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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『複眼の映像(私と黒澤明)』 橋本 忍 文春文庫

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『複眼の映像(私と黒澤明)』 橋本 忍 文春文庫

■私の習作に対する伊丹さんの意見には貴重なものが多く、生涯の指標となるものもかなりある。だがその反面、私には理解できない、やや感情的とも思える怒りや叱正に似た言葉も多かった。

(視点はどこだ、どこにある!)(視点が迷っている!)(作者の目はなにを見ている!)(人物像が歪んでいる!)(長い、ト書きが長すぎる!)

こうした言辞が私には消化不良で、鬱積する永久凍土のような不愉快なものになっていたが、それらが四分五裂で雪崩のように崩壊し始める。(78~79頁)

■ところが、小説家からシナリオライターになった例は一例もなく、これからもそれはあり得ない。これはシナリオが特別に難しいものという意味ではない。小説は読み物、シナリオは設計書、という全く性質の異なる別々の生きものであることと、後は経済的な問題――シナリオで稼ぐよりは小説のほうが楽に稼げるということではあるまいか。(81頁)

■私は話し合った断片をノートに取り、自分のノートに前から記入している部分を確かめる。

「話は前後しますが、渡辺勘治は中肉中背で、眼鏡はかけておりません」

「眼鏡なし?」

「そうです。老眼鏡……眼鏡を掛けるのは書類を見る時だけです」私は付け加える。勤めが終わってから、部下と一緒に屋台で熱燗を呷るとか、縄のれんをくぐるとか、そういうことはしない。付き合い程度の酒は飲めるが、自分の金を使い酒を飲むことはない。勿論煙草は吸わない。

小國さんが付け足す。

「で、その市民課だが……渡辺勘治以外にも、係長や窓口の係、他にも役らしいのが2、3は必要だな」

「ああ、それと、特色のあるのが1人欲しいよ」

私が黒澤さんに聞き返した。

「特色のある?」

「例えば女の子……謂いたいことをズケズケ言って、自分の思い通りにする、ここの勤務がイヤになり辞めたがっているんだ。こんなのが1人いると、いろいろのことが楽に捌ける」

ちょっと会話が途切れ3人とも黙り込み、黒澤さんがぼそッという。

「主人公については少し固まってきたが……なにかもう1つ2つ、決定的なものが欲しいね」

小國さんが入歯をガタつかせ、モグモグ口を動かした。

「渡辺勘治は、夜寝る時にだよ……背広のズボンをきちんと延ばし、布団の下へ敷き、丁寧に寝押しをする、ここ30年間、毎晩だよ」

私は息をつめ、黒澤さんも息をつめている。

「それから……昼はいつもうどんだが、先ずうどんをツルツル時間をかけ啜りおわると、丼鉢をこういうふうに持って(両手で丼鉢を回して汁を啜る、これを2、3度……しかし、全部を飲み干すのではなく、少しだけ残した汁を、しげしげと見つめ、その、丼鉢を置く……それが渡辺勘治の昼食……うどんの喰い方だ」

黒澤さんと私は思わず顔を見合わせた。渡辺勘治の立体像がかなりはっきりしてくる。それと同時に主人公がもそもそと蠢きだす気配を見せ、作品そのものにも動き出しの胎動が強くなる。流石は小國英雄……ほとんど無限とも思える膨大な引き出し(ドラマの核)の所有者である。(113~115頁)

■映画の製作に1番重要なのは脚本で、その脚本にとり最も重要なのは、1にテーマ、2にストーリー、3に人物設定(構成を含む)であることは、映画の創成期からの定説だが――脚本が映画には最重要なものであるとする処遇や扱いを、映画界やその周辺から受けたことがないように、脚本にとっても基礎の3重要事項を的確に用意し書かれたものはあまりない。

(もし大多数の脚本がその基礎条件を満たしていれば、映画も、テレビのドラマも、今よりはもっと面白い上等なものになるはずである)

脚本家、シナリオライターにとっては、この基礎の3条項が、いかに面倒臭くやり辛いかは、ほとんど生理的なものともいえる。

伊丹さんに脚本を見て貰っていた時、私がその要素をおざなりにすると、伊丹さんは烈火のごとく怒り、テーマを絞れ、ストーリーは形のある短いものにしろ、人物は彫れるだけ彫れと、執拗なまでに声を荒げる。自分にもそれがいかに重要かは分かっているが、なにかを書く時には、またぞろいい加減になってしまい、この基礎を整えることがなかなか出来ず、すべてをきちんとやったのは、今度の仕事が初めてで、しかし、それらはいずれも黒澤さんの強制によるものである。(126~127頁)

■このシナリオは剛直で、観客には極端な緊張を強い、異常なまでに目に強くスクリーンに凝縮させ話が進んでいくだけに、すべてを現実形で押す以外に手がなく……いいかえれば、ほッとした昼の食事と休みがあるから2人のしみじみした交流や、子供時代の懐旧の回想なども、春、夏、秋、冬と自由自在にやれるのだ。

もし、彼にはこんな友達がありましたのシーンが、ほんの少しでも質感の万全でない、説明的なものになったら、この映画はそこで瓦解し、モロに崩壊してしまう。他のシチュエーションでは駄目、結論的にいえば、使い番の侍から昼弁当と昼休みがなくなれば、この映画の企画そのものが成立しなくなるのだ。(144頁)

■彼は能好きで、仕事が終わった夜の食事の際には能についてよく話すが、いつも話題にするのが世阿弥である。世阿弥は室町期の人で、足利将軍の後援と庇護を受け、数多い名作を生み出し、今日まで伝わる能の芸術性を確立して人だが、その世阿弥がある日、川船に乗り川を渡っていると、中程で向こうから渡し船がやって来て、船頭がお互いに声を掛け合う。おう、いい天気だな。ああ、いい天気で有り難いが、今日は体がしんどいよ。しんどい?どうしてだ?昨日は仕事を休んだからな。

世阿弥は思わず膝をたたく。これだ!これがコツだ、休めば逆に体が疲れる。稽古ごとには1日も体を休ませてはいけないのだ。

私も黒澤さんのいう通りで、シナリオはマラソン競走に似ており、辛くなって顔を上げたら、挫折にも繋がり、おしまい……苦しくても顔を上げず、頑張り通すより他に方法がないことはよく心得ている。(200頁)

■良イシナリオカラ、悪イ映画ガ出来ルコトモアル。

シカシ、イカナルコトガアッテモ、悪イシナリオカラ、

良イ映画ガ出来ルコトハナイ。

伊丹万作の映画憲法の第1条である。(220頁)

■ある日、自分の原稿が黒澤さんから菊島さんに回った時、菊島さんは次の小國旦那には回さず、首を傾げていたが、顔を上げ、私にいう。

「橋本君、こんなふうに突っ込んでしまうから、動かなくなる。この手前でこうすれば捌(さば)ける」

といって小國旦那には回さず、自分で私の原稿を直し始めたが、直し終わると、正面から直接私に渡した。私は受け取って見て自分の目を疑い驚嘆した。何と言う見事な捌き方なのだろう。菊島さんの芝居の捌きには定評があるが、まさに絶妙である。

私がその原稿に魅入られたようになっていると、隣りの黒澤さんが手を伸ばし、自分にも見せろという。黒澤さんは私から菊島さんの直した原稿を手に取って見ると、途端に顔が引き攣り息を詰めてしまう。

黒澤さんと私の脚本は先行直進型、菊島さんと小國旦那は追い込み型、私の欠点や長所は黒澤さんの欠点であり長所でもあるのだ。自分が見過ごした原稿――いや、必ずしもそれがうまくいっているとは思わないが、自分にはどう直すのか、直感での直す力、捌く技術がない。だが菊島さんはスラスラとそれをやってのける。その菊島さんの前捌きの妙には、黒澤さんも感嘆のあまり声も出ない。(270~271頁)

■前捌きの上手さとは?なにがどのように上手いのか、専門用語過ぎるので、こういう形で表現すれば分かりやすいとも思う。

例えば東映映画の任侠物で、兄弟分を殺られた高倉健が、死を賭けた最後の殴り込みで、敵地に乗り込んで行く。だがそれを途中で、藤純子が「待って!」と町並みから飛び出し取りすがる。「お願い!……いかないで!」

私や黒澤さんはここで立ち往生だ。高倉健の動きがつかない。ここで棒立ちのままじゃどうにもならないし、さりとて、藤純子を突き飛ばし駆け出す訳にもいかず、ニッチもサッチもいかなくなりドラマが止まってしまう。

ところが東映の作品を書くライターは手慣れたものである。藤純子は高倉健に縋り付き離さず、泣き続けるが、暫くして「でもどんなに止めても、あなたは行くのだは」といって涙を拭って離れ、

「じゃ、行ってよ……行って!」

「すまねぇ!」高倉健は藤純子を片手拝みにし一気に走り出す。

捌きとはこうした芝居に類するもので、私や黒澤さんは相撲でいえば四つ相撲、相手力士を力で土俵際まで持って行くが、相手に粘られるとそこで動けなくなる。だが菊島さんはこれ以上押せない時には、押すと見せて押さず、逆に引いて相手の形を崩し、自分の得意技に引き込み仕留めてしまう。

前捌きとはこうした引き技が多く、いずれにしても効果的だが、多用するとあざとく、わざとらしさが目立つ。また引き技には変わり身が付いてまわるから、多用すれば相撲ではケレン相撲……芝居でいえば、ゴマカシとかはったり芝居、いわゆる俗受け芝居になる。(271~272頁)

■だが2人の初顔合わせの『糞尿譚』の出来はそれほどよくなかった。原因は監督独断の脚本の直しである。大きな直しではないが、鼠がアチコチ齧るようなチョコマカした直しだった。通常、私は脚本直しをした監督とは、2度と組むことはない。第1線級の監督は脚本の直しなどはしない。脚本を直すのは、腕のない2流もしくは3流監督の、偏狭な私意や私見に基づくもので、脚本にとっては改悪以外のなにものでもなく、私たちはこうした無断改訂の常習者を「直し屋」と呼ぶが、「直し屋」はそれが習性で、脚本が誰であれどんな作品であれ、改作をやめない。だから私は相手が「直し屋」と分かると、徹底して仕事を忌避する。(284頁)

■ある日、野村さんと一緒に銀座のヤマハホールで、スピルバーグの『ジョーズ』の試写を見、終わると近くの喫茶店でコーヒーを飲んだ。だが2人とも暫くはなにもいわない。やがて私が、

「出来のいい映画ですね」

野村さんは黙って頷いた。その通りである。

映画を見る場合の私は、ごくありふれたファンの1人にすぎない。だがどこかに職業意識があるせいか、がめんには時折NGカットも見受けられ、1本全部がOKカットで繋がっている作品は滅多にない。俳優さんの限界、予算の限界、時間の制約などで、元来ならNGカットだが、やむを得ずOKにせざるを得ないものがどうしても入りこんでくるのだ。

だがジョーズの場合、私にはNGカットが見受けられない。例えば桟橋が鮫に引っ張られ水中に消えてしまう印象的なシーンがあるが、これらは1発OKでなく、5回も6回も桟橋を作り直し、スピードを変えて行われ、その中からこれがOKといえるカットを撰んで使っているのだ。(285~286頁)

■従来の経験法則(定規やコンパスの類)を、いかに効率的に駆使しても、新しい面白いものの作れる可能性はもうあり得ないと思われる。つまり、そうしたものが力と利便を発揮するのは、先見とか予見(先読み)を必要とする、テーマとか、ストーリー、人物設定、話の構成などにおいて、最も顕著なのだが……作るべきものの骨格を、こうした不確実極まる先見とか予見に頼ることは、海のものとも山のものとも、作品はまだ片鱗さえ出来てもいないのに、作るべきものの大半を、あやふやに先読みし形成するため、作品がその枠の中に縮こまり――矮小化されイビツになってしまう。

先ずこうした従来の事前準備的なものを、一切なくさない限り、新しい作品の可能性はなく、従って決定稿のための準備稿、ライターが打ち合わせして先行する第1稿の必要などはあり得ず、今後はテーマなし、ストーリーなし、人物設定も、話の構成もない、「いきなり決定稿」でいいのだ(黒澤さんとしては、こうした事前準備に類するものは、作品の進行とともに自然に醸成され、やがて完成した作品の中で明確な形を示すのが、最も理想的であり、かつ自然であると腹を括ったとしか思えない)。

2人の岐路――私は『7人の侍』でやっと定規とコンパスを得て、なんとか職人の仲間入りしたが、逆に黒澤さんは述べたような憶測の推移(いきさつ)で、定規とコンパスを捨ててしまったのだ。では職人でなくなった黒澤さんは、いったいなにに? ゴッホの耳切りが芸術家の性なら、あたかもそれを暗示するように、黒澤さんも芸術家に?……層、黒澤さんは最高級の腕を誇る偉大な職人から、1人の芸術家に変貌してしまったのである。(328~329頁)

■しかし、短編物で確実にいえることは、過去の原作物のストック消化より、ライターのオリジナル物が急速に増えることだ。今までとはドラマと作法が全く違い、中編物には必要不可欠だったあの面倒臭い、起承転結がいらない。序、破、急,の3楽章、ワン、ツウ、スリー!のパターンで話が作れる。(357頁)

■『7人の侍』の時のことだが、仕事が終わったある日の夜、水割りのコップをテーブルの上に置いた小國旦那が突然に、

「橋本よ……死んだ万作(ばんさく)(伊丹万作)に代わり、お前に言う」

私はドキッとして居住まいを正した。師匠の名前の一言で電気のような物が5体を疾る。

「いいか、シナリオライターには3種類ある。鉛筆を指先に挟み、指先だけでスラスラ書く奴、指先に挟み込んだ鉛筆を、指先でなく掌全体の力で書く奴、ほとんどがこの2種類だが……お前は肘で書く、腕力で書く」

「…………」

「その腕力の強さじゃ、お前にかなう者は日本には誰もいないよ。しかし、腕っ節が強すぎるから、無理なシチュエーションや、不自然なシチュエーションを作る。成功すれば拍手喝采だが……これは失敗する可能性のほうが遥かに高く大きいよ」

小國旦那は入歯の下顎をガクガクさせ言葉を締めくくる。

「シナリオはな、冬があって、春がきて、夏がきて、秋がくる……こんなふうに書くんだよ」

私は黒澤さんを見てギクッとした。黒澤さんが水割りのコップを手にしたまま旦那を注視し、息をつめている。忠告を受けている私よりも息を凝縮し、小國旦那をⅠ直線に見つめている。(362~364頁)

■広い太平洋、弧状列島、細長い島国の日本、亜熱帯なのに温度と湿度の変化の四季がある。その四季を……自分が作りたいものを思うがままに作った作品なのに、実に順序よくそのまま四季を象徴しているようにも見え、同時に黒澤さんの人生や生涯をも示しているようにも見える。

始めと終わりは単独脚本、しかし、大多数は共同脚本である。単独作品は芽生えの春であり、共同作品の「ライター先行形」は夏、同じ共同作品でも「いきなり決定稿」は秋、そして再び単独作品の孤高な冬になる。

春(芽生え)『姿三四郎』『一番美しく』『虎の尾を踏む男達』

夏(盛り) 『素晴らしき日曜日』『酔いどれ天使』『羅生門』『生きる』『七人の侍』

秋(実り) 『用心棒』『椿三十浪』『天国と地獄』

冬(孤高) 『夢』『八月の狂詩曲(ラプソディー)』『まあだだよ』

簡略に示せばこんな形かとも思うが、これらを一見した感じでは、黒澤さんは日本の四季と共に、映画の王道を歩いた最も典型的な日本人の一人ではあるまいか。

と同時に30作品をもう1段高く引き俯瞰すると、こんなことも言えると思う。30作品の全部が高次元では繋がっており、テーマが一貫して同じであるということだ。

この世に善人はいない。しかし、悪人もいない。

誰もが善と悪を背負って生きている――。(392~393頁)

■橋本さんの映画への道は、伊丹万作監督との出会いによって拓けた。

原作物に手をつける場合にはどんな心構えが必要かと、脚本の師である伊丹万作に訊ねられた橋本忍さんが答える。

「牛が1頭いるんです(中略)……私はこれを毎日見に行く。雨の日も風の日も……あちこちと場所を変え、牛を見るんです。それで急所が分かると、柵を開けて中へ入り、鈍器のようなもので1撃で殺してしまうんです……」

そして、鋭利な刃物で頸動脈を切り、流れ出す生血で仕事をする。必要な物は、原作の姿や形ではなく、生血だけ……。

1946年、まだ28歳の橋本青年は、伊丹万作にそのような私説を述べた。

それから、28年後、橋本さんは、山田洋次とのコンビで、『砂の器』の脚本に取りかかることになる。

山田洋次は、原作が、あまりにも複雑なストーリーなので、映画化は無理なのではないかと感じた。そんな山田さんに、橋本さんが、原作小説の赤鉛筆で線を引いた部分を見せた。

そこには、病気に父親と一緒にお遍路さんの装束を身にまとい、物乞いをしながら全国を放浪したという主人公の過去が書かれてあった。

その悲しい過去という僅かな記述部分こそが、松本清張原作『砂の器』の急所であった。ここから、「名声のために過去を捨てた男が、過去に復讐される」というテーマが紡ぎ出された。

こうして、『砂の器』は、単なる推理映画という枠を打ち破り、壮大な人間ドラマとして、不朽の名作となった。

原作は、1撃で仕留められたのである。〈解説・加藤正人〉(400~401頁)

(2011年4月17日)

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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