■「去リシ日ノ薔薇ハ名バカリニテ、虚シキ名ノミ残レリ」
ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』は、この老修道士アドソの諦念に満ちた言葉で終わっている。彼のモデルが十世紀に『アンチキリストの出現と時代』を記した終末論者アドソ・モンティエル=アン=デルであるとするなら、感傷的なエンディングにもうなざける。若い修練師として遭遇したミステリアスな事件から数年を経て、今は廃墟になったかっての修道院を訪れたアドソは、図書館跡に焼け残ったいくつかの写本の断片を見つける。しかしそれはいかにうまく再構成されてもただの「記号のつぎはぎ細工」以上のものではない。図書館も修道院も、そして敬愛した師も、彼が戒めを破って愛した「少女」も、彼女の村ももはや存在しない。それらはすべて虚シキ名となって残ったにすぎない。「薔薇」とは彼が名も知らず愛した少女に与えた記号でであった。しかし《nomina nuda tenemus》と語るアヂソは薔薇の名前が虚しくなったと嘆いているだけなのであろうか。筆者にはそれが別の意味のように思えてならない。
彼の師パスカヴィルのウィリアムのモデルは中世の論理学者オッカムのウィリアムだとされる。事実、作中には普遍論争を思わせる機知に富んだ師弟の会話が随所に挿入されている。ウィリアムは徹底した論理学者である。「私は記号の真実を疑
ったことはない。アドソよ、記号とは人間がこの世と折り合いをつけるために手にしている唯一のものだからだ。私が理解できなかったのは記号と記号の間の相互関係だ」(第七日夜)。彼は記号(殺人現場)をたどることで、真犯人に行く着くことができると信じて行動するが、同時に記号の分析がそのまま事件の解明につながるとは考えていない。なぜなら記号とは複合的に結びつけば、まったく予測不可能な意味をつくりはじめるからだ。記号間の規則性を解明できると考えることは、ウィリアムにはこの上ない思い上がりのように思えた。なぜならそうすることは、人知のおよばない神の全能に制限を加え、神を人間の虜囚にしてしまうからである。たとえば書物に書かれた一角獣はそのままで一角獣の実在を保証するものではない。それでは実在しない一角獣を記した写本は嘘をいっているのかというアドソの問いに師は次のように答える。「われわれは神の全能に制限を加えてはならない。神が望めば、一角獣だって存在するかもしれないではないか。がっかりするな。それはともかくも書物の中には存在するのだから。たとえ現実ではなくとも、可能な存在としてわれわれには知らされているのだから」(第四日終課後)。
『冬の薔薇』香田芳樹 創文No.495(2007.03)2007年4月11日