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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『道元ーその行動と思想ー』 今枝愛真著 評論社

投稿日:2020-12-04 更新日:

『道元ーその行動と思想ー今枝愛真著 評論社

■学問がすすむにつれて、鋭敏な道元は、天台の伝統的な教学に、反撥と疑問をいだくようになった。そして、いつしか道元の心には大きな疑問が立ちはだかった。出家してから、道元が出逢った最大の難問である。と同時に、それは道元の将来を決定する重要なわかれみちでもあった。

本来本法性(ほっしょう)、天然自性(しょう)身。

これまで、天台宗などの諸宗は、一切の衆生はもともと仏性をもっているという本覚思想、すなわち、人はもともと仏であると教えている。しかし、もしそうだとすれば、過去・現在・未来の三世の諸仏諸祖は、なぜ発心して修行する必要があると説くのであろうか。なぜ、われわれは修行を実践しなければならないのか。それにはそれ相当の理由がなければならないが、果してそれは何であろうかという、根本的な疑問が、道元の前に大きく立ちはだかったのである。(28~29頁)

■このとき道元は、かってシン(王ヘンに進)という一老僧から、長翁山の如淨こそ大宋国裏における唯一最高の具眼の道人であるから、もし仏道を本格的に学ぼうと思うならば、一度参じてみるがよい、と勧められていたことを思い出した。そこで道元は、ふたたび天童山に赴いて、同寺の31世となっていた如淨に拝謁(はいえつ)し、その刹那に、如浄から面授をうけることができたのである。道元はこのときのことを

大宋宝慶元年乙酉五月一日、道元、はじめて先師天童古仏(如淨)を(天童山)妙高台に焼香礼拝す。先師古仏、はじめて道元をみる。そのとき、道元に指授面授するにいはく、仏仏祖祖面授の法門、現成せり。(面授)

とのべている。こうして道元は、「やや堂奥を聴許せらる、わづかに身心を脱落する」ことができたのである。(67頁)

■はたして道元は、如浄と会ったその瞬間に、これこそ長年探し求めていた正師であることを発見して、無上の感激に打ちふるえた。いっぽう如淨も、初見において、道元が非凡の大器であることを看破し、仏門の法門ここに現成す、と証明を与えたのである。まさに、この相見によって、入宋の目的の大半は成就されたといってよい。こうして、この相見は日本の不世出の宗教家道元を生み出す決定的な機縁となったのである。道元は、このときの感激について、

いま現在、大宋国一百八十州の内外に、山寺あり。人里の寺あり。そのかず称計すべからず。そのなかに雲水おほし。しかあれども、先師古仏(如淨)をみざるはおほく、みたるはすくなからん。いはんや、ことばを見聞するは少分なるべし。いはんや、相見問訊(もんじん)のともがらおほからんや。堂奥をゆるさるるは、いくばくにあらず。いかにいはんや、先師の皮肉骨髄、眼晴面目を礼拝することを聴許せられんや。先師古仏、たやすく僧衆の討掛搭(かた)をゆるさずー中略ーこのくにの人なりといへども、共住ををゆるされざる。われなにのさいはひありてか、遠方外国の種子なりといへども、掛搭(かた)をゆるさるるのみにあらず、ほしきままに堂奥に出入りして、尊儀を礼拝し、法道をきく。愚暗なりといへども、むなしかるべからざる結良縁なり。(『梅華』)

とのべている。このとき、如浄は道元に対して、

仏仏祖祖面授の法門現成せり。これすなはち、霊山の拈華(ねんげ)なり、嵩山の得髄なり、黄梅の伝衣なり、洞山の面授なり。これは仏祖の眼蔵面授なり。吾屋裏のみあり。余人は夢也未見聞在なり。(『面授』)

といって、霊鷲山における釈尊と迦葉との拈華微笑、嵩山での達磨と二祖慧可の得髄、黄梅山における五祖弘忍の六祖慧能への伝衣、雲岩曇と洞山良价の面授など、禅宗でもっとも代表的な付法面授にくらべている。そこには、単なる相見(しょうけん)ではなく、釈尊から伝えられてきた仏仏祖祖の面授証契が両者の間で行なわれたことが知られるであろう。(70~71頁)

■ところが、道元が如浄に参じてまもない宝慶元年の夏安居(げあんご)中の五月二十七日、明全が天童山の了然寮で亡くなった。ときに明全は、まだ四十二歳の壮年期であった。これよりさき嘉定十六年、明全は上陸後、まず明州の天台寺院である景福寺に住持の妙雲講師を訪れている。栄西にならって、日本の天台宗を修正しようとして入宋した明全にとって、これは当然の行動であった。ところが、すでに天台宗はまったく衰えてしまっていて、ほとんど学ぶべきものがなかった。それにひきかえ、いまや禅宗が江南の地を蔽っていたのである。そこで明全は禅を本格的に学ぶために、師の栄西がかって禅を学んだことのある天童山に登り、すでに三年に及んでいたのである。建仁寺において師事してから幾星霜、しかも万波の苦難を越えて、ともに入宋しながら、雄図むなしく異国に果てた師の姿を見て、道元の心中はいかばかりであったろうか。しかしながら、師の明全からすれば、日本の生んだ希有の宗教的天才である教え子の道元が、ようやく如淨という本師にめぐり逢えたのを見て、日本仏教の輝かしい将来を夢見ながら、この世を去ることができたのは、せめてものなぐさめであったであろう。(71~72頁)

■おなじ夏安居中のことである。道元は三十三祖の変相画を拝するために、ふたたび阿育王山を訪れた。このとき道元は、西蜀出身で接客係の成桂知客と、廊下を歩きながら、いろいろ問答をかわした。しかし、変相画に関する道元の考えは成桂をはるかに超え、成桂は道元の提出する問いに充分答えることができなかった。

「這箇(しゃこ)はこれ什麽(なに)の変相ぞ」と道元が問うと、成桂は「竜樹の身、円月相を現ず」と答えた。そこで道元は、「這箇(しゃこ)はこれ一枚の変画餅に相似たり」といったが、成桂はただ大笑するのみであった。道元は、成桂が竜樹の円月相の図のなかに、画そのものを超えた形而上的なものを見ていないことを見破って、「笑裏に刀なく、画餅を破ること得ざるなり」と評している。このほか、問答数番に及んだが、なんら得るところがなかった。もちろん他の僧たちも、ほとんど道元の敵ではなかった。そこで道元は、徃持の晦岩大光に質問してみようとしたが、成桂が和尚も答えられないであろうというので、道元も思い止まったという。五山の阿育王山でさえ、このような状態であったから、宋朝の禅林においていかに人材が乏しかったかが知られよう。それにしても、阿育王山に参じて、はじめて三十三祖の変相図を見たとき領会できなかった道元が、二年たったいまは、山内に一人も具眼の達人がいないことを見破ってしまったのである。この一事によっても、いかに道元の進境が著しかったかがわかるであろう。(『仏性』)

やがて同年九月十八日、釈尊から嫡伝されてきた仏祖正伝菩薩戒脈を如淨から授けられ、道元は名実ともに、如浄の弟子となった。こうして、如浄の正式の門弟となった道元の声望は、天童山の内外にいよいよ高まっていった。(『光福寺文書』)(72~73頁)

■このように、天童山で修行していた宝慶三年のある日の早暁のこと、如淨は、坐禅の指導中に、一人の修行僧が坐睡しているのをみて、身心脱落、すなわち、一切の執着を捨てて、全身全霊を打ち込んで坐禅しなければならないのに、睡魔に犯されるままに眠ってしまうとは一体何事であるかと、大喝一声した。かたわらで坐禅に熱中していた道元は、これを聞いて、豁然と大悟し、悟脱の境地に達することができた。

さっそく道元は、方丈に赴いて、如浄に焼香礼拝した。様子がただ事でないのをみて、如浄は一体何があったのかとたずねた。これに対して道元が、身心脱落することができたので参りましたというと、これを聞いた如浄は、身心脱落、脱落身心と、道元が真に大悟徹底したことを認めたのである。ここに道元は、身心を脱落することによって、出家以来の長年の疑問を解決し、入宋の目的を達成することができたのである。しかも道元は、このような体験だけに止まらないで、いよいよ、その思索をすすめ、それを修行生活の中で実証しようとしたのである。(『永平寺三祖行業記』)

ところで、この身心脱落について、かって如浄が、

参禅ハ身心脱落ナリ。焼香・念仏・修懺(しゅせん)・看経(かんきん)ヲ用ヒズ。祗管(ひたすら)ニ打坐(たざ)スルノミ。(原漢文)

と、道元に説示した。このとき道元は、それでは身心脱落というのは一体何ですかとたずねた。すると如浄は、これに答えて、

身心脱落ハ坐禅ナリ。祗管ニ坐禅スル時、五欲ヲ離レ、五蓋(いかりなどの五つの煩悩)ヲ除クナリ。(原漢文)

といった。そこで、道元が、五欲を離れ、五蓋を除くというならば、それは禅だけではなく、禅宗以外の教宗の所説と同じではありませんか、というと、大乗だ小乗だといって、そのいずれの所説もけぎらいしてはならない、釈尊の教えにそむいて、どうして仏祖の児孫といえようか、と如浄はたしなめ、

祗管ニ打坐シテ功夫ヲ作シ、身心脱落シ来ルハ、乃チ五蓋五欲等ヲ離ルルノ術ナリ。コノ外ニスベテ別事ナシ。

と言っている。(『宝慶記』原漢文)

このようにして、道元は身心脱落を禅宗で一般にいう大悟徹底とか悟りにあたるものと把握し、その著作の中に、しばしばこれを引用している。いかに身心脱落という言葉に重きを置いていたかがわかるであろう。

ところが、身心脱落という言葉を、如浄は一度も使っていない。ただ、語録の偈の中に、一回だけであるが、「心塵脱落」という言葉が出ている。してみると、道元がしばしば用いた身心脱落という表現は、如浄の心塵脱落を道元流に解釈することによって、これに参学の大事を了畢するという、独自の深い意味を持たせたように思われるのである。(高崎直道・梅原猛『仏教の思想』十一古仏のまねび〈道元〉)(75~77頁)

■このような嗣法に対する考えは、如淨から受けついだものであろうが、道元は何から何まで如浄の思想を単純に祖述していたわけではなかった。釈尊から迦葉仏というように、「仏仏相嗣していまにいたる」という如淨の解釈に疑問をもった道元は、迦葉仏がなくなったあとに釈尊が出世成道しているのに、その間に嗣法がどうしてありえましょうか、と質問した。これに対して如浄は、

なんぢがいふところは、聴教の解なり。十聖三賢等のみちなり。仏祖嫡嫡のみちにあらず。わが仏祖相伝のみちはしかあらず(―中略―)釈迦牟尼仏は迦葉仏に嗣法すると学し、迦葉仏は釈迦牟尼仏に嗣法せりと、学するなり。かくのごとく学するとき、まさに諸仏諸祖の嗣法にてあるなり。(『嗣書』)

と教えた。如浄のいう嗣法というのは、単なる師弟間の嗣法のやりとりではなく、釈尊は迦葉仏によって嗣法し、迦葉仏も釈尊によって悟り嗣法したという解釈に立っている。そこには、過去から未来にかけて道環した法の嗣承が行なわれている。各種の嗣書を秘見し、嗣法と嗣書のあるべき姿を探究していた道元は、ここに、仏祖の嗣法の理想を見出したのである。このようにして、正師である仏仏祖祖によって脈々と伝えられてきた、仏祖の命脈である正法を、単に観念の上でなく、実証によって相嗣し、これを継承することによって、仏道の極意に達し、従来の疑問はすべて解消することができた、という自負心をもつにいたった。もはや中国にながく止まる必要はまったくなかった。あとは如浄からうけた釈尊の正法を日本に持ち帰るだけである。((79~80頁)

■如浄から仏法の神髄を学んできたという確信をもって、かれ一流の正法宣揚の意欲に燃えて、故国の土をふんだ道元は、比叡山や三井寺にはもどらないで、まず、建仁寺に身をよせた。もはや、かれは何をなすべきかを考えるまでもなかった。このころの道元は、正法宣揚と衆生済度の熱意に燃えていたからである。

それよりのち、大宋紹定のはじめ、本郷にかえりし。すなはち、弘法救生をおもひとせり。なほ、重担をかたにおけるがごとし。(『弁道話』)

という彼の述懐には、その心境がよくあらわれている。

こうして道元は、如浄から伝えてきた仏法こそ、釈尊からうけつがれてきた「仏祖単伝の正法」であるという確信をもって、かれ一流の正法禅護持の精神をつよく打ち出すにいたった。

ついで彼は、この「仏祖単伝の正法」こそ、坐禅によるものでなければならないとして、このころ『普勧坐禅儀』を著わしたのである。

したがって、この坐禅儀は、道元帰国の第一声であるとともに、道元の坐禅に対する基本的な考え方を内外に表明した、いわば、禅の独立宣言ともいうべきものであった。(83~84頁)

■さらに、坐禅は「大安楽法門」であるとのべ、その真意を会得すれば、精神爽快、竜が水を得、虎が山によるような偉大な法力が得られる、と説いている。そればかりではない。さらに注目されるのは、法然上人が本願念仏を勝なるもの易なるものとして選択したように、道元は、禅の宗を最勝最高のもの、しかも、上智下愚、利人鈍者を問わない、誰にでもひろく実践できる易行として選択したことである。

しかも、道元は坐禅儀の上に、とくに普勧という二字を冠している。あまねく勧めるというのは、出家仏教という限られた意味でなく、道俗一般にすすめる伝道宗教としての性格を表明したものにほかならない。

このように、『普勧坐禅儀』の撰述は、道元の開宗宣言であった。(86~57頁)

■ついで、さきに『普勧坐禅儀』において、坐禅の根本義を説き、坐禅は大安楽の法門だから、賢愚の差別なく、誰にでも勧めるのだといった道元は、さらに、『辨道話』において、坐禅にかんする十九の設問をかかげ、一々その疑問に答える形式で、只管打坐の仏法について、その抱負と信念を強調した。(91頁)

■仏法に入るには、多くの門があるが、坐禅こそ仏法の正門である。それは、釈尊以来の諸仏はもな坐禅によって得道したからだとして、

大師釈尊、まさしく得道の妙術を正伝し、また、三世の如来ともに、坐禅より得道せり。このゆえに、正門なることをあひつたへたるなり。しかのみにあらず。西天東地の諸祖、みな坐禅より得道せるなり。ゆえに、いま正門を人天にしめす。

とのべ、坐禅以外の諸行は、悟りにいたる一つの方便ではあっても、仏法の真の要訣ではありえないとして、世行一切をしりぞけ、もっぱらに坐禅すべきことを強く主張した。そして、坐禅は只管打坐でなければならないと説いた。(92頁)

■道元の主著である『正法眼蔵』をみると、『碧巌録』からの引用をはじめとして、いたるところで公案の論評を行なっているばかりでなく、公案の否定をしたような個所はどこにも見当たらない。したがって、道元のいう「ひとへに坐禅」とか、只管打坐というのも、従来いわれているような、公案禅・看話禅の全面的な否定を意味するわけではなく、「純一の仏法」、つまり坐禅にによる正伝の仏法を強調するあまり、宋朝風の公案禅の行過ぎを手きびしく批判しようとしたところから発したものであろう。(95頁)

■人によっては、修と証は一つではないと考えているものがあるが、それはあきらかに外道の考え方である。ほんとうは、修行そのままで証であるという修証一如の立場でなければならないとした。さらに道元は、言葉をつづけて、次のようにいっている。

いまも証上の修なるゆえに、初心の辧道、すなはち、本証の全体なり。かるがゆえに、修行の用心をさづくるにも、修のほかに証をまつおもひなかれ、とをしふ。直指の本証なるがゆえなるべし。すでに、修の証なれば、証にきはなく、証の修なれば、修にはじめなし。(97頁)

■魚が水を行き、ゆけども水のきは(際)なく、鳥そらをとぶに、とぶといへども、そらのきはなし。しかあれども、魚鳥いまだむかしよりみず・そらをはなれず(―中略―)鳥もしそらをいづれば、たちまちに死す。魚もし水をいづれば、たちまちに死す。以水為命、しりぬべし。以空為命、しりぬべし。

魚が水を行き、鳥が空を飛ぶという、この自然の法則にのっとって、そのところを得、みちを得れば、たちどころに悟ることができるとも説いている。

あるとき、麻谷(まよく)山の宝徹が扇子を使っているところへ僧がやってきて、仏教の説くところによると、風の性は常住であって、どこにもないところはないということですが、なぜ和尚は扇子を使っているのですか、と質問した。そこで、宝徹は言った。貴公は風性常住ということはわかったらしいが、どこにでもないところはないということは、まだ判っていないようだと。そこで僧は、それでは、どこにでもないところはないというのは、どういう訳ですか、と尋ねた。ときに、宝徹は、無言で扇子をあおぐのみであった。僧は黙して礼拝した。この話をあげて、道元は、

仏法の証験、正法の活路、それかくのごとし、常住なれば、あふぎをつかふべからず。。つかはぬをりも風をきくべきといふは、常住をもしらず、風性をもしらぬなり。(『現成公按』)(108頁)

■名利ノタメニ、仏法ヲ集スベカラズ。果報ヲ得ンガタメニ、仏法ヲ修スベカラズ。霊験ヲ得ンガタメニ、仏法ヲ修スベカラズ。タダ仏法ノタメニ仏法ヲ修ス。スナハチ、コレ道ナリ。(原漢文)

と、仏道修行の姿勢をのべ、さらに、参禅のためには正師(しょうし)を求めるべきで、もし、

正師ヲ得ザレバ、学バザルニ如カズ。ソレ正師トハ、年老耆宿ヲ問ハズ。タダ正法ヲ明ラメテ正師ノ印証ヲ得ルモノナリ(―中略―)行解(ぎょうげ)相応スル、コレスナハチ正師ナリ。(―中略―)参禅学道ハ一生ノ大事ナリ、ユルガセニスベカラズ。(原漢文)

と、思想と実践のともなった本当の正師でなければ、正しい悟りの道への指導者とはなりえない、と断言している。そこには、衆生の教化に全力を傾注しようとしている道元の旺盛な意欲が充分にうかがわれよう。(109頁)

■さらに仁治3(1242)年4月5日、求道心に燃えていた道元は、『正法眼蔵』中の最大の山の一である『行持』の巻を著わしている。

仏祖の大道、かならず無上の行持あり。道環して断絶せず。発心・修行・菩提・涅槃、しばらくの間隙あらず。行持道環なり。このゆえに、みづからの強為にあらず。佗の強為にあらず。不曾染汙の行持なり(―中略―)このゆえに、諸仏諸祖の行持によりて、われらが行持見成し、諸仏の大道通達するなり。われらが行持によりて、諸仏の行持見成し、諸仏の大道通達するなり。われらが行持によりて、この道環の功徳あり。これによりて、仏仏祖祖、仏住し仏非し、仏心し仏成して、断絶せざるなり。(『行持』)

このように、道元の新宗教の理想は、道環して断絶しない、仏祖のもっともすぐれた行持〈不染汙の行持〉を実践すること、これを日々の行持に自然に現わすことであった。

そこで、このような仏法の理想を求めつづけた道元は、

いま、仏祖の大道を行持せんには、大隠小隠を論ずることなく、聡明鈍痴をいふことなかれ。ただ、ながく名利をなげすてて、万縁に繋縛せらるることなかれ。光陰をすごさず、頭然(ずねん)をはらふべし。大悟をまつことなかれ。大悟は家常の茶飯(さはん)なり。不悟をねがふことなかれ。不悟は髻(けい)中の宝珠なり。ただまさに、家郷あらんは家郷をはなれ、恩愛あらんは恩愛をはなれ、名あらんは名をのがれ、利あらんは利をのがれ、田園あらんは田園をのがれ、親族あらんは親族をはなるべし。名利等なからんも、また、はなるべし。すでに、あるをはなる。なきをもはなるべき道理、あきらかなり。それすなはち、一条の行持なり。生前に名利をなげすてて、一事を行持せん、仏寿長遠の行持なり。いまこの行持に行持せらるるなり。この行持あらん。身心みづからも愛すべし、みづからもうやまふべし。(『行持』)

と、名利をはじめ万縁をなげすて、自己の身命をも顧ることなく、仏祖の大道を行持することによって、はじめて大悟の域に達することができる、と説いた。(143~145頁)

■そこで道元は、このような仏祖の大道を行持するためには、日々の工夫こそもっとも肝心である、と強調している。すなわち、

仏祖の面目骨髄(―中略―)かならず一日の行持に稟受するなり。しかあれば、一日はおもかるべきなり。いたづらに百歳いけらんは、うらむべき日月なり。かなしむべき形骸なり。たとひ百歳の日月は、声色の奴婢と馳走すとも、そのなか、一日の行持を行取せば、一生の百歳を行取するのみにあらず、百歳の佗生をも度取すべきなり。この一日の身命は、たふとぶべき身命なり。たふとぶべき形骸なり。かるがゆえに、いけらんこと一日ならんは、諸仏の機を会せば、この一日を曠劫(こうごう)多生にもすぐれたりとするなり。このゆえに、いまだ決了せざれんときは、一日をいたづらにつかふことなかれ。この一日は、をしむべき重宝なり。(『行持』)

と、一日一日の行持こそ重要な意義をもっていると警告し、つづけて、一日の価値はどんな宝石にもくらべられるものではない、いったん失えば永久に取りかえしがつかないとして、

尺壁の価値に擬すべからず、驪珠にかふることなかれ。古賢をしむこと、身命よりもすぎたり。しずかにおもふべし。驪珠はもとめつべし、尺壁はうることもあらん。一生百歳のうちの一日は、ひとたびうしなはん、ふたたびうることなからん。いづれの善功方便ありてか、すぎにし一日をふたたびかへしえたる。紀事の書にしるさざるところなり。もし、いたづらにすごさざるは、日月を皮岱に包含して、もらさざるなり。しかあるを、古聖先賢は、日月ををしみ、光陰ををしむこと、眼晴よりもをしむ、国土よりもをしむ。その、いたづらに蹉過するといふは、名利の浮世に濁乱(じゅくらん)しゆくなり。いたづらに蹉過せずといふは、道にありながら、道のためにするなり。すでに決了することをえたらん。また、一日をいたづらにせざるべし。ひとへに道のために行取し、道のために説取すべし。このゆえにしりぬ。古来の仏祖、いたづらに一日の工夫をつひやさざる儀、よのつねに観想すべし。(『行持』)

と、日々寸陰を大切に過すべき心構えを繰返し説いている。

さらに、

いま正法にあふ。百千恒沙の身命をすてても、正法を参学すべし(―中略―)しづかにおもふべし。正法よに流布せざらんときは、身命を正法のために抛捨せんことをねがふとも、あふべからず。正法にあふて、身命にすてざるわれを慚愧せん。はづべくば、この道理をはづべきなり。しかあれば、祖師の大恩を報謝せんことは、一日の行持なり。自己の身命をかへりみることなかれ。禽獣よりもおろかなる恩愛、をしんですてざることなかれ。たとひ愛惜すとも、長年のともなるべからず。あくたのごとくなる家門、たのみてとどまることなかれ。たとひとどまるとも、つひの幽棲にあらず。むかし仏祖のかしこかりし、みな七宝千子をなげすて、玉殿朱樓をすみやかにすつ。テイ(口へんに弟)唾のごとくみる。糞土のごとくみる。これらみな、古来の仏祖を報謝しきれたる、知恩報恩の儀なり。病雀なほ恩をわすれず、三府の環よく報謝あり。窮亀なほ恩をわすれず、余不の印よく報謝あり。かなしむべし、人面ながら、畜類よりも愚劣ならんことは。いまの見仏聞法は、仏祖面面の行持よりきたれる慈恩なり。仏祖もし単伝せずば、いかにしてか今日にいたらん。一句の恩、なほ報謝すべし、一法の恩、なほ報謝すべし。いはんや、正法眼蔵無上大法の大恩、これを報謝せざらんや(―中略―)今日われら、正法を見聞するたぐひとなれり。祖の恩かならず報謝すべし(―中略―)ただまさに、日日の行持、その報謝の正道なるべし。いはゆるの道理は、日日の生命を等閑(なおざり)にせず、わたくしにつひやさざらんと、行持するなり。(『行持』)

といい、願ってもないこの逢いがたき仏法、正伝の仏法に逢うことができたのであるから、身命をかえりみず、万縁を抛って、仏祖単伝の無上大法の大恩に報謝するために、この正法を参究すべきである。それには、日日の行持こそ、もっとも肝要であると説いている。このようにすることによって、はじめて仏祖の大道に近づくことができるのであるとし、安逸の日をむさぼり、修行もしないで、むだに時を過ごすことを、つよく戒しめて、

しずかにおもふべし、一生いくばくにあらず(―中略―)いたづらなる声色の名利に馳騁(ちてい、狩猟すること)することなかれ。馳騁せざれば、仏祖単伝の行持なるべし。すすむらくは、一箇半箇なりとも、万事万縁をなげすてて、行持を仏祖に行持すべし。(『行持』)

と『行持』の巻を結んでいる。(153~156頁)

■十余年にわたる深草の道場を解散し、懐奘らの門徒をつれて、道元が越前志比庄に到着したのは、寛元元(1243)年七月中のことである。この月の七日に、道元は興聖寺において『葛藤』の巻を説示したあと、翌閏七月一日には、すでに越前の禅師峰(やましぶ)で『三界唯心』の巻を示衆していることによって、このことがしられる。(169頁)

■まず、『説心説性』の巻において、道元は、

仏道は、初発心(ほっしん)のときも仏道なり。成正学(じょうしょうがく)のときも仏道なり、初中後、ともに仏道なり。たとへば、万里をゆくものの、一歩も千里のうちなり。千歩も千里のうちなり。初一歩とことなれども、千里のおなじきがごとし。しかあるを、至愚のともがらはおもふらく。学仏道の時は、仏道にいたらず、果上の時のみ仏道なりと(―中略―)しかあれば、説心説性は、仏道の正直なり。杲公(大恵)、この道理に達せず。説心説性すべからずといふ。仏性の道理にあらず。いまの大宋国には、杲公におよべるもなし。

よいい、仏道においては、初発心のときも、大悟成道したときも、その途中のときも、いずれもおなじ仏道に変わりはないという、修行者の心構えについて説いている。それは、千里の道を行くのに、第一歩も最後の一歩も、その価値においてはみな変わりがないというわけである。(171~172頁)

■また、日中両国において一般に流布していた儒仏道の三教一致思想についても、『諸法実相』の巻で、

近来、大宋国杜撰(ずさん)のともがら、落処をしらず、宝所をみず。実相の言を虚説のごとくし、さらに、老子・荘子の言句を学す。これをもて、仏道の大道に一斉なりといふ。また、三教は一致なるべしといふ。あるひは、三教は鼎の三脚のごとし。ひとつもなければ、くつがへるべすといふ。愚癡のはなはだしき、たとへをとるに物あらず。かくのごときのことばあるともがらも、仏法をきけりとゆるすべからず(―中略―)三教一致のことば、小児の言音におよばず、壊仏法のともがらなり。

といい、いまの南宋には三教一致の思想を説くものが多く、そのなかには人天の導師づらをし、あるいは、帝王の師におさまっているものまでいるが、まことに仏法衰退のときというべきで、このような説をなすものは、仏法をこぼつ徒輩であるときめつけ、

みみをおほふて、三教一致の言を、きくことなかれ。邪説中の最邪説なり。(『四禅比丘』)

とまで極言している。道元がその宗教の純粋性をたっとび、安易な妥協をいかに嫌っていたかがしられるであろう。(181頁)

■こうして道元は、『正法眼蔵』の示衆を再開するにいたった。すなわち、翌寛元三(1245)年になって、三月六日『虚空』、同十二日『鉢盂』、六月十三日『安居』、七月四日『他心通』、十月二十三日『王索仙陀婆』の各巻を示衆している。この間の四月には、北越入山後はじめて、九十日間外出を禁止して坐禅修行にはげむ、結成安居がひらかれている。(『永平広録』二)

道元はまず『虚空』の巻に、如浄の風鈴の頌(しょう)を引いて、

虚空、しばらくこれを正法眼蔵涅槃妙心と参究するのみなり。

と説き、ついで『鉢盂』の巻でも、僧が食事に使う用器である鉢盂について、

これ仏仏祖祖の頂ネイ(寧に頁)面目なり。皮肉骨髄に親曾しきたれり。仏祖の眼晴頂ネイ(寧に頁)を拈来して、九月の日月とせり。安居一枚、すなはち、仏仏祖祖と喚作せるものなり。安居の頭尾、これ仏祖なり。このほか、さらに寸土なし、大地なし。

と安居の意義の重要さを強調し、『禅苑清規』から安居の章を引いて、その心得を詳しく説明している。さらに、『王索仙陀婆』の巻では、大恵と宏智正覚をくらべて、宏智こそ真の古仏であるということを悟ったのは、ただ如淨一人だけであるとして、

いま、大宋国の諸山にある長老と称するともがら、仙陀婆すべて夢也未見在なり。苦哉苦哉。祖道陵夷なり。苦学おこたらざれ。仏祖の命脈、まさに嗣続すべし(―中略―)即心是仏といふは、たれといふぞと、審細に参究すべし。

と、修行にはすすんで苦学すべきことを説いている。(184~185頁)

■永平寺という寺名は、嘉暦二(1327)年の同寺の梵鐘の銘にあるように、仏教が中国に渡来した後漢の明帝永平十一年の歴号からとったものである。仏教が中国に初めて伝わったように、日本にも、これから正伝の仏法が行なわれるということを、内外に表明しようとしたのであろう。

日本には昔から正師はなかった、自分こそ仏祖単伝の正法をはじめて伝えた正師である、真の日本仏教の創始者であるという、確固たる自負心を、道元は持っていた。したがって、永平寺と改称したとき、上堂して、

天、道アリテ以テ高清、道アリテ以テ高寧、人、道アリテ以テ安寧ナリ。所以ニ、世尊降生シテ、一手天ヲ指シ一手地ヲ指シ、周行七歩シテ曰ク、天上天下、唯我独尊ト。世尊道アリ。コレ恁麽(いんも)ナリト雖モ、永平道アリ。大家証明ス。良久シテ云ク、天上天下、当処永平。(原漢文)

と、永平寺の創立を釈尊の誕生になぞらえている。永平道あり、天上天下、当処永平という言葉には、道元の竝々ならない自信のほどがうかがわれよう。(186~187頁)

■そこで、道元の帰国第一声ともいうべき『普勧坐禅儀』をみると、そこには普勧の二字がとくに冠せられていることが注目されるであろう。これはあきらかに道俗一般に対する伝道と解すべきであろう。

つぎにまた、深草移住後まもないころの作とみられる『辨道話』の巻のなかでも、山家人は諸縁を離れているから、参禅辧道に支障がないが、世務に追われている在家のものは、どうしたら一向専修の仏道にかなうことができるであろうか、という質問に答えて、道元は、

おほよそ仏祖あはれみのあまり、広大の慈門をひらきおけり。これ一切衆生を証入せしめんがためなり。人天たれかいらざらんものや。ここをもて、むかしいまをたづぬるに、その証これおほし。しばらく代宋・順宗の帝位にして、万機いとしげかりし。坐禅辨道して仏祖の大道を会通す。李相国(翺)防相国、ともに補佐の臣位にはんべりて、一天の股肱たりし。坐禅辨道して、仏祖の大道に証入す。ただこれ、こころざしのありなしによるべし。身の在家・出家にはかかはらじ。又、ふかくことの殊劣をわきまふる人、おのづから信ずることあり。いはんや、世務は仏法をさゆとおもへるものは、ただ、世中に仏法なしとのみしりて、仏中に世法なきことをいまだしらざるなり(―中略―)大宋国には、いまのよの国王・大臣・士俗・男女、ともに心を祖道にとどめずといふことなし。武門・分家、いづれも参禅学道をこころざせり。こころざすもの、かならず心地を開明することおほし。これ、世務の仏法をさまたげざる、おのづからしられたり。国家に真実の仏法弘通すれば、諸仏諸天ひまなく衛護するがゆえに、玉化大平なり。聖化大平なれば、仏法のちからをうるものなり。(『辨道話』)

と、かれを慕って深草道場に集まってきた道俗に説いている。これによると、釈尊によって説かれた広大の慈門である仏法は、一切の衆生のために開かれており、世務は決して仏道修行の妨げにはならない。したがって、唐の代宗も順宗も、また大臣の李翺も防相国も、みな政務のかたわらそれぞれ祖師たちについて参禅辨道し、大悟することができたのである。要は、各人の心がけ如何によるものであって、もちろん在家とか出家という身分や地位の相違によるのではない、と断言している。(200~201頁)

■このように、道元の宗教は、賢愚利鈍はもとより、貴賤男女を問わず、在家・出家のくべつなくさらには、罪の有無さえ問わないという、きわめて普遍性のつよいものであった。そこには、道元一流の仏祖単伝の正法による民衆の教化救済、いわゆる、弘法救生を行なうものでなければ、真の仏法とはいえない、という立場が貫かれていたのである。

このように、深草に移った当初の道元の思想のなかには、純一な仏祖単伝の正法を鼓吹するとともに、門下の発展のために、在家成仏・女人成仏をも是認するという、きわめて包容性にとんだ積極的布教の態度がみられた。

ところが、深草の道元教団が活気を帯び、叡山側の弾圧がふたたび身辺に及ぶようになった仁治元年ころになると、道元は『護国正法義』を著わすなど、自分の伝えた仏祖単伝の正法こそ国家護持の仏法でなければならないと強調し、大恵派をはじめとする臨済禅に対して、きびしい批判を加えるとともに、自分の宗教の正法性を一段とつよく主張するようになった。

こうしてどうげんは、禅修行によって真理を体得するためには、俗塵をさけて深山幽谷に隠棲することがもっとも必要であるという、如淨の教えをうけついで、すでに深草時代の仁治元年十一月に示衆した『山水経』の巻に、

山は、超古超今より大聖の所居なり。賢人・聖人ともに山を堂奥せり、山を身心とせり。

という信念を披レキ(てへんに歴)している。

このように道元は、もっぱら山居を理想とする出家至上主義を標榜し、深山幽谷にこもって、ひたすら修行生活をまもり、その理想とする正伝の仏法を、たとえ一箇半箇のわずかな同志だけにでも伝えようという、きびしい態度にかわっていったのである。(202~203頁)

■やがて、建長四(1252)年の秋、道元の病勢は急に進んだようである。病状がすすむにつれて、道元にとって気がかりなのは、門弟たちが道元の仏法をどのように伝えてゆくかという点であったであろう。そこで、臨終の近いことを悟った道元は、修行の大原則を要約して、門人に最後の説法を試みた。これが『正法眼蔵』のなかの『八大人覚』の巻である。その説示の年月は明らかではないが、これを記したのは建長五(1253)年正月六日のことである。

八大人覚というのは、『遺教経』にみえる少欲・知足・楽寂静・観精進・不忘念・修禅定・修智恵・不戯論の八項目のことで、釈尊が入滅にあたって、この八大人覚を守ってゆけば、仏法は永遠に滅びることがないであろうと、最後に弟子達に垂示したものである。

道元は病を押して、釈尊にならって、最後に『八大人覚』の巻を説き、

このゆえに、如来の弟子は、かならずこれを習学したてまつる。これを修習せず、しらざらんは、仏弟子にあらず。これ如来の正法眼蔵涅槃妙心なり。しかあるに、いましらざるものはおほく、見聞せることあるものはすくなきは、魔嬈によりて、しらざるなり。また、宿殖善根のすくなき、きかず、みず。むかし、正法像法のあいだは、仏弟子みなこれをしれり。修習し参学しき。いまは、千比丘のなかに、一両箇の、八大人覚しれるものなし。あはれむべし、澆季の陵夷、たとふるにものなし。如来の正法、いま大千に流布して、白法いまだ滅せらんとき、いそぎ習学すべきなり。緩怠なることなかれ。仏法にあひてたてまつること、無量劫にもかたし。人身をうることも、またかたし。たとひ人身をうくといへども、三洲の人身よし。そのなかに、南洲の人身すぐれたり。見仏聞法、出家得道するゆえなり。如来の般涅槃よりさきに、さきだちて死せるともがらは、この八大人覚をきかず、ならはず。いまわれら、見聞したてまつり、習学したてまつる。宿殖善根のちからなり、いましゅうがくして、生生に増長し、かならず無上菩薩にいたり、衆生のためにこれをとかんこと、釈迦牟尼仏にひとしくして、ことなることなからん。

と、最後を結んでいる。こうして『八大人覚』は道元最後の著述となった。それは釈尊を理想とし、釈尊に等しくあるべきだという堅い決意を示したものであった。(210~212頁)

■こうして、建長五年八月二十六日夜半、道元は、

五十四年、第一天ヲ照ス

箇ノ(足へんに孛)跳(ぼっちょう)ヲ打シテ、大千ヲ触破ス、

咦(い)

渾身覔(もと)ムルトコロナク、活ナガラ黄泉ニ陥(おちい)ル、(原漢文)

という遺偈(ゆいげ)を書いて、五十四年の生涯を静かに閉じた。偶然にも、それは父通親と同年であった。

現在、東山区丸山公園鷲津町にある荼毘塔が、その荼毘の場所だといわれている。

やがて懐奘は、道元の遺骨をいだいて永平寺に帰り、同寺の西北隅に塔を建てて納めた。(213~214頁)

(2014年10月11日)

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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