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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『回想のセザンヌ』エミル・ベルナール著 有島生馬訳 岩波文庫

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『回想のセザンヌ』エミル・ベルナール著 有島生馬訳 岩波文庫

■翁は近東風な敷物の上に3つ骸骨を並べた畫を描きかけていられた。これはもう一月も前から毎朝従事していた仕事で、朝の6時から郊外の畫室に通い、10時半頃いったんエクスに帰って午食し、直ぐ又モティフへ風景写生に出かけ、5時に帰って来るというのが生涯の日課で、四季何時も変わる事はなかった。帰って来て夕食を済ますや否や床へ滑り込んで終う。そういう風だったから度々酷く疲労し、話す事も聞く事も出来なくなって、夜具の中で不快な昏睡状態に陥っていられるのを見かけたが、翌朝はいつも亦元気を恢復されていた。

 3つの骸骨を指して、「まだ足りないのは實現(レアリザシヨン)だ。私はそれを補うまで漕ぎつけ得ると信じているが、御覧の通りの老体である、崇高な其の点まで達し得ないで、死んで終うかも知れない。ああ、ヴェニス人等が成就したような實現!」話題はそれからも度々聞かされた次のような意見に移って行った。「私はブゥグロォのサロンへ合格したいのだが、この實現という事が十分でないため、妨げられているのを承知している。視覚の問題などはいうに足らぬ。」固より世にときめく大家連の批評には何等の信頼も措かなかったろうが、その所信は常に正當な判断で、獨創が邪魔になり自作の不完全を認め得ないような事はなかった。(22~23頁)

■實にⅠケ月の滞在中というもの、絶えず翁は『骸骨』ばかりに執着して描くのを見た。恰も遺言状でも作る勢いで。この繪は朝夕色も形も見違えるほど必ず變ったが、いつも自分にはもう十分に出来上って居て、そのまま畫架から取外して差支えないように思われた。翁の制作の態度は恰も畫筆を手に握ったまま瞑想しつつあるようなものだった。

 その他には新しく備えられた大畫架に、浴女裸身が大畫布が、まだ顚倒の有様のままで載っていた。デッサンが可成り狂って見えた。なぜモデルを使わないのですと訊いたら、翁が答えて50を超えれば餘り厳格に人がそれを咎めはしないにしても此の年で女を裸體にするというのは愼まねばならぬ。然しエクス一圓にモデル女を見出すことの困難も知って居られた。カルトンを探し出し、青年時代アカデミィ・シェイスで勉強された頃のデッサンを示された。「いつもこのデッサンで間に合わせているのだ、勿論十分ではない。然し私の年齢では仕方がない。」この極端な捉われ方と遠慮とは、一つは婦人に對する護身のため、一つは宗教上の廉恥心と田舎の小さな町では何等かの噂なしに濟まされないと云う正直な心掛けからとであるらしかった。――(中略)――それともう一つ翁の氣に入っていた譯は、例の有名な實現(レアリザシヨン)の件である。翁は一月の間Ⅰ日でも實現を口にされない日はなかった。(24~25頁)

■一體翁は世間の評判を大層嫌われた。一度ブリュクセルから20餘枚翁の作品を載せたカタリグを受取った事があったので、それをお見せした時もてんで見向きもしないで、勤めて話を外にそらして終われた。翁の研究法には何時までも停止ということはなかった。若し尚お永生されたとすれば、それ迄の仕事は結局その初階たるに過ぎなくなったであろう。「私は毎日進歩しつつある、私の本領はこれだけだ。」翁は公言された。

 屢々よくなっただろうと云って見せられた作品にも、實際は以前と較べて劣るように思われるものがあった。然し翁は胸裡に確たる理想を抱いて居られたのだから、その斷言には決して遲疑のあろう筈がなかった。かかる確信はあったが、ただ作品の仕上げにまで至らぬと云うのが翁の缺點だったらしい。翁の製作は波はずれて遲緩だったため、多數の未成品が出来た。ブゥルゴン町の畫室續きの物置には此の種の風景畫などが澤山投げこんであった。スケッチ風と云うでもなく、習作と云うのでもなく、ただ色階をやっと始め出した許りで休めてあった。それ等は畫面全

體が未だ塗り潰されてもいない位で、モティフの何たるかがやっと分る程度だった。世間の人々が此の種の「やりかけ」で直ちにセザンヌを判斷しようとするのも大きな誤りの一つである。(30~31頁)

■或る時「調子の變移(パッサージ・ドウ・トン)とは元々ルフレに始まるもので、すべての物象はそれに隣接する境の蔭を基點としている。」〔注:Pour moi, le passage du ton a son origine dans le reflet; tout objet parsicipe sur ses bords ombreux de son voisin. こうである。いま影、日向、色彩等悉く物體が生ずる光線の効果をルフレと考えてみるなら、ふつう譯す反映或いは反射よりも内容が明らかになるかもしれない。〕という卑見を陳べたらば、その定義を尤とされた。「君の見解は正しい、だからまだ進歩する。」と評された。自分はすこしずつでも翁を理解し得たと思い滿足を感じた。印象派の畫家に關して「ピサロは自然に肉薄した。ルノワァルは巴里の女性を創った。モネェは一種のヴィジオンを與えてくれた、外には取立てて云うほどの者はいない。」特にゴォガンに就いてはその感化の恐るべきを酷く嫌われた。「ゴォガンは大變貴方の繪を愛し、又努めて倣おうとしていました。――と云うと、――そうかね、ではてんで私を理解していなかったのだ。――と聲を勵まして、――私は決して圓味(モドウレエ)や、調階(グラデエシヨン)が全然無視されている作品を押賣利されようと思わない。彼は無視覺な男の一人だ。てに油繪の筆を持っていた畫家ではない、ただ支那式の形像(イマーデュ)を描いたと云うに過ぎない。」かくて形體(フオルム)にし、色彩に關し、藝術に關し、藝術家にし、翁の理想とする所を説明された。(31~32頁)

■エクス 1904年5月26日

  わが親愛なるベルナール

 君が「西洋(ロクシダン)」の來月號に發表されんとする観想はかなり私を感心させた。

 然し私はいつもこの一點へ歸る。畫家は先ず自然のけんきゅうに沒頭し、自己の修養であるべき繪畫の制作に努力せねばならぬことだ。

 藝術上の論議は殆ど無益に等しい。自分の仕事で一歩一歩進境を獲得しつつ進むそれだけで十分だ。俗物共の無理解に對する賠償であるとみていい。文學者等が抽象の言語を弄する間に、畫家は色彩と素描とによって、その感覺、その認識を築き上げて行く。

 餘り心配性でもいけない。餘り凝り過ぎてもならぬ。餘り自然に捉えられ過ぎるな。兎角はそのモデル、殊にその表現法に自主たらねばならぬ。眼前のものに悟入し、出來るだけ理論的な自己表現に執着せよ。

 善き握手を!(60頁)

2009年2月5日

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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