを得たり」の言句を解くべき基準である。では、その基準たるところを、よくよく思いめぐらして、学び究めるがよろしい。

また、初祖菩提達磨は、そののち西帰したという。それは正しからずとわたしは学んでいる。宋雲の見しところは、かならずしも真実ではあるまい。宋雲などがどうして祖師の進退を知るはずがあろう。ただ祖師は亡くなられたのち、熊耳山(ゆうじさん)に骨を納めたとのみしるのが、正しいまなび方である。(395頁)

〈注解〉趙州真際大師;趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん、897寂、寿120)。馬祖道一の法嗣(ほっす)。諡(おくりな)して真際大師と称する。

  雪峰真覚大師;雪峰義存(ぎそん、908寂、寿87)。徳山宣鑑(とくざんせんかん)の法嗣(ほっす)。賜号あって真覚大師と称する。

      宋雲;北魏の僧、勅命によって天竺に使し、葱嶺(そうれい、パミールの辺り)において達磨に遭ったという。(396頁)

(2016年2月14日)

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『正法眼蔵(5)増谷文雄 全訳注 講談社学術文庫

凡 例

■よく知られるように、『正法眼蔵』は未完の大著である。その最後の制作である「八大人覚(にんがく)」の巻(1253)の奥書によれば、道元は、それまでの制作もみな書き改め、それに新草をも加えて、これを全百巻の制作とするつもりであったという。懐弉の記すところである。しかるに、その頃から病ようやく重くして、その事を果すにいたらず、その年(建長五年、1253)の八月二十八日にこの世の生を終えられた。

この未完の大著がまず編集されたのは、それも他ならぬ永平寺第二世を嗣いだ懐弉によってである。その巻数は七十五巻である。懐弉は、早くから、道元が衆に示した、もしくは衆に示すために用意した草稿を書写していたのであるが、この七十五巻は、おおむねそれらによって編集されたもののごとく、人に書いて与えられたものは、「現成公案」の一卷のみ(それは建長四年に収録されていた)である。その編集がなったのは建長七年、道元の滅後三年目であったという。この未完の大著の主体をなすものが、この七十五巻本であることは申すまでもない。

しかるに、懐弉はなおその後も、みずから道元の草稿を書写し、あるいは人をして書写せしめたようである。それはどういうことであるか。そこで思い出されることは、彼は宝治元年(1247)よりしばらく永平寺を離れ、豊後(ぶんご)国大分郡に下向(げこう)して、大龍山永慶寺の草創のことに尽瘁(じんすい)していた。そして、道元の病ようやく篤(あつ)きにいたって、急ぎ永平寺に帰ってその第二世を命ぜられた。とするならば、その間になった新稿や再治のものについては、さきの七十五巻本に収めえなかったものがあったとしても少しも不思議ではない。そして、今日みるところの永平寺所伝のいわゆる十二巻本は、おおよそ、そのようにして新たに追加せられたもののように思われる。

それで、今日みるところの「正法眼蔵』の根幹は、おおよそ成ったものといってよかろう。だが、ふと気がついてみると、そのなかには、「菩提薩埵四摂法(ぼだいさったししょうぼう)」の漢がみえない。「法華転法華」の巻がみえない。あるいは、「唯仏与仏」の巻もなく、「生死」の巻もない。さらには、「弁道話」の巻もどこにもない。それは、近年流布の刻本ないし活字本によって九十五巻本に親しんできたわたしどもにとっては、まことに淋しいことである。(7~8頁)

三 界 唯 心 (さんがいゆいしん)

■開 題

この一巻は、見られるとおり、その奥書に、寛元元年(1243)閏初七月一日、越宇(えちう)吉峰頭(よしみね)にありて衆(しゅ)に示したとある。それには異本があって、その吉峰頭を禅師峰(やましぶ)としたものもある。吉峰頭といえば、またしばしば吉峰寺・吉峰精舎・吉峰古精舎・吉嶺寺ねどとも記されている「吉峰の茅舎(ぼうしゃ)」であって、いまの永平寺の主山の背にあたる松岡の渓の奥にあったという。また、禅師峰といえば、天台宗平泉寺のふもとであって、この年の十一月のなかばから、翌年二月のころまでは、そこで示衆(じしゅ)のことが行われたようである。おそらくは、冬たけて雪ふかきころには、禅師峰なで下っておられたものでもあろうか。

だが、それよりももっと、わたしにとって忘じがたいのは、その七月一日という日付である。かの『建撕(けんぜい)記』は、それについて次のようにいう。

「この年七月十六日の比(ころ)、京を御立あるかと覚ふ。同月末に志比荘(しびのしょう)に下著あると見へたり、正法眼蔵三十二巻(「三界唯心」の巻)の奥書に、寛元元年閏七月初一日、在越宇(えちう)吉峰頭(よしみね)にありて示衆と云(いえ)り。……越に著して、最初は吉峰に住せられて、閏七月初一日に開示始まれり」

わたしは、はじめ、わが眼を疑ったことを忘れえない。京都を立たれたのが七月十六日ごろだというのに、おなじ七月の一日に示衆とはと、よくよく検(しら)べてみると、それは閏初七月の初一日であった。とはいえ、やっぱり、七月の末にお着きになって、あくる閏七月の初一日には、もう示衆ということであるから、道元禅師がいかにこの『正法眼蔵』のことに精魂を傾けておられたか、ひしひしと感ぜられざるをえないのである。

ともあれ、この一巻は、道元禅師が越前に入られてからの、はじめて開示された一本である。そのなかで禅師が、衆にむかって示そうとなされたことはなんであったであろうか。

ここでもまた、道元は、そのいわんとするところの大凡(おおよそ)を、その冒頭の一節にうち出している。そこではまず、『華厳経』によって(ただし取意文)、つぎのような四句の偈(げ)がおかれる。

「三界唯一心 心外無別法

心仏及(ぎゅう)衆生 是三無差(しゃ)別」

そして、それを道元は、この「一句の道著(じゃく)は一代の挙力(こりき)なり、一代の挙力は尽力(じんりき)の全挙なり」と語りはじめる。道元の文章に馴染まぬ人々には、まったく難解であろうが、すこし馴染んでくると、ああそうかと、すっと頷(うなず)くことができる。わたしは、それを次のように訳しておいた。

「この一句の表現は、如来一代の総力をあげてなれるものである。一代の総力をあげるということは、如来の力をこぞって余すところなきをいうのである」

ということは、ここに仏智はことごとく結晶しているのであり、ここに仏教の世界観の根本基底があるとでもいうところであろう。

しかるに、「三界唯心」もしくは「三界唯一心」といえば、人はとかく、ああ仏教は結局のところ唯心論なのだなあと、早合点しがちである。はやい話が、古来から仏教をもって唯心論だとしている人々は、けっして少なくないのであるが、それは、けっして「三界唯心」の真意を得たものではない。道元がつづいて語っていることはそのことである。

「三界は全界なり、三界はすなはち心(しん)といふにあらず。そのゆゑは、三界はいく玲瓏(れいろう)八面も、なほ三界なり」

三界とは、この世界のすべてをいうことばである。だが、その三界はけっしてそのまま心であるなどというのではない。この三界はどこから見ても、あきらかに、どこまでもなお三界であるという。そのいう意味は、つまり、仏教を唯心論などと思うのは、とんでもない誤解とするのである。かくて、よくその誤解より脱出することを得るならば、そこから、またいろいろというべきことが開けてくるのである。(16~18頁)

■釈迦牟尼仏は仰せられた。

「三界とはただ一つの心である。

心のほかにまた別のものはない

心といい、仏といい、衆生というも

その三つは別のものではない」

この一句の、表現は、如来一代の総力をあげてなれるものである。一代の総力をあげるということは、如来の力をこぞって余すところなきをいうのである。それは、凡夫にとっては、無理をしてやっとできることであるが、仏にとっては、それがおのずからにしてそうなるのである。だからして、いま如来がいう「三界唯心」とは、如来の悟れるすべてである。一代のすべてがこの一句に結晶しているのである。

その三界とは、すべての世界のことである。けっしてこの三界がそのまま心(しん)であるというのではない。なんとなれば、この三界は、どこから見ても、あくまでも明らかになお三界である。それを、三界ではあるまいと考えても、とてもそう考えきれるものではない。内も外も中間も、初めも中も終りも、みな三界ならざるはない。

つまり三界は三界というそのことばのとおりである。それをそうではあるまいと見るのは、三界の正しい見方ではない。詮(せん)ずるところ、三界は、迷うたままの目で見ればふるい三界であるし、悟った目で見ればあたらしい三界なのである。つまり、古巣にあっても三界が見え、新しくなったからとて、やはり三界が見えるのである。

だからして、釈迦牟尼仏がまた仰せられた。

「三界を、三界として見るのが、いちばんよろしい」

そのようにして見られているのが三界であり、この三界はそのように見えるのである。だから、三界とは、もとから存在するというものでもなく、また今だけそんざいするというものでもない。あるいは、新たに存在するというものでもなく、また今だけ存在するというものでもない。あるいは、新たに成るというものでもなく、なにか条件があって生ずるものでもなく、また、初めにあり、中にあり、後にあるというものでもない。

あるいは、三界を出離するということがあり、また、いまこの三界にありということもあるが、それは、そういう仕掛けがあるというだけのことであり、ことばがことばを生み出しただけのことである。つまり、いまこの三界にありというのは、三界で見ているのであって、ではなにを見ているかといえば、三界を見ているのである。三界で三界を見ているのだから、三界がよく見える、三界がよく判るのである。それで課題はみごとに解けるのである。よく三界をして発心・修行・菩提・涅槃をとげしめるのである。かくて、これを、ああみんなわたしのものだ、ということができるのである。(20~21頁)

〈注解〉三界唯一心、心外無別法;『華厳経』(八十巻本)第三十八、離世間品に、「三界所有、唯是一心」とある。

  心仏及衆生、是三無差別;『華厳経』(六十巻本)第三十六、夜摩天宮菩薩説偈品に、この二句が見えておる。したがって、道元はそれらの意を取り、あるいは合成して、この四句の一偈をなしたのであろうか。(22頁)

■それによっても判るように、三界のほかにはなお別に衆生の世界があるなどというのは、外道の実在論者ののいうところであって、けっして七仏の説きたまうところではないのである。さきには、唯心とあったが、それも、あれだこれだというものではない。また、三界はただ心のみというのでもなく、三界を出てほかに心があるわけではない。そんなことは考えようとしたって考えられないから、誤りっこはありえない。思念のいとなみをしたからとてそれであり、思念のいとなみがなくってもそれである。つまりは、牆壁瓦礫(しょうへきがりゃく)も心なのであり、山(せん)河大地も心なのである。

さらにいえば、心とは皮肉骨髄がそれであり、あるいは、拈華(げ)破顔がそれである。そこでは、心のはたらきがあることもあり、あるいは、それがないこともある。あるいはまた、有身の心というがあり、無身の心というもある。さらには、身先の心というがあり、身後の心というもあろう。生物がその身を生ずるには、胎生(しょう)・卵生(しょう)・湿生(しょう)・化生(しょう)といろいろの種類があるという。それと同じく心の生ずるにも、またそのようないろいろの種類がある。

青・黄・赤・白というも心である。長い短い・円い四角いというも心である。生まれて来り、死して去るというも心である。年月日時というのも心であり、夢まぼろしといい、空中の華というのも心であり、水沫(すいまつ)といい泡といい焔(ほのお)というも心である。あるいは、春の花といい秋の月というのも心であり、ほんのわずかの間のかりそめのこともすべて心である。それでいて、それをどうすることもできない。だからして、諸法実相というのも心、唯仏与仏というのも心であるというのである。(29~30頁)

■いま玄沙院の師備は問うて、三界唯心というが、そなたはそれをどう理解しているかといった。どう理解しようが、どう理解せまいが、どちらにしても、同じく三界唯心である。だからして、また、かならずしも三界唯心といわなくてもよろしい。それで地蔵院の桂琛(けいしん)は、かたわらの椅子を指さして、和尚はこれを呼んでなんと申されるかといった。つまり、どう理解するかということは、どう呼ぶかということなのである。

だから、いま玄沙院の師備が「椅子じゃ」といったなら、われわれもまたそういってみるがよろしい。そういいながら、いったいこれは三界を理解したことばか、それとも理解していないことばか、あるいは、これは三界のことばか、それとも三界のことばではないのか、あるいはまた、これは椅子がいうのか、大師がいうのかと、そんな具合にいってみるがよろしい。そうすればまた、解ったかどうかも判り、納得できたかも判るというものである。(34~35頁)

■すると、玄沙院の師備が、「この世界には、仏法を理解したものなどは、ただの一人も見つからぬぞ」といったという、その表現をもつぶさにしらべてみるがよろしい。

いまもいうように、玄沙院の師備もただ「呼んで竹木となす」である。地蔵院の桂琛(けいしん)もただ「呼んで竹木となす」である。さらにいえば、まだ三界唯心を理解したわけでもなく、またいわないわけでもない。とはいいながら、ひとつ玄沙院の師備に問うてみたい。「和尚はいま、この世界に仏法を会(え)する人などは、ただの一人も見つけがたい、と仰せられたが、では、試みにいうてみるならば、なにを呼んでこの世界というのでありましょうか」と。だいたい、そんな具合にいろいろと工夫して思いめぐらすがよいのである。(36~37頁)

〈注解〉玄沙院宗一大師;玄沙師備(908寂、寿74)。雪峰義存の法嗣(ほっす)。福州の玄沙山に住した。宗一大師は賜号(しごう)である。

  地蔵院真応大師;羅漢桂琛(らかんけいしん、928寂、寿61)。玄沙師備の法嗣(ほっす)。はじめ地蔵院にあり、のち羅漢院に住した。諡(おくりな)して真応大師と称する。(37頁)

説 心 説 性 ( せっしんせっしょう )

■開 題

いま一つは、この巻において、大慧宗杲(だいえそうこう)のことばをもって代表せしめている誤れる見解であって、それは、つぎのように述べられている。

「いまのともがら、説心説性をこのみ、談玄談妙をこのむによりて、得道おそし。ただまさに心性ふたつながらなげすてきたり、玄妙ともに忘じきたりて、二相不生のとき、証契(しょうかい)するなり」

どうやら、そのような見解は、禅門のいたるところにおいて、よく聞くところであるようであるが、いま道元が、この巻において強調していることは、初中終をつらぬいて、「説心説性は仏道の大本(おおもと)」であるということなのである。

「説心説性は仏道の大本なり。これより仏仏祖祖を現成せしむるなり。説心説性にあらざれば、転妙法輪することなし、発心修行することなし、大地有情同時成道することなし」

それは、この巻の冒頭に、さきにいう洞山と僧密の対話につづいて記された道元の所見である。

それにあたかも呼応するがごとく、結びをなす一節は、つぎのように記されてある。

「しるべし、唐代より今日にいたるまで、説心説性の仏道なることをあきらめず、教行証(きょうぎょうしょう)の説心説性にくらくして、胡説乱道する可憐憫者(かれんみんしゃ)おほし。身先身後にすくふべし。為道(いどう)すらくは、説心説性はこれ七仏祖師の要機なり」

それなのに、心のこと、性もこととなると、その姿もみえず、その当体の捉えがたいものであるので、ともすれば、さきにいうがごとき誤解におちいり易い。その誤解をいましめながら、やはり、説心説性のことのおもきを語ろうとするのが、この一巻の趣きなのであろう。(41~42頁)

■説心説性ということは仏道の大本(おおもと)である。そこから仏たち祖たちが現われてくるのである。説心説性のことなくして、仏の説法はありえないのであり、発心修行もありえないのであり、大地有情、同時成道ということもありえないのであり、あるいは、一切衆生、仏性なしともいいえないであろう。さらにいうなれば、拈華(ねんげ)瞬目も説心説性であり、破顔微(み)笑も説心説性であり、あるいは、二祖が初祖を礼拝してそのあるべき位置によって立ったのも説心説性であり、初祖が西より来たって梁(りょう)に入ったのも説心説性であり、五祖が夜半にして衣を六祖に伝えたのも説心説性である。あるいはまた、杖を拈(ひね)りまわすのも、説心説性のほかではなく、払子(ほっす)を横たえるのも、説心説性のほかではないのである。

つまり、仏祖のかたがたのなされることはすべて、ことごとく説心説性のほかではないのである。「平常是道(へいじょうこれどう)」というのも説心説性である。「牆壁瓦礫(しょうへきがりゃく)」と語るのも説心説性である。あるいは、「心生ずれば種々の法生じ、心滅すれば種々の法滅す」という、その道理がほのみえてくるのも、すべてみな、心の説かれる時、性の説かれる時ならざるはないのである。

しかるに、心なるものを知らず、性なるものに通じない凡庸の徒は、おろかにして説心説性を知らず、その玄妙のところを談ずるのだと知らないものだから、そんなことは、仏祖のことばにはありえないことといい、またそのように教える。それは、説心説性というのは「心と説き性と説く」ということと知らないものだから、説心説性といえば、「心を説き性を説く」と思っているからである。それは、なによりも、仏道のことは、どうすれば通じ、どうすれば塞(ふさ)がるかが、なおよく判っていないからである。(44~45頁)

〈注解〉神山僧密禅師;(生没年不詳)。雲巌曇晟(うんがんどんじょう)の法嗣(ほっす)。洞山と同道して行脚すること久しきにわたったので、洞山の弟子たちは彼を密師伯(みっしはく)と親しみ称したという。師伯とは師の法兄の意である。

  洞山悟本大師;洞山良价(869寂、寿63)。雲巌曇晟の法嗣(ほっす)。曹洞(そうとう)の流の祖である。

  大地有情同時成道;仏陀の正覚(がく)をいう。その正覚とともに、天地も衆生もすべてが新しくなったとするのである。

  夜半伝衣;五祖弘忍が六祖慧能に、黄梅山(おうばいざん)の夜半に法を伝え衣を伝えたことをいう。「伝衣(え)」の巻などにみえている。

  説心説性を説心説性と……;ここに説心説性の句が四たび語られている。その同じ句を駆使していわんとすることは、同じく説心説性といっても、正しい把握があり、正しからぬ把握があることをほのめかしているのである。その正しからぬ把握とは、いわば心または性を常、すなわち固定的に捉えている把握である。それを、わたしは、ここでは一応、正しい把握を「心と説き性と説く」となし、正しからぬそれを「心を説き性を説き」と訳しわけてみたが、それはけっして、いかに読むかの問題ではなく、むしろ、心もしくは性に対する理解の基本的態度の問題である。そして、「大道の通塞(つうそく)」もまた、一つにかかってそのことに存するであろう。だが、道元はそのような理解の基本的態度につき、さらに説き来り説き去るのである。(46~47頁)

■すこし後のことであるが、径山(きんざん)に大慧禅師宗杲(そうこう)なるものがあって、かようなことをいっておる。――いまのものは、心だ性だと説くことをこのみ、いろいろと玄妙のことを談ずるのがすきであるが、それで道を得るのがおそいのである。そこのところは、心も性もふたつともともに投げすて、玄妙のことなどはすっかり忘れて、あれもこれも念頭から消えてしまったとき、その時はじめて悟りの境地にいたるのである――と。

このようなことばは、いまだ仏祖の経をしらず、仏祖の教えを聞かざるもののいうところである。だからして、心といえばただ一筋に思慮し分別することとのみ心得て、さらに思慮し分別することも心の一面であることをまなばないから、こんなことをいうのである。また、性といえばただひとえに清らかにして静かなのであろうとのみ考えて、それには仏性ということもあり、法性(ほっしょう)ということもあり、すべてあるがままなるがそれだなどとは、夢にも気がつかないから、仏法をこんな具合に思い誤るのである。仏祖が仰せられるところの心とは、皮肉骨髄がそれである。また、仏祖が保持したもうところの性とは、竹箆拄杖(しっぺいしゅじょう)がそれなのである。あるいは、仏祖がうなずき悟るところの玄とは、露柱や燈籠がそれであり、仏祖のあげて示したもう妙とは、知見すること理解することがそれなのである。

いったい、仏祖がまことに仏祖にまします所以はいかにといえば、それは、はじめから、この心のこと、この性のことを、正しく聴取し、説きいたり、行じきたって、証するにいたるのである。あるいは、その玄妙のところをはっきりと把握し、かつまなびいたるのである。そして、そのようにするのが、仏祖をまなぶ弟子というものである。もしそのようでなかったならば、それは仏道をまなぶものではないのである。

だからして彼らは、道を得べき時には道を得ずといい、道を得られない時にかえって道を得るのだとする。つまり、道を得る時と得られない時が、まるで反対になってしまっているのである。たとえば、彼らは、心も性もふたつとも投げすててしまうというが、そういうことがすでに、身を説いていることにほかならないではないか。たといごく少しではあっても、心を説く分がのこっているのである。また、玄も妙もともに投げすててしまうということが、それもまた玄妙を談ずることを談じているのではないか。そこの微妙なところをまなばずして、ただ愚かしくも忘れてしまえ、投げ捨ててしまえというのは、われとわが手を離れよといい、われとわが身を遁(のが)れよというようなものと知られる。そんなのは、まだ小乗のせまくるしい量見を脱却していないのである。とても、大乗の奥ふかい幽玄さには及びえまいし、ましていわんや、仏に向って上りゆく勘所を知ることはできまい。それでは、仏祖の家の茶飯(さはん)をくってきたとはいいがたいではないか。いったい、師についてこの道をいそしむというのは、ただこの説心説性のことを、ぴたりとわが身心(しんじん)にあてて、わが身心をもって究めるがよいのである。さきにも、あとにも、どこまでも説心説性のことをまなびいたるのであって、そのほかに、べつにあれこれと為すべきことがあるわけではないのである。(49~50頁)

〈注解〉径山(きんざん)大慧禅師宗杲;大慧宗杲(だいえそうこう、1163寂、寿74)。圜悟克勤(えんごこくごん)の法嗣(ほっす)。大慧禅師は賜号(しごう)である。(51頁)

■その時、初祖は二祖にいった。

「汝はただ、外はいろいろの事に惹かれることをやめ、内は心をくるしむることなく、心はあたかも牆壁(しょうへき)のごとくにして、その時はじめて道に入ることができるのである」

そこで二祖は、いろいろと心を説き性を語ることを試みたが、いずれもぴたりとゆかなかった。しかるに、ある日、忽然としてみずから省みて得るところがあり、ついに初祖に申していった。

「わたしは、このたび、はじめて、いろいろの事に心惹かれることをやめました」

よそは、それで、彼がすでに悟りを得たことを知って、さらに問い詰めることをせず、ただいった。

「どうだ、それが杜絶えることはないか」

二祖はいった。

「ございません」

初祖はいった。

「せは、そなた、どんな具合だ」

二祖はいった。

「あまりはっきりとしているので、ことばではとてもいえません」

初祖はいった。

「それが、とりも直さず、これまでの仏祖のかたがたが伝えてきた心のありようである。そなたはいますでにそれを得たのである。よく自分でそれを大事にするがよい」

この話のことは、それを疑うものもあるし、また、とりあげていろいろと論ずるものもあるが、ともあれ、二祖が初祖に近持(きんじ)していたころの話の一節は、右にいうがごとくである。そのころ、二祖はしきりに、心とは、性とは、ああでもあろうかと考え、こうでもあろうかと考えてみるが、どうしてもぴったりとはゆかなかった。それが功を積み徳を累(かさ)ねて、ついに初祖がいうところを実現することができたのである。それを凡庸のものどもは、はじめ二祖が心や性について考えていた時には悟ることができなかったのであって、その罪は心や性についてあれこれと考えたからだと思い、そして、のちにそれを止めたときに悟りにいたることができたのだと考える。そんなのは、心をあたかも牆壁のごとくにして、その時はじめて道に入ることができるという条(くだり)を、よくよく考えてみないから、そんなことをいうのである。それは、なによりも、仏道をまなぶまなび方にくらいからである。

なぜかというに、はじめて菩提心をおこし、仏道の修行をはじめてからも、なおはじめのうちは、いかに難行苦行をかさねても、その行うことはなお百に一つも、ぴたりと的(まと)を射るものはない。だが、あるいは善知識の教えるところに従い、あるいは経巻の示すところに従って行じているうちに、ようやく次第にそれが的に当たるようになる。そして、振り返ってみると、いま的に当たるのは、かってそのむかし、百に一つも当たらなかったそのことの力であると知られる。つまり、百の不当があって、それがいまの一当になっているのである。そして、いま説心説性のこともまた同じである。きのうまでの説心説性があって、はじめて今日のみごとに当たる説心説性があるのである。初心にして仏道を行ずるとき、いまだ熟練せずして、うまくゆかないからといって、それで仏道をすてたのでは、ほかの道を通ってまた仏道を得るというわけにはゆかない。仏道の修行というものは、まだその終始に通じないものには、どうすればうまくゆくのか、そこの道理がなかなか判りにくいのである。(54~56頁)

■そもそも仏道は、初めて発心した時にも仏道である。すでに正覚(さとり)を成じた時にも仏道である。初めも中ごろも終わりも、いずれもすべて仏道である。それは、たとうれば、万里を行くものにとっては、一歩も千歩のうちであり、千歩も千里のうちだというようなものである。初めの一歩と千歩とはちがうけれども、千里のうちということでは同じことである。それなのに、愚かなやからは、仏道をまなんでいる時はまだ仏道にいたらぬのであって、証(さとり)の成った時それが初めて仏道だとばかり考えている。その道程のすべてが仏道を語っているのであり、その道のすべてが仏道を行じているのであり、また、その道のすべてが仏道を証(あか)しているのであるのに、それが判らないからそんなことを考えるのである。あるいは、迷った人が仏道を修行して大悟するのだとのみまなんで、迷わぬ人もまた仏道を修行して大悟するということを、まなんだことも聞いたこともないものだから、そんなことをいうのである。

つまり、人はいまだ悟りにいたらぬさきに心を語り性を説くのであるが、それもまた仏道なのであって、そのように説心説性してやがて覚りにいたるのである。悟りを得るというのも、迷ったものがあってはじめて大悟するをのみ悟りを得るというのだとまなんではならない。迷ったものも悟るのであり、悟れるものも悟るのであり、また、悟らぬものも大悟するのであり、迷わぬものも大悟するのであり、ぴたりと証しすることを得たものもまた証しするのである。(56~57頁)

■ただ、その流れを汲む嗣子(しし)だけがそれを正伝しているのである。また、もしその道理を正伝しなかったならば、どうして仏道の大本(おおもと)に通達(だつ)することができようか。では、その道理とはいかにというと、裏にも面にも、人々のあるあって、心を説き性を説くというのであり、また、面(おもて)でも裏でも心が説き、また、証が説くというのである。それをよくよく思いめぐらしてみるがよろしい。つまり、性でない説などというものはどこにもなく、説にあらざる心などというものはいまだかってないというのである。

たとえば、仏性という、それは一切を説いている。また、たとえば無仏性という、それも一切を説いているのである。仏性が性であることは誰にでもすぐ判るところである。だが、そこはもう一歩すすめて、一切衆生、有(う)仏性といいうるところまで到らねば、ほんとうに仏教をまなんだとはいえない。あるいは、一切衆生、無仏性というに到らねば、真に仏教をまなんだものとはいえない。説が性であることをまなび到る、それが仏祖の弟子というものであり、性とは説にほかならぬことを信受する、それが仏祖の嫡孫(ちゃくそん)というものである。

いったい、心は外境に対して動きやすく、性はそのようなことには恬(てん)として静かであると、そのように見るのは外道の所見というもの。あるいは、性は深々と澄みきって静まりかえり、相はたえず移り変わっているものだと、そんなことをいうのも外道の見解である。仏道において心を学び、性を行ずる仕方も、外道と同じではない。あるいは、仏道にて心をあきらめるゆき方も、外道のまったく知らざるところである。(60~61頁)

■かって臨済は、その全力をこめて無位の真人(しんにん)を説いたことがあったけれども、彼はなお有位の真人について語ったことはない。まだまなぶべき境地がのこっているのであり、いうべきことが残っているのである。それがまだ実現しないからには、いまだ究極地には到らずとしなければなるまい。思うに、説心説性ということは説仏説祖にほかならない。したがって、仏祖には、その聞くところにおいて相見えるがよいのである。(61頁)

〈注解〉無位真人;『臨済録』にみえるよく知られた一句である。「赤肉団上有一無位真人」とある。凡夫と仏の境をこえた一箇のあるがままの人間を語っているのである。それに対して、いま道元は、「有位真人をいまだ道取せず」と批判を加えている。そこに臨済と道元の仏教観の大きなちがいが存することを見落とすことはできまい。(62頁)

仏 道 (ぶつどう)

■開 題

この一巻は、寛元元年(1243)の秋九月十六日、越州吉田県の吉峰(よしみね)寺にあって衆(しゅ)に示したとある。越前にやってきてから、どうやら三巻目の示衆(じしゅ)にあたるようである。はじめての山中の秋気に、しきりに制作の意欲をかきたてられていたのであろうか、この九月中だけでも、さらに三本の制作があった。

この一巻の内容とするところは、かなりながいものであるが、しかし、そのいわんとする趣きは、きわめて明快である。つまり、仏道には宗派の称などあるべからざるものだということをずばりと説いているのである。

それをもうすこし具体的にいってみるならば、その第一には、この仏祖正(しょう)伝の大道を、ことさら禅宗などと称するのは、それは仏教そのものがまるで解っていないのだというのである。その第二には、さらに近来においては、その禅宗のなかにいわゆる五家の家風なるものがあるなどというが、そんなのはもはや仏法でもなければ、また祖師道でもないという。そして、その第三には、さらに、それら五家の祖とせられている祖師がたについて、それらの祖師がたもけっして、あるいは潙仰(いぎょう)宗を名告(なの)り、あるいは臨済宗を称し、あるいは曹洞(とう)宗を立てるなどという意向はもっておられなかった。そのことを道元は、それぞれの祖師がたについて一人ずつ証(あか)ししてゆくのである。ともあれ、まったく至り尽したことであるというほかはあるまい。

では、そのように論じ来って、すべての宗見をしりぞけ、あらゆる宗派を否定し去った道元その人は、いずれに依って立つというのであるか。もし、そのようなことが気になる人があったならば、わたしはその人のために、この巻の結びのつぎのような一節をあげて注目を促したい。

「世尊在世に一毫もたがはざらんとする、なほ百千万分の一分におよばざることをうれへ、およべることをよろこび、違せざらんとねがふを、遺弟の畜念とせるのみなり。これをもて多生の値遇奉覲(ちぐうぶごん)をちぎるべし、これをもて多生の見仏門法(ぽう)をねがふべし。ことさら世尊在世の化儀(けぎ)にそむきて、宗の称を立せん、如来の弟子にあらず、祖師の児孫にあらず」

まことに明快、まことに清純な仏教観であって、ちょっと道元その人の常套の表現を借りて申してみるなれば、そこには、天下の庸流(ようる)どもとはまったくその類を異にした仏教者がそそり立っている、とでもいうことができようかと思う。

だが、わたしはふと思い出す。かの「弁道話」の巻を読んでみると、そこでは、道元は、「いささか臨済の家風をき」いて、やがて海を超えて大宋国にまなんだと語っている。また、かの国に渡ってみると、そこには「いはゆる法眼(げん)宗・潙仰宗・曹洞宗・雲門宗・臨済宗」の五門があったが、なかでも「見在大宋には、臨済宗のみ天下にあまねし」などという観察も記しとどめている。

それとこれとを思い比べてみると、やはり、そこにはなにか大きな違いが生じている。むろん、その間にはすでに十幾年かの歳月が流れている。だが、その違いは、どうも幾月の経過だけでは解釈できないものを含んでいる。いや、もっとずばりというならば、道元はどうやら、その越前行の前後において、なにか大きな内的変化を経験したように思われる。あるいは、なにか大きな思想的展開をとげたように思われるのである。わたしには、そのように思われてしかたがないのである。いや、もしかすると、あの突如として行われた越前行そのものが、そのような内的変化もしくは思想的転回の一つの現われではなかったかと、わたしは考えているのである。

では、そのような変化もしくは展開の証(あかし)はいかにというならば、わたしはまず、この「仏道」の巻をあげて、これがそのような思想的転回の一つの顕著な現われであるとする。つづいて、まもなく吉峰寺において衆に示される「仏道」の巻がまたそうであるとする。あるいは、さきに興聖寺において衆に示された「仏道」の巻もまたそのようなものであったといってよいであろう。

では、あらためて、それらの巻々を綜合して、その大きな内的変化もしくは思想的転回がどのようなものであったかを論ずる機会をもちたいと思う次第である。(70~72頁)

■かくて、釈迦牟尼仏より曹谿慧能にいたるまでを算(かず)えれば三十四祖である。その仏祖の相承(じょう)は、いずれの側から申しても、摩訶迦葉(しょう)が釈迦如来に相見(あいまみ)えたがごとく、釈迦如来が摩訶迦葉を得られたがごとくであり、また釈迦牟尼仏が迦葉仏にまなばれたごとくであって、その師資のありようは連綿としてなお今日にいたるまで存している。だからして、正法の眼目もまたじきじきに嫡嗣(ちゃくし)より嫡嗣へと相承(じょう)しきたったのであって、仏法の正しき命はただこの正伝のなかにのみ存する。つまり、仏法はそのように正伝するものであるから、これを伝うるは付属の嫡嗣のほかにはなく、だからして、また仏道の功徳も要領もすべてそのなかに具わっている。かくして、西の方天竺より東の方中国にまで伝えられて十万八千里におよび、また釈迦仏在世のころより今日にまで伝わって二千有余歳にわたるのである。

しかるに、その道理をまなばぬやからどもは、みだりに誤って、仏祖正伝の正法の眼目、涅槃の妙心を語るに禅宗という。あるいは、祖師をば禅祖と称し、学人を禅子もしくは禅和子(ぜんなす)とよび、あるいはまた自ら称して禅家流などという。それらはみな、ひがめる考え方を根本として、そこから出てきた枝葉である。いったい、西天と東地をとわず、古(いにしえ)より今にいたるまで、いまだかって禅宗などという称はない。それをみだりに自称するのは、仏道をみだす悪魔であり、仏祖のまねかざる仇敵というものである。(74~75頁)

〈注解〉曹谿古仏;六祖慧能(713寂、寿76)。五祖弘忍の法嗣(ほっす)。諡して大鑑禅師と称する。

  禅和子;「ぜんなす」と読む。参禅の人をいう。

■いま、その菩提達磨を第二十八祖と称するのは、摩訶迦葉を初祖としてかくいうのである。さらにかの毗婆尸仏(びばしぶつ)より数えていえば第三十五祖である。そして、その七仏ならびに二十八代の祖たちはすべて、かならずしも禅那のみをもって道を証してきたものではなかった。だからして、さきの石門も、「禅那はもろもろの行の一つにすぎない。とてもそれをもってこの聖人のすべてを尽くすことはできない」といっておる。この先徳は、いささか人の判る方であった。ちゃんと初祖の奥ふかいところにいたっておる。だから、このことばもあるというものである。近ごろでは、大宋国の天下にも得がたい存在であり、希有なる存在というべきであろう。(77頁)

〈注解〉習禅;禅定を修習するの意。もと「禅」とは、梵音「ディヤーナ」もしくは、その俗音の「ジャーナ」(禅那)の音写を略して禅としたもので、またそれを意訳して「定」もしくは「静慮(じょうりょ)」とした。禅定とは、その音写と意訳を重ねたのである。しかるに、その禅定なるものは、もともと『ヨーガ・スートラ』に説くところの「ヨーガの八支」の一つであって、その『ヨーガ・スートラ』の説くところは、「そこにおいて意識作用が一点に集中し尽くす状態が静慮である」とみえる。それらはもと、インドの思想の諸派に通ずる実践論であって、仏教もまたはやくからその修行法を採用していたのである。「禅那とはもろもろの行の一つにすぎない」というのはそのことを指しているのである。しかるにいま、達磨が少林寺において面壁端坐したのは、その諸行の一つである禅定を修習していたのではないというのである。それが、いうところの「只管打坐」だからである。そこでは坐禅は、もはや単なる修行の方法としての地位からあげられて、いわば独一なるものとしての地位におかれているのである。(78~79頁)

■ 〈注解〉南嶽山石頭庵無際大師;石頭希遷(790寂、寿91)。青原行思の法嗣(ほっす)。はじめ六祖慧能につき、その没後、その法兄青原によって法を得た。衡山の南寺に住し、石上に庵を結んでいたので、人呼んで石頭和尚といった。諡して大無際大師と称する。

  江西大寂;馬祖道一(786寂、寿80)。諡して大寂禅師と称する。江西鍾陵の開元寺に住していたので、江西の馬祖といって、湖南の石頭と並び称されたが、それは適当ではなかったというのが、道元の評価である。(88頁)

■わたしもまた、まだかの先師なる如淨古仏を礼拝しなかった以前には、かの五宗の家風を学び究めたいと思っていた。だが、かの先師を礼拝してからのちは、あきらかに、五宗などというのは乱称であることを知った。だからして、大宋国の仏法がさかんであったころには、五宗などという称はなかった。また、古来から五宗などという称して、それでもって家風をおこした人などはけっしてない。こんな乱称が行われるようになったのは、仏法がおとろえてきてからのことであって、人々が参学をおろそかにし、道を弁えることが身につかないから、こういうこととなるのである。

もしも雲水の一人一人が、真の学道を求めようとするならば、けっして五宗の乱称などは頭においてはならない。あるいは、けっして五家の家風など記憶しないがよろしい。ましてや、三玄・三要とか、四料簡(しりょうけん)・四照用とか、あるいは九帯(くたい)などということが必要であろうか。ましていわんや、三句とか、五位とか、十同真智などを憶えておく要があろうや。

釈尊の仰せられたところは、そんな小さなことではなく、また、そんなにいろいろのことを仰せられたわけではない。だから、達磨だって、慧能だって、そんなことはいわなかった。ところが、かわいそうなことに、いま末代にして、法を聞かざるやからどもが、その身心も眼晴(がんぜい)もくらきままに、かようなことを説くのである。仏祖の児孫たるものは、そのようなことを口にしないがよろしい。仏祖のましましたころには、そんなざれごとはけっして聞くことがなかった。

しかるを、後代の世におもねる師匠などが、いまだかって仏道の全道ををきかず、また祖道のよってなる依処もなく、どうしてよいやら判らないままに、わずかに知りえた一つ二つのことを鼻にかけて、かような宗称を立てることとなったのである。そして、ひとたび宗を称してからこのかたの彼らは、もはや仏道の根本をたずねるなどということもなく、ただいたずらに末に走るのみである。したがって、また古(いにしえ)を慕うという志もなく、ただ世俗にまじわる行ないのみとなってしまうのである。世俗にしたがうということは、俗間でもなお卑しいこととして戒めるところである。(91~92頁)

■そのように、俗世にあってもなお、その国その道の危急存亡に瀕することを歎く。ましてや、仏法・仏道が存亡の危機に瀕するようなことがあったならば、仏教者たるものは当然これを歎くであろう。その危急存亡のもとはいかにして生ずるかといえば、それはなによりもまず、みだりに世俗に随うよりはじまるのである。世俗のほめるところに耳を傾けるようでは、本当の賢者を得ることはできない。本当の賢を得んと思うならば、まさに古今を照覧するの智略がなくてはなるまい。

思うに、世俗のほめるところだからといって、なおかならずしも賢でもなく、聖でもあるまい。だからといって、また世俗のそしるところだからとて、それでかならずしも賢でもなく、聖でもあるまい。であるけれども、賢にしてそしりを招くことと、偽りにしてほまれを得るのとでは、よくよく考えてみると、けっしていっしょにしてはならないところである。賢を用いなかったならば、それは国の損である。だが、賢ならざるを用いたならば、それは国の後悔をうむこととなろう。

いま、五宗の称が行なわれているのは、もとをただせば世俗のみだれである。その世俗に随いゆくものは多いけれども、なお俗とはどんなものかを知っているものは少ない。いったい、俗を教化するが聖人であって、俗に随いゆくのは愚かのいたりである。だから、その俗に随いゆくやからたちが、どうして仏の正法を知りうる道理があろう。ましてや、どうして仏となり祖となることができようか。

西の方天竺においても、七仏よりずっと嫡嗣(ちゃくし)より嫡嗣へと相承(じょう)してきているのに、いつの間にか、経の文によって注釈ににみ専らなるやからどもが、五部の律蔵をたてたという事実もある。だがしかし、仏法の正しい命を正しい命として伝えてきた祖師たちは、けっして五宗の家門があるなどとはいわないのである。仏道に五宗があるなどとまなぶのは、けっして七仏のながれの正しい嗣手ではないのである。(97~98頁)

■先師は衆(しゅ)に示していった。

「近年は祖師の道がすたれて、悪魔のやからや畜生ばかりがおおく、しきりに五家の門風などということをいう。苦々しいかぎりである」

それによっても判ることであるが、西の方天竺における二十八代、東の方中国における二十二祖、いずれも五宗の家門などということは説かれたことがない。祖師という祖師がみなそうなのである。五宗などを立てて、それぞれに宗旨(しゅうし)があるなどというのは、世間の人を誑(たぶら)かす奴どもか、学問のあさい物知らずのすることである。もしも仏道において、それぞれに道を立てたならば、仏道はとうてい今日までつづかなかったであろう。もし自立するのが正道であったならば、迦葉(かしょう)も自立したであろう。阿難も自立することを得たであろう。だが、もしそうであったならば、仏法はもうとっくに西の方天竺において滅びていたであろう。

もしもそれぞれが自立できるようであったならば、そこにはもはや古(いにしえ)を慕うなどということはありえないし、また、そこでは誰も正邪を決択(けつじゃく)するものはあり得ないはずである。もしも正邪を決択することができなくては、いったい誰がこれは仏法である。これは仏法でないと定めることができるか。そこがはっきりとしなくては、仏道とはいいがたいではないか。

いったい、五宗の称なるものは、それぞれの祖師が生きておられるあいだに定まったものではない。そこは、五宗の祖師といわれる祖師がたがすでに亡くなられたのちに、たいていは、その門下のいい加減なやからで、まだ眼もはっきりと開かれておらず、またその足もしっかりと立てないようなのが、先師に問いもせず、仏祖のこころに違(たが)って、そのような宗称を立てたのである。その辺の消息はあきらかであるから、誰だって判ることであろう。(100~101頁)

■思うに、中国において教学に専らなる連中が、しばしば宗を称してきたのは、たがいに肩をならべる誰彼があるからであろう。だが、いま仏祖たちは、正法の眼晴(ぜい)を嫡嗣(ちゃくし)より嫡嗣へと付属せられたのであるから、肩をくらべるものはあるはずはなく、まぎらわしい誰彼があるわけでもない。それなのに、いまのいい加減な長老たちが、しきりと宗の称を専らにするのは、それは自分で勝手なことを企てるものであって、仏道をおそれぬものである。仏道はけっしてなんじの仏道ではなく、もろもろの仏祖の仏道である。あるいは、仏道の仏道である。かって太公望は文王に申していったことがある。

「天下は、一人の天下にあらず、天下の天下なり」

そのように、俗のものもなお智があり、道を知っているのである。ましてや、仏祖の家にあるものが、みだりに仏祖の大道を勝手にし、愚蒙のはからいに従えて、一宗を自称するようなことがあってよいものか。それはたいへん可笑しなこと、仏道にあるもののすべきことではない。

もしも宗を称すべきものならば、世尊はご自分でも称されたはずである。それなのに、世尊はすでにご自分では称されなかった。とするならば、その流れを汲むものとしては、どうして世尊の称されなかったことを、その滅後におよんで称してよいはずがあろうか。世尊よりもすぐれた智慧や手立てのある人があろう道理はない。とするならば、そんな計らいは無益であろう。また、もしも仏祖たちが、古来からの道にそむいて、自宗を称して自立したならば、いったい誰がそれについてゆこうか。古今のことをよくよく顧みまなんで、みだりなことをしてはならない。

わたしとしては、世尊の在世のころに一毫も違(たが)うまじとするのが日ごろの念顏である。だが、なお百千万分の一がほども及びえないことが憂えられる。しかし、すこしでも及びえたと思う時にはまことに心うれしく、いよいよ違うまじとねがう。それがわたしの日ごろ念とするところである。そして、わたしは幾たびこの世に生をうけようとも、かならずこの念(おもい)をいただいて仏に遇い奉りたいと思いさだめている。また、仏に見(まみ)え奉ったならば、かならずその法を聞きたいものと願っているのである。

だからして、わざわざ世尊の在世のころの教化の作法にそむいて、あらたに宗を名告るなどというのは、とうてい如来の弟子でもない。その罪は重罪逆罪よりもおもいであろう。けだし、そのいとなみは、とりも直さず、如来の最高の智慧を軽んじて、おのれの宗を専らにするものであって、古(いにしえ)をかろんじ、古にそむいているのである。だから、彼らは古のこともしらず、世尊在世のころのすぐれた功徳も信じないのであるから、そんな奴等のところに仏法があろう道理はないのである。

だからして、仏法をまなぶ正しい道には、宗の称などを見聞すべきではない。仏より仏、祖より祖へと付属し正伝するものは、ただ正法眼蔵であり、最高の智慧である。仏祖が所有するところのものは、すべてそこに付属してきたのであって、そのほかに別になにかがあるわけではないのである。そこの道理が、とりもなおさず、仏法・仏道の骨髄というものである。(120~123頁)

〈注解〉黄龍の南禅師;黄龍慧南(えなん、1069寂、寿68)。石霜楚円(せきそうそえん)の法嗣(ほっす)。寧州黄龍山に住し、黄龍派を称する。諡して普覚禅師と称する。わが国の栄西(こうぜい)が伝えたのはこの派であった。(122頁)

諸 法 実 相  (しょほうじっそう)

■仏祖はいかにして成るか、それはあるがままの相(すがた)を究め尽して成るのである。あるがままの相とは、もろもろの存在のありようである。もろもろの存在のありようは、このような相(そう)であり、このような性(しょう)であり、このような身であり、このような心であり、このような世界であり、このように雲いたり雨いたるのであり、このように行住坐臥するのであり、このように憂いまた喜ぶのであり、このように拄杖(しゅじょう)・払子(ほっす)をもちいるのであり、このように花を拈じては微笑するのであり、このように法を嗣ぎ、成仏の予言を与えるのであり、このように参じ学んで道をわきまえるのであり、また、このように松の操、竹の節義を身にそなえるのである。

釈迦牟尼仏はいった。

「ただ仏と仏とのみ、よくもろもろの存在のあるがままの相(すがた)を究め尽くすことができる。そのいうところは、もろもろの存在のありようは、このような相(そう)であり、このような性(しょう)であり、このような体であり、このような力であり、このような作(さ)であり、このような因があり、このような縁があり、このような果があり、このような報があり、本末すべてかくのごとくであるとするのである」

ここに如来が、本末すべてかくのごとく等と仰せられていることばは、また、もろもろの存在のあるがままなる自己表現でもあり、同時に、この道を参学する学人の誰がいっても同じこととなるであろう。けだし、ここは誰がまなびいたっても同じところであり、これよりほかにはありようがないところだからである。(129~130頁)

■いったい、いうところの如是相(にょぜそう)とは、ただ一つの相(すがた)でもなく、ただ一つのありようでもない。それは数かぎりなく、いうことも、測ることもできないありようである。それは百だ千だという尺度をもって量るべきではなくて、むしろ、諸法を尺度として量るがよく、あるいは、実相を尺度として測るがよいのである。その理由というならば、唯仏与仏、乃能究尽(ないのうぐうじん)、諸法実相であるからであり、それはまた、唯仏与仏、乃能究尽、諸法実性であるからであり、唯仏与仏、乃能究尽、諸法実体だからであり、唯仏与仏、乃能究尽、諸法実力だからであり、唯仏与仏、乃能究尽、諸法実作だからであり、唯仏与仏、乃能究尽、諸法実因だからであり、唯仏与仏、乃能究尽、諸法実縁だからであり、唯仏与仏、乃能究尽、諸法実果だからであり、唯仏与仏、乃能究尽、諸法実報だからであり、唯仏与仏、乃能究尽、諸法本末究竟等だからである。(132~133頁)

〈注解〉如是相・如是性……;いわゆる「十如是」と称せされる一節であって、そこには、相・性・体・力・作・因・縁・果・報ならびに本末究竟等の十項に、それぞれ「如是」の二字は冠されて列記されている。それらの十項は、それぞれの存在のありようを語る仏教の述語であって、いまそのおおよそをいえば、相は形相、性は本性、体は実体、力は能力、作は作用、因は原因、縁は条件、果は結果、報は果報、そして、本末究竟はそれらのたがいに関係しあって帰するところとでもいうことができよう。また、それらの十項にそれぞれ冠する如是とは、それらがそれぞれにあるそのままのありようをいうことばであって、そのあるがままの相をほかにして仏教的真理のよりて存するところはないとするのである。したがって、如是すなわちこのようにあること、それが諸法実相すなわちもろもろの存在のあるがままの相にほかならず、それを究め尽くすことが仏教の真理にほかならず、また、それを究め尽くした者が仏にほかならないのである。ついでに冗舌を加えるならば、故鈴木大拙先生は、この実相とか如是とかの訳するに、よく“suchiness”とか“as-it-is-ness”などという英語をもってしたことが思いだされる。(133頁)

■かくて、日月(がつ)燈明仏も仰せられたことがある。

「諸法実相のことわりは、すでに汝らのために説いた」

そのことばをよくよくまなびいたって、仏祖はかならず実相のことわりを説くことを、なによりの大事としてきたということを、よくよく肝に銘ずるがよい。古来、仏祖は十八の世界において実相のことわりを説き来たったともいう。過去においても、未来においても、また、まさにいまの時においても、あるがままなる相・性・体・力などを説いてこられたのである。だから、もしも実相を究め尽くさず、実相を説かず、あるいは実相を理解しないようなものがあったならば、それは断じて仏祖ではないのである。それはおそらく悪魔のたぐいか畜生なのであろう。(138頁)

■釈迦牟尼仏は仰せられた。

「一切の菩薩たちの無上の等正覚(がく)は、すべてこの経に属している。この経は、方便の門をひらいて、真実の相を示すのである」

ここにいうところの一切の菩薩たちとは、つまり、一切の仏たちのことである。もろもろの仏と菩薩たちとは、けっして別のものではない。いずれが先、いずれが後といったものでもなく、いずれが勝(まさ)り、いずれが劣れるものといったものでもない。また、この菩薩はどうの、あの菩薩はどうのということもなく、みんな同じことであって、あれは過去のもの、あれは現在のもの、あるいは未来のものといった別(わか)ちもないのだけれども、しかも、その仏と成るにあたっては、かならず菩薩の道程を行ずるのが定まれる法式というものである。したがって、初発心にして成仏するものもあり、妙覚知にいたって成仏するものもあり、また幾度と数えきれないほど仏となった菩薩もある。ひとたび仏となってよりのちは菩薩行をやめてしまって、もはやなすべきことはないはずだなどというのは、まだまだ仏祖の道を知らない凡夫というものである。(142頁)

■かって雪峰(せっぽう)はいったことがある。

「この大地はことごとく解脱の門であるのに、人をいざなっても、なかなか入ろうとしないわい」

それでも判るではないか。この大地、この世界のことごとくが、たといすべて門であるとしても、その出入(しゅつにゅう)はけっしてたやすいものではない。出入りする者はけっして多くはない。人をひっぱっても、なかなか入りもせず出もしない。ひっぱらなかったら、なおさらのことである。進もうとすれば錯(あやま)ちがあり、退(ひ)こうとすればまたひっかかりがある。では、いったい、どうすればよいか。人をはげましてこの門に出入せしめようとすれば、いよいよ門が遠ざかってゆく。そこは、ひとつ、門のほうをひきよせて人を入るれば、出入は自由になろうというものである。(133~134頁)

〈注解〉阿耨多羅三藐三菩提;たびたび出ていることばであるが、もう一度いえば、それは“anutara-sammyaku-sambodhi”の音写であって、「阿耨多羅」は無上または最高、「三藐」 は平等または普遍、そして、「三菩提」は正覚(がく)の意である。いまは無上の等正覚と訳しておいた。悟りの内容にほかならない。(145頁)

■あるいはまた、三教がかならず一致するものであるならば、仏法が現われた時には、同寺にまた儒教や道教などもインドに出現したはずである。だがしかし、そうではなかった。仏法はまさしく「天上天下、唯我独尊」のものとして世にいでたのである。そのかの時のことを思いしのんでみるがよろしい。忘れてはならない。三教一致などというのは、あの小児のことばに遠くおよばず、まさに仏法をやぶるともがらである。いまは、そのようなともがらのみ多い。そんな連中が、あるいは人々の導師のような振る舞いをし、あるいは帝王の師となっている。まさしく大宋はいま衰頽の時節を現じている。そのことを、先師なる如淨古仏はふかく歎いておられた。

いったい、そのような連中は、もともと小乗や外道たるべき生まれつきのものであって、すでに二、三百年このかた、実相などということのあろうとも知らずして年月をへてきたのである。彼らは、仏祖の正法をまなびながら、ただ生死の流転をまぬかれたいとのみしかいえない。なかには、仏祖の正法をまなぶのは、いったいどういうことをまなんでよいかかも知らないものもある。彼らはただ一寺の住持たらんがためにのみ勉強しているのだと思っているらしい。そんなことで、祖師の道がすたれてしまったのが、残念でならない。心ある長老たちのふかく歎くところである。したがって、そのような連中のいうところのことばには、耳を傾けるべきでなく、ただ哀れむがよい。先師なる如浄古仏はよくそう仰せられたことであった。(148~149頁)

〈注解〉落処;帰着するところというほどの意であろうか。

種子;「しゅうじ」と読む。生起する原因となるものをいうことばであるが、ここでは、生まれつきとか、性格といったほどの意にとってよいであろう。(149頁)

■圜悟禅師はいった。

「生死去来(しょうじこらい)、すべてこれ真実人(にん)体である」

このことばを取りあげて、それが自己の真実であることを知り、かつ仏法とはこういうものかと知るがよい。

また長沙景岑(しん)はいった。

「尽十方界は、この一箇の真実人体にひとしい。つまり、尽十方界は、この自己の光明のうちにある」

このようなことばを、いまの大宋国の諸方の長老たちは、そもそもそれがまなぶべきものとすらも知りはしない。ましてや、それをまなびいたれるものなどは皆無であろう。いったい、もしそのようなことばを挙げて問うものがあったらどうするか。ただ赤面して黙っているだけであろう。

先師なる如淨古仏は仰せられたことがある。

「いまの諸方の長老たちは、古今に照らしてみるということがないので、まるで仏法の道理はなんにも知ってはいない。たとえば、尽十方界などというようなことをいっても、まるで知ってはいない。どうやら彼らのなかには、そんなことは聴いたこともないというものもあるらしい」

わたしは、その如浄古仏のことばを聞いてから、諸方の長老たちにそのことを問うてみたところが、彼らはほんとうに、そのことについて聴いたことのあるものはすくなかった。それでは、まったく資格なくしてその地位を汚しているものであって、あわれなことといわねばなるまい。(150~151頁)

■応庵曇華(おうあんどうげ)禅師は、ある時、徳徽(とくき)なる禅人に示していったことがある。

「なんじはもし、たやすく理解したいと思うならば、ただ二六時中の心の起こり念の動くところに向って、ひたすらその念の動くところに即し、その場においてずばりと見てとるがよろしい。それは、捉え得ざること大虚空のごとくであるということを。また、虚空にはここからここまでといった仕切りなどないということを。さらにいえば、そこでは表も裏もなく、知識とその対象の区別もなくなり、ふかい意味もあさい理解もなく、過去の現在の未来のということもないということを見てとるがよろしい。よくそのような境地にいたったならば、これをこそ、もはやまなぶこともなく為すこともない閑(ひま)の道人というのである」

これが、応庵老人が全力をあげていうことを得たる句である。だが、それでは、どこまでいっても、自分の影をおうて休むところを知らぬと同じではないか。

いったい、表裏のないところにいたらなくては、仏法にあうことはできないのであろうか。そもそも表といい裏というのはなんのことであるか。また、仏祖は虚空に形や仕切りがあるかどうかについて語ったようなことをいっておるが、いったい、虚空とはなんだとするのであるか。思うに、どうやら応庵老人はまだ虚空を知らないらしい。虚空を見たことはないらしい。あるいは、虚空を捉えたこともなければ、虚空を叩いたこともないらしい。

また応庵老人は、心が起こり、念が動くというが、心はもともと動ぜざるものだという。それがどうして十二時中に心が起こるというのであるか。よくよく気をつけてみるがよい。十二時のなかに心が入りきたるということもあり得ないし、また、心のなかに十二の時が入ってくるということもない。ましてや、心が起こるなどということはありえないのである。また、念が動くというのは、いったいどういうことなのか。念は動いたり動かなかったりするものか。それとも、そんなことはまったくないのか。そもそも動くというはどういうことか、そもそも動かないというのはどういうことか。なにを呼んで念というのであるか。あるいはまた、その念とは、十二の時のなかにあるのか、念のなかに十二の時があるのか、それとも、そのいずれでもない時があるのであろうか。

また応庵老人は、ただ十二時中に向かっておれば、たやすく理解することができるという。それは、いったい、なにごとを理解しやすいというのであるか。それは、もしかすると仏祖の道を会得しやすいというのであろうか。もしそうだとするならば、仏道というものは理解しやすいものでも、理解しがたいものでもないのである。だからして、たとえば南嶽(がく)にしても、江西(ぜい)にしても、ひさしく師にしたがって道を究めたものであった。

さらに応庵老人は、その得がたいものということを、ずばりと明らかに知ることができるという。そんなのは、いまだかって仏祖の道を夢にも見たことのないもののいうことである。そんな力量では、とても仏道をたやすく理解する要領ばど判るものではない。そのことばだけでも、彼がいまだ仏祖の大道を究めいたったものでないことが測り知られるというものである。もしも仏法がそんなものであったならば、それはとても今日まで続こうはずはありえないのである。

応庵老人にして、なおかくのごとくであった。だが、いま現在、諸山に長老としてある人々のなかに、もし応庵老人 ほどの人を求めようとするならば、いつまで探しても求め得ることはできないであろう。穴があくほど目をこらして見ようとも、応庵老人にひとしい長老をみつけることはできまい。だから、近隣の人はたいてい応庵をできた人であるとする。だがしかし、応庵にはどうも仏法に達した人として許しがたいところがある。禅院の席次でいえば後進であり、しごく普通のところだといわねばなるまい。なぜかというならば、まず、応庵は人を知ることのできる気力のある人であった。いまの連中は、とても人を知ることはできない。自分自身が判っていないからである。また、応庵はまだまだ仏法に達した人とはいいがたいけれども、すくなくとも仏法を勉強している。それに反して、いまの長老たちは、まるで仏道の勉強などはしていないのである。だがしかし、応庵は、残念なことには、よいことばを聞いても、それが耳に入らない、耳に見えない、目に入らず、目に聞こえないのである。いや、応庵はそのむかしはそうであったようだが、いまはきっと、おのずから悟っているにちがいない。しかるに、いまの大宋国の諸山の長老たちは、とても応庵の内も外もうかがいしることはできない。そのいうところも、その容姿も、まるで別の世界のやからどもである。そういうやからどもでは、仏祖が語った実相も、それが仏祖の語った実相も、それが仏祖のことばであろうやら、あるまいやら、まるで見当もつかないであろう。だからして、この二、三百年来のいい加減な長老たちは、すべて盲滅法で実相を語ってきたのである。(154~157頁)

〈注解〉南嶽・江西;南嶽懐譲と馬祖道一を挙げて、あれだけの資質をもってしても、まお永年師にしたがって大成したのだといっておる。たとえば、南嶽は六祖慧能に参じ、八年にしてはじめて悟るところがあったというがごとくである。(158頁)

■先師なる天童如浄古仏は、ある夜、方丈において説法していった。

「わしは今夜、牛児のように寝そべっていた。

すると金色に輝くお釈迦さまがきて実相をみせてくださった。

買いたいと思ったが、値段がないのでどうにもならん。

雲が一つ浮かんでいる彼方にはほととぎすの声がきこえた」

こんな具合に、仏道に長じた超老たちは、みんな実相を語る。仏法をしらず、仏道を勉強しなかったやからは、実相を語らないのである。いまここに挙げる如浄古仏のことばは、大宋の宝慶(ほうきょう)二年(1226)春三月のころのことであった。夜もふけてもう丑(うし)の刻になろうとするころ、彼方において太鼓の声が三つきこえた。いそぎ坐具をとり、袈裟をまとうて、僧堂の前門から出てみると、「入室(にっしつ)の牌(はい)がかかっていた。まず衆にしたごうて法堂(はっとう)のほとりにいたった。さらに、その西側を通って、寂光堂の西の階段をのぼり、さらに寂光堂の西側のまえを過ぎて、大光明蔵の西の階段をのぼった。その大光明蔵が方丈である。

西の屏風の南側から、香炉台のまえにすすんで、焼香し礼拝した。ところが、そこには入室のものがずらりと並んでいるだろうと思ったのに、一人の僧もみえない。ふとみると、妙高台には御簾がおりていて、ほのかに住持なる大和尚の御声がきこえる。その時、また、西川からきた祖坤(そこん)という維那も来あわせて、おなじく焼香し礼拝し終わって、ともに、ひそかに妙高台をのぞいてみると、そこには、衆がいっぱいで、東も西もない有様であった。そして、やがて説法がはじまったので、ひそかに衆のうしろにわけいって、法に聴取したことであった。

説法はまず、大梅法常禅師の山住みのころの物語であった。蓮の葉を衣料とし、松の実を食としたあたりでは、みんなたいてい涙をながした。

また、霊鷲山(せん)で釈迦牟尼が仏が三月のあいだ馬麦を食うて安居したという物語も、くわしく者語られた。聞くもののなかには涙をながすものも少なくなかった。

そして仰せられたことは、

「天童山でも安居がちかづいている。いまは時春にして、寒からず暑からず、坐禅にはまことに好き時節である。兄弟たちよ、いま坐禅しないでどうしようというのだ」

そのように説法されて、そして、さきの韻文を示された、さらに、その韻文が終ると、やおら右手をもって交椅の右側をぽんと一つ叩いて、

「では、入室するがよい」

といった。

入室の問答では、「杜鵑(とけん)啼(な)くとき、山竹(さんちく)裂(さ)ける」などと、そんな話があったが、別にとりたてていうべき話はなかった。集まる衆は多かったが、たいてい黙っていて、ただ恐懼(きょうく)するのみであった。

このような入室のやり方は、かの地の諸方にも見ぬところで、ただ先師なる天童如浄古仏だけがこのようなやり方をなさっていた。みんなに法を説かれる時には、人々は椅子や屏風のぐるりにみんな立っているのである。そして、それが終ると、そのまま、立ったままで、然るべき僧から入室の儀をいとなみ、それが終ったものは、いつものように方丈の門を出てゆく。その際、まだ残っていつ人たちは、なおもとのように立っているのであるから、入室の儀をいとなむ人のする作法、ならびに住持なる和尚の御様子、さらには入室の問答にいたるまで、すべてみな見聞することができる。そんなことは他所の禅院にはない。ほかの長老にはそんな真似もできないのであろう。思うに、他所の入室の時には、人はたいてい他人よりさきに入室しようとする。ところが、ここの入室では、人はたいてい他人よりのちに入室しようとするのである。この人の心のありようのちがいに気をつけて、忘れないようにするがよろしい。

それよりこのかた、わが国の寛元元年(1243)にいたるまでを指折りかぞえてみると、すでに十八年、風光はすみやかに過ぎ去っていった。その間に、天童山よりこの山にいたるまでには、すでに幾山河を越えてきたことかと思うのであるが、あの時の実相説法の奇句美言は、身心(じん)骨髄に銘じて忘れがたい。あの時のことは、他の人々もみな忘れがたいと申していた。その夜は、細い月がわずかに楼閣の彼方からのぞき、杜鵑(とけん)がしきりに鳴きわたっていたが、とても静かな静かな夜であった。(161~163頁)

〈注解〉四更;午前一時から三時までの頃で、丑の刻にあたる。

入室;また開堂ともいう。久参の弟子が師の室に入って、新しく得たるその所得を呈して問うことをいう。今日は入室の儀がいとなまれるという時には、牌がかけられる。それが入室牌である。

  寂光堂・大光明蔵・妙高台;すべて天童山景徳寺の建物の名称である。寂光堂は西方丈、大光明蔵は東方丈、そして、妙高台は大方丈である。方丈とは長老・住持の居所である。

維那;「いな」または「いのう」と読む。寺中の事務をつかさどる役名である。

  大梅の法常禅師;大梅法常(839寂、寿78)は馬祖道一の法嗣(ほっす)。その「衣荷食松」の山居の生活については、さきの「行持」(上)の巻にくわしく記されている。(164頁)

■玄沙山の宗一(いち)大師は、法堂(はっとう)にに出ようとするおりから、ふと燕(つばくろ)の声をきいていった。

「おおこれこそ、まさに実相を談じており、よく法の要(かなめ)を説いているわい」

そういって座をくだった。

それからすこし後のこと、一人の僧があって、問うていった。

「このまえのお話は、わたしにはどうも判りません」

師はいった。

「そんなことをいっても、誰もほんとうだとは思わないよ」

そこには、「深く実相を談ず」とある。それは燕が、ひとりよく実相を談じていると、玄沙はそういっているように思われる。だが、そうではないのである。ただ、法堂に出ようとする途中で、燕の声を聞いただけである。つまり、燕が実相を談ずるわけでもなく、また、玄沙が実相を説くわけでもない。そのいずれでもないけれども、なおまさしくそのときは、うたがいもなく実相が語られているのである。

では、しばらくこの一段の終始を考えてみるがよろしい。そこには、法堂に上ろうとする大師があり、その大師が燕の声を聞いた。その大師は法堂にでて、「深く実相を談じ、善く法の要(かなめ)を説く」と語り、それでその座をくだった。それからすこし後のこと、一人の僧が大師に質問して、「その話はどうも、わたしには判りません」といった。すると大師は、「そんなことをいっても、誰もほんとうだとは思わないよ」といった。その一人の僧がそう問うたのも、かならずしも実相について問うたとはかぎらないけれども、その大師のことばには、仏祖のいのちがながれており、もしくは、それが正法眼蔵の骨髄というものである。

考えてみるがよい。たといこの僧が問うて、「わたしは理解できました」といおうと、あるいは、「わたしは説明できました」といおうと、玄沙はそこでは、かならず、「そんなことをいっても、誰もほんとうだとは思わないよ」というところである。判っているのを判らないといって問うたから、「去れ、誰も汝を信じないぞ」というのではない。思うに、それがこの僧でない誰であろうとも、また、それが諸法の実相であろうなかろうと、ともかく、仏祖のいのちがまっすぐに通じている時と処においては、かくのごとくにして実相にまなびいたることができるのである。青原の流れをくむところにおいては、すでにその道ができているのである。

かくて知るがよい。実相とは正しい嗣(つ)ぎ手によって相承(じょう)せられてきた仏祖のいのちである。諸法とはただ仏と仏とのみがまなびいたり究め尽くすところである。かくて仏と仏たちはみらるるごとき素晴らしい相好(ごう)をしておられるのである。(166~167頁)

〈注解〉玄沙院宗一大師;玄沙師備(908寂、寿74)。雪峰義存の法嗣(ほっす)。賜号して宗一大師と称す。ここに引用の一節は『聯燈会要(れんとうえよう)』巻23にみえる。

  青原の会下;六祖慧能の門下に青原・南嶽の二人があり、その門流がそれぞれにさかえて、青原下・南嶽下というならいである。玄沙師備は雪峰義存の法嗣であるから、青原下の門流に属する。(168頁)

密 語 (みつご)

■開 題

この一巻は、寛元元年(1243)九月二十日、越前山中の古精舎吉峰(よしみね)寺において衆(しゅ)に示したものである。奥書にいうところである。ごく短篇の一巻であるが、なんとなく心暖まる感じのする一巻であるというのが、わたしのいつわらざる読後感である。それもそのはず、この巻の主題である「蜜語」ということばが、すでに心暖まる文字であるからである。しかるに、世の人々はたいてい、そのことばの意味を誤って解しているのである。

道元は、この短篇の一巻の冒頭に、まず雲居道膺(うんごどうよう)が一人の官人とかわした問答を挙げている。その問答の主題は、古くからいい伝えられる。

「世尊に密語あり、迦葉は覆蔵せず」

という一句であって、この一巻において道元が論じているのも、終始してその一句をいかに解釈するかであり、その解釈のわかれるところが、詮ずるところ、その密語の密をいかなる意味にとるかに帰するのである。

ご存じのように、密という語には、秘密とか内密とかいった意味がある。この一巻のなかで道元が、「愚人おもはく、密は他人のしらず、みづからはしり、しれる人あり、しらざる人ありと」などと語っているのは、世の人々がたいてい、「世尊に密語あり」というその密語をその意味にとっているというのである。

だが、世尊がそのような秘密な表現を愛したとするならば、それはまるで見当はずれであり、仏法のなんたるかを知らざるもののいうところである。では、「世尊に密語あり」という、その密語の密はいかなる意味であるかというなれば、ずばりと一句を挙げていうことができる。いわく、

「いはゆる密は、親密の道理なり」

である。

ご存じのように、密という語には、もう一つ、精密とか緻密とかいった意味がある。それが、ことばにおいて、行ないにおいて、あるいは心持ちにおいてなる場合には、親念切々としてきめの細かい配慮があってはじめて実現されるであろう。いわゆる密とは、親密の道理なりというのは、そのようなところをいったことばであると受領せられる。親身の思いからでている時に、はじめて隙間のないことばがあり、愛情のこもった行為であるというのである。いや、世尊のみではない。仏祖たちの言行においては、すべて然るのであるという。いわく、

「しるべし、仏祖なる時節、まさに密語・密行きほひ現成す」

仏祖たるものの言行は、いつでも、心暖まるような、そして隙間のない密語であり、密行であるというのである。あるいは、またいわく、

「およそ為人(いにん)の処所、弁肯の時節、かならず挙似(こじ)密なる、それ仏仏祖祖の正嫡(しょうちゃく)なり」

そのいうところは、師家が人のために法を説く場合、そして、学人がそれを会得して「ああそうであったかか」とうなずくとき、そういう時にはかならず、その説示は密なるものであるというのが、それが仏仏祖祖の正嫡のありようだというのである。

読みいたり読みさって、いつしか心暖まる思いのあるのも、またうべなりと申すところであろう。(170~172頁)

■いったい、仏法をまなぶにはいろいろの途がある。そのなかに、仏法が判るといい、仏法が判らぬという。そこがひとつの急処である。もし正しい師にまみえなかったならば、そんなことがあるということさえも知りえなかったであろう。たとえば、いまのことでいうなれば、ただいたずらに眼にものが見えない、耳に声が聞こえないというだけのことで、それが密語だと滅茶苦茶な解釈をしているものもある。もしそなたが判っても、それで迦葉も判ったというわけではない。覆われてはいないが判らないということもある。覆われていなければ、誰でも見ること聞くことができるものとは限らないのである。いや、万法はすでに覆うところなしという。とするならば、何処にも覆われないの、あらわすのといったことはありえないではないか。とするならば、その時にはどうなるというのか。こころみに研究してみるがとろしい。(176頁)

〈注解〉雲居山弘覚大師;雲居道膺(うんごどうよう、902寂、寿不詳)。洞山良价の法嗣(ほっす)。はじめ三峰庵にあったが、のち撫州の雲居山に住した。賜(おくりな)して弘覚大師と称する。(178頁)

■それなのに、正しい師の教えを聴いたことのない連中は、たとい法の座にのぼる者にいたるまで、こんな道理はまだ夢にも見たこともない。だから彼らは、まるでいい加減のことをいっている。つまり、世尊には蜜語があるというのは、霊鷲山(せん)上において世尊がおおいなる衆のまえにおいて、華を拈じて目を瞬(まばた)きしたもうたことをいうのだとする。なぜかというと、ことばをもってする仏の説法は浅薄である。物の名称や形相に関するものだからである。そうではなくて、ことばをもちいることなくしてただ華を拈じ目を瞬く、これが蜜語をもって語りたもう時なのである。その時、おおいなる衆はその故を知ることができなかった。だから、おおいなる衆にとっては、それは蜜語であったとするのである。また、迦葉にはそれがよく判ったというのは、世尊がそのように拈華瞬目したもうのを、迦葉はちゃんと前もって知っていたかのようににこっと微笑したのであるから、それは迦葉にとっては覆われてはいなかったのだというのである。これが真相であって、それからそれへと相伝してきたところであるとする。そんないい加減なことをいうのを聞いて、それを真実だとおもう連中もまた沢山いる。中国のいたるところに群をなしている。仏祖の道のおとろえは、こんなところから起こるものであると思うと、まことに嘆かわしいことである。明眼(げん)の人は、まさに、そのようないい加減な言説を批判して破らなくてはなるまい。

もしも世尊がことばをもって説きたもうたところは浅いというならば、拈華瞬目したもうたところも浅いであろう。世尊がことばをもって説きたもうところは、物の名称や形相ばかりであるというのは、仏法をまなんだことのある男ではあるまい。なるほどことばをもって語れば、物の名やすがたをもって語る。その連中はそのことは知っているけれども、世尊はそのような境界(がい)にはあられぬことをまだ知らないらしい。まだ凡夫の考え方を脱(ぬ)けていないのである。それに反して、仏祖はみなその身心(じん)に感受しきたったところを、いまはもうすっかり脱けきっていて、そこで法を説くのである。それには、ことばをもって説くのであり、いわゆる法輪を転ずるというのがそれである。人々はそれを聞いて利益を得るものが多い。利根のものも、鈍根のものも、いずれも、仏祖のある処において教化をこうむり、また、仏祖のなきところにおいても教化をこうむるのである。多くの衆たちが、結局するところ、拈華瞬目を拈華瞬目として見もしくは聞くのである。詮ずるところは、迦葉と同じなのである。世尊とともに生きるのである。百万の大衆が百万の大衆とともに到るのである。みな同時に発心するのである。そして、同じ道をゆくのであり、同じ国土に到るのである。そのあるものは、知らざるものの智慧をもって仏にまみえ法を聞くのである。はじめは一仏を見るのであるが、やがてはすすんで数かぎりない仏を見たてまつる。その一々の仏の集会には、すべて数知れぬほどの会衆が集まっているであろう。そして、その各々の仏たちがいずれもあの拈華瞬目の舞台を催してあられるのを、見ることができ、聞くことができるであろう。その見るところは暗からず、その聞くところはおぼろげではない。なんとなれば、人々みな、心の眼があり、身の眼があり、また、心の耳があり、身の耳があるからである。(181~183頁)

■では、そこで、迦葉の破顔微(み)笑のことを、なんじはどう理解するか、試みにいってみるがよろしい。もしなんじたちがいうようであるならば、それもまた蜜語であるというところであろう。だが、それをそうとはいわないで、それは覆われてなかった、ちゃんと判っていたからであるという。いよいよおかしなことではある。しかるに、やがて世尊は仰せたもうた。

「われに正法眼蔵・涅槃妙心がある。それをいま摩訶迦葉に付属する」

そのような表現は、いったいことばをもって語ったものか、ことばをもちいない表現であるか。もし世尊が、ことばをもって説くことをきらわれ、拈華がお好きであるのならば、こんどもまた華を拈じたまえばよかったであろう。さすれば、迦葉もきっと理解したであろうし、そこに集まった衆だってきっと判ったはずである。そういうことであるから、こんな連中のいうところなど、用いるべきではないのである。(184頁)

■そもそも、世尊には、蜜語もあり、密行もあり、また密証もあった。それなのに、世の愚かな人たちは、密というは、他人は知らずして、自分は知っていることであり、あるいは、知っている人があって、知らない人があることだと思っている。西も東も、古から今にいたるまで、そのように思い、そのようにいうのは、まだまだ仏教をまなびいたっていないもののいうことである。もしそのようにいうならば、この世間でも、また出世間においても、学のないものにおいては密が多く、学のひろいものにおいては密は少ないということになるであろう。そして、あまねくまなんだものには、密はありえないということにもなろうか。ましてや、天眼・天耳、あるいは仏眼・仏耳などを身に具える時には、すべて蜜語だの密意だのは、まったくありえないはずだとしなければならない。

だが、仏語でいうところの蜜語・密意・密行などは、そんな道理のものではない。人に遇う時にこそ、蜜語を聞き、蜜語を語るのである。よくおのれを知る時、密行を知るのである。ましてや、仏祖たちは、よくこれまでの先徳たちの密意や蜜語を究めて弁(わきま)えているのである。かくて仏祖においては蜜語・密行がつぎからつぎへと実現するのである。(184~185頁)

■いうところの密は、親密の意味である。隙間がないのである。そこでは、仏祖も、汝も、自己も、あるいは、行も、代も、功も、すっかり密で蓋うているのである。いや、その密さえも密をもって蓋うているのである。それは、いうなれば、蜜語が密人に逢うたのであって、そこは仏眼もまた窺い見ざるところといってもよかろう。けだし、密行は自他のよく知るところではない。その自も他も知らぬところを、密なる我(われ)のみがよく知っており、また、密なる他がそれぞれ、理解はしないがそれを感じている。つまり、密はぴたりと蜜のほとりにあるのであるから、すべてが密なのであり、どこをとってみてもすべて密ならざるはないのである。(185頁)

■このような道理は、よくよく思いめぐらして明らかに理解しておくがよろしい。いったい、師家が人のために説く場合、そして、学人がそれを理解して「ああ、そうか」とうなずく時、そういう時にはかならずその説示は密であるというのが、仏祖の正しい嗣ぎ手のありようというものである。では、いったい、今はいかなる時であるというのであるか。とするならば、自己にも密であろう、他人にも密であろう。仏祖にも密であろう、また、類を異にする人々にも密であろう。だから、蜜のうえにさらに密をかさねることとなるであろう。しかるに、そのように教・行・証をかさねてゆけば、それがすなわち仏祖であるから、ついには仏祖の密をも超えてゆくであろう。とするならば、それは密をも超えるというべきであろうか。(185~186頁)

〈注解〉この一段では、まず世の一般の人々が、たいてい、蜜語について誤った解釈をしていることを指摘する。その誤解の主たるものは、結局するところ、秘密のことば、つまり、人の知らないことが密であるとするのである。道元はそれをただして、蜜語の正しい考え方に導いてゆこうとするのである。では、そこでは、密とはいかなる意であるか。その説明は、「いはゆる密は、親密の道理なり」の一句に究竟するといって然るようである。

  親密;親念切々としてきめの細かであることを表現することばである。それは秘密とか内密とかに対して、むしろ緻密とか精密とかの意であり、それがすべて親身の思いから出ているのをいう。つづいて「無間断」すなわち隙間がないという句のあるのを味わうべきである。

  密我;密なる我とでも訳するほかはない。それはちょうど夢中になっている我といった趣の語であって、密になりきっている我であるから、もはや自の他のといった区別もしらないのである。(187頁)

■雪竇智鑑(せっちょうちかん)は衆に示していった。

「世尊は蜜語をかたりたまい

迦葉はそれがよくわかった

ある夜落花に雨ふりそそぎ

城内の流水ことごとく香(かんば)し」

いま雪竇がいうところの、「ある夜落花に雨ふりそそぎ、城内の流水ことごとく香(かんば)し」の句は、これこそ親密というべきである。それをとりあげて、仏祖のひとみ、鼻の孔をよくよく点検してみるがよろしい。それは臨済や徳山などのよく及ぶところではない。そのひとみのなかの鼻の孔はぱっと開いているのであろう。その耳の嗅覚もすっかり鋭くなっているにちがいない。ましてや、その耳・鼻・眼睛(がんぜい)は、古きにあらず、新たなるにあらざれども、そこに全身心がこぞって集中している。それは落花に雨ふりて世界起こるとでもいうべきであろうか。

また雪竇(せっちょう)はいう、「城内の流水ことごとく香(かんば)し」と。それは身を蔵(かく)して影いよいよ露(あら)わるというところであろう。だからして、仏祖の家のつねとしては、みな「世尊に密語があり、迦葉にはそれがよく判った」とまなびいたり、またそれを越えてゆくのである。七仏も世尊も、仏という仏はことごとく、みな今のようにまなびいたるのであり、迦葉も、釈迦もまた、同じく今のように究めいたったのである。(189頁)

〈注解〉雪竇師翁示衆曰……;この偈は『嘉泰普燈録』巻十七、雪竇智鑑章にみえる。雪竇智鑑(生没年不詳)は天童宗珏(そうかく)の法嗣。天童如浄の師にあたるがゆえに、道元は師翁と称しているのである。(189頁)

仏 経 (ぶっきょう)

■開 題

この一巻は、寛元元年(1243)秋九月、越州吉田県吉峰(よしみね)寺において衆(しゅ)に示したとある。奥書のいうところである。それによって知られることは、まず、この年の九月には、これですでに四本の制作もしくは示衆(じしゅ)が行なわれたということである。

指折りかぞえてみると、道元の一行がこの山中の古精舎についたのは、たぶん、七月の下旬か、その翌月、閏(うるう)七月のはじめであったはずであるから、それからまだ三月目である。それなのに、この九月の制作・示衆がすでに四本におよぶということは、わたしには、なにか道元の必死な気持が惻々として感ぜられてならない。そして、その気持ちは、それらの巻々の内容にも、まったく無関係ではないように思われてならない。

たとえば、さきに現代語訳した「仏道」の巻も、この「仏教」の巻とすぐ前後して、同じ年の九月十六日、同じ吉峰寺において衆に示されたものであるが、そこで道元が声をはげまして語っていることは、詮ずるところ、「仏仏正伝の大道を、ことさら禅宗と称するともがら」などは、ちっとも仏教などは判ってはいないということであった。したがって、またそのなかにおいて、さらに臨済宗だの、雲門宗など、いわゆる五宗の家風を云々するなどということは、それこそ仏祖の道のすたれる証(あかし)であるという。その語気には、なにかただならぬものさえ感ぜられることであった。

そして、いま、この「仏教」の巻においても、同じように、そのただならぬ気配が感ぜられるのである。たとえば、それをわたしは、まず、この巻にみえる道元の臨済批判のことばのなかに感ぜざるを得ない。わたしは、まだよく憶(おぼ)えているのだが、前年の四月のはじめに書かれた「行持」の巻においては、道元は臨済を評して、

「まことに臨済のごときは、群(ぐん)に群せざるなり。そのときの群は、近代の抜群なり。行業(ごう)純一にして行持抜群せりといふ」

と讃えている。抜群の評価なのである。しかるに、いまこの「仏経」の巻における道元の臨済評価は、まことに目を見張るような変化を示している。そこでは臨済は、

「しるべし、上上の機にあらざることを」

と語られ、また、

「臨済かって勝師(しょうし)の志(しい)気あらず、過師の言句きこえず」

と評せられている。わたしは、はじめ、ただ目を見張るよりほかはなかった。だが、繰り返し繰り返ししてこの一巻を読んでいるうちに、ほのかに、この目を見張るような変化の理由がみえてきたように思う。それは道元の経典観をよくよく味わうことによって判るのである。

道元は、この巻においてもまた、ずばりと冒頭に圧巻のことばを打ち出している。

「このなかに教菩薩法あり、教諸仏法あり。おなじくこれ大道の調度なり。……これによりて、西天東地の仏祖、かならず或従(わくじゅう)知識、或従経(きょう)巻の正当恁麼時、おのおの発(ほつ)意・修行・証果かって間隙あらざるものなり。発意も経巻・知識により、修行も経巻・知識による、証果も経巻・知識に一親なり」

朗々と読み来り読み去れば、その難解の文字にもかかわらず、そのいわんとするところは朗然として明らかである。詮ずるところ、仏教は経典なしには成立しないといっておるのである。諸仏も、菩薩も、あるいは、その発意も、修行も、証果も、経巻と善知識なくしてはありえない。それが仏教の建前なのである。道元がこの巻においていわんとすることはそれである。したがって、それに呼応するがごとく、この巻の結びの一句もまた、ずばり、

「しかあればすなはち、仏道にさだめて仏経あることをしり、広文深義を山海に参学して、弁道の標準とすべきなり」

と結ばれている。

しかるに、近年の大宋国においては、例の杜撰のやからどもが、しきりと仏経を軽んずる言辞を弄している。それはよく知られている事実であるが、道元にはその風潮が嘆かわしく思われてならないのである。この一巻にみなぎるただならぬ気配もそれと無関係ではありえまい。

「このともがら、みだりに仏経をさみす。人これにしたがはざれ。もし仏経なげすつべくば、臨済・雲門をもなげすつべし。仏経もしもちゐるべからずば、のむべき水もなし、くむべき杓(しゃく)もなし」

その辺に、この一巻のなれる消息があるのであろうと察せられる。(192~194頁)

■しかるに、かならずこの経を得んとする、そのことのなる時は古であるか今であるかと、そのように考うべきものではない。けだし、古今はともにこの経を得べき時だからである。いま十方の世界のいたるところ、われらの目前にそのすがたを現じているもの、それを見ることがそのままこの経を得ることにほかならないのである。さて、この経を得て、それを読みいたりかつ通じいたるには、仏智をもってし、自然智をもってし、無師の智をもってするのであるが、その時には、理解は心よりもさきに成り、会得は身よりもさきに実現する。したがって、その時、なにもあっというような新しいことがあるわけでもない。けだし、この経がわれらによって受持せられ読誦(どくじゅ)せられるということは、つまり、この経がわれらを迎えいれることにほかならない。したがって、この経の文言のそと、行文のかなたなる消息は、まことはわれとわが心の綾にほかならないのである。(200頁)

■そればかりではない。さらにいうなれば、「こんなものが、いったい、どうして来たのだ」という。それも、諸仏を教える経であり、あるいは菩薩を教える経である。あるいは、「一つだけを挙げていったのでは中(あた)らない」という。それも八万四千の説法群をとき、あるいは十二部経を語っている。ましていわんや、握り拳(こぶし)だって、脚の踵(かかと)だって、あるいは老師の杖だって、払子だって、みんな古いもしくは新しい経であり、あるいは、有(う)をとき空をとく経である。さらにいえば、衆のなかにありながらも仏法をまなび、坐禅功夫をかさねるのも、もとより、どこまでも仏教にほかならない、菩提の葉にしるすのも経であるし、また虚空の面にえがくのも経なのである。(201頁)

■いったい、仏祖の一挙一動は、その迎えるにも放つにも、すべておのずから仏教を披(ひら)きまた閉じるにひとしい。それには究極するところがないが、究極するところがないのが、まことの経のありようというものなのである。したがって、彼らはよく鼻孔をもって経を受け経を出だす。脚の爪先からも経を受けまた経を出す。もしくは、父母のいまだ生まれぬ以前にも経をくりひろげ、威音王仏の以前にも経をくりひろげる。あるいはまた、山(せん)河大地によって経を受け経を説き、日月星辰によって経を受けまた経を語る。またあるいは、この世界の成る以前の自己をもって経を持し経を授け、あるいは、この面目のなる以前の身心をもって経を受持しまた経を授与するのである。そのような経というものは、小にしては最小の物的単位をつき破り、大にしてはこの全存在の世界を超えて出現するものと知らねばならない。(202頁)

〈注解〉知識;ここに、つづいて知識論が展開される。それで、すこし知識ということばについて語っておきたい。それはもと“kalyana-mitra”を訳して善知識となしそれを略して知識となすのである。その原語のうち“mitra”とは「友」の意であって、ともに仏道を行ずる人々をすべて「善き友」とするのである。だが、のちには、自分のために教えを与えてくれるものを善知識というようになった。しかし、その時にもなお、「善き友」というもとの意味は生きているようである。

     恁麼仏恁麼来;南嶽懐譲(なんがくえじょう)がはじめて六祖慧能にまみえた時、六祖が吐いたことばである。それに答えて南嶽が申していったことばが、つづいて記されている「説似一物即不中」の句である。『景徳伝燈録』巻五、懐譲伝のしるすところである。いずれも道元の好んで引用するところである。一応それぞれに現代語訳しておいたが、それをまた解説せよといわれるならば、わたしもまた、「そんな句がどうして出たのか」、「一つだけをいっても当たりっこないわい」というほかはないのである。(203~204頁)

■先師なる如淨禅師は、日頃からつねに仰せられていた。

「わしのところでは、焼香だ、礼拝だ、念仏だ、看経(かんきん)だといったものは用いない。ただひたすらに打ち坐って、道をまなび行を修して、身心を脱落するのである」

このようなことばは、意外にもこれをはっきりと理解しているものが稀である。なにゆえであろうか。たとえば、そのなかの一句、看経ということを取りあげてみるならば、それを文字どおりに看経とすれば矛盾を生ずる。かといって、それを文字どおりの看経ではないとすれば反対になってしまう。つまり、物いうも当たらず、物いわざるも当たらずというところなんだが、さてどういったらよいものか。

そこの道理をよくよくまなびいたらねばならない。その意味の存するところを、かって古人は、

「看経には、すべからく看経の眼(まなこ)を具(そな)えねばならない」

といったこともある。まさしく知らねばならない。古(いにしえ)より今にいたるまで、もし経というものがなかったならば、このようなことばもまたあるはずはない。ただ、そこには、脱落の看経というものがあり、また、不用の看経ということがある。それをよくよくまなぶがよいのである。

ということであるから、仏道をまなぼうとするものは誰でも、かならず仏の経を伝受し受持してこそ、はじめて仏の御弟子となるのである。むやみに、外道のものどもの邪(よこしま)な考え方をまなんではならない。いまの世に成就し現存する正法の眼目といえば、それはとりもなおさず仏教である。したがって、あらゆる仏教は正法の眼目なのであって、あれはどう、これはどうというべきものではなく、あるいは、あれは他人のもの、これはわれらのものともいうべきではない。よく知るがよい、正法の眼目はいろいろとあるのだが、そなたがたでは、到底そのすべてを知ることはできない。つねに説いているのである。それは信ぜざるをえないではないか。(208~209頁)

■仏の経もまた、それと同じである。それにもまた、あれこれとたくさんある。だが、そのなかから、そなたたちが信じとり、それを行じようとするものは、またほんの一偈であり、あるいは一句にすぎまい。とても、あの厖大(ぼうだい)なる経をすべて理解することはできまい。しかるを、経典の学者にもあらずして、みだりに、仏経と仏法とはちがうのだなどということ、夢にもあってはならない。いったい、そなたたちが、このごろ、これが仏祖の骨髄などといっているものは、正しい眼をもったものからみれば、それもまた末師が経文によって教えられたものにすぎない。さすれば、それもまた、われらが一句一偈を受持するにひとしいであろう。あるいは、その一句一偈の受持にもおよばぬこともあろう。そのような浅薄な理解をよりどころとして、仏の正法を謗(そし)るようなことがあってはならない。それでは、紙に書いた経、口に誦する経よりも、功徳があるなどとはとんでもないことである。声や物の誘惑は、なんじらのなお貪るところであろうが、仏の経にはなんの惑乱するところもないことを、なんじらなお信ぜずして謗(そし)ろうというのであるか。あるべからざることではある。(209~210頁)

〈注解〉仏経は仏法にあらず;いわゆる教外別伝というがごとき考え方を指しているのである。

声色の仏経;口に誦する仏経は、声(しょう)の経典であり、紙に書かれ、目にみえる仏経は色(しき)の経典なのである。(210頁)

■臨済は、まことは、黄檗の門下のなかにあっては後進であった。彼は六十本にわたって黄檗の棒を頂戴(ちょうだい)し、去って高安大愚(こうあんだいぐ)のもとに参じたが、そこで黄檗の彼にたいする仕打ちを老婆の孫にたいする態度のようではないかといわれ、そこでこれまでのことを顧(かえり)みおもい、また黄檗のもとに帰ってきた。そのことがよく知られているために、人は、黄檗の仏法はひとり臨済にのみ伝えられたものと思っている。いや、そのうえ、彼は黄檗にさえまされる人物であると思っているものもある。だが、けっしてそうではないのである。

臨済はまだ黄檗の門下にあって、大衆(だいしゅ)の一人であったころ、陳尊宿(ちんそんしゅく)がなにか問うてみるがよいと勧めてくれたことがあった。だが彼は、なにを問うてよいか、それが判らなかったという。いまだ大事を悟りえない時、仏道をまなぶ修行者として、法堂(はっとう)にあって法を聴こうというのに、そんなぼんやりしたことでよいはずはない。それによっても判るように、彼はけっして上々の器ではなかった。

なおいえば、臨済にはまったく師に勝(まさ)ろうとするような覇気もなかったし、師を超えるようなことばも見ることはできない。黄檗という方には、師に勝ることばもあったし、師を超える大智もあった。ちゃんと、仏のいまだ道(い)わざるところを語り、祖のいまだ解せざる法を理解していた。黄檗こそは、まさに古今をこえた古仏であって、百丈にもまさり、馬祖よりも俊秀であった。だが、臨済にはそのような秀(ひい)でた気配はなかった。なぜかとなれば、古来いまだ道(い)われざる句は、まだ夢にも語ったことがなく、ただ、いうならば、多を理解すれば一(いつ)を忘れ、一に達すれば他が気にかかって仕様がないというところである。四料簡(しりょうけん)などということには、いささか法味がありというものの、それを仏法をまなぶ指標とするなどとは、とんでもないことである。(216~217頁)

〈注解〉大愚;高安大愚(こうあんだいぐ、生没年不詳)。帰宗智常(きすちじょう)の法嗣(ほっす)。なかなかの逸物であったらしいが、まったく迹をくらまして、この臨済のことのほかは、まったく知られるところがない。(218頁)

■また、雲門は、雪峰の弟子であった。世の人々の師たるに堪える器であったが、なお、もはやまなぶべき余地のないところにまで到ったというわけではなかった。それらの人師(にんし)のことばをもって根本としたならば、それはただ末を愁えなければならぬこととなろう。いったい、臨済がまだ世に現れず、雲門もなおいなかった時には、仏祖たちはなにをもって仏法をまなぶ基準としたのであろう。それを考えてみただけでも判るではないか。彼らの家には、仏家のことばもわざも伝わってはいないのである。つまり、依ってもって根拠とすべきところがないからして、このようないい加減なことばを説くのである。そのようなやからだから、むやみに経典をくさすのである。人はそれに従うべきではない。もしも経典をなげ捨つべきであるならば、また臨済・雲門をもなげ捨てるがよろしい。もしも経典をもちうべからざるものとするならば、仏教者は、いったい、いかなる水をのめばよいか、なにをもって水を汲めばよいか。

■しかるに、いま杜撰にして頭のおかしいやからどもが、むやみに仏道を軽んずるのは、つまりは仏道とはこれかと思いさだめることができないからである。かりそめにも、かの道教や儒教をもって仏教に比すなどとは、その愚かさに歎かれるばかりではない。それはまた罪をつくる因縁ともなり、国の衰えを招くことともなるであろう。けだし、かくては仏・法・僧もしだいに衰えてゆくばかりだからである。(222~223頁)

■そこで、黄梅山(おうばいざん)にかって神秀がいたことを思い出してみるがよい。神秀は帝師であって、皇帝の御前において法を講じ、法を説いた人物である。それのみではなく、また、盧という行者(あんじゃ)がいたことを思い出さねばならない。彼はもと樵夫(きこり)であったが、五祖に投じて行者となったのである。柴をかつぐ仕事はのがれたけれども、なお米を推(つ)くことを仕事としてあった。身の卑賤なことは恨めしかったであろうが、彼には、俗をも出て、僧をも超えたところがあったのであろう、ついに法を得て、衣を伝えられた。このようなことは、昔からいまだかって聞かざるところであり、西の方天竺にもその例はない。ひとり中国においてみる世にも稀なるすばらしい前例である。七百人の五祖の門下のなかにも、この人に肩をならべるものはなく、天下の俊才のなかにもその跡をうかがう力のあるものはなかったにちがいない。かくて、まさしく第三十三代の仏祖の位をついで五祖の法嗣となった。もしも五祖がよく人を知ることのできる善知識でなかったならば、どうしてこのようなことが実現できたであろうか。

このような道理を、しずかに考えてみるがよろしい。軽々にしてはならない。人を知る力を得るように心がけるがよろしい。人を知らないということは、自分にとっても他人にとっても、大きなわざわいである。いや、天下の大きなわざわいである。学問のひろい秀才であることは必要ではない。ただ、人を知るまなこ、人を知る力、これをいそぎ身につけるがよろしい。もし人を知るの力がなかったならば、いつまでたっても浮かぶ瀬はないであろう。

かくて、詮ずるところは、仏道にはかならず仏経がなくてはならぬことを知り、広くまた深く山海にいたりまなんで、それをもって道をわきまえる基準とすべきなのである。(230~231頁)

〈注解〉神秀;(じんしゅう、706寂、寿不詳)。大満弘忍の門下の俊秀であったが、その衣鉢は慧能に伝えられ、彼は旁出の法嗣となった。。諡号(しごう)を大通禅師いう。彼が帝師というのは、則天武后の帰依を得て、内道場で法を説いたことをいう。(178頁)

盧行者;大鑑慧能(だいかんえのう、713寂、寿76)のことである。彼はもと姓を廬氏といい、五祖のもとに投じても、なお、しばらく行者(あんじゃ)すなわち雑役者としてあった。その彼が、神秀を措いて五祖弘忍の衣鉢をつぐものとなった消息がここでもまた語られているのである。(231~232頁)

無 情 説 法 (むじょうせっぽう)

■開 題

この一巻は、寛元元年(1243)十月二日に、衆(しゅ)に示されたとある。この年の七月下旬に越前山中に入り、閏七月初一日に最初の示衆があってから、すでに三ヵ月の歳月がすぎた。その間における道元の山中の日々は、どうやらこの『正法眼蔵』の巻々の、制作と示衆とに明け暮れるというところであったにちがいない。そしてこの「無情説法」の一巻は、その七本目にあたるようである。

ところで、この一巻において、道元が、「無情説法」の題目のもとに語ろうとしておるところはなにか。いま、この一巻を現代語訳し終わって、静かに思いを凝(こ)らしてみると、それは、どうやら、説法そのものについて語ろうとしているようである。あるいは、もっと現代風のいい方をもっていうなれば、これは「脱法論」であって、説法の本質はなんであるかを、この主題のもとに説こうとしているのだと思われるのである。

すでにたびたび指摘したように、この『正法眼蔵』の巻々において、道元がしばしば用うるところの手法は、いきなり冒頭において、そのいわんとするところを、ずばりと語りいでるという行き方である。そのために、この『正法眼蔵』の巻々においては、しばしば、その冒頭においてもっとも難解な行文にぶっつかるのである。それもそのはずである。そこに道元は、思索に思索をかさねて、そのいわんとするところの精髄を凝縮した表現のなかにずばりと打ち出しているからである。そして、そのことは、この一巻もまたその例外ではないのである。

その冒頭の一節は、ご覧のとおり、つぎのように述べられている。

「説法於説法するは、仏祖付属於仏祖の見成公案なり。この説法は法説なり」

わたしはその一節をまえにして、しばしがほどは、ただじっと凝視して佇立するのみであった。いったいなんと読めばよいのか、なにをいわんとするのであろうか。だが、読みすすんでみて、やっと、わたしも気づくことができた。道元はここに説法そのものについて語ろうとしているのだなあということを。だから「説法を説法する」などといっておるのだなあと、やっと気づくことができたのである。では、いったい、この巻の主題はなぜ「説法」ではなくて、「無情説法」なのであろうか。それはどうやら、道元その人が、説法の本質を無情説法において見ているからなのであろうと推測される。

いったい、仏教でいうところの「無情」とは「有情」と相対することばであって、有情が感情や意識を有するもの、すなわち生きとし生けるもの(衆生)をいうに対して、感情・意識を有せざるもの、すなわち草木瓦礫(がりゃく)の無生物のたぐいを無情というのである。しかるに、仏教においては、そのような無情なるものもまた法を説くという考え方がある。これを無情説法という。そして、そのような無情説法はいかにすれば聞こえるかが、しばしば禅者の問答にもみえている。

道元もこの巻において、そのような問答を三つまで取り上げている。その第一には、南陽慧忠と、一人の僧の問答、その第二には雲巌曇晟(うんがんどんじょう)と洞山(とうざん)良价の師弟の問答、そして、その第三には、投子(す)大同と一人の僧の問答である。しかるに、その第一の問答の南陽慧忠も、その第二の問答の雲巌・洞山の師弟も、いずれも無情説法を「聞かず」といっておる。そして、その第三の問答においては、「いかなるか無情説法」と問う僧にたいして、投子はずばり「莫悪口(まくあっく)」といっておる。つまらぬことを考えないでもよろしいという意味らしいのである。とすると、無情説法とはどういうもので、どうすれば聞くことをうるかと、それのみを期待するものの期待はことごとくうらぎられるのである。

つまり、道元がこの巻において語ろうとしていることは、いわゆる無情説法なるものの解説ではないのである。道元の真に語ろうとしていることは、さきにもいうがごとく、説法とはなにかということ、もしくは説法の本質はなにかということなのである。そして、それに対する道元の回答は、これもまたさきにあげた「説法は法説なり」ということではないか。あるいは、これもまた冒頭にちかいあたりに見える一節であるが、それは、

「説法は仏祖の理(り)しきたるとのみ参学することなかれ、仏祖は説法に理せられきたるなり」

ということではないか。つまり、万法の説示するところが説法であり、山水が語りいでるのが説法の本質であるとすると、そこではじめて、無情説法、すなわち有情の感情や意識をまじえないところに説法の本質があるということとなり、さらに、それを聴問するには、無情得聞、すなわち、衆生の感情・意識をまじえないところに、その説法のよき聴き手があるとするのである。かくて、終わりにのぞんで、「無情説法、無情得聞を体達すべし、脱落すべし」とある一節の重さを、つくづくと思い知らされるのである。(234~237頁)

■だからして、釈迦牟尼仏は仰せられた。

「三世もろもろの仏たちの説法の儀式のように、わたしもまたそのようにして、いま無分別の法を説く」

ということであって、三世の諸仏が説法をなさるように、もろもろの仏もまた説法されるのであり、三世の諸仏が説法を正伝なさるように、もろもろの仏もまた説法を正伝なさるのである。それによって、古仏より七仏へと正伝したように、七仏より今にいたるまで正伝して、ここに無情説法がるのであり、この無情説法によって、諸仏があり、また諸祖があるのである。したがって、いま釈迦牟尼仏が、「わたしもまたそのようにして、いま無分別の法を説く」というのは、正伝にはあらぬ新しいこととまなんではならない。古来から正伝というものは、ふるい窟にとじこもることだと思ってはならない。(238頁)

■大唐国の西京光宅寺にあった大証国師に、ある時のこと、一人の僧が問うていった。

「無情なるものもまた説法を解するでありましょうか」

国師はいった。

「いつもさかんに説いていて、やむときもないわい」

僧はいった。

「わたくしには、どうしてか、一向に聞こえません」

国師はいった。

「そなたじしんには聞こえなくても、他人(ひと)の聞くことを妨げることはできないよ」

僧はいった。

「いったい、どんな人が聞くことができるのでありましょう」

国師はいった。

「もろもろの聖者がたは、聞くことができるのじゃ」

僧はいった。

「では、和尚もまた聞こえますか」

国師はいった。

「わしには聞こえない」

僧はいった。

「和尚には聞こえないのならば、どうして無情なるものが説法を解することが判りましょうか」

国師はいった。

「さいわい、わしには聞こえない。わしにもし聞こえたら、わしはもろもろの聖者がたと等しいこととなろう。そうすると、そなたは、わしの説法が聞こえないこととなろうわ」

僧はいった。

「もしそうならば、無情なるものの説法は、衆生には縁がないことになります」

国師はいった。

「わしは衆生のために説く。わしはもろもろの聖者がたのためには説かない」

僧がいった。

「では、衆生はそれを聞いて、どうなるのでしょう」

国師はいった。

「その時は、もはや衆生ではないわ」

無情説法のことをまなぼうとする初心のものは、すべからくこの国師の物語を素直に勉強するがよろしい。(244~246頁)

■いったい、法を聞くということは、耳という感覚のはたらきのみではない。父母もなおうまれぬ昔、威音王仏(いおんおうぶつ)よりもっと以前から、乃至は、尽未来の時、いや無尽未来の時節にいたるまで、わが力をこぞり、心をこぞり、身をこぞり、言をこぞって聞法するのである。そして、それらの聞法がすべて利益するところがあるのである。心にふれ意識にふれなければ、聞法の利益はないと思ってはならない。心を滅し身も没したものにも、聞法は利益をもたらすのであり、心もなく身もないものにも、法を聞くことの利益はゆたかなのである。もろもろの仏もろもろの祖たちは、みんなそのような時期を経て、仏となり祖となったのである。法の力がわれらの身心にたいするいとなみは、凡人の思わくではとても知りつくすことはできない。身心ノのはてしは、自分ではとても知りつくすことはできないのである。そして、いま聞法の力が、身心という田畑に種蒔(たねま)かれる時、その朽ちる時はない。やがて時とともに生長して、かならずその果を結ぶのである。(260頁)

〈注解〉尽未来際;未来のつきる時まで、というほどの意。だが、未来のつきる時はないであろうから、さらに無尽未来際の句を連ねているのである。(264頁)

法 性 (ほっしょう)

■開 題

この一巻が、古吉峰精舎において衆(しゅ)に示されたのは、「寛元元年癸卯孟冬」とある。孟ははじめである。冬のはじめは十月である。そして、いまから迎えようとしている冬は、道元にとっては、はじめての北国山中の冬であった。

この一巻はごく短い巻であって、今日の四百字詰の原稿用紙に換算すれば、わずか六枚にみたぬ小篇である。そのなかにおいて、いま道元が語ろうとしている主題は、まことに把握しがたい概念であった。

わたしもまた、道元がこの巻でいっておることばで申すなれば、一箇の「文字の法師」として語るなれば、「法性(ほっしょう)」とは、もと“dharmata”という仏教の述語である。そのことばは、一見してすぐ判るように、“dharma”の語尾に“ta”なる接尾語を付して、それで抽象形をつくったものである。

しかるに、その“dharma”という語は、ご存じのように、法と訳される語であって、仏教のなかにあっては、もっとも重要であり、したがってまた、もっともしばしば用いられることばである。しかるに、たいへん厄介なことには、仏教経典におけるこのことばの用法は、はなはだ多義的である。ある時には、存在をいうことばとして用いられる。ある時には、存在のありようをいうことばとして用いられる。そして、またある時には、存在のありように即して説かれた仏の教えをいう。古来の学者は、そのさまざまの用法をあげて、十数種に分類したこともあった。

いま、この「法性」すなわち“dharmata”ということばは、その“dharma”のもつ多義のうち、その第一の存在そのものに、さらに接尾語“ta”を付して抽象形としたのである。しかるに、ご存じのように、存在そのものとしての、“dharma”は、諸法あるいは万法ということばで訳されている。そして、たとえば『法華経』方便品に、

「唯仏与仏、乃能究尽(ないのうぐうじん)、諸法実相」

というがごとく、あるいはまた、道元じしんが、かの「現成公案」の巻に、

「万法すすみて自己を修証するはさとりなり」

というがごとく、諸法または万法ということばは、つねに「さとり」そのものと直結しておる。かくて、仏教的世界観の究極するところにおいては、その抽象された形での「法性」ということばが、あるいは仏正覚(がく)の内容をなすものとして、あるいは真如にひとしいものとして、たえず登場してくるのである。

この一巻における道元の書き出しの一句はこうである。

「あるいは経巻にしたがひ、あるいは知識にしたがうて参学するに、無師独悟するなり。無師独悟は、法性の施為(せい)なり」

それもまた、まさしく、「さとり」の究極のところは「法性の施為だ」といっておるのである。そして道元は、その法性とはいかなるものか、いかに考えればよいか。それを、第一には、その抽象性の考え方として語り、第二には、その「如是性(にょぜしょう)」の理解の仕方として説いているのである。いずれも、もっとも説明しがたいところで、かならずしも明快だとはいいがたいが、それも詮ないところであろう。(272~274頁)

■それなのに、すでにこの道をまなぶこと、二十年、三十年と称するものが、法性の話となると、いつも茫然として一生を過ごすというやからがある。あるいは、すでに禅林にあること久しゅうして、曲碌(ろく、石ヘンがない字)にも坐する身であるものが、現に法性の声を聞き、法性のすがたを見ながら、その身心はいつまでも、世のつねの騒がしい窟(あな)のなかで右往左往するのみの徒輩もいる。彼らはいったいどう思っているのかというと、どうやら、いまこの目で見この耳で聞いているこの三界(がい)、もしくは十方世界がぱたりと無くなって、そこであらためて法性というものが現われてくるのだと、そんな具合に思っているらしい。つまり、かの法性とは、いまのこの森羅万象とはちがうのだと思っているらしい。だが、法性の道理はそんなものではありえない。この森羅万象と法性とは、同じか異なるかといったいったものではない。あるいは、別か同じかといったことでもない。それは、過去・現在・未来のことでもない。断とみるか常とみるかということでもない。あるいはまた、人間の認識の問題でもないからして法性なのである。(277頁)

〈注解〉ここに道元は、まず「法性」という概念について開明しようとしている。法性とは、もともと“dharamata”ということばの訳語である。それを見ただけでも知られるように、それは“dharama”(法)に加うるに“ta”をもってして、その抽象形をつくれるものである。それによって、諸法あるいは万法ということばで具体的に存在のありようを表現するのに対して、このことばは、それを抽象的に、存在であること、存在のありよう、乃至は、存在そのものとして表現しているのである。だが、抽象的な思惟や表現がなお未熟であった時代には、それはかなり把握しがたい概念であったにちがいない。それをいま道元は、嚙んで含めるように説明しているのである。

曲木の牀;曲碌(石ヘンのない字、ろく)のこと。僧家の大椅子である。

色受想行識;色受想行識は、たびたびいうように五蘊である。人間をその認識能力によって分析した考え方である。いま法性の道理は、そんな能力に関係したものでもないとするのである。(278頁)

■江西の馬祖こと大(だい)寂禅師はいった。

「一切の衆生は、数かぎりない昔よりこのかた、法性三昧を出たこともない。ながいながい間、法性三昧のなかにひたりきっている。衣服を着、飯を喫するも、人に会って話をするも、あるいは、眼・耳・鼻・舌・身・意をばはたらかせるなど、一切の所為はすべて、ことごとく法性ならざるはない」

馬祖が語る法性は、法性が語る法性である。法性は馬祖と一体であり、馬祖は法性と一体である。だが、そうと聞くからには、わたしもまたいわねばならない。それは法性が馬祖に乗っているのだ。あるいは、人が飯をくらえば、飯が人をくらうというところでもあろうか。ともかく、ひとたび法性に入ってよりここかた、ずっと法性三昧にひたりきっているのである。法性あってよりのち、いまだかって法性をいでず、また、法性ありてより以前にも、かって法性をいでないのである。とするならば、法性はまた無量劫(こう)にして、はじめて法性三昧がありうる。かくて、法性はまた無量劫であるという。

だからして、いまの此処は法性である。法性とはいまの此処のことである。着物を着、飯をくらうことは、法性三昧の着衣であり、喫飯である。衣(え)の法性はここに実現し、飯(はん)の法性はここに実現し、喫飯の法性はここに現われ、着衣の法性はここに成るのである。もしも、着物も着ず、飯もくらわず、人に会っても話もせず、六根をはたらかせることもなく、一切の所為がなかったならば、そこには法性三昧はなく、その人は法性に入らないのである。

しかるに、いまのようなことばが馬祖道一によって語られた。それはもろもろの仏が相伝えて釈迦牟尼仏にいたり、さらにもろもろの祖が正伝して馬祖にいたったのである。仏より仏、祖より祖へと、まさしく伝え、受けわたしてこの法性三昧にいたったのである。諸仏や初祖はなんの立入るところなくても、法性はおのずからにして活潑々地(かっぱつぱつち)として自由にはたらいているのである。(280~281頁)

■また、無量劫などというながいながい歳月も、法性の経めぐりきたれるところ。そして、現在もまた然るのである。しかるに、この身心のことを振り返って、わが身心はこんな小さな果(はか)ないものであるから、とても法性などからは程遠いものであろうと、そんな具合に考えるのも、また法性というものである。つまり、そう考えるも考えぬも、ともに法性である。それを、性というからには、水も流れないはずであり、樹も茂ったり枯れたりするはずはないと、そんな具合にまなぶのは外道というものである。(282頁)

〈注解〉不入にして……;さきに「不出」の句があって、ここに「不入」といったのであろう。その一段は、仏祖が立ち入らずとも、法性がおのずから自由にはたらいているさまをいったものらしい。

水も流通すべからず;古来、性を注釈して「性は不易なり」となす。不易とは変化しないということである。かくて、性というからには、水も流れず、樹に栄枯があってもならない、となるのである。それは無論、仏教の考えではない、外道であるという。(282~283頁)

■釈迦牟尼仏は仰せられたことがある。

「如是相、如是性」

とするならば、花開き、葉落つるは、とりもなおさず如是性である。それなのに、愚かなるものは、「法性の世界には開花も落葉(らくよう)もあるはずはない」と考える。だが、いまのところ、それを他の人に問うてみてはいけない。ここは、なんじの疑問をそのまま肯定文にしてみるがよい。そして、他の人がそういうように真似して、二度も三度も思いめぐらしてみるがよい。そうすれば、ちゃんと向こうから解けてくるだろう。

思うに、これまで考えたことが間違っていたわけではなかった。それはただ判然としなかった時の考えであった。そして、いま判然としたからとて、これまでの考えがもはや駄目だというわけではない。開花落葉は、いまもまさしく開花であり落葉である。それを、法性には花がひらくとか葉が落ちるとか、そんなことはあり得ないと考えたのも、それもまた法性であった。真似をしてみたり、いつの間にか解けてしまった考えであった。だからして、法性らしき思量であった。いったい、法性を思量する思量というものは、ことごとくこのような趣きのものなのである。(284~285頁)

■ところで、馬祖のいうところの「ことごとく法性ならざるはない」とのことばは、なるほどおおむねいい得たことばであるが、なお馬祖としてはまだいわざるところも少なくない。たとえば、「一切の法性は法性を出でず」とはいわなかった。「一切の法性はことごとくこれ法性である」とはいわなかった。あるいは、「一切の衆生は衆生を出でず」とはいわなかった。「一切の衆生は法性の小分である」とはいわなかった。「一切の法性はこれ衆生の半分」ともいわなかった。「半箇の衆生、半箇の法性」ともいわなかった。「無衆生これ法性」ともいわなかった。「法性これ衆生ならず」ともいわなかった。「法性、法性を脱出す」ともいわなかった。「衆生、衆生を脱落す」ともいわなかった。ただ、「衆生は法性三昧を出でず」とのみいった。そして、「法性は衆生三昧を出ることはできない」とはいわなかった。また、法性三昧が衆生三昧に出入するといったことばもない。ましてや、法性が仏となるといったもなく、衆生が法性を悟るといったことばもなく、法性が法性を悟るといったことばもなく、また、無情なるものは法性出でずといったことばもない。

では、ちょっと、馬祖に問うてみよう。――あなたは、いったい、なにをよんで衆生とされるのであるか。もし法性をよんで衆生とするのであったなら、いったい、こんなものがどこから来たのでありましょうか。もしまた、衆生をよんで衆生とするならば、それでは「一つの物をもって説示すれば、すなわち中(あた)らず」というところではないか。さあ、どうでござる。どうでござる。(285~286頁)

陀 羅 尼 (だらに)

■開 題

この巻の奥書もまた、「爾時寛元癸卯、在越州吉峰精舎示衆」とのみ記されてある。寛元癸卯は、いうもでもなく、寛元元年(1243)であるが、その月日はしるされていないのである。だが、そのようなことは、この前後にはなお数例ある。この山中の古精舎に到着してなお日も浅く、道元の身辺はなお多忙であったのでもあろうかと思われる。

ー(中略)ー

いったい、陀羅尼ということばは、一見してすぐ判るであろうように、凡音を音写したものである。その原語は“dharani”であって、保つとか、ささえるとか、あるいはたすけるなどといった意味のことばである。よって、古来また「持」もしくは「能持」あるいは「総持」といった訳語ももちいられている。それによって仏教では、「これを保持することによって、善法を散佚(さんいつ)せしめず、悪法を遮止(しゃし)することを得るもの」、そのようなものをこのことばによって表現するのである。

では、なにを陀羅尼とするか。なにがあればよく善法を散でしめず、悪法を遮することができるか。それは、必ずしも一つにして止まらないのであって、古来、あるいは「三陀羅尼」がかたられ、あるいは「四陀羅尼」が数えられてきた。いま、その一例として四種陀羅尼をあげていえば、

1 聞陀羅尼 教法を聞持して忘れざるをいう。

2 義陀羅尼 法の義において忘失せざるをいう。

3 咒陀羅尼 咒文(じゅもん)において憶持して忘失せざるをいう。

4 忍陀羅尼 教法において忍可決定(けつじょう)してもはや動ぜざるをいう。

教法を聞いて忘れないとか、その義理をよく理解するとか、あるいは、教法を受けて安住するとか、そのようなことが陀羅尼すなわち仏教者を支持するものであることは、誰でもすぐ理解しうるところである。また、咒(じゅ)すなわち聖句を秘密語として記憶することも、また、密教などにおいて陀羅尼とされていることは、ひろく一般にも知られているところであろう。

しかるに、いま、道元がこの巻において説くところは、それらのいずれでもないのである。道元がここに「陀羅尼」として語っているものは、なんと焼香礼拝である。道元はいう。

「いはゆる大陀羅尼は、人事これなり。……その人事は、焼香礼拝なり」

さまざまの陀羅尼があるなかにおいて、もっとも大いなる陀羅尼はなんであるか。それは人事であるという。人事とは、一般に世におこなわれている人間の関係をいうことばであるが、それは仏教においては、師と弟子との間の関係であり、それをさらにクローズ・アップすれば、それは弟子がその師にまみえて焼香し礼拝するその瞬間にきわまるとする。

かくて道元は、この巻において、ただ焼香を語り、礼拝を語って、詳細をきわめる。そのなかにおいても、わたしにとっては、まことに平凡ではあるけれども、

「おほよそ礼拝の住世せるとき、仏法住世す。礼拝もしかくれぬれば、仏法滅するなり」

という道元のことばが、はなはだ印象的で、忘れられない。(290~292頁)

■参学の眼のあきらかなるものは、正法をみる眼もあきらかである。また、正法をみる眼があきらかであるから、誰についてまなぶべきかをみる眼もあきらかなることを得るのである。この急処の鍵を正伝することは、どうしても大善知識にまみえなければ能わぬところである。それが大事なところであり、大いなる陀羅尼というものである。そのいうところの大善知識とは、仏祖にほかならない。かならずその身辺にかしずいて恪(つつ)しみ勤めるがよい。(295~296頁)

■そのほか、師の教えを頂くたびにもまた礼拝する。なにかのいわれをお訊ねしようとするにもまた礼拝する。そのむかし二祖慧可がその所見を初祖達磨に申しのべた時に三たび礼拝したのもそれである。仏法のぎりぎりの消息について語るのであるから三拝したのである。それによっても判るように、礼拝はすなはち正法の眼目の存するところであり、正法の眼目はすなわち大いなる陀羅尼である。(298~299頁)

■いったい、礼拝が世に行なわれるとき、仏法が世に行なわれる。もし礼拝がなくなったら、そのとき仏法はほろびるのである。(299頁)

洗 面 (せんめん)

■開 題

この一巻の奥書にしるすところによれば、この巻は、すくなくとも、三たびにわたって衆に示されたことが知られる。つぎのようである。

1 延応(えんおう)元年(1239)十月二十三日、観音導利興聖宝林寺において衆に示された。

2 寛元(かんげん)元年(1243)十月二十日、越前山中の吉峰(よしみね)寺において衆に示された。

3 建長(けんちょう)二年(1250)正月十一日、吉祥山(きちじょうざん)永平寺において衆に示された。

そのようなことは、他にその例をみないことであるが、それはいったい、どうしたということであろうか。それについては、かって、わたし自身が、この「洗面」の巻や、あるいは、「洗浄」の巻についてもった素朴な疑問のことを、そのまま率直に打ち明けて申し上げてみたいと思う。

きっと、同感の意を表してくださる方もあるにちがいないが、いまからほぼ五十年もまえのころ、初めてこの『正法眼蔵』の巻々に親しみはじめたころ、わたしにとっては、そのなかに「洗面」の巻とか、「洗浄」の巻とかいったものが介在していることが、はなはだ異様に感ぜられたのである。つまり、「現成公案」の巻とか、「仏性」の巻とかいった、いわゆる高度の哲学的もしくは宗教的ね主題を扱った巻々のあいだに、あるいは顔を洗うこととか、あるいは大小便の仕方といった主題を扱った巻々が介在するのが、どういうことであるのか、容易に理解することができなかったのである。

いまから考えてみると、まことに迂闊なことであった。そんなことは、すでにそれぞれの巻々にちゃんと説明してあったのである。「洗浄」の巻の冒頭には、ずばりと一句、

「仏祖の護持しきたれる修証あり。いはゆる不染汗(ふぜんま)なり」

とあって、南嶽と六祖のよく知られた問答が挙げられている。また、「洗面」の巻では、これもまた冒頭に、『法華経(ほけきょう)』安楽行品(ぎょうほん)の、

「以油塗身(いゆずしん)、澡浴塵穢(そうよくじんえ)、著新浄衣(じゃくしんじょうえ)、内外倶淨(ないげぐじょう)」

との一句が打ち出され、そして、

「内外倶淨なるとき、依(え)報正報清淨なり」

と説明されている。その時、その住む世界も、わが身心も、ことごとく清浄なのであるというのである。

そのいうところは、詮ずるところ、これが仏教だというのである。「洗浄」の巻のことばをもっていえば、「いはゆる不染汗」である。「洗面」の引用する句によるなれば、いうところの「内外倶淨」である。それを措(お)いて、他に仏教などというものはありえないとするのである。「不染汗」とは清浄ということである。「内外倶淨」とは、内も外もともに清浄だということである。そのことの実現をほかにして、どこに仏教などというものがあろうかとするのである。

そして、道元は、興聖寺において『正法眼蔵』の巻々を衆に示しはじめてからまもなくのころ、延応元年(1239)の十月二十三日に、はじめてこの「洗面」の巻を衆に示している。その時には、いまもいう「洗浄」の巻もまた、同じ日に示されたことが知られる。

そして、その第二回目の示衆は、越前の山中に入られてからまもなく、寛元元年(1243)の十月二十日に行なわれた。その時には、さきの草稿に手を入れ、かつ、巻末に加筆するところがあった。ここに訳出したのは、その草稿の写本と考えられるものである。

さらに、第三回目の示衆は、吉祥山(きちじょうざん)永平寺において行なわれたとある。永平寺の成立は寛元四年(1246)六月十五日のことで、それより以前に成立していた大仏寺を改称したのであるが、よく気をつけてみると、永平寺になってからの示衆はあまり多からず、建長二年(1250)正月十一日の、この「洗面」の巻の示衆は、今日わたしどもが知りうるかぎりの最後のそれであったように思われる。そこには、道元がこの一巻にかけた執念のようなものが感ぜられてならない。(312~314頁)

■『梵網菩薩戒経』にいう。

「なんじ仏子たるものは、まさに二時において頭陀を行じ、冬と夏に坐禅し、また雨期に安居するがよい。また、つねに、楊枝・洗い粉・三衣・瓶鉢・坐具・錫杖(しゃくじょう)・香炉・漉水嚢(ろくすいのう)・手巾(しゅきん)・火燧石・毛抜き・縄床・経律・仏像・菩薩形像を用うるがよい。そして、頭陀を行ずる時、および諸方に遊行(ゆぎょう)する時、たとい百里千里を行き来しようとも、この十八種のものは、つねにその身に携えるがよい。頭陀は、正月十五日より三月十五日にいたり、また八月十五日より十月十五日にいたる。この二時中においても、この十八種のものは、つねにその身に随(したが)えること、鳥の両翼のごとくするがよい」

この十八種の物は、一つも欠くことができない。もし一つでも欠ければ、鳥の一翼のおちたようなものである。他の一翼がのこっていても、飛ぶことはできまい。鳥道をゆく縁にあうことはできまい。そして、菩薩もまた同じことである。この十八種の羽翼がそなわらなければ、菩薩の道を行ずることはできない。そして、その十八種のなかで、楊枝はすでにその第一におかれている。まず最初に具えるべきである。だから、この楊枝の用い方をよく知っているものこそ、すなわち仏法をよく知れる仏道の修行者であろう。そんなことはまるで知らんなどというものは、仏法はまだ夢にも見たことがないというやからであろう。だからして、楊枝にまみえることにほかならない。と申さば、あるいは人あって、その意味はどういうことだというかも知れない。その時には、「さいわいにして、永平老師の楊枝を噛むにお値(あ)いしたよ」と答えるがよい。(342~343頁)

面 授 ( めんじゅ)

■開 題

この一巻が制作され、そして衆に示されたのは、寛元元年(1243)の十月二十日のこと、場所はなお越前山中の古精舎、吉峰寺においてのことと知られる。だが、巻末の数紙は、あきらかに、その示衆(じしゅ)のことが終わってのちに、さらに付加されたものである。奥書があって、さらにその数紙が描き加えられていることがあきらかにそのことを物語っている。その付加がなされたのは、その示衆があってから程遠からぬころのことと推察される。それは、写本の一本に、その翌年六月のころ、懐奘がそれを書写した旨がしるされており、それには、その付加の部分もふくまれているからである。

それはともあれ、この一巻において、道元が語らんとするちころはなんであるか。思うに、面授ということばは、これまでにもすでに、道元がしばしば語りかつ記してきたところである。しかるに、このことばは、ご覧のとおり、その字づらが判りやすい。おお、それは、面(かお)と面とを向けあって授けまた受けることだなあと、誰にもすぐ理解することができる。だが、よくよく考えてみると、それは、いったい、誰が誰になにを面授するのか、あるいは、その面授によっていかなる功徳が生ずるのであるか。それらの細かなことになると、一向に判ってはいないのである。そして、いま、道元がこの一巻において語ろうとするところは、面授についてのそうした奥ふかいところのことであると知られるのである。

かくて、道元は、まず経のことばを引いて、かの霊鷲山(りょうじゅせん)上の集会において、釈迦牟尼仏が、拈華微(み)笑のなかに正法眼蔵・涅槃妙心を摩訶迦葉に面授した消息を語りいでる。それが面授の原型であるとするのである。そして、いう。そこは現代語訳をもっていえばこうである。

「けだし、迦葉尊者はしたしく世尊の面授をうけたのである。その心をもって受け、その身をもって受け、その眼をもってその面授を頂戴(ちょうだい)したのである。つまり、釈迦牟尼仏を供養し、敬をいたし、礼拝して目(ま)みえたてまつったのである。それによって迦葉尊者は、身もくだけ、骨もくだけて、もはやまったく新しくなった。自己のこれまでの面目は、もはやわが面目ではない。彼は如来の面目をじきじきに頂戴したのである」

つまり、それは、人が誰からかなにものかをじきじきに授ける受けるといったこととは、まったくその類を異にするのである。そこで授受せられるものは仏祖の面目である。それが仏の面前、祖の面前にあって、じきじきに授けられるのである。授けるものは仏祖、受けるものは仏祖たるべき人、そして、授受せられるものは仏祖の面目である。それによって、その人は身心まったくあらたまって、如来の面目を有するものとなるのである。

したがって、当然、面授のもつ意味ははなはだ大きく、また、その功徳はきわめて大きい。道元は、なおそれらのことに説きいたったのち、さらに、さきにもいった付加の部分においては、薦福寺(せんぷくじ)の承古(じょうこ)禅師なるもののことばを取り上げて批判しておる。承古は雲門大師の法を嗣ぐものと自称しているのであるが、彼は雲門大師がなくなってからおよそ百年のころの人物である。つまり、彼は面授によらずして嗣法を称している。それに対する道元の批判は、例によって手きびしいが、そのなかでも、つぎの一句がはなはだ印象的である。いわく、

「七仏諸仏の過去・現在・未来に、いづれの仏祖か師資(しし)相見(しょうけん)せざるに嗣(し)法せる」

それによっても、面授のおもき意味がうかがえるというものであろう。(356~358頁)

■わたくし道元は、大宋の宝慶(きょう)元年(1225)乙酉(きのととり)五月一日、はじめて先師なる天童如浄古仏を妙高台において焼香し礼拝した。先師古仏はその時はじめて道元を見たのである。その時、先師古仏は手ずからじきじきに授けたもうて、これで仏々祖々の面授のことは成ったのだよと仰せられた。それはとりもなおさず、霊山(りょうぜん)の拈華(ねんげ)にほかならず、嵩山(すうざん)の得髄にほかならず、また黄梅山(おうばいざん)の伝衣(え)にほかならず、洞山(とうざん)の面授にほかならぬものである。つまり、仏祖が正法の眼目をじきじきに授けたもうたのである。このことは、ただわが家門のうちにのみあって、余人はまったく夢にもいまだ見聞せざるところである。(361頁)

■そのようにして、代々の祖師がたは、いつも、弟子は師にまみえ、師は弟子をみそなわして、じきじき授受してきたのである。一祖としても、一師一弟としても、もしたがいに相まみえて授受しなかったならば、それは仏でもなく祖でもない。水はことごとく大海にそそぐ、そのようにこの教えを栄えしめる、あるいは、燈を伝えつたえるがごとく、この法に永遠の光明をあらしめる。それにはいろいろさまざまの法があろうけれども、つまるところは、本(もと)と枝とが一本でなくてはならない。また、鶏の卵のまさに孵化せんとするにあたっては、殻のなかで啼く声と、母鶏の殻を啄(つつ)くのがぴたりと相応じなくてはならない。そのような好機をのがさず捉えねばならないのである。(362頁)

〈注解〉啐啄;啐は呼ぶである。まさに孵化せんとする卵のなかの雛の啼く声である。啄はつつくである。母鶏が外から殻をつついて破るのである。その啐と啄とが相応じて、はじめて孵化のことがなる。その機を逸せぬことを迅機の語をもって表現しているのである。(364頁)

■釈迦牟尼仏はかたじけなくも、迦葉尊者に面授し付属するにあたっては、「われに正法眼蔵あり、これを摩訶迦葉に付属する」と仰せられた。また、嵩山(すうざん)の集会にあっては、菩提達磨尊者は、まさしく二祖慧可にしめして、「汝はわが髄を得たり」との仰せであった。それでもよく判るではないか。正法の眼目を授け、わが髄を得しめるのは、ただこの面授によるのである。まさにその時におよんで、なんじがこれまでの骨髄を抜けきったとき、仏祖がなんじに面授したもうのである。それは大悟を面授するのであり、心印を面授するのであるが、それは一部の特別のことである。すべてを尽くしたというわけではない。まだ悟らないことについては、かならずしもかかわらないのである。

おおよそ仏祖の大道においては、ただ面授と面授のみである。面(おもて)に受け、面に授けるのみである。そのほかには、なんの余計なものもなく、それで欠くるところもない。そのような面授をいただくことができた自己の面目というものも、また大いに歓び、また大事にしなければならない。(374~375頁)

■承古よ、いまなんじは雲門大師を知り、また雲門大師を見るという。たとい、そのことは許すとしても、いったい、雲門大師はまのあたりになんじを見たのであろうかどうか。もし雲門大師がなんじを見なかったならば、なんじは雲門大師を嗣ぐとはいうことを得ないであろう。それは、雲門大師がまだなんじを許していないことであるから、なんじもまた、雲門大師がわたしを見させたもうたとはいわなかった。それでも判るではないか。なんじはいまだ雲門大師と相見(あいまみ)えたことはないということが。(380~381頁)

坐 禅 儀 (ざぜんぎ)

■そのようにぴたりと坐って、かの不思量のところを思量するのである。では、不思量のところを、どのように思量すべきか。それはもはや思量ではない。それがとりもなおさず坐禅のこつである。

坐禅とは、禅定(じょう)を修することではない。それは大安楽の法門であり、絶対の修行なのである。(392頁)

渓声余韻5(岡野注;増谷文雄のあとがき)

■わたしは、いぜんから考えているのだが、宗教者の動機というものは、どういう具合に追求したならばよいものであろうか。たとえば、親鸞は、関東二十年の念仏教化のことをやめて、久々に京都に帰ってきた。おおよそ嘉禎元年(1235)のころのことであるが、いったい、親鸞はどうしてここで念仏教化のことををやめて、京都に帰ってきたのであろうか。それについては、まだ研究者たちのあいだに定説というものはない。

なかには、あたかもそのころ、念仏弾圧のうごきが顕著になってきたからであると、そんなことをいう研究者もあるようであるが、わたしには、とてもそんなことは考えられないのである。もしそうであったとするならば、親鸞という人は、自分がすすめて念仏申させた人々が、いざ弾圧されるという段になると、さっさと京都に帰ってしまったということになるではないか。そんなことがあってたまるものかとわたしは思う。どうも、宗教者の行動の動機というものは、一般人の寸法では捉えがたいらしい。そこは、もうすこし内なる深きところの動きを訪ねてみなければならないようである。

いま、道元は、おおよそ十年にわたって築いてきた興聖宝林寺を、弊履のように捨てさって、越前山中の古寺に入った。その間の消息については、簡単ながら、『建撕記』の筆者のいうところをもって記しておいた。事の次第はそうであったにちがいあるまい。またそこには、「我が望むところは安閑無事なり」とて、その心の一端をも開示されている。だが、それにもかかわらず、この越前行の動機は、なお大きな疑問として、はやくから、いろいろとろんぜられている。

わたしもまた、はやいころから、そのことを疑問として、道元の内なる心のふかきところに注目していたのであるが、まず、気がついたことは、その前後、ちまり、越前行の前後に、道元の内なる思想にいちじるしい展開が観取せられるということである。それをいま、この『正法眼蔵』の巻々について指摘するならば、さきに現代語訳した「仏教」の巻、そして、いまここに現代語訳した「仏道」の巻と「仏経」の巻をご覧になっていただきたいと思う。(396~398頁)

■それらの三巻が、それぞれ制作され、かつ衆に示された時日を列記すれば、つぎのようである。

1「仏教」仁治二年(1241)十一月十四日、興聖宝林寺において衆に示された。

2「仏道」寛元元年(1243)九月十六日、越前の吉峰寺において衆に示された。

3「仏経」寛元元年(1243)九月(日付なし)、越前の吉峰寺において衆に示された。

つまり、道元の越前行は寛元元年七月のことだからであるから、それらの三巻はそれぞれその前後三年ばかりの間における制作・示衆であると知られる。

しかるところ、それらの三巻は、すでにそれぞれの巻題が示唆しておるように、いずれも真正面から道元の仏教論を吐露したものであるが、その内容はまことに注目すべきものをもって充たされている。そのことは、すでにそれぞれの巻の開題において触れたところであるが、いま、もう一度、それらの要点を並べ記してみると、つぎのようである。

まず、最初の「仏教」の巻の内容は、ずばりといえば、いわゆる「教外別伝」の主張を「謬説(びゅうせつ)」なりとして却(しりぞ)けるものである。誰もよく知るように、「教外別伝」とは、禅門のよってなる根本の主張であるように考えられている。そして、道元その人は、その門にまなんだ仏祖の眼睛(ぜい)を正(しょう)伝せられた人として立っている。その人がいまここに、

「しかあれども、教外別伝を道取する漢、いまだこの意旨をしらず。かるがゆゑに、教外別伝の謬説を信じて仏教をあやまることなかれ」

といい、また、

「おほよそしるべし、三乗十二分経等は仏祖の眼睛なり。これを開眼せざらんもの、いかでか仏祖の児孫ならん」

という。いったい、どうしたことかといわざるをえないではないか。

しかるに、道元は、さらに「仏道」の巻においては、「禅宗」の称を否定する。いや、「禅宗」の称のみならず、雲門宗・法眼宗・潙仰宗・臨済宗・曹洞宗など、いわゆる五家の別などを立てることをも、きっぱりと否定しているのである。なかでも、わたしは、

「仏仏正伝の大道を、ことさら禅宗と称するともがら、仏道は未夢見在なり、未夢聞在なり、未夢伝在なり。……しるべし、禅宗の称は、魔波旬の称するなり」

という一節を忘れることができない。

また、「仏経」の巻は、その巻頭からも容易に想像できるように、仏教者にとっては、経巻が不可欠の「大道の調度」であることを力説したものである。しかるに、世の禅家を名告(なの)る人々には、ともすれば「みだりに仏経をさみす」るものがおおい。道元はそれらを断乎として却けていう。

「もし仏経なげすつべくば、臨済・雲門をもなげすつべし。仏経もしもちゐるべからずば、のむべき水もなし、くむべき杓(しゃく)もなし」

「しかあればすなはち、仏道にさだめて仏経あることをしり、広文深義を山海に参学して、弁道の標準とすべきなり」

そこにもまた、禅門にあっては容易に聞きがたいものが打ち出されている。だからといって、それで、さきにいう越前行の秘密が解けるわけではない。わたしのいまいわんとするところは、ただ、ここにもまた道元の内なる思想にいちじるしい展開があったというだけのことである。そして、その越前行の秘密については、さらに重ねて申さねばならないことがあるのである。(398~400頁)

(2016年5月14日)

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『正法眼蔵(6)増谷文雄 全訳注 講談社学術文庫

梅 華(ばいか)

■開 題

この一巻が制作されたのは、、仁治四年(1243)十一月六日とある。ただし、仁治四年はその二月二十六日をもって改元されて寛元元年となったのであるから、まことは寛元元年は仲冬(ちゅうとう)十一月六日のこととしられる。異本に寛元元年とあるのは、それを訂(ただ)して書写したものであろう。

また、この一巻には、どこにも示衆のことは記されていない。そして、奥書の日付につづいて、若干の付加せられた余録がみえる。おそらくは、示衆のことなきままに、さらに書き加えられたものであろう。

さて、この一巻を繙(ひもと)いて、まず思い出されることは、かの『如浄和尚語録』の到来のことでなくてはならない。その到来は、かの『建撕(ぜい)記』によれば、仁治三年(1242)の八月五日であったという。また、その翌六日には、法堂(はっとう)にいでまして、その語録を捧じ、香を薫じて、

「箇是天童ボッ跳、蹈翻(とうほん)東海龍魚驚」(こはこれ天童、ボッ跳を打ち、東海に蹈翻して龍魚おどろく)

という一句を中心とした法語を示したこともある。それは、いまこの『正法眼蔵』についてみても、『如浄和尚語録』上下二巻からの引用が、さきの「夢中説夢」の巻(仁治三年九月二十一日、興聖宝林寺にありて衆に示す)より以前の制作には見当たらないことによっても首肯されるところである。

(念のために申せば、『天童山景徳寺如淨禅師続語録』の巻末の跋に、道元みずから記して「今日本仁治二年歳次辛丑二月中旬、瑞巌遠公遥送此録付、頂載奉献五体投地」とあるのは、瑞巌寺の無外義遠がみずから編するところのその続語録を送ってきたものと知られる)

いま、その到来直後の法語をつくづくと案じてみると、そこにはただならぬ道元の感銘がこめられている。如浄がなくなられたのは紹定二年(1229)、道元が告暇(こくか)したした翌々年のことであった。それから指折りかぞえてみると、すでに今年は十三年目になる。その間にも、かの先師のことを思い出さぬ日とては一日もなかったであろう。だが、こうやって、この語録に接してみると、かの先師の印象はもう一度、鮮烈に蘇ってくる。それをいまここに道元は、天童山の大魚がぱっと跳(は)ねて、東海の龍魚があっと驚いているというのである。

かくて道元は、幾度となくその語録をむさぼり読んだにちがいない。そのしるしには、この『正法眼蔵』においても、それ以後、その語録からの引用がしきりと行なわれる。そして、この「梅華」の巻においては、ほとんどその全巻がその引用と解説をもってみたされているのである。

では、いったい、天童如浄という方は、どのような方であったのか。その印象は、どうやら、はなはだ摑みがたいものであったように思われる。その語録の後記にも、

「温然如天球、樸然似生鉄、只応宝愛、不堪咬嚼](温然天球のごとく、樸然生鉄に似たり、と見えている。したがって、わたしどもにはとても歯がたたない。とてもその印象を語ることなどはできないところであるが、いまその語録によってわたしにもいいうることの一つは、その方はたいへん梅華が好きであられたらしく、それがまた相応(ふさ)わしい方であったらしいからである。

そして、いま道元もまた、八たびにおよんで、先師如浄が梅華にちなんで説きたもうた垂示もしくは偈頌(げじゅ)を引用して、この一巻を構成しているのである。それによって道元が説示しようとするのは、仏祖の眼睛そのもののおもむきであるが、それはもうこの「梅華」一巻にゆだねるのほかはあるまい。(16~18頁)

■〈注解〉華開世界起;第二十七祖般若多羅の偈句であって、道元のたいへん珍重するところであったらしい。(21頁)

■先師なる如浄古仏は、また、よういに僧たちがその禅院に入ることをも許したまわなかった。つねづねに仰せには、「道心もないくせに雲水づらをした奴は、わしのところには入れるものか」と、そういって逐(お)い出したものである。逐い出してしまうと、「その分際でもないのに、いったい、どうしようとぬかすのだ。あんな犬は人さわがせするだけだ。掛搭(かた)しかるべからず」と仰せられた。

わたしは、それを目(ま)のあたりに見、また目のあたりに聞いた。そして、ひそかに思ったことは、彼らはいったい、いかなる罪根があって、この国の人に生まれながらも、この禅院にとどまることを許されないのか、ということであった。また、それなのに、わたしはなんの幸いがあってか、とおい外国の生まれでありながら、この禅院にとどまることを許されたのみならず、自由にお部屋に出入して、尊顔を礼拝し、お話を拝聴することもできる。これはいったい、どうしたことであろうか、ということであった。それは、思うに、われ暗愚なりとはいえ、なにか空しからぬよき縁(えにし)のしからしむるところがあってのことと考えるのほかはあるまい。

先師がなお世にあって宋朝の人々を教化しておられたころにも、なおそのもとに参じて道を得たものがあり、また得なかった人もあった。しかるに、先師なる古仏はすでにこの世を去りたもうた。いまやこの世は暗夜よりもくらいと申さねばなるまい。何故であるか。それは、先師なる古仏の前後には、先師のような古仏はないからである。だから、そういうのである。

だからして、いまこの先師古仏の説きたもうたところを見聞する後学は考えるがよろしい。ほかの諸方の人々も、これとおなじような教えを見聞し、参学することができるであろうと思うならば、それはとんでもない間違いである。いま先師古仏が申される雪のなかの梅華というような垂示は、まったく比類を絶した稀有の教えである。われらは日ごろ、いくたびとなく雪中に梅華のひらくを見ているけれども、それがわが仏なる釈迦牟尼如来の瞬目であろうなどとは気もつかないで、ただぼんやりと破顔の機を逸してきたことであろう。だが、いまやすでに先師古仏は雪のなかの梅華を、これぞ如来の眼睛であると正伝せられ、われらはそれを拝承した。いまや、それを思いめぐらして頂門の眼となし、眼中の瞳となすがよろしい。さらに梅華に到って梅華を究めつこせば、もはや疑う余地はまったくないであろう。ここにいたって、これを天上天下ただわれ独りたつとき眼睛、諸仏諸菩薩のなかの最尊なりと知ることをうるであろう。(25~26頁)

■まことに、かの老いたる世尊の光明は、もろもろの存在のあるがままの相(すがた)を究めつくして、もはや一微塵ほどのあますところもない。思うに人間界の住みびとと天上界の住みびととでは、その見るところに別があり、また、凡人と聖者とでは、その思うところはとおく相隔(へだ)たっているであろう。だが、大地は漫々たる雪におおわれており、雪は漫々として天地をおおいつくしている。この雪の漫々たる表裏のまろやかなるさま、それが老いたる世尊の眼睛にほかならない。

知るがよい、華も地もことごとく生滅を超えたるものである。華は生滅を超えている。華が生滅を超えているから、地もまた生滅を超えているのである。華も地もことごとく生滅を超えているから、眼睛もまた生滅を超えている。生滅を超えているというのは、無上のさとりのことである。まさにかくのごとしと知ったときには、梅華はただ一枝である。それをことばに表現していうならば、雪中に一枝の梅華がかおるとなる。その時、地生じ華もまた生ずる。

これをさらに雪漫々たりというのは、その時表も裏もことごとく雪漫々たることである。世界はことごとく心なる大地である。ことごとくの世界は華という思いである。世界がことごとく華という思いであるから、全世界は梅華にほかならぬ。全世界が梅華であるから、全世界はまた世尊の眼睛である。いまその到る処は、山(せん)河大地である。その事の到り、その時の到れば、すべて「われもとこの土に来るは、法を伝え迷情を救うにあり、一華は五葉を開き、結果は自然にして成る」というあのことばが到る処に実現するであろう。西(せい)来といい、東漸(とうぜん)ということばもあるが、それもまた梅華のいまにして到ることにほかならない。(31~32頁)

〈注解〉五眼;肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼の五つをあげて五眼となす。

十 方(じっぽう)

■開 題

この「十巻」の巻が制作せられ、そして衆に示されたのは、寛元元年(1243)十一月十三日とある。それはむろん陰暦のことであるから、もう冬も酣(たけなわ)のことであるはずだと、ふと気がついて検べてみると、この一巻の示衆(じしゅ)は、この年、吉峰(よしみね)精舎において行なわれた最後のそれであった。そして、それから以後の示衆は、その翌年の二月中旬にいたるまで、禅師峰(やましぶ)山下の草庵において行なわれる。おそらくは、雪のために徃来も思うにまかせないようになったからであろうと察せられる。

さて、この一巻は、さして長いものではないが、そのなかには、おおよそつぎのような三つのことが説かれている。

その第一には、道元はまず、『法華経』方便品(ぼん)の「十方仏土中、唯有一乗法」の文をひいて、

「いはゆる十方は、仏土を把来(はらい)してこれをなせり。このゆゑに、仏土を拈来(ねんらい)せざれば、十方いまだあらざるなり」

という。では、いったい、それはどういうことであるか。静かに思いめぐらしてみると、それは、どうやら、叡智(えいち)の世界のことであり、抽象の世界のことであるといっておるのである。むろん、かの時代には、抽象という概念はない。そんな時には、道元はいつも、こんな具合に表現するのがならいである。

「有にあらず無にあらず、自にあらず他にあらず。離四句(りしく)なり、絶百非(ぜつひゃっぴ)なり。ただこれ十方なるのみなり、仏土なるのみなり」

その第二には、道元はついで、長沙景岑(ちょうしゃけいしん)禅師の有名なる垂示をあげて語る。そこには、つぎつぎと、つぎのようなことばが取りあげられ、解説が加えられている。たとえば、

「尽十法界、是沙門一隻眼」(尽十方界は、これ沙門の一隻眼なり)

とか、

「尽十法界、是自己光明」(尽十方界は、これ自己の光明なり)

とか、あるいは、

「尽十法界、無一人自己」(尽十方界は、一人として自己ならざるものなし)

というがごとき句である。おそらく、それらの句々の解説が、この巻の中心なのであろうが、それがまた難解にして容易に理解しがたい。だが、ふと気がついてみると、いまもいうように、道元は十法界とは、叡智の世界であり、抽象の世界であるといっておる。とするならば、尽十方界とは、沙門の一隻眼だといい、自己の光明にほかならずといい、あるいは、それは自己をおいてあり得ざるものだという意味が、朗然として解けてくるではないか。

そして、その第三には、玄沙師備の「尽十方界、是一顆明珠」(尽十方界は、これ一顆の明珠なり)という一句がとりあげられる。それはもうきわめて有名な句であって、古来から仏祖たちはそれを依処とし、雲水たちはそれを修行の衣糧としてきたものである。さればにや、道元もまたこの『正法眼蔵』のなかにおいて、すでにはやく「一顆明珠」の巻を制作して衆に示されたことであった。そこには、なお若かりし道元が、力をつくし心をこめてつづった詳細なる解説もある。もう一度ひるがえって披見し参照されたい。(52~54頁)

■にぎりこぶし一つ、ただそれが十方のすがたである。あるいは、一片の赤心、それが玲瓏として十方世界である。わが骨髄までしぼり出して、もはやあますところもないのである。

釈迦牟尼仏は、大衆に告げて仰せられたもうた。

「十方の仏土のなかに、ただ一乗の法がある」

いうところの十方とは、仏土をとりあげていうのである。だからして、仏土を捉えずしては、十方はまだあり得ないのである。それは仏土であるからして、仏をもってその主となす。たとえば、この娑婆世界は釈迦牟尼仏の国土であるというがごとくである。では、まずこの娑婆世界をとりあげて、それにもいろいろとあることを心にとめて、さて十方仏土もまたさまざまであることをまなぶがよろしい。

つまり、この十方は一方に帰する。あるいは、一仏に帰する。そこが十方が現ずるのである。十方が一方であり、この方であり、わが方であり、あるいは、わがいま立つ方であるがゆえに、それはまた、眼睛(がんぜい)のあるところであり、拳頭のあるところであり、露柱(ろしゅ)・燈籠のあるところである。そのような十方の仏土にすむ十方の仏たちは、いまだ大にあらず小にあらず、あるいは、なお淨でも穢(え)でもない。だから、十方の仏土の仏と仏たちは、たがいに讃(ほ)め称(たた)えて、けっして、非難しおうて、その長所短所を語り、あるいは好きだ嫌いだというようなことはない。そんなことを転法輪だの、説法だのとは思っていない。彼らはただ、たがいに諸仏となり、仏子となって、あるいは助言をあたえ、あるいは、御機嫌いかがと問い申すのである。

仏祖の国土のことを承るには、このようにまなぶのである。外道・悪魔のともがらのように、是非を批判し、そしり辱(はずか)しめるようなことはないのである。いま中国に伝わっている仏教経典を披見(ひけん)して、釈迦牟尼仏が生涯の教化のことを窺(うかが)いみるに、釈迦牟尼仏はいまだかつて、余地の仏たちの勝劣を説いたこともなく、また、余処の仏たちは仏にあらずなどと語ったこともない。おおよそ一代の説法のなかには、仏たちがたがいに是非を論ずるような仏語はどこにもみえないし、また余地の仏たちが釈迦牟尼仏を批判するようなことばもまったく伝わっていない。だからして、釈迦牟尼仏は、大衆に告げて仰せられた。

「ただわたしだけがこの相を知っている。そして十方の仏たちもまたそうなのである」

知るがよい。「ただわたしだけがこの相を知る」というその相は、いうなれば杖をもって空中に円相を描くようなものである。その円相は、この竿はどうしてこんなに長い、あの竿はどうしてあんなに短いといったところで、その形はいろいろあっても、みんなおなじである。それとおなじように、十方の仏たちのことばも、詮ずるところ、「ただわたしだけがこの相を知る」ということ。そして、釈迦牟尼仏もまたそうだという。それをいま、釈迦牟尼仏の側からいえば、「ただわれのみこの相を悟る。それぞれの仏たちもまた然り」である。つまるところ、我というも、知るというも、これというも、あるいは、一切というも、十方というも、また、娑婆世界も、釈迦牟尼仏も、みんなおなじく一円相なのである。

そのいう意味は、それがすなわち経典だとまなぶがよいというのである。諸仏と仏土とは、二つの別のものではない。さらにいえば、それは、生あるものでも、生なきものでもない。迷いでもなければ、悟りでもない。善でも、悪でも、また無記でもない。淨でもなく、穢でもない。あるいは、成(じょう)・住・壊(え)・空のいずれに属するものでもない。常でもなければ、無常でもない。有でもなければ、無でもない。自でもなくして、また他でもない。すなわち、四句の分別をはなれ、あらゆる否定(非)を絶しているのである。それはただ十方であるのみであり、仏の世界なのである。とするならば、その十方とは、頭があって尻尾のない奴らしい。(56~58頁)

見 仏(けんぶつ)

■釈迦牟尼仏は、大衆に告げて仰せられた。

「もし仏にもろもろの相あることと、仏にもろもろの相なきことを見るならば、とりもなおさず、それが如来にまみえるというものである」

いまいうところの仏の諸相を見ることと、仏の諸相にはあらぬことと、この二つがならびそろうて、それではじめてすっきりと体得できるというものである。だから、それを如来にまみえるというのだという。また、この仏を見る眼がすでにぱっと見開かれたことを見仏とするのである。あるいは、この仏を見る眼のはたらきが、それがすなわち、仏法を参学する眼にほかならない。いったい、自己なる仏をかなたに見るということと、彼方なる仏のほかに自己なる仏を見るということは、それは別々のことのように思われるけれども、いまいう見仏をまなぶことと、見仏がわかって肯(うべ)なうことと、もはや見仏を超越してしまうことと、あるいは見仏を活かしていろいろと用いることなど、それらは結局するところ、おなじことを別の光のもとで見ているだけのことである。それらは、つまり、いろいろの面から、いろいろの身、いろいろの心、いろいろの眼で見ている見仏である。いまにしてわれらが行ずる発心も、修行も、証悟も、すべてこの見仏のなかにあって、眼睛をいかし、骨髄をいかしているのにほかならない。とするならば、ここもかしこも、これもあれも、すべてが見仏のいとなみだといってよかろう。(75~76頁)

●原 文

菩薩道といふは、吾亦(えき)如是、汝亦如是なり。(83頁)

■菩薩道というは、「われもまたかくのごとし。汝もまたかくのごとし」である。(84頁)

■釈迦牟尼仏は、普賢菩薩に告げて仰せられた。

「もしこの法華経を受持し、読誦(どくじゅ)し、正(しょう)憶念し、修習し、書写する者あらば、当(まさ)に知るべし、この人はすなわち釈迦牟尼仏を見たてまつるなり、仏の御口よりこの経典を聞くが如くならん」

おおよそすべての仏たちは、釈迦牟尼仏を見、釈迦牟尼仏となるのをこそ、成仏といい、また作仏(さぶつ)というのである。そのようなことは、もとはといえば、いまいうところの七つの箇条をいとなむことによって得るのである。その七種のことを行ずる人こそ、まさにその人と知るべきであり、まさしくその当人なのである。それは、とりもなおさず、釈迦牟尼仏を見たてまつるであるから、また、したしく仏の口からこの経典を聞くようなものである。

そもそも、釈迦牟尼仏という方は、釈迦牟尼仏を見たてまつってから、はじめて釈迦牟尼仏にましまされる。だからして、その舌相(ぜっそう)は三千世界を覆い、いずれの山海も仏の経にあらざるはないけれども、ただそれを書写するその人のみが、よく釈迦牟尼仏を見たてまつる。あるいは、仏の口は万古に閉ざされることなく、いずれの時節も経典にあらぬはないけれども、ただよくそれを受持する行人(ぎょうじん)だけが、釈迦牟尼仏を見たてまつる。さらにいうなれば、目や耳や鼻など、六根のいとなむところもまたおなじであるはずであり、あるいは、日ごろかりそめのいとなみも、また同様であろう。

思えば、いまわれらはこの経典に生まれ遇うことを得たのである。だから、身心をはげまして、この法華経を受持し、独誦し、正しく憶念し、修習し、また書写するならば、それはとりもなおさず釈迦牟尼仏を見たてまつることであろう。あるいは、それは仏の御口よりこの経典を聞くがごとしという。とするならば、誰だってこれをきそうて聞こうとしないものがあろうか。もしも、これを急がず、務めざるものがあらば、それは心貧しゅうして幸福の智慧(ちえ)なき人々であろう。もしよく修習するならば、それこそ「当(まさ)に知るべし、この人はすなわち釈迦牟尼仏を見たてまつるなり」というところである。(89~91頁)

■釈迦牟尼仏はまた仰せられた。

「あらゆる功徳を修めて、柔和にして質直なる人は、かならずみな、わたしが此処にあって法を説いている姿を見ることであろう」

いまあらゆる功徳という。それはもう、わが身を忘れて努め、どこまでも努めなければなるまい。だが、それを修しきたって、はじめて「われもまたかくのごとし、汝もまたかくのごとし」といわれるような柔和にして質直なものとなる。それでこそ、はじめて、よく泥中にあっても仏にまみえ、波のまにまに漂っていても仏にまみえ、此処にあって法を説くという仏の説法にもあずかることができるというものである。(101頁)

〈注解〉頭正尾正;終始一貫していること。ここでは当然の結果と訳しておいた。(102頁)

遍 参(へんさん)

■開 題

この一巻が制作され衆に示されたのは、、寛元元年(1243)十一月二十七日とある。北越の冬もようやく極まれるころであり、さきの巻の開題でもいった禅師峰(やましぶ)の茅庵(ぼうあん)にくだってからの二番目の示衆である。

遍参とは、また徧参とも書かれる。禅僧があまねく行脚して天下の善知識に参学することをいう。この巻の冒頭に、

「仏祖の大道は、究竟参徹(くきょうさんてつ)なり、足下無糸子(そっかむしこ)なり、足下雲生(うんしょう)なり」

とあるのも、そのことをいっておるのである。仏祖の大道は、徹頭徹尾、善知識を訪ねて参学することに尽きる。そして、その行脚の仕方は、洞山良价(とうざんりょうかい)のことばをもっていえば、「足下に一糸なくして去る」がよく、あるいは、達磨伝の一節をもっていえば、その行くや、「足下に雲を生ずる」おもむきあるべしというのである。それは禅門における常套の考え方であるといって差し支えあるまい。

だが、道元がこの一巻において語らんとするところは、けっして、そのような禅門の常套語ではない。どうやらこの人は、かりそめにも常識的なことばを繰り返すことは潔(いさぎよ)しとしないらしい。そして、この一巻においても、つづいて語るところは、まったく世の凡庸の徒のいうところと、その類を異にする。

そこで道元がまず取りあげているのは、雪峰義存と玄沙師備の師弟のあいだに交された問答である。こうである。

そこでは、まず雪峰が玄沙を召していった。

「頭陀袋を用意したのに、なぜ行脚に出掛けないのじゃ」

玄沙はそれに答えていった。

「達磨も中国に来たわけではないし、二祖も天竺に出掛けたわけではありません」

すると雪峰は「うん、うん」と深くうなずいたことであったという。

ここで道元が『景徳伝燈録』巻十八から引いているのはそれだけであるが、さきの「一顆明珠」の巻の冒頭には、道元はそこのところを、もっと詳しくこんな具合に物語っている。

そこではまず玄沙が、「あまねく諸方を参徹せんために、嚢(のう)をたづさえて出嶺」しようとする。だが、山をくだる途中で、岩に脚指(あしゆび)をぶっつけて、「流血し痛楚(つうそ)するに、忽然として猛省して」雪峰山に帰った。それを見て、雪峰が問うていう。

「頭陀袋を用意して、どうしようというのだ」

玄沙はそれに答えて、

「やっと人を誑(だま)さずにすみました」

そして、他日また雪峰が玄沙を召して、さきの問答とはなったのである。

それだけ付け加えて申せば、それでいくらかの、この問答の真相がうかがえはせぬかと思うのであるが、どうやら玄沙も、はじめは、遍参とはただ天下の善知識をたずねて行脚することのみ考えていたらしい。それが、脚の指を岩にぶっつけて血を流したところで、はっとばかりに、やっと気がついたのである。

なんと気がついたか。それをいまの玄沙のことばでいえば、「達磨東土に来らず、二祖西天に往かず」である。それをいまこの巻における道元のことばで申すなれば、

「等閑の入一叢林、出一叢林を遍参とするにあらず。全眼睛の参見を遍参とす、打得徹を遍参とす。面皮厚多少を見徹する、すなはち遍参なり」

ということとなるであろう。そして、そのことをもっとも印象ふかく教えてくれるのは、いまの玄沙の問答であるとするのである。かくていう、「遍参の宗旨、ただ玄沙に参学すべし」と。よってこの一巻のおもむきを知ることをうるであろう。(116~118頁)

■仏祖の大道は、徹頭徹尾、善知識を訪ねて参学することに尽きる。その去るや、足下に一糸なくして去り、その行くや、足下に雲を生ずという。とはいうものの、はじめて菩提心の花がひらいて世界がおこるのであり、また、日常の喫茶喫飯のことを指して、わしはいつもこれを大切にしていると申された仏祖もある。だからして、甜(あま)い瓜は蔕(へた)まで甜いのであり、苦(にが)いひさごは根まで苦いのであり、あるいはさとう大根は蔕まで甜いのである。仏祖もまたみんなそのようにして参学してきたのである。

玄沙山の宗一大師は、ある時、師の雪峰から呼ばれた。雪峰はいった。

「頭陀袋を用意したのに、なぜ行脚に出掛けないのじゃ」

玄沙はいった。

「達磨も中国に来たわけではないし、二祖も天竺に出かけたわけではありません」

雪峰は深くうなずいたという。

いうところの遍参の道理は、ここではすっかりひっくり返ってしまっている。そんなことは仏の教えにも説かれてはいないし、修行のどの段階にあるというものでもあるまい。

また、南嶽の大慧禅師が、はじめて曹谿古仏を尋ねていった時、曹谿古仏はいった。

「こんな物がどうして来たのだ」(岡野注;「是甚麼物恁麼来」)

南嶽は、その泥の団子をこねまわして思いめぐらすことに終始して八年におよんだ。そのあげくに、思いめぐらした一石をもって、古仏に申していった。

「わたくし懐譲(えじょう)がはじめてこちらに参りました時、和尚にはわたくし懐譲にお会いくださって、こんな物がどうして来たのだと仰せでございました。それがやっと判りました」

すると曹谿古仏は仰せられた。

「では、そなたはそれをどう判ったというのだ」

その時、南嶽はいった。

「一物をあげて申したのでは、あたりませぬ」

それが思いめぐらした成果である。八年の成果である。

すると、曹谿古仏は問うていった。

「では、まだ修行が必要であろうか、どうであろうか」

南嶽は申していった。

「修行はいらないわけではありません。ただ純粋でなくてはいけません」

そこで、曹谿古仏は仰せられた。

「わしもそのようじゃ、そなたもそのようじゃ(岡野注;「吾亦如是(ごやくにょぜ)、汝亦如是(にょやくにょぜ)」)。そして、天竺のもろもろの仏祖たちも、みんなそのようであった」

それから南嶽は、さらに八年にわたって思いめぐらした。それでその始終を指おり数えてみると、じつに十五年の遍参である。

思うに、恁麼来すなわちどうして来たのかというのも遍参である。また、説似(じ)一物(もつ)即不中すなわち、一物をあげていったのでは中(あた)らないといって、もろもろの仏祖の扉をひらき、仏祖に参見したのも、またおなじような遍参である。この仏法の世界に入ってよりこのかた、もう幾度となく、身をひるがえして行脚してきた。だが、なおざりに禅院に入り、なおざりに禅院を出るのを遍参とするのではない。その眼睛(がんぜい)を見開いて参見するのが遍参である。どこまでも叩きあげるのが遍参である。あるいは、仏祖の面皮はどのくらい厚いかを見通すのが、すなわち遍参というものである。(119~122頁)

〈注解〉曹谿古仏;大鑑慧能(だいかんえのう、713寂、寿76)。五祖弘忍の法を嗣いで六祖となり、曹谿の宝林寺に住す。その法を嗣ぐもののうち、南嶽懐譲・青原行思の二人がもっとも知られている。(123頁)

■雪峰がいうところの遍参の主旨は、むろん山を下ることをすすめるのでもなく、あまねく天下を行脚することをすすめるものでもない。いうなれば、玄沙がいうところの「達磨も中国に来たわけではなく、二祖も天竺に出かけたわけではない」という発言をうながしたのである。

玄沙が「達磨は中国に来たわけではない」といったのは、来たのを来ないというような滅茶苦茶な発言ではない。それは大地に寸土なしの道理によるのである。それが正法の世界のありようである。そして、ここにいうところの達磨とは、その正法のいのちの先端である。たとい中国の全土が湧出してかしずいたかたとて来たというわけでもなく、またそうでないからとて来ないわけでもない。つまり、中国に来らずであるから中国に面(かお)を現わすのであり、中国がたとい仏祖の面(かお)を見たからといって、中国に来たわけではない。つまり、仏祖を捉えようとすれば、かえって鼻の孔を見失うというところである。

いったい、大地は東でも西でもない。東西ということは大地には関係ないことである。いま玄妙は「二祖は天竺に往(ゆ)かなかった」といったが、たとい彼が天竺に行脚したとしても、やはり二祖は天竺に往かなかったのである。もし二祖が天竺に往ったといったのでは、片手落ちというものである。

では、二祖はどういう訳で天竺に往かなかったか。しばらくそのことを考えてみよう。そのわけは、達磨の碧(あお)い目の眼睛に飛び込んだから、天竺に往かなかったのである。もしあの碧い目のなかに跳び込むことができなかったら、彼はきっと天竺にも赴(おもむ)いたであろう。つまり彼においては、達磨の眼睛をえぐり出すことが遍参にほかならなかったのである。天竺に往ったり、中国に来るのが、遍参ではないのである。天台や南嶽にいたり、あるいは五台山や天上にのぼるのを、遍参とするのではないのである。四海・五糊を超越してしまわなければ、遍参とはいえないのである。四海だの五糊だのを徃来しているあいだは、まだまだ四海・五糊を自由にすることはできない。それはただ、路をなめらかにし、足下をなめらかにするだけのことで、遍参のことはどこかに見失ってしまっているのである。

いったい、この十方世界のすべては、そのままあるがままなる一箇の人間のすがたにほかならない。そこにまなび徹するのが遍参というものである。だからして、達磨は東土に来らず、二祖は西天に往かずといったいい方もあろうというものである。つまり、遍参とは、石が大きければ大きいまま、石が小さければ小さいまま、石はそのままに動かさずして、大は大とまなび、小は小ときわめるのである。それを、ただあれにもこれにもと参見するのは、まだまことの遍参というものではない。遍(あまね)くとはいうものの、そのなかにいろいろの変化があるのが遍参である。地を打つときにはただ地を打つ。それが遍参である。ひとつ地を打ったかと思うと、つぎには空を打つ、さらには四方八方というのは、遍参ではない。倶胝(くてい)は天龍和尚に参見して、一指頭の垂示を得たという。それが遍参である。それからのちは、倶胝はいつもただ一指を立てたという、それが遍参である。(125~127頁)

〈注解〉倶胝;金華山の倶胝(くてい)和尚として、『景徳伝燈録』巻11にみえる。天龍和尚の法嗣(ほっす)。倶胝が天龍和尚に参じた時、和尚はただ一指をたてた。倶胝はそれによって悟り、それからは彼もまた生涯、一指をたてるのみであったという。これを倶胝の一指頭禅という。(128頁)

眼 睛(がんぜい)

■洞山悟本大師(とうざんごほんだいし)は、かって雲巌曇晟の門下にありしころ、ちょうど雲巌がわらじを作っているところに出会い、雲巌に申していった。

「わたしは、和尚によって眼睛を得たいと思っております」

雲巌はいった。

「そなたのは、誰かにやってしまったのかい」

洞山はいった。

「わたしには、眼睛はございません」

雲巌はいった。

「いや有るんだよ。だが、そなたはどっちにむけて著(つ)けているのだ」

洞山は黙っていた。すると、雲巌がまたいった。

「眼睛を得たいと思う、それがとりもなおさず眼睛ではないか」

洞山はいった。

「いや、それは眼睛ではございません」

雲巌は、「ちぇっ」といって、舌打ちしたことであった。

そういうことであるので、ずばりといえば、すべて参学は、とりもなおさず眼睛を乞うことである。僧堂で坐るのも、法堂(はっとう)にのぼるのも、また和尚のお部屋に入室するのも、すべて眼睛を乞うのである。あるいは、衆とともに来たり、衆とともに去る、そのすべてがおのずからにして眼睛をもとめることである。しかもそれは、自己がどうすることでもなく、また他人がどうしてくれるわけでもないことが明らかである。

いまも洞山はすでに、「和尚によって眼睛を得たい」とお願いした。それでも判るように、それがもし自分のものならば、人に乞われてもどうにもならないし、もしそれが他人のものだったら、それを人に乞うわけにはゆくまい。

そこで雲巌は、「そなたのは、誰かにやってしまったのか」といった。「そなたの」といってもよい時があり、また、誰にやったといい得る場合もある。

だが、洞山は、「わたしには眼睛はございません」といった。それは眼睛がみずから物言っているのである。こういうことばがどうして成るか。そこを静かに思いめぐらしてまなぶがよろしい。

すると雲巌は、「いや、有るのに、どっちをむけて著けているのだ」といった。それも眼睛のことをいっているのであって、「わたしには眼睛はない」というその無は、じつは、有るのだけれども、どこか余処(よそ)をむいているのだというのである。なるほど、どこかを向いているのは、有るからである。そこをこんな具合にいうのだと知らねばならない。

だが洞山は黙っていた。それは、いうところを知らずして、ただぼやっとしていたのではない。そこは、沈々として思いにふけっていたのである。

そこで雲巌は、彼のために示して、「眼睛を得たいと思うところ、それがとりもなおさず眼睛ではないか」といった。それは眼睛そのものを見せようとしているのであり、活きた眼睛をとり出して見せているのである。

いまいうところの雲巌のことばの主旨は、眼睛がはじめて眼睛を乞うのだといっておる。水は水を引き、山は山に連なるというところである。だから、まさしく独立独行なのであるが、だが、同時にまた人間ことごとく然りといってもよろしい。

ところが、洞山は、「いや、それは眼睛ではございません」といった。それは眼睛が自分を批判していっているのである。だから、眼睛にはあらずとする身心(じん)にも考え方にもいろいろとあるであろうが、それがとりもなおさず活きた眼睛の自己批判だと、もう一度見直すべきである。

いったい、三世の諸仏はみな、眼睛が法輪を転じ、説法をなさるのを、露地に立って聴いて三世の諸仏とはなったのである。つまり、修行していたる究極のところとはといえば、すべて眼睛のなかに跳びこんで、はじめて発心し、修行し、そして大いなる悟りを成就するのである。しかも、その眼睛はもともと自己のものでもなく、また他人のものでもないのであるから、なんの差し障るところもないから、そのような大事もすらすらと自由自在なのである。

だから、一人の古徳もいったことがる。

「まことに奇なることであるが、十方の仏はもとこれ眼中の華にまします」

そのいうところは、十方の仏というは眼睛のことだというのである。眼中の華がつまり十方の仏なのである。まだまだ進歩することもあり、退歩することもあり、あるいは打坐(たざ)するかとみれば、睡(ねむ)っていることもあろうが、それもみんな眼睛そのものの力をうけてそうあるのである。つまり、摑むも放すもすべて眼睛のなかでのことである。(147~150頁)

家 常(かじょう)

■趙州(じょうしゅう)の真際(ざい)大師は、一人の新しく来た僧に問うていった。

「かって此処に来たことがあるか」

その僧はいった。

「はい、かって来たことがございます」

師はいった。

「お茶をのんでゆきなさい」

また一人の僧に問うていった。

「かって此処に来たことがあるか」

その僧はいった。

「いえ、まだ来たことはございません」

師はいった。

「お茶をのんでゆきなさい」

院主(いんじゅ)が師に問うていった。

「いったい、かって此処に来たことのあるものにも、かって此処に来たことのないものにも、みんなお茶をのんでゆけと仰せられますのは、どういうことでありましょうか」

すると師は、「院主よ」と呼んだ。院主が「はい」と答えた。すると、師はまたいった。

「お茶をのんでゆきなさい」

いまいうところの「此処」は、頭のてっぺんでもなく、鼻の孔でもなく、あるいは趙州でもない。此処をとびこえてしまえば、かって来たことがあろうと、来たことがなかろうと差し支えはあるまい。だが、いったい、ここをなんのところだと思えば、かくもひたすらに、来たことがあるか、ないかと問うのであろうか。だからして、かって先師は仰せられたことがある。

「誰ぞ美々しき酒楼に人を迎えて、趙州の茶を汲むものがあろうぞ」

だからして、仏祖の常日ごろには、ただ喫茶喫飯(きっぱん)のみであると知るがよい。(183~185頁)

〈注解〉趙州真際大師;趙州従諗(897寂、寿120)。南泉(なんぜん)普願の法嗣(ほっす)。趙州観音院に住して趙州をもって称せらる。諡(おくりな)して真際(ざい)大師という。

院主;「いんじゅ」と読む。寺務を主宰する者である。一山の主たる住持とは別であって、また監院とか監寺とかいう。(185頁)

龍 吟(りゅうぎん)

■舒州(じょしゅう)投子山の慈済大師(じさいだいし)に、ある時、一人の僧が問うていった。

「枯木のなかにも、また龍の声があるのでございましょうか」

師はいった。

「わしにいわせれば、髑髏のなかに獅子の声があるというところじゃ」

枯木あるいは死灰をもって究極の境地を談ずるのは、もともと外道の教えるところである。だがしかし、外道がいうところの枯木と、仏祖がいうところの枯木は、まるで異なるものであろう。外道もまた枯木を談ずるけれども、ほんとうは枯木を知らないのである。ましてや、いまいう龍の声を聞き得るはずはない。つまり、外道は枯木を朽木だと思っている。だから、それはもはや春に逢うことはできないと教えられている。

それに反して、仏祖がいうところの枯木は、「海枯れて」底を見ずというあの枯である。「海枯れて」はまた「木枯れて」である。木は枯れてもまた春に逢うのである。木のそのままじっとしているのが枯である。いま冬にして、山の木も、海の木も、空の木も、みんな枯木である。また、これから芽をふく萌芽は、枯木のいぶく龍の声であるし、あるいは、いく抱えもある大木だって、枯木から生まれた児であり孫である。

つまり、枯ということの性質やその作用は、まことにさまざまであって、誰だったかさる仏祖もいわれたように、ある時には枯れぼっくいであり、またある時には枯れぼっくいではないのである。あるいはまた、それは山谷(さんこく)の木のことであり、あるいは、あた、田里(でんり)の木のことであってもよい。山谷の木というのは、世のなかでいうところの松柏(しょうはく)のことであるし、また、田里の木というのは、世のなかの人々のことである。それらはみんな、まず根があって、そこから葉がのびてくる。その根を仏祖という。また、それらはやがて、枝も葉もみんな大木にかえってゆかねばならぬ。それがとりもなおさず参学というものである。

そのようなのが、枯木のあの姿であり、この姿である。すなわち、ある時はのびのびとその身をのばした姿をあらわし、またある時はすっかり身をひそめて小さくなった姿をとる時がある。そして、もしそのような枯木でなかったならば、とても時にいたって龍のいぶきなどできるものではないであろうし、また、声をひそめて静かな境地に入ることもできないであろう。かって、一人の仏祖は、

「いくたびか春に逢うて心はかわらず」

と詠じたことがあたが、それは、この世界のすべてが、このような枯木の龍吟であることを語っている。その吟ずる声は、いうところの宮(きゅう)・商・角・羽(う)の五音のたぐいのものではないが、そこはむしろ、その五音もまたこの龍吟より生まれたものだといってよかろう。

しかるに、いま、かの一人の僧は、投子山の慈済(じさい)大師に問うて、「枯木のなかにも、また龍の声があるのでございましょうか」といった。それは、遠い遠い昔から今にいたるまで、いまだかってなかった、問いの成立である。こんな問答はいまにしてはじめての実現である。それにたいして、投子山の慈済大師は、「わしにいわせれば、髑髏のなかから獅子の声がきこえるということじゃなあ」といった。それは、「なんの掩(おお)うところやあらん」、まことにその通り、その通りじゃというところであって、「おのれを屈し、人を推して、また休(や)まず」というものであろうか。だが、これによって、髑髏の獅子吼もまた、世にあまねきこととなったといってよかろう。(191~193頁)

〈注解〉舒(じょ)州投子山慈済(さい)大師;投子大同(914寂、寿不詳)。翠微(すいみ)無学の法嗣(ほっす)。投子山に庵居して三十年なりという。諡(おくりな)して慈済(じさい)大師という。

宮・商・角・羽;中国での音楽の基音とせられる五音である。ドレミファというところである。(193~194頁)

春 秋(しゅんじゅう)

■ある時、一人の僧が洞(とう)山悟本大師に問うていった。

「寒さ暑さが到来した時には、どうしたらよろしゅうございましょう」

師はいった。

「寒さ暑さのないところにゆけばよいではないか」

僧はいった。

「いったい、寒さ暑さのないところなど、どこにゆけばあるのでございましょうか」

師はいった。

「寒い時には、そなたをうんと寒がらせるがよろしい。暑い時には、そなたをうんと暑がらせるがよろしい」

このはなしは、むかしの人々も、ああだろうこうだろうと、いろいろと考えてきたものである。いまの人々も、いろいろと思いめぐらしてみるがよろしい。仏祖もまたかならずこの道理をまなんできた。それをまなんできたものが仏祖なのである。印度においても中国においても、古今の仏祖たる方々はたいてい、この道理をちゃんと身にそなえていた。つまり、この道理をその身にそなえることが、仏祖たるものの課題なのである。

しかるに、いま、かの僧は問うて、「寒さ暑さが到来した時には、どうして廻避したらよいでしょうか」という。それをよくよく考えてみるがよろしい。というのは、そのまさしく寒さの到来した時といい、またまさしくその暑さの到来したというのは、いったいどのようなことであるか、そこを精細にしらべてみるがよいというのである。その寒さ暑さというものは、寒さは寒きさながら、寒さのほかのなにものでもないのであり、また暑さは暑ささながら、暑さのほかのなにものでもないのである。だから、寒さ暑さの到来する時には、いうなれば、それは、寒さ暑さそれ自体の頭のうえから到来するのであり、あるいは、寒さ暑さそのものの眼睛のなかから現われてくるのである。けっして、どこか余処に寒さ暑さがあって、それを誰かが持ってくるわけではない。だから、その頭のうえは、とりもなおさず無寒暑のところであり、また、その眼睛のなかには、すなわち寒暑はないのである。

しかるに、洞(とう)山悟本大師はそこで、「寒い時には、そなたをとことんまで寒がらせるがよろしい」といい、また、「暑い時には、そなたを徹底的に暑がらせるがよろしい」といった。それは、まさしく寒さ暑さが到来した時のことである。だが、その時には、たとい時寒にしてして、その寒さがどんなに寒かろうとも、なおかならずしもその寒さがそなたを震えあがらせるわけでもないし、また、たとい時暑時にあたって、その暑さがどんなにひどかろうとも、なおかならずしもその暑さがそなたを暑がらせるものとはかぎらないのである。つまり、寒さはどこまでもただ寒さである。また暑さもまたどこまでもただ暑さである。それは、かならずしもそなたには関係のないことである。それを、ただいろいろと策を講じて廻避しようなどとしても、それはなお、頭と尻尾をとりかえてみるというにすぎまい。かくて、寒さとは、とりもなおさず先徳の活きた眼睛であると承知するがよく、また暑さとは、すなわち先師のあたたかい皮であり肉であると知るがよいというのである。(207~209頁)

〈注解〉洞山悟本大師;洞(とう)山良价である。

■行(ぎょう)雲流水

■慶元府なる天童山の宏智(わんち)禅師は、丹霞和尚の法を嗣ぎ、諱(いみな)を正覚(がく)和尚という。ある時いった。

「もしこのことを喩(たと)えていうなれば、それは二人で碁を打っているのによく似ている。碁を打つときには、対手(あいて)はわが打つ著手にはなかなか応じないし、また、われは対手を胡麻化そうとばかりしているものである。もしそこのところがよくよく体得できれば、はじめて洞山(とうざん)のいう意味が判ってくるであろう。だが、それでもなお合点がゆかないというならば、わしもまたひとつ注釈でもいれておかねばなるまい。

ここに到ってみれば暑もなく寒もない

大海原だって乾(ひ)あがってしまったら

大うみがめでも苦ものう拾えるのに

なんでまあ沙のうえで釣竿をいじっているのじゃ」

まずいうなれば、碁を打つということはないわけではないが、いったい、二人で打つというのはどういうことであるか。もしも二人で碁を打つというなれば、それはどうやらへぼ碁らしい。もしへぼ碁であるならば、それはなお碁を打つとはいいがたい。どうでござる。そこは、もしいうならば、こういう具合にいうべきところであろう。――囲碁というものは一人で打つものであって、その一人、つまり、自分のなかで敵手にめぐり逢うものである――と。とはいいながらも、いま宏智禅師がいうところの、「対手はわがうつ著手にはなかなか応じない」というところは、よくよく心して思いめぐらしてにるがよろしい。いやいや、われとわが身にあててまなびきわめるがよいのである。対手はわがうつ著手にはなかなか応じてくれないということは、汝はけっして我であろうはずはないということである。また、「われは対手を胡麻化そうとばかりしている」という。そこもまたうっかりして、いい加減に通りすごしてはいけない。泥のなかにも泥がある。泥はどこまでも泥である。だから、そこに踏みこんだものは、足を洗い、また冠(かんむり)のひもまで洗わなければならない。また、珠のなかにも珠がある。珠はどこまでも珠である。だから、その光を放つにあたっては、他人(ひと)をもてらし、また自己をもてらすのである。(215~216頁)

〈注解〉天童山宏智禅師;宏智正覚(わんちしょうがく、1157寂、寿67)。丹霞子淳の法嗣(ほっす)。かって天童山にあり、住すること三十年という。(216頁)

■だいたい、諸方の代々の方々は、このようにしてべちゃくちゃと頌古(じゅこ)をこととしているが、まだまだ高祖洞山のほとりを覗うことはできないらしい。なぜならば、仏祖の日常には、寒暑をどうなされていたやら知らないものだから、ただいたずらに「寒ければ火にあたり、暑ければ涼み」などといっておる。可哀そうなものである。いったい、なんじらは、古徳のほとりにあって、なにを寒暑というのだと聞いてきたのだ。祖師の道がすっかり廃(すた)れてしまったことを、悲しまざるを得ないではないか。

願わくは、この寒暑の意味するところをも知り、この寒暑の時期をも体験し、さらにはこの寒暑を自由にもちいきたって、そこでもう一度、高祖の示したもうことばを称え、またそれを取り上げて語るがよろしい。まだまだそうは参らぬというならば、そこはむしろ、まず自覚するがよろしい。世俗の人々だって、年月のありようにつき、また万物の受け取りかたについて、聖人と賢者とではいろいろのちがいがあり、また、君子と愚夫とではさまざまの相異がある。ましていわんや、仏道でいう寒暑が、なお愚夫のいうところの寒暑とおなじだろうなどと考えたのでは、とんだ錯覚というものであろう。そこはよくよくまなび究めるがよろしい。(228~229頁)

祖 師 西 来 意(そしせいらいい)

■さて、「人の千尺の懸崖にして樹に上(のぼ)るがごとし」という。そのいい方を、まずしずかにまなびいたるがよろしい。そこで人というのはなんであるか。仏殿の大柱だって木の杙(くい)でないわけではない。破顔微(み)笑する仏や祖だって、ここに相まみえるわれやひとだって、みんその人ならざるはない。その人がいま樹にのぼるという。その場所は、この大地でもない、百尺の竿頭でもない、それは千尺の懸崖である。たといそこを脱(ぬ)け出しても、やっぱり千尺の懸崖のなかである。そのなかにも、落ちる時があり、また上る時もあるということが判るのである。

とするならば、上向きにも千尺であろう。下向きにもまた千尺であろう。左むきにも千尺であろう。右むきにもまた千尺であろう。あるいは、ここもまた千尺であり、あそこもまた千尺であろう。あるいはまた、その人も千尺であり、その樹もまたせんしゃくであろう。つまり、上にいうところの千尺はそんなものであろう。では、ちょっと聞きたいが、その千尺とはどのくらいであろうか。答えていわく、それは、かの古鏡(こきょう)ぐらいのもの、あるいは、かの火炉(かろ)ぐらいのもの、あるいはまた、かの無縫塔(ほうとう)ぐらいのものというところであろう。

また、「口に樹の枝を銜(くわ)える」というが、いったい、口とはどういうものであろうか。たとい、口のすべては知り得なくても、ここは、樹とえだということであるから、まずは枝をたずね、その葉を摘んで、だんだんと口なるもののありようを尋ね知るがよろしい。すると、いまのところは、樹の枝をつかまえているのが口だというのであるから、そこでは、口いっぱいはすべて枝であり、また、枝いっぱいはすべて口であろう。あるいは、身体じゅうが口であり、また、口じゅうが身体であるといってもよかろう。また、樹はみずから樹を踏んでいるから、だから脚は樹を踏まずという。それはまた、脚はみずから脚を踏むといってもおなじであろう。あるいはまた、枝はみずから枝に攀(よ)じているから、だから手は枝を攀じずという。それはまた、手はみずから手を攀ずるといってもおなじことであろう。だがしかし、脚のかかとには、なお進むの退くのといったことがあり、また手のさきには、なお握るの放すのということもある。だから、世の人たちはたいてい、ここのところはなにか虚空にかかっているのだなあと思うであろうが、けっしてそうではない。ここは樹の枝を銜えているというところに意味があるのである。

つづいて、「樹下にたちまち人ありて問わん。如何ならんかこれ祖師西来意」とある。そこに「樹の下にたちまち人があって」というのは、あたかも樹のなかに人があってといってもよいところであろう。つまり、そこは人か樹かというようなところであるから、また、「人の下にたちまち人があって問うた」といってもよいところであろう。だから、また、ここは、樹が樹に問うているのであり、人が人に問うているのであり、樹がすべてそのまますっかり人となって問うているのである。そして、それとおなじように、いま西来意を問うには、まず西来意を挙して問うのであるという。つまり、問う者もまた口に呪枝を銜えて問い来るのである。口に枝を銜えずしては、よく問うことを得ないのである。それでなくては、口いっぱいの言葉だでないのであり、言葉いっぱいの口が開(あ)かないのである。だから、西来意をいかにと問わんとする時には、まず西来意を口に銜えて問うというのである。(238~240頁)

■そこで、「もし口を開いてその人に答うれば、たちまち身を喪(うしな)い、命を失う」という。その「もし口を開いてその人に答うれば」ということばを、よくよく身にあてて考えてみるがよろしい。すると、口を開かないでその人に答えるということだってあり得るではないか。もしそうすれば、身も喪わず、命も全うすることができるではないかと、そういうものもあるであろう。だが、たとい、口を開くとか、口を開かないとかいうことはあり得ても、口に樹枝を銜(くわ)えるということについては、いずれでもすこしも差し支えはあるまい。開くの、閉じるのということは、それがすべての口の問題ではあるまい。口によっては、ぽかんと開いているのもあれば、きりっと閉じているのもあろう。だがしかし、樹の枝を銜えるということは、これはすべての口の日常のことであって、口を開くにも閉ざすにもなんの差し障りもないことである。

では、「口を開いてその人に答える」というのは、その樹枝を開いて人に答えることをいうのであろうか。それとも西来意を開いて人に答えるというのであろうか。そこは、もし西来意を開いてその人に答えるのでなかったならば、「いかなるか、これ祖師西来意」という問いに答えたことにはなるまい。また、もしその人に答えるのでなかったならば、それは身を全うし、命を保ったのであって、身を喪い命を失うということにはなるまい。またもし、その前から身を失い命を失っているのだったら、むろん、人に答えるなどということはあり得ないであろう。しかるに、いま香厳和尚のこころはいかにというならば、それは、人に答うることを辞せずというところにある。だから、おそらくは、身を喪い命を失うよりほかはないとの覚悟のうえであろう。

知るがよい。いまだ人に答えない時には、身をまもり命を保つのである。だが、たちまち人の問いに逢うて答えた時には、一たび喪身失命しても、また身を翻して命を得るのである。思うに、人々はみな口いっぱいに物いいたいことがある。だから、人にも答えるがよい。自分にも答えるがよい。また、人にも問うがよく、自分にも問うがよろしい。それを口にことばを銜えるという。それをいまは、口に枝を銜えているといったのである。だから、もし人に答えない時には、それは人の問うところに悖(もと)るとはいうものの、わがみずから問うところには違うものではあるまい。

ともあれ、よって知ることのできるではないか。すべてこれまで西来意の問いに答えてきた仏祖のかたがたは、みんなこの「樹に上がって口に樹の枝を銜えた」時、つまり、その決定的瞬間にあたって答えてきたのである。また、すべてこれまで西来意について問うてきた仏祖たちも、みんなその「樹に上って口に樹の枝を銜えた」その瞬間にあたって問うてきたものなのである。(242~244頁)

■雪竇(せっちょう)山の明覚禅師重顕(じゅうけん)和尚はいったことがある。

「樹上にして道(い)うはやさしく、樹下にして道うは難しい。だから、わしは樹に上がるから、一問をもって来るがよい」

いま、和尚は「一問をもって来るがよい」というが、もはやどんなに力を尽くしてみたところが、残念ながら、その問いはいつでも、答えよりも後になってしまう。でも、一つ、あまねく古今の長老たちに問うてみたい。いま香厳和尚は呵々として大笑 したというが、いったい、それは樹上にして物いうたのであろうか、それとも、樹下で物いうたのであろうか。また、それは西来意の問いに答えたのであろうか。それとも答なかったのであろうか。どうじゃ、試みにいってみるがよい。

〈注解〉聞きたることおそらく……;いま雪竇は、わしは樹に上っているから、一問をひっさげて来れという。だが、いまからいかに力んでも、残念ながら、問いよりもさきに、答えのほうができているからなあ、というのであろう。(246頁)

優 曇 華(うどんげ)

■「霊鷲山(りょうじゅせん)の百万の衆のまえにして、世尊は優曇華を手にして目を瞬きたもうた。その時、摩訶迦葉(かしょう)が顔をほころばせてほほえんだ。世尊は仰せられた。『われに正法眼蔵、涅槃妙心がある。それをいま摩訶迦葉に与える』と」

思うに、過去・現在・未来の三世の諸仏は、みなこの拈華によって出現するのである。これをもって仏に向かって修するものは、自己のさとりを実現するのであり、これをもって衆生に向かっては、その冥盲をやぶり、その心を開くのである。したがって、拈華のなかにあっては、上に向かおうが下に向かおうが、自己に向かおうが他人に向かおうが、あるいは、外に向かおうが内に向かおうが、いずれもすべて拈華ならざるはない。華も、仏も、心も、身も、すべてがおなじである。また、いくたび拈華が行なわれても、それがことごとく嗣法(じほう)であり、「これを汝に与える」のである。いま世尊が拈華して、なお手から華を放さないのに、もう華がきたって世尊の法を嗣いでいるといった具合である。つまり、拈華のことは、ある時にのみ行なわれるのではなく、あらゆる時に行なわれているのであって、そこにはいつでも世尊がおられ、おなじ拈華が行なわれているのである。

いわゆる拈華というのは、華が華を拈ずるのである。梅の華がそれであり、春の華がそれであり、雪の華がそれであり、蓮(はちす)の華がそれである。たとえば、梅華の五葉という。それは、仏一代の説法にほかならない。だから、それはまた、五千四十八巻の経巻であり、三乗十二分教の教えであり、あるいは三賢十聖(さんげんじっしょうのたどる道程である。だからして、まだ三賢十聖の階位にあるものでは、このことはよく判らないであろう。そこには、なお多くの経巻があり、おおくの不思議がある。そこのところの消息をこそ、「華開いて世界起る」とはいうのである。そこでは、「一華は五葉を開き、結果は自然にして成る」という。それは、喩(たと)えていうなれば、風鈴が虚空にかかって風のまにまにひねもす鳴っているようなものであろうか。あるいは、霊雲志勤(ごん)は桃花のさかりなるをみて目が見えなくなり、また、香厳智閑(きょうげんしかん)は翠竹(すいちく)にあたる石の音を聞いて耳がつぶれたというのも、いまの拈華である。あるいは、二祖慧可が雪に腰をうずめ臂を断って、ついに礼拝得随することを得たというのは、その華がみずからひらいたのであろうし、また、六祖慧能がただひたすらに米を碓(つ)いて、ついに夜半の伝衣(え)にいたったというのは、その華がおのれを拈じたものであろう。さすれば、それらもすべて、詮ずるところ、世尊の御手のなかの命であると申さねばなるまい。(252~253頁)

■いったい、拈華というのは、世尊の成(じょう)道よりも以前にあり、また世尊の成道と同時であり、さらに世尊の成道よりものちにある。だから、それは華の成道といってもよく、はるかに初・中・終などの時間のことを超越している。つまり、もろもろの仏もろもろの祖たちが、発心して仏道を歩きはじめ、修行し、証得してそれを保持する、それらはすべて拈華が春風をひるがえすに外ならないのである。だから、そのときゴーダマ世尊は、華のなかに身を蔵(かく)し、虚空のかなたに身を蔵しているのであるから、その鼻のあたまを捉えてみるがよい。すると、それはただ虚空を捉えているにすぎないであろうが、それこそまさしく拈華というものである。けだし、拈華とは、眼睛(ぜい)をもって拈ずるものであり、心識をもって拈ずるものであり、あるいは、鼻のあたまを拈ずるのであり、あるいは、華が華を拈ずるのである。(253~254頁)

■いったい、この山(せん)河大地、日月風雨より、人畜草木にいたるまで、みないろいろの営みをなしているが、そのそれぞれの営みが、とりもなおさず優曇華を拈ずるのである。生といい死というも、その華のいろであり、その華のひかりである。いま、わたしどもがこのようにまなびいたるのも、またその華を拈じているのである。

仏は仰せられた。

「たとえば、それは優曇華のようなものであって、一切の人々がみな愛楽(あいぎょう)する」

ここに「一切の人々」というは、すでに仏祖となれる人々のことであり、また、その可能性を蔵する人々のことである。さらには、草木昆虫にいたるまで「おのずから光明のあるあり」である。また、「みな愛楽する」とは、それらの面々が、いまもなお活撥々地(かっぱつぱっち)として生きていることであり、したがって、一切はみな優曇華にほかならない。だからして、これをすなわち稀(まれ)なりというのである。(254~255頁)

〈注解〉渾身是巳掛渾身;「渾身これすでに渾身にかかる」とでも読むべきであろうか。古注によれば、「如浄和尚語録」のなかに、「風鈴」と題する偈があり、その一句に「渾身是口掛虚空」とある。道元はそれによってこの一句をものしたのであろうといい、そのいうところは因果同時のことであろうという。わたしもその説をとる。(255頁)

■目を瞬(まばた)くというは、樹下にうち坐って、その眼睛(ぜい)を明星ととりかえてしまった時のことである。すると、そのとき摩訶迦葉が、顔をほころばせてにこっと笑った。その顔をほころばせた途端に、その顔は拈華の顔になってしまったのである。如来が瞬目した途端に、われらの眼睛は失われてしまったのである。その如来の瞬目こそ、とりもなおさず拈華である。その時、優曇華のこころがおのずからひらくのである。そして、まさしくその時におよんでは、世尊も、迦葉も、生きとし生けるものも、そしてわれらも、みなともどもに一本の手をさしのべて、おなじように華を拈ずる。そのことは、今日ただいまもなお休むことがないのである。さらにいうなれば、手のなかに身を蔵(かく)すということもあるのであるから、この身心(じん)ががそれであるということもできる。(257頁)

■また、祖師菩提達磨が西の方より来られたこと、それもまた拈華したのである。拈華はこれまた精魂を弄(ろう)するという。精魂を弄するととは、ただひたすらにうち坐って、身心を脱落することである。仏となり祖となることを弄精魂とはいう。衣を着け飯を喫することをも弄精魂というのである。いや、おおよそ仏祖がぎりぎりの定めとしてさだめたことは、かならず弄精魂である。あるいは仏殿において相見(しょうけん)し、あるいは僧堂においてまた見(まみ)える。そのたびに、華の色はいよいよ加わり、その色にはまた光がましてくる。さらに僧堂にあっては、彼方から雲板を拍(たた)く音が聞こえてき、仏殿にあっては笙(しょう)を吹く音(ね)が水底から聞こえてくる。かと思うと、おおなんとしたことか、思わぬ梅華の調(しら)べも聞こえてくる。と申すのは、かつて先師如浄古仏は歌って仰せられたことがある。

「じっと世尊が眼睛(ひとみ)つぶれば

雪の中にただ一枝の梅華ひらく

いまは到るところ茨(いばら)ばかりだが

やがて春風は繚乱として吹かん」

いま、如来の眼睛は、あやまって梅華となってしまった。その梅華もいまはただ生いしげる荊棘(けいきょく)のなかにある。如来は眼睛のなかにその身を蔵(かく)し、眼睛は梅華のなかに身をひそめ、その梅華もまたただ荊棘のなかにある。だが、やがては繚乱として春風を吹かせる。ともあれ、こんな具合であるが、やはり梅華の調べは楽しく快い。

先師如浄古仏は、また、かって仰せられたことがある。

「霊雲の見るところは桃華にらき

天童の見るところは桃華おちる」

知るがよい。桃華のひらくは霊雲志勤(れいうんしごん)の見処(けんじょ)である。それはずっといまにいたるまで、さらに疑いの余地もない。しかるに、天童如浄の見処は華桃おつるところであるという。思うに、華桃のひらくは春の風にもよおされてであり、桃華のおつるは春の風に憎まれてであろう。だが、たとい春風の華桃をにくむこと深くとも、桃華はやがて散りおちて、その身心を新たにするであろう。(259~251頁)

発 無 上 心(ほつむじょうしん)

■開 題

「おほよそ発菩提心の因縁、ほかより拈来せず、菩提心を拈来して、発心するなり。菩提心を拈来するといふは、一茎草(いつきんそう)を拈じて造仏し、無根樹を拈じて造経するねり。いさごをもて供仏し、漿(こんず)をもて供仏するなり。一摶(いったん)の食(じき)を衆生にほどこし、五茎の華を如来にたてまつるなり。他のすすめによりて片善を修し、魔に嬈(にょう)せられて礼仏する、また発菩提心なり。……造仏造搭するなり、読経念仏するなり。為衆説法するなり、尋師訪道するなり、結跏趺坐(けっかふざ)するなり。一礼三宝するなり、一称南無仏するなり。かくのごとく、八万法蘊(うん)の因縁、かならず発心なり」

わたしは、この一節がことのほかに好きであって、時に及んで愛誦するのであるが、ここに到れば、もはや、在家の発菩提心がどうの、出家の発菩提心がどうのということは、まったく無用のことに属するであろうと思う。(266頁)

■西の国の高祖はいった。

「雪山(せつさん)をもって大涅槃に喩(たと)える」

知るがよい、それは喩うべきものを喩えたというべきである。喩うべきものはというは、近しいからであり、ずばりと判るからである。ここに雪山すなわちヒマーラヤをもってきたのは、雪山をもって喩えようとするのであり、また、大いなる涅槃をもってきたのは、それに喩えようとするのである。

また、中国の初祖はいった。

「心は木石のごとし」

ここにいう心とは、心のあるがままの姿である。大地いっぱいの心である。だから、自己の心でもあり、他心の心でもある。いや、この世界じゅうの人、あるいは、あらゆる世界の仏祖や、天なる龍などをもふくめて、それらの心はみな木石にほかならないという。そのほかには、別に心などというものはないというのである。その木石は、当然ながら、有とか、無とか、空とか、色とかのありように捉われない。その木石なる心をもって、人は発心し、修行し、まら証得する。心はもともと木石だからである。その木石なる心のちからをもって、いまのこの不思量のところを思量することも成るのである。そして、その木なる心、石なる心の姿や声を見聞することによって、われらははじめて外道のともがらを超えることができる。それより以前は、けっして仏道などというものではないのである。

大証国師はいった。

「牆壁瓦礫(がりゃく)、これが古仏心である」

そのいう牆壁瓦礫とは、いったい、いずれのところにあるのかと、よくよく考えてみるがよろしい。あるいは、いったい、そんなものがどうして出来たのだと、問うてみるがよろしい。また、古仏心というのは、なにも遠い遠いむかしのことをいうのではない。いまここに普通に生活している人々のいまの境界をいっておるにすぎない。そのような人々が、ふと坐りはじめて仏となる、それが発心というものである。(268~269頁)

〈注解〉道元はまず、仏祖の三つのことばを挙げ、それを解説することによって、心のなんたるかを語ろうとしている。発無上心、もしくは、発菩提心のことに語りいたろうとする準備であるといってよかろう。

雪山喩大涅槃;雪山はヒマーラヤ、それをもって大涅槃にたとえるのは、その不動なる姿によるものであろうか。

心如;心の真相、本質を指さしているのである。それは、そのあるがままの姿にほかならない。(260頁)

■いったい、菩提心を発(おこ)し因縁は、外からもってくるものではない。それは、ただ菩提心をもって発心(ほっしん)するものである。菩提心をもたらすというのは、一茎の草をとって仏となし、根のない樹をもたらして経となすのである。あるいは、妙をもって仏に供し、米の汁をささげて仏を供養するのである。あるいはまた、一握りの食を衆生にほどこし、五茎の花を如来にたてまつるのもそれである。さらにいえば、他(ひと)にすすめられてほんの小さな善をなし、悪魔にだまされて仏を礼拝するのも、また菩提心を発(おこ)すというものである。むろん、そのようなことのみではない。家を家にあらずと知って、家を捨てて出家するのもそれである。山に入って道を修め、信じて行じ、あるいは、法を行ずるのもそれである。仏像をつくり、寺搭をつくるのもそれである。経を読み、仏を念ずるのもそれである。人々のために法を説くのもそれであり、師を尋ねて道を訪うのもそれである。結跏趺坐するのもそれであり、一たび三宝を礼拝するのもそれであり、一たび南無仏と称するのもまたそれである。

そのように、いろいろの事がすべて、かならず発心の因縁となる。あるいは、夢のなかにして発心したものが道を得ることもある。あるいは、酔のなかに発心したものが得道するということもある。あるいは、飛花落葉のなかにあって発心し得道するというものがあり、あるいは、桃花を見、翠竹の声をきいて、発心し得道するというものもある。あるいは、天上にあって発心し得道するというものもあれば、あるいは、海中にあって発心し得道するというものもある。それらはみな、あるいは、おのれの発菩提心のなかにあってさらに菩提心を発(おこ)すのであり、あるいは、おのれの身心(じん)のなかにあって菩提心を発すのであり、あるいは、諸仏の身心のなかにあって菩提心を発すののであり、あるいはまた、諸仏の皮肉骨髄のなかにあって発菩提心するのである。

だからして、今日にして塔を造り、仏像を造るなどすることも、まさしく発菩提心であって、まっすぐに成仏にいたることを得るのであり、けっして中間において挫折することはないであろう。これを自然の功徳といい、法爾(に)の功徳という。あるいは、これを真理と見ることとなし、法の本質を知ることとなす。あるいは、これを諸仏の三昧を集むることとなし、諸仏の守護を得ることとなす。あるいはまた、これを無上の正覚を得ることとなし、聖者の境界にいたることとなし、仏を成就することとなす。このほかには、別にまた自然・法爾などということはあり得ないのである。(271~273頁)

■しかるに、小乗の愚かなるものはいう。――像を造り、塔を起こすなどということは、為にする煩悩のわざである。そんなことは捨ておいて営んではならない。思慮することを息(や)め、じっと心を凝(こ)らす、それが自然というものである。煩悩をはなれ、なんの為にするところもない、それが真実というものである。あるいは、万法のあるがままの姿をじっと観ずる、それが無為というものである。――こんな具合にいうのが、西の方でも、東の方でも、昔も今もならいとするところである。だからして、あるいは重き罪をおかし、あるいは逆賊をつくりながらも、仏像を造らず、寺塔も起こさない。あるいは煩悩・邪見にそまりながらも、念仏を申し読経することもない。これでは、ただに人間としてのよき種を台なしにしてしまうばかりではなく、また、仏たるべき可能性をも壊してしまうことになるのであろう。そんなことでは、仏法の時世にあいながら、いつしか、仏法の怨敵となってしまうであろう。あるいは、三宝の山に入りながら、なんにも得ないで帰り、あるいはまた、三宝の海に入りながら、なんの獲物をも得ないで帰るようなものであって、こんな悲しいことはないではないか。これでは、たとい千の仏、万の祖の出世にあおうとも、とても仏道に縁をむすぶ時期はなく、発心の機会にあうこともないであろう。それは、いったい、なに故であるかというと、やっぱり、それは、経巻の記すところにしたがわず、善知識のことばに耳を傾けないから、こういうことになるのである。あるいは、それはたいてい、外道や邪見の師にしたがうからのように思われる。造像造塔などは発菩提心とはいえないなどという見解は、はやく投げ捨てるがよろしい。そして、心を洗い、身を洗い、耳を洗い、目を洗うて、そのような見解はふたたび見聞しないがよろしい。ただ、仏の経巻にしたがい、善知識にしたごうて、まさしく正法に帰し、仏法を修学するがよいのである。(275~276頁)

●原 文

仏法の大道は、一塵のなかに大千の経巻あり、一塵のなかに無量の諸仏まします。一草一木ともに身心なり。万法不生(しょう)なれば一心も不生なり、諸方実相なれば一塵実相なり。しかあれば、一心は諸法なり、諸法は一心なり全身なり。(276頁)

■そもそも、仏法の大道においては、塵ほどの物のなかにも幾千の経巻があり、また、極微(ごくみ)の物のうちにも限りなき仏たちがまします。あるいは、一つの草、一本の木もまたそれぞれにその身心(じん)を有する。しかるに、万法すなわちあらゆる存在はもともと生滅を超えたものであるから、その一心もまた生滅を超えたものである。また、もろもろの存在はあるがままの姿のほかのなにものでもないのであるから、いまいうところの極微のものもまたそのあるがままの姿のほかのなにものでもないのであるから、いまいうところの極微のものもまたそのあるがままの姿のほかのなにものでもない。だからして、つまるところ、一心はもろもろの存在にほかならず、また、もろもろの存在は一心に異ならず、全身に異なるところはない。

しかるところ、造塔などのことが、もし人の計らいにいでる純粋でないものならば、仏の悟りや、仏教の真理や、人間の仏たる可能性などもまた、不純な、人間の計らいにいずるものであろう。だが、仏教の真理や、人間の仏たる可能性は、けっしてそのような純粋ならぬものではない。だから、造像起塔などのこともまた、当然そのような不純なものではない。まったく、自然なる菩提心の発露である。自然にして煩悩にゆがめられることのない功徳である。されば、造仏起塔等のことは、ただまさしく菩提心の発露であると、ぴたりと決定(けつじょう)して信ずるがよいのである。永劫にわたる身行も心願もそこから芽ばえてくるのであり、その発心はもはやいつまでもいつまでも覆(くつがえ)すことはできない。それが仏にまみえ、法を聞くということである。

かくて、知るがよろしい。あるいは木石をあつめ、あるいは泥土をかさね、あるいは金銀や七宝をあつめて、仏像を造り、堂塔を起す。それは、とりもなおさず、一心をあつめて堂塔を起こし、仏像を造るのである。だからして、経のことばにもいう。

「この思いをなす時は、十方の仏たちはみなその姿を現じたもう」

そのいうところは、一たび仏たらんと思う時には、十方の思惟(しゆい)仏はみなその姿を現じたもうというのであり、また、なんぞ一事を仏たらんとしていとなむ時には、よろずのことがことごとく作仏のいとなみとなるというのである。そのように知るがよいのである。(277~289頁)

〈注解〉作是思惟時、十方仏皆現;「この思惟をなす時、十方の仏はみな現ず」と読まれる。『法華経』方便品にみえる句である。(279頁)

●原 文

「明星出現(ノ)時、我(ト)与大地有情、同時成道」

しかあれば、発心・修行・菩提・涅槃は、同時の発心・修行・菩提・涅槃なるべし。仏道の身心(じん)は草木瓦礫(りゃく)なり、風雨水火なり。これをめぐらして仏道ならしむる、すなはち発心なり。虚空を撮得(さつとく)して造塔造仏すべし、谿水を掬搯(テヘンをトル、さくよう)して造仏造塔すべし。これ発阿耨(のく)多羅三藐(みゃく)三菩提なり、一発菩提心を百千万発するなり。修証もまたかくのごとし。(280頁)

■「かの明星が出現した時に、わたしと大地や生きとし生けるものは、みな同時に成道した」

だからして、発心することも、修行することも、正覚(がく)を成ずることも、あるいはまた涅槃に入ることも、すべてみな同時なのであろう。いったい、仏道の身心たるものは、草木であり、瓦礫(れき)であり、あるいは水や火である。それを回向しきたって仏道となすのである。それがとりもなおさず発心なのである。されば、虚空を拈じきたって造仏起塔するがよく、谿(たに)の水を掬(く)みとって造塔するがよろしい。それがすなわち無上心を発(おこ)すということである。そして、一たびその心を発したならば、さらに百たびも千たびも万たびも発すがよい。修や証についてもまたおなじである。

それなのに、発心は一たび発(おこ)せばもはや発すことなく、修行は限りないものであるが、その成果はただ一度のさとりのみであると、そのように聞くのは、仏法を聞くというものではなく、仏法をしるというものでもなく、また、仏法に遇うというものでもないのである。思うに、千たび億たびの発心も、もとはといえば、かならず、一たびの発心のおこすところであり、また、千人億人の発心も、また一人の発心の発すところである。したがって、これを翻(ひるがえ)していえば、一人一回の発心が千億の発心となるのである。修行だの、証果だの、あるいは法を転ずるについても、またおなじ道理であろう。もし、かの草木などが草木でなかったならば、どうしてこの身心があろう。もし、また、この身心が身心でなかったならば、どうしてかの草木があろう。けだし、草木は草木であるからこそ草木である、それでこんなことをいうのである。(281~282頁)

■「華厳経」にいわく、

「菩薩が生死のなかにありて、はじめて発心する時には

ひたむきに悟りを求めて、その心かたくして動かすべからず

その一念の功徳は、深くかつ広くしてはてしもあらず

如来のことわけての説明も、窮劫(ぐうこう)に説きつくすこと能わず」

はっきりと知っておくがよろしい。生死のことをとりあげて発心するのが、それがただひたむきに悟りを求めるこことなるのである。その時、その一念は、一本の草、一本の木とおなじものになっているはずである。けだし、いまやわれも彼もただ一生一死のものとなっているからである。

だがしかし、その功徳の深きことも、また広きことも、まったくはてしないものであるという。如来はそれを「窮劫(ぐうこう)」などということばをもって説明しているけれども、とてもその期を尽くすことはできるものではない。海は涸(か)れてもまだ底があり、人は死んでもなお心はのこるのであって、とてもいい尽くすことはできない。そして、かの一念の深さ広さの果てしないように、一草、一木も、あるいは、一石も、一瓦、また果てしないものである。もし一草、一石がそうであるならば、かの一念もまたそうであろうし、またかの発心もまたしかるはずである。

とするならば、深山に入りて仏の道を思惟(ゆい)することは容易であり、塔をつくり仏の像をつくることははなはだ難いであろう。それらはともに、精進にして怠ることなきによりて成就することではあるが、その一つは、心を能動的にはたらかせて得ることであり、いま一つは、心がゆり動かされて成就することであって、それとこれとでは、はるかに相異なるのである。そして、このような発菩提心がつもりつもって仏祖が実現するのである。(291~292頁)

〈注解〉窮劫;きわまれる劫ということば。それによって時の最大値をいうのである。「窮劫を言語として」とはこの窮劫ということばを言語表現として、というほどの意である。(292頁)

発 菩 提 心 ( ほつぼだいしん)

■開 題

すでにさきにもいったように、この「発菩提心」の巻は、まえの「発無上心」の巻と、いろいろの関係をもった巻である。まず第一に、この巻は、いずれも、寛元二年(1244)二月十四日、越前吉田吉峰(よしみね)精舎において衆に示されたものとある。それぞれの巻の奥付にいうところである。つまり、おなじ日に、おなじ場処で開示されたものなのである。そのうえ、さらに第二には、この二つの巻は、いずれもおなじような題目を揚げておるのである。すでに、さきにも指摘したことであるが、さきの巻の巻題は、見られるとおり「発無上心」であるが、そのいう意味は、まったく「発菩提心」にほかならない。現に、その内容には、発菩提心のおもむきのみが説かれていて、無上心などというようなことばは一度だって出てこないのである。

そこで、当然おこってくる疑問は、では、その聴衆はどうであったかということである。つまり、その日の二回の示衆(じしゅ)における聴衆は、いったい、おなじ人々であったであろうか、それとも別の人々であったろうかということである。そのことにたいするわたしの所見はこうである。

それは、結論からさきに申すなれば、この二回の示衆は、おそらく、それぞれ別の人々を対象としてなされたものであるということである。そして、その一回、つまり「発無上心」と題するところの示衆は、在家の人々を対象として発菩提心を説いたのであり、もう一回の示衆、つまり「発菩提心」と題するところのそれは、あきらかに出家の人々を対象として、おなじく発菩提心のことを説いたものと、そのように受領せられるのである。

わたしは、この度、はじめて、この2巻をつづけて精読したのであるが、それでやっと気がついたことは、この2巻の引用や叙述には、まったく重複するところがないのである。けっして、書き直したようなものではなく、まったく別の制作である。いや、別の種の人々を対象とした新しい制作なのである。つまり、一つは在家の人々、とくに工事のため集まった人々を対象として説いたものであり、もう一つは在家の人々を対象として語っている。気をつけて読んでみると、そのおもむきが、その叙述のなかにもあきらかに汲みとれるのである。

なによりも、まず、その全巻にみなぎる雰囲気が、これとそれとでは、まったく違っているのである。「発無上心」の全巻にみなぎっているものは、なによりもまず、発菩提心のすばらしさを称(たた)え、すみやかに発心すべきことのすすめであるといってよろしい。それに対して、「発菩提心」の巻のいうところは、むしろ、発菩提心の退転を警告し、いかにしてその退廃をまもるべきかというところに重点があり、最後に悪魔なるものについて語った『大智度論』からのながながとした引用があるのが印象的である。

もっと具体的なことをもって、その証(あか)しをあげようとするならば、さきの「発無上心」の巻には、すでに指摘したことであるが、特に「造仏造塔」のことが取り上げられて、それが発菩提心の因縁として強調せられている。それは、当然のこと、新寺建立(こんりゅう)のことに尽瘁(じんすい)している工事の関係者たちのことを思い出させる。それに反して、のちの「発菩提心」の巻には、「行者」とか「初心の菩薩」とかいったことばが散見せられることが、わたしにはまた印象的であった。道元がこの山中に入ってから、まだ半年あまりに過ぎない。それにもかかわらず、その門下に投じた「初心の菩薩」は、かならずしも少なくなかったように思われる。特に、それらの出家の人々をまえにし、汝の発心をよく守護するがよい。しからずんば菩提心は退転しやすいものなのだと警告する。それは僧家をまえにしての示衆であったにちがいないと思われるのである。(296~298頁)

■経にいう。

「つねに自らこの念をなす、なにをもってか衆生をして、

無上道に入りてすみやかに、仏身を成就することを得しめんと」

これがとりもなおさず如来のいのちとするところである。仏というものは、その発心より、修行、そして悟りの境地にいたっても、いつもそのようなのである。

つまり、衆生を利益するということは、衆生をして「自らいまだ度することを得ずして、まず他を度せん」とする心をおこしたからとて、その力によって自分が仏となろうと思ってはならない。たとい、それによって、仏になるほどの功徳が十分に熟したからといっても、なおそれを他に回向(えこう)して、衆生の成仏もしくは得道に資するのでなくてはならない。(308頁)

■とするならば、いま「一切の衆生たちが、これは「わがもの」と執着している草木瓦礫(りゃく)、金銀財宝などを手放して、それを菩提心のために施しする、それもまた発菩提心でなかろうはずがあろうか。いったい、心といい物というものは、自でもなく、他でもなく、あるいは共性(ぐしょう)のものでも、無因性のものでもないのであるから、それによって、もし一刹那でも菩提心をおこすならば、それによってすべての物はそれをいやます機縁となるであろう。そもそも、発心といい、得道というも、すべてはみな刹那刹那に生じてはまた滅するものなのである。もしそうでなかったならば、前の刹那の悪はなくなるわけにゆかない。前の刹那の悪がまだなくならなかったならば、後の刹那の善がいま生ずることもできない。この刹那というものがどんなものかは、ただ如来のみひとりとく知っておられる。「一刹那の心、よく一語を起こす。一刹那の語、とく一字を説く」というが、それもまた、ひとり如来のみの知るところで、余の聖者たちの知り得るところではない。

いったい、屈強の男子がひとたび指をはじくあいだに、六十五の刹那があって、その刹那刹那にも、われらを構成する物質と精神の諸要素はたえず生滅を繰り返しているが、凡夫はそれをまったく知らず、気がつかないでいる。ただ、その刹那がつもりつもって、恆河(ごうが)の砂ほどになって、やっと気がつくのである。一日一夜のあいだには、六十四億九千九百八十の刹那があって、その刹那刹那にわれらの身心の諸要素も変わってゆく。だが、凡夫はまったくそれを知らない。知らない、気がつかないからして、菩提心をおこさないのである。つまり、仏法を知らず、仏法を信じないものは、この刹那生滅の道理を信じないのである。もし如来の正法眼蔵をあきらめ、涅槃妙心を得るというほどのものは、かならずこの刹那生滅の道理を信じているのである。(309~310頁)

■ただ、もし如来の救法の力によるならば、衆生もまたよく三千世界をみることができる。そのおおよそをいえば、いまの生の存在から、生より生にいたる中間があり、そして来世の生としての存在にいたる。その間もまた刹那刹那にうつりゆくのである。それも、わが心によってではなく、業(ごう)にひかれて生死を繰り返すのであるが、かくして一刹那もとどまることがないのである。そのように生死流転するこの身心をもって、すみやかに「自らいまだ度せずして、まず他を度せん」との菩提心をおこすがよいというのである。たとい発心せずして、ひたすらこの身心を惜しんだところが、生老病死はついにまぬがれることを得ず、この身心はついにわが有(もの)となることはできないであろう。(311頁)

■ところで、菩薩がなお初心のころ、菩提心を失うというのは、たいていは、正師にあわないからであるらしい。正師にあわなければ、正法を聞くことができない。正法を聞くことができなければ、おそらくは、因果がわからなくなり、解脱がわからなくなり、三宝(ぽう)がわからなくなり、また、過去・現在・未来などのもろもろの存在もわからなくなってしまう。そして、ただいたずらに現在の五欲にばかり執著(しゅうじゃく)して、やがて得べき悟りの功徳をとり遁してしまうのである。

あるいはまた、悪魔の王などが、行者を妨げようとして、あるいは仏の姿に身を変じ、あるいは父母・師匠・乃至は親族や天の神々などの形を現じて近づいてきて、菩薩にむかって偽りすすめていう、――仏道はながくかつ遠い、ながいながい間いろいろの苦を受けねばならない。こんな辛(つら)いものはない。そんなことよりも、まず自分がはやく生死を解脱して、それからのちに衆生を救うがよろしい。――行者のなかには、そのようなことばを聞いて、それで菩提心をしぼませ、菩薩の行業をやめるものもあろう。だが、そこをはっきり知らねばならない。そんなことをいうのは、とりもなおさず悪魔のことばである。菩薩たるものは、それを見抜いて、従うようなことがあってはならない。もっぱら、「自らいまだ度することをえずして、まず他を度せん」との願いをたてて退いてはならない。この願いに反するようなものは、総て悪魔のことばであると知るがよく、あるいは外道の説だと知るがよく、あるいはまた、悪友のいうことだと知るがよろしい。けっして従ってはならない。(322~323頁)

〈注解〉常楽我淨;常とは、変わらず移ろわざること、楽とは身の病気と心の憂えのないこと、我とは、大自在なることを得たること、そして、淨とは、三惑つきて清らかなること。この四つを涅槃の四徳という。(323頁)

■(『大智度論論』にいわく、)ー略ー 魔とはもと天竺のことばである。中国では能奪命(のうだつみょう)と訳する。死魔はまさしく命を奪うに似たることをなす。たとえば智慧の命を奪うがごときである。この故にまた殺者(せっしゃ)という。

問うていわく、

『すでに五衆の魔のなかに、他の三種の魔をふくんでいる。それなのに、なにすれば別に四つの魔を説くのであろうか』

答えていわく、

『まことは、ただ一つの魔であるが、なおその意義をいろいろと分析するからして、四つの種類を立てるのである』」

以上いうところは、かの龍樹祖師の仰せである。この道の行者たるものは、かく知ってよく勤めまなぶがよろしい。いたずらに悪魔のたぶらかしを蒙(こうむ)って、菩提心を退転せしめてはならない。それが菩提心を守護するということなのである。(326頁)

如 来 全 身(にょらいぜんしん)

■開 題

ー略ー。 かくて、この一巻もまた、きわめて短い一巻であり、かつ、その内容もきわめて簡明である。いや、けっして平凡な俗言ではないけれども、その構成は単純にして、かつ明快であり、けっして複雑多岐にわたるこのではない。

わたしは、その現代語訳において、この巻の前半の小見出しとして、

「経巻は如来の全身なり」

と記しておいたが、わたしは、この一巻の趣は、結局それだといってよかろうと思っている。いや、この巻の原文をもって、もっと敷衍(ふえん)されたところをあげてみるとこうである。

「しかあれば、経巻は如来全身なり。経巻を礼拝するは、如来を礼拝したてまつるなり。経巻にあひたてまつるは、如来にまみえたてまつるなり。経巻は如来舎利(しゃり)なり」

まことに明快である。わたしはもう、それ以上のことは、なんの付け加えるものももたない。(330~331頁)

■その時、釈迦牟尼仏は、王舎城外の耆闍崛山(ぎじゃくくつせん)に住したまい、薬王菩薩に告げて仰せられた。

「薬王よ、どこであろうと、もしくは説きもしくは読み、もしくは誦(じゅ)しもしくは書き、もしくはまた経巻の存するところには、みなまさに七宝の塔を起て、できるかぎり大きく厳(いか)めしく造り営むがよく、別にまた舎利を安置しなくてもよい。その故はなんであろうか。それはそのなかにすでに如来の全身があるからである。この塔こそは、まさにあらゆる香華や瓔珞(ようらく)や幢幡(どうばん)、あるいは、伎楽や歌頌(かじゅ)をもって供養し、恭敬(くぎょう)し、尊重し、讃歎するがよろしいもし人ありて、この塔を見ることを得て、礼拝し供養するならば、まさに知るがよい。それはもう無上最高の智慧に近づいているのである」

いまいうところの経巻とは、あるいは説きあるいは読み、あるいは誦しあるいは書するところのものである。だが、この経巻のほかになんぞ実相なるものが存するわけではない。また、まさに七宝の塔を起てるがよいというが、その規準は現実の大きさである。また、その中にすでに如来の全身があるというのは、つまり、経巻が如来の全身だということである。だからして、たといそれを説こうが読もうが、誦しようが書こうが、いつでもそれは如来の全身である。さればこそ、あらゆる香華や瓔珞(ようらく)や繒蓋や幢幡(どうばん)や伎楽や歌頌(かじゅ)をもって、供養し、恭敬(くぎょう)し、尊重し、讃歎するがよろしいという。それらのなかには、天華があり、天香があり、あるいは天蓋もあろう。だが、それらはみんな現実のものである。あるいは、そのなかにはまた、人間世界のすぐれた香や花もあり、あるいは衣服もあるであろう。それらも、もちろん、みんなあるがままのものである。あるいはまた、さらに供養といい、恭敬(くぎょう)という。それも見らるるとおりのものである。しかるを、まさに塔を起すがよいといい、また、別に舎利を安置しなくてもよいという。それでこそ、経巻がとりもなおさず如来の舎利であり、如来の全身であるということが、よく判るではないか。(333~334頁)

■だからして、経巻は如来の全身である。経巻を礼拝することは、如来を礼拝したてまつることである。経巻に出会うということは、如来に見(まみ)えたてまつることである。つまり、経巻は如来の舎利であって、そのゆえに、舎利というはこの経ということなのである。また、たとい経巻とはとりもなおさず舎利であると知っていても、舎利とはつまり経巻のことと知らなかったならば、それはまだ本当の仏道というものではないのである。

かくて、思えば、いまのもろもろの存在のあるがままの姿は経巻である。人間世界のもの、天上のもの、海中や虚空のもの、あるいはこの土やかの土のものも、みんなそのままに実相であり、経巻であり、かつ舎利である。だから、舎利を受持し、読誦し、解説し、あるいは書写して悟りをひらくがよろしい。さすれば、それがそのまま「あるいは経巻に従いて」ということである。さらにいえば、古仏の舎利というがあり、古仏のしゃりというもある。あるいは辟支仏(びゃくしぶつ)の舎利があり、転輪王の舎利があり、獅子の舎利がある。あるいはまた、木仏の舎利があり、絵仏の舎利があり、また人(にん)の舎利がある。現在の大宋国にも、代々の仏祖たちが、生きておられたころ舎利を生み出したものがあり、また、荼毘(だび)ののちに舎利を生じたものもすくなくないが、それらはすべて経巻なのである。

■釈迦牟尼仏は多くの人々に告げて仰せられた。

「わたしは、前生(ぜんしょう)において菩薩の道を行じたが、その時に得た寿命は、いま今生(こんじょう)においてもなお尽きない。さらに後生(ごしょう)みおいては、またそれに倍することとなろう」

いま釈迦牟尼仏が、今生において遺されたたくさんの舎利、それもまた仏の寿命にほかならぬと仰せられるのである。そして、その過去世において菩薩道を行じたもうたのは、この世界においてのことのみではないのであるから、その間に成じたもうた寿命は、いったいいくばくになるのであろうか。そして、そのすべてが如来の全身である。また、そのすべてが経巻なのである。(338頁)

■また、智積(ちしゃく)菩薩はいった。

「わたしの見るところでは、数もしれぬ年月にわたって、難行苦行し、功徳を積んで、菩薩の道を行じたもうて、いまだかって休止されたこともない。だから、この全世界には、芥子粒ほどでも、菩薩が身を捨て命をおわられたところでないところはない。それもまた衆生のための故であって、そののちにやっと初めて悟りの道を成就することを得られたものである」

それでもよく判るではないか。この全世界もまた仏の慈悲の心のほんの一分でしかない。あるいは、虚空のほんの一部であいかない。だから、それは如来の全身にほかならないのである。そうなってくると、もはやここには如来の身を捨てたところ、ここは身を捨てないところといった問題ではなくなる。あるいは、仏となるまえとあととで、舎利がどうのこうのということもない。それはもう仏だ舎利だとならべていうべきところではない。さらにいうなれば、数かぎりもない年月にわたっての難行苦行ということも、詮ずるところは、仏の腹中のはからいのほかではなく、仏の皮肉骨髄にほかならない。また、すでにここまでにも、いまだかって休止されたことがないとある。このことは、仏になってからも休(や)む時はなく、いよいよ精進なさるということなのである。この全世界を教化したもうても、なお休止することはないのである。如来の全身の営みはかくのごとくなのである。(338~339頁)

〈注解〉智積菩薩;『法華経』にでてくる菩薩の名である。大通智勝仏の時に出家した十六王子の一人で、また、多宝如来の会下にあったという。

菩提堂;菩薩道が修行の道であるのに対して、菩提堂は悟りの道である。あるいは、前者を下化衆生の道であるとすれば、これは上求菩提の道なのである。

赤心一片;仏の慈悲心のほんの一分というところであろう。それに対して、つづいていう虚空一隻というのは、仏の虚空身すなわち虚空にあまねき仏身のほんの一部ということであろう。かくて、この世界のすべてが「如来の全身」というところなのである。(339~340頁)

三 昧 王 三 昧(さんまいおうざんまい)

■開 題

ー略ー。 さて、この巻の題目である「三昧王三昧」ねることばは、わたしどもがこの巻において初めて出遇うことばである。その出処(しゅっしょ)はといえば、それもこの巻において知ることができるように、かの龍樹の大著『大智度論』(巻七)であるらしい。そこには

「如此修習、証入三昧王三昧」(このごとく修習して、三昧王三昧に証入す)

とみえている。それが、道元が二度にわたって引用した『大智度論』からの引用文の末尾である。早速、「大正新脩大蔵経」によって、その部分を照合してみているうちに、さらにそれに続いて、つぎのような一節があることを見出して、わたしは狂喜した。

「是三昧王三昧中最第一、自在能縁無量諸法、如諸人中王第一、王中転輪聖王第一、一切天上天下仏第一。此三昧亦如是、於諸三昧中最第一」(この三昧は、もろもろの三昧中において最第一にして、自在によく無量の諸法を縁ず。もろもろの人中には王第一、王中には転輪聖(じょう)王第一、一切の天上天下には仏第一なるがごとく、この三昧もまたかくの如く、もろもろの三昧中において最第一なり)

いったい、この『大智度論』なるものは、かの龍樹が『摩訶般若波羅蜜経』を詳釈したものであって、しばしば仏教の百科事典のごとしとされるものであるが、いまここにおいては、結跏趺坐について、そのありようとその功徳を説いて、ついにこの「三昧王三昧」の句をなすにいたっているのである。道元はそれに注して、

「あきらかにしりぬ、結跏趺坐、これ三昧王三昧なり、これ証入なり」

と相応じている。道元が殊のほかにこの句を喜んだであろうことが、よく判るように思われる。その余のことは、みじかい一巻のことそて、あまり申すべきこともないようである。(342~343頁)

■まっしぐらに一切の世界を超越しきたって、仏祖の家においてもっとも尊かつ貴なるものは、結跏趺坐である。外道や悪魔のともがらの頭上をひらりと踏みこえて、ぴたりと仏祖の家の奥ふかきところにそのなかの人たらしめるものは、ただ結跏趺坐のみである。つまり、仏祖のぎりぎりのなかのぎりぎりのところを超えてゆくには、ただこのことを措(お)いて他に手だてはない。だから、仏祖たちはみなこれを営んで、また他に為すところはないのである。

まさに知るがよい。この坐の世界とその他の世界とは、まったく別の世界である。そこの道理をはっきりとつかんだうえで、仏祖たちの発心・修行・正覚(がく)・涅槃のことをまなぶがよろしい。では、いったい、ぴたりと坐った時、この世界はたてむきであるか、よこむきであるか。あるいは、その時、その坐はいったいどうなのか。それはとんぼ返りでもしているのか。それとも、ぴちぴち跳ねているのでもあろうか。あるいは、なにか考えているのか、それとも、なんにも考えていないのか。あるいは、なにごとかを作(な)しているのか、それとも、なんにも作(し)てはいないのか。あるいはまた、坐のなかに坐っているのか、身心(しんじん)のなかに坐っているのか、それとも、坐をも身心をもすべてを忘れて坐っているのか。そんな具合にいろいろさまざまに思いめぐらしてみるがよろしい。そして、身をもって結跏趺坐するがよく、心をもって結跏趺坐するがよく、さらに身心を忘れさって結跏趺坐するがよろしい。(344~345頁)

■かくて、釈迦牟尼仏は、大衆に告げて、「この故をもって結跏趺坐するのである」と仰せられた。それからまた、如来なる世尊は、もろもろの弟子たちに教えて、つぎのように仰せられた。

「なんじらはまさに、そのように坐するがよい。世の外道たちのなかには、あるいは、足をつまだてて道を求むるものがある。あるいは、いつも立ったままで道を求むるものがある。あるいは、足を肩のうえにあげて道を求めるものもある。そのような並みはずれたことでは、心はかならず邪悪の海に没するにきまっている。その身体が安らかでないからである。だから、わたしはみなに教えて、結跏趺坐するがよい、身を正しゅうして坐するがよいという。なんお故であろうか。

それは、身を正しゅうすれば心が正しゅうなりやすいからである。その身がぴたりと正坐すれば、心もまた懶(ものう)からず。心は端正にして意識もまたあきらかに、ぴたりとそこに集中されている。もしも心が散乱したり、あるいは、その身が動揺したりしても、またすぐそれを元のようにすることができる。三昧を具現したり、三昧の境地に入りたいと思うならば、いろいろと馳(は)せる思い散る心を、みなそこに摂(おさ)めてしまうがよい。よくそれを習い修むれば、三昧のなかの王三昧を実現することができるであろう」

かくて明らかに知ることができる。結跏趺坐はこれ三昧のなかの王三昧である。それによってその境地に入ることを得る。そして、その他の三昧はすべて、この王三昧の身内なのである。

その結跏趺坐は、身を正しゅうする。心を正しゅうする。身心を正しゅうするのである。かくて、そこには正しき仏祖があり、正しき修行と証得がある。さらにいえば、正しき頭脳があり、正しきいのちがある。つまり、いま、人間の皮・肉・骨・髄のことごとくをぴたりと結跏して、三昧のなかの王三昧を趺坐するのである。世尊もつねにこの結跏趺坐を保持なされて、もろもろの弟子たちにもそれを正伝なされた。また、世の人々にもそれを教えたもうた。いうところの七仏より正伝しきたったという心のありようとは、とりもなおさずこれにほかならないのである。(352~353頁)

■だからして、一生であろうと万生であろうと、ともあれ始めから終りまで、いささかも禅林をはなれることなく、昼夜ただひたむきに結跏趺坐して余事を顧みることなきもの、それが三昧のなかの王三昧というものである。(354頁)

〈注解〉三昧王三昧;ここにはじめて巻題のことばがでてくる。三昧のなかのもっとも大事な三昧というほどの意であって、『大智度論』の文にも、つづいて「是三昧於諸三昧中最第一……」(この三昧はもろもろの三昧のなかにおいて最第一……)とみえている。(354頁)

三 十 七 品 菩 提 分 法(さんじゅうしちぼんぼだいぶんぽう)

■開 題

ー略ー

仏教の行者として、正業すなわち正しき業(わざ)はなんであるか。それは、ずばりと、出家修道であり、山に入って悟りをひらくことである。出家の心と在家の心と、結局は異なるものでないなどとは、とんでもない魔子・畜生のいうことである。そこは、ぴたりと、

「いまだ出家せざるものの、仏法の正業を嗣続(しぞく)せることあらず、仏法の大道を正伝せることあらず」

と知らなければならない、という。(359頁)

■まず四念住(しねんじゅう)である。それはまた四念処(しねんじょ)ともいう。つぎのごとし。

一には、身の不浄なることを観察する。

二には、受(感受)はこれ苦なりと観察する。

三には、心は無常なりと観察する。

四には、存在はすべて我(が)なきものなることを観察する。(363頁)

■いったい、世尊には夜半に明星を見たもうて正覚(がく)を成じたという。その道理もまた身の不浄なるを観じたもうたにほかならない。それは淨か穢(え)かといったことではない。全身これ不浄なのであり、この身このままに不浄なのである。そのようにまなびいたってみると、悪魔が仏となる時には、悪魔の身をもって悪魔を降して仏になるのであり、仏が仏となるときには、仏の身をもって仏になろうとして仏になるのであり、また、人が仏となる時には、人の身をもって人を調(ととの)えて仏になるのだとわかってくる。まさしくそのままにしてというところに、大事な呼吸があることをよくよくまなびいたるがよろしい。(364頁)

〈注解〉一皮岱は尽十方界……;道元がしばしば引用する句に「生死去來、真実人体」(圜悟禅師のことば)とあり、あるいは「尽十方界、真実人体」(長沙禅師のことば)とある。一皮岱とは、この人間の皮をかぶった身をいうことばであるが、それがそのまま「尽十方界」であり、あるいは「真実体」であるというのは、そのような句を背景として語られているものと知られたい。なお、それについては、さきの「身心学道」の巻を参照されたい。(365頁)

■つぎには五根すなわち五つの能力である。つぎのごとし。

一には、信根(しんこん)すなわち信の能力である。

二には、精進根すなわち精進の能力である。

三には、念根すなわち念の能力である。

四には、定根(じょうこん)すなわち定の能力である。

五には、慧根(えこん)すなわち智慧の能力である。

まず、信根というのは、自己の能力でもなく、また他者の力でもないと知らねばならない。あるいは、自己が強いてなすところでもなく、自己が仕組んでなすわけでもなく、また、他者にひかれてなすのでもなく、自己のさだめなきさだめによるわけでもない。だからして、はじめて西天東地の仏祖たちがこの信根をこそ道の元、功徳の母としてぴたりと相伝しきたることを得たのである。思うに、全身がもはや信よりほかの何ものもないというにいたって、それを信と称するのである。だからして、信はいつでも仏の境界と相伴っているものであり、仏の境界にあらずしては信は実現しないのである。そのゆえにこそ、

「仏法の大海は、信を能入となす」

というのである。すべての信の実現するところは、かならず仏祖の実現するところなのである。

つぎに、精進根というのは、よくみずから省みきたって、ただひたすらに坐ることである。休(や)めようと思っても休めることができないのである。勤勉といえばたいへん勤勉なのであり、悠々としているといえば至極悠々たるものである。そして、勤勉といっても悠々と大してかわりはないのである。

かって、釈迦牟尼仏は仰せられた。

「わたしはつねに勤めて精進した。それでわたしはすでに最高無上の智慧を成就することを得た」

いうところの「つねに勤めて」とは、過去・現在・未来を通じて、いつもかわらず怠らなかったというのである。そして、わたしはつねに勤めて精進したから、それですでに無上にして最高の智慧を成ずることを得たという。それを翻(ひるがえ)していえば、わたしはすでに最高無上の智慧を成ずることを得たから、つねに勤めて精進するのだともいってよいはずである。もしそうでなかったならば、いったい、どうしてつねに勤めることができようか。また、そうでなかったならば、いったい、どうして智慧を成ずることを得たであろう。そういう意味は、論ばかりをひねくり、経ばかりを勉強ばかりを勉強している学僧たちでは、とても判ろうはずはない。ましてや、そんなことを師についてまなんだことのあろう道理はない。(388~389頁)

■つぎには、五力である。つぎのごとし。

一には、信の力である。

二には、精進の力である。

三には、念の力である。

四には、定(じょう)の力である。

五には、智慧の力である。

まず信の力というものは、自分じしんに騙(だま)されて、もう遁(に)げるところがないといったところであり、あるいは、仏祖に呼びかけられて、どうしても頭をむけずにはおれないといったところである。だからもう、生涯を通してもはやこれよりほかにはないのである。たとい、いくら転(ころ)んでもかまうことはない、なんど倒れてもやっぱりそれで行くのである。だからして、信は水晶の珠のごとしという。伝法といい伝衣というも信にほかならず、それによって仏を伝え、祖を伝えるのである。

つぎに、精進の力というのは、行のとどかぬところを説くことであり、また、説のおよばぬところを行ずることであるという。だからして、一寸を説きうる時には、一寸を説くに如(し)くはなく、また、一句を行じうる時には、一句を行ずるに如くはないのである。つとめてするうちに力を得る、それが精進の力というものである。

つぎに、念の力のことであるが、人の鼻かぶをとらえて引っ張ったのでは、ひどい奴だといわれるにきまっている。そこは、やはり、鼻がひっぱるのでなくてはならない。そうすれば、玉は玉をひくこととなり、瓦は瓦をひくこととなるのであろう。なに、まだそれを用いたことはないというのか、それは三十棒をくらうに値するわい。この念の力というものは、天下の人がみんな用いたって、いっこうに擦りへるような心配はないというものである。

また、定の力というものは、子がその母を得たるがごとくであり、あるいは、母がその子を得たるがごとくである。あるいはまた、子のその子を得たるがごとくであり、母のその母を得たるがごとくである。だがしかし、だからといって、頭をもって顔に換えるわけでもなく、また、金をもって金を買うわけでもない。ここはもう、唱えばいよいよ声高しというところであり、修すればいよいよ強しというところである。

最後に、智慧の力というものは、一朝一夕にして成るものではない。だが、これが成就すれば、船の渡しに遇うがごときものである。だから昔から、また渡しに船を得るがごとしという。そういう意味は渡しにはかならず船だというのである。この渡しにもかの渡しにも、船があってはじめて自由自在なることをうるのであって、智慧の光のあるところには、春の氷はおのずから消えてゆくのである。(394~396頁)

■つぎには、八正道である。それはまた八聖(しょう)道ともいう。

一には、正(しょう)見を実践することである。

二には、正思惟(しょうしゆい)を実践することである。。

三には、正(しょう)語を実践することである。。

四には、正業(しょうごう)を実践することである。。

五には、正命(しょうみょう)を実践することである。

六には、正精進を実践することである。

七には、正念を実践することである。

八には、正定(しょうじょう)を実践することである。

まず正見道支、すなわち、正見という実践の徳目であるが、それは、いうなれば、眼睛(ぜい)のなかに身を蔵(かく)すことである。だがしかし、そのためには、まず、この身が生まれるさきに遡(さかのぼ)って、この身よりさきに生まれた眼をもたねばならない。それは、いまだかって眼のまえに堂々として見えているものと別のものを見るわけではないが、それがいわゆる悟りの実現なのであり、遠いとおい昔から仏祖たちが親しく見てこられたものにほかならないのである。そして、その眼のなかにわが身を蔵(かく)したものでなくては、けっして仏祖とはいえないのである。

つぎには、正思唯道支、すなわち、正しい思惟の実践という徳目であるが、この思惟をなす時には、十方の仏たちがみな現れてくるという。だからして、これを翻(ひるがえ)していえば、十方が現じ、諸仏が現われてくる時は、とりもなおさず、まさしくこの思惟をなしている時なのである。だから、また、この思惟をいとなんでいる時、それは自己でも、他者でもないとしなければならない。だがしかし、いまやこの思惟を思惟し終わったその時には、その人はすぐ波羅奈(はらな)の郊外なる鹿野苑(ろくやおん)に赴いているのである。なんとなれば、この思惟のあるところは、それは鹿野苑であるからである。かって古仏は、仰せられたことがある。

「それは不思量のところを思量することである」

すると僧はまた、問うていった。

「その不思量のところを、どうしたら思量できましょうか」

師は仰せられた。

「それは非思量だよ」

これが正しい思量であり、正しい思惟というものである。坐して蒲団を坐りぬく。それが正しい思惟というものなのだ。

つぎには、正語道支、すなわち、正しい言語の実践という徳目である。そのありようをいわば、唖子は自分では唖子だとは思っていないというところであろうか。みんなのなかでの唖子はまだ一度だって物をいい得たことはない。だが、唖子の世界のなかではみんな唖子ではないのである。彼らは、べつに、もろもろの聖者を慕うこともなく、あるいは、おのれの霊性を重んずることもしない。ただ、ひたすらに、「口はこれ壁に掛けておく」ものなることをまなび究めるのである。一切の口を一切の壁にかけるのである。(404~406頁)

■そういうことであるので、曹谿古仏すなわち六祖慧能だって、たちまちにして親のもとを辞して師を尋ねたのである。それが正しい業である。まだかの『金剛(こんごう)経』を聞いて発(ほつ)心するにいたらなかったころには、樵夫(きこり)を生業として家にあった。だが、いまや『金剛経』を聞いて仏法の力の薫ずるところとなってからは、さらりと重き担(にな)いものを抛()ほうり出して出家したのである。それによっても判るとおり、ひとたびわが身心が仏法の薫ずるところとなってしまえば、もはや在家にとどまることはできないのである。そして、もろもろの仏祖もまたみなそうなのである。それを、出家してはならぬなどという奴は、逆罪をつくるよりもっと重い罪を犯すのであり、仏敵なり提婆達多(だいばだった)よりもさらに悪いやつだとしなければならない。あるいは、六群の比丘(びく)とか、六群の比丘尼(びくに)とか、もしくは十八群の比丘などといわれる連中よりも、もっと罪が重いということを知って、ともに相語らうことをやめるがよろしい。思えば一生の寿命などいくばくでもないものであって、そんな悪魔の子や畜生などと相語らっているような時間などありはしない。ましてや、この人間として受けた身心は、さきの世にも仏法を見聞した種子を蔵(かく)しているのであって、仏法に無縁のものではあるまい。これを悪魔のやからとなしてはなるまい。悪魔のやからに投じてはなるまい。むしろ、仏祖のふかき恩をわすれることなく、法の乳にとってはぐくまれたものをよく保護して、悪しき犬どもの叫び声を聞かしめないようにするがよい。ましていわんや、悪しき犬どもと坐をおなじゅうし、食をともにするなど、もってのほかのことである。(415~416頁)

■思うに、大師釈尊が、かたじけなくも父王の位をすてられて、これを嗣がせられなかったのは、けっして王位が貴(たっと)からぬからではなかった。それはただ、もっとも貴い仏の位を嗣がんがためであった。その仏の位とは、つまり、出家の位である。三界の天衆も人衆も、みなことごとくおし頂いて、崇敬してやむことなき位なのである。梵天王・帝釈天王といえども、坐をひとしゅうせざるところである。ましていわんや、この下界の人衆や龍衆の王たちの並ぶものであろうはずはない。それはまさしく無上の等正覚(がく)の位である。その位にあってこそ、はじめてよく法を説き、衆生を救済し、光を放ち、瑞相を現ずることができるのである。そして、出家の位にあって営むもろもろの業は、それこそその位にいたる正しき業なのであって、それはまた、七仏ならびに諸仏のつねに抱懐(ほうかい)してゆるがせにせざるところである。さらにいうなれば、それはまた、ただ仏と仏にあらざれば、究め尽くすことをえざるところである。されば、いまだ出家しないものたちは、すでに出家せるものに、よく見(まみ)えたてまつり、仕えたてまつり、頭を低うして敬礼(きょうらい)し、身命をもなげすてて供養したてまつるがよいのである。(416~417頁)

■つぎには、正念道支、すなわち正しい憶念の実践の徳目である。それは、いうなれば、自らだまされて、いつの間にか法に近づいているのである。正念がなってそこでそこから智が生じてくると、そのようにまなぶのは「父を捨てて逃げる」というものである。念が智であり、智が念なのである。またあるいは、念のなかで智がおこるのだとまなぶのも、やはり捉われた考え方である。だからといって、なんの念ずるところもない無念無想こそとりもなおさず正念だと思ってはならないし、あるいは、転倒した心や意識などを念といってはいけない。それは、まさしく、「汝はいまやわが皮肉骨髄を得たり」という時、それがとりもなおさず正念道支というものである。(434~435頁)

■最後に、正定道支、すなわち定の実践の徳目である。それは仏祖をも超越することであり、正定そのものを超越することである。よくそこに到った時、その人はすでによく自由になにごとをもなしうる器量があるのであって、たとえば、頭(ず)頂を切り裂いて鼻の孔をつくることでもできるであろう。思うに、世尊は正法眼蔵のなかにあって、優曇華(うどんげ)を拈じたもうた。優曇華のなかには百千の迦葉(かしょう)があって破顔し微(み)笑する。その話は久しく用いきたって、いまは破れ木杓にもひとしい。だからして、草枯れ葉落つること六年にして、葉開くこと一夜である。だが、劫火(ごうか)は洞然として燃えようと、大千世界はすべて崩壊しようと、すべてはなるように任せておけばよろしい。(435頁)

渓声余韻6(岡野注;増谷文雄氏のあとがき)

■それから、道元はさらに、足掛け三年かの地にとどまって、宝慶三年の冬、天童に告暇した。去るにのぞんで、如浄より芙蓉道楷の法衣などを授かり、また、

「国に帰らば化を布(し)き、広く人天を利せよ。城邑聚落に住するなかれ、国王大臣に近づくなかれ、ただ深山幽谷に居して、一箇半箇を接得し、わが宗を断絶に到さしむることなかれ云々」

との教誡を与えられて帰ってきた。国に着いたのは安貞二年(宋の紹定元年)の正月であったらしい。(442頁)

■いうまでもなく「教外別伝」とは、禅門のよってたつ根本の主張であるとされている。それを「謬説」として却ける道元の痛烈な言辞は、読む人をして唖然たらしめるのであるが、よくよく調べてみると、それは、かって道元が、如浄の方丈において問うてえた答えの花開けるものと知られる。その時、如浄は「仏祖の大道、なんぞ教内教外にかかはらんや。……世界に二種の仏法あるべからず」と道元に教えたという。(443頁)

■だが、あたかもよし、仁治二年(1241)二月中旬には、かってかの国にありしころの兄弟弟子の瑞巌義遠(ずいがんぎおん)が『天童山景徳寺如浄禅師読語録』を送ってくれた。また、その翌仁治三年(1242)八月五日には『如浄和尚語録』二巻も到来した。道元がそれらを貪るようにして読んだであろうことは、そのころ制作された『正法眼蔵』の巻々を披見しただけでもよく判る。十五年まえの師のことば、この時にいたって道元の心中にあって開花し結実したとしても、なんの不思議もないではないか。(444頁)

(2016年8月1日)

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『正法眼蔵(7)増谷文雄 全訳注 講談社学術文庫

転 法 輪(てんぽうりん)

■先師なる天童如浄古仏は、法堂(はっとう)にいでまして仰せられた。

「示す。世尊は、一人が真(しん)を発して源(みなもと)に帰すれば、十方(じっぽう)の虚空はことごとく消えて見えなくなる、と仰せられた。わしの師匠は、それについて、これはすでに世尊の説きたまうところであるから、きっと滅多にないことをお考えなのであろうとの仰せであった。だが、天童(わし)はそうは思わない。一人が真を発して源に帰すれば、乞食も飯椀を叩きわってしまうだろうわい」

また、五祖山(ごそざん)の法演(えん)和尚は仰せられた。

「一人が真を発して源に帰すれば、十方の虚空は、がちゃんとぶっつかるであろう」

また、仏性法泰(ほうたい)和尚は仰せられた。

「一人が真を発して源に帰すれば、十方の虚空は、ただこれ十方の虚空である」

また、か夾山(かっさん)の圜悟禅師は仰せられた。

「一人が真を発して源に帰すれば、十方の虚空は、錦上に花を添えるであろう」

また、わたくし大仏寺(じ)の道元はいう。

「一人が真を発して源に帰すれば、十方の虚空もまた、真を発して源に帰するであろう」

いま挙げて示すところの「一人真を発し源に帰すれば、十方の虚空はことごとく消えて見えなくなる」という句は、『首楞厳経(しゅりょうごんきょう)』のなかに見えることばである。その句は、これまで幾人かの仏祖が、ひとしく挙げて示したまうところである。かくて、いまやこの句は、まことに仏祖の骨髄であり、仏祖の眼睛(ぜい)であると申さねばならない。(20~21頁)

自 証 三 昧(じしょうざんまい)

■〈注解〉為法捨身(いほうしゃしん)・為身求法(いしんぐほう)……;法のために身を捨てることと身の為に法を求めること。それが求法の表であり裏である。(31頁)

■しかるところ、それらすべて、あるいは善知識にしたがい、あるいは経巻にしたがっているにちがいないのであるが、まことは、また、すべて自己にしたがっているのである。その時、その経巻はおのずからにして自己の経巻であり、その善知識はおのずからにして自己の知識なのである。だからして、あまねく天下の知識に参じてまなぶということは、つまり、あまねく自己に参学するということにほかならない。あるいは、百草を拈じてというは自己を拈じてということにほかならず、また、万木をとりてというは自己をとりてということのほかではない。自己というものは、かならずかようにして参学すべきものと知らねばならない。また、このようにしてまなぶことによって、はじめて自己を超えて、ああ自己とはこれかと合点することができるのである。(35~36頁)

■また、いく生涯となく生を重ねて、法を説き法を開くということは、つまり、世々に聞法することである。さらには前生において正伝を受けた法を、さらに今生でもまた聞くのである。それは、またいえば、法のなかに生まれ、法のなかに死するのであるから、この世界のいたるところに法を伝えているのであって、よく生々に法を聞き、そのたびごとにその身に法を修するのである。とすれば、それはいいかえれば、生々に法を実現せしめ、いずれの身にも法をあらしめるのであるから、極小の世界から極大の世界にいたるまで、一切の世界をして法を証(あか)しせしむるものということをうるであろう。

であるからして、東のほとりにして一句を聞くことをえたならば、西のほとりにいたって一人のために説くがよろしい。それはとりもなおさず、一つの自己をもって、聞くことと説くことの二つを、ともにいとなむことにほかならないのであり、東の自己も西の自己も、ともにおなじく修行するのである。ともあれ、なんとしてでも、仏法・祖道にわが身心を近づけてそれを実践すること、それをのぞみとし、それを喜びとし、それをこころざしとするがよい。それを一時(ひととき)からはじめて一日におよび、さらに一年から一生におよぶ営みとするがよい。仏法をわが魂としてたえず思いめぐらすがよい。それが、生々をむなしく過ごさないということである。

それなのに、まだ悟りを得ないで他人に説くべきではないと思うのはまちがいである。悟る時をまったのでは、いつまで経ってもその時は来るものではない。たとい人間界の仏を悟ることができても、さらに天界の仏をも知らねばならない。たとい山のこころを悟ることができても、なお水のこころも知らねばならない。たとい因果関係によって生ずるものを知りつくしても、さらに因果によらずして生ずるものも知らねばなるまい。また、仏祖のほとりのことまでは知りえたとしても、さらに仏祖の彼方をも知らねばなるまい。それらのことを一生のうちに明らかになしおわって、そののち他人のために説こうなどとというのは、よい工夫というものではない。また、よき男子の考え方でもなく、仏教をまなぶものの思うべきことでもない。(41~42頁)

■この一段の物語を点検してみると、湛堂はなお宗杲(そうこう)を許さなかったことがわかる。宗杲は、たびたび開悟しようとしながら、どうしても一つの事だけが欠けていたのである。その一つの事がどうしても身につかなかった。その一つの事がどうしても超えられなかった。そのまえには、道微和尚が嗣書のことをしりぞけて、なんじはなお足らざるところがあるぞと勧告したが、道微和尚の機を見るまなこが明らかであったことも、よく判るではないか。彼じしんは、「まさしくわたくし宗杲の疑問としていたところでございます」といっておるが、それを究めいたらず、それを超越もせず、打ち破ることもせず、大いに疑うこともなく、その疑いに躓(つまず)いてはっと気がつくということもなかった。また、その以前には、みだりに嗣書をお願いしたりしたが、それはこの道を参学するものの軽率というものである。無道心のいたりである。古(いにしえ)にまなぶということをまったく知らざるものである。あるいは、無遠慮というものである。この道の器ではないといわねばならない。学に疎きことはなはだしいのである。名を貪(むさぼ)り、利を愛することによって、仏祖の奥ふかきところを犯さんとするのである。可愛そうに、まるで仏祖のことばなどは知ってもいないのである。

思うに、古を稽(かんが)えるということは自証にほかならない。あるいは、万代をあさり歩くということは自悟にほかならない。そのことをまなばず、理解しないから、このようなよからぬこととなり、自己矛盾におちいるのである。そんな具合であったから、宗杲(こう)禅師の門下には、結局、一人も半人もとるに足る本物はなく、たいてい、似せもの、仮りのものばかりである。仏法を会得するかしないかは、こんなものである。いまの雲水もまた、かならず事つまびらかにまなびいたるがよろしい。けっしていい加減にしてはならない。(54~55頁)

〈注解〉これ以下のかなり長文にわたる部分は、すべて大慧宗杲(だいえそうこう、1163寂、寿74)に対する道元の批判である。彼は、圜悟克勤(えんごこくごん)の法嗣で、径山(きんざん)に住し、大慧禅師の賜号を得た人であるが、それに対する道元の批判はかなり手きびしいものがある。それというのも、仏祖の大道は自証自悟の道にほかならないのであるが、その自証自悟というはまことに微妙な機微に属する。その真相をあかさんがための、かくは長文におよぶ宗杲の批判となったものと知られる。そして、この一段では、まず、『大慧普覚禅師宗門武庫』によって、数おおくの引用がなされ、彼が圜悟克勤(こくごん)に投ずるまでの参学の過程が語られ、その批判がなされているのである。(55頁)

■だからして、宗杲禅師は師の才のなかばにも及ばない方だと知るがよい。ただ、わずかに『華厳経』や『楞厳(りょうごん)経』などの文句を暗誦して、それを伝え説くのみであって、いまだ仏祖の骨髄を得た方ではなかった。また、宗杲の考え方によると、彼は、大小の隠者たちがふと草や木にやどる精霊にひかれて保持するところの見解が、それが仏法であると思っている。仏法をそんなものと思っていることでも、彼がまだまだ仏祖の大道をまなびいたっていないということがよく判るはずだ。しかるに彼は、圜悟に参じて以後は、もはやさらに他を遊歴して、善知識をたずねることもしなかった。それでも、なおみだりに大寺の主となって、雲水を指導していた。だが、そののこした語句をみると、まだまだ大法のほとりに及ばずと申さねばなるまい。

それなのに、そういうことを知らない人々を、宗杲(こう)禅師はむかしの仏祖をくらべても恥じない方だと思っている。だが、よく判ったいる人々は、ちゃんと、彼はまだまだ本当には悟っていないのだと知っている。まさしく、ついに大法をあきらめるにいたらず、ただいたずらにべちゃくちゃ喋っていただけのことである。だからして、また、洞(とう)山の道微(どうび)和尚は、そこを誤らずして、後世の鑑(かがみ)となられたのだと知られる。それなのに、宗杲禅師に参学した人々は、いまもなお道微和尚を嫉視してやまない。道微禅師はただ印可を与えなかっただけのことである。また、文準和尚が彼に許しを与えなかったことは、道微和尚よりももっと厳しかった。相見(まみ)ゆるたびごとに叱られるばかりであった。だが、彼は文準和尚をすこしも恨みはしなかった。それを、その後のものやいまのものが嫉むなどということは、それこそよっぽど恥ずかしいことでなければなるまい。(61~62頁)

■知るがよい。仏祖より仏祖へと、西天ならびに東地において正伝されていた嗣書は、青原山のながれを汲むものが正伝である。そして、青原行思以後は、やがて洞(とう)山が正伝するところとなった。それは、その他の諸方の長老たちのまったく知らざるところである。知っているのは、ただ洞山のながれを汲むものだけであって、そのほまれは雲水たちにもほどこされている。宗杲禅師ごときは、その生けるころには、なお自証自得ということばをすら知らなかった。ましてや、その他の公案については、とても徹底してまなびいたっていたとは思われない。また、ましていわんや、宗杲よりも後進のものは、誰が自証などということばを知っていようぞ。

ともあれ、こういう具合であるから、仏祖の語られたいろいろのことばには、かならず仏祖の身心がやどり、仏祖の眼睛がそなわっている。つまり、それは仏祖の骨髄なのであるから、並々のものではその皮を得ることもできるところではない。(62~63頁)

〈注解〉青原山;青原行思は吉州青原山の静居寺(じょうこじ)に住した。(63頁)

大 修 行(だいしゅぎょう)

■また、老人は、それよりのちは五百生のあいだ野狐の身に堕したというが、いったい、その野狐の身に堕するとはどういうことであろうか。それは、以前から野狐があって、それがさきなる百丈を招きよせて堕(お)とさせるというわけではあるまい。むろん、さきなる百丈山の住持が野狐であろうはずはあるまい。また、さきなる百丈山の住持の精魂がでてきて、それが野狐の身体のなかに入りこんだのだといえば、それは外道の考え方というものである。むろん、野狐がやってきてさきなる百丈山を呑みこんでしまったというはずもあるまい。もしそのようにして、さきなる百丈山がすっかり野狐になってしまったというならば、その時には、どこかにさきの百丈山の脱殻があって、それではじめて野狐の身に堕ちるはずであろう。だからといって、百丈山と野狐の身とを取り換えたというわけでもあるまい。

因果というものは、けっして、そんなものであろうはずはないのである。因果は、本有(ほんぬ)すなわちもとより有るものでもなく、また、始起(しき)すなわちある時始めておこるものでもなく、あるいはまた、なにかしら因果というものがあって、それが人を待ちうけているわけでもない。だから、たとい「因果に落ちない」と答えたその答え方が間違っていたとしても、かならずしも野狐の身に堕ちるときまっているわけではない。もしも修行者の問いに対して間違った答えをすれば、その業を因としてかならず野狐の身に堕(だ)するということであれば、近来の臨済や徳山や、その門人たちは、もう幾千たび幾万たびとなく野狐に堕ちたことであろう。そのほか、ここ二、三百年来のいい加減な長老など、どれだけ野狐になったか判らないほどであろう。だがしかし、一向にそんな話も聞かない。たくさんあるならば、見聞きすることもあろうと思われるのに、一向にそんな話も聞かないのは、みんな正しい答え方をしているのであろうと、そういいたいところであるが、実のところは、いまの「因果に落ちず」よりも、もっとひどいいい加減な答えのみがああく、仏法の近くにもおけないようなものばかりである。そこは、ほんとうにこの道をまなぶ眼があって判るところであって、まだその眼がそなわらずしては、なかなか判らないのである。

だからして判るではないか。答え方がわるくて野狐の身となるのでもなく、答え方がよくて野狐の身とならないわけでもないのである。ただ、この物語のなかには、野狐の身を脱してのち、かの人はどうなったか、それについてはなにごともいっていない。きっとそこには、なにか大事なことが蔵せられているにちがいあるまい。(75~76頁)

〈注解〉後漢永平;永平は後漢の年号であって、その十一年(68)に仏教が伝来したとの伝説が、古来からよく知られている。

     梁代普通;普通は梁の年号であって、その元年(520)に達磨は、海路を通って中国に到着した。

■それなのに、まだまるで仏法を知らない連中がみんないっておる。野狐の身を抜けだしてしまうと、こんどは本覚(がく)の性(しょう)海に帰入するのだ。これまではしばらく迷妄によって野狐の身に堕(お)ちていたけれども、ひとたび大悟すれば、野狐の身もすでに本性に帰するのである、と。これは、外道がいうところの本我に帰るということであって、けっして仏法ではない。もしの、野狐には本性というものはない、本覚ということはありえないというならば、それは仏法ではない。あるいは、大悟すれば、それで野狐の身をはなれるの、捨てるのというならば、それは野狐の大悟ではない。そんなのはいい加減な野狐であろう。そんないい方をしてはいけない。(82頁)

■仏祖の流れを汲むものとしては、ひたすら仏祖の法式を重んずべきである。百丈のように人に乞われるままにまかせてはてはならない。仏祖の法式は、一事一法といえども、容易に遇(あ)いがたいものである。世俗にひかれ、人情にひかれて、それを曲げてはならない。殊(こと)に、この日本のようなところでは、仏祖のさだめる法式には、なかなか遇いがたく、聞くこともむつかしかったのである。それが、いまでは、稀に聞くことがあり、見ることができるようになったのである。とするならば、そのような時には、それを髻中(けいちゅう)の珠よりも厚く尊崇するがよろしかろう。しかるに、善業によって植えた福徳の果報のない連中は、それを尊崇する信心がうすい。可哀そうなものである。それは、つまり、事の軽さと重きをまったく知らないからであり、あるいは、五百年、一千年のさきまでも見通す智慧がないからである。(86頁)

虚 空(こくう)

■「ここはいったい、いかなるところであるか」という。それは坐禅する蒲団のうえである。その道が実現すれば、そこには仏祖がなる。仏祖の道が成就すれば、おのずからして嫡々相承して仏祖の皮肉骨髄なる渾身は、虚空にかかって存する。その虚空とは、諸法皆空の理をかたって二十空を立つるの類(たぐい)ではない。いったい、空といえばただに二十空どころか、八万四千の空がある。いや、さらにそれ以上である。(100頁)

〈注解〉まず冒頭に主題の趣きが語られる。それは、仏祖の皮肉骨髄なる渾身は虚空に掛るということである。さらにいうなれば、そのような表現は、まもなくこの巻の文中に現われてくる先師天童如浄和尚の偈によるものであると知られる。

■おおよそ、この世界には、どこにも、虚空を容れるほどの隙間はないけれども、ともあれ、この一段の物語は、久しき昔より今日にいたるまで轟きわたっている。石鞏や西堂よりのちにも、五家の宗匠と称する方々はたくさんいるけれども、なおよく虚空を見聞し、あるいは推測したものは稀である。また、石鞏(しゃっきょう)や西(せい)堂の前後には、虚空を弄(もてあそ)ぼうとしたものもすくなくなかったが、なおよく手をつけることのできたものはすくない。ただ、石鞏はよく虚空をつまむことができた。また、西堂はよく覗い見ることができなかった。そこで、ひとつ、わたくし道元も、石鞏にむかって一言を呈するならば、いまもいうように、かつてそなたは西堂の鼻をつまんだというが、それが虚空を捉えるのだというならば、さて他(ひと)の鼻をつままずとも、自分で自分の鼻をつまんだらよいではないか。ここはさらにひとつ、指さきで指さきをつまむことを知るもよろしい。だがしかし、石鞏はいささか虚空の捉え方を知っていたのである。だが、また、たとい虚空を捉える名人上手であろうとも、なおよく虚空の内外をまなぶがよく、虚空の活殺をまなぶがよく、また虚空の軽重を知らねばならない。もろもろの仏祖たちが、功夫弁道し、発心修証し、あるいは語りあるいは問う。それこそとりもなおさず虚空を捉えることだと承知するがよいのである。

かって、先師なる天童如浄古仏は、偈をなして仰せられた。

「全身口に似て、虚空にかかれり」

それであきらかに判るではないか。虚空の全身は虚空にかかっているのである。(106~107頁)

■洪州西山の亮座主(ざす)は、馬祖に参じてまなんだ人であるが、ある時、馬祖は問うていった。

「そなたは、いかなる経を講ずるのか」

亮座主はいった。

「心経(ぎょう)でございます」

馬祖はいった。

「なにをもって講ずるのか」

亮座主はいった。

「心をもって講ずるのでございます」

馬祖はいった。

「心は役者のようなものである。また、意はその脇役のようなものだし、六つのにんしきはそのつれのようなものである。それが、どうして経を講ずることができようか」

そこで、亮座主はいった。

「心がすでに講じえないとするならば、いったい、虚空でも講ずることができるというのでございますか」

馬祖はいった。

「さよう、虚空が講ずることができるのだ」

亮座主は、それを聞いて、袖を払ってその座を立った。 馬祖はうしろから、「座主よ」と声をかけた。亮座主が首をめぐらせると、馬祖はいった。

「生まれてから老いにいたるまで、ただこれ虚空なのだ」

亮座主は、それを聞いて省(かえりみ)るところがあり、やがて西山に隠れて、その後はなんの消息もなかったという。

ということであって、仏祖はすべて経を講ずる者である。その経を講ずるにあたっては、かならず虚空をもってする。虚空によらずしては、一経をも講ずることはできない。たとい、心経を講ずるにも、あるいは身経を講ずるにも、いずれも虚空をもって講ずるのである。虚空をもって思量を実現し、不思量をも実現するのである。あるいは、有師の智を成就し、無師独悟の智をも成就するのである。あるいはまた、生まれながらの知をなし、まなんで得る知をなすにも、ともに虚空によるのである。さらにいうなれば、仏となるも祖となるも、おなじく虚空によるのであろう。(111~112頁)

〈注解〉洪州西山亮座主;その伝は、『景徳伝灯録』巻八にみえているが、それによるも、馬祖道一の法嗣であったこと、もと蜀の人であったこと、経論を講ずることをよくしたことのほかは、「遂に西山に隠れ」て消息を絶ったため、なにごとも知られていない。

婆修盤頭;“Vasubanndhu”を音写してかくいう。訳すれば、世親もしくは天親となす。有名な論師であるが、また禅門では、西天第二十一祖となす。(113~114頁)

鉢 盂(はちう)

■開 題

この一巻は、寛元五年(1245)三月十二日、新寺なる大仏寺において衆に示された。大仏寺において開示された二本目の『正法眼蔵』である。

それは、ごく短い一篇であり、その内容もいたって簡単であるが、そのなかにも、なにかひしひし感ぜられるものは、いまや道元は、新しき寺における新発意(しんばち)の雲水たちの修行に、ひたむきに心を傾けていられるのだなあということである。

ー中略ー

つまり、それは、比丘のもちうる食器である。それについて、わたしのまず思い出すことは、かの三衣一鉢ということばであり、ついで思い出すのは「衣鉢(えはつ)を嗣ぐ」ということである。その前者は、比丘の所持すべきものをいったのであり、その後者は、袈裟・鉢盂を伝持することが、とりもなおさず、正法眼蔵・涅槃妙心を伝持することにほかならずというのである。そして、いま、道元がこの巻において開示しようとするものも、またその間の消息についてのほかではないのである。(116~117頁)

■思えば、それは、七仏よりももっと以前から七仏に正伝し、七仏にいたってからは、つぎつぎに七仏に正伝し、すべての七仏の正伝しおわって、さらに七仏から二十八代を正伝してきたものである。さらにまた、その第二十八代の祖師である菩提達磨高祖は、みずから中国にいたって、二祖正宗普覚大師(しょうしゅうふがくだいし)に正伝し、さらに六代につたわって曹谿にいたった。東と西をあわせて、すべてで五十一伝であるが、それが、とりもなおさず正法眼蔵であり、涅槃妙心であり、また、袈裟であり、鉢盂である。それを、いずれの仏もみな先仏が正伝してきたとおりに頂戴し、保持して、肌身を離さず、そのようにして仏祖から仏祖へと正伝してきたのである。

それななのに、それぞれ仏祖にいたってまなび、その皮肉骨髄、もしくは、その拳頭・眼睛をつぐことをえた人々は、おのおのその機に応じて独特の表現をなさっておる。たとえば、あるいは、鉢盂はこれ仏祖の身心なりと、そのように参学したというものもある。あるいは、鉢盂はこれ仏祖の眼睛であると、そのようにまなんできたというものもある。あるいは、鉢盂はすなわち仏祖の光明であると、そのようにまなんできたというものもある。あるいは、鉢盂はすなわち仏祖の真実実体であると、そのようにまなんできたというものもある。あるいは、鉢盂はすなわち仏祖の正法眼蔵・涅槃妙心であると、そのようにまなんできたというものもある。あるいはまた、鉢盂はすなわち仏祖が身を転じたもうところであると、そのようにまなんできたというものもある。あるいは、仏祖は鉢盂の縁(ふち)であり底であると、そのように受けとっているものもある。それらのともがらの受けとり方は、すでにさまざまの表現の仕方がこころみられているが、さらになお、いろいろの受けとり方もあろうというものである。(118~119頁)

〈注解〉正宗普覚大師;神光慧可(しんこうえか)である。正宗普覚大師とは、唐の太宗によりおくられた諡号(しごう)である。

■先師なる天童如浄古仏は、大宗の宝慶(ほうきょう)元年、天童山景徳寺に住するの日、法堂(はっとう)にのぼって示していった。

「わたしが記憶しているところによると、ある時、一人の僧が、百丈禅師に問うていったことがある。

『いったい、奇特(きどく)のことと申しますのは、どのようなことでございましょうか』

すると、百丈禅師は答えて仰せられた。

『それはなあ、百丈山が、たった一人がどかっと坐っていることだよ。それはもう、誰にも動かすことはできまい。だから、しばらく其奴(そやつ)をじっと坐らせておくよりほかはあるまいて』

ところで、今日は、ひょっくり一人の僧があって、このわたしにむかって問うたとしよう。

『いったい、奇特(どく)のことというのは、どういうことでありましょうか』

すると、わしは、彼にむかって、ただ『なんで奇特のことなんぞあるものか』と答えるのほかはないわい。そりゃ、いったいどうしたということじゃ。それはなあ、浄慈禅師の鉢盂が、いま天童山に移ってきて、飯をくっているだけのことだからである」

知るがよい。奇特のことは、まさしく、奇特の人にしてはじめてありうるものであり、また、奇特のことには、かならず奇特の道具だてがなくてはならないものがある。つまり、それらのことが揃ってはじめて奇特のことがなるのである。だからして、奇特のことが実現するところには、またかならず奇特なる鉢盂があるはずである。そういうことであるからして、仏教においては、鉢盂は、四天王(のう)をして護持せしめ、あるいは、龍王たちをして擁護せしめるというのが、奥ふかいさだまりとなっておる。そのようにして、これを仏祖にたてまつり、また仏祖から仏祖へと伝えられるのである。(122~123頁)

■いま、雲水たちが伝えて持っている鉢盂は、とりもなおさず四天王の奉献したもうた鉢盂である。鉢盂というものは、もし四天王が奉献しなかったならば実現しないのである。また、いま諸方にあって仏の正法眼蔵を伝えている仏祖の正伝した鉢盂も、それも古だの今だのということをとおく超越した鉢盂なのである。ということであるから、いまこの鉢盂は、鉄だの木だのといった計らいに拘束されないのである。瓦だ石だのといった考え方を超越しているのである。だから、石だ瓦だといってはならない、木だ株だといってはいけないと、そのように承(うけたまわ)ってきたものである。(124~125頁)

〈注解〉四天王;いわゆる護世の四天王であって、帝釈の外将であるという。持国・増長・広目・多聞の諸天がそれである。なお四天王が鉢盂を奉献し、あるいは護持したというのは、仏陀の故事にいずるものであろう。(126頁)

安 居(あんご)

■開 題

ー中略ー ご覧のように、この「安居」の巻も、それらの巻とおなじように、かなり長大なる一巻である。しかも、その内容の大部分をなすものは、安居の期間のことだとか、安居結制の時には、どのような行事を行うとか、また、安居を終わる時には、どのような作法があるとか、それらのことに関する、まことに綿密なる叙述なのである。なぜであるかというなれば、それらのことの高古綿密なる実現こそ、この道にほかならないというほかはあるまい。(129頁)

■黄龍(おうりゅう)の死心(ししん)和尚はいった。

「わしは行脚すること、すでに三十余年であるが、いつも九十日をもって夏案居(げあんご)となしている。一日も増やすこともできないし、また一日を減ずることもできない」

ということであって、和尚が三十余年の行脚によってひらくことをえた眼は、わずかに九十日をもって一回の夏安居となすということを見徹(みとお)しただけであった。たとえば、それを一日のばそうとすれば、もう九十日の安居のほうが先をあらそってやってくるし、また、たとい一日でも減じようとすれば、もう九十日の安居のほうが先にやってきているといったところで、どうしても九十日という定めを跳び出ることができない。そこを跳びこすには、九十日の定まりを手足ととして飛躍してみるよりほかはない。つまり、九十日をもって一安居となすのは、わが仏祖の家の定めではあるけれども、それはけっして仏祖じしんがはじめて定めたことではないのであって、仏祖から仏祖へと、正しい嗣ぎ手が正伝して今日にいたったのである。(134頁)

■世尊は、摩竭阿(まがだ)の国にあって、衆のために法を説いておられた。その時、いまから安居に入りたいと思って、阿難に仰せられた。

「もろもろの大弟子から、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷にいたるまで、わたしがつねに法を説いても、いっこうに敬仰の心を生じないようである。わたしはいまから因陀羅窟に入って、九十日の安居をいとなむであろう。もしその間に人がやってきて法を問うたならば、そなたはわたしに代わって、その人のために法を説くがよろしい。一切の法は不生にしてかつ不滅である、と」

そういいおわると、室を閉じて坐したもうた。

そういいおわると、室を閉じて坐したもうた。

そういうことがあってからこのかた、すでに二千一百九十四年(日本の寛元三年にあたる)の歳月をけいした。しかるに、いまだ仏法の奥ふかいところを知らない仏教者たちは、たいていこの摩竭陀の国で世尊が閉居せられたことを、ことばなくして説きたもうたことの一つの証拠とするのである。つまり、よこしまの考え方をする人々は、いま世尊が閉居して安居をいとなまれた心を推しはかって、そもそも言語をもちいることはすべてが真実なわけではなく、ただ方便にしかすぎないものであり、ぎりぎりの道理というものは、むしろ、ことばの道もたえ、心のいとなみも及ばぬところにある。だからして、無言無心がかえってぎりぎりの道理にかない、ことばをもちい、思念をはたらかせるのは道理にはずれている。それでこそ世尊は、室を閉ざし、安居九十日のあいだ、まったく外界との接触を断たれたのだと、もっぱらそのように主張するのである。そのような連中のいうところは、たいへん世尊の御意にそむいたものなのである。

もし、いうがごとく言語の道もたえ、心のいとなみも及ばぬといえば、一切のこの世のいとなみもみな、言語の道もたえ、心のいとなみも及ばないところである。一切の言語もみな言語道断ならざるはなく、一切の心のいとなみもすべて心行処滅にあらざるはない。だがしかしこの物語は、むろん無言をたっとぶようにというのではない。仏法の心とするところは、この身を挺してどんな世界にもはいりこんで、あくまで法を説いて人をすくい、あるいは法を転じて物を助けるにある。しかるを、もしも仏教者と称するものが、夏案居の九十日をまったく物いわずとするならば、それじゃあ、わたしに九十日の夏案居を返してもらおうかというところである。(139~140頁)

■また、世尊は阿難に仰せられて、「そなたはわたしに代わって法を説くがよろしい。一切の法は不生にして、かつ不滅である、と」命ぜられた。この仏のなされたことを、うっかり見過ごしてはならない。いったい、室を閉じての安居だからとて、どうしてひとことも物仰せのなかろうはずはない。たとえば、もし阿難だって、その時世尊にこう申しあげるとよかった、「一切の法は不生にして、かつ不滅であると仰せでございますが、それをどのようにすればよいのでございましょうか」と。そのように申しあげて、そこで世尊のおことばを拝聴すればよかったというところである。(140~141頁)

〈注解〉梵網経;鳩摩羅什訳、2巻。また菩薩戒経ともいう。大乗律部におさめられ、大乗菩薩戒の根本聖典として古来重んぜられている。(142頁)

■それなのに、けしからぬ連中は、大乗の見解をもつことこそ欠くべからざることで、夏安居(げあんご)などは小乗の徒のすることである、かならずしも行わなくってもよいなどという。そんなことをいう連中は、まだかって仏法を見たことも聞いたこともないのである。最高無上の智慧(岡野注;阿耨多羅三藐三菩提、無上等正覚)というのは、とりもなおさず九十日の夏安居のことである。たとい大乗と小乗にはそれぞれに至極となすところがあろうとも、それはこの九十日の安居の枝葉であり、あるいは花であり果であるにすぎないのである。(147頁)

■このことは、とおいとおい昔から、もっとも大事なことである。仏祖の重んじたたもうことは、ただこれのみである。外道・天魔も乱すこと能わぬは、ただこれのみである。印度・中国・日本のあいだ、仏祖の流れを汲むものにして、いまだ一人もこれを行わないものはない。外道はまだこのことを知らない。これはただ仏祖の一大事の本懐だからである。仏道をさとってより涅槃に入るまで、その説くところはただこの安居のこころにみである。印度には五部の律蔵があって、僧たちの奉ずるところも異なっていたが、それでもなお九十日の夏安居は、これを護持してかならず修したものである。中国でもその九宗の僧たちは、たれ一人として夏安居のさだめを破ったものはない。その生けるあいだに、もしも九十日の夏安居を修しなかったならば、仏弟子でもない、比丘僧ともいえない。ただいまだ仏位にいたらぬころの修行であるのみではなく、また仏位にいたってからも修すべきものである。だから、すでに大覚を成就なされた世尊は、一代のあいだ、一夏も欠くことなく修したもうた。それでも、仏位にいたってからも修すべきものだということが、よく判るではないか。

それなのに、九十日の夏安居は修しないけれども、なおわれは仏祖の児孫であろうなどというのは、笑うべきことである。いや、笑うにもたえざる愚かものである。そんなことをいう連中のことばを聞いてはならない。ともに語ってはならない。同座してもいけない、ひとつ道も歩まないがよろしい、仏法においては、梵壇(ぼんだん)という法があって、それで悪人を治すことになっているからである。(180~181頁)

〈注解〉梵壇;“brahuma-danda”のおんしゃである。また黙擯とも訳す。衆僧が黙してその人と話をしないこと。戒律の一つの治罰法である。(186頁)

■だからしてわたしはいうのである、安居をみるものは仏をみるものであり、安居を証するのは仏を証するのであり、安居を行ずることは仏を行ずることであり、あるいは、安居のことを聞くは仏を聞くことであり、あるいはまた、安居をならうは仏をならうことである、と。(182頁)

■世尊は、円覚(がく)菩薩および、もろもろの大衆や一切の衆生に告げて仰せられた。

「もし夏のはじめから三月の安居をいとなもうとするならば、まさに清浄(しょうじょう)なる菩薩として止住するがよい。心は人の声を離れ、人々に関せざるがよい。安居の日にいたったならば、すなわち仏前において、このように申しのべるがよい。――わたくし比丘もしくは比丘尼、もしくは優婆塞もしくは優婆夷なにがしは、菩薩の教えによって、無為寂静の行を修し、ともに清浄なる実相に入って住し、大いなる仏の悟りをもって、わが伽藍となして、身心ともに安居したいと思う。さすれば、仏の悟りは普遍なものであり、涅槃はわが本来具有するものにして、もはやなんの関わるところはございません。かくていまわたしはつつしんで乞い願いあげます。願わくは、われは他の人の声によることなく、らだ十方の如来および大菩薩とともに三月の安居をいたしたいものである、と。また願わくは、わたしは、菩薩として最高の悟りの因縁を修したいのであるから、もはや人々には関わりたくないのである、と。――善男子よ、これを名づけて菩薩の示現する安居とはいうのである」

だからして、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷は、かならず安居三月(みつき)のいたるたびに、十方の如来および大菩薩とともに、最高の悟りの因縁を修するのである。そして、優婆塞・優婆夷もまた安居すべきものと知られるのである。(183~184頁)

■ある時、世尊は、あるところにおいて九十日の安居をなされた。すると、自恣(じし)の日すなわち安居の最後の日にいたって、急に文殊がやってきて、その集会に加わった。そこで、迦葉が文殊に問うていった。

「今夏はいずれのところで安居なされたのか」

文殊はいった。

「今夏は三つのところにおいて安居しました」

そこで迦葉は、衆をあつめ、槌を鳴らして、その事を告げ、文殊を擯斥しようとした。しかるに、彼がわずかにその槌をとりあげた途端に、たちまち数かぎりない寺々が現れて、そのいちいちの仏のまえに、どこにもここにも文殊があり、また迦葉がおって、槌をとりあげて文殊を擯斥しようとしておった。そこで、世尊は仰せられた。

「そなたは、いまいずれの文殊を擯斥しようというのか」

時に、迦葉はただ茫然たるのみであった。(184頁)

■ということで、つまるところは、世尊は一とところで安居なさり、文殊は三ところで安居であったけれども、いずれもけっして安居しなかったわけではないのである。もしもそれが安居でなかったならば、仏にあらず菩薩でもない。仏祖の児孫たるものに、安居しないものはない。安居するものは、仏祖の児孫だとしるがよい。安居するものは、仏祖の身心であり、仏祖の眼睛であり、仏祖の命根(みょうこん)である。安居しないものは、仏祖の児孫でもなく、仏祖でもないのである。いまわれらが安居すれば、泥や木でつくった仏・菩薩も、絹や金でできた仏・菩薩も、あるいは七宝の仏・菩薩も、みなわれらとともに安居三月の夏坐をなされるであろう。これがとりもなおさず仏・法・僧の三宝を住持する昔からの作法というものである、仏の訓(おし)えというものである。

すべて仏祖の家にあるものは、かならず安居三月の夏坐をつとめるがよいのである。(185~186頁)

他 心 通(たしんつう)

■西京の光宅寺の慧(え)忠国師は、越州の諸曁(しょき)の人である。姓を冉(せん)氏という。六祖慧能の心印を受けてよりのちは、南陽の白崖山党子谷(はくがいさんとうしこく)に入りて、住すること四十余年、山門を下らずという。その道の修行のことは帝都にも聞こえて、唐の粛宗の上元二年(761)、中使の孫朝進なるものに勅して、詔(みことのり)をもたせ、京師に来ることを促し、待つに師にたいする礼をもってして、勅して千福(ぷく)寺の西禅院におらしめた。また、代宗はみずから臨御(りんぎょ)におよんで、迎えて光宅寺におらしめ、そこに止まること十六年におよんで、機にしたがって法を説いた。

そのころ、西の方天竺より来れる大耳三蔵なるものがあり、京師にやってきて、他心通なる通力を得たということであった。そこで帝は、国師と会わせて彼を試さしめた。

三蔵は、ちらりと国師をみて、すみやかに礼拝して、その右のあたりに立った。そこで国師が問うていった。

「そなたは他心通を得たというが、そうであるか」

三蔵は答えた。

「いや、たいしたものではありません」

国師はいった。

「では、いってみるがよろしい。老僧はいまどこにいるであろうか」

三蔵はいった。

「和尚は一国の師であられるのに、おやまあ、西川(せいせん)においでで、競艇を見ておいでじゃ」

「では、いってみるがよろしい。老僧はいまどこにいるであろうか」

三蔵はいった。

「和尚は一国の師であられるのに、なんとまあ、天津橋(てんしんばし)のうえで、猿まわしを見ておいでじゃ」

師は三たび問うていった。

「では、いってみるがよろしい。老僧はいまいったい、どこにいるであろうか」

今度は、しばらく経っても、三蔵はどうしても答えることができなかった。そこで、師はいった。

「この野狐精(ぜい)めが。そなたの他心通はいったいどこへ行った」

それでも、三蔵はなんの答うるところまなかった。

ひとりの僧があって、趙州(じょうしゅう)に問うていった。

「大耳三蔵はどうして、三度目のときには国師の所在が判らなかったのでありましょうか。いったい、国師はどこにいたのでしょう」

趙州はいった。

「三蔵の鼻の孔のうえにいたのだよ」

ひとりの僧があって、玄沙に問うていった。

「あんまり近かったからだなあ」

またひとりの僧があって、仰山(きょうざん)に問うていった。

「大耳三蔵が、三度目にはどうしても国師のありかがわからなかったというのは、いったい、どうしてでありましょうか」

仰山はいった。

「はじめの二度は、あれはただ対象にかかわる心のうごきだったが、あとでは、自受用三昧にはいってしもうた。それでわからなかったのだなあ」

海会(え)寺の守端(しゅたん)はいった。

「国師がもし三蔵の鼻孔のうえにいたならば、なんの見えないことがあるものか。それは、きっと、国師が三蔵の眼睛(ぜい)のなかにいることをしらなかったのであろう」

また、玄沙は、三蔵をなじっていった。

「ではそなたは、さきの両度はほんとうに見たというのか」

また、雪竇山(せっちょうざん)の明覚重顕(みょうかくじゅうけん)禅師はいった。

「敗けじゃ、敗けじゃ」

この大証国師慧忠が大耳三蔵をためした物語は、ふるくからそれに対して所見をかたり、あるいはなんらかの言及をなした方々がすくなくないが、なかでもこの五人の御老師がよく知られている。だがしかし、この五人の長老たちは、それぞれ道理あることを語ってはおいでだけれども、なお国師のなされたことの真相を見抜いているとはいえない。何故かというと、それらの長老たちはみな、どうやら、はじめの両度は、三蔵はあやまたずに国師の所在を知りえたと思っていたらしい。それが、とりもなおさず、この先徳たちの大きな落度である。後進のものはそれを知らなければいけない。いまその五人の長老たちをおかしいと思う点をあげると二つある。その一つは、国師がその三蔵をためした本意を知らないことであり、二つには、国師の身心そのものを知らないことである。(194~197頁)

〈注解〉まず冒頭に、『景徳伝燈録』巻五、慧忠(けいちゅう)伝がしるすところの、大証国師こと南陽慧忠と大耳三蔵なるものとの他心通についての問答が引用せられ、かつ、その問答についての五人の先徳の評釈があげられる。その五人の先徳というのは、趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)、玄沙師備、仰山慧寂(きょうざんえじゃく)、海会守端(かいえしゅたん)、雪竇重顕(せっちょうじゅうけん)と、みな錚々たる方々ばかりであるが、いま道元は、それらの先徳の批評にはすべて大きな欠点があるとして、以下その欠点を指摘し、その問答の正しい解釈を樹立しようとするのである。

野狐精;人を欺きたぶらかす者というほどの意。

自受用三昧;自受用とは他受用の対、自己の功徳をみずから受用して、その楽しみを味わうことをいい、そのような境地にひたりきっているのを自受用三昧というのである。(197~198頁)

■そういうことであったのに、先徳たちはみな、国師が三蔵を叱ったのは、さきの両度には国師の所在を知りえたが、三度目には、知りえなかった、見ることができなかったから、国師に叱られたのだと思っている。これは大きな誤りである。国師が三蔵を叱ったのは、そもそも三蔵がはじめからまるで仏法を知らなかったことを叱咤したのである。さきの二度は知っていたが、三度目には知りえなかったのを叱ったのではないのである。そもそも、他心通を得たと自称しながら、他人の心を知らないことを叱ったのである。

つまり、国師は先ず、仏法に他心通というものがあるかと問うて試験したのである。三蔵はそれに答えて、「いやたいしたものではございませんが」というたのは、あるといったものと受け取られる。だが、そこで国師が思ったことは、たとい仏法に他心通というものがあるというても、もし仏法に他心通というものがあれば、こんな具合であると、そのいうところにちゃんと論拠がなくては、それは仏法とはいえないということであった。だから、だから、三蔵がたとい第三度目にも、なんとかいったとしても、それがさきの二度のようであったならば、それはとても論拠のあることばではないのであって、やはり、すべて叱られるところであった。それをいま国師が、二度までもこころみに問うたのは、三蔵がもしかしたら国師の問うたところの意味を解することもあろうかと、たびたび重ねて三番までも問いをこころみたのである。(201~202頁)

■他心通は、西の方天竺の土地のならわしとして、これを修得する連中が時々ある。だが、それは、菩提心をおこしてというのでもなく、大乗の正しい考え方によるものでもない。また、他心通を得た人々が、その他心通のちからで、仏法を悟り究めたなどということも、いまだかって聞かないところである。他心通を修得してからだって、さらに普通の人のように発心して修行すれば、おのずから仏道に入り、仏道を悟ることもうるであろう。だが、もしも他心通のちからでもって仏道を知見することをうるのだったら、先聖(しょう)もみな、まず他心通を修得して、そのちからでもって仏の境地にもいたたであろう。しかし、そんなことは、おおくの仏祖たちの出世にも、いまだかってその例をみないところである。すでに仏祖の歩かれた跡も知られないというのでは、どうしようもないではないか。仏道には役に立たないとしなければなるまい。他心通を得たものも、他心通を得ない普通の人も、ただおなじことである。仏性を保持するということでは、他心通を得たものも普通の人も、まったくおなじことであろう。仏法をまなぶものは、けっして、外道や小乗のいう五通とか六通とかを、一般の人よりもすぐれているなどと思ってはいけない。ただ道心があって、仏法をまなぼうとするものこそ、五通や六通よりもすぐれているのである。それは、ちょうど、迦陵頻伽(かりょうびんか)すなわちヒマーラヤの郭公(かっこう)は、なお卵のなかにある時から、その声はもろもろの鳥にすぐれているようなものである。いわんや、いま西の方天竺において他心通というのは、むしろ、他念通といった方が適当であろう。念すなわち心作用のおこるについては、なんとか関するところもあろうが、いまだ心作用のおこらぬ以前の心そのものについては、まったく何事もしることはできない。笑うべきことである。ましていわんや、心はかならずしも念ではなく、念はまたかならずしも心ではないのである。その心がうごいて念とならんとする時、それはとても他心通の知りうるところではない。また、その念がおさまって心となるとき、それもとうてい他心通の知りうるところではないのである。

だからして、つまるところは、西の方天竺の五通とか六通とかいうものは、この国の農夫の仕事にさえもおよばないもの、まったく用のないものである。そのゆえに、中国から東では、先徳たちには誰も五通・六通をこのんで修するものはない。その必要がないからである。世間では、大いなる璧(たま)はなお必要であろう。だが、五通・六通は必要がないのである。仏教では、その大いなる璧もなお宝ではない。むしろ、寸陰こそ大事なものなのである。しかるに、その寸陰を重んずる人にして、なお五通・六通を修習するもの誰があろう。そもそも他心通のちからなど、とうてい仏智のそばにも及ばないものである。そこの道理をよくよくはっきりとしておくがよろしい。(205~206頁)

〈注解〉十聖・三賢;菩薩四十二位の四十一位を等覚という。正覚(がく)にひとしいとの意である。もはやそこまで到れば、やがて仏の位につくがゆえに補処という。

念起・未念;念起とは、つぎにいう「心の念ならんととき」すなわち、心がうごいて念とならんとする時である。未念とは、心のいまだ動いて念とならない時である。(207頁)

■だが、これまでの方々がいうところは、すべて国師の本意でもなく、また仏法の道理にかなったものでもない。あの長老のいうことも、この長老の説くところも、みんな間違っていたのであるから、可哀そうなことではある。いま、もし仏法のなかにも他心通がるというならば、またまさに他心通もあってもよく、多拳頭通もあってもよく、あるいは他眼睛(ぜい)通もあってもよいはずである。あるいはまた、そういうことであるならば、まさに自心通もあってもよく、自身通もあってもよいはずである。そして、もしそういうことであるとするならば、自分で自分の心をとりあげてみる、それこそまさしく自心通というものであろう。また、もしそういういい方が成立するならば、それがおのずから他心通というものであろう。

「では、それを他心通というのがよいか、それとも、それを自心通といったがよいか、さて、どうじゃ、どうじゃ」

それはしばらくさておいて、汝はわが髄を得たりといえば、これはまさしく他心通でござる。(220~221頁)

王 索 仙 陀 婆(おうさくせんだば)

■開 題

ー中略ー 仙陀婆とは、“saindhava” の音写なのであって、塩・器・水・馬の四つの意味をもったことばであるが、むかし大王が「仙陀婆」ともとめると、智慧のある臣は、それがなにを意味するかをすぐ知ることができたという。たとえば、王が手を洗いたいと思っている時には、即坐に水を奉(たてまつ)る。もし王が食事の時に仙陀婆といえば、すぐ塩を奉る。もしまた食事を終わって飲みものがほしいと思っている時には、すぐさま器をさしあげる。またもし王が出遊したいと思っているならば、ただちに馬を奉るといった具合であった。そのような智慧ある臣は、よく大王の蜜語を解するというものだと、そのように世尊は説かれたというのである。(224頁)

■有といい無というは、藤のごとく樹のごとくである。あるいは驢馬を飼い馬を飼うがごとく、あるいはまた水を透り雲を透るがごとくである。すでにそのようであるから、『大般(はつ)涅槃経(ぎょう)』のなかにおいて、世尊も仰せられたことがある。

「それは、たとえば、大王がもろもろの臣(おみ)たちに告げて『仙陀婆をもちきたれ』というがごとくである。仙陀婆とは、そのなは一つにして、その内容は四つである。一つには塩、二つには器、三つには水、四つには馬である。そのような四つの物が、ともにおなじく一つ名である。だが、智慧ある臣はよくその別を知ることができるのである。もし王が手を洗おうとする時、仙陀婆ををともとむれば、即座に水を奉る。もし王が食事の時に仙陀婆をもとむれば、すぐさま塩を奉る。もしまた王が食事が終わって飲みものをとろうとするときに、仙陀婆をといえば、すぐさま器を奉る。もしまた王が出遊しようとおもって仙陀婆をともとむれば、ただちに馬を奉るのである。そのように、よく智慧ある臣は、大王のことばの四つの隠れた意味を知りわけるのである」

この王が仙陀婆をもとめ、臣が仙陀婆と奉るという話は、すでに伝えきたること久しく、かの法服(ぶく)とともにふるいのである。世尊もすでにこのようにそれをとり挙げて語っているのであるから、その流れを汲んでおなじ修行をしてきたものは、つまりはこの仙陀婆を範として履(ふ)みおこなってきたのである。もしも世尊とおなじ修行ではないというならば、さらに草鞋を買って行脚し、もう一歩を進めてはじめてその境地を得るであろう。そして、この仏祖の家における仙陀婆は、いつのまにか漏れ聞こえて、大王の家にもまた仙陀婆のことがあることとなったのである。(226~227頁)

〈注解〉蜜語;秘せられたる意味のあることば。(228頁)

■先師なる如淨古仏は、上堂なさったとき、いつも宏智(わんし)古仏と仰せられていた。だがしかし、この宏智古仏を古仏として相見(あいまみ)ええたものは、ただひとり先師なる如浄古仏のみであった。その宏智のころ、径山(きんざん)に大慧禅師宗杲(そうごう)というものがあった。南嶽の流れを汲むものであるという。しかるに、大宋国の人々は、たいてい、その大慧を宏智にひとしいであろうと思っている。いやいや、そのうえ、宏智よりもすぐれた人物だと思っているものすらある。こういう誤りも、もとをただせば、大宋国の出家も在家も、ともにまなぶこと疎(うと)くして、いまだ仏法をみる眼もさだかでなく、また人を知る明眼もひらかれていず、己を知る力も具わっていないからなのである。(230頁)

〈注解〉宏智古仏;宏智正覚(わんししょうがく、1157寂、寿67)。丹霞子淳の法嗣(ほっす)。かって天童山景徳寺に住持としてあり、如浄古仏に「宏智古仏に相見」との語がある。

趙州;趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん、897寂、寿120)。南泉普願の法嗣。真際大師と諡(おくりな)せらる。

雪竇;雪竇重顕(1052寂、寿73)。智門光祚(ちもんこうそ)の法嗣、雪竇山資聖寺に住し、明覚禅師の号を与えられた。

老倶胝;唐代に倶胝和尚なるものがあり、人の問うものあれば、つねに一指をたてて答えとしたという。

大慧禅師宗杲;大慧宗杲(だいえそうごう、1163寂、寿75)。圜悟克勤(えんごこくごん)の法嗣。径山(きんざん)に住した。(231頁)

■それなのに、いま大宋国の諸山にあって長老と称する連中は、仙陀婆などということはまるで夢にもまだ見たことがないらしい。困ったものである。仏祖の道のおとろえというものである。ここは身を苦しめてまなばねばならぬところであり、なにとぞして仏祖の命脈を絶やさぬようにしなければなるまい。たとえば、「いかんがこれ仏」と問えば、「すなわち心これ仏」というが、その意味はどうであるか。これもまた仙陀婆のほかではあるまい。では、「すなわち心これ仏」というのは、いったい誰のことだと、よくよく考えてみるがよろしい。すると、そこには仙陀婆と仙陀婆とが、額(ひたい)を鉢合わせしているのだが、それを知るものは誰であろうか。(238頁)

八 大 人 覚(はちだいにんがく)

■開 題

この一巻の制作されたのは、建長五年(1253)正月六日であった。奥書の記すところである。と申せば、なんでもないことのようであるが、道元その人はその年の八月二十八日、京都においてなくなられたのであって、この巻はまた、はからずも、道元の生涯における最後の制作となった。やがて、この一巻をつつしんで書写せしめた懐奘は、その巻末に、さらにつぎのように記しとどめている。いささか長文であるが、まずそれを現代語訳して、御覧に供したい。

「ただいま建長七年乙卯七月十五日、夏安居の制を解く前日にあたり、義演書記をしてこれを書写せしめ終わり、さらにこれを校正したところである。この一本は、先師の最後の御病中の制作であった。

仰いで惟(おも)んみれば、先師は、さきに御撰述の仮名がき『正法眼蔵』などはみな書き改め、さらにそれに新稿をも加えて、すべてで一百巻の撰述をと仰せであられた。そして、すでに書きはじめられて、この巻はちょうどその第十二巻目にあたっていた。しかるに、そののち御病気はだんだん重くなられて、ために新稿を草されることもできなくなり、かくてこの御制作が先師の最後の御教えとなった。

かくて、わたくしどもは不幸にして、かの一百巻の御制作を拝見することができなくなってしまった。それはわたしどものもっとも遺憾ととするところである。だが、もしかの先師をお慕い申すならば、せめて、かならずこの巻を書写して、これを護持されるがよろしい。けだし、この巻は、釈尊の最後の御教えであるとともに、また、先師の最後の遺教(ゆいきょう)でもあるからである。

懐奘これを記す」

それは、さすがに道元門下の第一人者たる懐奘が、心をこめ、涙をためて記した後記だけあって、まさしく人の心をゆりうごかすに足るものを蔵しているとともに、また、まったく至り尽せるものであって、もはやわたくしには、なんの冗舌を加うる余地もないように思われる。

だが、わたくしには、ただ一つだけ、いささか他を顧みながら、申しておきたいと思う。それは、この巻の大部分をしめる経典からの引用文のことである。

それは、一読すでにそれと気がついていられる人もすくなくあるまいが、全分かの『仏垂般(ぶっしはつ)涅槃略説教 誡経(かいきょう)』すなわち、一般にいうところの『仏遺教 経(ぶつゆいきょうぎょう)』からの引用である。その『仏遺教』とは、その経名の示すがごとく、仏の遺された教誡をしるした経である。すでに沙羅双樹のもとに臥して入滅をとりたまわんとする釈尊が、その弟子たちを顧みて、わが滅度ののちには、よく戒律をまもり、五根を制し、放免に流れずして、八大人覚(がく)を修するがよいと教えるのである。

しかるところ、いま道元は、その教誡の中心たる八大人覚のすすめの部分の全分をここに引用して、「如来の弟子は、かならずこれを習学したてまつる」がよく、「これを修習せず、しらざらんは、仏弟子にあらず」と、ひたすらその修習をすすめているのである。ひそかにその心事を推測すれば、そのころすでにこの師には、わが終わりのもはや遠からざるを御覚悟あられてのうえのこの「病中の御草」であったのであろうか。痛ましきかぎりではある。(260~262頁)

■一つには少欲である。いまだ得ざる五欲の対象についても、なおひろく追い求めないのを、名づけて少欲というのである。

仏は仰せられた。

「なんじら比丘は、まさに知るがよい。多欲の人は、利を求めることが多いゆえに、苦悩もまたおのずから多い。それに反して、少欲の人は、求めることがなく、欲がないから、おのずからその患(うれ)えがない。されば、ただ少欲ということだけでも習い修むるに足るのであるが、ましていわんや、少欲はまたよくもろもろの功徳を生ずるにおいておやである。たとえば、少欲の人は、またおのずからにして、人にこび諂(へつら)ってその意をむかえようとすることがなく、また、いろいろの対象にその心を奪われることもない。あるいはまた、よく少欲を行ずる者は、心おのずからに平らかにして、憂え恐るるところがなく、事に触れていつも余裕があり、けっして足らざることがない。詮ずるところ、少欲をうちに蔵すれば、おのずからにして平和な心境がある。これを名づけて少欲というのである」(263~264頁)

■二つには知足である。すでに得たるもののなかにおいてすら、それを受容するには限度をもってする。これを称して知足というのである。

仏は仰せられた。

「なんじら比丘は、まさに知るがよい。もしもろもろの苦悩を脱しようと思うならば、まさに知足を観ずるがよろしい。けだし、知足ということは、まさしく楽しみゆたかにして心やすらけきところなのである。すなわち、足るを知れる人は、たとい地上に臥(ふ)すといえども、なお安楽でである。それに反して、足るを知らざる者は、たとい天界の殿堂にありといえども、なお心満ることをえないであろう。あるいは、足るを知らざる者は、たとい富めりといえども、しかも貧しい。それに反して、足るを知る人は、たとい貧しくとも、しかも富んでいるのである。あるいはまた、足るを知らざる者は、いつもさまざまの欲望のために振りまわされていて、ひそかに知足の者のために憐憫せられるのである。これを名づけて知足というのである」(265~266頁)

■三つには寂静を楽しむことである。もろもろの騒々しさを離れて、ひとり空閑処(くうげんじょ)に居する。これを寂静を楽しむと称する。

仏は仰せられた。

「なんじら比丘は、寂静にして自然なる安楽を得たいと思うならば、まさに雑踏をはなれて、ひとり閑(しず)かに居するがよい。静処にある人は、帝(たい)釈その他もろもろの天神も、また敬重するであろう。されば、まさに、自己につながる人々をも、つながらぬ人々をも捨てて、ひとり空閑処に居して、苦の根本を無くすることを思うがよろしい。もし衆とちもにあることを楽しむならば、またおのずからにして、もろもろの苦悩をも受けねばならぬであろう。たとえば、大樹にもろもろの鳥があつまれば、おのずからまた枯れたり折れたりの煩(わずら)いがあるようなものである。世間のことに縛られては、もろもろの苦しみに没するばかりである。たとえば、老いたる象が泥中に溺れて、みずから脱出すること能わざるがごとくである。これを名づけて遠離(おんり)という」(266~267頁)

〈注解〉空閑;空閑処(くうげんじょ)である。もと“aranya”を音写して阿蘭如となし、それを意訳して空閑処としたのである。聚落を去ること三百乃至六百歩、閑静にして比丘たちの修行に適した場所をいうとの定めがある。一本に空間とあるは、空閑でなくてはならないであろう。

己衆・他衆;自己につながる人々と、そうではない人々というほどの意であろう。

遠離;衆を遠ざかること。それがすなわち楽寂静にほかならない。(267頁)

■四つには精進を勤めることである。もろもろの善きことにおいて、勤め修めて絶ゆることなし。故に精進というのである。精にしてまじり気がなく、進んで退くことがないのである。

仏は仰せられた。

「なんじら比丘は、もしよく精進を勤むれば、事おのずからにして難きことはないであろう。だから、なんじらはまさに精進を勤めるがよい。たとえば、少しばかりの水であってもつねに流るれば、ついによく石を穿(うが)つであろう。それに反して、もし行者の心が、しばしば怠りすさむようでは、たとえば、火を鑚(き)ろうとするのに、まだ熱してこないのに止(や)めるようなものである。それでは、火を得たいと思っても、とても火を得ることはできないであろう。これを名づけて精進というのである」(268~269頁)

■五つには不忘念、すなわち常に思念して忘れざることである。それはまた正念を守るともいう。よく教法を守って失われないのである。これを名づけて正念といい、また不忘念というのである。仏は仰せられた。

「なんじら比丘は、善知識を求め、善き助けを求めようとするであろうが、それには不忘念にまさるものはないであろう。もしよく不忘念を抱くならば、もろもろの煩悩の賊も、ついに入ることを得ないであろう。だから、なんじらはつねに、よく念をおさめて心におくがよろしい。もしその念を失するようなことがあれば、たちまち、もろもろの功徳もまた失われるであろう。それに反して、もし念の力がつよくかつ堅固であれば、五欲の賊たちのなかに入れば、おのずから恐るるところがないようなものである。これを名づけて不忘念というのである」(269~270頁)

■六つには禅定を修することである。法に住して乱れない。これを名づけて禅定というのである。

仏は仰せられた。

「なんじら比丘は、もし心を内に摂(おさ)むれば、心はおのずから定(じょう)にあるであろう。心が定(じょう)にあるがゆえに、よくこの世間の生滅する存在のありようを知ることができる。だからなんじらは、つねにまさに精進して、もろもろの定を修め習うがよい。もし定を得ることができれば、心はおのずからにして散乱せず。そのさまは、たとえば、よく葺(ふ)かれた家のごとく、あるいは、よく築かれた堤防のごとくであろう。そして、この道を行ずる者もまたおなじである。智慧の水のために、よく禅定を修めて、漏らさないようにするのがよいのである。これを名づけて定となすのである」(271頁)

〈注解〉摂心;「心をおさむる」と読む。心を散乱せしめざることである。

;ここでは、この定を訳すわけにはゆかない。それを説明しているのだからである。しいていえば、心を一境に専注して、散動せしめざることである。(271~272頁)

■七つには智慧を修することである。聞(もん)・思・修(しゅ)ならびに証を起す。これを智慧というのである。

私は仰せられた。

「なんじら比丘は、もし智慧あれば、おのずから貪り執著(じゃく)することがないであろう。だから、つねにみずから省察して、智慧を失わないようにするがよい。さすれば、おのずから、わが教えのなかにおいて、解脱を得るであろう。もしそうでなかったならば、その人はすでにこの道の人ではない。とともに、またただの俗人でもなく、いったい、なんといったらよいであろうか。まことに智慧は、とりもなおさず、この老・病・死の海を渡る堅牢なる船である。あるいは、無智黒闇の夜における大いなる燈明である。あるいはまた、すべての病める者の良薬であり、煩悩の樹を伐る利(と)き斧(おの)といっていってもよい。されば、なんじらは、よく聞(もん)・思・修(しゅ)の智慧をもって、みずから利益(やく)するがよろしい。もし人、よく智慧のかがやきあらば、たといその眼は肉眼であっても、しかもなお明眼の人ということをうるであろう。これを名づけて智慧というのである」

〈注解〉聞・思・修・証;また聞思修慧ともいう。教法を聴聞して得る智慧があり、これを思量して得る智慧があり、また、それを実践し修行して得る智慧がある。よって、聞・思・修ということばがあり、あるいは、聞思修慧ということばがあるが、さらにここでは慧を証に代えて、聞思修証といっておる。証は、いうまでもなく、悟りをひらくことである。(272~273頁)

■八つには不戯論ということである。悟りをひらいて、分別を離れる。これを不戯論と名づける。一切のあるがままの姿を究めつくす。それがとりもなおさず不戯論なのである。

仏は仰せられた。

「なんじら比丘は、もしいろいろとたわむれの論議にふけるならば、その心おのずからにして乱るるであろう。また出家したからとて、なお解脱を得ることはでまい。だから、比丘たるものは、まさにいそいで、心を乱してたわむれの論議にふけることを離れるがよい。もしなんじが空々寂々のたのしみを得たいと思うならば、ただまさに、たわむれの論議のわざわいをなくするがよい。これを名づけて不戯論というのである」(274頁)

■これが八つの大人覚(だいにんがく)である。その一つ一つがまたそれぞれ八つを具えているので、とりもなおさず六十四である。さらにそれを拡げていえば、数かぎりないこととなるが、それを略すれば六十四ということとなる。

それは、大師なる釈尊の最後にお説きになったことで、大乗の所説の至極である。二月十五日の夜半の最後のことばであって、これよりのちには、もはやなんの説法もあらせられず、ついに大いなる死をとりたもうたのである。

私は仰せられた。

「なんじら比丘は、まさに一心に勤めて、出離の道を求めるがよい。一切の世間は、動くものも動かざるものも、みな壊れゆくもの、安きことなきものである。では、なんじらしばらく沈黙せよ、物をいってはならない。時まさに至らんとしておる。わたしは逝(ゆ)くであろう。これがわたしの最後の教えである」

この故をもって、如来の弟子たるものは、かならずこれを習学したてまつる。これをまなばず、これを知らなかったならば、それは仏弟子ではない。これこそ如来の正法眼蔵であり、涅槃妙心である。(276~277頁)

三 時 業(さんじごう)

■〈注解〉旃陀羅;印度の種姓の一で、その最下の階級。だが、ここではただ賤しいという意味に訳しておいた。

■このようなのを、悪業の順現報受すなわち現報によりて受くるものと名づける。いったい、恩を受けては、それに報いんことをこころざさねばならない。他に恩をほどこしては、報(むくい)をもとめてはならない。いまのような、恩ある人に逆(さか)しまに害を加えようとするような悪業は、かならずその報を受けねばならない。だから、人はけっしていまの樵人のような心をおこしてはならない。彼は、林の外にでて別れを告げる時には、どうしてこの恩に報いたらよいかといっていたのに、山の麓(ふもと)で猟師たちに逢うた時には、もう三分の二の肉をよこせなどと貪っていた。つまり、貪欲にひかれて、大恩あるものを害したのである。在家も出家も、けっしてこのような恩しらずの心をおこしてはならない。悪業の力のはたらくところ、両手を断つこと、刀剣をもってきるよりも速やかであった。(293頁)

■第二に、順次生受の業とは、いわく、もし業がこの生においていとなみ、それが生長して、つぎの第二生においていろいろの果を受ける。これを順次生受の業と名づけるのである。

つまり、もし人があって、この生において五つの無間業(むげんごう)をつくったならば、かならず順次生には地獄におちるのである。順次生とはこの生のつぎの生である。その生の罪は、順次生に地獄におちる場合もあり、また、順後次受すなわち後の次生に受けるということであれば、順次生には地獄におちず、順次業となることもある。だがしかし、この五つの無間(げん)業は、かならず順次生受業として地獄におちるのである。順次生は、また第二生ともいう。

その五つの無間業というのは、

一、父を殺すこと。

二、母を殺すこと。

三、阿羅漢を殺すこと。

四、仏身より血をいだすこと。

五、仏教僧伽(ぎゃ)を破ること。

これを五無間業と名づける。また五逆罪ともいう。そのはじめの三つは殺生(せっしょう)である。第四は殺生の手段である。なるほど如来は人に殺されるようなことはないので、ただその身の血をいだすのを逆罪とするのである。天寿を全うせず中途にして死することのないものは、もはや他の生を受けることのない菩薩と、兜率天(とそつてん)にある一生補処の菩薩と、北洲の人と、樹提伽(じゅだいか)長者と、仏医耆婆(ざば)であるという。第五仏教僧伽を破ることは、虚誑語(こおうご)すなわちでたらめの虚言をつくることである。

この五逆罪をつくるものは、かならず次の生において地獄におちるのである。たとえば提婆達多(だいばだった)は、この五つの無間業の三つをつくった。その第一には、彼は蓮華色比丘尼を打ち殺したが、この比丘尼は大阿羅漢であった。だからこのことは阿羅漢を殺すことにあたるのである。

第二には、彼は大いなる岩をなげて、世尊をうち殺そうとした。だが、その岩はその時山の神のさえぎるところとなって砕けた。その破片がとんで、世尊の足の指にあたった。そのために、世尊の足指がやぶれて血がほとばしり出た。これは仏身より血をいだすことにあたるのである。

また、彼は、初学にしてなお愚かなる比丘たち五百人をかたろうて、伽耶山(がやさん)の頂にいって、別の僧団をつくった。これは仏教僧伽を破ることにあたるのである。この三つの逆罪によって、彼は無間地獄におちた。そして、いまもなお間断なき苦しみを受けている。なお、四仏にそれぞれ提婆達多がるというが、それらの提婆達多もまた無間地獄にあるという。

また、倶伽離比丘(くかりびく)は、この生において、舎利弗(ほつ)と目犍連(もっけんれん)をけなした。それは無根のいつわりを語るもので、婆羅夷罪をおかすものだと、世尊みずから誡められ、また梵天王(のう)がきたって制したけれども、どうしても止めなかった。そして、かの二人の尊者を謗じたことによって、地獄におちた。

また、四禅比丘なるものは、命終の時に臨んで仏を謗じたことによって、無間地獄におちた。このようなのをすべて順次生受業というのである。(296~298頁)

〈注解〉無間業;五逆罪の異称。この業をいとなむものは必ず無間地獄の果を受けるからである。無間地獄とは、また阿鼻地獄といい、そこでは苦を受けること間断なきをもって無間というのである。

中夭;寿を全うせずして、中途にして死すること。

樹提伽;舎衞城の長者。仏弟子。母胎にあるころ、死せる母とともに火中に投ぜられたが、なお生きて出生したという。

仏医;釈尊のころの名医“Jivaka”(耆婆、ぎば)のことであろう。

倶伽離;“Kokalika”の音写で、また瞿伽離とも写す。提婆達多の弟子であって、また仏の化導を妨げた。

四禅比丘;四禅定を得て、それですでに仏果を得たのだとうぬぼれていた比丘である。くわしくは「四禅比丘」の巻を参照されたい。

■むかし、舎衞城(しゃえいじょう)にふたりの人があった。その一人はつねに善を修していたが、もう一人はいつも悪ばかりを作っていった。また、その善行の人は、その一身のなかにおいても、つねに善行を修して、いまだかって悪をいとなんだことはなかった。それに反して、その悪行の人は、その一身のなかにおいても、つねに悪行をいとなんで、いまだかって善を修したこともなかった。しかるに、その善行を修するものは、命終の時にのぞんで、順後次受の悪行のせいのゆえに、たちまちにして地獄における中有(ちゅうう)のすがたが目のまえに現出した。そこで彼はこう思ったのである。――わたしはこの生涯のうち、つねに善行を修して、いまだかつて悪をいとなんだことはない。まさに天国に生まれるべきである。それなのに、いったい、いかなる理由があってこの地獄の中有が目のまえに現れてきたのであろうか――と。だが、彼はそこでまたこう考えてみた、――これはきっと、わたしにもまた順後次受の業があって、それがいま熟してきて、この地獄の中有となって現出したのであろう――と。そこで彼は、また、自分がこの一身を得てから以後ずっと修してきた善業をじっと思いうかべて、深いよろこびにひたった。すると、そのすぐれた善き思いが現れてきたことによって、その地獄の中有のすがたは、たちまちにして消え失せてしまい、それに代わって、天国における中有すがたが、忽然として目のまえに現れてきた。それによって、まもなく命終わるとともに、天上に生まれることをえた。

このつねに善行を修めてきたひとは、順後次受の果をどうしても受けねばならぬ理由が、ちゃんとわが身にあったのだと思ったのみならず、さらにすすんで、だがこの生涯における修善の果も、またきっと後生に受けるはずだと思った。彼がふかい歓びにひたったというのは、それによるのである。しかも、その思いうかべたことは、まさに真実であったからして、たちまち地獄の中有は消え失せて、天国における中有が目のまえに出現し、命終ののちには天上に生まれたのである。だが、もしこの人が悪人であったなら、命終の時にのぞんで地獄の中有が目のまえに出現したならば、その人はきっと思うであろう。――わたしが一生に修めた善は、なんの功徳もない。もし善悪の果というものがあるならば、どうしてこのわたしが地獄の中有をみる道理があろうか――と。そういって、彼は因果を否定し、仏法僧の三宝をけなすであろう。もしそういうことになれば、当然彼は命終わって地獄におちるであろう。人は、そういうことにならない時、はじめて天上に生まれることができるのである。そこの道理を、はっきりと知るがよいのである。(303~305頁)

■しかるに、つねに悪行をいとなんできた者は、命終の時にのぞんで、順後次受の善業の力によって、たちまちにして天国における中有のすがたが目のまえに現れてきた。そこで彼はこう思ったのである。――わたしはこの生涯のうち、つねに悪行をいとなんで、いまだかつて善を修したことはない。まさに地獄に生まれるべきである。それなのに、いったい、いかなる理由があってこの天国の天国の中有が現れてきたのであろうか――と。そこで彼は、また邪(よこし)のまの考えをおこして、善悪とか、いろいろの果報とかを否定してしまう。だが、その邪見のせいで、その天国の中有のすがたはやがて消え失せてしまい、代わって、地獄の中有のすがたが忽然として目のまえに現れてきた。それによって、まもなく命終わるとともに、地獄に生まれたという。

この人は、生きているあいだは、つねに悪をいとなんで、さらに一つの善をも修しなかったが、それのみならず、彼は命終の時にのぞんで、天国における中有のすがたが眼前に現れたのをみても、それが順後次受の果であることを知らないでいった。――わたしは一生のあいだ悪ばかりをいとなんできたのに、それでも天国に生まれようとしている。これでも、善悪の因果などというものは、けっしてないことが判るではないか――と。そのような善悪の因果を否定するような邪見のせいで、その天国の中有のすがたはやがて消え失せ、代わって地獄の中有のすがたが忽然として現れ、まもなく命終わるとともに、地獄におちたという。これは邪(よこし)まの考えのために、天国の中有がかくれてしまったのである。だからして、修行者たるものはけっして邪見をいだいてはならない。だからまた、どういうのが邪見であるか、どういうのが正見であるか、それがはっきりするまでまなびおさめるがよいのである。(305~306頁)

■まず、因果を否定し、仏法僧をけなし、あるいは、三世とか解脱とかいうことを否定する。それらはみな邪見である。まさに知るがよい、今生のわが身に、ふたつはない。いたずらに邪見におちて、むなしく悪業の果を身に受けるなど、惜しいことではないか、みずから悪をいとなみながら、あるいはそれを悪にあらずと思い、あるいは悪の報(むく)いなどあるものかと邪まの考えをおこす。だからといって、やっぱり悪の報いをその身に受けないわけにはゆかないのである。(306頁)

〈注解〉室羅筏(しらば)国;“Sravasti”の音写である。舎衞城のことであって、憍薩羅(こうさら)国の都城である。

中有;前の世において死したのち、なおまだ次の生を受けるにいたらない間をいう。また中陰ともいう。

撥無;撥はのぞく。因果を撥無といえば、因果を否定することにほかならない。(306頁)

■世尊は偈(げ)をもって仰せられた。

「たとい百劫を経(ふ)るとも

作(な)すところの業は亡ぶることなし

たまたま因縁に遇うのときには

その報いはおのずからにして来る」

世尊はまた仰せられた。

「なんじらはまさに知るがよい。純然たる悪業には純然たる悪報があり、純然たる善業には純然たる善報がある。またもし善悪わかちがたい雑業には、善悪わかちがたい果報がある。だからして、まさに純然たる悪業および善悪わかちがたい雑業をはなれて、つとめてじゅんぜんたる善業をのみ修めまなぶがよろしい」

その時、もろもろの大衆は、仏の説くところを聞き終わって、よろこんで信じ受けたという。(311頁)

〈注解〉業障;悪業のさわり、悪業をつくって正直を障(そこな)うこと。「ごっしょう」と読みならわす。

本来空;すべての現象はみな仮りの存在(仮有という)であって、本来は本当の存在(実有という)ではないというのである。

二祖大師;中国第二祖の神光慧可(593寂、寿107)。その最後は処刑されて寂した。(306頁)

四 馬(しめ)

■開 題

この一巻は、その奥書には、ただ「建長七年(1255)夏安居日、以御草案書写之畢。懐弉」とみえるのみであって制作の日もさだかでなく、また、示衆のことも知られていない。そもそも、道元がなくなったのが、建長五年(1253)秋八月二十八日のことであったから、その筆写のことも、すでに入寂されてから二年目の夏安居のことなのである。

いったい、この『正法眼蔵』の巻々の筆写のことは、おおむね懐弉の役割のようになっていたようであるが、かの『建撕(ぜい)記』のいうところによれば、その懐弉は、宝治元年(1247)のころから、しばらく永平寺をはなれて、豊後国大分郡に下向していた。大龍山永慶寺の創建のためであったという。その間には、むろん、その筆写のこともとだえていた。

だが、道元は、建長四年(1252)の夏のころから病を得られた。それを知るに及んで、懐弉はいそぎ永平寺に帰ってきた。さきの「三時業」の巻の奥書に、「建長五年(1253)癸(みずのと)丑三月九日、在於永平寺之首座寮書写之。懐弉」とあるのは、そのころ、彼がすでにふたたび永平寺に帰っていたことの証である。

しかるに、彼は、建長五年七月十四日、開山御在世のままで、永平寺の第二代住持職を仰せつかった。また、その年の八月二十八日には、師道元の入滅のことに遇うにいたった。いずれも、懐弉にとっては生涯の大事であった。その前後は、書写のこともしばしば遠ざかっていたが、建長七年の夏案居のころにいたって、また書写のしごとをはじめた。この「四馬(しめ)」の巻もまた、そのころの書写の一つである。

この「四馬」の巻そのものについては、いうべきことは極めてすくない。ごく短小な一巻であって、かってその内容も簡明であるからである。

まず、ある日の仏のことが語られて、それによって、仏の教化が馬の調御(じょうご)に比して説かれる。

そして、それらの結びとして、仏をまた調御丈夫(じょうごじょうぶ)と称することを語って、この巻を終わるのである。調御丈夫とは、人のよく知るとおり、いわゆる仏十号の一つである。(314~315頁)

■ある日のこと、一人の外道が世尊のところに参上して、世尊に問うた。なんぞことばをもっての教えを乞うたわけでもなく、また、ただの無言を問うたわけでもなかった。世尊はその座にあってやや久しゅうした。すると、その外道は世尊を礼拝して、讃歎(さんだん)していった。

「善いかな世尊、世尊はまことに大慈大悲にましまして、わたしの迷雲をはらい、わたしをして得るところあらしめたもうた」

そういって、彼は礼をなして去った。

外道が去ってから、やがて阿難は、世尊に問うていった。

「いったい、かの外道は、なんの得るところがあって、わたしは得るところがありましたと、世尊をほめたたえて去ったのでありましょうか」

「世間でいう良馬というものは、鞭の影を見ただけで走るというが、そんなものであろう」

祖師達磨が印度から来られてからこのかた今日にいたるまで、もろもろの善知識は、よくこの物語をあげて、参学する人々に物語ったものである。すると、そのなかには、ながい年月の間には、時々眼をひらかれて、仏教に信じ入るようなものもあった。これを「外道問仏」の話というのである。それによっても判るように、世尊には聖黙(しょうもく)と聖説(しょうせつ)という二種の方法がおありだった。それによって悟るというのは、みな世間でいう良馬は鞭の影を見て走るというものである。いや、聖黙や聖説ならぬ方法によって悟るのも、またそのようなものである。(317頁)

■また、龍樹祖師はいった。

「人のために一句を説くは、良馬が鞭の影を見て、たちまち正しい路に入るようなものである」

あるいは生滅の教えを聞き、あるいは不生不滅の教えを聞き、またあるいは三乗の教えを聞き、あるいは一乗の教えを聞くなど、いろいろの機会にめぐりあうことは、しばしば邪(よこし)まの路に入ろうとするけれども、しきりに鞭の影が見えるようなものであって、そのおかげで正しい路に入ることができるのである。殊(こと)に、よき師にしたがうことをえたり、よき人に遇うことができたというようなことは、それはもう、すべて一句を説くことをあらざるはなく、いつでも鞭影を見ることにほかならないのである。そして、その場ですぐ鞭の影を見るものも、また、ながいながい時を経てから鞭の影を見るものも、すべてかならず正しい路に入ることができるのである。(318頁)

〈注解〉聖黙・聖説(しょうもく・しょうせつ);仏陀の教化の方法として、古来から、聖なる沈黙と聖なる説法があると称されている。それが丁度いまの有言と無言とに相応するのである。

三乗・一乗の法;あるいは三乗(声聞乗・縁覚乗・菩薩乗)の教えを語り、あるいは一乗の教えを説くというところであろう。(319頁)

■『雑阿含経』にいう。

仏は比丘たちに告げていった。

「馬には四種の馬がある。一つには、鞭の影を見ただけで、たちまち驚きおそれて、御者の意にしたがう。二つには、鞭が毛に触るれば、たちまち驚きおそれて、御者の意にしたがう。三つには、鞭が肉に触れて、それではじめて驚く。四つには、鞭が骨に徹して、それでやっと悟る。

はじめの馬は、たとえば、他の村の不幸を聞いて、たちまちよく厭離(えんり)の念を生ずるようなものである。つぎの馬は、自分の村の不幸を聞いて、たちまちよく厭離の念を生ずるようなものである。三番目の馬は、自分の親の不幸にあって、たちまちよくこの世を厭(いと)う心を生ずるようなものである。第四番目の馬は、ちょうど、自己の身の病苦によって、やっとこの世を厭う心を生ずるようなものである」

これを阿含の四馬という。仏法をまなぶ時には、かならずまなぶところである。祖師というものは、真の善知識として世の人々のなかに出現した仏の使いなのであるから、かならずこれをまなび来って、学人のために伝授するのである。これを知らないようなのは、人々の善知識ではない。学人がもしよく善根を植えた人であって、仏道に近いものは、かならずこれを聞くことをうるはずである。だが、仏道に縁のとおいものは、聞くこともなく、したがってしらないであろう。

だからして、師匠たるものは、いそいでこれを説こうと思うがよく、弟子たるものは、いそいでこれを聞かんことを願うがよい。ちなみに、いま、世を厭う心を生ずるというのは、「仏はおなじことばでもって法を説かれるけれども、衆生はそれぞれその類にしたがってそれを理解する。たとえば、あるものは恐怖のの心をおこし、あるものは歓喜の心を生じ、あるものは厭離の念をおこし、あるものは疑惑の念を生ずる」というがごとくである。(321~322頁)

■また『大般(だいはつ)涅槃経(ぎょう)』にいう。

仏は仰せられた。

「また、つぎに、善男子よ、馬を調御(じょうご)する者には、おおよそ四種の仕方がある。一つには、毛に触れることである。二つには、皮に触れることである。三つには、肉に触れることである。四つには、骨に触れることである。それぞれその触るるところにしたがって、御する者の意にしたがわしめるのである。そして、いま如来もまた然るのである。すなわち、四種の方法をもって、よく衆生を調御(じょうご)するのである。一つには、如来が衆生のために生を説きたもうと、衆生はたちまち仏の仰せを受領する。それはあたかも、その毛に触れて御する者の意にしたがわしめるようなものである。二つには、如来が生を説き老を説きたもうと、衆生はたちまち仏の仰せを受領する。それはあたかも、その毛や皮に触れられて、はじめて御する者の意にしたがうようなものである。三つには、如来が生および老病を説きたもうと、衆生はそれで仏の仰せを受領する。それはあたかも、その毛や皮や肉に触れられて、はじめて御する者の意にしたがうようなものである。そして、四つには、如来が生ならびに老病死を説かれるにおよんで、衆生はやっとそれで仏語をの頂載(だい)する。それはちょうど、その毛や皮や肉や骨にまで触れられて、あおれではじめて御する者の意にしたがうようなものである。だから、善男子よ、馬を御する者の馬を調御するにも、なにも定まった仕方があるわけではない。如来なる世尊が衆生を調御されるのにも、きまった仕方はないけれども、なおかならず調御(じょうご)なさるのである。その故をもって、仏をまた調御丈夫(じょうごじょうぶ)とは申しあげるのである」

これを『涅槃経(ぎょう)』の四馬という。学人はかならずこれを習うのであり、もろもろの仏はかならずこれを説かれるのである。だから、学人は、これを仏にしたがって聞くのである。仏にまみえたてまつり、仏を供養したてまつるたびごとに聴聞するのであり、仏は仏法を伝授するたびごとに、衆生のためにこれを説いて、いつの世にも怠りたもうことがないのである。たとい学人がすでに仏の位にいたっても、なおはじめての初発心の時のように、菩薩であろうと、声聞であろうと、誰であろうと、どんな集会(しゅうえ)であろうと、これを説いてやまないのである。だからして、仏・法・僧の三宝の種子はいつの世にも絶えることがないのである。(322~323頁)

〈注解〉調御丈夫;仏十号の一である。一切の丈夫を調御(じょうご)して仏道に入らしめるからである。(324頁)

■こういうことであるからして、もろもろの仏の説くところと菩薩の説くところでは、はるかに異なっている。いまも見るように、馬を調御する者の方法にも、おおよそ四通りある。毛に触れることと、皮に触れることと、肉に触れることと、骨に触れることがそれである。それだけでは、いったいなにを触れるのか、はっきりしないようであるが、法を伝える方々の考え方では、たいてい、それは鞭であろうと解している。だがしかし、馬を調御するには、かならずしもそうとは限らない。鞭をもちいる者もあるし、鞭をもちいないものもある。調馬にはかならず鞭のみとは限らないのである。たとえば、身の丈八尺もある馬があって、これを龍馬(め)というが、よくこの馬を調御(じょうご)するものは、世のなかにはすくない。また千里馬(め)という馬があって、一日のうちに千里をゆくという。この馬は、五百里をゆくあいだは血の汗をながすが、五百里をすぎると気もちとく走る。この馬に乗れるものはすくなく、この馬を調御する方法を知っているものはすくない。この馬は中国にはなく、外国にある。この馬には、しきりに鞭を加えるなどとは記されてはいない。

だがしかし、古徳はいう。――馬を調御するにはかならず鞭を加える。鞭でなくては馬を調御することはできない――と。これが調馬(め)の法というものである。それには、いまもいうように、毛に触れる、皮に触れる、肉に触れる、骨に触れるという四つの方法がある。だが、毛に触れずして皮に触れるということはありえないし、毛や皮に触れないで肉や骨に触れることもできない。だからして、これは鞭を加えるのだなあと判る。それをいまここに説かないのは、経の文字のことば不足というものである。もろもろの経には、そのようなところがすくなくない。

そして、調御丈夫といわれる如来なる世尊ももまたそうなのである。世尊もまた四種の方法をもってあらゆる衆生を調御して、かならず見事に教化なされるのである。すなわち、如来が衆生のために生を説くと、衆生はたちまち仏のことばを頂くのであり、また、生および老死を説けば、それで仏のことばを頂くものもあり、あるいは、生および老病死を説かれるにおよんで、それでやっと仏語を頂戴するものもある。だが、のちの三つを聞くものも、けっしてはじめの一つを離れてのことではない。それはちょうど、世の馬を調御するものが、毛に触れることをはなれて、皮に触れ、肉に触れることがありえないようなものである。また、ここに生老病死を為説するというのは、如来なる世尊が生老病死を衆生のために説くのである。だが、それは、衆生をして生老病死をはなれしめようというのではない。また、生老病死がそのまま道であると説くのでもない。つまり、生老病死がそのまま道であると理解させようというのでもない。それは、ただ、生老病死を衆生のために説いて、それによって、すべての衆生をして最高の智慧の教えを会得せしめようとのためである。そこのところを、「如来世尊、調伏衆生、必定不虚、是故号仏調御丈夫」すなわち、如来なる世尊が衆生を調御なさるのにも、いろいろの仕方があるけれども、なおかならず見事に調御なされる。その故をもって、仏をまた調御丈夫とは申しあげる、というのである。

正法眼蔵 四馬

建長七年夏案居日、御草案をもってこれを書写しおわる。 懐弉(326~328頁)

出 家 功 徳(しゅっけくどく)

■開 題

この一巻もまた、その奥書にはただ「建長七年(1255)乙卯夏安居日」とその書写の日付がみえるのみであって、その制作の日もさだかでなく、また示衆のことの有無も知るよしもない。ただ一つ思いおこされることは、さきの「八大人覚(がく)」の後書に、懐弉がしるしのこしたつぎの一説のことである。そこには、

「仰いで惟(おも)んみれば、前(さき)に撰したまえるよころの仮字正法眼蔵等、みな書き改め、並びに新草具するに、都盧(すべて)一百巻これをよすべし云々、既に始草の御比の巻は、第十二に当れり。此の後、御病漸々に重増したまふ。仍(よ)つて御草案等のことも即ち止みぬ」(原文は漢文体)

つまり、道元は、いつのころからか、これまで書いてきた『正法眼蔵』の草稿等をみな書き改め、それに新草の原稿をも加えて、すべてで一百巻の『正法眼蔵』を計画していた。いや、計画したばかりではなく、すでにそれに著手しておられて、いまの「八大人覚」の巻は、その第十二巻に当っていた。だが、そのころから、病はようやく重く、ためにそのこともそれで終わりとなってしまったという。

それは、悲しい、そして残念なことである。だが、そのような道元の努力は、けっしてそれで空しかったわけではない。それらの加筆もしくは新草の巻々は、なお、今日わたしどもがいうところの『正法眼蔵』の一半を構成し、あるいは、いわゆる「十二巻正法眼蔵」として伝えられている。そして、この「出家功徳」の巻は、その「十二巻正法眼蔵」の第一巻とされていたのである。

なお、念のためにいえば、さきにもいったように、いつも道元の草稿の書写の役をつとめていたかの懐弉が、そのころは、折悪しく豊後(ぶんご)の方に赴(おもむ)いていたため、それらの新草ならびに加筆の巻々は、たいてい、制作もしくは示衆の日付がなく、ただ書写の時をしるすのみであって、しかも、その書写のことも、たいていは没後のこととなったのである。

では、この「出家功徳」の巻の内容はいかにというに、それは、かなり長文のものではあるが、その内容はいたって把握しやすいようである。

まず、最初に、龍樹の『大智度論』からの長い引用があって、いうなれば、出家のすすめが説かれている。

ついで、諸経からの引用が並べられて、いろいろの角度から、出家の功徳が説かれている。

さらに、仏祖の出家の例が、つぎつぎと五つあげられ、その終わりには、出家の生活についての二つの心得があげられて、

「これ仏仏祖祖正伝の、正法眼蔵、涅槃妙心、無上菩提なり」

と結ばれている。

おそらくは、さきに永平寺において衆に示された「出家」の巻の加筆拡大されたものと見てよいのではないかと思われる。(330~331頁)

■龍樹菩薩はいった。

「問うていわく、在家の戒をまもれば、なお天上に生をうけることをえ、菩薩道をみたすことをえ、また涅槃にいたることをうるという。では、また、どうして出家の戒が必要なのであろうか。

答えていわく、いずれも生死の彼岸にわたることをうるのであるが、なおそこには難易の別がある。在家にはいろいろと生業の仕事がある。もし仏法のことに専念しようとすれば、たちまち家業がすたることとなる。またもし専(もっぱ)ら家業のことにいそしもうとするならば、たちまち仏法のことがすたることとなる。そこは取捨おのずから宜しきに応じなければならぬのであるが、それがなかなか難しいのである。しかるに、もし出家するならば、まったく俗事を離れて、いろいろの怒りや惑いからまぬかれ、ただ一意専心に仏道を行ずることができる。これを易しいというのである。またつぎに、在家というものは、多事多端にして、心をみだす雑事もすくなからず、煩悩のおこるもとであり、もろもろの罪のあつまるところである。これをはなはだ難なりというのである。しかるに、もし出家するならば、それはあたかも人なき広野にあるがごとく、その心を一つにして、無念無想なることができる。さすれば、他事もまたことごとく去る。偈(げ)にも説いていうがごとくである。

静かに樹林のあいだに坐すれば

寂然としてもろもろの悪は滅し

恬淡(てんたん)としてただ一心なるを得ん

その楽しみは天上の楽しみにあらず

人は富みかつ貴(たっと)からんことを求め

またよき衣とよき褥(しとね)をもとむ

その楽しみは安穏(あんのん)にあらず

富貴(ふっき)のもとめは厭くことなし

僧衣をまといて托鉢を行ずれば

所作も思念もみだるることなし

ただみずから智慧の眼をもって

万法のあるがままを観ずれば

さまざまの法門もおのずからにして

みなひとしく通人することをう

されば智慧の心はただ寂然として

しかもこの世によく及ぶものなし

これをもっての故に、出家の戒を修する道は、はなはだ易しいというのである。(337~338頁)

■仏の在世のころ、この比丘尼(岡野注;蓮華色比丘尼、ウッパラヴァンナー)は六神通をえた聖者となり、貴人の邸に入って、つねに出家の法をたたえ、もろもろの貴族の婦女に説いていった。

『みなさんも出家なさるがよろしい』

もろもろの貴婦人たちはいった。

『わたくしどもはまだ若く、容色のおとろえもありません。戒をまもることは難しく、きっと戒を破るようなこともありましょう』

比丘尼はいった。

『戒を破るならばお破りなさい。ただ出家なさるがよろしい』

貴婦人たちは問うていった。

『戒を破れば地獄におちるでしょう。どうして破ってよいのですか』

比丘尼は答えていった。

『地獄におちるならば、おちるがよいのです』

すると、貴婦人やちは笑っていった。

「地獄におちれば罪の報いを受けるでしょう。どうしておちてもよいというのですか』

そこで蓮華色比丘尼は、彼女の過去世のことを物語っていった。

『わたしは、自分の過去世の宿業のことを思いおこしてみますと、ある時には遊女となって、いろいろの衣服をまとい、馴染みのことばをもてあそびました。ある時には、比丘尼の衣を身につけて、戯(たわむ)れて笑ったこともありました。それが縁となって、迦葉(かしょう)仏のころには比丘尼となりました。だが、わたしは、自分の家柄と容貌の美しいことを誇り、心に憍慢(たかぶり)をいだいて、ついに戒を破りました。戒を破ったために、地獄におちて、いろいろとその報いを受けました。だが、やがて罪の報いを受け終わりまして、釈迦牟尼仏にお会いすることができ、出家して六神通を身にそなえて、聖者の境地にいたることができました。

それで、わたしは、出家して受戒すれば、また戒を破って罪を犯しても、なお戒の縁によって聖者の境地にいたれるのだと知ったのであります。そしも、ただ悪をなして戒の縁がなかったならば、とても道を得ることはできないでしょう。わたしもまたその昔は、生々世々にわたって地獄におち、地獄よりいでてはまた悪人となり、悪人として死んではまた地獄におち、結局なんの得るところもなかったのです。いまは、これではっきりと知ることができました。出家して受戒するならば、たといまた戒を破ろうとも、その戒の縁によって、ついに仏道のよい果を得ることができるのだということを』(340~341頁)

■そういうことであるから、もし最初から、ひたすら最高の智慧にむかって、けがれのない信心をかためて袈裟を頂戴したならば、その功徳の生(お)い育ちは、かの戯女の功徳のそれよりもずっと速やかであろう。ましていわんや、最高の智慧のために発心し、出家して戒を受けたならば、その功徳はかぎりないことであろう。そもそも、人間の生を受けたものでなくては、この功徳を成就することは稀なのであるが、そのなかにおいても、西の方天竺や東の方中国には、出家や在家の菩薩や祖師などがたくさんおられる。しかも、この龍樹祖師におよぶものはない。しかるにいま、その龍樹祖師は、酔える婆羅門や、戯女などの物語をあげて、ひたすらに衆生の出家し戒を受けんことをすすめているのである。その龍樹祖師は、とりもなおさず、世尊のみずから成仏の予言を与えた方なのである。(345頁)

〈注解〉得度;教化によって生死の彼岸に渡ることを得ること。

十悪;身・口・意の三業によって造られる十種の罪業であり、殺生・妄語・邪見などがあげられる。

六通・三明;六通は六神通である。三明とは、宿命通・天明通・漏尽通であるから、それもまた六通のなかの三つをとりだしていったものである。(346頁)

■世尊はまた仰せられた。

「仏法のなかにおける出家の果報というものは、まことに思いも及ばぬものである。たとえば人ありて、七宝(しっぽう)の塔をたて、その高さ三十三天にまでいたろうとも、それによって得るところの功徳は、とても出家には及ばない。何故であろうか。それは、七宝の塔というものは、なお貪(とん)欲にもえる悪しざまの愚人どもが、これを壊すということもあるのであるが、出家の功徳にいたっては、まったく毀れるということがないからである。だからして、あるいは男女に教え、あるいは奴婢を解放し、あるいは人民の罪を許し、あるいは自分自身もまた、出家して仏道に入るならば、その功徳は無量であろう」

世尊は、その功徳の量をちゃんと知っておられて、このように説いておられる。福増(ふくぞう)という長者は、その時すでに百二十歳の老人であったが、これを聞いて、無理におねがいをして、出家して戒を受け、年少者の席のあとにつらなって修行し、ついに大いなる聖者となったのである。(350~351頁)

〈注解〉ついで、二つの世尊のことばを挙げて、出家の功徳の最勝にして不可思議なることが説かれる。その二つの世尊のことばのうち、その前者は、いまだその出処を詳(つまびら)かにすることをえない。その後者は、『賢愚経』巻四、第二二、出家功徳尸利苾提品(しりびだいぼん)による。尸利苾提とは、その解説の文中にいうところの福増なる長者のことである。

福増;“Srivaddhi”を音写して尸利苾提となし、また意訳して福増と訳する。はなはだ老いてのち出家した人物である。もと王舎城の長者であるという。(353~354頁)

■これは、釈迦如来が、そのむかし太子であった時、夜半に城をいで、日冲(ちゅう)して山に入り、みずからその髪を切った時のことである。その時、天にいます神々がきたって、髪を剃り、袈裟衣をさずけたという。これはもう疑いもなく、如来が世にいでたもうめでたいしるしであり、また、もろもろの仏世尊のさだまれる法なのである。けだし、三世十方のもろもろの仏たちは、みな一仏といえども、在家にして仏となられた方はない。その過去にかならず仏があって、出家しその戒を受けて仏となられたのである。人々の道を得るのも、またかならず出家受戒によるのである。そもそも出家受戒によって仏になるということは、それがもろもろの仏のさだまれる放であるからして、その功徳は量り知れないのである。経典のなかには在家成仏の説をなすものもあるが、それは正伝ではない。また、女身成仏の説もあるが、それも正伝ではない。仏祖の正伝するところは、ただ出家成仏のみである。(372頁)

■第四祖なる優婆毱多(うばきくた)尊者のころ、長者の子にして、提多迦(だいたか)というものがあり、来たって尊者を拝し、出家せんことを求めた。尊者はいった。

「そなたの求めるものは、身の出家であるか、心の出家であるか」

提多迦は答えていった。

「わたしが出家を求めるのは、身や心のためではございません」

尊者はいった。

「身や心のためではないというならば、いったい誰が出家するのであるか」

答えていった。

「そもそも出家というものは、われとかわが物とかいうものはございません。われとかわが物とかいうものがないから、心に生とか滅とかいうものがありません。心に生滅がないからして、それがとりもなおさず恒常であります。だから、もろもろの仏もまた恒常なのであります。心には姿かたちはございません。また、その本質本体といったものもございません」

尊者はいった。

「おお、そなたはすでに大悟(だいご)して、心はおのずから自由闊達である。では、とろしく仏道によって、そのすばらしい種子を出家せしめるがよい」

そして、尊者はただちに彼を出家せしめ、戒をさずけた。

いったい、諸仏の教えに遇うことをえて出家するということは、なにごとにも勝(まさ)れるすぐれた果報である。しかるに、その教えは、われのためのものでもなく、わが物のためのものでもなく、また、身心(じん)のためのものでもなく、したがって身心が出家するわけでもない。出家とはわれとかわが物とかいうものではないという意味は、そういうことである。われとかわが物とかいうことでなければ、それはもろもろの仏のことであろう、いや、それはただもろもろの仏のさだまれるなされ方である。そして、もろもろの仏のさだまったなされ方であるからして、われとかわが物とかいうものでもなく、まだ身だ心だというものでもないのである。この世のことは、なに一つとして、比していうべきものはないのである。だからして、出家はつまり最高の法なのである。それは頓(とん)だ漸(ぜん)だというものでもない。常だ無常だというものでもない。来(らい)だ去(こ)だだといういうものでもない。住だ作だというものでもない。広だ狭だというものでもない。大だ小だというものでもない。あるいは、作だ無作だというものでもない。ただ仏法を一人から一人へと正伝してきた祖師は、誰一人として出家して戒を受けないものはなかったのである。そして、いま提多迦が、はじめて優婆毱多尊者にあいたてまつって出家をもとめたのも、またそれであった。かくて彼は、出家して比丘戒をうけ、優婆毱多尊者にあいたてまつって出家をもとめたのも、またそれであった。かくて彼は、出家して比丘戒をうけ、優婆毱多尊者についてまなび、ついに第五の祖師となったのである。(372~374頁)

〈注解〉車匿(しゃのく);釈尊が太子たりしころの従僕で。太子の出城にあたっては、馬を御して従ったという。

盧居士;六祖慧能のなお居士であったころは盧氏であったので、かくいうのである。

龐(ほう)居士;唐代の居士である。石頭希遷や馬祖道一に参じて禅を修し、中国の維摩と称せられた。(376~377頁)

■南嶽山の慧譲禅師は、ある日、みずから歎じていった。

「そもそも出家とは、無生法(しょうほう)のためにするものであって、天上においても、人間世界においても、これにまさるものはありえない」

そのいうところの無生法とは、生滅をはなれて涅槃にいたる教えであって、これこそ如来の正法である。だからして、天上においても、人間世界においても、これにまさるものはないというのである。天上というのは、欲界に六つの天があり、色界に十八の天があり、また無色界にも四種の天があるというのであるが、そのいずれも出家の道におよばないのである。

盤山の宝積(しゃく)禅師はいった。

「大徳よ、このなかで道をまなぶということは、たとえば、大地は山をささえているけれども、その山のひとり峠(そばた)つことしらず、あるいは、石は玉をそのなかにいだいていても、それで玉は瑕(きず)つかないのだとは知らないようなものである。もしそういう具合であれば、それが出家というものである」

仏祖の正法というものは、かならずしも、知ると知らざるにかかわるものではない。そして、出家ということは、仏祖の正法であるからして、その功徳はあらたかなのである。

鎮州臨済院の義玄禅師はいった。

「いったい、出家というものは、ごく平常のことの正しい見方・考え方をはっきりと摑んで、仏を見分け魔を見分け、真を見分け偽を見分け、あるいは、凡夫を見分け聖者を見分けことができねばならない。もしそれらのことをよく見分けることができれば、それが真の出家というものである。もしも魔と仏を見分けることができなければ、それはまさに家よりいでてまた家に入るようなものである。それはまだまだ業(ごう)づくりの衆生というものであって、まだほんものの出家とはいえないのである」

いうところの、ごく平常のことの正しい見方・考え方というのは、深く因果の道理を信ずるとか、深く仏法僧の三宝を信ずるなどということである。また、仏を見分けるというのは、仏がその修行中になされたことや、仏となられてからなされたことの素晴らしさを、はっきりと思い念ずることである。つまり、それが本物であるか偽物であるか、あるいは、それが凡夫のわざであるか聖者のいとなみであるかを、はっきりと区別するのである。もしも仏を見分けることがはっきりできなければ、学道をはばみ、学道を転落することとなろう。もしよく悪魔のわざをそれと知って、それをしないようにすれば、よく道を見分けて、転落することはない。それがほんとうの出家の法というものである。しかるに、世のなかには、むやみに悪魔のわざをもってそれが仏法だと思うものがああい。これが近世のいけないところである。この道をまなぶものは、はやく悪魔のわざを見抜き、仏を見分けて修行するがよろしい。(378~380頁)

〈注解〉無生法;生滅をはなれた涅槃をいうことばである。

欲界;淫欲と食欲のつよい人間の住する世界であり、そこには、上には六欲天があり、下には八大地獄があるという。

色界;欲界の上にある天界であって、そこには十八の天があるという。ただし、このことばはもともと、世界が人間欲望の世界であるのに対して、物質のみの世界をいうことばであったと考えられる。

無色界;それは“略”の訳語であって、ずばりといえば叡智の世界というほどのことばである。ふるくは、その世界にも四つの天界をたてて考えていた。(380~381頁)

■如来がなくなられる時、迦葉菩薩は仏に申していった。

「せそんよ、如来は人間のもろもろの可能性を知る力を具えておられたはずでございます。きっとかの善星(しょう)がよき可能性をなくすることも知っておられたでありましょう。それなのに、どういうわけでその出家をお許しになられたのでございましょう」

仏は仰せられた。

「善男子よ、わたしがその昔、はじめて出家した時、わたしの弟の難陀(なんだ)も、いとこの阿難や提婆達多も、またわが子の羅睺羅のようなものまで、みんなわたしに随って、出家して道を修めた。もしわたしが善星の出家を許さなかったならば、彼はつぎの王として王位を継ぐこととなる。そうなれば、その力を自由自在にふるって、きっと仏法を壊すであろう。そんなわけで、わたしは彼の出家修道を許したのである。

善男子よ、もしまた善星比丘が出家しなかったならば、彼はまったく善の可能性を無くしてしまって、いつの世までもけっして救われる時はないであろう。しかるに、いまではすでに出家したのであるから、たといいったんは善の可能性をうしなっても、ねおよく戒を受けて、年老い、経験をつんで、徳ある人々を供養し、ksつ、初禅から四禅までを修習したのである。それは善き果をもたらす因というものである。そのような善き因は、かならず善きことを生む。善きことがすでに生ずれば、かならず仏道を修するであろう。そして、すでに仏道を修するにいたれば、またきっと最高の智慧を得ることができるであろう。だからして、わたしは善星(ぜんしょう)の出家を許したのである。

善男子よ、もしわたしが善星比丘の出家受戒を許さなかったならば、人はわたしをたたえて如来は十力(じゅうりき)を具(そな)えているという訳にはゆくまい。善男子よ、仏は人々がみな善き性質と善からぬ性質を具えていることを知っている。だが、人はそのように二つの性質を具えてはいるものの、ともすれば、一切の善き可能性を無くしてしまうことがある。それはいったいなんの故であるか。それは、そのような人々は、善き友に親しまず、正しい教えを聞かず、善きことを思わず、教えのように行じないからである。そのために、善き可能性をなくして、善からぬ可能性をのみ具えることとなるのである」

これでよく判るではないか。如来にまします世尊は、ちゃんとはっきりと人々が善き可能性を無くすることもあることを知っておられても、なおかつ善き因をさずけようとして、彼らに出家を許したもうたのである。大いなる慈悲というものである。また、どうして人々は善き可能性をうしなうかというと、それは、彼らが善き友に近づかず、正しい教えを聞かなず、善きことを思惟せず、また教えのように行じないからであるという。では、この道をまなぼうとするものは、かならず善き友に親しみ近づくがよろしい。善き友とは、もろもろの仏のましますことを説く人々であり、また罪ということがあり、福(さいわい)ということがあると教えるものなのである。因果を否定しないのが善き友であり、善知識というものである。そのような人々の説くところこそ、正しい教えというものである。また、そのような道理を思うことこそ、善き思惟というものである。そして、そのように行ずることこそが、如法に行ずるということなのであろう。

そういうことであるからして、たとい親しかろうと親しくなかろうと、人々はただ出家して戒を受くべきことを勧めるがよろしい。あるいは修行ができるかできないかなどと心配する要もない。それがまさしく釈尊の正法というものであろう。(384~386頁)

■それで、はっきりと判るではないか。たとい閻魔王であっても、やはり、このように人間世界に生をうけることをねがうのである。ましてや、すでにこの人間世界に生まれたる者は、いそぎ鬢髪をそりおとし、三衣(え)を身にまとうて、仏道をまなぶがよろしい。それが他の世界にすぐれた人間世界の功徳というものである。それなのに、人間世界に生まれながら、いたずらに官途や世間のことを貪り、むなしく国王・大臣などの奴婢として、一生を夢まぼろしのうちに送り、のちの世はまっくら闇の世界に生まれるなど、真の依るべきところを得ないというのは、愚かのいたりであろう。しかるに、わたしどもは、すでに受けがたい人身をうけたのみならず、また遇いがたい仏法に遇うことをえたのである。いそぎあれこれの事どもは振り捨てて、すみやかに出家して仏道をまなぶがよろしい。国王・大臣だとか、妻子眷属(けんぞく)などというものは、どこだって遇えるものである。ただ仏法というものは、優曇華のようにめったに遇えるものではないのである。

いったい、無常のことたちまちにして到る時には、国王・大臣も、親しい者も召使いも、あるいは妻子も財宝も、これを助けるものはなく、ただひとりして黄(こう)泉の国におもむくのほかはない。自分についてゆくのは、ただもう善悪の業などのみである。また、この人身を失う時には、この人身がおしくてならぬであろう。では、まだこの人身のあるあいだに、はやく出家するがよろしい。それがまささく三世もろもろの仏たちの教えというものである。(387~388頁)

〈注解〉善星(ぜんしょう);仏弟子の一人で、また四禅比丘という。よく四禅にまでいたったが、悪友に交わり、ために仏に悪心をいだいて、無間(げん)地獄におちたという。

五結;五つの煩悩、すなわち貧・瞋・慢・嫉・慳がそれである。

五根;五つの能力、すなわち信根・精進根・念根・定根・慧根がそれである。

余趣;趣は赴き生まれるところの意。それに、地獄趣・餓鬼趣・畜生趣・修羅趣・人間趣・天趣の六趣がある。またそれをが六道ともいう。いまは、人間趣をのぞいたその余というのである。

黄(こう)泉;地下の泉。死者の行くところ、冥土である。中国では、血の色を黄に配する。(388~389頁)

■たとい今日このごろは、すでに末世の風のふきまくる時節であろうとも、なおこの叢林なるものは、いうなれば薝蔔(せんぷく)の林ともいうべきであって、ただの草木のおよぶところではない。また、いうところの合水の乳のようなものである。乳をもちいんとする時、もし乳がなくば、せめて水でわった乳をもちいるがよろしい。ほかの物をもちいてはならない。

ということであって、詮ずるところ、三世もろもろの仏たちも、みな出家して仏道を成じたというとおり、これこそもっとも尊いのである。けっして出家しない三世の諸仏などはおわしまさぬ。これこそ、仏祖正伝の正法の眼睛(ぜい)であり、涅槃のたえなる心であり、無常最高の悟りというものである。(394頁)

〈注解〉叢林;叢林とは、禅林であるが、いまはその林の一字を生かして、この文をなしているのである。

蔔(せんぷく);黄色い花で、梔子華(くちなし)のように、その香気は遠くまできこえるという。

合水;水をまぜたの意。和水すなわち水でわったというにおなじ。(395頁)

渓声余韻7(岡野注;増谷文雄のあとがき)

■この人は、もともと文章のことについては、ふかい関心をもっていたらしい。自分はもと幼少のころから学問が好きであったから、いまでもややもすると、外典の美言などが頭に浮かんできたり、『文選(もんぜん)』などを繙(ひもと)いたりすることがある。だが、考えてみると、そんなことはまったく「詮なき事」だから、さらりとやめなければならぬ、といっておる。それは、いうまでもない、仏教者としての自己の文章にたいする反省である。では、いったい、どんな文章を書けばよいのか。

「頌(じゅ)につくらずとも心に思はんことを書出し、文章とゝのはずとも法門をかくべきなり」

それが、その第二の八の一段にいうところであるが、さらに、その第二の十一の一節においては、それが、

「語言文章はいかにもあれ、思ふ儘の理を顆々(かか)と書きたらんは、後来も文はわろしと思ふとも、理だにも聞ゑたらば道のためには大切なり」

と語りいだされておる。「顆々」とは、あまり聞きなれないことばであるが、それは土のかたまりがごろごろしている様をいったことばである。それによっていわんとするところは、文章をととのえ、対句韻声にこだわることもなく、ただ「思ふ儘の理」をごつごつと書く、それこそ仏教者にふさわしい書き方だといっているのである。わたしは、この道元の仏教者としての文章論に、浅からぬ関心をいだいている。では、この反省は、その後の道元の文章に、どのような形をなして現れているのであろうか。(398~399頁)

■それについて、わたしのまず思うことは、道元その人の実践力のことである。この人は、こうと思い、こうと信ずれば、すぐそれが実践に結びついてゆく。たとえば、これもまた『正法眼蔵随聞記』の記しとどめているところであるが、その第四の八の一節には、こんな述懐がのべられている。それは、山門(叡山)をくだってから、建仁寺に身を投ずるまでの間のことであるが、そのころ、彼は、いっこうに正(しょうし)師や善友(ぜんぬ)にあうことができなかった。いろいろ教えてくれる人も、「先づ学問先達にひとしくしてとき人と成り国家にしられ天下に名誉せん事を」などという。だが、『高僧伝』や『続高僧伝』などを披見してみると、かの地の本物の高僧たちのありようは、どうもそんなものではないようである。そんなのは、いわゆる名利というもので、彼らのむしろ「にくむ」ところであったらしい。そして、そうと知ってからの彼には、もはや「此の国の大師等」というものは、「土(つち)瓦(かわら)の如く」に思われるようになったという。(399~400頁)

(2016年9月24日)

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『正法眼蔵(8)増谷文雄 全訳注 講談社学術文庫

供 養 諸 仏(くようしょぶつ)

■開 題

この巻の奥書にも、ただ「建長七年夏安居日」と見える。それは、すでにいったとおり、道元が亡くなってからのことであって、制作や示衆の日付であろうはずはない。それは、懐弉をはじめとする遺弟たちが、師の草稿について書写した日付を記したものに違いあるまい。ただ、この一巻は、さきの「出家功徳」の巻が、さきの制作を書き改めたものとは事かわって、まったく新しい構想のもとに制作されたもののようである。したがって、なによりも、まずその内容について記しておかねばなるまい。

この一巻は、かなり長文のものであるが、その内容は、比較的に簡明であるということができる。道元は、まず、その冒頭に『大毘婆沙(だいびばしゃ)論』(巻76)から一偈を引いて、それに簡単な注釈を加えているが、そのなかにおいて、道元は、「過去の諸仏を供養したてまつり、出家し随順したてまつるがごとき、かならず諸仏となるなり」といっておるが、それがこの一巻の眼目dっwるように思われる。

ついで道元は、『仏本行集(ぶつほんぎょうじつ)経』や『仏蔵(ぶつぞう)経』あるいは『大般(はつ)涅槃経(ぎょう)』の文をながながと引用している。その分量は、それだけですでに、この一巻の半分にも近いほどであるが、それによって言わんとするところは、釈尊もまたその過去世において、供養諸仏のことに力(つと)められたということ。つまり、釈尊もまた諸仏を供養した功徳によって仏となられたのだというのである。

さらに、道元は、いろいろの経論からさまざまの文を引用して、供養の小行もまたかならず作(さ)仏することを語り、また、もろもろの仏たちも、かならず諸仏を供養なさって、その功徳によって仏となったことを説いておる。そして、その結びには、十種の供養と、六種の供養心をあげて、いちいちそれを説明しておる。いうなれば、ただそれだけのことであるが、わたしには、その間にも、なにか晩年の道元の心境がにじみ出ているように思われてならない。(16~17頁)

■仏は仰せられた。

「もし過去世がなかったならば

まさしく過去仏もないであろう

もし過去仏がなかったならば

また出家の受戒もないであろう」

はっきりと知るがよろしい。三世にはかならず諸仏がましますのである。かりそめにも、過去の諸仏には、その始めがあるはずだなどといってはならない。また、その始めがないなどともいってはならない。もしも仏の始終のありなしを勝手に思い計らうようなことがあったならば、それはけっして仏法をまなぶというものではないのである。過去の諸仏を供養したてまつり、出家してその諸仏に随順したてまつりさえすれば、かならず仏と成るのである。諸仏を供養したてまつった功徳によって仏よ成るのである。いまだかって一仏をも供養したことのないようなものが、どうして仏と成ることができようか。因なくして仏と成ることはあり得ないのである。(19頁)

〈注解〉善根;よき果報を得べき善因というほどの意である。

■「仏は舎利弗(ほつ)に告げて仰せられた。

『わたしは、その昔のことを思い出してみると、最高無上の智慧を求めて、二十億の仏にあいたてまつった。それらはみな釈迦牟尼と号した。その時、わたしは転輪聖(じょう)王となって、生涯を終わるまで、仏およびもろもろの弟子たちに、衣服(えぶく)・飲食(おんじき)・臥具・医療を供養したてまつった。最高無上の智慧を求めんがためであった。だが、もろもろの仏は、なおわたしに予言を与えて、汝は来世において、きっと仏と成るであろうとは仰せられなかった。なぜであろうか。それは、わたしになお有(う)所得の心があったからである。(26頁)

〈注解〉有所得;あれをこれをと、分別名利の思いあるをいう。今日のことばでいえば、功利主義的なものの考え方である。

定(じょう)光;定光仏、または燃燈仏という。過去世の仏名である。

辟支(びゃくし)仏;“略”の音写であって、また縁覚、独覚などと訳する。無仏の世にいでて、性寂静を好み、師仏なくして独悟するがゆえに独覚と称す。

光音天(こうおんてん);また極光淨天ともいう。この天界にては、語らんとする時には、口より浄光を発して、それが言語になるという。そのゆえに光音天と名づくという。(33頁)

■いったい、仏を供養するということは、仏たちが必要とする品々を供養したてまつることではない。なにはともあれ、わが命の存する時間を、むなしく過ごすまいと、いそぎ供養したてまつるのである。たとい金銀だからといっても、仏のためには、なんの役にもたちはしない。たとい香華だからといっても、また、仏のためには、なんの役にかととう。だがしかし、それでも受納して下さるのは、ひとえに衆生をして、その功徳を増長せしめようがための大慈大悲というものである。(36頁)

■〈注解〉那由他;「なゆた」とよむ。“nayuta”の音写である。印度の数の単位であって、兆のあたるらしい。

三両;重さの単位であって、一両は一斤の十六分の一であるという。(44頁)

■『法華経』にいう。

「もし人が、塔廟(とうびょう)や、宝像や、画像に対して、華香(けこう)や幡蓋(ばんがい)などを、尊敬の心をこめて供養するとか、あるいは人をして、楽を作(な)し、鼓を打ち、角笛や貝を吹き、そのほか笛・琴・立琴や、琵琶・鐃鈸(にょうはち)など、いろいろさまざまの音楽をなさしめてもって供養するとか、あるいはまた、歓びの心をもって歌をうたい仏徳を讃歎(だん)するとか、乃至は、一つのちょっとした音楽を供養したものまでが、みなよくことごとく仏道を成就してきた。さてまた、たった一つの花をもって画像に供養したものも、だんだんと数かぎりない仏たちに見(まみ)えたてまつるであろうし、あるいは、ただ礼拝しただけとか、ただ合掌しただけとか、あるいはまた、片手をあげただけとか、ただちょっと頭を下げただけで、それで像に供養したというものすらも、やがてそのうちには、数もしれない仏たちに見えたてまつり、またみずから最高の道を成就して、ひろく無数の衆生たちを済度するであろう」

これは、他でもない、三世もろもろの仏たちの理想とするところ、また眼目とするところである。賢者を見てはひとしからんと思うならば、心をはげまして精進しなければなるまい。いたずらに光陰をむなしくしてはならないところである。

されば、石頭無際禅師も仰せられた。

「光陰むなしくわたるなかれ」

このような功徳も、すべてみな成仏するのである。そのことは、過去も現在も未来も変わるところはない。けっして、ああだ、こうだというようなことはない。仏を供養するという因によって、仏と成るという果を成就することは、このようなのである。

龍樹祖師は仰せられた。

「仏と成らんことを求むるならば、一つの偈を賛歎(だん)するとか、一たび南無と称えるとか、ほんの一度香を焼(た)くとか、あるいは、たった一本の花を供えるとか、そんな小さな行ないをしただけでも、かならず仏と成ることを得るであろう」

そんなことを説いたのは、それは龍樹祖師ただ一人であるとしても、なお頭を下げて信ずるがよい。ましていわんや、それは龍樹祖師が、大師釈迦牟尼仏の説かれたことを、正伝して説いておられるところなのである。いまやわれらは、幸いにして、仏道と言う宝の山にのぼり、宝の海に入ったのである。大いに喜ぶがよい。これはきっと、ながい間にわたった供養諸仏の力なのであろう。かならず仏と成るとは疑ってはならない。そうと決しているのである。釈迦牟尼仏の説かれたところは、そのとおりである。

「またつぎに、小さな因にも大きな果があり、小さな縁にも大きな報いがあるということがある。ましていわんや、諸法実相とか、不生不滅とか、あるいは、不不生不不滅とかいうことを聞いて、因縁の業を行じたならば、けっして成らざることはないであろう」

それは、世尊の説かれたことが、疑いもなくそうであったのを、龍樹祖師がしたしく正伝せられたのである。真理のことばを、正伝し相承したのである。たとい龍樹祖師だけの説であったとしても、他の師の説とは比べものにならないところであるのに、なんぞ知らん、世尊の示されたところを、龍樹祖師が正伝し流布せられたのである。われらは、このことばにあい得たことを、大いに喜ばねばならない。この聖なる教えは、むやみに中国の平凡な師のむなしい説などに比べてはならない。(46~48頁)

〈注解〉石頭無際大師;石頭希遷(790寂、寿91)。青原行思の法嗣(ほっす)。無際大師は諡(し)号である。

諸法実相;もろもろの存在のあるがままの相(すがた)というほどの句であって、仏教的真理の基くところはそれなのである。(49頁)

■おおよそ、供養には十種ある。つぎのようである。

一つには、身供養、

二つには、支提(だい)供養、

三つには、現前供養、

四つには、不現前供養、

五つには、自作(さ)供養、

六つには、他作供養、

七つには、財物供養、

八つには、勝供養、

九つには、無染(ぜん)供養、

十には、至処道供養、

このなかで、第一の身供養とは、仏の肉身に対して供養を設けることで、これを身供養という。

第二には、仏の霊廟に対して供養をたてまつることを、支提(だい)供養という。(61~62頁)

■第三の現前供養とは、まのあたり仏身とその霊廟にむかって供養を設けることをいう。

第四の不現前供養とは、まのあたりに見えない仏や霊廟にたいして、ひろく供養を設けることをいう。(70頁)

■第五に、自作供養とは、自分自身で仏ならびにその霊廟に供養することである。

第六には、他人をして仏および霊廟を供養せしめるのである。いささか財物があれば、怠けるというわけではなくて、他人をして施を作さしめるのである。けだし、自他の供養といえば、彼と我とがともにおなじく為すのである。しかるに、自作供養は大功徳を得る。他作供養は大々功徳を得る。そして、自他供養にいたっては、最大の大功徳を得るのである。

第七には、財物を仏および霊廟や舎利に供養することである。その財物には三種がある。一つには、生活のための品物を供養することである。衣服や食物などである。二つには、尊敬をあらわす物品を供養することである。香や華などである。三つには、荘厳のための道具を供養することである。いろいろな宝やかざりなどである。

第八には、勝供養すなわち、すぐれた供養である。それには三つある。一つには、もっぱら種々の供養を設けること。二つには、浄(きよ)らかな信心をもって、仏徳の重きことを信ずれば、おのずから道理が供養にかなうこと。三つには、いわゆる回向心であって、心のなかに仏をもとめて供養を設けることである。

第九には、無染(ぜん)供養である。無染すなわち汚れのないということにも二つある。一つには、心の無染である。心において一切の過ちを離れることである。二つには、財物の無染である。その施す財物において、法にあらざる過ちを離れることである。

第十には、至処道供養である。つまり、供養がおのずからその果にいたることを、至処道供養というのである。仏果すなわち悟って仏となることは、とりもなおさずその到るべき処であり、供養の行はよくかしこにいたらしめる。ゆえに至処道と名づけるのである。その至処道供養を、また法供養と名づける。あるいは、行供養ともいう。そのなかに三つある。一つには、財物供養、これも至処道供養であるとする。二つには、随喜供養、これも至処道供養である。そして三つには、修行供養、これもまた至処道供養である。(70~71頁)

■また、つぎに、供養する心には六種がある。

一つには、福田(でん)無上心である。いわゆる福田のなかでも最上のものを生ずるのである。

二つには、恩徳(どく)無上心である。一切の善と楽とは、すべて三宝によって生まれてくるのである。

三つには、一切の衆生の最勝の心を生ずること。

四つには、優曇偈のごとく遇いがたき心である。

五つには、三千大世界にもめったにない独一の心である。

六つには、すべて世間においても、また出世間においても、よく依るべき道理をそなえた心である。けだし、如来は、よく世間のことにも、出世間のことにも通じられて、衆生のために依るべき処となるからである。これを具足依義、すなわち依るべき道理をそなえているというのである。

この六つの心は、たとい少しであっても、これをもって三宝に供養すれば、よく数かぎりもしれぬ功徳を得ることができる。ましていわんやその多きにおいてをやである。

このような供養は、かならず誠心誠意をもっていとなむがよろしい。けだし、それらはもろもろの仏たちのかならず修してこられたところだからである。そのよってきたるところは、あまねく経や律のあきらかに語るところであるが、また仏祖たちがじきじき正伝してこられたところである。つねに師僧に仕えて労に服する年月は、とりもなおさず供養の時なのである。だから、肖像や舎利を安置し、供養し礼拝し、塔を建て廟を建てる仕方も、ひとり仏祖の家にのみ正伝している。仏祖の流れを汲むものでなくては、正伝を受けることができないのである。また、もし法のままに正伝せられなくては、正伝を受けることができないのである。また、もし法のままに正伝せられなくては、その仕方が間違うであろう。その仕方が間違がったのでは、その供養は本物にならない。供養が本物でなくては、その功徳もいい加減のものとなる。だから、かならず法のままの供養の仕方の正伝を受けるがよい。令韜(とう)禅師は六祖慧能の塔のほとりに侍して幾年月を送り、また、その六祖慧能は、なお行者(あんじゃ)であったころ、昼も夜もたえず米を碓(つ)いて衆に供したというが、それらもみな法のままなる供養であった。それらはほんの一、二例であって、なおいろいろとあげる暇もないが、ともあれ、このように供養するがよいのである。(72~73頁)

〈注解〉支提(だい);“caitya”の音写。つぎの説明にもあるように、塔婆とも混用せられるが、その範囲はもっとひろく、むしろ廟というところであろう。

南嶽思大禅師;南嶽慧思(577寂、寿64)である。中国天台の第二祖である。大禅師号を賜わった。

波斯匿(はしのく)王;釈尊と同時代の、拘薩羅(こうさら)国の王であった。

有(う)部;“Sarvastivada”を音写して薩婆多となし、訳して説一切有部といい、さらに略して有部となす。

盧行者;六祖慧能のことである。行者とは、禅林にあって雑役に服するものであって、六祖はもとその姓を盧氏といったのである。六祖は五祖弘忍のもとにあって、しばらく推房にあって米つきをしていたことがよく知られている。(73~75頁)

帰 依 三 宝(きえさんぽう)

■開 題

この一巻、「帰依三宝」の巻の巻末には、つぎのような奥書の一文が見える。

「建長七年乙卯夏安居日、以先師之御草本書写畢。未及中書清書等、定御再治之時、有添削歟、於今不可叶其儀。仍御草如此云」

それを、わたしは、現代語訳においては、できるだけ原文の気持ちをたもつようにと、ほぼ訓点読みのままの文をもって訳しておいた。つぎのようである。

「建長七年夏夏安居日、先師の御草本によっいぇ書写しおわる。いまだ中書(なかがき)、清書(きよがき)等に及ばず、さだめて御再治の時には、添削あるべきか。今においてはその儀叶うべからず、よって御草かくのごとしというのである」

建長七年(1255)といえば、いうまでもない、道元が亡くなってから二年目のことである。それについては、すでに言及したこともあったが、いつも師の草稿を書写する役を引き受けていた懐弉は、宝治元年(1247)から、新寺創建のため豊(ぶん)後に下向して、数年のあいだ留守であったらしい。それが、師の病のことを聞いて、いそぎ帰山したのが、どうやら建長五年の春のことであったらしい。だが、やがて、永平寺の第二世におされたり、また、師の悲しい入寂に遇うということもあって、自分の留守中の師の草稿を書写する仕事は、とうとう建長七年の夏案居日までのびのびとなってしまったらしい。

いま、あらためて調べてみると、その建長七年の夏安居日に書写されたという巻々は、あわせて七本に達する。そのなかで、この「帰依三宝」の巻と、そのつぎの「深(じん)信因果」の巻には、いまもご覧になっていただいたように、「いまだ中書、清書等に及ばず」といい、「御再治の時」のなかったことを痛み悲しんでいるのである。

ああそうであったか、ではと、もう一度あらためてこの「帰依三宝」の巻を読んでみると、なるほど、この巻の文章は、道元の文章にしては、しごく淡々としているように思われる。お若い時のような鋭気の颯爽たるところもない。あるいは、前にも記したような「外典の美言」や「対句韻声なんど」もまったく見当たらない。これが、「思う儘の理を顆々(かか)と」書いたというものであろうかと思われる。そして、そのような傾向は、この巻のみに限ったことではなく、むしろ、この前後の巻々を通じての傾向であるように思われる。(78~79頁)

〈注解〉仏陀耶;“Buddha”の音写である。だが一般には仏陀と音写し、仏陀耶と音写することは稀である。

達磨・曇無;達磨は“dharma”の音写であり、曇無は“dhanma”の音写である。いずれも法と訳されるが、前者はサンスクリットであり、後者はプラクリットであるつづいて「梵音の不同なり」とあるのは、そのことなのである。

無記;“avyakrta”の訳、なお善とも悪とも記別していうべからざるをいうことばである。

阿若憍陳如(あにゃくきょうちんにょ);彼は仏の説法を最初に理解し、最初の仏弟子となった人物であり、五人というのは、阿若憍陳如をいれて、仏の最初の説法を聴聞したいわゆる五比丘を意味している。彼らは、仏のもとにあって、最初の僧伽を形成した人々であるので、ここに僧宝というのである。(88頁)

■世尊は仰せられた。

「人々は苦におわれて、しばしば山中にかくれる

あるいは園林、森林、あるいは樹下、塔廟にかくれる

されどそれらは隠れ場として、勝れたものではあるまい

そこに隠れたからとて、よく苦を免れ得ることなし

もろもろの仏に帰依し、法と僧とに帰依するものは

よく四つの真理により、智慧をもて観察して

苦を知り、苦の生起を知り、苦の滅尽を知り、

八つの聖道を知って、ついに安らけき涅槃にいたる

この帰依こそは最勝なり、この帰依こそは最善なり

かならずこの帰依により、苦を免れるがよい」

世尊はあきらかにあらゆる人々のために示しておられる。人々はもろもろの苦におわれて、あるいは山神・鬼神などに帰依し、あるいは外道の塔廟に帰依するが、それはつまらぬことである。彼らはそれによって、けっしてもろもろの苦を免れることはない。いったい、外道の邪教によれば、あるいは、牛をまね、鹿をまね、羅刹(らせつ)をまね、鬼をまね、瘂者をまね、聾者をまね、狗(いぬ)をまね、雞(にわとり)をまね、あるいは灰をその身に塗り、あるいは長髪の姿をなし、羊をもって時をいのり、まず呪文をとなえたのちそれを殺す。あるいは四月のあいだ火に事(つか)え、七日のあいだ風に事える。あるいはおびただしい花をもって、もろもろの天神を供養し、もろもろの願うところは、これによって成就するという。だがしかし、こんなことがよく解脱の因となるなどとは、とても考えられないことである。智者の称讃するところではなく、ただむなしく苦しんで、まったく善い報いとてはないであろう。

こんな具合であるので、ただ漫然と邪道に帰することのないように、はっきりと研究しておくがよい。たといこれらの仕方とはちがう方法であっても、その道理が、もしそれらの道理に符合するようであるならば、それにも帰依すべきではない。この人身は得ることは難く、仏法はあうことはまれである。いたずらに鬼神の眷族として一生をわたり、むなしく邪見のともがらとなって生涯をかさねたならば、こんな悲しいことはあるまい。はやく仏法僧の三宝に帰依したてまつって、もろもろの苦を解脱するばかりでなく、また最高の智慧をも成就するがよろしい。(94~95頁)

■『稀有経』にいう。

「四天下ならびに六欲天を教化して、みなよく四果を得しめようとも、それはなお一人が三帰依を受ける功徳にはおよばないであろう」

四天下とは、東西南北の四つの洲のことである。そのなかでも、北洲はなお仏法の教化のいまだ及ばざるところである。そこのすべての人々をも教化して、すべて聖者とならしめたというならば、それはまことに稀有のことなりと申さねばならない。だがしかし、たといそのようなことを成就し得たとしても、なおよく一人を教えて、三帰依を受けせしめる功徳には及ばないであろうというのである。また、欲界の六つの天界には、得道の人はまれだということである。だが、そこの住み人たちをしてよく四果を得しめようとも、なおよく一人をして三帰依を受けしめる功徳には及ばないであろうとするのである。(95~96頁)

■『増一(いつ)阿含経』にいう。

「一人の忉利天(とうりてん)の住み人があって、まさに五つの衰相を現じ、猪腹のなかに生じようとしておった。それを憂え悲しむ声は、天帝釈にまで聞こえた。天帝釈はそれを聞くと、彼を呼びよせて告げていった。

『そなたは三宝に帰依するがよろしい』

そこで彼は、すぐさま教えのようにしたところ、たちまち猪に生まれることを免れた。仏は偈を説いていった。

『もろもろの衆生は仏に帰依すれば

三つの悪道に墜つることなし

煩悩つき、人間・天上にあって

やがて涅槃にいたるであろう』

すなわち彼は、三帰依を受けると、やがて長者の家に生まれ、また出家することを得て、ついに最高の智慧を成ずることを得たという」

いったい、帰依三宝の功徳は、はかり知り得べきものではない。いわゆる無量無辺なのである。(96~97頁)

■思うに、仏に見(まみ)えるという功徳は、かならず三帰依によるものである。しかるに、われらは盲目の龍でもなく、畜生の身でもないけれども、なおじきじきに如来を見たてまつることもなく、また仏にしたがって三帰依を受けることもできなかった。これでは、仏に見(まみ)えるというには、なお遥かなりとしなければなるまい。恥ずかしいことである。しかるところ、いま世尊はみずから三帰依を授けられたのであるから、この三帰依の功徳が甚深無量であることはあきらかである。だが、また、天帝釈は野牛を拝して三帰依を受けたという。それは三帰依の功徳は、いつでもはなはだ深いものだからである。(101頁)

〈注解〉六欲天;三界のうち、欲界に属する六重の天であるという。四王天や忉利天などもそれである。

四果;小乗における証果を四位にわかてるものである。預流果(よるか)・一来果・不還果(ふげんか)・無学果がそれである。

忉利天子;忉利天は三十三天、欲界六天の第二天である。帝釈の住むところ、その天子とは、その天界の住み人であるらしい。

五衰;天人の五衰である。天人の死せんとするときに現ずる五つの衰相である。

三悪道;また三悪趣という。地獄・餓鬼・畜生の三界は、悪業に引かれて趣き生まれるところであるので、三悪道というのである。

毘婆尸仏;過去七仏の第一仏。(102頁)

■いったい仏教者たるものの仏道修行は、かならず、まず十方の三宝を敬礼したてまつり、十方の三宝をお迎えしてその御前に焼香し散華して、さてそれからもろもろの行を修するのである。それがとりもなおさず古聖先徳ののこされた範例なのであり、仏々祖々のふるくからの作法である。もしも、帰依三宝の作法をいまだかつて行わないなどというものがあったならば、それは外道の教えであると知るがよく、あるいは天魔の教えだと知るがよい。仏々祖々の教えには、かならずそのはじめに帰依三宝の儀式作法があるのである。

正法眼蔵 帰依三宝

建長七年夏案居日、先師の御草案によって書写しおわる。いまだ中書・清書(きよがき)に及ばず。さだめて御再治の時には、添削あるべきか。今においてはその儀叶うべからず、よって御草かくのごとしというのである。(111頁)

〈注解〉釈摩男;摩訶男(まかなん)のことである。彼は仏陀の一族であったので、釈を冠するのである。彼は一家の事情によって出家することを得ず、在家信者として仏教に帰依したという。

一分優婆塞;一分は「いちぶん」と読む。戒を受けるとき、全部の戒を受けず、一戒もしくは多戒を受けることを、一分受もしくは一分戒といい、その一分戒を受ける菩薩を一分菩薩という。一分優婆塞もそれに準じて考えられる。

初果;いわゆる小乗の四果のうちの第一の預流果(よるか)をいう。三界の見感を断じて、はじめて聖者の流れに入った境地であるという。

深 信 因 果(じんしんいんが)

■この一段の物語は、『天聖(しょう)広燈録』にある。しかるに、仏道をまなぶ人々も、とかく因果の道理をあきらかにせず、いたずらに因果を無視するような誤りを犯すのである。可哀そうに、末世の風ひとたび吹ききたって、仏祖の道もおとろえたのであろうか。いまいうところの不落因果、すなわち因果に落ちずとは、それはまさしく因果の否定であって、それによって悪道に堕ちたのである。また、いうところの不眛因果、すなわち因果に眛(くら)からずとは、それはあきらかに深く因果を信ずるのであって、だからしてそれを聞いただけで悪道を脱することができたのである。それはもう不思議に思うべきでもなく、また、疑って頭をかしげてみるべきこともない。しかるに、近代の参禅して仏道をまなぶという人々も、またたいてい因果を否定しているようである。では、いったい、なにによってそうと知ることができるのか。それは、いまいうところの不落と不眛とは、おなじことであって、別に異なったことではないと思っているからである。それによって、ああ因果を否定しているのだなあと判るのである。(119頁)

■第十九祖鳩摩羅多(くもらた)尊者は仰せられた。

「かりにいえば、善悪の報いについては、三つの時がある。いったい、人はただ、仁なるものが夭折し、暴なるものは命ながく、道にそむくものが吉にして、義(ただ)しきものが凶なるを見て、たちまち因果を否定し、罪とか福とかいうは虚しいことだという。まるでそれが、影の形にそい、響の音にしたがうがごとく、毫釐(ごうり)といえども違(たが)うことなきものだということを知らない。それは、たとい百千万の劫を経ても、またけっして摩滅することのないものである」

それで、むかしの仏祖はけっして因果を否定しなかったことが、よく判るではないか。いまの後進者が、まだ仏祖の御教えを知らないというのは、勉強が足りないというものである。勉強が足りないくせに、みだりに人々の善知識などと自称するなどとは、人々をだますものであり、学者の風上にもおkrない代物である。汝たちはけっして、因果否定の趣きをもって、後学後輩のために語ってはならない。それは邪説である。けっして仏祖の法ではない。それはただ、汝らの不勉強によって、そんな間違いに堕ちたのである。(122~123頁)

■だが、近代の宋朝にあって禅をまなぶ人々の、もっとも愚かなところはといえば、それはもう何よりも、不落因果を邪説だと知らないことにある。彼らはいま、如来の正法の流通するところに生まれ、しかも仏祖より仏祖へと正伝する仏法に遇いながら、なお因果を否定する邪(よこし)まのともがらとなるなど、なんとまあ可哀そうなことではないか。禅をまなぶ人々は、なによりもまずいそいで因果の道理をあきらかにするがよろしい。いま百丈禅師の不眛因果という道理は、因果にくらからずというのである。だからして、それはあきらかに、善因を修すれば善果を観ずるということであって、それがほかならぬ仏祖たちの道なのである。そもそも、仏法というものは、なおあきらかに納得できないうちには、みだりに人々のために説いてはならないのである。(124頁)

〈注解〉修因感果;「因を修め果を感ず」である。つまり、善因を修めて善果を感ずるのである。それが仏教だといっておるのである。(125頁)

■龍樹菩薩は仰せられた。

「もし外道の人のように、世間の因果を破るならば、すなわちいまの世ものちの世もないであろう。またもし出世間の因果を破るならば、すなわち三宝も、四諦も、沙門の四果もないであろう」

はっきりと知るがよろしい。世間ならびに出世間の因果を破るのは、外道なのである。いまの世我ないというのは、その身はちゃんとここにあるけれども、その性(しょう)はひさしき以前から悟りに入っているというのである。性とはすなわち心であって、心は身とはおなじでないとするからである。そのように考えるのが、すなわち外道なのである。あるいはまたいう。人が死ぬる時には、かならず、はてしもない性に帰する。仏法を修め習わなくってもそのようにして自然の悟りの海に帰するのであるから、べつに生死(しょうじ)の繰り返しというものはない。だから、のちの世などというものもないというのである。これを断見の外道という。

たといその姿は比丘に似ていようとも、このような邪(よこし)まの考え方をしているようでは、それは断じて仏弟子ではない。まさしくそれは外道なのである。いったい、因果を否定するから、いまの世ものちの世もないなどという誤(あやま)ちをおかすことともなるのである。また、因果を否定するのは、真の善知識にまなばないからである。久しく真の善知識に参じてまなぶ人には、そんな因果を否定するなどという邪まの考え方はあり得ないのである。この龍樹祖師のめぐみふかい教えは、ふかく信じ入って頂戴するがよろしい。(126~127頁)

■はっきりと知るがよろしい。因果を否定してしまっては殃(わざわ)意を招くこととなるであろう。むかしは、先徳たちはみな因果をはっきりと知っておられた。近世では、後進たちはみんな因果にまようている。だが、たといいまの世であろうとも、やはり、菩提心をはっきりと発(おこ)して、仏法のために仏法をまなぼうとするものは、先徳たちのように因果をはっきりと知るがよろしい。因もない、果もないなどというものは、とりもなおさず外道にほかならない。(128頁)

〈注解〉;性(しょう)は不改の義。それによって本質もしくは本体というほどの意をあらわす。すなわち、人間の変わらぬ本性である。

断見;常見の対語。たとえば、人の一たび死すれば、そのままもはや生ずることなしと決めてしまう判斷をいう。

永嘉真覚大師玄覚和尚;永嘉玄覚(713寂、寿49)。六祖慧能の法嗣(ほっす)。真覚(がく)大師と称せられた。その著に『証道歌』がある。

■これらを、いまの大宋国の連中は、いっぱしの祖師だと思っている。だがしかし、この宗杲の考え方などは、まだ仏法でいう方便にもなっていない。ややもすれば自然(じねん)外道の考え方ににた趣きがある。いったい、この物語について頌古、粘(ねん)古をこころみたものは、じつに三十人あまりにたっしている。だが、そのなかの一人だって、不落因果というのは、それは因果の否定ではないかと疑ったものもない。なんということだ、彼らは、因果ということも知らずに、ただいたずらに紛々たるなかに、一生をむなしゅうしているのである。仏法をまなぶには、なによりもまず第一に、因果をあきらかに知らねばならない。その因果を否定するようでは、おそらくは猛烈な邪見をおこして、まったく善根などのない人間となってしまうであろう。

いったい因果の道理というものは、歴々として明らかに、まったく疎漏のないものである。悪を造るものは堕(お)ちる。善を修するものは昇る、それが一毛一厘もたがうことがないのである。もしも因果が否定され、なんの甲斐なきものとなってしまったら、諸仏の出世もあり得ないのであり、祖師の渡来もあり得ないのであり、また、衆生の仏に見(まみ)え法を聴聞するなどということも、すべてあり得ないこととなってしまう。(133~134頁)

■その因果の道理は、孔子や老子などの知るところではなく、ただ仏祖の方々の知って伝えるところである。また、末法にして仏法をまなぶものは、幸いうすくして、正師にあわず、正法を聞くことなく、そのために、因果のことをよく知らないのである。だが、もし因果を否定すれば、その咎(とが)によって、果てしもなく殃(わざわ)いを受けることとなる。因果否定のほかには、他になんの悪をも造らないとしても、この考え方そのものがはなはだ悪いのである。

ということであるから、仏法をまなぼうとする人々は、まず菩提心をおこし、ついで、仏祖の大恩にむくいんとするには、すみやかにもろもろの因もろもろの果をこそ知るがよいというのである。

正法眼蔵 深信因果

建長七年夏案居日、御草案をもってこれを書写す。いまだ中書・清書に及ばず。さだめて再治の事あるべし。しかりといえどもこれを書写す。懐弉(134~135頁)

〈注解〉最後に、道元は、この大修行の公案をとりあげてたたえた三つの偈をあげる。その第一は、宏智(わんし)古仏の頌古(『宏智広録』巻二、頌古第八則)であり、その第二は、夾山(かっさん)の圜悟克勤(えんごこくごん)の頌古(『圜悟語録』巻10、頌古)である。だが、道元には、そのいずれも意に充たないものであったらしく、それらを批判してもって結びとする。

宏智古仏;『わんしこぶつ』と読む。宏智正覚(がく)(1157寂、寿67)または天童正覚という。丹霞子淳の法嗣(ほっす)。

四悪趣;六趣のうち、いまいった天上と人間をのぞいて、その他の四つの世界を指さしている。すなわち、地獄・餓鬼・畜生・修羅の四つの世界である。

夾山圜悟禅師克勤和尚;圜悟克勤(1135寂、寿73)。5祖法演の法嗣。

常見;断見の対。たとえば、人は死してもなお我は永久に滅せずなどと考える考え方をいう。

杭州径山大慧禅師宗杲和尚;大慧宗杲(だいえそうこう)(1163寂、寿75)。圜悟克勤の法嗣。

憨布袋(かんほてい);おろかなる布袋和尚の意である。あの太鼓腹で、楽天的な生き方をしていた乞食坊主であろ。(135~136頁)

四 禅 比 丘(しぜんびく)

■開 題

この一巻も、ここ数巻とおなじように、その巻末には、「建長七年乙卯夏安居日、以御草本書写畢。懐弉」との奥書がある。すでにいったとおり、道元没後第二年目の夏案居中に、たの数巻とともに書写せられたものと知られる。その事情についても、すでにいったところと異なるものはないようである。

さて、この一巻は、かなり長大な一巻ではあるが、その内容はきわめて簡単であるといってよかろう。

まず冒頭に、『大智度論』巻十七からの引用文が、どかりとおかれている。それがいうところの四禅比丘のものがたりである。この四禅比丘のことは、これまでにも、すでに数次にわたって、あるいは善星比丘の名をもって、あるいは四禅比丘の名によって言及されたことがあるが、その詳細なる全貌が語られるのは、これがはじめてのように思われる。

その物語の内容は、その長大な引用文によってよく知られるはずであるから、さらに繰り返していう必要はないのであるが、道元はさらにそれを、他のいくつかの物語と比較しながら、その物語の性格を解説する。かくして、このかなりの長文の巻も、すでにその三分の一が費されている。

しかるに、そこで道元は一転して、『嘉泰(かたい)普燈録』の序の文をとりあげる。『嘉泰普燈録』三十巻は、いわゆる「五燈録」の一つとして、歴とした伝記書であるが、それを撰述した雷庵正受(らいあんしょうじゅ)なるものは、いわゆる三教(ぎょう)一致の説を奉ずるものであって、その序文は、彼のその見解について語っている。道元は、その序文を引用すると、それをきっかけとして、それより以後は、巻末の結語にいたるまで、この一巻の三分の二を費して、縦横無尽、三教一致の説を批判してとどまるところを知らないのである。

かくて、わたしは思う。道元のこの巻における主題は、いわゆる三教一致の説の批判にあったのであって、それに対して、四禅比丘のことは、むしろその導入部をなしているのではないか、と。(138~139頁)

■〈注解〉中陰;前世の生を了えたる後、いまだ次の生を受けざる間をいう。

多聞;よく師の法を聞いて忘れないことをいう。

六師;六師外道である。仏陀のころの新しい思想家たちのなかの、もっとも有力なる六人をあげていえるものである。(154頁)

■古徳はいった。

「大師の世にあられたころにおいても、なお学習によらず、つまらぬ自己の考え方をもつ人があったが、ましていわんや、大師のなき後には、もはや師もなく、禅も得ざるものにおいてをやである」

いま大師というのは、仏世尊のことである。誠に、世尊の世にあらわれたころにおいても、すでに出家し戒を受けたものさえが、なお師の教えを聞かずして、つまらぬ自分の考え方にとらわれたものがないではなかった。ましていわんや、如来はすでになくなられ、時はすでに末法に入り、しかも辺地の下賎なものとして生まれたものが、どうしてその誤りを免れようか。いや、さらにいうならば、すでに四禅をおさめたものさえも、なおこんな具合であった。ましていわんや、なお四禅をおさむるに及ばず、ただいたずらに名利をむさぼるばかりのもの、あるいは官途や世路にひしめく連中は、いうにも足りぬところである。そして、いまでは、大宋国にも、そのようなもの知らずの愚かものばかりがおおい。彼らは、仏法と、孔子・老子の教えは、結局おなじものであって、異なる道ではないというのである。(160頁)

■つまり、むかしから、名称や形相にまようて、正しい理を知らない連中が、とかく仏法をもって、荘子や老子に等しいなどというのである。すこしでも仏法をまなんできた連中のなかには、むかしから、荘子や老子を重んずるものは一人もない。(162頁)

■また先徳はいう。

「孔子や周公のことばや、あるいは三皇(さんのう)・五帝の書のごときは、孝をもって家を治め、忠をもって国を治め、国をたすけ民を利するものであって、それはただ現在の一世のことなのであり、過去や未来にわたるものではない。仏法が三世を益するものであるのとはちがう。そこを間違ってはならない」(164頁)

■第十四祖、龍樹菩薩は仰せられた。

「大阿羅漢や辟支(びゃくし)仏は、八万の大劫を知るといい、もろもろの大菩薩および仏は、無量の劫を知るという」

孔子や老子などは、いまだ現世のうちの前後をも知らないのであるから、むろん宿世のことも知らない。ましてや一劫のことを知るはずはない。ましていわんや百劫千劫のことを知るはずはなく、八万の大劫を知るはずもなく、また無量の劫を知るはずもない。その無量の劫をあきらかに照らしだして、掌(たなごごろ)を見るよりもあきらかに知りたまうのは、もろもろの仏と菩薩であって、それをもって孔子や老子などに比せんとするのは、愚昧というもなお足らざるところである。だから、三教一致などということには、耳を掩(おお)うて聞かぬがよろしい。それは邪説のなかにおいてももっとも邪説というべきものなのである。(165頁)

■孔子はいう。

「貴賤とか苦楽とか、是非とか得失とかは、すべてみな自然である」

その考え方は、すでに西の方天竺における自然外道のたぐいである。貴賤とか苦楽とか、是非とか得失ということは、みなすべて善悪の業の結ぶところである。それなのに、彼らは満劫(ごう)も引業(いんごう)もしらず、また過去世も未来世も知らないのであるから、また現世をも知らないのである。そんなのが、どうして仏法に等しいはずがあろうか。(166頁)

〈注解〉実業;この世のいとなみは、実際に苦果を招くがゆえにかくいうのである。

断見;常見の対。来世なしとする見解を指している。

孔丘;孔子、名は丘、字は仲尼である。

姫旦;周公、名は旦、姓は周である。中国古代の王である。

三皇・五帝。中国古代の伝説上の天子皇帝をいうが、その一々については諸説がある。

四韋陀;四つのヴェーダ(吠陀、ふるくは韋陀と音写)。それにリグ・ヴェーダ、サーマ・ヴェーダ、ヤージュル・ヴェーダ、アタルヴァ・ヴェーダの四つがある。

満業・引業;あわせて二業という。そのうち、満業とは、また別報業ともいい、別報の果をひく業をいうたとえば、ひとしく人間に生まれしめる業を引業というのに対して、さらに貴賤・貧富などの別をあらしめる業を指さして満業というのである。それに対して、引業とは、いまもいうように、総報の果を感得せしめる業をいうのである。

依正二報;依報と正報である。正報とは、人間の身心であり、依報とは、その住む世界をいう。

三菩提;“sambodhi”の音写である。正覚である。

無生;生滅をこえたる境地、すなわち涅槃である。

羅刹;“raksasa”の音写。悪鬼などと訳する。神速大力にして人を魅し、あるいは人を喰うという。(169~170頁)

■先徳はいう。

「このごろは、出家したもので、ふたたび俗界に還(かえ)るものがおおいが、彼らは王に使役されることをおそれて、外道のなかに入るんである。彼らは、仏法のいうところをぬすんで、それでもって荘子や老子を解釈し、そのためにいろいろの混雑を生じて、初心のものは、いずれが正しいか、いずれが邪(よこし)まであるかに迷ってしまうのである。これをヴェーダ(吠陀、ばいだ)の法を生みだす考え方とはいうのである」

それによっても判るではないか、仏法と荘子や老子と、いずれが正しいか、いずれが邪まであるか、それがごちゃごちゃになったのでは、初心のものは迷ってしまわねばならない。いまの智円や正(しょう)受などはそれである。それは、ただはなはだ愚かというばかりではない、また勉強が足りないということが顥(あき)らかなのである。いったい、このごろの宋国の僧たちはひとりだって、孔子や老子は仏法におよばないものだと知っているものはない。その名だけは、仏祖の流れを汲むものと称するともがらが、どこにもかしこにも、全中国の山野にみちてはいるけれども、孔子や老子とは違って、仏法はそれらを抜き出たものだと、よく知っているものは、一人だって、半人だってありはしない。ただ一人先師なる天童古仏のみは、仏法と孔子・老子はおなじではないと、よくご存じであって、昼も夜もそう仰せであった。世には、経師(きょうじ)といい、論師(ろんし)といい、あるいは講師という者はあるけれども、なお仏法ははるかに孔子・老子のほとりを抜きん出たものであると通暁した者はない。ことに、この近代百年来の講師は、参禅して仏道をまなぶ連中のゆたかさをまなび、その理解の仕方をぬすもうとするものがおおいが、そんなのは、まったく誤っていると申さねばならない。(176~177頁)

■もし生知というものがあるならば、因がないという欠点がでてくる。仏法には無因という考え方はない。しかるに四禅比丘は、命終(みょうじゅう)の時にのぞんで、そのような考え方をしたために、たりまち仏を謗(そし)る罪に堕ちてしまった。だから、仏法をもって孔子・老子の教えにひとしいなどと思ったならば、生きているあいだから、もうふかい謗仏(ほうぶつ)の罪を犯していることとなろう。仏法をまなばんとする者は、はやく、仏法と孔子・老子の教えと一致するなどという邪まの考え方をなげ捨てるがよろしい。もしそんな考え方をもっていて、それを捨てなかったならば、ついに地獄に堕ちるであろう。(178頁)

■仏法をまなぶものはあきらかに知るがよろしい。孔子や老子は、三世の法を知らなかった。因果の道理も知らなかった。また、一州のありようも知らず、ましてや四州のありようも知る道理はなかった。あるいは、欲界の六天のこともなお知らなかったし、ましてや三界・九地のありようを知るわけもなかった。あるいはまた、小千世界も知らず、中千世界も知るはずはなく、ましていわんや、三千大世界を見ようはずも、知ろうはずもなかった。

だから彼らは、中国一国におうても、なお小臣としてあり、帝位にのぼらなかったのであって、三千大世界にあって王たりし如来と比することもできない。その如来は、梵天や帝釈や転輪聖(じょう)王などに、昼夜ともなくかしずかれて、つねに説法を請われていたという。孔子や老子には、そのような得はなかった。ただ放浪するただ人であった。また、迷いの世を離れて解脱する道も知らず、ましてや如来のように、もろもろの存在のあるがままの相(すがた)をきわめ尽くすということもあろうはずはなかった。だが、もしそのことがなかったならば、いったい、なにによって世尊にひとしいとなし得ようか。つまり、孔子や老子は、内に徳なく、外にははたらきもないのであって、とても世尊に及ぶことはあり得なかった。したがって、三教一致などという邪説をはく道理もなかった。(178~179頁)

■また孔子や老子は、この世界の存在の限度も、また無の限度も知っているはずはなかった。その広さも知らず、その広さも知らず、その大きさもしらなかったばかりか、また、極微(ごくみ)の存在も、刹那の単位も知っているはずはなかった。だが、世尊はあきらかに、極微の存在を見、また、刹那の単位を知っておられたのであるから、どうして、孔子や老子とひとしいなどといってよかろうか。孔子、老子、荘子、恵子などは、ただの凡夫であって、小乗の預流果にも及ぶことはできない。ましていわんや第二、第三、第四の阿羅漢に及び得ようか。

それなのに、仏道をまなぶ者が、事情にくらきままに、彼らをもろもろの仏にひとしいとするねどとは、これはまた迷いのなかでもまた深い迷いというものである。孔子や老子は、三世も知らない、いろいろの劫も知らない。また一念も知り得ないし、一心も知りはしない。日月(がつ)天に比べることもできないし、四天王やもろもろの天神にも及ぶものでもない。それを世尊に比するなどとは、世間の人も、出世間の人も迷惑するところである。(179頁)

■『景徳伝燈録』にいう。

「二祖は、つねに歎じていっていた。

『孔子や老子の教えは、礼法ならびに風習のさだまりである。『荘子(じ)』や『易経』の説くところは、まだすぐれた道理を尽くしてはいない。しかるに、近ごろ聞くところによると、達磨大士という方が、少林寺に止住しておられるとのことである。さすれば、道の奥をきわめた人が、遠からぬところにましますわけである。では、まさに、その素晴らしいところにいたらねばなるまい』」

いまの人々は、はっきりと信ずるがよろしい。仏法が中国に正伝したことは、ただひとえに二祖が初祖についてまなんだ力によるものである。たとい初祖が西の方より来られても、もし二祖を得なかったならば、伝法はないであろう。そもそも二祖という方は、その他のものと一緒にしてはならないお方である。(181頁)

■如来が世にあられたころ、一人の外道があって、その名を論力といった。みずから、論議においては自分に匹敵するものはなく、その力はわたしが最大であると思っていた。だから、論力といってのである。しかるに、ある時、彼は、五百の離車(りしゃ)族の人々の募金を受けて、五百の難問をえらび、それをもって世尊をせめ立てとうというので、仏のいますところにいたり、仏に問うていった。

「究極の道はただ一つのものであろうか、それともいろいろとあるのであろうか」

仏は仰せられた。

「究極の道はただ一つである」

論力はいった。

「われらがもろもろの師は、それぞれに究極の道があるといっておる。外道たちはみなそれぞれに、各自の説くところを貶(けな)して、相たがいに是非するのであるから、いろいろの道があるではないか」

世尊は、その時すでに鹿頭(ろくず)を教化して、阿羅漢果を成ぜしめていた。その鹿頭は仏のお傍にあって立っていた。しかるに、仏は論力に問うていった。

「いろいろの道を説くもののなかにあっては、誰が第一であろうか」

頓力はいった。

「鹿頭が第一でありましょう」

仏は仰せられた。

「鹿頭がもし第一であるとするならば、彼はどうしてその場を捨て、わたしの弟子となって、わが道のなかに入ったのであろうか」

論力は、その鹿頭の姿をみて、恥じて頭を下げ、仏に帰依してその道にはいった。その時、仏は、義理を説いた韻文を誦(ず)して仰せられた。

「人はそれぞれに究(く)竟なりといい

おのおのみずからに愛着して

みずからを是とし、他者を非となす

されどそはみな究竟にはあらず

されば、その人論者のなかに入りて

義理のあるところを論議するとき

たがいに是とし、非としあい

勝負をあらそうて憂苦をまねく

勝者はたかぶりの坑(あな)におち

負車はうれいの地獄にぞ堕す

されど、よく智慧あるものは

そのいずれにも堕すことなし

論力よ、汝はまさに知るがよい

わがもろもろの弟子たちには

虚もなく、また実もないのである

いったい汝はそのいずれをか求めんとする

汝もしわが論を破らんとするも

すでに破るべきものはないのである

一切智というはよく明らめがたく

そを破らんとすれば、かえってみずからを破ることとなるであろう」(182~184頁)

■いま世尊の仰せられたことばは、この通りである。それなのに、東土中国の愚昧の人々が、みだりに仏の教えに違(たが)って、仏道とおなじ道があるなどといっては、とんでもないことである。それでは、たちまち仏を謗(そし)り、法を誹(そし)ることとなるであろう。西の方天竺の鹿頭ならびに論力、あるいは長爪梵志(ちょうそうぼんし)・先尼梵志などは、博学の人であって、中国ではまだむかしから見ないところである。孔子や老子のとても及ばないところである。しかるに、彼らもまた、みずからの道をすてて仏道に帰依したのである。それなのに、いま孔子や老子のごとき俗人をもってその仏法に比類しようなどというのは、聞くものもまた罪があるであろう。ましていわんや阿羅漢や辟(びゃく)支仏も、やがてはみんな菩薩となるのであって、ただの一人とても小乗にして終わるものはないのである。それなのに、どうして、いまだ仏道に入らない孔子や老子も、もろもろの仏にひとしいなどというべきであろうか。そんなのは大きな邪見というものであろう。

いったい、如来なる世尊が、はるかに一切を超越しておられたことは、すなわち、もろもろの仏・如来や、もろもろの大菩薩や、あるいは梵天や帝釈天などが、みなともに讃歎したてまつり、よく知っておられたところである。また、西の方天竺の二十八祖や、東の方中国の六祖たちの、みなともに知っておられたところである。いまこの末法の時代にめぐりあわせた人々とても、この宋朝の愚昧のともがらのとなえる三教一致などという痴言(しれごと)には耳を傾けてはならない。そんなのは不学のいたりというものである。

正法眼蔵 四禅比丘

建長七年夏案居日、御草案をもってこれを書写しおわる。懐弉(185~186頁)

〈注解〉この一段もまたかなりながい一段であるが、すでにいっておいたように、ここでもまた道元は。三教(ぎょう)一致の説をなすものに対する鋭い批判をつづけている。つまり、この巻のほぼ三分の二にあたる部分が、ことがとく三教一致の説に対する批判である。かくて、わたしには、どうやら、この巻のまことの主題は、三教一致の説の批判であったと申さねばなるまいとおもわれる。

三千大千世界;三千世界ともいう。すなわち、小千世界、中千世界、大千世界の三つの千の世界より成立している世界であるという。

極微色;最小の単位における物質というほどの意である。

;「たん」と読む。老子の名である。

究竟道;究竟とは、“uttara”の訳、無上、究竟の意であって、事理の至極をいうことばである。

鹿頭;“Migasisa”の訳。拘薩羅国の婆羅門にて、呪術にすぐれていたが、のち仏に帰依して、阿羅漢果を成就したという。

長爪梵志;梵志は外道。彼ははじめ、学なるまでは爪を切らじと誓って学に力めていたが、のち仏道に帰し、倶絺羅(くちら)と称して、問答第一といわれるにいたったという。

先尼梵志;先尼とは、“Seniya”の音写。はじめに自然外道であったが、のち仏に帰して比丘になった。(186~188頁)

生 死(しょうじ)

■もし人が、生死のほかに仏をもとめたならば、それはあたかも、車の轅(ながえ)を北にむけて南の方越に赴(おもむ)かんとするようなものであり、あるいは、面(かお)を南にむけて北斗星を見ようとするようなものである。いよいよ生死の因をかきあつめて、ますます解脱の道を見失うばかりである。そこはただ、生死はとりもなおさず涅槃であると心得れば、それでもはや生死だからとて厭うべきものもなく、涅槃だからとて願うべきものもなくなる。その時はじめて生死をはなれる者となるのである。(195頁)

〈注解〉ついで、生死をはなれるには、いかに思い定めるべきかについて語る。それには、「生死のほかに仏をもとめ」ては駄目であり、むしろ、「生死すなはち涅槃」だと心得るがよいとかたるのである。(195頁)

■そもそも、生と死のありようは、生から死に移るのだと思うのは、まったくの誤りである。生とは、それがすでに一時(ひととき)のありようであって、そこにもちゃんとはじめがあり、またおわりがある。だからして、仏法においては、生はすなわち不生(しょう)であるという。滅もまた、それがすでに一時のありようであって、そこにもまた初めがあり、終わりがある。だからして、滅はすなわち不滅であるという。つまり、生という時には、生よりほかにはなんにもないのであり、滅という時には、滅よりほかにはなにものもないのである。だからして、生がきたならば、それはただ生のみであり、滅がくれば、それはもう滅のみであって、ただひたむきにそれにむかって仕えるがよいのである。厭うこともなく、また願うこともないがよろしい。(196頁)

〈注解〉この一段は、生と死の考え方を語っている。それを理解するためには、わたしどもの常識をとおく越えてゆかなくてはならないことを痛感する。なお、「せいはひとときのくらゐ」といい、また「滅もひとときのくらゐ」という表現については、かの「現成公案」の巻を参照していただきたいものである。(196頁)

■この生死はとりもなおさず仏の御いのちである。これを厭い捨てようとするならば、それはとりもなおさず仏の御いのちを失うこととなるのであろう。だからとて、そこに止まって生死に執着(しゅうじゃく)すれば、それもまた仏の御いのちを失うこととなる。仏のありようにこだわっているからである。厭うこともなく、慕うこともないようになって、その時はじめて仏の心に入ることができるのである。だが、その境地は、ただ心をもって量ってみたり、あるいはことばをもっていってみたのでは入ることはできない。ただ、わが身もわが心もすっかり忘れはなち、すべてを仏の家に投げいれてしまって、仏の方からはたらきかけていただいて、それにそのまま随(したが)ってゆく、その時はじめて、力もいれず、心もついやすことなくして、いつしか生死をはなれ、仏と成っているのである。ということであれば、もはや、誰だって、あれこれと心に思いめぐらしてみる要はあるまい。

思うに、仏となるには、ごくたやすい道がある。それは、もろもろの悪事をなさぬこと、生死に執着する心のないこと、そして、ただ、生きとし生けるものに対してあわれみを深くし、上をうやまい、下をあわれみ、なにごとを厭う心もなく、またねがう心もなく、つまり、心に思うこともなく、また憂うることもなくなった時、それを仏と名づけるのである。そして、そのほかに仏をもとめてはならない。

正法眼蔵 生死

(年号を記さず)(198~199頁)

〈注解〉ついで道元は。「この生死は、すなはち仏の御いのちなり」と説く。「御いのち」とは、もっとも大切なもの、かけがえのないものということ。そして、この生死を厭うこともなく、ねがうこともなきにいたった時、それがとりもなおさず仏というものだと語って、この一巻の結びとするのである。

仏のかたよりおこなはれて;仏の方からはたらきかけていただいて、というほどの意である。つまり、まったく受動的な態度をとることである。(199頁)

唯 仏 与 仏(ゆいぶつよぶつ)

■開 題

この一巻も、その制作の時期をあきらかに知ることができない。その巻末の奥書には、「弘安十一年季春晦日、於越州吉田県志比庄吉祥山永平寺知賓寮南軒書写之」と見えるが、それは、申すまでもなく、書写の消息を記したものであって、制作の時期を記したものではない。そもそも弘安十一年(1288)といえば、それはもう、道元その人が没してからすでに三十五年を経ているのである。伝え聞くところによれば、その年、永平寺宝庫に秘蔵されていた「秘密正法眼蔵」(二十八巻)と題号する本が見出され、そのなかの未見の八巻があらためて書写されたが、そのなかの一巻がこの巻であったという。

では、さて、この一巻の内容のことであるが、さして長からぬ一巻のなかにあって、わたしにとって、もっとも印象的な、一読以来わすれることのできないのは、ほかでもない、その冒頭の書き出しの一節である。いわく、

「仏法は、人の知るべきにはあらず。このゆゑに昔より、凡夫として仏法をさとるなし、二乗として仏法をきはむるなし。ひとり仏にさとらるるゆゑに、唯仏与仏、乃能究尽(ないのうぐうじん)といふ」

ふと読みいたれば、それはもう、わたしどもにとっては、ただ事ならぬ一節であるように思われる。仏法というものは、人の知るべきものではない、という。だからして、昔から、凡夫として仏法を悟るものはない、という。それは、ただ、仏によって悟られるものであるから、「唯仏与仏、乃能究尽」というのであるという。では、うたがいもなく凡夫であるわたしどもは、結局するところ、仏法には縁なき衆生なのであろうかというと、そこはもうすこし、デリケートな趣きがあるようである。

そもそも「唯仏与仏」というこの題号は、いまもいう「唯仏与仏、乃能究尽」という、『法華経』方便品にいずる句によったものであるが、その句は、もうすこしつぶさにいえば、「唯仏与仏、乃能究尽、諸法実相」(ただ仏と仏とのみ、すなわちよく諸法の実相を究尽す)である。そして、「諸法の実相を究尽する」というのは、それが、とりもなおさず、いわゆる「無上菩提」の実現にほかならないのである。

しかるところ、この巻における道元は、やがて続いて語りいでる。

「無上菩提の人にてあるをり、これをほとけといふ。ほとけの無上菩提にてあるとき、これを無上菩提といふ」

つまり、無上菩提をよく実現し得た時、そのときその人は、すでに仏であって、もはや、凡夫ではないのである。「凡夫として仏法をさとるなし」とは、そのことであり、「仏法は、人の知るべきにはあらず」とは、そのような微妙な趣きを語っているのである。

詮ずるところ、その境地にいたれば判るのであり、その境地にいたらねば判りっこない。それが仏の世界であり、それが仏法というものである。では、いかにしてその境地にいたることができるか。それがつづいて、道元が委細をつくして説いているところであるが、それも詰まるところは、道元がよくいうところの仏祖の行履(あんり)を踏むことに帰するようである。この巻の結びのことばに、

「このあとをうるを、仏法とはいふなるべし」

とあるのを、わたしは、

「そのように仏の足跡をあきらかにするのを、それをこそ仏法とはいうのであろう」

と訳しておいたが、それがまた、わたしにとっては、忘れがたい一句なのである。(202~204頁)

■仏法というものは、人の知るべきものではない。だからして、昔から、凡夫のままで仏法を悟ったものはなく、また小乗の徒にして仏法を究めたものもない。ただひとり仏に悟られるからして、「仏と仏のみ、すなわちよく究め尽くす」というのである。また、それを悟った時、みずから省みて、まえから悟るということはこうであろうと思っていた、というようなことはないものである。たとい、そのように思っていても、思ったとおりの悟りではないのである。悟りの方からいっても、けっして思ったようなものではないのである。

そういう工合であるから、まえまえから思っていたことは、なんの役にも立つものではない。いよいよ悟った時にも、こうだから悟れたのだなあ、とおもわれることはないものである。だからして、悟る以前にあれこれと思ったことは、じつはなんの用にも立たなかったのだなあ、と思い知るがよろしい。悟りが、それ以前にいろいろと思った、その思いのようではなかったというのは、じつはその思いが悪くって、その力がなかったというのではない。まだ悟らないさきの考え方も、よく悟りに似たようなものであったけれども、その時は、つい顚倒(てんどう)のあやまちを犯していたものだから、その力がなかったのだと、そう思う人もあり、またそういう人もある。だが、それがなんの用にも立たなかったなあと思うことは、それはもう大へんいいところに気がついたということである。つまり、ここで自我の小見にとらわれてはならないぞと戒めているのである。もしも、悟りより以前に考えたことを力として、それで悟ったというならば、そんな悟りはつまらぬ悟りであろうというものである。そうではなくて、悟りより以前の考えにはよらないで、それをはるかに超えてきたのである。だから、悟りというものは、ただ一筋の悟りの力にのみよって助けられてきたものであって、迷いなどというものもないのだと知るがよく、また、悟りというものも別にないものなどと知るがよいのである。(205~206頁)

〈注解〉「仏法は、人の知るべきにはあらず」――と、その冒頭の書き出しは、まことにショッキングである。それはいうなれば、仏と凡夫のまったき異質性を、道元一流の直截な表現で語ったものである。したがってまた、仏法の世界はつまり「唯仏与仏」、すなわち仏と仏のみよく究め尽くすことを得る世界である。それが、この一巻のいわんとする趣きなのであり、また、この冒頭の一節のずばりと道破するところなのである。

二乗;いわゆる声聞乗と縁覚乗である。つまり小乗のやからということである。(206~207頁)

■人が最高の智慧をもって人となった時、これを仏という。あるいは、智慧が仏の有する最高の智慧である時、これを無上菩提というのである。そして、そのような人、そのような智慧のありようを知らないのが、それが愚かというものであろう。では、そのありようはいかにといわば、それは不染汗(ふぜんま)である。不染汗とは、そうしようと無理につとめるでもなく、取捨のはからいもまじえないことであるが、それも強いてそうしようとするではなく、その心につとめてそうあろうとするのでもない。そうではなくて、自然にそうしようとすることもなく、取捨することもなくなった時、その時おのずからにして不染汗が実現するのである。

たとえば、人に会うと、どんな顔をしているかと思う。また花を見、月を見ても、ああならば、こうならばとさらに注文がでてくる。あるいはまた、春は春ながらの心であり、秋は秋ながらの風情であって、ほかにありようはないのに、やっぱり、ああだといいのに、こうだとよいのにと思う。だが、それでどうなるか、思うようになるかどうか、それをわが身にひきあてて思い知るがよい。この春や秋の風情が、思うようであろうと、思うようでなかろうと、いったい、それはどうなるのか。それはべつに積もりつもって自分のものとなるわけでもなく、また、いまも自分がそう思っているわけではない。

そんなことをいう意味は、結局はこういうことである。いまのわが身を構成しているこの四大五蘊(うん)は、いずれもそれが我であるとすべきものではない。また、それが誰だということもできない。だから、花や月にさそわれてうごく心のいろいろも、また我とすべきではないのであるが、ついそれを我だと思っている。我でないものを我だと思っているのである。であるから、そこを踏みこんで、まことは、いやだという色もなければ、いって染まりたいと思う色もないのだと照破するとき、その時おのずから智慧の道における履(ふ)むべき方があらわとなってくる。それがいうところの本来の面目というものなのである。(208~209頁)

〈注解〉不染汗;「ふぜんま」であるが、また「ふぜんな」と読みならわされている。もと“aklista”の訳語であって、煩悩によって汚され、煩(わずら)わされないことをいう。その具体的なありようについては、本文のなかに、道元が嚙んでふくめるように語っているところである。

四大五蘊;四大も五蘊も、いずれも人間の構成要素を語ったことばである。その構成要素のいずれをとっても、これが「われ」だとすべきものはない、といっておるのである。(210頁)

■古人はいったことがある。

「ありとあらゆる世界も、それはつまるところ自己の法身ではあるけれども、それはすこしもわれらを礙(さまた)げるものではない。だが、もし法身がわれらを礙げるような時は、それはもう身うごきもできはしない。だから、その時には、そこから抜けでる道をもとめなくてはならない。では、人々がそこから脱出するにはどうすればよいのであるか」

もしもこの問いに答えて、よく脱出の道をいい得ないようなものは、その法身のいのちもたちまちに絶えて、ながく苦界に沈没してしまうであろう。では、そのように問われた時、どういい得たならば、よく法身のいのちを生かし、苦界に沈まないことができるであろうか。それには、「ありとあらゆる世界も、つまるところは自己の法身である」というがよろしい。だが、もしそういう道理であって、あらゆる世界が自己の法身だという時には、それはもう言語道断の境であって、とてもいい得ないことである。また、いわれないという時には、それではそれで、ふっつりといわないものであろうか。いやいや、そのいうにいわれぬところを、古仏はいっておられる。「死のなかにあって生きるということもある。生のなかにあって死するということもある。また、死のなかにあってつねに死んでいるものがあり、生のなかにあってつねに生きているものもある」と。それは、人が無理にそうあらしめるのではない。ただ、もろもろの物事がおのずからそうあるのである。

だからして、仏が説法をなされる時にも、またそのようにさまざまな光明があり、音声があるのである。現身度生すなわち仏がこの世に身を現じて衆生を済度(さいど)するにも、またそうであると知るがよろしい。これを生滅をこえた知見とはいう。よくよく考えてみると、現身度生というのは、じつは度生現身っすなわち衆生を済度せんがためにこそこの世に身を現じたもうたのであった。だからして、現身といって、それで度生とくるのではない。現身といったら、もうちゃんと度生にきまっているのである。だからまた、仏法は、この度生ということにおいて窮(きわ)まるものだと心得るがよい、また、そう説くがよく、そう悟るがよい。さらにいえば、現についても、身についても、すべてが度生のためなのだと、仏は説きたまい、わたしどもも聞くのである。そして、それもまた、すべてが現身度生のためだというのである。仏はその辺の意味がよく判っておられるから、正覚(がく)を得られた朝(あした)から、大いなる死をとられた夕(ゆうべ)にいたるまで、生涯ついに一字をも説かなかったということもあるが、それもまた、その説かれることばが自由自在であったからなのであろう。(212~213頁)

〈注解〉自己の法身;法身とは、仏のありようを三身(法身・報身・応身)にわかち、その第一として、仏によって証せられた智慧そのものを指していうことばである。だが、ここでは、仏の法身ではなくて、自己の法身である。ここでは、むしろ、人間のもつ叡智そのものをいうのだと受領すべきものであろう。

現身度生;仏がこの世に身を現じて、衆生を済度することをいう。だが、ここでは、またそれを転じて度生現身として論じているので、このまま訳さずにおいたのである。(214頁)

■ふるき仏祖はいったことがある。

「この大地のことごとくが、とりもなおさずまこととのわが身である。この大地のことごとくが、とりもなおさず解脱の門である。この大地のことごとくが、とりもなおさず毘盧遮那(びるしゃな)仏の一眼である。あるいは、この大地のことごとくが、とりもなおさず自己の法身にほかならない」(217頁)

〈注解〉尽大地是真実人体;道元は「生死去来是箇真実人体」とか、「尽十法界真実人体」よいう句をたえず用いておる。

毘盧一隻眼;毘盧(びる)とは、“Vairocana”を毘盧遮那と音写して、それを略したのである。宇宙を仏格としていえる仏である。(220頁)

■そのむかし、一人の僧があって、古徳に問うたことがあった。

「いろんなことがいっぺんにおこってきた時には、どうすれば宜しゅうございましょうか」

古徳はいった。

「そんなものは構(あま)わんどけ」(219頁)

■ふるき仏は仰せられた。

「山河大地と人間とは、同時に生まれたのであり、また三世諸仏と人間とは、一諸に修行してきたのである」(224頁)

■それなのに、鳥はちゃんと、これは小さな鳥が幾百幾千とむらがって飛んでいったところだとか、これは大きな鳥が、幾列、南に去り、北に飛んだ跡だなあと、いろいろ区別してみることができる。それは、車の跡が路にのこり、馬の足あとが草原に見えるよりも、よっぽどはっきりしているのである。鳥には鳥の跡が見えるのである。

そのような道理は、仏にもあるのである。仏は、仏が幾代この世にあって修行なされたかねど、大きな仏も、小さな仏も、一人のこらず知っておられる。それは、まだ仏にならなかったころには、とても知り得ないことであった。なぜ知り得ないかという人もあるであろうが、そこは、仏のまなこでその跡を見るのであるからであり、まだ仏でない人には、その仏のまなこがないのである。ただ仏の物をかぞえるばかりの一人である。だが、もし知らないならば、いろいろの仏のあるかれた跡をば後づけてみるがよろしい。そして、その跡がだんだん目に見えてきたならば、これが仏というものであろうかと、その足跡をいろいろと検討してみるがよろしい。すると、検討しておるうちに、仏の足跡もわかり、その足跡の長短も、浅深もわかってくる。また、そうして仏の足跡を吟味しているうちに、わが足跡もああそうであったかとあきらかになってくるのである。そのように仏の足跡を明らかにするのを、それをこそ仏法とはいうのである。

正法眼蔵 唯仏与仏

弘安十一年三月晦日(みそか)、越州吉田県吉祥山(きちじょうざん)永平寺知賓寮南軒においてこれを書写す。(230~231頁)

道 心(どうしん)

■開 題

この一巻もまた、ごく短小な一巻である。そのうえ、制作の時期も知られず、また、書写の日付も記されていない。そこで、いささか、その制作年代を考証してみたいと思うのであるが、それもなかなか、これという手掛りを得ることを得ないでいる。ただ、わずかに、その行文や内容からして、わたしには、どうもこの一巻は、さして早いころの制作ではない、とおもわれるのみである。

ただ、この一巻は、出家の弟子たちに示すために書かれたものではなくて、さきの「現成公案」の巻や、「菩提薩埵四摂法(ぼだいさったししょうぼう)」の巻とおなじように、書いて在家の弟子に与えられたものであるらしい。そのことだけは、はっきりといって差し支えあるまい。したがって、その内容もまた、経典などからの難しい引用もなく、その論旨もまたきわめて簡明である。

そこには、まず、「仏道をもとむるには、まず道心をさきとす」るがよいのであるが、その道心のありようを知っている人は稀である。では、どのようにして、正しい道心のありようを聞くことができるか。そのことが説かれている。

ついで、道心のありようについて、三、四の条項をあげて語っている。ああよそ、つぎのようである。

1 自己の考え方をさきとせず、仏の説かせたまう法をさきとすること。

2 物法僧の三宝(ぽう)をうやまうこと。特に三帰依をたえず称えるようにすべきことが力説せられていることが、注目せられるところである。

3 また、仏をつくり、経(『法華経』)をつくって、それを礼拝し、供養することがすすめられている。

4 たえず袈裟をかけて坐禅することがすすめられている。

それだけでも、この一巻が在家者のために記されたものであることが知られるであろう。(234~235頁)

■世の末には、ほんとうの道心者など、滅多にあるものではない。だがしかし、ともかく心を無常ということにかけて、世をはかなく、人のいのちはいつどうなるやも知れぬものであることを忘れないがよい。だが、それで、自分は世のはかないことを考えているのだなどと思ってはならない。そこは、よくよく心して、ただ法を重んじ、わが身、わがいのちは軽んずるがよろしい。法のためには、身をもいのちをも惜しんではならない。(239頁)

■そのような間も、また心をはげまして三宝を称えたてまつって、

「南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧」

と称えたてまつることを忘れず、絶えることなくするがよいのである。(239頁)

■また、一生のうちには、仏を造りたてまつろうと力(つと)めるがよい。仏を造りたてまつったならば、三種の供養をたてまつるがよい。その三種とは、草座(そうざ)と石(しゃく)密漿(しょう)と燃燈である。それを供養したてまつるがよいのである。

また、この生涯のうちには、『法華経』を造りたてまつるがよい。書いたり、刷ったりして、それを持するがよいのである。つね日ごろには、それを頂き、それを礼拝して、燈明や、飲食(おんじき)や、衣服(えぶく)をそなえるがよい。いつも頭髪をきよらかにして、頂きまいらせるがよいのである。

また、つねに袈裟をかけて坐禅するがよろしい。袈裟は、第三生に得道するという先例もある。いや、それよりも、すでに三世のもろもろの仏たちの衣であって、その功徳ははかりがたい。また、坐禅は、この世界の法ではない。仏祖の法なのである。

正法眼蔵 道心

(年号不記)(240~241頁)

〈注解〉中有;また中陰ともいう。今生(こんじょう)に死したるのち、まだ次生に生まれない存在をいう。

天眼;天眼通である。その対する境を自由に見ることのできる通力である。

六根にへて;六根を通してというところである。六根は、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの感官である。

草座;僧の敷く座具である。釈尊が成道のとき吉祥草を敷いた故事によるという。

石密漿;氷砂糖を水にとかしたものである。

燃燈;燈明。

第三生に得道する;蓮華色比丘尼がその過去世に、遊女としてたわむれに袈裟をまとい、その因縁によって次の生に仏道を悟ることを得たという、いわゆる本生(じょう)物語のことをいうのである。「出家功徳」の巻を参照。(241~242頁)

受 戒(じゅかい)

■西の方天竺でも、東の方中国でも、仏祖の相伝えてきたところでは、仏法に入るのはじめにはかならず受戒ということがある。戒を受けなかったならば、まだ仏たちの弟子ではないのであり、祖師方の流れを汲むものではないのである。過ちを離れ、非行を防ぐのでなくては、参禅して道を問うことにならないからである。また、戒律を先となすとのことばは、まさしく正法眼蔵である。仏と成り祖と成るには、かならず正法眼蔵を伝え受ける。したがって、正法眼蔵を正伝する祖師は、またかならず仏の戒を受持するのである。仏の戒を受持しない仏祖など、まったくあり得ないのである。そのあるものは、如来にしたがってそれを受持したであろう。またそのあるものは、仏の弟子たちによってそれを受持したであろうが、彼らはみなそれによって仏法の命脈を受持しているのである。

しかるに、いまその仏祖から仏祖へと正伝してきた仏の戒は、ただひとりかの嵩山(すうざん)の初祖達磨大師がまさしくこれを伝来し、さらに中国においては五たび伝えて曹谿(そうけい)の六祖慧能にいたった。それはさらに青原・南嶽などえと正伝せられて、今日にいたっておるのであるが、いい加減な長老たちのなかには、すこしもそんなことは知らないものもある。もっとも哀れむべきこととしなければならない。(248~249頁)

〈注解〉声聞界;菩薩戒の対、小乗の行者が自利のために守る戒律である。

菩薩戒;また大乗界という。大乗の行者(菩薩)の受ける戒律である。(250頁)

■ 仏に帰依したてまつる。法に帰依したてまつる。僧に帰依したてまつる。僧伽(そうぎゃ)なる大衆の尊に帰依したてまつる。

仏に帰依し終わる。法に帰依し終わる。僧に帰依し終わる。

如来なるまことの最高の正覚者は、まさしくこれわが大師にまします。われはいま帰依したてまつれり。今より後には、けっして邪魔・外道に帰依することあらじ。恵みを与えたまえ、恵みを与えたまえ。(これを三たび唱える。また三度目には、恵みを与えたまえの句を三遍唱える)(254頁)

■ よく男の子よ、すでに邪を捨て、正(しょう)に帰して、戒はすでに汝の周辺にみてり。では、まさに三種の清浄戒を受けるがよい。

第一、すべての戒律を摂(しょう)する戒。汝は今の身より仏の身にいたるまで、この戒をよく保つや否や。答えていう。よく保つ。(これを三たび問い、三たび答える)

第二、すべての善きことを摂(しょう)する戒。汝は今の身より仏の身にいたるまで、この戒をよく保つや否や。答えていう。よく保つ。(これを三たび問い、三たび答える)

第三、衆生を利益する戒。汝は今の身より仏の身にいたるまで、この戒をよく保つや否や。答えていう。よく保つ。(これを三たび問い、三たび答える)

上にいうところの三種の清浄戒は、いずれも犯してはならない。汝は今の身より仏の身にいたるまで、よく保つや否や。よく保つ。(これを三たび問い、三たび答える)(254~255頁)

■ では、よき男の子よ、汝はすでに三種の清浄戒を受けた。では、つぎに、まさに十戒を受けるがよい。これはとりもなおさず諸仏諸菩薩の清浄の大戒である。

第一、殺生せざること。汝は今の身より仏の身にいたるまで、よくこの戒を保つや否や。答えていう。よく保つ。(これを三たび問い、三たび答える)

第二、盗まざること。汝は今の身より仏の身にいたるまで、よくこの戒を保つや否や。答えていう。よく保つ。(これを三たび問い、三たび答える)

第三、淫欲せざること。汝は今の身より仏の身にいたるまで、よくこの戒を保つや否や。答えていう。よく保つ。(これを三たび問い、三たび答える)

第四、妄語(もうご)せざること。汝は今の身より仏の身にいたるまで、よくこの戒を保つや否や。答えていう。よく保つ。(これを三たび問い、三たび答える)

第五、酤酒(こしゅ)せざること。汝は今の身より仏の身にいたるまで、よくこの戒を保つや否や。答えていう。よく保つ。(これを三たび問い、三たび答える)

第六、出家の菩薩の罪過を説かざること。汝は今の身より仏の身にいたるまで、よくこの戒を保つや否や。答えていう。よく保つ。(これを三たび問い、三たび答える)

第七、自己を讃え他人を毀(けな)さざること。汝は今の身より仏の身にいたるまで、よくこの戒を保つや否や。答えていう。よく保つ。(これを三たび問い、三たび答える)

第八、法財の慳(おし)まざること。汝は今の身より仏の身にいたるまで、よくこの戒を保つや否や。答えていう。よく保つ。(これを三たび問い、三たび答える)

第九、瞋恚(しんい)せざること。汝は今の身より仏の身にいたるまで、よくこの戒を保つや否や。答えていう。よく保つ。(これを三たび問い、三たび答える)

第十、三宝を謗(そし)らざること。汝は今の身より仏の身にいたるまで、よくこの戒を保つや否や。答えていう。よく保つ。(これを三たび問い、三たび答える)

上にいうところの十戒は、いずれも犯してはならない。汝は今の身より仏の身にいたるまで、よくこの戒を保つや否や。答えていう。よく保つ。(これを三たび問い、三たび答える)

では、この事はこのように保つがよい。受ける身は三たび礼拝する。(255~256頁)

■この受戒の作法は、まちがいもなく仏祖の正伝しきたったものである。丹霞(たんか)の天然禅師(じ)や薬山(さん)の高沙弥(こうしゃみ)なども、ひとしく受持してきたものである。比丘戒をうけなかった祖師はあるけれども、この仏祖正伝の菩薩戒をうけなかった祖師は、いまだかってないのである。それはかならず受持するものなのである。

正法眼蔵 受戒

(年号不記)(257頁)

〈注解〉和尚;受戒のときの師、すなわち戒師である。

阿闍梨;教授師である。受戒に際して作法を指導する師である。

不淫欲;不邪淫もしくは不貧婬となったいる写本もあるが、不淫欲をとる。

不酤酒;酤(こ)は売るである。酒を売るべからずとする戒である。

不自讃毀他;自己を讃え他人を毀(けな)さざることである。

不慳法財;仏法の教えを施すに物惜しみしないことである。

丹霞天然・薬山高沙弥;丹霞天然(824寂、寿86)は石頭希遷の法嗣(ほっす)であり、また、薬山の高沙弥(年寿不詳)は薬山惟儼(いげん)の弟子であるが、彼らはいずれも『景徳伝燈録』巻十四にくわしく記されている。(257~258頁)

別輯 弁 道 話(べんどうわ)

■開 題

ー前略ー ちなみに、この一巻の取扱いは諸本によってさまざまである。

たとえば、かの懐弉和尚(永平寺第二世、1280弱、寿83)の編集になる七十五巻本や、あるいは、嘉暦(かりゃく)四年(1329)の夏、かの義雲和尚(永平寺第五世、1333寂、寿81)によって編集された六十巻本などにも、この「弁道話」の巻は集録せられていない。それもそのはず、そのころには、この巻の存在はまったく知られていなかったからである。

それが、江戸時代にいたって、京都の華族の家より見出されて、かの晃全(こうぜん)和尚(永平寺第五世、1693弱、寿67)によって九十五巻本が編集せられるに及んで、はじめて『正法眼蔵』に採録せられたのである。

ー中略ー

したがって、第二には、この『弁道話』の巻とそのほかの『正法眼蔵』の巻々とでは、道元がむかって語らんとする対象が異なっているのである。というのはこうである。すなわち、興聖寺の成立以後において制作されたものは、たいてい、奥書に「示衆(じしゅ)」と記されている。「示衆」とは、衆に示すということである。衆とは、もともと僧伽(ぎゃ)を意味することばである。仏道修行者たちのあつりである。つまり、その時道元はすでに、出家の弟子たちをもち、また在家の帰依者をもっていたのである。それにむかって語るべきはっきりした対象があったのである。しかるに、「弁道話」の巻においては、もしも真に求道の念をいだいている人があったならばという意味のことが述べられているにすぎない。むかって語るべき対象は、なおさだかでないのである。とするならば、その語るべき内容も、またその叙述の様式も、当然、他の巻々のそれとは違ってくるはずであった。

思うに、「正法眼蔵」ということばは、今日わたしどもが、現代のことばをもって再現するなど、とても企ておよばないところなのである。だからして、わたしも、この現代語訳のなかでは、一度だってその語彙(ごい)を現代のことばに移そうなどと思ったことはない。だが、それはいったいなにを指さしているのだというなれば、わたしはそれを、仏教の本質を追究して掘りさげ掘りさげするいとなみに対して名づけているのだと受領している。それは、この『正法眼蔵』の巻々において、そのようないとなみの結実をもって、その門下の弟子たちや、在家の帰依者たちに語りかけているのである。だが、この「弁道話」の巻においては、すこしその様子が違っている。なぜであるか。それは、そこでは、道元はなお不特定の人々にむかって語っているからである。したがって、その内容は、当然、坐禅のすすめであり、坐禅へのいざないである。だからして、その内容はきわめて勝れたものであるにもかかわらず、それはむしろ、『正法眼蔵』の別輯として列次するがよいというのが、わたしの所存なのである。(264~265頁)

■もろもろの仏・如来は、いずれもすぐれた教えを正伝して、最高の智慧を身につけるにあたっては、最上にして自然なすばらしい方法をもってなされる。それは、ただ仏から仏にさずけて、絶対に間違いのないものであって、つまり、かの智慧の境地にただひとり悠々とひたりきるといったところである。これを自受容三昧という。

しかるに、この三昧にあそぶにあたっては、端坐して参禅するを正しき門となす。この性質は、もともと人々の持ち前の中にそなわっているものであるが、なお修しなかったならば、それはわが掌(たなごころ)にあふれて、その数をしらず、また、これを口に語れば、口いっぱいにあふれて、極まるところもない。もろもろの仏は、つねにそのなかに住んでいるけれども、どこにもなんの分別の跡をものこさず、また、生きとし生ける者はいつでもそのなかに生かされているけれども、そのいとなみはどこにもその跡をあらわさない。

いま語らんとするこの修行と学習は、悟ってみれば、そこにあらゆる存在のあるがままの相(すがた)があり、そこを脱(ぬ)けでる出口の路(みち)は、いつでもただ一つである。そして、関所を脱けて自由になってしまえば、もはやあれだこれだという小さなことはいらないのである。(257~268頁)

■わたしは、発心して法を求めはじめてからこのかた、わが国のあらゆる方面に善知識を尋ねた。そして、ある時、建仁寺の明全和尚に見(まみ)えることができた。ついて随っているいちに、たちまち九年の歳月がたった。その間には、いささか臨済の家風を聴くことを得た。この明全和尚は、祖師なる栄西禅師の高弟であって、ただ一人、最高の仏法を正伝した方である。けっして他のものと並べていうべき方ではない。

だが、わたしは、さらに大宋国におもむいて、善知識を浙江両路に訪れ、いわゆる五門についてその家風を聴いたが、ついに太白山(たいはくざん)の如淨禅師に参じて、一生参学の大事はそれで終わった。それからのち、大宋の年号でいえば紹定(しょうてい)のはじめにわが国に帰ってきた。むろん、法をひろめ衆生を救わんことをわが念顏として、あたかも重き荷物をわが肩にになうがごとき思いであった。

しかし、いましばしの間は、法をひろめようなどという心はうち忘れて、やがて法幢(どう)をたかく揚げる時もあろうから、その時の熟するまでは、しばらく悠々として悠々自適の生をたのしみ、いささか先哲の遺風にならわんものをと思っていた。だが、思いなおしてみると、もしもおのずからして、名利にかかわらず、道を思う心をさきとする真実の求道者があっても、いたずらによからぬ師にまどわされて、ただしい解釈を見失い、むなしくひとりよがりに陥って、ながく迷路にさまようことともなろう。それでは、いったい、なにによって正しい智慧の種を生長せしめて、ついに道を得るの時にあうことを得るであろうか。わたしはいま一処不住の生活をたのしんでいるのだから、どこに行かなくてはならぬということもない。ここは、ひとつ、それでは気の毒だと思うから、かってわたしが大宋国にあって、まのあたりにかの地の禅林を見聞し、また善知識の意味ふかいことばを頂裁したことなどを記しあつめて、この道にまなびいたらんとする人にのこして、仏教の正しい教えを知らしめたいと思う。けだし、これこそは本物に間違いないからである。(268~269頁)

〈注解〉阿耨菩提;阿耨菩提は阿耨多羅三貌三菩提の略語である。

自受容三昧;自受容とは、功徳をみずから受容して、その楽しみをみずから味わうことであり、三昧とは、その境地にひたり切っておることである。

五門にきく;五家(法眼・潙仰(いぎょう)・曹洞(とう)・雲門・臨済の五宗)の家風をきくというところである。(269~270頁)

■大師釈尊は、霊鷲山(りょうじゅせん)の集会(え)において、正法を摩訶迦葉(かしょう)に伝え、それより祖より祖へと正伝して菩提達磨にいたった。その菩提達磨は、みずから中国において、正法を慧可大師に伝えた。それが東土における仏法伝来のはじめである。

そのように一人より一人へと伝えて、やがておのずから六祖なる大鑑禅師にいたったが、その時、真実の仏法はまさしく中国に流布して、もはや教学の細目にかかわるものではないことが理解されてきた。時に、六祖のもとに二人のすぐれた弟子があった。南嶽懐譲(なんがくえじょう)と青原行思とがそれであった。彼らは、ともによく仏の心印を伝え持して、おなじく人々の導師たるべき人であった。その二人の流れがひろく流布したので、そこによく五つの門がひらかれた。いうところの法眼(げん)宗・潙仰(いぎょう)宗・曹洞(とう)宗・雲門宗・臨済宗がそれである。現在、大宋国においては、臨済宗のみが天下にゆきわたっている。だが、五つの宗のわかれてはいるものの、仏心のありようはただ一つである。(274頁)

■思えば、中国でも、後漢のころからこのかた、経典はひろく天下にゆきわたっていたけれども、そのいずれが優れいずれが劣っているかは、なお定まってはいなかった。しかるに、祖師菩提達磨が中国においでになってからは、ずばりとそのもつれの根元をたちきって、純一の仏法がひろまってきた。わが国でもまた、そうありたいと願いたいものである。(274頁)

■仏法をよく護持してきたもろもろの祖や仏たちは、いずれも端坐して治受容三昧に入って行ずることを、悟りを開くための正しき路としてきた。また、西の方天竺、東の方中国において、よく悟りを得た人々は、みなその風にしたがってきた。それは、師と弟子とが、ひそかにこのすばらしい方法を正伝して、この仏法の秘訣を承持してきかからなのである。

わが宗門の正伝としていわく、

「この仏祖より仏祖へとじきじきに伝えてきた仏法は、最上のなかにおいても最上である。善知識にはじめてお目にかかってからは、もはやまったく焼香も、礼拝も、念仏も、修懴(しゅさん)も、看経(かんきん)ももちいない。ただ打ち坐って身も心もともに脱ぎさった境地に入るがよいのである」(274~275頁)

■もし人が、たとえ一時なりとも、その身口意の三業において仏をかたどり、端坐してその境地にひたる時、その身口(く)意の三業において仏をかたどり、端坐してその境地にひたる時、その時この存在の世界はことごとく仏をかたどり、あまねき虚空もまたすべて悟れるものとなる。だから、もろもろの仏・如来におかせられては、ますますその本来の法のたのしみを増し、いよいよ悟りのすばらしい風情をあらたにするのである。さらにはまた、十方の世界のありとあらゆる生類たちも、みないっせいに身心(じん)ともにきよらかとなって、すべてはみな自由自在なることを証(あか)しとするのである。かくして、その本来の面目が現実となって目のまえに現れてくるのであるから、そのとき、もろもろの存在はすべて正覚を成就し、あらゆる物はみな仏身ならざるはなきにいたるのであるから、もはや、悟ったのさとらないのといった限界はとおく超えられて、みんながひとしく菩提樹のもとにあって端坐し、ともどもに最高の大説法を展開して、最上無為なる深き智慧を説きいでるのである。

しかるに、そのような悟りは、またひるがえって、気の付かないうちにも、いつしかお互いに相助ける道が通じているのである。だから、坐禅する人は、かならず、ふるい身心をぱっと脱ぎすて、これまで抱いていた知見や思量もきっぱりと断ち切って、ついに本物の仏法に会うことができるし、また、そこでひるがえって、数かぎりない仏たちの道場にあって仏事を修する人々を助けて、あるいは仏の道をのぼりゆく機縁をあたえ、あるいは仏の道をさらにすすむことを激励する。

さらに、ここにいたれば、十方の世界の、土地も草木も、牆壁(しょうへき)瓦礫(がりゃく)も、すべてみな仏事を行ずるのであるから、そのおこす風になぶき、水に潤されるものは、すべてみな、冥々のうちにも、仏のふしぎな教化にあずかって、まもなく悟りを志現するにいたる。さらにはまた、その水や火を受用するものも、みなすべて、本来成仏の仏の教化を他にも伝えるのであるから、それらのものだちとともに住し、ともに語りあうものも、またことごとく、たがいにみんな限りもない仏徳をそなえるにいたる。かくして、つぎからつぎへとひろく作用して、尽きることなく、間断することなく、思議すべからざる、量るべからざる仏法をも、よくあまねき存在の世界の内外に伝わりひろまらしめるのである。だが、しかし、それらもろもろの当人たちは、そんなこととはすこしも気が付かない、というのは、それらのことはすべて、静かななかで、なんの人為をも加えないで、じきじきに悟られるものだからである。もしも凡庸なものだちの思うように、修と証とが別々のものであるならば、それぞれちゃんと気も付こうというものである。それを、もしも気が付くというものならば、それは悟りというもののありようではない。悟りのありようは、人の迷悟のおよばざるところなのである。

また、その心とその対象とは、ともにおなじく静かななかにあっても、なお悟境を出たり入ったりはするけれども、それも、すべては自受用の境地においてすることであって、塵ひとつ動かすわけでも、相(すがた)ひとつ変えるわけでもなく、しかも、広大なる仏のわざを実現し、深くして微妙なる化導(けどう)をおこなう。そして、その化導のおよぶ草木や土地は、いずれも大いなる光明を放ち、深くして妙(たえ)なる法を説いて極まるところがない。また、草木や牆壁がよく生きとし生けるもののために法を説けば、また、生きとし生ける者もまた、ひるがえって草木牆壁のために法をのべる。かくして、みずから覚(さと)るにも、また他を覚らしむる場合にも、もちろんぴたりと悟りの相をそなえて欠くるところがなく、またよく悟りのありようにかなうて怠るところもないのである。

そんな具合であるから、坐禅というものは、一人がいとなむ一時のいとなみではあるけれでも、なおよくもろもろの存在と冥々のうちにも通い、また、あらゆる時に易々として相通ずるものであるから、尽きることのないこの存在の世界のなかにあって、常恒すなわち過去と現在と未来とにわたって、よく仏の化導のいとなみをなすのである。あれもこれも、ひとしくともに修し、ともに悟るのである。けっしてただ坐しているあいだだけの修行ではないのである。そのありようは、いうなれば、空を打って響(ひびき)をなすというものであり、あるいは、鐘をついてその前後にもなお綿々として妙なる声をきくというものであろうか。いや、それきりではない。さらに誰も彼もが、みんな本来の面目に本然の修行をそなえているのであるから、それはもう量り知り得るところではないのである。かくて、知るがよろしい、たとい十方世界の数かぎりない仏たちの力をあつめ、その仏の智慧をもって、一人の坐禅の功徳を量りきわめようとしても、とてもその傍(そば)にもよりつけないであろう。(275~277頁)

〈注解〉慧可大師;禅門の第二祖、神(じん)光慧可(593寂、寿107)である。

大鑑禅師;禅門の第六祖、大鑑慧能(713寂、寿76)である。

看経;禅家では「かんきん」と読むならいとする。経を黙読することをいうが、のちには読経(どきょう)、諷経(ふぎん)をもいうこととなった。

心印;仏心印である。仏心のありようはみなおなじであるから、これを心印というのである。

身心脱落;我が身心を脱けきるというほどのことばであるが、道元がこのことばにこめた意味については、この『正法眼蔵』の全体を通じて味わいとっていただきたい。

三途六道;三途(ず)は地獄道・畜生道・餓鬼道である。六道は、それに修羅・人間・天の三道を加えたもの。だが、ここではもっと漠然と、あらゆる世界の生きとし生ける者をいう。

修証;修は修行であり、証は証得すなわち悟るである。しかるに、道元は、その修と証とは、両段すなわち別々のふたつのものとは考えられないとするのであるから、「修証」と熟して用いるのが、その独特の用語法である。

■いま、坐禅の功徳の高大なることを説き終わった。だが、愚かなる人は疑っていうであろう。仏法におおくの門がある。それなのに、なにゆえならば一途に坐禅をすすめるのであるか、と。

示していう。それは坐禅が仏法の正門であるからである。

問うていう。なにゆえひとり坐禅をもって、正門なりとなすか。

示していう。

大師釈尊は、あきらかに仏道を悟るすばらしい方法を正伝したもうたのであり、また、三世の如来たちは、いずれもみな坐禅によって仏道を悟ったのである。だからして、これを仏法の正道であるとするのである。それのみではない。西の方天竺、東の方中国のもろもろの祖師たちも、みな坐禅によって仏道を悟ったのである。だからして、いまその正門を人々に示すのである。(280~281頁)

■なるほど、あるいは如来の妙術を正伝するといい、あるいは祖師たちの跡を訪ねるといい、まことに凡人の思慮のおよぶところではない。だがしかし、読経や念仏もまた、おのずから悟りの因縁となり得るであろう。それなのに、ただ空しく坐して、なんのなすところもないというのでは、いったい、なにをもって悟りを得る手だてとするのであろうか。

示していう。

なんじはいま、もろもろの仏の入りたもう三昧の境地たる、この最高の大いなる教えを、むなしく坐してなんのなすところもないと思ったのであるが、それは大乗をそしるものというものである。その迷いのふかいことは、たとえば、大海のなかにいながら、水がないというようなものである。すでに忝(からじけ)なくも、もろもろの仏たちのみずから浸っている三昧の境地に安坐しているのである。それがもう広大なる功徳というものではないか。可哀そうに、汝はまだ眼がひらけず、まだ心は酔うているのであろうか。

いったい、もろもろの仏たちのまします境地というものは、まことに不思議すぁって、人の思いのよく及び得るところではない。ただ、信心のただしい、すぐれた機根のもののみが、よく入ることを得るのである。信心のない人は、たとえ教えても、とても耳には入りはしない。思えば、かの霊鷲山(りょうじゅせん)のつどいにもなお、仏が「退くもまた佳(よ)いかな」と仰せられたような人々のあったという。そもそも、心に正しい信がきざしたならば、修行し、仏道をまなぶがよいのである。そうでなかったならば、しばらくやめておくのがよろしい。ただ、むかしから一向に法のうるおいに与(あずか)ることがないのを恨むよりほかはあるまい。

また、なんじは、読経や念仏をつとめることによって得る功徳というものを、知っているであろうかどうか。ただ舌をうごかし、声をあげるだけで、それが仏事のいとなみであり、それで功徳があるのだと思ったならば、まったくとるに足りない。それが仏法かというならば、それは仏法からはなはだ遠く、いよいよ遥かである。そもそも、経典をひもといて読むということは、仏が頓教(とんきょう)と漸(ぜんきょう)教の修行のありようを説いておられるのを、よく研究して知り、教えのとおりに修行すれば、それでかならず悟りも得られるといったものである。いたずらに思慮分別をついやして、それでもって悟りを得る功徳にしようとするのではない。ただむやみに千辺万遍の口誦(くじゅ)をかさねて、それによって仏道にいたろうなどというのは、たとえば、梶棒を北にむけて、それでもって南方越の国にむかおうと思うようなものである。あるいは、またたとえば、円い孔に四角の木をいれようとするにおなじことである。また、文字は見ながらも、その修する道には暗いのであるから、それはちょうど、医学をまなぶものが、薬を調合することは忘れたようなもので、なんの役にもたたない。ただひまもなく口から声をだしているところは、まるで春の田の蛙がひるも夜も鳴いていりようなもので、結局なんの益もない。まして、いわんや、ふかく名利にまよっている連中はなかなかそれらのことを捨てがたい。それは、利をむさぼる心がはなはだ深いからである。昔もすでにその例がある。いまの世だってないはずはない。もっとも憐れなことではある。

ただ、まさに知るがよい。この七仏以来のすばらしい教えは、道を悟り、心あきらかなる師匠によって、その心は契(かな)い、悟り入ることを得たる修行者が正伝をうける、そのときはじめてぴたりとその意味を受領することができるのであって、文字によってまなぶ学僧たちのとうてい知り及ぶことのできるところではない。だからして、このような迷いはすてて、ただ正しき師の教えにより、坐禅して道をまなび、諸仏のみずからたのしんでおられる自受容三昧なる境地を、わが身をもって悟りとるがよいのである。(283~265頁)

■いまわが国に伝わっているところの天台宗や華厳宗は、いずれも大乗仏教の究極のものである。ましてや真言宗のごときは、大日如来がじきじきに金剛薩埵(さった)に説き与えたところであって、師資相承(じょう)の旨あきらかである。また、その説くところも、即心是仏(すなわち心これ仏)といい、あるいは是心作仏(この心仏となす)とて、ながいながい間の修行を経ることなくして、一たび坐すればたちまち五仏の悟りを成ずることができるという。それはもう仏法の妙をきわめたものということができる。それなのに、いまいうところの修行は、いったい、なにの勝れたところがあればとて、彼らをさしおいて、もっぱらこれをすすめるのであるか。

示していう。

知るがよろしい。仏教においては、教の優劣を論ずることなく、法の浅深を択(えら)ぶことなく、ただ修行の真偽を知るのがよいのである。かっては、草花や山水にひかれて仏道に入ったものもあった。あるいは、土石沙礫(どしゃくしゃりゃく)をにぎって仏の心印を頂戴したということもあった。ましてや、森羅万象のなかにも仏法を語る広大の文字はゆたかに存し、あるいは、微細なる塵のなかにも大いなる説法はおさめられているという。であるからして、即心即仏(すなわち心すなわち仏)などということばも、いうなれば水のなかの月である。あるいは、即坐成仏(すなわち坐すれば仏と成す)ということも、また鏡のなかの影にすぎない。そのような言葉の技巧には拘らないがよろしい。それに反して、いま直証菩提(ただちに菩提を証する)の修行をすすめるのは、まさしく仏祖より直々に伝えてきたすばらしい道を示して、ほんとうの仏教者ならしめようというのである。

また、仏法の伝授を受けるには、かならず証(さと)り得た人をその師匠とするがよろしい。ただ文字にのみこだわる学者は、その導師とするに足りない。それでは、まるで盲人が盲人たちを案内するようなものである。いま、この仏祖正伝の門においては、みんな悟って道を成した老師をうやまって、仏法を護持せしめている。だからして、あの世この世の神々もきたって帰依し、あるいは、すでに悟りを得た聖者もきたって法を問うことがあるが、そのような時にも、かならずそれぞれに、仏祖所伝の心をあかす方法を与えるのである。そんなことは、他の門においては、いまだかって聞かないところである。仏弟子というものはただ仏法をならうがよいのである。

また知るがよらしい。われらはもともと、わが本来の面目として、最高の智慧をちゃんとわが身にそなえているのであるが、ただ、ああこれかと思いあたることができないばかりに、むやみにいろいろの考え方をおこす癖があり、それをわが身のほかの物と思うからして、いたずらに大本をとり間違えることとなるのである。また、そのいろいろの考え方から、甲斐もなきさまざまの所説が生れてくる。あるいは、十二因縁といい、あるいは二十五有(う)といい、あるいは三乗といい五乗といい、あるいはまた有仏といい無仏といって、その所説は尽きるところもない。だが、それらの所説をまなんで、それが仏法を修行する正しい路だと思ってはならない。そんな具合ではあるけれども、いまはまさしく仏の心印により、万事を捨てさって、ただひたすらに坐禅する時、その時はじめて、迷いだ悟りだという計らいもこえ、凡夫の聖者のというわかちにも拘らず、一挙にして規矩の束縛を脱ぎすてて、おおいなる智慧を味わうことができるのである。かの文字という方便にかかずらわるものの、とても肩をならべ得るところではないのである。(288~290頁)

〈注解〉毘盧遮那如来;宇宙の実相を仏格化したものであるが、ここでは密教の教主としての大日如来を意味しておる。

即心是仏;また「即心即仏」ともいい、「即心作仏」ともいう。この心そのままが仏であるというのである。(291頁)

■ ※ここでは、戒・定・慧の三学のなかに定学があり、また、いわゆる六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・静慮〈禅〉・智慧の六種の大行)もしくは六度のなかには、禅度(禅波羅蜜)があるが、それなのに、「なにによりてか、このなかに如来の正法をあつめたりといふや」と問う。それに対する道元の答えは、詮ずるところ、「これは仏法の全道なり、ならべていふべきものなし」ということであった。

三学;仏道修行者のかならず学すべきものとして、戒・定・慧の三つの道法をあげて、これを三学という。

六度;また六波羅蜜という。度とは、波羅蜜(paramita or parami)の意訳である。菩薩の修すべき六種の大行として、布施(壇)波羅蜜・持戒波羅蜜・忍辱波羅蜜・精進波羅蜜・静慮(禅)波羅蜜・智慧(般若)波羅蜜をあげるのである。(294~295頁)

■ ※ここでは、四儀すなはち行・住・坐・臥の四つのなかにおいて、仏教者が坐の一儀のみをとりあげて、そこに修行と証得の焦点をあてるのは何故であるかと問う。それに対する道元の答えは、ただ、もろもろの仏祖がみなこの道によられたという事実を中心としている。

四儀;また四威儀という。行・住・坐・臥の四つがぴたりと作法にかなえることをいう。(296~297頁)

■問うていう。

その坐禅の行は、まだ仏法を悟り得ないものには、なお坐禅し道を修して、その悟りを得るがよいであろう。だが、すでに仏の正法をあきらかにすることを得た人には、もはやなんの必要があろうか。

示していう。

愚かなるもののまえでは、夢を説いてはならぬ、やまがつの手には、舟の棹(さお)をあたえがたいというけれども、やはり教えを説くことにしよう。そもそも、修と証とが別のことであると思っているのは、とりもなおさず外道の考え方である。仏教では、修と証とはまったくおなじものである。いまでも証のうえの修なのであるから、初心の学道がそのままもとからの証のすべてである。だからして、修行の用心をあたえるにも、修のほかに証を期待してはならぬとおしえる。この道が直指人心なのであるのは、もともと証(さと)っているからであろう。すでに修をはなれぬ証であるから、証には終わりがなく、また、証をはなれぬ修であるから、修には初めがない。そのゆえをもって、釈迦如来や迦葉(しょう)尊者は、ともに証のうえの修にひきまわされていた。仏祖の仏法に安住し仏法を護持されてきたあとは、みなそのようである。

とすると、すでに証をはなれぬ修があるのであるから、わたしども、さいわいにしていささかこの素晴らしい修を伝うるものは、その初心の学道において、たちまちにして、いささかの証をおのずからにして得るのである。知るがよろしい。この修をはなれぬ証をけがすことなからしめんがため、仏祖もしきりに修行をゆるくしてはならないと教えている。かくて、この素晴らしい修をはなてば、もとよりの証が掌(て)のなかにあふれ、そのもとよりの証よりたちいでてみれば、かの素晴らしい修が全身におこなわれているのである。

また、大宋国においてまのあたりに見たところによれば、諸方の禅院には、すべて坐禅堂があって、五百六百から千人二千人におよぶ僧を収容して、日夜に坐禅をすすめていた。その席主には、仏の心印を伝える師匠があって、つねに仏法の大意をくわしく聞くのであるから、修と証とが別のものではないことがよく理解されていた。だからして、席主もまた、自分の門下にあつまった者ばかりではなく、すぐれた求道者、仏法のなかに真理をたずねる人など、初心と後心とをえらばず、俗人と出家たるとを論ぜず、すべて仏祖の教えにより、師僧の道にしたがって、坐禅して道を修するがよいとすすめるのであった。

みなさんも聞いたことがありはしないか、祖師はいった。「修といい証ということがないわけではない。ただ取捨してはいけない」と。また、祖師はいった。「道を見たものが、道を修するのだ」と。しるがよろしい、得道のなかにあって修行するがよろしいといっておるのである。(298~300頁)

〈注解〉山子;「さんす」と読む。やまがつである。きこりなどである。

得道;仏道を証すること、すなわち証である。(300~301頁)

■問うていう。

わが国において、これまでに仏教をひろめた諸師のかたがたは、いずれも、中国にわたって法を将来した時に、なにゆえにこの旨をさしおいて、ただ教説をのみ伝えたのであろうか。

示していう。

むかしの人師(にんし)たちがこの法をつたえなかったのは、まだ時期がいたらなかったからであろう。

問うていう。

かの上代の人師たちは、いったい、この法を会得しておられたのでありましょうか。

示していう。

会得しておられたのならば、ひろめられたであろう。(302頁)

■問うていう。

あるものがいわく、「生死(しょうじ)をなげくことはない。生死をはなれるについて、至極すみやかなる道がある。それは、いうところの心性はつねに存して生滅することのないものだとの道理を知ることである」と。その意味するところは、この身体(だい)こそは、生あればまたかならず滅にうつりゆくものであっても、この心性はけっして滅することがない。だから、よく生滅することのない心性がわが身にあることを知れば、それを本来の性とするのであるから、身はただ仮の相(すがた)であって、此処に死し、彼処に生ずるさだめなきものすぎない。それに反して、心はすなわち常に存して、過去も現在も未来も、けっして変わることがない。そのように知るのは生死をはなれるとはいうのである。その意味を知るものは、もはや従来の生死の考え方はなくなってしまって、この身が終わる時には、いわゆる性海(しょうかい)に入る。性海とは、存在のあるがままの相を海にたとえていうことばである。そして、その性海に流れそそいでしまえば、もろもろの仏・如来のように、すばらしい徳があのずから具(そな)わるのである。だが、いまはたとえ知り得ても、前世のまよえる業によってなれる身体としてあるから、もろもろの聖者とおなじでないのである。ただ、いまだこの意味を知らない者は、いつまでも生死の流転を繰り返さなければならない。だから、すなわち、いそいで心性の常住ということを知るがよいというのである。いたずらに呆然として一生をすごしたって、なんの期するところもないではないか。このようにいう意味は、いったい、これは本当に、もろもろの仏祖の道(どう)にかなったものであろうか、どうか。

示していう。

いまいうような考え方は、まったく仏法の考え方ではない。それは先尼外道なるものの説である。

かの外道の考え方はこうである。――わが身のなかには、一つの霊妙な知がある。その知は、つまり、なにかにぶっつかると、よく好悪をわきまえ、あるいは是非を判断する。痛い痒いを知り、苦しい楽しいを知るのも、みなその霊妙な知の力である。しかるに、その霊妙は、この身が滅する時には、この身を脱(ぬ)けてかしこに生まれるのであるから、ここでは滅するように見えるけれども、かしこに生まれているのであるから、いつまでも滅することなくして常住である。――かの外道の考え方はこんな具合である。

それなのに、その考え方に倣(なら)うて、それが仏法であるとするのは、たとえば、瓦礫(がりゃく)をにぎって、それを黄金の宝と思うよりも、なお愚かである。その恥かしい馬鹿馬鹿しさは、たとえるものもない。唐の慧忠国師も、それをふかく誡(いまし)めたことであった。思うに、心は常住であり、身は滅するなどと変な考え方をはたらかせて、これを諸仏の教えに等しいなどといい、生死の本来の原因をとりあげて、それで生死をはなれたのだと思うなど、馬鹿馬鹿しいことではないか、なんとも可哀そうなものである。そんなのは、ただ外道の曲がった考え方だと知るがよく、耳にもふれないがよろしい。

だが、いまは、やむを得ず憐みをたれて、なんじの曲がった考え方をすくってあげたい。知るがよろしい。ぶっきょうでは、もとから、身心(じん)一如にして、また性相(しょうそう)不二なりという。身と心は一つであって、また、本性と相状とは別々ではないというのであって、このことは、西の方天竺でも東の方中国でもおなじく知っていることであって、けっして疑ってはならないところである。さらにいうならば、仏教のなかにおいても、常住を説く法門においては、よろずの存在はみな常住であるといって、身と心をわけることはない。また、空無を説く法門においては、もろもろの存在はみな空無であるというのであって、性と相をわけることはない。それなのに、どうしても身は滅すれども心は常住であるといえようか。それでは正しい理にそむくことになろう。そればかりではない、仏教においてはまた、生死はとりもなおさず涅槃であると悟るがよいのであり、いまだかって生死のほかにおいてはまた、生死はとりもなおさず涅槃であるとさとるがよいのでり、いまだかって生死のほかにおいて涅槃を説いたことはない。ましていわんや、心は身をはなれて常住であると理解することが、それが生死をはなれた仏の智慧であると考えたとしても、その理解や知覚をいとなむ心は、なお生滅するものであって、けっして常住ではない。それではつまらないではないか。よくよく考えてみるがよろしい。

そもそも、身心一如ということは、これはもう仏教のつねに説くところである。それなのに、どうしてこの身が生じもしくは滅する時、心だけがひとり身をはなれて生滅しないということがあり得ようか。もし一如なる時もあり、一如ならぬ時もあるとしたら、それでは仏説はしぜん虚妄だということになるであろう。また、生死は除かねばならぬものだと思ったならば、それでは仏法をきらうという罪を犯すこととなる。つつしまねばことではある。

また、知るがよろしい。仏法において、心性を「大総門の法門」というのは、この大いなる存在の世界をひっくるめて、まったく性と相とをわかつこともなく、生の滅のということもないのをいうのである。発心・修行よりこのかた悟りを開き涅槃にいたるまで、すべて心性ならざるはないというのである。あるいはまた、一切のもろもろの存在も、よろずの現象のならびおこるさまも、すべてはただ一心のしからしめず、かかわらざるところはないというのである。つまり、この仏教のもろもろの法門が、ひとしくみな一心の関わるところで、けっしてそれに異なるところはないと説く。それこそ仏教においていう心性をよく知っておるものといえるのである。

それなのに、ここでは、身と心とを区別し、また、生死と涅槃とをわかって考えようとしているが、そんな必要はすこしもないことである。わたしどもはすでに仏教者である。外道の考え方をかたる狂者のことばなどに、耳を藉(か)してはならない。(306~309頁)

〈注解〉先尼外道;先尼は、“Seniya”の音写。仏陀在世のころの外道であって、「裸体にして狗行者なるセーニャ」として登場する(南伝、中部経典、五七、狗行者経)。また、大乗の経論においては、しばしば勝軍梵志(セーニャの意訳)として登場し、本文にみるがごとき説をなしている。

生死すなはち涅槃;「生死」の巻の「生死すなはち涅槃とこころえて」以下を参照されたい。

菩提涅槃;発心・修行・菩提・涅槃の四つの道程のうち「発心・修行より」を略して、「菩提涅槃におよぶまで」というのである。菩提はまた成道ともいう。(310~311頁)

■問うていう。

この坐禅をもっぱらに行ずる人は、またかならず戒律を厳守すべきであろうか。

示していう。

戒を持し清(しょう)浄を行ずることは、とりもなおさず禅門のさだめであり、仏祖の家風である。だが、まだ戒を受けないもの、あるいは、戒をやぶったものも、その資格がないわけではない。

問うていう。

この坐禅をつとめる人は、また真言や止観の行をかね修(しゅ)しても、また差し支(つか)えないものであろうか。

示していう。

中国にあった時、老師にその秘訣をきいた折、西の方天竺や東の方中国においては、いまもむかしも、仏の心印を正伝して祖師方にして、そのような行を兼ね修したものは、まだ聞いたことがないとの仰せであった。まことに、一事をもっぱらにしなくては、一智に達することはできないものである。(312頁)

〈注解〉真言;真言とは、“Mantra”の訳語で、また咒(じゅ)と訳する。秘密語であって、それを唱えるのである。

止観;天台の行法であって、一種の精神集中である。天台では止観を説いて、「法性寂然名止、寂而常照名観」(法性寂然を止と名づけ、寂にして常に照するを観と名づく)とある。分別を断って心を一処におき(止)正智をもって諸法を照見する(観)のである。(312~313頁)

■問うていう。

この坐禅の行は、在俗の男女(なんにょ)もつとめることができるものであろうか。それとも、ひとり出家の人のみの修するものであろうか。

示していう。

祖師の仰せには、仏法を会得することは、男女をえらび、貴賤をわかってはならないと見える。

問うていう。

出家の人は、この世の雑事をはなれてしまっているから、坐禅修行にさわりがないであろうが、在俗のものには、いろいろとうるさい務めがある。これは、いったい、どのようにしてひたぶるに修行すれば、自然に仏道にかなうことができるであろうか。

示していう。

そもそも、仏祖はあわれみの心をもってこそ、この広大なる慈しみの門をひらいたのである。だから、これはすべての人々をして入らしめようとするものであって、誰だって入れないものがあってはならない。だからして、古今をたずぬれば、その証はすくなくない。さしあたり、代宗や順宗などの方は、帝位にあって天下の政治をつかさどり、たいへん忙しかったけれども、なおよく坐禅修行して、仏祖の大道を会得することを得た。また、李相(しょう)国や防相(しょう)国といった方は、いずれも帝を補佐する位にあって、その股肱(ここう)たりし人物であるが、なおよく坐禅修行して、仏祖の大道を悟ることを得た。それも、ただ志のありしによるのであろう。在家であったか出家であったかの関わるところではあるまい。また、とくなにが大事でなにが大事でないかをわきまえる人は、おのずから信ずるところもあろう。ましてや、世のなかの務めが仏法をさまたげると思うものは、ただ世のなかには仏法がないということのみを知っていて、まだ仏法のなかには世間のようなことはないということを知らないのである。

ちかごろ大宋国に、馮相公(ひょうしょうこう)というものがあった。仏祖の道に長じた大官であったが、のちに詩をつくって、自分のことを詠じていった。

「公事の余暇に坐禅をこのんだ

脇を床にして眠ることもまれであった

それでも長官の職を務めていたが

また長官の名をもって世に知られた」

これは、お上の務めにひまもなかった身であったけれども、仏道に志がふかかったから、仏道を悟ることができたというのである。彼らをもって自分をかえりみ、昔を手本として今をかんがみるがよろしい。

なお、大宋国では、いまの世にも、国王・大臣・官民・男女をえらぶことなく、すべて仏祖の道に心をかけないものとてはなく、また、武門も文人も、いずれも坐禅修行をこころざさぬものとてはない。そして、こころざすものは、たいてい心境を開発しているようである。それによっても、世の務めが仏法を妨げないことが、おのずから知られるのである。

また、国家に真実の仏法がひろまってくれば、もろもろの仏、もろもろの神も、たえず守護するがゆえに、天下はおのずから泰平である。政治のことが泰平であれば、仏法もおのずからそのお蔭をこうむるのである。

また、釈尊の在世のころには、なお邪(よこしま)まの人、邪まの説がはびこっていた。だが、祖師たちの門下においては、獣(けもの)をとり、樵(きこり)する人もよく悟りをひらく。ましてや、その余のものにおいてをやである。ただ、ただしい師の教えをたずねるがよいのである。(315~317頁)

■問うていう。

この行は、いま末代の悪しき世においても、なお修行すれば悟りを得ることができるであろうか。

示していう。

仏教の理論をあげつらう宗派においては、いろいろの名目をたて法相(ほっそう)をかたるのであるが、なお大乗至極の教えを説く宗派においては、正法(ぼう)・像法(ぼう)・末法をわかつことはない。修すればみな仏道を悟り得るという。ましていわんや、この仏祖からじきじきに伝授される正法においては、悟るにしても、自由の境地にあそぶにしても、それはいずれも自分の財宝を味わうことにほかならない。だから、悟ったかどうかも、それを修するものが自然に知ることであって、それはちょうど水を用得るものが、その冷たい温かいを自分で知るようなものである。(318頁)

〈注解〉教家;教相門である。教相すなわち仏教の理論を研究する宗派である。(319頁)

■問うていう。

ある者がいうには――仏法においては、即心是仏(すなわち心これ心)という意味をよくよく弁(わきま)えたようなものは、口に経典を誦(しょう)せずとも、また身に仏道を行ぜずとも、なおよく仏法において欠くるところはないのである。ただ、仏法はもともと自己にあるのだと知れば、それで仏道はすべて悟り得たのである。そのほかには、さらに他にむかって求むべきものはない。ましていわんや、わざわざ坐禅修行などをいとなむの要があろうか。――と、そのようにいうものがあるが、いかがであろうか。

示していう。

そのことばは、まったく取るにたりない。もし、なんじがいまいうようであるならば、心ある人々は、たれかがその由(よし)を教えてくれるであろうから、知らないはずはないのである。

知るがよい。仏法というものは、まさしく自他という考えをすててまなぶべきものである。もしも、自己はすなわち仏なりと知ることをもって仏を悟ることだとするならば、そのむかし釈尊がわざわざ教化伝道の労をいとなまれようはずはない。では、ひとつ、いにしえの千徳のすぐれた話頭をもって、そのことを証(あか)ししてみよう。

むかし、報恩玄則(ほうおんげんそく)という僧が、まだ法眼(げん)禅師の門下にあって監院を務めておったころのこと、法眼禅師が問うていった。

「玄則監寺(かんす)よ、そなたはわしの門下にあって何年になるかなあ」

玄則はいった。

「わたしは御老師の門下にまいりまして、すでにもう三年たちました」

禅師はいった。

「そなたはわしの後輩である。なんでいつもわしに伝法のことを問わないのだ」

玄則はいった。

「わたしは、和尚にうそを申すことはできません。わたしはかって青峰(せいほう)禅師のところにありましたとき、仏法につきましてはいちおうおちつくところに到達いたしました」

禅師はいった。

「そなたは、どのようなことばによって、落ちつくところにいたることができたのであるか」

玄則はいった。わたしは、かって青峰禅師に問うたことがあります。――仏道をまなぶものにとって、自己とはいったいいかなるものでありましょうか――と。すると禅師は、――それは、ひのえやひのとの童子が来って火を求めるということじゃ。――と仰せでありました」

法眼はいった。

「うん、いいおことばじゃ。だが、おそらくは、そなたには理解できなかったのではないかなあ」

玄則はいった。

「ひのえも、ひのとも火に関しております。だから、火をもてるものが、さらに火をもとめるということは、自己をもって自己をもとめるに似ているのだなあと理解いたしました」

法眼はいった。

「それで判った。そなたは会得できなかったのである。仏教がそのようなものであるならば、とても今日まで伝わっているはずはないわい」

そこで玄則は、むっとしてその座を立った。だが、その途中で彼は思った。――禅師は天下の善知識である。また、五百人の雲水の大道師でもある。その方がわたしの非をいさめるのであるからには、きっと大事なことがあるのだろう、――と。そこで、彼は、もう一度、禅師のもとにひきかえして、心のうちをうちあけ、お詫び申しあげて、さて問うていった。

「仏道をまなぶものにとって、自己とはいったいいかなるものでありましょうか」

法眼はいった。

「それはまあ、ひのえやひのとの童子が来やってきて、火を求めるようなものじゃなあ」

 玄則は、そのことばによって、大いに仏法を悟ったという。

それでもよく判るではないか。自己則仏(自己がすなわち仏)ということを理解することをもって、それで仏法を知ったというものではないのである。もしも自己則仏ということを理解することが仏法であるとするならば、法眼禅師はかさねてさきのことばをもって導くようなことはしなかったはずである。また、あのように戒(いまし)めることもなかったはずである。この道の修行者たるものは、はじめて善知識に相(まみ)えてから、ただひたすらに修行の作法をよく問うて、まっしぐらに坐禅修行するがよいのであり、すこしばかりの知識や理解をも心にとどめてはならない。そのようにすれば、仏法のすばらしい方法は、けっして空しいものではないのである。(322~324頁)

〈注解〉則公監院;監寺(かんす)職をしていた玄則である。監寺または監院といい、六知事の一。住持に代わって一寺のすべての寺務を監督する職であり、玄則は報恩玄則であって、法眼文益の法嗣(ほっす)である。

法眼禅師;法眼文益(958寂、寿74)である。羅漢桂琛(らかんけいしん)の法嗣であり、法眼宗の祖となった。(325頁)

■問うていう。

印度や中国の古今のことを聞くと、あるいは竹の声を聞いて道を悟ったものがあり、あるいは花の色を見て心がわかったというものがある。ましていわんや、釈尊は明星を見たときに道を成じ、阿難尊者は門前の旗竿がたおれたときに法を証したという。それのみならず、六祖より以後、五家にいたるまでの間にも、一言・半句によって仏の心印を証得したというものがおおいが、彼らはかならずしも、みなかって坐禅修行したものばかりではあるまい。

示していう。

古今にわたって、色を見て心をあきらめ、声を聞いて道を悟ったというその人たちは、いずれもみな、道を修するにあたっては、あれこれと思いまどうことなく、ずばりと純一無雑にして修行にはげんだことを知るがよろしい。(326頁)

■問うていう。

西の方天竺や中国においては、人はもともと質実正直である。それも世界の中央に位する国柄のしからしむるところであろうが、それによって、仏教の教化を受けても、すらすらと会得することができる。しかるに、わがくにでは、むかしから仁の人、智の人もすくなく、仏法のよき種子もまずしい。それも野蛮未開の国柄のしからしめるところであって、恨めしいことではある。また、この国の出家たちは、大国の在家のものにも劣っている。世をあげて愚かにして、心のせまいものばかりである。けばけばしい功徳にばかり心をひかれ、人の目に見える善ばかりをこのむ。そのような連中では、たとい坐禅したからといっても、たちまち仏法も悟り得るというわけにゆきましょうか。

示していう。

いうとおりである。わが国の人には、まだ仁・智の人もすくなく、また人間が曲がっている。だから、ずばりと教法を説いても、甘露がかえって毒となることもあろう。名利には赴(おもむ)きやすく、迷いはなかなかに融けがたい。ではあるけれども、仏法を証(さと)るということは、かならずしも人々の世智にのみよるものではない。仏がなお世にましましたころにも、てまりよって四果を証したというものがあり、あるいは、たわむれに袈裟衣を身にまとうて仏道を証得したというものもある。それらはいずれも暗愚のやからであり、とんでもないしれ者であった。だが、ただ、正しい信のたすけるところによって、迷いを離れる道があったのである。また、愚かなる老いたる比丘が法を説き得ずして黙坐しているのを見て、彼のために供養の食事を設けたひとりの在家の女性が悟りをひらいたというが、それは、智にもよらない、文にもよらない、また、ことばにもよらず、語るをもまたず、ただひとえに正しい信心にたすけられたものであった。

また、仏教がこの世界にひろまったのは、おおよそ二千年あまりのことである。その国にもいろいろあって、かならずしも仁・智の国ばかりではなく、人もまたかならずしも智さとく聡明のものばかりとはかぎらない。ではあるけれども、如来の正法は、もともと不思議なおおきな功徳の力をそなえているものであって、時がいたればかならずその国土にひろまるのであり、人もまたちゃんと正しい信をもって修行すれば、利根と鈍根とをわかつことなく、ひとしくみな仏道を悟ることを得るのである。だからして、わが国は、仁・智の国でもなく、人々も知解にすぐれてはいないからとて、それで仏法を会得することはできないと思ってはならない。ましてや、人々はみな智慧の正しい種子にゆたかである。ただよくそれについて承(うけた)まわることが稀であり、したがってまた、よくそれを味わうこともまだできぬということであろう。(328~330頁)

〈注解〉事相;理に対する事であり、性に対する相である。したがって、事相の善といえば、人の目に見える善である。

てまりによりて四果を証す;『雑宝蔵経』巻八に見える説話。ひとりの年老いて耄碌した比丘が、年少の比丘からからかわれて手鞠で頭を打たれたことが機縁となって、よく四果を証することを得たという。四果とは、初期の仏教において、修行の証果を四つの段階にわかって語ることばであって、預流果、一来果、不還(げん)果、無学果の四つがそれである。

癡老の比丘黙坐せしみをみて;『雑宝蔵経』巻八に見えるひとりの信心あつい在家の女性があって、老いたる愚かなる比丘のために供養の食(じき)を設けた。しかるに、その比丘は食事が終わっても、法を説くことを得ずして、黙念として坐していた。それを見てかの在家の女性は悟りをひらくことを得たというのである。(331頁)

鶏足の遺風;鶏足山はかの摩訶迦葉が所住のところである。よって鶏足をもって迦葉を指すのである。(335頁)

渓声余韻8(岡野注;増谷文雄のあとがき)

■その道元禅師独特の仏教述語としては、なにより第一に、まず「現成」ということばがあり、ついで「修証」ということばがある。それだけは、是非ともはっきりと把握しておかなくてはならない。

その二つのうち、「修証」ということばについては、道元禅師ご自身が、かの「弁道話」のなかに美事な説明を記しておられる。いわく、

「それ修証はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道の見(けん)なり。仏法には、修証これ一等なり」

またいわく

「すでに修は証なれば、証にきはなく、証の修なれば、修にはじめなし」

それには、もはや、わたしの冗舌を加える余地もない。(339頁)

■それに反して、「現成」ということばについては、これまで、かならずしも明晰な注釈に出会うことができなかった。しかるに、幸いにして、わたしは、はからずも、「大蔵経」のなかで「現成等覚」という訳例にめぐり遇うことができ、また、この『正法眼蔵』のなかでも、道元禅師ご自身が「現成正覚(がく)」ということばを用いることを知ることができた。とすれば、それは「阿毘三仏陀」(abhisambuddha)の訳語であることも、容易に見当がつく。さらにはまた、その「阿毘」(abhi)を意訳したであろう「現成」とは、直観の成立、つまり悟りの実現を表現しているのだということも知ることができた。そのことについては、この『現代語訳 正法眼蔵』の第一巻、「現成公案」の巻の開題にもいささか記しておいたから、お読みくださるならば幸いである。(339~340頁)

(岡野注;この解釈に、私は疑問に感じる。私の「現成」ということばの解釈は、ランダムドットステレオグラムのように、三界は、隠れなく、現に、ありありと現れ成っている、と考えます)

■では、ひとつ例をあげてみると、かの「現成公案」の後半につぎのような一節がある。そこには、まず「うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし」ではじまる一節があって、その後段はつぎのように記されている。

「このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるがゆゑに、かくのごとくあるなり」

そこには、べつに難しい中古文もないし、難解な中国文もない。あるいは特別な仏教述語もありはしない。それなのに、いったい何をいおうとしているのか、その意を捕捉することは容易でない。

だが、その前後には、また行李(あんり)とか、現成公案とか、あるいは仏道を修証するといった文言が見えており、また、ひろくこの『正法眼蔵』を読んでいると、この「大にあらず小にあらず」とか、「来にあらず去にあらず」などという語句は、いうなれば道元禅師の慣用句のようにして、いろいろの巻にでてくるのである。それによって、やっとわたしも気がつくことができたのであるが、それらの語句によって道元禅師が語ろうとしているのは、つまるところ、悟りの世界なのであった。仏教の究極地、諸仏諸祖の世界について語っているのであった。しかるに、そのような世界について語ることばを理解することは、いうまでもないことであるが、もはや言語や文字の問題を超えたものなのである。詮ずるところ、この『正法眼蔵』の難しさなのだと知られたのである。(340~341頁)

(岡野注;この解釈にも、私は疑問に感じる。ランダムドットステレオグラムは、見るのは難しいが、一度見えてしまえば、三界は、隠れなく、現に、ありありとそうなっているので、難解なものではない、と考えます)

(2016年11月18日)

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-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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