岡野岬石の資料蔵

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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『菅江真澄遊覧記(1)(2)(3)』 菅江真澄著 平凡社東洋文庫

投稿日:2020-12-04 更新日:

『菅江真澄遊覧記(1)』 菅江真澄著 平凡社東洋文庫

伊那の中路

■腰に小さい籠のようなものをつけた女がおおぜい、野山の方に群をなして行った。これは桑の木の林にはいって、みづとよぶ、桑の芽ぐんだ若葉が花のようになったものをとり、蚕を養いそだてるためだという。みづは瑞葉のことであろうか。この蚕の種は陸奥(むつ)の商人から買いとり、このように桑の木の芽のでる時までは、早く孵化しないよう寒いところにおさめておき、またはここにある山寺というたいへん寒いところの庵の法師に預けて貯蔵しておく。四月八日、釈迦誕生の仏事にこの山に人が大ぜいのぼって、蚕の卵をつけた紙をそれぞれ持ちかえり、埋火のかたわらにおいたり、背中に負ったりして、昼夜あたためると、どうやら春になったとでも思ってか、芥子の種の芽ばえるように孵化してくるのを、雉の羽でなではらい落とし、みづという若芽のふくらんだものを食べさせ、養うということである(注)。(6~7頁)

注)この蚕の種は……養うということである

むかしは桑の若芽の伸びてくるのと、毛蚕(けご)の生まれる時期をあわせるために苦心した。今は各村に稚蚕共同飼育所ができ、村全体の蚕を二眠起きまで飼って、これを各戸にわけるようになった。(29頁)

■二十八日 医師可児(かに)永通の家を尋ねると、主人はさっそく、例の好きな道として、

五月雨のふりくらしたるこの宿にとひ来る月のかけもはつかし

と書いて、「老人のひがごとです、まあ見てください」とさしだしたので、返しに、

さみだれのふるきをしたふ宿なれはさしてとひよるかげもはつかし(15頁)

■二十五日 松本の医師沢辺某は、十年前、同じこの郷の小松有隣、吉員などと月見の席で親しく語りあった友なので、手紙を書いて、きょうそこの祭を見にいく人に託し、

月にとひ花にとはんと思ひこしあだに十とせも過ぎし春秋

という歌をおくると、夕方、返歌をもってきた。

十とせあまりわすれやはする花にめで月に遊びし春秋のそら  雲夢(16頁)

解説

■寒冷なみちのくのきびしい生活のようすはわからぬながらも、旧暦の七月にはいればやがて田畑の収穫もあろう。これならだいじょうぶ旅ができそうだと、真澄は出発を決意したにちがいない。このとき、別れをおしんで数日の同行を申しでたのが三溝政員という若者であった。政員は本洗馬のひとで、古典の学問をもとめて、真澄から「源氏物語」や「竹取物語」の講義をきき、歌などをしたしくまなんだ。その当時、政員のかいた日記が発見されて、そのようすがあきらかになった。これも美濃紙半裁二つ折りの小型本で、書き方もひじょうに真澄ににているという。それによると、政員の眼にうつった真澄の姿が次のように記されているのもまことに興味ぶかい。ここにはあくまでも真澄は国学に秀で、民間伝承にも心をとめる好学のひととなっている。おそらく政員も同じ傾向の若者だったらしい。政員はその後、手習い師匠として一生をおくり、その娘も結婚せずに村童を相手に生涯をすごして明治に至ったといわれている。

白井秀雄のぬし、二年のころまでこの里にとどまり給ふて、あたりなる古き跡ども尋ね、山の姿河の流れの行末をめでて、田草とる女の童の歌ふ一ふしまで書き集め、何くれにつけて歌をよみ、思ふかぎりの言の葉もて、あやなる文を作りて、いとあはれなる遊びをなんし給ふことのうるはしく、まぐさ刈る鎌打ちおける夕ごとに其許にとぶらひて、いにしへ紫式部の書き給へるふみの巻き々、あるは竹取物語など読み学ばひ、或はやまとの道のいとはしをも語りて、こよなう馴れむつまやかに、月日を過ぐるに、けふみな月なかのころ、越の海の深きに心を浸し、陸奥の松島名におふ嶋の、処々めでたき野山をも残りなく見廻り、古き歌の心をわきまへ、新しきをもかいもとめて、古郷に帰らまく欲りすなどのたまひて、旅衣思ひたたせぬれば、したしき友どちうち驚きて、別るることは世になきことのやうに覚え侍りしとて、ひたぶるにとどまり給へなど、袖をかかへてとどむれども、いなふねの否みにせんすベなし。こは別れにぞなるぬ。(214頁)

いかにも魅力ある真澄の人間が想像されるような文である。

このようにして政員は白糸の湯まで真澄をおくっていって、七月二日に別れた。別れぎわに政員は、もし越後が凶作で旅がつづけられないようであったら、またこの村に帰ってくるようにと、ねんごろにいったそうである。どこでも食糧ぶそくから世情がさわがしく、ひどく不安を感じたからであろう。しかし真澄はあくまでも予定どおり、奥羽めざして前進するのであった。(213~214頁)

■七月一日、白糸の湯(松本市)で備中の国玉島から来ている国仙和尚にあった。真澄は、自分の伯父のひとりが僧侶で、同門の法師としてかねてその名を聞き知っていたと、なつかしく思い、しばらく語らった。

国仙和尚は良寛上人の師にあたる人である。あるいはこのときの従僧のなかに、若き日の良寛もまじっていたかもしれない。良寛は真澄より三歳年下で、当時はたしか国仙和尚のもとに従っていたはずである。このときから47年後の天保二年(1831)、良寛は75歳で越後の島崎村(新潟県三島郡和島村)で亡くなったが、生前、すでに良寛の名声ははるか秋田までもきこえてきていた。

真澄が晩年に編んだ〔高志栞〕という雜葉集のなかに、次のように書いている。

てまり上人

手まり上人は、、出雲崎の橘屋由之がはらからなり。名を良寛といふ。国上山の五合に住ぬ。くし作り、うたよめり。手などはいといとよけく、鵬斎翁もこの書などは、いみじきよしをほめり。托鉢にありくる袖に、まり二つ三つを入れもて、児女手まりをつくところあれば、袖よりいだして、ともにうちて、小児のごとに遊びける。まことにそのこころ童もののごとし。よめるうた、

この里の宮の木下のこどもらとあそぶ春日は暮れずともよし

 

ただこれだけの文からは、真澄は白糸の湯の日の対面を意識していたかどうかは疑問である。(214~215頁)

(2014年10月28日)

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『菅江真澄遊覧記(2)』 菅江真澄著 平凡社東洋文庫

はしわの若葉

■稚蚕 蚕は卵からあえったばかりのものをケゴ、一眠を終るとチチゴという。二眠を終るとタカゴ、三眠を終ったものをフナゴ、四眠を終ったものをニワゴといい、ニワゴがやがて繭をつくるのである。(76頁)

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『菅江真澄遊覧記(3)』 菅江真澄著 平凡社ライブラリー

奥の浦うら

■咲いた花のなかに、まだ開いていない花もまじって山々に見えるので、春さえまだ訪れていないのではないかという思いがふかい。きょうは四月の一日(寛政五年、1793)になったが、陸奥の常として、北の浦風も身にたえがたいほど、たいそう寒く、衣服をぬぎかえるわけでもないが、年ごとに言いならわしている習慣なので、

夏はけさきならし衣かふるともまた花の香や袖にとめなん(47頁)

■六日(岡野注;5月6日) 男と女が戸外にたたずんで語りあうのを聞いていると、きのうはいちにち雨降りに暮れたので、きょうは、きのうの挨拶をしてあるくのだという男が、「その雨の晴れ間に、あなたはすきなところで、さぞや一日遊んで、どれほどたのしい思いをしたことであろう。男のならいとして、わたしは朝から雨にぬれて挨拶をして歩いて暮れた」というと、女が、「いや、わたしのような老いた身は野山にほうりだしておいても、鳥、けものさえ、口で袖ひとつひくこともあるまい。世に何のたのしみもないこの身、わたしのとしが十年も若かったならば」など

と、たわむれを言って、通り過ぎていった。(66~67頁)

牧の朝露

■七月一日(寛政5年、1793) このごろ久しく降りつづいた雨も、朝の間こやみになって、空はなおくもりがちで風がたってきた。(80頁)

■こうして大沢なで来ると、知人の亀麿が、漁師にまねて庵も海べにのぞんだ山かげにたて、この十年あまりも住んでいると、かねて聞いていたところなので、咳ばらいしてはいると、主人は机にひじをついて、『源氏物語』の明石の巻のなかばをひらいて熱心に読んでいた。文中の淡路島山の眺めをここでは尻屋の磯山(東海村)にかえて、のこるくまなくすみわたった月をおもしろがっているのであろうと訪れたのだがといえば、これはめずらしいとよろこんで迎え、今夜はここにお過しなさいというので、話しこんだ。暮れてゆくころ、海はなお荒れていたが、たくさんの舟がのり出してゆくのは、もみじいかといって鯣(するめ)にするいかをつりにでるのである。(84頁)

■優婆塞(うばそく)の某、木村だれ、胆沢郡(岩手県)水沢の宿駅に住んでいた武田氏喜の子某(なにがし)などといっしょに行く。縁むすびの石というのがあって、願いごとのある人は小石を勢いよく投げ上げた(石の上に小石がのれば願いがかなうという習俗)。坂をくだって亀麿の家につくと、戸をしめたままで、だれも人がいそうにない。主人は磯で釣り、沖にでて漁師のまねごとをしているので、どこにいったにだろうと、わたくしたちは荻の茂った崖の道にたたずんで見わたした。やがて戻った主人は、潮にぬれた衣服のまま、「おおめずらしい人たちだ」とことば少なに言い、もう筆をとって歌をつくろうとするので、さっそくわらぐつをぬいで上がった。いつ暮れるともなく夜が更けて雨が強く降ってきたが、誰もかれも歌作にばかり心をこめて、雨の音など気にもとめなかった。隣に家がないのでたいへん静かだ。やがてかもめが鳴いているのかと思ったら山がらすの声がして、夜が明けたらしい。(90頁)

■八日 ぬる湯の温泉にいってみよう、中野山の雪もおもしろかろうから、さあ見にまいろうと、恵民の家を出た。

村はずれに宝厳山法眼寺という黄檗宗の寺があった。享保年間(1720ー30ごろ)、この寺の吊鐘を、盧山と言う禅師が江戸で鋳させて、それを浪速の港へ船につんで送り、またそこから、このみちのくへ船積みして送ろうとした。とちゅう、秋田の沖に近くなったとき、大波にあって船が沈没し、釣鐘も失せてしまった。禅師は、自分の年来の願いもこれで空しくなったといって力を落とし、それから1年もたたないうちに死亡してしまった。この禅師の50年忌をしようというとしのこと、常陸の国鹿島郡上幡木村の下浜という所の地引き網に、海藻やいろいろな小貝がたくさん不着した怪しい物がかかってきた。これはなんだろうと、ついていた海藻や貝などを斧でうちくだいてみると、釣鐘だったのでおどろきあきれた。これはどこの鐘を、いつ、海におとしたのだろうと、みんなが集まってよくしらべてみると、みちのく津軽の黒石の某寺と刻みつけてあった。そこで役所にとどけてでて、船主重兵衛という人がこの津軽のくに青森の港に運ばせたのが、安永の末(1780)のことだという。盧山禅師の願望がようやくこのときになって実ったといって、この話を聞いたものは、津軽のひとはもちろん、遠いところの旅人や修行者などが、この寺の鐘を見ようと集まり、このふしぎな事実におどろき、尊いことだと話あったという。寺にはそれまで鳴らしていた釣鐘があったが、それは同じ宗派のぬる湯の寺にかけて、海から上がってきた鐘は、立派な鐘楼を建てて今も吊ってある。それをわたしもぜひ見ようと、雪をふみわけのぼっていって、その釣鐘の刻銘をみた。「……当山二代臨済正伝第三十六世嗣法沙門淨泰盧山 武陽神田鋳物師木村将監藤原安成 武江鋳調世武内彦重郎 当寺開山臨済正伝第三十五世上南下宗元頓和尚 享保八歳次癸卯天四月仏生日」というように、鐘の周囲に書きめぐらしてあった。海に沈没したものが潮波にさらわれて、遠くよその浦にいっていた例はそれほど珍らしいことではないが、その願望した禅師の50年忌をしようとした年に会ったというのは、世間にまたとあることでなかろう。その釣鐘の朝夕につく音を深い苔の下で聞いて、禅師もさぞかし、うれしいと思っておられるだろうと、しのばれた。(170~171頁)

■夕暮れて、蚊遣火をたいている炉のもとに女ばかりが集まって、釜上麻(かまげそ)《かまげそというのは、いま釜からむし上げた新しい麻、かまあげそである》というものを手ごとにとりもっている。そしてうら若い乙女がいう。「はやくこれをうんで、また(7月)7日前にひと目籠をうみ、7日からは三筋苧(みすじそ)をうんで、老いた母に布を織ってお着せしよう」と感心な子が語っている。すると、その母であろう、年老いた声で、「わたしの命が2年も3年もながらえるようにと思って言うのであろう」というのが、遠く離れたところへ、かすかに聞こえてきた《陸奥の習俗として、老いた親のある女は、Ⅰ日に苧三筋を、7月7日から次の年の7月7日まで1年間、怠らずにうみ、これで布を織り貯えて、親の亡くなったとき着せる経かたびらにし、その親が生存していれば、それをふだん着にする、だから三筋苧をいくたびもうめることを、めでたいためしとしている》。(267頁)

(2014年11月14日)

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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