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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『まなざしの誕生』下條信輔著 新曜社

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『まなざしの誕生』下條信輔著 新曜社

■赤ちゃんは生まれつき、自分の感覚器官と運動器官をフルに駆使して、積極的に外の世界を探索し、興味深い対象を発見すると、それについて最大限の情報を得ようとするような、強い衝動を持っている。わかりやすくいえば、「物見高いのは生まれつき」ということになる。

そして、この「物見高いのは生まれつき」という点こそ、じつは科学的な「赤ちゃん観」の革命=ベビー・レボルーションにつながる、より根本的な発見といえるのだ。

「生まれつき」とはいっても、それまでの、何もかもを経験による学習のあかげと割りきってしまう考え方をただ否定して、逆に何もかもを生まれつきの能力として認めてしまおうという立場だと、誤解してはいけない。むしろ、人間の心の発達におけるさまざまな事実――ことばの獲得やものの見方の学習など――を理解しようとするとき、「すべて経験によって学ばれるのだ」というだけでは、結局何もわかったことにならないというあたりまえのことを、まず率直に認める。その上で、具体的に何が、生まれつき「組み込まれた」メカニズムであるのかという発達の出発点と、そこからの学習のみちすじとを、できるだけはっきりさせることによって、「赤ちゃんは白紙のような状態で生まれてくる」という素朴な誤解を、発展的に乗りこえようとする試みなのだと考えたい。

そのような観点からすると、ものの見方や外の世界の事物について学びはじめるために、あらかじめ「組み込まれた」出発点として名ざされなければならないのは、(頭や目などのからだの動きをふくめた)主体的な探索活動の能力そのものだということになるだろう。(52~53頁)

■これらをまとめるとすれば、赤ちゃんは「何かがありそうな方」、「何かが起こりそうな方」を好んで見るといえそうである。同じことをもう少し理屈っぽく言いかえるなら、赤ちゃんは、時間的-空間的に変化に富む刺激を好むという言い方もできる。

赤ちゃんに話しかけるときには、誰でも思わず身ぶりや表情が大げさになり、声の抑揚も大きくなってしまうが、赤ちゃんのこのような習性を考えれば、そのほうが都合がいいのだ。

赤ちゃんは――少なくともヒトの赤ちゃんは――能動的に探索することのできる、「情報収集マシン」として設計されているといえるかも知れない。(54~55頁)

■ここで、「現象としての選好注視」と「方法としての選好注視」とのちがいについて、もう一度はっきりさせておきたいと思う(もちろん、違いと言っても、同じもののふたつの側面だが)

赤ちゃん研究のレボルーションに果した役割という点からすると、このふたつは対照的である。まず選好注視を現象として見ると、赤ちゃんがつねにより情報量の多い側を選ぶという事実そのものが大切である。前にも述べたとおり、この発見は、赤ちゃんの自発的な情報探索の活動を、生まれつきのものとして認めることにつながる。

これとは反対に、選好注視が赤ちゃん研究の方法として応用されるときには、赤ちゃんがどちらを選ぶかではなくて、とにかく一貫した選好を示すことの方がはるかに大切である。それによって、感覚、知覚のさまざまな側面を調べることが可能となり、心の発生学の間口が大きく広がることになった。(57頁)

■最新の電気生理学や解剖学などの教えるところによると、ヒトやサル、ネコなどの視角処理システムは、大きくふたつの系統に分かれる。ひとつは、伝達の速度がたいへん速く、明るさ(コントラスト)の変化や運動に敏感だが、解像力が低く、色に対して鈍感なシステム、もうひとつは、伝達の速度が遅く、変化を検出する力は落ちるが、解像力と色の検出にすぐれたシステム。(61頁)

■その理由はたぶん、認識しなければならない相手が、光や網膜上の映像(イメージ)そのものではなくて、外の世界に存在しているほんものの「もの」だからだろう。わたしたちは、光やイメージを食べて生きながらえることはできないし、また自然の光やイメージによって、生命をおびやかされることももない、そして、赤ちゃんが、光ではなくて「もの」を見るこのような能力を、生まれてすぐに学ばなくてはならない理由も、そこにある。(80頁)

■(1)赤ちゃんはいつ、世界を「正立」したものとして見ることを学ぶのか?

先に説明したとおり、網膜上の映像は外の世界のものに対して倒立している。しかし、外の世界についてのわたしたちの知覚は――この網膜像についてのわたしたちの知覚は――この網膜像によってもたらされたことがはっきりしているにもかかわらず――「正立」している。これはただ単に、わたしたちが学んだせいなのだろうか?つまり、わたしたちはいつの間にか「網膜像が倒立している時は、外界が正立しているものと解釈しなさい」ということを学んだのだろうか。

(2)赤ちゃんにとって、ものはどのようにして、奥行きをもって見えるようになるのか?

網膜像が平面的であるのに、世界が3次元に見えるのは、このふたつの間にある規則性があるためらしい。つまり、わたしたちの住んでいる世界の奥行きは、網膜像の中に一種の信号、あるいは暗号として埋め込まれているとみることもできる。だからこそ、たとえば前ページのイラストのような風景で、家が人より手前に、木が家より手前にあることを、わたしたちは誰も見まちがえたりはしない。わたしたちはいったい、いつどこで、そのような「暗号解読」の術を学んできたのだろう?

(3)赤ちゃんにとって、ものはどのようにして、いつもお同じものに見えるようになるのか?

網膜像が前にもふれたとおり、同じものに対して千変万化のものだとすると、それが「同じもの」だということを、わたしたちがはじめから知っていたとは考えにくい。たとえば極端な例として、頭や眼球を動かしたときの、ものの像の網膜の上での動きを考えてみよう。このものが本当に動いているのではなくて、実際には静止しているのだということを、わたしたちは知っているし、また現にそう知覚する(対象の位置の恒常性)わけだが、それはどのようにして学ばれたのだろうか?

(4)赤ちゃんの手足は、どのようにして、見えるのと同じ場所に感じられるようになるのか?

右手を使って、あなた自身の左手をちょっとつねってみてほしい。痛みが右手に感じられないのはなぜだろう?あるいは、からだのほかの部分に感じられないのはなぜだろう?さらにはまた、あなたの隣りにたまたまいる人の左手が見える位置や、その左手の置いてあるテーブルの角や、天井の隅や、はたまた空気以外には何もない空中などに痛みを感じないのは、いったいどうしてだろう?

わけのわからない質問をするな、という前に、あなたの手と目とから別々に発した信号のことを、考えてみてほしい。それらを脳内にまでたどってみたところで、そのふたつの信号の流れの間に、神経による何らかの連絡を仮定しないかぎり、この疑問には答えられない。そして次には、この連絡がいつの間に、またどうやって成立したのかという疑問が、湧いてくるのだ。

すでにお分かりだろうと折り、この四つの問題はどれも、赤ちゃんのものを見て認識する能力が、カメラのモデルを超えるのはいつごろからなのかという問題にほかならない。カメラのモデルを超えるということはつまり、目から入ってくる光や、耳から入ってくる音波に対して機械的に反応するのではなくて、それらを外の世界に実在するものや人からの信号として解釈するということ、外の世界についてのイメージや記憶を持つということである。

さらに言いかえれば、これらは、赤ちゃんが単純な機械のはたらきを超える――つまり「心』を持つ――ようになるのは、いつごろなのか、という問題なのだ。(81~84頁)

■カリフォルニアを本拠に活躍した知覚心理学者G・M・ストラットンは、視覚の研究の歴史の中でもっとも向こう見ずな――といって悪ければ、もっとも勇敢な――実験者のひとりといえるだろう。

1890年代に2度にわたって彼は、目に映る像を180度回転する、つまり上下左右を逆転するようなめがねを、片目につけたままで、文字どおり「生活」した(もう一方の目は、いうまでもなく覆われていた)。この「さかさめがね」を付けたままで、数日間(とくに2回目の実験では8日間)日常生活を続け、自分の知覚と行動とを細かく記録したのだ。(85頁)

■しかも、ただ慣れるばかりではない。ストラットンの記録の後半を読むと、外の世界はいつの間にかひんぱんに「正立」の印象を取り戻すようになった。とはっきり書いてある(剪光までに、ほかの動物では、サルで多少の順応が見られるほかは、あまり行動の改善が見られない)。

ストラットンによると、まがねをつけはじめてから何日かたつと、見える自分のからだの位置と、感じられる自分のからだの位置とが、いつの間にか一致するようになり、そのことが「正立」印象が戻ってくるきっかけになるという。また「正立」の印象が戻ってくるのは、とりわけ自発的に行動し、外の世界のものに向かって積極的にはたらきかけようとしているときであるらしい。この点は、その後の研究でも確かめられている。(88~89頁)

■ここで、蛇足ながら、めがねを外した直後の残効について、ひとこと触れておきたい。このような順応期間のあとでめがねを外すと、その直後はふたたび視野の動揺がはげしく、それは数時間続く。しかし上下左右の方向性に関係した混乱は、特別な場合を除くと、ほとんど生じない。「視野がふたたび倒立する」という、一部に流布されている俗説は、だから厳密には誤りである。(89頁)

■見かたによっては、赤ちゃんは誰でもはじめから、逆転めがねをつけて生まれてくるのだ、という言い方もできる(網膜は倒立しているから)。しかしだからといって、「赤ちゃんは、はじめは世界を上下さかさまに見ている」などとは、やはりいえない。

その証拠に、もし赤ちゃんが世界を上下さかさまに見ているとしたら、「さかさめがねの実験」のおとなの被験者と同じように、たちまち気分が悪くなり、吐いてしまうだろう。しかし、もちろんそんな兆候はすこしも見られない。

赤ちゃんが吐いたりしない理由は、生後数ヶ月までの赤ちゃんでは、はじめから外の世界についてのモデルやイメージを持ち合せていないということである。比較の規準がないのだから、目まいを起こしたりする理由もないわけである。

また、生後数ヶ月をすぎて、いよいよ赤ちゃんが経験を通して学び、ものや世界についてのモデルを心の中に作りはじめたときに。それと矛盾し抵抗するような過去のモデルがないということもある。だから、古い記憶に照らして見える世界が、「さかさ」だと思いこんだり、わけもなく揺れ動いているとみなしたりはしないのだ。

生後2、3カ月目までの時期は、刺激に対する反射的な反応と、睡眠(沈静)-覚醒(興奮)の内発的なリズムとによって支配されている。ものが見えたり、もの(人)が音をたてたりしたときに、この時期の赤ちゃんが反応を示すのは、そこにものや人を確認したからではなく、光や音波など、ある特性を持った物理的なエネルギーそのものに反応しているのだと考えていい。つまり、外の世界に定位した反応ではなくて、目や耳が刺激されたから反応しているというだけの話である。(92~93頁)

■もう納得していただけたと思うが、生まれたての赤ちゃんににとって「世界が正立している」ということは意味をなさないが、しかしだからといって「逆転」しているともいえない。つまり、赤ちゃんの見える世界は、方向未分化の段階から、文節化した段階へと進化する。

「見る」というような、一見受身で機械のようなはたらきの中にさえ、このような本質的な変化が見いだされたことの意味は大きい。というのも「未分化から文化へ」という流れは、赤ちゃんの心の発達を律している大きな原則だからである。

目を閉じたりふたをしたりすれば、目の前のおしゃぶりは見えなくなるが、目を開けたりすたを取ることによって、また見ることができる。おかあさんの顔は、見る角度や距離によってさまざまに変わるが、声を聞いたり乳首にしがみつくことによって、同じおかあさんであることはわかる。――赤ちゃんはまずこのようにして、時々刻々と変化していく感覚情報の流れ(センス・データ)と、その背後にひそむ「永続する」ものとの区別を学ぶ。

ひとたびこの区別を学ぶと、今度はこの永続するものに向かって、赤ちゃんははたらきかける。自分の手足をつかむと、いつもその手足に触感があるが、ものではそうはいかない。だから自分のからだと、ほかのものはちがう。人とものとでは、はたらきかけたときの反応がちがう。だから、人とものとはちがう、等々。

こうして、はじめ川の流れのように無意味でのっぺらぼうだったものの中から、ちょうど手を入れてかきまわすと渦ができるように、「からだ」や「もの」や「ひと」が現われ出てくる。

何かにはたらきかけることによって、その対象は分化してゆく。分化した対象はまた、はたらきかけを促進する。このようにして、体と情緒と知能とが、互いに作用し合いながら前進していくのだ。(96~97頁)

■そこでキャンポスたちは、この一見奇妙な結果を、次のように解釈した。つまり、ハイハイをはじめる前の赤ちゃんでも、奥行きの識別はできる。しかしハイハイにともなう経験によって、深い側が危険であるという怖さが学ばれるのだ、と。同じことを裏がえせば、「落ちると痛い」ということを、「奥行きが深い」ということの意味として学ぶのだ、ともいえる。

こうしてみると、「赤ちゃんは生まれつきいろいろなものが見えている」という意見も「数ヶ月を過ぎないと、経験を通じていろいろなことを学べない」という意見も、両方正しいことがわかる。簡単に要約すると、情報を検出する力ははやくから備わっているが、それを実生活(?)に役に立つほんとうの情報として解釈し、利用できるようになるには、経験が必要らしいのだ。(101頁)

■前にも説明したように、「知覚の恒常性」というのは、さまざまな条件の変化にもかかわらず、同じものを同じものとしてみるような、一種の調節の能力のことをいう。赤ちゃんにとって、こうしたものの見え方の恒常性を獲得することが、実はものの「同一性」や「永続性」の概念の発達と表裏の関係にあり、ものを認識する力の基礎となるものであることは、あらためて確認しておく価値がある。針穴写真機のスクリーンや、カメラのフィルムに映ったものの像は、それだけでは、そのものにはたらきかけてゆく上で、何の役にも立たないのだ。

このような意味から、J・ピアジェによってはじめて体系的に研究された、「対象概念」の発達の研究は、たいへん興味深い。

ピアジェの有名な発達段階のうち、いわゆる「感覚運動期」(0~18ケ月齢)の中でも、その第1段階(~2ケ月齢)の子どもは、ものを隠しても、特別な反応は示さない。しかし、第2段階(2~4ケ月齢)になると、ものが動いてついたての後に入っていくのを、追跡することができるようになる。

またT・G・R・バウァたちのその後の研究によると、ものをついたてでしばらく隠してから、ついたてを取り去ったとき、ものが再現する場合よりも、消えてしまっているときの方が、驚きの反応を示すという。しかし、この時期の子どもは、動いているものの同一性を、運動だけによって定義しているらしく、トンネルに入て行ったものが、まったく別の形のものになって反対側から出てきても、少しも驚かない。

永続的で同一のものとしての「対象」の概念がせいりつするのは、どうやらその後の第3段階(6~12ケ月齢)になってからであるらしい。この時期になると、布の下に完全に隠されたものを、自分で見つけることができるようになるという。

はっきりした資料があるわけではないけれども、このようなものの概念の成立と、視覚のいろいろな側面での恒常性の成立とは、多かれ少なかれ、つながっているものと考えることができる。(104~105頁)

■こうして、おとなでのプリズムやさかさめがねの実験から、からだの見える場所と感じられる場所との重なりは、実は後天的に学ばれたものにすぎないらしいということが、わかってきた。このことからすぐに、赤ちゃんの空間知覚についても、素朴な疑問が浮かんでくる。

その1。――生まれて間もない赤ちゃんは、自分の手を、視野内のどこに感じているのだろうか?もし、見える位置と感じられる位置の間の関係が本当に学ばれたものであるのなら、経験によって学ぶチャンスのまったくない、生まれたばかりの赤ちゃんは、自分の手を見える世界の中のどこにも感じることができない、ということになってしまうのではないだろうか。

疑問その2――今、経験によって学ぶ、と簡単に言ったが、具体的にはどのような手がかりを使い、またどのようにして学ぶのか?見える位置と感じられる位置とがまだ一致していないとすれば、たとえば、視野内のどれが自分の手でどれが他人の手であるのかを、いったいどうやって見分けるというのか?

このふたつの問いはどちらも一見難問にみえるが、こたえるのはあんがいやさしい。第1の問いに対しては、あっさりそのとおり、と認めてしまうほかはない。生まれたばかりの赤ちゃんは、自分の手を視野内のどこに感じてよいのか、わからないはずであり、だから、どこか特定の場所に感じてなどいないのだと考えた方がいいのだ。しかし、これは同時に「まったくの正反対、赤ちゃんは自分の手をそこらじゅうどこにでも感じている」と答えているのと変わりない。

これは一見突飛な考え方に見えるかもしれない。しかし、赤ちゃんにとってはそもそも、自分と他人の区別もめいかくではないはずだという、ふつうに認められている考え方からも、これはうなずける。となりの赤ちゃんが泣くとき、またおかあさんが泣くとき、世界全体が「悲しくなって」赤ちゃんは泣くのだ。また自分の手の甲をつねられれば、自分の知覚する世界全体が「痛くなって」赤ちゃんは泣くのだ。(106~108頁)

■たとえば今、「右手を上下に振れ」という命令が、大脳の運動野から発せられたとしよう。赤ちゃんには自分の右手が動くのが見えるだろうが、その見える運動は、運動の命令とタイミングがいっちしており、だからリズムも同じである。このとき、体性感覚にも当然変化が起こるけれども、それもまた、運動の命令や見える動きとタイミングが完全に一致している。これに対して、他人の手や独立したものでは、このような時間的な一致は――偶然に起こったとしても――決して長続きはしない。

「赤ちゃんの自発的な探索活動が、発達を助ける」とよくいわれるが、その一番根本的な理由がここにあると思う。その理由とはつまり、動きを通してしか、赤ちゃんは未分化の世界から脱却できないのだ。(109頁)

■このような学習に、どれぐらいの時間がかかるかは、学ぶ内容にもより、環境にもよるだろう。しかしとにかく、このような方法で赤ちゃんは、動きを通して自分のからだを「検出」し、その場所に自分のからだを感じるようになり、世界の中へ身を挺して「住み込んで」いく。

また、そうすることによってはじめて、ものの「恒常性」や「永続性」も、世界奥行き」も、はっきりした意味を持つようになる。そしてついには、ものがものとして、他人が他人として立ち現われてくる。ひるがえって、そのことが今度は「自我」の確立につながるというわけだ。(110頁)

■1693年ごろ、ある人が友人あての手紙の中で、次のような問題を出した。――生まれてから一度も目で見る経験をもったことのない、先天的な盲人がいて、経験によって、触覚だけの手がかりから、立方体と球とを区別して正しく名ざすことができるようになったとする。さらにこの盲人が、開眼手術を受けた結果「見えるようになった」、つまり正常な視覚機能を回復できたと仮定しよう。さて、この人は手術直後に、目の前に置かれた立方体と球とを、手でさわることなしに目だけに頼って、正しく名ざすことができるだろうか?

――この手紙の受取人は、実はイギリス経験論の代表的な哲学者、J・ロックであり、差出人はその友人で、自分自身も法律家兼哲学者だったノリヌークスという人だったといわれている。この問題は彼の名にちなんで「モリヌークスの問題」と呼ばれ、空間認識の発生についての問題をわかりやすく示した例として、その後哲学や心理学の歴史にときおり登場することになった。

哲学史を入門程度にでもかじったことのある人なら、だれもが簡単に想像するとおり、ロックの答えは当然ノーだった。(113~114頁)

■こういう考え方とはまったく反対に、次のようの考えることもできる。つまり、時間と同じように空間も、わたしたちの感覚経験を入れる器のようなものであり、経験による感覚間の連合などとは関係なく、あらかじめ与えられた認識の枠組みなのである、と。

おおざっぱに「先験論」と呼ばれるのがこの考え方であり、ドイツの合理論者、I・カントはその代表者とされる。

この考え方を延長すれば、たとえ立方体を見ながら同時にさわるような経験が前もってなくても、見える立方体をさわって感じられる立方体と同じと判断する絶対的な規準が、はじめから独立に存在していることになる。だから先験論の考え方を推し進めれば、「モリヌークスの問題」に対する答えも、イエス――すなわち、開眼手術後の盲人は、はじめて見る立方体と球とを正しく識別し、名ざすことができる――という結論になる。(115~116頁)

■さわったときに感じられるものの形を、目でみたときのものの形と関連づける能力が、赤ちゃんにもすでに備わっているということは、もう疑う余地がない。(124頁)

■厳密な意味では、「赤ちゃんは生まれつき心をもっている」とはいえないが(3章)、だからといって「ばらばらにされた心」を持っているとは、なおさらいえない。赤ちゃんは「心」という大きな全体に先立つ、少しちがった全体的な機能を持って生まれてくるのだ。

それはちょうど、溶液が冷やされて大きな結晶ができるときに、もとの溶液は分けられない一様均質な全体であって、立体組み合わせパズルのように、いくつかの部分に分けたりすることができないのと同じようなものだろう。それにもかかわらず、美しくて形の整った結晶ができるためには、溶液がなくてはならないように、この時々刻々と転変する全体的機能は、心の発生にとって欠くことのできない前提なのだ。(126~127頁)

■というのは、目新しいものに注目し、それと交流しようという強い傾向を持っていないなら、何かについて学ぶなどということは、どのような意味でも起こりようがないと思われるからだ。世間でもよく知られている「自閉症」とは、こうした誰しもが生まれつき持っている性向が、何らかの理由で障害を受けたものとみなすことができる。

「目新しさ-なじみ深さ-馴れ」の次元こそは、この世に生まれ落ちた赤ちゃんが、まず最初に生きはじめる「地平」であり、心の発生への転回軸でもあるのだ。このような深い意味合いを込めて、わたしたちはあらためて赤ちゃんを「好奇心の動物」と呼ぶことにしよう。(130頁)

■こうしてガラガラは、「見ればこのように見えるもの」「振ればこんな音がするもの」「さわればこんな感じのもの」としての――つまり活動と深く結びついたイメージ(シュマ)としての――意味を持つようになる。このときにはもう、赤ちゃんにとってガラガラは、感覚をこえた「実在」になっているのだ。

そして、このような事物のシュマが、赤ちゃんの次の活動をみちびくガイドとなることは言うまでもない。(142~143頁)

■神経心理学の世界的権威だった、N・ゲシュヴィンドが、次のように主張したのは、古く1965年ごろのことだった。「感覚同士を結びつける能力こそが、人間の認知発達に基礎を与える」。赤ちゃん学の方法の革新によって、このことばの当否を考えるのに十分な材料が与えられるまでに、かれこれ20年ほどもかかった勘定になる。(143頁)

■だからもしかりに、ケイくんの「鏡体験」の中に、彼の突然の洞察の謎を解くカギが本当に隠されているものとしても、それだけでは説明になっていない。また実際、彼のこの筒然の行動は、鏡を見ていてその直後に起こったわけでもない。鏡の中に彼が見つけた手がかりは、鏡なしの日常体験のなかにも、つねに潜んでいるような何かでなければならないのだ。(159頁)

■「ケイくんのイチゴ」の例でいうと、ケイくんはまず、おとなたちの手がイチゴをつかみ、からだのある場所=口(岡野注;顔面は自分では見えない)へ運ぶのを見る。次に彼は、自分が同じく手を動かしてイチゴをつかみ、運ぶ能力を持っていることに気づく。ここで「同じく」というのは、ケイくんが自分の目を通して、確認するのだ。

ところで、イチゴを手でつかんだケイくんは、ためらうことなくそれを口へ運ぶ。これは生存に直結した本能的行動だから、これを生まれつきのメカニズムによるものと仮定することには、あまり異論がないだろう。そこで、ケイくんが自分の目で観察するおとなの口と、彼が体性感覚として経験する自分の口との間に、――見え、しかも食べられるイチゴを介して――ある対応関係ができてくると考えられる。

ここでいう対応関係というのは、あくまでも、もの(イチゴ)に対する手と口によるはたらきかけによって基礎づけられたもの――つまりピアジェのいう「シュマ(図式)」にもとづくもの――と考えていいだろう。(161頁)

■さらに別の例として、前にも登場してもらったケイくんは、6、7ケ月目ごろ、口を閉じ、指の助けを借りて下くちびるをふるわせながら、息を吐き出して振動音を発する遊びを覚えた。おとなたちがすかさずこの行動をまねをすると、ケイくんはいっそう喜んでくり返し音を発し、14ケ月すぎた今でも、彼のお好みの遊びのひとつである。

この例の場合、耳によるフィードバックの助けを借りて、おとなのくちびるとケイくん自身のくちびるとの対応づけがなされるわけだが、これだけですでに――生まれつきのつながりを一切仮定せずに――自分の感じられる口と、他人の見える口との対応を学ぶことができるという事実は、この問題に悩まされ続けていた私を驚かせた。(165頁)

■ミネソタ大学のA・スルーフ博士は、そのすぐれた育児書の中で「子どもにとって一番教育的なものは、自分自身のからだやほかの人たちのからだである」と言っている。からだをおもちゃにしておとなと遊ぶことが、赤ちゃんにとってどれほどたいせつであるかは、これまでにあげた例からも、納得していただけたのではないだろうか。

だからこそ、「おしゃぶり実験」に示されたような、ものの認識能力が発揮されるずっと以前から、赤ちゃんはおとなの表情や身ぶりのものまねをはじめるのだ(蛇足かも知れないが、コンピューターやテレビやテープが、本物の両親の代わりになり得ない理由も、この辺にある)。

もうひとつくり返し強調しておきたいのは、赤ちゃんの側ではなくて、むしろおかあさんやほかのおとなの側からの、赤ちゃんに対する反応やはたらきかけが、発達の重要なきっかけとなるということである。(「赤ちゃんによって誘発される社会行動」)。それによって赤ちゃんは、自分の活動が外の世界に変化をもたらすこと、つまり世界にコントロールを及ばせることに気がつきそのこと自体によろこびを感じて、さらに探索を進めようとする(「随伴性検出ゲーム」)(「166~167頁)

■たとえば、「逆立ちした観点」から見れば、からだとものの関係のような「ものの世界」の理解と人と自分の交流のような「心の世界」の理解とは、互いに何のつながりもない、ふたつの別々の問題に見えてしまうことだろう。

けれども、「からだが出発点」、「おとなの側からのはたらきかけ」、「随伴性検出ゲーム」、そして「未分化から分化へ」というような点に目をつけて考えてみると、実際にはこのようなふたつの流れが、密接に絡み合っていることに気がつくはずだ。(168頁)

■つまり、はじめは「鏡の中のサル」に対して、歯をむいて威嚇したり、逆に友情をしめそうとしているが、やがてそれが「自分」であることに気づく。鏡の前で手をぶらぶら振ったり、自分の頭をたたいたりするような探求によって、チンパンジーはそれを学ぶらしいのだ。

たとえば、オデコや歯の間の異物を、鏡を見ながら取り除いたり、鏡がないと見えないからだの部分を、鏡を見ながらさわったりつまんだりするような反応を示しはじめた。さらには鏡に向かって、わざとおかしな顔を作ってみせるようなことさえしたという。

これが本当の意味の「自己認識」と呼べるかどうかを検証するため、ギャラップは次のような奇想天外な実験を計画した。

まず、鏡に十分慣れ親しませてから、麻酔でチンパンジーは眠らされる。次に、完全に無味無臭で、皮膚につけてもゴワゴワしたりしないような特別な染料を使い、チンパンジーの顔の一部を真っ赤に、ケバケバしく化粧してしまう。

この哀れな「歌舞伎役者」は、目を覚まして鏡を見るや、文字どおり「びっくり仰天」する。しかし、決して鏡の中の顔に手を伸ばしたりはせず、ほんものの顔の赤い部分をこすったり、ひっかいたり、またそのあとでその指をじっと見つめる、鼻へ持って行ってにおいをかぐ、などの行動がみられた。(173頁)

■このチンパンジーの例からわかるとおり、からだの接触なしで育てられた子どもは、「自分」をはっきりと確立することができない。そのことからまた、他人と正常な社会的交渉をもつことができず、ものごとの認識に異状をきたし、ひいてはさまざまな情緒障害を起こすことにもなる。(176頁)

■自分の腕をつまんでみたときと、他人の腕をつまんでみたときとでは――目に見える腕としてはよく似ているにもかかわらず――からだに起こる感覚はまったくちがう。「さわり」同時に「さわられている」感覚があるのは、自分のからだだけである。自分の頬や背中をつまんだときは、直接目には見えないけれども、からだに起こる感覚としてはやはり、自分の腕に似ているといえるだろう8実存主義-現象学の哲学者サルトルたちは、このような事情を、「即自」と「対自」という概念でとらえた)。(176頁)

■先の腕をつねる例を考えても、見える腕と感じられる腕との関係を学ぶことが、自分と他人のちがいを理解することと密接な関係にあることは、はっきりしている。ことばの発達の基礎も同じところにあるといわれており、感覚同士の結びつきを確認することが、「心」の出発点としてどんなにたいせつか、よくわかる。(177頁)

■フランスの児童心理学者R・ザゾは、より実証的な方法で、自己像の認知の発達過程を研究した。たとえば彼は、ガラスでへだてられたふたごの赤ちゃん同士の反応と、鏡に映った自分の像に対する反応とを、発達の経過を追いながら比較した。

このふたつの条件の間の一番大きな違いは、「連動性」のあるなしである。つまり、自分の運動によって、相手の見え方が変化するかしないかである(前に述べた「随伴性」の検出)。この点が区別されはじめたとき、この二つの条件の根本的な意味のちがいが理解され、自分というものの認知が芽ばえると、ザゾは考えたのである。(182頁)

■この過程には、想像力と象徴的な「意味作用」(シンボル)の芽ばえが認められる。そして何よりもたいせつなことは、赤ちゃんが、他人や鏡像というあるほかのものを通じてはじめて、自分の存在を自分として認めることができたということである。(184頁)

■見えるからだと感じられるからだとを、はじめからふたつの独立したものと考えるからいけないので、赤ちゃんにとっての感覚世界はむしろ、たえず流動する渾然一体の世界である。つまり「感覚同士が結びつく」のではなく「感覚同士ははじめから結びついている」のだ。

複数の言葉を母国語と同じようにあやつる人が、5歳になるころまで、自分が複数の言語をしゃべっていることに気づかなかった、というおもしろいエピソードを、チョムスキーが最近の本で紹介している。赤ちゃんにとってのさまざまな感覚も、このようなものだろうと、私は考えている。(187~188頁)

■メルツォフたちの発見は、そのようなおとなと赤ちゃんとの間のコミュニケーションの能力が、ほとんど誕生の直後からはじまること、そして赤ちゃんが生まれつき、そのような「共鳴し」「応答する」能力を持っているということを、如実に物語っている。

そして最後に、この発見は、「からだが先だつ」というわたしたちの考えが正しいことも示している。

ひとりだけ隔離して育てられた「みなし子チンパンジー」の例ではっきりしたように、自分自身のからだと他人のからだをぶつけ合って遊ぶことが、未分化の世界から分化した世界へと進む、決定的な足がかりになる。「おしゃぶり実験」(4章)で示されたようなものの認識能力よりも「ものまね」行動の方がずっと先に現われるということは、私には見逃してはならないたいせつな発達のみちすじであるように思えるのだ。(188~189頁)

■というのも――あたりまえのことだが――人間は、コンピュータのデータベースとはちがって、自分自身の経験を通じて取り入れた情報しか、記憶することができないからだ。そうした情報を取り入れるはたらき――つまり感覚、知覚のはたらき――がなければ、記憶するべき情報もあり得ない道理だろう。

感覚や知覚のはたらきと、記憶力との関係について、もうひとつ言っておきたいことがある。それは、感覚や知覚ができるということ自体、すでに(一種の)記憶力の存在を意味しているということだ。

たとえば目の前にコップが「見えた」ということは、とりもなおさずコップが見えたと「感じる」ことであり、ということはつまり、コップのイメージが、心の中にしばらくとどまったということになる。

さらに、コップをただの光と影の集まりとしてではなく「コップ」として見るためには、目に見えているものと、心の中にたくわえられてある以前からの知識とを、比べてみるはたらきがなくてはならない。(198頁)

■そもそも、人はどうしてものを忘れるのか?――この素朴な疑問にどう答えようとするかで、記憶に対する考え方は大きく2通りに分かれる。

ひとつは、文字どおり「消えてしまうから」という考え方で、「抹消説」とでも呼んでおくことにしよう。

ちょうどノートのあるページを消しゴムで消すように、あるいは氷でできた彫像が、だんだん溶けていまうように、記憶そのものがなくなってしまうと考えるのだ。

もうひとつがこの「神経痕跡説」で、それによると、人がものを忘れるのは、消えてしまうからではない。「痕跡」そのものは神経システムのどこかにとどまっているのだが、あとからはいってきたほかの記憶によって抑えられたり、混戦したりして、うまく「読み出す」ことができないのだと考える。(202頁)

■チェスの名人が、現実的な局面に限って抜群の記憶力を示したのは、単に似たような局面を前にたくさん見てきたせいだ――などといって、簡単に片づけてしまうわけにはいかない。

似たようなものをたくさん見ることは、ふつうは混乱のもとになるだけだし、チェスを知らないしろうとにたとえ何万種類の似通った局面を見せても、それだけでは、とても名人のような記憶力を示すことはできないだろう。

名人が抜群の記憶力を示した本当の理由は、彼が最終的なゴール(ゲームに勝つこと)に向かって強く動機づけられ、そのために必要な戦術、パターン、原則――まとめて「定跡」とよばれるもの――を身につけたからである。

そのおかげで、彼は前後の変化を想像し、形勢の優劣を判断し、次に打つべき手を考えることができる。つまり与えられた局面が、初心者の場合とは比べものにならないほど多くのイメージを心の中によび起こし、その中に局面が意味のあるものとして位置づけられ、つなぎとめられるのだ。

より現実的な意味での、役に立つ「記憶力」とは、じつはこのようなダイナミックなはたらきである。目標と手段を段階的に位置づけ、現状を意味のある文脈の中で評価し、先の変化を予測する――そのような判断や思考のトータルなはたらきから、「純粋の記憶力」なるものを切りはなすことは、本来できない相談なのだ。(208~209頁)

■チェス名人の異常な記憶力をもたらした知識(定跡に関する知識)は、このような意味で、記憶そのものを助ける記憶、記憶の仕方そのものについての記憶と考えることもできる。そのような記憶を、近ごろの認知心理学では「メタ記憶」と呼んでいる。

つまり、記憶は二重の意味で発達する。

まず第1に、ふつうの日常的な意味合いで、経験を通して学んだ知識をたくわえるということがある。しかしそれと同時に、学ぶことを通して、記憶の仕方そのものが変化し、発達するという側面も、見落としてはならない。(210頁)

■赤ちゃんは自分の手や口を使って乳首を探し、その結果は、触覚や味覚を通じてフィードバックされる。戻ってきたその情報にもとづいて、探索や吸いつきの動作が軌道修正される(「感覚-運動のループ」とよばれる)。赤ちゃんの「記憶」は、からだを通じた、そのような感覚と運動の文脈の中でしか、成り立たない。

もうひとつ忘れてならないのは、ここでの赤ちゃんの記憶が、おかあさんとの間の直接の交流に、もとづいているということである。赤ちゃんは、まず何よりもおかあさんそのものを覚え、そしておかあさんの与えてくれるもの、おかあさんとのつきあいのルールを覚えていく。(213頁)

■ところで、親子の交流といえば、生後6ケ月をすぎるころから、「イナイイナイバー」が赤ちゃんのお気にいりの遊びになる。

いったん隠されたおかあさんの顔が、ふたたび現れるのをみて、はっきりした反応を示すためには、心の中におかあさんやおかあさんとのつきあいに関するイメージ(シュマ)があり、それにもとづいて何かを予期することができなくてはならない。だからイナイイナイバーに対する反応は、記憶の発達のひとつの大きな道しるべとみることができる。

ここでおもしろいと思うのは、赤ちゃんの人見知りがはじまり、両親への愛着の基礎が作られるのが、やはりこの時期だということである。おかあさんをおかあさんとして、意味のあるまとまりとして認識するというだけで、赤ちゃんにとってはたいへんな仕事であり、たくさんのことを時間をかけて覚えなくてはならないのだ。(215頁)

■前に、記憶の発達の二重性、「記憶のメタ化」ということをいったのも、こうしたことを念頭においていたからだった。つまり、親子の交流が豊かになり、複雑になることは、じつはそれ自体、記憶を助ける記憶なのであり、覚えることのメタ化にほかならない。そして、そのことはまた、(次の章で述べるとおり)赤ちゃんが「学ぶ」ということの、本当の意味でもある。

このような分化の手順を踏まない数やことばの記憶は、心と知能の発生に関する限り、役立たずの神経痕跡にすぎないと考えなくてはならない。(216頁)

■心理学者H・スティヴンソンはその本の中で、赤ちゃんの「学ぶ」メカニズムとして、次の4つの可能性を挙げている。

⑴古典的条件づけ

⑵オペラント(道具的)条件づけ

⑶順応

⑷習慣化(馴化)(223~224頁)

■条件づけや順応、馴化の項でもふれたとおり、「学ぶ」ということは、与えられた特定の状況や刺激に対して、特定の反応の仕方でもって応じる能力を、獲得するはたらきにほかならない。(232頁)

■学ぶはたらきとは、場面と反応との一般性-特殊性のヒエラルキカル(階層的)な構造化である。そしてこの構造化ということは、赤ちゃんがものごとを学ぶ上でも、カギになっている。

白い犬にほえかけられたが、しばらくの間、白いものをなんでもこわがるというようなことが、よくある。これは、一般性-特殊性の見きわめをしそこなったためと考えることができる。黒い犬にほえられたが、白い冷蔵庫はほえなかったというような、その後の経験によって、この誤りは何なく修正されていくのだ。(233頁)

■カーヴの打ち方とストレートの打ち方を学ぶにはまず、カーヴという刺激とストレートという刺激との感覚的なちがいに気がつく必要がある。ということはつまり、今まで気がつかなかった「手がかり」に気がつくということであり、新しい学び方をみつけた(学んだ)ということにほかならない。

学ぶはたらきのこうしたダイナミックな変化を見落とすと、それこそ「ミミズと同じ条件づけ」式の、貧しい硬直したイメージに丸ごとからめとられて、抜け出せなくなってしまう。

その行きつく先が、一方では自動車の性能を比較するようにして「生まれつきの学ぶ力」を比較したくなる誘惑であり、もう一方では、何でもかんでも早く教えこもうとする「早期教育」の誘惑であることは、すでにしてきした。このふたつの落とし穴は一見全然別々のとうで、じつは底の方でつながった同じひとつの穴であり、しかもそれは出口なしの底なし穴なのだ。(234頁)

■このような、外に向かって開かれた能力は「知能」や「学習」が意味を成すための条件なのではなくて、じつはそれらの核心にほかならないのではないか?

■そのかわりにこのマシンは、外からのはたらきかけに対して「応答」する。そればかりか、環境からの入力と自分の応答との間の関係について、一般性-特殊性のヒエラルキーという観点からとらえる(人工知能風の表現を借りるなら「構造化し」「表象する」)初歩的な能力がそなわっているものとする。

その上このマシンは、入力に対する自分の反応と、フィードバックされたその結果とをつねにモニターしながら、少しでもましな手がかりを選択して次に役立てるという意味で「メタ学習」の能力を持っているとする(その学習は、非常におそいものであってもかまわない)。

このようなはたらきが、先の一般性-特殊性のヒエラルキーの構造的変化と一体になって発展していくことは、言うまでもない。(239頁)

■こうして、次のような逆説的な構図が浮かびあがってくる。――つまり、学ぶ能力や知能については、周辺的な機能にすぎないと思われたインターフェース/コミュニケーションの機能が、本当はそれらの中核にあり、逆に中核にあると思われた文法能力や計算能力などは、じつは周辺的な機能にすぎないとさえ言えるのではないかと。(240頁)

■刺激に対して応答し、その結果を識別することを学び、さらに応答する。――そういう無限のループの魔法のような力によって、赤ちゃんは、この世の中の成り立っている基本的なしくみの中を――フランスの心理学者H・ワロンのことばを借りれば「身体-自我-社会の地平」を――生きはじめるのだ。

先にふれたような情動の感染の事実(まわりが泣くと自分も泣く)や、5章で紹介したような身ぶりの感染の事実(ものまね行動)は、なにも赤ちゃんの心が未分化であることだけを示しているのではない。赤ちゃんが、周囲と敏感に「応答」し合い、密接に影響し合うループの一部として存在していることをも、雄弁に物語っているのだ。(243頁)

■おとながバイバイをするのはふつう、誰かに別れを告げるときであり、赤ちゃんはそれをくり返し目撃する。おかあさんがおとうさんにバイバイをするときには、おとな同士の一対一の「バイバイ」関係を、赤ちゃんが横から観察しているわけである。

この場面で赤ちゃんがものまねをすると、そのものまねはそれ自体は、おかあさんとの間の一対一の関係であるにもかかわらず、バイバイをされたおとうさんの側からの応答(バイバイのお返し)によって、ある突然の飛躍が起こる。

その飛躍というのは、おとな同士のバイバイという一対一関係と、ものまねという子-親間の一対一関係とが組み合わさって、「対-対-対」の呼応(うつしかえ)が実現することである。というのも、赤ちゃんは知らずしらずのうちに、「おとうさんに対してバイバイをする」という関係行為の全体を、おかあさんから写しとっているからだ。

つまり、この時点で赤ちゃんは、ただものまねではなくて、人と人との関係のまねをはじめているといえる。この飛躍が、学び方の飛躍であるという意味で、典型的なメタ化の過程であり、そこに場面と反応の「分化」のモメントが強くはたらいていることは、誰の目にも明らかだろう。(244~245頁)

■テープは決して本物のおかあさんのように、赤ちゃんに対して反応しない。赤ちゃんのスマイルに触発されて語りかけたりはしないのだ。(249頁)

■赤ちゃんが生まれつき学ぶ能力を持っていることはいいとして、その能力をいわゆる棒暗記や、ネズミやミミズの条件づけと同じイメージでとらえていると、一見互いに矛盾する、ふたつの危険な考え方にはしりやすい。そのひとつは、その能力を少しでも早く活用して、数やことばや文字を覚えさせようというあせりであり、もうひとつは、「知能は生まれつきのものであり、つまり生まれつき決まっているものなのだ」というあきらめである。(268頁)

■人の知能は、具体的にはさまざまな課題解決の場面で問われるものだけれども、認知心理学というのは、情報処理や記憶のモデルを駆使して、その課題解決の過程を明らかにしようとする新しい学問である。だから、認知心理学によるアプローチでは、知能はもはや、単一で不変のかたまりのような実体ではなくて、たがいに関係しあう数多くのメンタルな操作の集まりとみなされる。

たとえば類推のような知的過程は、符号化、推論、重ね合わせ、適用などの構成要素に分けて分析されるし、個人差も、方略(ストラテジー)の差、ルールの選択や適用の差、操作の組み合わせの差などとして扱われることになる。

こうして、はじめは単一不変の能力と考えられていた知能が、複数の構成要素に分けられ、今ではそれらの相互関係が、情報処理のすじみちに即して研究されるようになってきた。(270頁)

■たとえば、ハーバード大学を中心とする発達心理学者たちは、このようなねらいで、外の世界からの刺激に対する赤ちゃんの反応の特性を、さまざまな場面で測定し、数年後のIQの値との関係を調べている。さまざまな場面というのは、その大半が2章ですでに説明したような選好注視や、馴化-脱馴化などの現象を生じさせる場面にほかならない。

このような方法による調査の結果、新しい刺激に対する反応性、環境に対する関心、注意などのレベルの高い赤ちゃんが、概して数年後に追跡調査したときのIQも高かったという報告がある。またこのような初期にも、こうした点ですでに性差がみられるという。(274~275頁)

■この考え方によれば、赤ちゃんを外の世界との交渉へと動機づけているのは、自分のふるまいと、それにともなう外の世界の変化との間のつながりであり(随伴関係の発見)、またこの発見がもたらすよろこびである。(284頁)

■そのひとつは、強化物(光・音)そのものではなく、この随伴関係それ自体が、を強く動機づけるのだということ。だから、赤ちゃんの側からのはたらきかけにともなって変化するのは、何も光や音でなくても、おもちゃでも動物でも、人の姿でも、またその影のようなものでもいいということになる。(285頁)

■このような、赤ちゃんの随伴性探知の能力は、このゲームの遂行それ自体によってさらに強化され、発達してゆく。ちょうどスポーツの選手が、試合を重ねるごとに強くなりますます積極的に試合をしたがるようになるのと同じように。

このことの中にこそ、生得説と、遺伝説と学習説のジレンマを克服して、知能発達の本質を見きわめるカギが隠されている。また、一般的な意味での「知能」の発達ということがもしあるとすれば、この随伴性探知ゲームの自己促進の過程こそがそれであると、私は考えている。(286頁)

■知能の発達が「実在論」的ではなく「自己達成予言」的だというのは、おとなのIQに対応するような意味での「IQ」が、赤ちゃんでは存在しないというだけの理由からではない。「知能」とは随伴性探知ゲームの結果達成されるものであり、またゲームによってつちかわれる、ゲーム遂行の能力そのもののことだからなのだ。(288頁)

■随伴性を発見し、その発見に喜びを感じるのは、あくまでも赤ちゃんの方であって、親の方ではない。赤ちゃんが自分で随伴性を見つけ出すのでなければ、知能の発達の助けにもならないのだ。だから当然、親の側には忍耐強さが要求されるし、おとなの都合、おとなの知能観を押し売りするようなことは、厳につつしまなくてはならないということだろう。(288頁)

■しかし、そうすると、赤ちゃんの示す情動は、一方では自分のからだに深く根ざし、外の世界とは切り離されたものなのに、他方では、周囲の人びとの心の状態に影響されやすいものだということになるのだろうか?これは一見、矛盾しているように見える。

この見かけ上の矛盾は、赤ちゃん自身が未分化な存在であること、またその結果、赤ちゃんが知覚する世界の方も未分化であることを認めることによって、はじめて矛盾なく理解することができる。(294頁)

■この時期の赤ちゃんが自発的にできるのは、ただ泣き声やしぐさでおかあさんの助けを求めることでしかない。つまり、見落とされがちなことだが、が自分のためにできる最初の行動は、外の世界のものを手に入れたり、あるいはそれを避けたりすることではない。それよりむしろ、人に向けたみぶり、表現なのだ。(296頁)

■ふたたびワロンのことばを借りれば、「子どもの生活は最初、社会性の関係によって開かれる」のだ。そのことからすれば、赤ちゃんが外のものの世界をはっきりと認識できず、方向の拡散した反応(たとえば泣くこと)に終始するすることもまた、当然ともいえる。先ほどの、パニック状態ににおける情動の伝染の場合と同じである。(297頁)

■私の考えでは、そのような生まれつきの能力は、せんじつめれば、大きく分けて次の4通りしかない。

⑴生きるために直接必要な反射(呼吸、吸いつき、のみこみ、まばたき、瞳孔、せき、くしゃみなど)

⑵そのほかの、いわゆる原始反射(バビンスキー反射、モロー反射など)。

⑶おとなから自分へのはたらきかけを触発し、促進するような能力。

⑷おとなからのはたらきかけに、応答するための能力。(298頁)

■けれども、考えて見れば、緊張と弛緩のサインだというだけでなら、何もほほえみでなくても、ほかの表情やしぐさでもよかったはずである。そうしてみると、こうしたほほえみもやはり、おとなを自分の方に引きつけるために、赤ちゃんが神様から授かった魔法なのだというふうに、私は考えたい。(301頁)

■最新の精神分析学の研究によると、出産後できるだけ早い時期におかあさんを赤ちゃんと対面させることは、その後の母子関係の正常な発達にとって意外に大切で、この時期を逸すると、後の情緒障害の原因になることがあるという。(301頁)

■感覚や運動能力の発達と知能の発達とは、赤ちゃんにおいては区別できるものではないということ、また、からだ、外の世界の認識、自分と他人の認識、社会的なコミュニケーション、情動などは、互いに独立した別々の発達の系なのではなく、同じメカニズムによって、次第に枝分かれしながら発達していくものだということを、この本ではくり返し強調してきた。

それは、私が発達の流れを、このようなイメージでとらえていたからである。の「心」の発達に関する限り、「積木のモデル」は的外れであり、「樹木のモデル」が必要なのだ。(309頁)

■両親は手を焼くだろうが、ただひたすらに拘束しようとするのは、りこうなやり方ではない。偶然の機会からいつも「ゲーム」がはじまり、そのゲームを通してだけ赤ちゃんは学ぶことができるのだとすれば、そのような偶然のチャンスをできるだけ拡げ、変化に富んだものにしてやるのが、理にかなったやり方だろう。

ところで、どんな冒険家にも、安心して眠れる基地、いつでも逃げ帰れるベース・キャンプのようなものが必要である。そういう場所があるからこそ、冒険家は勇気をふるい起こして、未知のものに挑戦できるのだ。そしていうまでもなく、赤ちゃんにとっての基地は、おかあさんやおとうさんのほかにはあり得ない。(320~321頁)

■情動的リアリティは、はじめから科学言語のレベルとはちがうヒューマンなレベル、日常生活のレベルで成り立っている。かりに、実験でのペットの意外におろかな、あるいは「動物じみた」行動を見て、飼い主がそのペットへの気持を変えたとしても、それは依然として科学的「実在」の地平での出来事ではなく、ヒューマンなリアリティのレベルでの出来事なのだ。

この発見の提起している問題は重大である。それは、客観的、科学的な「実在(事実)」のみを追究の対象とし、また同時にそれを世界観の基底ともするタイプの心理学の発想に対して、疑問を投げかけているのだ。(340頁)

■たとえ単なる親の思い入れであるにせよ、それがほどなく事実として実現することが目に見えているばかりか、そのおもいいれによってのみ、それは事実として実現するのだから……。

知能の章(8章)の結論として私が「知能発達の本質は、実在論的であるよりは自己達成予言的である」と述べた理由が、ここでようやく納得していただけたのではないだろうか。(342頁)

■くり返しになってしまうけれども、赤ちゃんはあくまでも未来形の存在である。だから心の発生の現場においては、その特有の自己達成予言的なダイナミクスのために、対人認知のリアリティが、客観的「事実」に先立つのだ。

このような見方は、「心はすべて脳の生理的なはたらきの反映にすぎない」という考え方とも、「われ思う、ゆえにわれ在り」とする考え方とも、必ずしも矛盾はしていない。けれども、出発点がまるでちがう。目の前に他人の脳みそでもなく、孤立した自分の心の内側でもなく、開かれた交流の場面から、私たちは出発したいのだ。

相手を、自分と同じ「反応する者(レスポンシヴな存在)」としてみること、またそのことが互いの反応(レスポンス)の引き金となるということ――そうした、対人関係の鏡像性の中にこそ、心の発生のカギが隠されている。そのカギを握っている親の方が「応答する機械」ではなく「頭のいい機械」のようだったなら、赤ちゃんが「応答」しそこなうのもあたりまえの道理である。(349~350頁)

■けれども反面、そのような鏡像性を前提にして、随伴性検出ゲームのループを拡げていく素地となる能力は、生まれおちたその瞬間から、赤ちゃんにはそなわっている(9章)。

このことひとつを考えてみても、「赤ちゃんに心はあるか?」という問いに対する答えははっきりしている。――「心をもつ者』として扱われることによって、またそのことだけによって、心は発生し成長するのだ。(350頁)

■しめくくりに、アメリカの心理学者H・ハーロウの名著『愛の成り立ち』から引用する(浜田寿美男氏の訳による)。

……愛情は、今日まで、ほとんど伝説と文学の占有であり、人間の愛について客観的に報告されることは、きわめてまれであった。おそらく、愛情などなくとも、心理学者はやっていけるのであろう。そうだとすれば、こうした現状は、まさに心理学者にふさわしい運命と言うべきかもしれない。ただ、私たちはそのような心理学者の仲間にはくみしない。(352頁)

2010年8月30日

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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