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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『道元禅師語録』 鏡島元隆著 講談社学術文庫

投稿日:2020-12-04 更新日:

『道元禅師語録』 鏡島元隆著 講談社学術文庫

■上堂して言われた。もし人があって、一句を言い得て全世界の無限の量をなくして一真実に帰せしめても、それはなお春の夜の夢の中で吉凶を説くようなもので、何の役にも立たない。また、もし人があって、一句を言い得て一微塵を破ってその中から無限の真理を説く経をとり出しても、それはなお紅白粉(べにおしろい)で美人を塗りたくるようなもので、余計なことである。そんなことよりも、その場でただちに夢でない真実の悟りの世界を照見しおわれば、全世界といっても大きくはなく、一微塵といっても小さくないことがわかる。さて、そのように上に述べた両句がともに真実でないとき、真実の一句は何と言ったものであろう。それは、井戸の中のひき蛙が天の月を呑み尽くし、天辺の月が雲の上で自由に眠る〔井底(せいてい)の蝦蟇(虫ヘンに麻)は月を呑却(どんきゃく)し、天辺の玉兎(ぎょくと)は自(おのずか)ら雲に眠る〕と言ったらよい。(41頁)

■上堂。僧問う、「如何ならんかこれ古仏心」。答えて云(いわ)く、「鶯啼く、処処同じ」。問う、「如何ならんかこれ本来の人」。答えて云(いわ)く、「脳肢の眼(まなこ)を蓋(おお)う漢(おとこ)」。師乃(すなわ)ち云く、問(もん)有り答(とう)有るは、屎尿狼藉(しにょうろうぜき)たり。問無く答無きは、雷霆霹靂(らいていびゃくれき)す。十方大地平沈し、一切虚空迸裂(へいれつ)す。外より入(い)るを放(ゆる)さず、一槌痛く下さば、万事了畢(りょうひつ)す。依前(いぜん)として鼻孔(びくう)、大頭(だいず)垂(た)る、一対の眼晴(がんぜい)、烏(う)律律。(45頁)

■上堂して言われた。いま修行僧諸君のなかに悟りを得たものがあるかな。すると、一僧が出て礼拝した。師が云われるには、おることはおるが、ただ不十分だ、僧が聞くには、何が足りないのです。師が云うには、言うではないか、といって古人の言葉を引いていわれた。悟りを得た人を知りたいと思うか。その人は、心に人を欺(あざむ)くものがないから、顔に恥ずる色がない。(48頁)

■僧海は数少ない、道元の付法(ふほう)の弟子である(『三祖行業記』)。道元は、彼の英才を愛し、嘱望していたが、不幸、二十七歳の若さで夭逝(ようせい)した。『永平広録』では、道元は彼の死を悼(いた)んで、二回も上堂している。本録上堂の後半の二句は、本録では「底に撤して汝に方(はじ)めて見(まみ)えん、還って忌(い)む見刺(けんし)なきことを」であるが、門鶴本『広録』では「底に撤して汝に見(まみ)ゆといえども、、胸に満てる涙、湖を鏁(とぎ)す」となっている。「胸に満てる涙、湖を鏁(とぎ)す」という言葉に、道元の悲嘆がいかに深かったかがわかる。同じように、最晩年の建長4年(1252)7月17日天童忌には、道元は先師を追憶して「恩を恋うる年月、雲何ぞ綻(ほころ)びん、涙袖衣(しゅうい)を染め、紅にて斑(まだら)ならず」(『永平広録』巻7)と報恩上堂している。如淨が示寂して25年後のことである。道元を評して、「非情なモラリスト」という人(戸頃重基氏)もあるが、弟子を思い、先師を憶う道元は、むしろ多感多情な涙の人というべきであろう。(52~53頁)

■上堂して云われた。人びとすべては、夜光の珠にも比すべき明珠(めいじゅ、仏性)を本来抱いているのであり、それぞれは荊山(けいざん)の玉にもたとえるべき宝珠(仏性)を本来蔵しているのである。それなのにどうして、回光返照(えこうへんしょう)してこれを覚(さと)らないで、せっかくの宝を抱きながら、迷うて他国にレイヘイしているのであるか。古人も言っているではないか。(仏性が)耳に応ずるときは、空谷(くうこく)が大きくこだまし、小さく叫べば小さくこだまするように、声に応じて現われないものはなく、(仏性が)眼に応ずるときは、千の太陽が照らせばどんなものでも隠れる余地のないように、眼に応じて現われないものはない。このように(仏性は)歴然として眼の前の対象に明らかに現われるものであるのにこれをはずして、そのほかに仏性を求めるならば、達磨西来(せいらい)の教えを大いにゆがめるものである。(59頁)

■仏性はあらゆるはたらき、あらゆるもののうちにあって、それをしてあらしめるものである。従って、それはこのわたしのうちにも、諸君のうちにもあって、わたしと諸君の間に寸毫の隔てもない。(71頁)

■明庵千光禅師権(ごん)僧正法印大和尚ー日本臨済宗の開祖栄西禅師のこと。明庵はその字(あざな)、千光禅師(法師)は入宋(にっそう)中に得た賜号(しごう)、権僧正は帰朝後宣下を受けた僧階。栄西の示寂は建保(けんぽう)3年(1215)7月5日。

師翁ー師の師。法の祖父のこと。栄西は道元の師事した明全(1184-1225)の師であるからいう。

虚庵(きあん)ー虚庵(きあん)懐敝(えしょう)(不詳)。臨済宗黄竜派の雪庵(せったん

)従謹(じゅうきん)の法嗣。栄西の入宋時は、虚庵(きあん)は天台山万年寺に住し、後に明州天童山の住持となる。(74頁)

■上堂。海に入りて沙(いさご)を算(かず)う、空(むな)しく自(みずか)ら力を費す。塼(かわら)を磨いて鏡と作(な)す、枉(いたずら)に工夫を用(もち)う。君見ずや高高たる山上の雲、自(おのずか)ら巻き自(おのずか)ら舒(の)ぶ。滔滔たる澗下(かんか)の水、曲に随(したが)い曲に随(したが)う。衆生の日用は雲水のごとし。雲水は自由なれども人は爾(しか)らず。もし爾(しか)ることを得(え)ば、三界(さんがい)の輪廻(りんね)、何(いずれ)の処(ところ)よりか起(おこ)らん。(74~75頁)

■八月一日上堂。公案をとりあげて言われた。趙州(じょうしゅう)和尚にある僧が質問した、「道を会得した人がお目にかかりに来たときは、どうなされますか」。趙州は云った、「漆塗りの道具を呈上しよう」。これについて、師が言うには、趙州古仏は、群をとび抜けたはたらきはあるけれども、平常語で話すはたらきがない。もし誰かがわたしに、道を会得した人がお目にかかりに来たときは、どうなされますか、と訊ねるものがあれば、ただそのものに言おう。八月(陰暦)の秋ともなれば、どこにも熱さはなくなる。平生(へいぜい)そのままでお目にかかるだけだ。(82頁)

■上堂。公案をとりあげて言われた。ある僧が趙州(じょうしゅう)に質問していうには、「狗(いぬ)に仏性があるでしょうか」。趙州がいうには、「ない」。僧がいうには、「一切衆生はみな仏性があるというのに、どうして狗(いぬ)にないのでしょう」。趙州がいうには、「それは、狗にものを分け隔てる分別の働きがあるからじゃ」。これについて、師は言われた。趙州のこのような学人指導は、まことに親切である。が、山僧(わたし)はちがう。もし山僧に狗(いぬ)に仏性があるかないか問うものがあれば、彼にいうであろう。あるというも、ないというも、いずれもまちがいであると。さらに、それはどういうことかと問うものがあれば、声もろとも棒で打とう。(87頁)

■懐義尼(えぎに)が亡くなったお母さんの供養のために上堂を請うた。そこで師が云われるには、生はどこから生まれてきたか、その由(よ)って来(きた)るところはない、ちょうど、寒くなれば上衣を着るように、時節因縁によって生まれてきただけだ。死はどこへ去るか、去って留(とど)まるところはない、あたかも、暑くなれば、ももひきをぬぐように、時節因縁によって死ぬだけだ。すべてのものは、本来空で一(いつ)に帰するが、その一も帰するところはない。結局、生は徹底生、死は徹底死であって、生と死がかわることはない、罪も福もみな空であってとどまるところはないのである。(89~90頁)

■上堂して云われた。仏法は、すべてのものとピタッと一つであって、その間に裂目はなく、すべてのものに明白な事実であって、蔽(おお)い隠されているものはない。それゆえに、この仏法を釈尊が摩訶迦葉(まかかしょう)に伝えたというも嘘であり、達磨がどうして慧可にこれを授けよう。いたるところに仏法を示す言葉が現われており、人びとすべてに般若の知見が具(そな)わっているのである。だからして、虚空が仏法を説くと、あらゆるものはこれを聞くのであって、人間の口を借りずによく仏法を挙揚(こよう)しているのである。それゆえに、諸君は一日中、眼に見るところ耳に聞くところすべて仏法の中にあり、古を超え今を超えていついかなる時も仏法の中にあり、自分といわず他といわず誰もが仏法の中にあり、迷っていようが悟っていようがすべて仏法の中にある。このことがわかるか。しばらくして言われた。趙州(じょうしゅう)が師の南泉にお目にかかったかと聞かれて鎮州(ちんしゅう)では大根ができると答えたのと、青原(せいげん)が仏とは何かと聞かれて廬陵(ろりょう)の米はいくらかと答えたのと、どっちがすぐれていよう。いずれも同じ趣旨である。(91~92頁)

■中秋上堂。雲開いて胡餅(こびょう、胡麻入りの餅)天辺(てんぺん)に掛く、喚(よ)んで中秋の夜月(やげつ)円かなりと作(な)す、睡(ねむ)り覚(さ)め起き来(きた)って覔(もと)むるに処(ところ)なし、頭(こうべ)を擡(もた)げて忽地(たちまち)に晴天を見る。(98頁)

■上堂して言われた。無心ということが仏であるとは、インドから起こったことであり、心がそのまま仏であるとは、中国から言われている言葉である。しかし、これを言葉どおり受けとるならば、仏法とは天地の隔りがあるが、この言葉どおり会得できなければただの凡夫である。結局、どうかというに、春三カ月を経て菩提樹の果が熟するのであり、一夜、その花が開くと世界中が芳(かんば)しい香りの世界になるのである。(109~110頁)

■教(『金剛経』)の中に、「一切の賢聖(けんしょう)は、みな無為法を体(たい)として、差別(しゃべつ)の用(ゆう)あり」と述べられている。さて、諸君は何を呼んで差別とし、何を呼んで無為法とするか。わたしは、諸君に言おう、差別されてある当のものが、無為法である、と。このように会得すれば、一人の修行のできた衲僧(のうそう)と云えよう。もし会得できないというならば、僧堂の内に粥もあれば飯もsる、さらに工夫するがよい。

〔付記〕変化・差別(しゃべつ)する相対的事象の外に、常住・平等な絶対の真理はない。(115~116頁)

■上堂。公案をとりあげて言われた。ある僧が巌頭(がんとう)和尚に質問した。「古い帆をまだ掛けないとき、つまり、ものの成立以前の世界とは、どのような世界でしょうか」。巌頭が答えて言った。「小魚が大魚を呑むことである。大小の対立を超えることだ」。師が言われるには、この公案の趣意を会得したいと思うならば、永平(わたし)の一頌を聞くがよい。巌頭のいう小魚、大魚を呑むとは、和尚が儒書を読むことだ。仏教とか儒教の対立を超えることだ。さらに、仏教とか外道の対立を超えて、仏教に対する執われもなくしてしまうことだ。

〔付記〕巌頭と僧の問答をとりあげて、仏法の真理は、仏教とか外道の対立を超えたものであり、仏法にさえ執われてはならないものであることを示す。(146頁)

■上堂。時節因縁は仏性なり。刹那、前後円成す、但(た)だ自ら長時(ちょうじ)に退歩すれば、乳中の酪(らく)、分明なり。(147頁)

■夏安居(げあんご)開始の前の晩の説法。公案をとりあげて言われた。慈航(じこう)和尚が四明山(しめいざん)の天童山に徃持した折の結夏小参に次のように言われた。「参禅する人は、まず第一番に鼻がまっすぐで、姿勢が正しくなければならぬ。次にものを見る眼がはっきりとして、知見が正しくなければならぬ。その次には、宗旨と説法といずれにも通暁していなければならぬ。かようであって、のちに人を導くはたらきがひとしく備わり、はじめて仏界にも魔界にも自由に出入し、自分をも多人をも平等に扱えるようになる。どうしてかというと、鼻がまっすぐで、姿勢が正しければ一切がみな正しいからである。ちょうど、人が家におる場合、その家の主人公が正しければ、それに仕えるものが自然と治まるようなものだ。では、どうしたら、鼻がまっすぐに、姿勢がただしくなるか。それについては、古聖(黄檗禅師)は『断じて心を第二念(分別心)に流れないようにせよ。ここにおいてはじめて仏法に入るであろう』と言われた。この古人の言葉は、一切の対立以前の世界に仏法があることを、諸君のために表示したものではないか」。これについて、師は言われた。古人は、「断じて心を第二念(分別心)に流れないようにせよ」と言われたが、諸君に敢えて聞くが、ではどれを指して第一念(無分別心)というのであるか。永平(わたし)は今夜喋るのを惜しまず諸君に言おう。90日の安居(あんご)は明日から始まる。規格外のことを行なってはならぬ。坐蒲の上に坐ってそのほかのことを一切顧みなければ、毎日毎日が一日じゅう、寂(しず)かで天下泰平な安らかな日暮らしができるのである。(149~150頁)

■冬至の晩の説法。長いあいだの苦節を経て一陽来復の佳節を迎えた。あらゆるものはその本に帰って、はじめてその真の姿を現わすのである。だからして、宏智(わんし)禅師も言っている。「全世界はほかでもない君自身の一つの眼であり、全世界はほかでもない君自身の光明であり、全世界は一つの悟りの世界である。どんなところであれ君が仏に成れないところはなく、どんなところであれ君が説法し人を救うところでないところはない。だからして、古人も言っているではないか。『釈迦が護明(ごみょう)菩薩として兜率天(とそつてん)より降下する前に、一輪の名月が十方を照らして、一切の衆生は救われている』と」。(154頁)

■12月30日、大晦日の晩の小参に云われた。小参というのは、仏祖の家訓である。わが国では、いままでに行なわれたことのないもので、永平(わたし)が始めてこれを伝えて以来、すでに20年経っている。達磨祖師がインドから中国へ来って仏法を中国へ伝えてよりこのかた、前代の祖師は小参を家訓といってきたのである。家訓というのは、仏祖の行ないでなければ行なわず、仏祖の法服(ほうぶく)でなければ身に著(つ)けないことである。さらに言えば、名利を抛(な)げ捨て、己我を捨て去り、山谷に隠れ住んで、叢林を離れずに、さしわたし一尺もある玉(たま)も貴(たっと)ばず寸陰も惜しんで、万事も顧みず純一に修行することで、これが仏祖の家訓であり、人間界・天上界の指標となるものである。

しかしながら、立派な善知識となることは三阿僧祇劫(さんあそぎごう)という無限の長時の修行によるのでなければ不可能のことである。大衆諸君よ、この無限の長時の修行とは何か、これをみたいと思うか、といって(師は)指をポンと一度弾(はじ)いて云われた。無限の長時の修行といってもこの一弾指(いちだんじ)にある。この一弾指はもとからあるものということができようか、いまここで修行されたものということができようか。そんなことはないのだ。ここのところがわかれば、時移り年変わって、12月が終って正月がくることがわかる。これがわかれば、十方の世界はみな断ちきられてわがものとなり、過去・現在・未来の三世の世界とも知らないうちに一つになる。12月が終って正月がくるといっても、実は旧(ふる)い年が去るのでもなく、新しい年がくるのでもなく、くる年は去る年の連続ではなく、新年は新年として、旧年は旧年としてそれぞれ絶対である。それゆえに、この道理を古人は次のように示している。ある僧が石門和尚に、「一年の最終日にはどうしたらよいでしょう」と尋ねたところ、石門は「東村の王老人が夜、紙銭(しせん)を焼くことだ」(大晦日には大晦日の行事を行なう)と答えた。同じ僧が、開先(かいせん)和尚に「一年の最終日にはどうしたらよいでしょう」と尋ねたところ、開先は「いままで通り春を迎えてもあいかわらず寒い」(正月を迎えても何も変わったことはない)と答えた。今夜、もし諸君のうちに誰かが永平(わたし)に、一年の最終日にはどうしたらよいでしょう、と問うものがあれば、わたしはそのものに答えよう。前方の村々は深い雪の中にあるが、昨夜の梅の花が一枝咲いたぞ、と。寒い時候に長いあいだ立ってご苦労。(157~158頁)

■禅人に示す 近来仏道修行するものは、本ものと贋(まが)いものを弁別せず、豆と麦とを区別せずに、仏法をきわめようとしているが、それでは仏法をきわめることが、まことに困難なわけである。どうしてかというに、古者(法昌倚遇(ほうしょういぐう))は次のように言っている。「大地に雪いっぱい積もれば、春になっても依然として寒い。そのように悟りを得ても、雪が降れば寒いのは、悟らぬ前と同じである。だから、つまるところ、悟ることは易しいが、悟りの境涯を説くことはむずかしい」と。こういう誤りは、仏祖といえどもなお免(まぬか)れないところである。どうして免かれないかというと、悟ることは易しいが、悟りの境涯を説くことはむずかしいとか、悟りの境涯を説くことは易しいが、悟ることはむずかしいとか、そんなことをいう手合いの仏法の難易は、情識の上の難易を脱(まぬが)れないのだ。よくきくことではないか。ある僧が雲門に質問した。「樹が枯れ、葉が落ち尽くすとは、どういうことでしょう」。雲門は答えた。「秋風がその本性を現わすことだ」。この雲門の言葉を、仏照禅師はとりあげていうには、「さすがの雲門和尚も備えつけの品で、仏法を示す人情に堕した」と。しかし、この仏照禅師の拈提(ねんてい)は、病のないのに薬を施す余計な口だしである。

釈尊がこの世に出られた理由は、すぐれた医者となることであった。釈尊は、衆生が深く苦海に沈んでいるのを憐んで慈悲の念を起こし、種々の方便をもって一大蔵経を説法されたが、これはみな衆生の病いに応じて薬を与えたものであり、一切衆生に大安楽をもたらすために処方箋を書いて与えたものである。ところが、達磨が西来(せいらい)するにおよんで、その子孫はみな劇薬を用いるようになり、病人を一旦気絶させ、後に甦らせる手段を用いるようになった。なるほど、これは不老不死の妙薬のように、効き目は多いにちがいないが、正しい眼からみれば、立派な肉体にわざわざ傷をつけるようなものである。もし本当の手段から言えば、そうではない。処方箋も書かないし、脈もみないで、目でみただけ一目でわかり、臨機応変の処置をとるのである。よしんば相手が仏病祖病のような病いであっても、軽々しくひとにぎりで済ますようなことはしないで、そのもののすべての骨を換え腸を洗って、仏祖に対する執(とら)われを洗い流して、身も心も浄らかに爽やかにさせずにはおかないのである。従って、これ一つですべての病いを癒すのであり、あれこれの処方箋を必要としないのである。ただ、釈迦老漢自身の病いは、諸人の病いとは異なり、全身が病いで、病いのもとはどこから起こったかわからないから、衆生の病いが癒らないかぎり癒しようがないのである。不灯都正(ふとうとしょう、人名)はこのように種々の病いに処する作略をよくご存じであるから、よく眼をつけて看ていただきたい。もしこのへんのことをよく見究められれば、古の名医である扁鵲廬医(へんじゃくろい、春秋戦国の名医)も、すべて下(しも)座について仰ぎみるであろう。(163~164頁)

■諸仏のの大道は深く勝(すぐ)れて思議を超えたものであるから、仏道修行者はどうしてたやすく考えてよかろう。よくみるがよい、古人はいのちを捨て、国や妻子を捨て、これらをみること瓦や石ころ同然であったのである。そうして後、長い長いあいだ、独りで山林に住み、身心を枯木のようにして、始めて仏道と一つになったのである。このように仏道と一つになったからこそ、山川を借りて仏法を示す言葉とし、風雨をとりあげて仏法を語る言葉とし、虚空を説き破ってこの上もなくすぐれた仏法を示すことができたのである。このようであれば、どんなものでも仏法を示すに用いられないものはなく、どんなことでもいけないことはない。仏法に志すものは、このような古人のお手本に従わなければならない。

昔、ある僧が方眼(ほうげん)禅師に尋ねた。「古物とはどういうものでしょう」。法眼は言った。「いまここにあるお前、それが古物であることに何の疑いもないぞ」。僧がまた尋ねた。「ならば、一日じゅうどのように行なったらよいでしょう」。法眼はいった。「一歩一歩、踏みしめよ」と。法眼はまた言っている。「出家人たるものは、そのときどきの時節に従うがよろしい。寒いときには寒がり、暑いときには暑がるのだ。仏の言われるように、『仏性ということを知りたいならば、時節因縁を観よ』とあるとおりだ。ただ、時節を守り、時節に従うだけだ」と。子細にこの言葉の意味を参究するがよい。時節に従い、時節を守るとはどういうことかというに、それは、ものの上において、ものでないとみてはならない。かといって、ものであるとみてもならない。また、ものであってものでないとみてもならない。このようであれば、自分が古仏であることに何の疑いもなくなり、他の古仏と同じく住し、同じく行ずることは、2つの鏡が互いに照らし合うようなものである。(167~168頁)

■よくよく考えてみるに、仏道は元来すべての人にまどかに行きわたっているものであるから、どうしてあらためて修行や証(さとり)を必要としよう。仏法は誰でも自由に使いこなしているいるものであるから、どうしてさらにそれを得ようと工夫することがあろう。ましてや仏道の全体は、迷いや汚れをはるかに超えたものである。どうしてこれを払いのける手段を要しよう。すでに仏法の究極は、いまここに現われているのである。どうしてこれをめざして修行を進めることがあろう。

だが、ほんのわずかでも、そこをとりちがえると、仏道とは天地の隔たりを生むのであり、いささかでも誤まりが起こると、それからそれへと迷いが出てきて本来の心を失ってしまう。のである。だからして、たとい仏教の教えを会得して、その理解に大いに誇るべきものがあっても、わずかに悟りの境涯を垣間みる智慧を得ただけのことであり、仏道を究め心地を明らめたといっても、天をも衝(つ)く気概を揚げるだけのことである。それらは、仏道の入り口あたりをぶらつく境地を得たにしても、それはなお悟りの境地に執(とら)われて、それから脱(ぬ)け出る生きたはたらきをどれほど失ったものであることか。ましてやかの祇園精舎で説法された釈尊は、生まれながらにして悟りを得られた方であったが、なお端坐6年の修行をされたのであって、その跡かたは今日ねお見ることができる。また、達磨大師は嵩山(すうざん)の少林寺にあって、二祖慧可に仏法を伝えられたが、面壁9年、修行された名声は今日ねお言い伝えられている。釈尊・達磨のような古(いにしえ)の聖人であっても、すでにこのように修行されたのである。今の時代のわれわれがどうして修行しないでよかろう。だからして、言葉の跡を尋ねまわる探索はやめて、一歩自分に振り返って、自分を凝視(みつ)める内省をしなければならない。このような自己内省をしてゆくとき、体や心に対する執(とら)われがおのずから脱(ぬ)け落ちて、本来の面目が現われるのである。このような本来の面目を得たいと思うならば、何をおいてもそれを現前せしめる坐禅に努めなければならない。(171~172頁)

■仏道の坐禅は禅定(ぜんじょう)修行ではない。禅定修行は苦行であるが、仏道の坐禅は安楽の教えであり、禅定修行は悟りへ向っての道であるが、仏道の坐禅は悟りを究め尽くした修証である。この坐禅の上に現われる絶対の境地は、いままで自分を縛っていたあらゆる分別の網の届かない世界である。それゆえに、もしこの境地を得れば、竜が水を得るように、虎が山によるように、人は人の本来のあり方に落ちつくのであって、そこに正しい仏法がおのずから現われて、心が暗く沈んでいく動きや、明るく浮き上がる動きは、自然と消え失せてしまうのである。(177頁)

■ 大道は従来一実に通ず、蓬瀛(ほうえい)何ぞ必ずしも壺中にあらん、逍遥たる世外(せがい)誰(た)れ人(びと)か識(し)らん、赤肉団辺(しゃくにくだんぺん)に古風を振う。〔偈頌(げじゅ)、文本(ぶんぽん)官長の韻に和す〕

〔訳文〕仏祖の大道は本来、一本の真実に貫かれている。その究極の世界はどうして世間を超えた別世界にあろう。はるか彼方の世間を超えたところなど、誰も知りはしないのだ。素裸(すはだか)のこの肉身、これぞ仏祖の古風を振うところ。(196頁)

■ 西来(せいらい)の祖道我れ東(ひんがし)に伝う、月を釣り雲を耕して古風を慕う、世俗の紅塵(こうじん)飛んで到らず、深山雪夜(しんざんせつや)草庵の中(うち)。〔偈頌(げじゅ)、山居(さんご)六首(1)〕(201頁)

■ 三秋(さんしゅう)の気粛(しずか)なり清涼の候(こう)、繊月(せんげつ)叢中(そうちゅう)万感(ばんかん)の中(うち)、夜(よ)静かに更(こう)闌(た)けて北斗を看(み)れば、暁天将(まさ)に到らんとして東(ひんがし)を指す。〔偈頌(げじゅ)、山居(さんご)六首(4)〕

〔訳文〕秋三ヶ月の空気が澄んで清涼の季節。空には三日月、草むらには虫が鳴いてさまざまの思いが胸に迫る。その中を夜が静かにふけ、時が経ち、ふと北斗七星を見ると、まさに明けようととする夜空に星は東を指して落ちてゆく。(203~204頁)

(2014年8月30日)

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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