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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『道元』 正法眼蔵の言語ゲーム 春日佑芳 ぺりかん社

投稿日:2020-12-04 更新日:

『道元』 正法眼蔵の言語ゲーム 春日佑芳 ぺりかん社

■古人云く、「智者の辺(ほとり)にしてはまくるとも、愚人の辺にしてかつべからず」。我が身よく知りたることを、人のあしく知りたるとも、他の非を云うはまた是我が非なり。法文を云うとも、先人の愚をそしらず、また愚痴、未発心の人のうらやみ卑下しつべき所にては、よくよくこれを思うべし。(26頁)

■ふるく云く、「君子の力、牛に勝(すぐ)れたり。しかあれども、牛とあらそわず」。今の学人、我れ智恵を学人にすぐれて存ずとも、人と諍論(じょうろん)を好むことなかれ。また悪口(あっく)をもて人を云い、怒目をもて人を見ることなかれ。(27頁)

■我をはなると云うは、我が身心をすてて、我がために仏法を学すこと無きなり。ただ道のために学すべし。

学道のひとは、吾我のために仏法を学すことなかれ。ただ仏法のために仏法を学すべきなり。

仏道に入りては、仏法のために諸事を行じて、代わりに所得あらんと思うべからず。内外(ないげ)の諸教に、みな無所得なれとのみ進むるなり。(29頁)

■およそ菩提心の行願には、菩提心の発未発、行道不行道を世人にしられんことをおもはざるべし、しられざらんといとなむべし。いはんやみづから口称(くしょう)せんや。(35頁)

■人にたっとびられじと思わんこと、やすきことなり。なかなか身をすて世をそむく由獲を以てなすは、外相(げそう)ばかりの仮令(けりょう)なり。ただなにとなく世間の人のようにて、内心を調えもてゆく、これ実(まこと)の道心者なり。(35頁)

■世のすえには、まことある道心者、おほかたなし。しかあれども、しばらく心を無常にかけて、世のはかなく、人のいのちのあやふきこと、わすれざるべし。われは世のはかなきことをおもふと、しらざるべし。あひかまへて、法をおもくして、わが身、我がいのちをかろくすべし。法のためには、身のいのちもをしまざるべし。(原かた仮名)(36頁)

■広学博覧――道元はきわめて博学である。そのことは、古くは面山や黄泉による『正法眼蔵』の引用出典の研究、さらに衞藤即応(同氏校註の『正法眼蔵』の「渉典」、岩波文庫)、鏡島元隆(『道元禅師の引用経典・語録の研究』、木耳社)、水野弥穂子(同氏校註の『正法眼蔵』の脚注・補注、岩波文庫)などの先学による研究からもわかる。道元は、当時の他の祖師たちとは比較にならぬほど本を読んでいる。しかもなお、「知らず」と答えてかまわぬ、といったのである。(44頁)

■参学識(し)るべし、仏道は思慮・分別・卜度(ぼくたく)・観想・知覚・慧解(えげ)の外に在ることを。もし此らの際(あいだ)に在らば、生来つねに此らの中に在りて、つねに此らを翫(もてあそ)ぶ、何が故に今に仏道を覚せざるや。学道は、思慮・分別等のことを用いるべからず。つねに思慮等を帯して、吾が身をもって検点せば、ここに明鑑なるものなり。(70頁)

■心とは身をもってする行動にある。したがって仏に習い、仏と同じく行じていく日常の生活の中に仏心が保たれていく、このように道元は信じていました。だが、唯心論においては、まさにその肝心な生を、無視すべきものとして放擲してしまっています、その点でそれは、そもそも出発点からして、根本的に誤っているのです。道元が心常相滅論に対し、「しめしていはく、いまいふところの見、またく仏法にあらず、先尼(せんに)外道が見なり」といい、また、「この一法〔仏法〕に身と心とを分別し、生死と涅槃とをわくことあらんや。すでに仏子なり、外道の見をかたる狂人のしたのひびきをみみにふるることなかれ」(「弁道話」)と、口を極めて批判しているのは、そのためなのです。(72~73頁)

■己見を捨てるとは、ものを知る規準と思い込んでいる心意識・知見解会を離れることです。そのとき初めて、身心(しんじん)一如であり、心とは行動の現われだということがわかってくる。このことを道元は、さまざまな言葉で繰返し語っています。『正法眼蔵』は、すべてこのことを語るものであったといってもいいのです。そかし道元はこれだけ言葉を用いて語ってはいますが、自分のいおうとしていることは、言葉のうえの理解だけでは、けっして伝えることのできないものと考えていました。それは結局は、各人の日常の修行において、その実践の中でしか、実感として理解することができないものでした。

『随聞記』によれば、道元は弟子たちに対して、「経(へ)ずんが見るべし、見ずんばきくべし」という古人の言葉を引き、この言葉の意味は、「きかんよりは見るべし、見んよりは経(ふ)べし」ということだと教えています。聞くよりは見よ、見るよりは身をもって体験せよ、ということです。道元は何よりも、日常の修行が大事だと説いています。そしてその中でも、身心一如、修証一等の悟りを得る仏道の「正門」は、祗管打坐(ひたすら坐禅に打ち込むこと)だと語りました。このことも如淨のもとで、坐禅によって悟りを得た、自らの体験にもとづいているのです。(76頁)

■この身体をめぐらして、十悪をはなれ、八戒をたもち、三宝に帰依して捨家出家する、真実の学道なり。このゆえに、真実人体といふ。後学かならず自然見の外道に同ずることなかれ。(身心学道)(43頁)

■その修行の処に証が現成(転法輪)するのだから、証は時空を超えて、いかなる処においても、いかなる時にも、それを見ることができる。といってもこれは、証はどこにでもあるというわけではない、その処在は、仏道を修行するものの身体に限られている。いまの汝も、いまのわれも、証の全世界を全身に脱落(とつらく)して修行しているのだ。このことをはっきり自覚して、学道するのである。(84頁)

■道元にとって、「尽十方界は、真実人体である」とは、証の全世界は修する身体にあることをいうのであり、この言葉は、修証一等を語る、もっとも明瞭な表現のひとつなのです。(84頁)

■ 仏教はすなはち教仏なり、仏祖究尽(ぐうじん)の功徳なり。諸仏は高広にして、法教は狭少なるにあらず。まさにしるべし、仏大なるは教大なり、仏小なるは教小なり。

ここで注意すべきことは、「仏」と「教」とが分けて語られている点です。仏とは仏心(証)をもつもののこと、教とは、仏が語り、身をもって説いた行法(修)のことです。道元は、この2つは同じ概念だ、といっているのです。大意は、――仏は行ずるとは、行ずるものが仏だ、ということである。このこと(修証一等ということ)は、これまでの諸仏の究め尽してきたところである。諸仏は高広であり、行法は教少なのではない。よくわきまえよ、仏が大なら、行法も大であり、仏が小なら、行法も小なのである。――(85頁)

■ 「ただ一心を正伝して、仏教を正伝せず」といふは、仏法をしらざるなり。仏教の一心をしらず、一心の仏教をきかず。一心のほかに仏教ありといふ、なんぢが一心、いまだ一心ならず。仏教のほかに一心ありといふ、なんぢが仏教、いまだ仏教ならざらん。

大意は――「これまでの諸仏は、ただ釈迦仏の一心を以心伝心によって伝えてきたのであり、仏の教えた行法を伝えたのではない」などというのは、仏法の何たるかを知らないのだ。行法が一心であり、一心が行法である!このことがわからず、一心のほかに行法があるなどという、その汝の一心なるものは、仏の一心といえるものではない。仏の教えた行法のほかに一心ありという、その汝の仏教は、仏教といえるものでは、けっしてない!――(88頁)

■ これを妙法蓮華教ともなづく、教菩薩法なり。これを諸法となづけきたれるゆえに、法華を国土として、霊山も虚空もあり、大海もあり、大地もあり。これはすなはち実相なり、如是(にょぜ)なり。

道元にとって、諸仏によって説かれてきた仏法とは、法華経であり、菩薩に教える行法だったのです。それを道元は、「諸法」といっているのです。「法華を国土として、全世界がある」とは、この諸法(法華)に従って修行していくところに、人間の世界を見ることができるということです。その世界が実相であり、如是(証とはこれだ、と確信できる世界)なのです。ここからもわかるように、道元が「諸法実相」というのは、「一切法一心」というのと全く同様に、修するところに証の世界を見ることを意味しているのです。(92~93頁)

■「諸法」とは、「教菩薩法」としての行法です。それがまた、「仏経」「経巻」などの言葉をもって語られています。その経巻に示された教えに従って修行するところに、実相の世界がある。だから道元は、経巻は仏心・証そのものだともいうのです。「仏経」の巻にあるいくつかの文章をみておきましょう。

仏経」〔巻名〕、このなかに教菩薩法あり、教諸仏法あり。おなじくこれ大道の調度なり。調度ぬしにしたがふ、ぬし調度をつかふ。これによりて、西天東地の仏祖、かならず惑従知識、惑従経巻の正当恁麽時、おのおの発意・修行・証果かって間隙(けんぎゃく)あらざるものなり。(93頁)

■ 三界〔すべての世界〕唯一心、心外無別法。

心、仏および衆生、この三無差別。

これは『華厳経』から引かれている語句であり、これまで多くの書において、すべては心の所産であるという、唯心論の根拠として用いられてきたものです。だが、唯心論とは正反対の立場に立つ道元も、この言葉を高く評価しているのです。すれは、「いま如来道の〔如来のいう〕三界唯心は、全如来の全現成なり。全一代は全一句なり」というところにも明らかです。釈迦仏のすべてがこの一句に示されている、と道元はいうのです。では、それはなぜなのか?――この句についての解釈が、唯心論者の解釈とは、全く違うものだったからです。道元は、この句を次のように読んでいるのです。

三界は全界なり。三界はすなはち心(しん)といふにあらず。そのゆえは、三界はいく玲瓏八面も、なほ三界なり。三界にあらざらんと誤錯すといふとも、総不著(ふじゃ)なり。内外中間、初中後際、みな三界なり。三界は三界の所見のごとし、三界にあらざるものの所見は、三界を見不正(けんふしん)なり。(155~156頁)

■ 古徳云く、「作麽生(そもさん)か、これ妙浄妙心。山河大地、日月星辰」。

この言葉について道元はいいます。

あきらかにしりぬ、心とは山河(せんが)大地なり、日月星辰(にちがつしょうしん)なり。しかあれども、この道取するところ、すすめば不足あり、しりぞくればあまれり。山河大地心は、山河大地のみなり。さらに波浪なし、風煙なし。日月星辰(にちがつしょうしん)のみなり。さらにきりなし、かすみなし。(162~163頁)

■「諸悪莫作、衆善奉行」とは、これを普通に読めば、「諸悪なすことなかれ、衆善奉行すべし」ということになりますが、「諸悪莫作」の巻にみられるように、道元はこれを「諸悪は莫作なり、衆善は奉行なり」という形に読んでいるのです。これは、「悪とは私たちがやってはいけないこととして慎み、戒めていることをもって言う、また善とは、私たちがよいこととしておこなっていることをもって言う」ということです。ここで道元は、このような読み方をふまえて、悪というものも、善というものも、私たちの生と無関係に、彼方の世界に存在している事がらではなく、私たちの生の現われだといっているのです。(216~217頁)

■ 曹谿山大鑑禅師、ちなみに南嶽大慧禅師にしめすにいはく、「是什麽物(しもぶつ)、恁麽来」。

この道(どう、言葉)は、恁麽はこれ不疑なり、不会(ふうい)なるがゆえに、是什麽物なるがゆえに、万物まことにかならず什麽物なると参究すべし。一物まことにかならず什麽物なると参究すべし。什麽物は疑者にはあらざるなり、恁麽来なり。

大意は、――慧能(六祖)が、あるとき南嶽に、「ここに何が来ているのか」と語った。この言葉は、眼前に見ているもの(恁麽)が証の世界であることは疑いない、といっているのだ。なぜなら、ここにあるのは、対象的に理解することのできない「不会」のもの、すなわち、自己の修行であり、「什麽物」だからである。万物は、かならず「什麽物」(修)の現成であると考えよ。一物も、また然りである。「什麽物」という言葉は疑問を語っているのではない。ここに現成している(恁麽来している)、修をいうのだ。――

道元のいう「什麽物」とは、何かを見て、それが何であるかわからず、その正体を見定めようとしているときの言葉ではなく、問の形によって、すでに眼前に現成し、そこに恁麽来している自己の修をいうのです。(218頁)

■「什麽物、恁麽物」とは、眼前に見る世界に現成しているのは何か、という問であり、そこで問われている「「什麽物(しもぶつ、なに物)」とは、修行のことなのです。道元にとってはこの修が、証の規準でした。とすれば、もしこの問に対して、自分がいま見ている世界は、これまでの自分の修の現成であり、「ここに来ているのは修だ」と答えることができるならば、そう答えるだけの自らの修行の裏づけがあるとすれば、いまここに見ているのは、「証の世界(仏性)だ」と言い切ることができるはずです。「仏性」の巻冒頭の段における、「すなはち悉有は仏性なり」という道元の言葉は、以上のような論理の結論に当る部分なのです。この点についてみていきましょう。

ここにはまず、釈迦仏の次の言葉が示されています。

釈迦牟尼仏言く、「一切衆生、悉有仏性。如来常住、無有変易(むうへんやく)」。

道元はこの言葉こそ、これまでの一切諸仏、一切祖師の参学の眼目を語るものだといっています。これは普通に読めば、「一切衆生はことごとく仏性を有す。如来は常住にして、変易あることなし」ということになりますが、道元はそれとは違って、「悉有仏性」というところを、「悉有は仏性なり」と読んでいるのです。その読みは次の文章に示されています。

世尊道の「一切衆生、悉有仏性」は、その宗旨(そうし)いかむ。「是什麽物、恁麽物」の道転法輪なり。あるいは衆生といひ、有情といひ、群生(ぐんじょう)といひ、群類といふ。

「悉有」の言(ごん)は衆生なり、群有なり。すなはち悉有は仏性なり。悉有の一悉を衆生といふ。(221~222頁)

■ 見物聞法の最初に、難得(なんて)難問なるは「衆生無仏性」なり。或従(わくじゅう)知識、或従経巻するに、きくことのよろこぶべきは衆生無仏性なり。「一切衆生無仏性」を見聞覚知に参飽せざるものは、仏性いまだ見聞覚知せざるなり。(230~231頁)

(2014年6月10日)

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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