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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『志賀直哉』 ちくま日本文学全集 筑摩書房

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『志賀直哉』 ちくま日本文学全集 筑摩書房

■34年前、座右宝の後藤真太郎が九州の坂本繁二郎君を訪ねた時、何の話しかららか、坂本君は「青木繁とか、岸田劉生とか、中村彝とか、若くして死んだうまい絵描きの絵を見ていると、みんな実にうまいとは思うが、描いてあるのはどれもこっち側だけで、見えない裏側が描けていないと思った」と云っていたそうだ。帰って、それを梅原龍三郎にいうと、梅原は「面白い言葉だ」と同感したそうだ。私はこの話を聞き、これは理窟も何もない正に作家の批評であって、批評家の批評ではないと思った。そして同じ事が小説についても云えると思った事がある。

私自身の場合でいえば、批評家や出版社に喜ばれるのは大概、若い頃に書いたもので、自分ではもう興味を失うつつあるようなものが多い。年寄って、自分でも幾らか潤いが出て来たように思うもの、即ち坂本君のいう裏が多少書けて来たと思うようなものはかえって私が作家として涸渇してしまったように云われ、それが定評になって、みんな平気で、そんな事を書いている。私はそういう連中にはそういう事が分らないのだと思う。そして、常に云っているように批評家というものは、友達である何人かを例外として除けば、全く無用の長物だと考えるのである。そういう批評家は作家の作品に寄生して生きている。それ故、作家が批評家を無用の長物だといったからとて、その連中の方から作家を無用の長物とは云えない気の毒な存在なのだ。(400~401頁)(白い線)

■そして私も芥川君のものを評したが、それはよく覚えている。それは主に芥川君の技巧上の欠点――わざわざ云う必要はなかったが、私は前にそれを他の人に云っていたので、蔭で云い、前で口を閉じている事が何かの場合両方によくない事が出来るのを恐れる気持だった。

芥川君の「奉教人の死」の主人公が死んでみたら実は女だったという事をなぜ最初から読者に知らせておかなかったか、と云う事だった。今は忘れたが、あれは3度読者に思いがけない想いをさせるような筋だったと思う。筋としては面白く、筋としてはいいと思うが、作中の他の人物同様、読者まで一緒に知らされずにおいて、仕舞いで背負投げを食わすやり方は読者の鑑賞がその方へ引っぱられるため、そこまで持って行く筋道の骨折りが無駄になり、損だと思うと私は云った。読者を作者と同じ場所で見物させておく方が私は好きだ。芥川君のような1行1行苦心していく人の物なら、読者はその道筋のうまさを味わっていく方がよく、そうしなければもったいない話だというような意味を云った。あれでは読者の頭には筋だけ残り、せっかくの筋道のうまさは忘れられる、それは惜しい事だと云う意味だった。

一体芥川君のものには仕舞で読者に背負投げを食わすようなものがあった。これは読後の感じからいっても好きでなく、作品の上からいえば損だと思うといった。気質(かたぎ)の異いかも知れないが、私は夏目さんの物でも作者の腹にははっきりある事をいつまでも読者に隠し、釣っていく所は、どうも好きになれなかった。私は無遠慮にただ、自分の好みを云っていたかも知れないが、芥川君はそれらを素直にうけ入れてくれた。そして、

「芸術というものが本統に分っていないんです」といった。(449~450頁)(沓掛にて)

■「妖婆」という小説で、2人の青年が、隠された少女を探しに行く所で、2人は夏羽織の肩を並べて出掛けたというのは大変いいが、荒物屋の店にその少女が居るのを見つけ、2人が急にその方へ歩度を早めた描写に夏羽織の裾がまくれる事が書いてあった。私はこれだけを切り離せば運動の変化が現れ、うまい描写と思うが、2人の青年が少女へ注意を向けたと同時に読者の頭もその方へ向くから、その時羽織の裾へ注意を呼びもどされると、頭がゴタゴタして愉快でなく、作者の技巧が見えすくようで面白くないというような事もいった。こんな欠点は私自身にもあるかも知れず、要らざる事をいったようにも思ったが、当時そんな事を思っていたので、これも私は云った。芥川君は「妖婆」は自分でも嫌いなもので書きかけで、後を止めたものだと云った。(451頁)(沓掛にて)

■黒田家の画帖を見た帰り、私は日本橋の方へ行くのですぐ別れたが、芥川君は南部修太郎君を訪ねると、その時一緒だった梅原とちょうど同じ方向なので、2人は同じ自動車で帰って行った。そしてその時芥川君は梅原の家へも寄ったとか、あとで梅原は「なかなか気取屋だね」と云っていた。そういう自身昔は気取屋でない事はなかったが、作者としての芥川君が少し気取り過ぎていた事は本統だ。アナトール・フランスの妙な影響が大分あったのではないか。(452頁)(沓掛にて)

■偉(すぐ)れた人間の仕事――する事、いう事、書く事、何でもいいが、それに触れるのは実に愉快なものだ。自分にも同じものがどこかにある、それを眼覚まされる。精神がひきしまる。こうしてはいられないと思う。仕事に対する意志を自身はっきり(あるいは漠然とでもいい)感ずる。この快感は特別のものだ。いい言葉でも、いい絵でも、いい小説でも本当にいいものは必ずそういう作用を人に起す。一体何が響いて来るのだろう。

芸術上で内容とか形式とかいうことがよく論ぜられるが、その響いて来るものはそんな悠長なものではない。そんなものを超絶したものだ。自分はリズムだと思う。響くという聯想でいうわけではないがリズムだと思う。

このリズムが弱いものは幾ら「うまく」出来ていても、幾ら偉そうな内容を持ったものでも、本当のものでないから下らない。小説など読後の感じではっきり分る。作者の仕事をしている時の精神のリズムの強弱――問題はそれだけだ。

マンネリズムがなぜ悪いか。本来ならば何度も同じ事を繰返していればだんだん「うまく」なるから、いいはずだが、悪いのは一方「うまく」なると同時にリズムが弱るからだ。精神のリズムが無くなってしまうからだ。「うまい」が「つまらない」と云う芸術品は皆それである。幾ら「うまく」ても作者のリズムが響いて来ないからである。(456頁)(リズム)

■フィリップの「野鴨雑記」リズム強く、捨身な処大いによし。情熱的な点もいいが、少し情熱過ぎて不安心な所あり。この点西鶴のつっぱなした書き方、効果強し。西鶴でもフィリップでも、話、いきなり堀を飛越し、向う岸へ行って、また続けるような「うまい」所あり。これを技巧と考えるのは浅い。彼等のリズムがそれをさせるのだ。本人からいえばこれは意識的でもなく、無意識的でもない。(458頁)(リズム)

大阪の友達の家で小さいコロー作の風景画(硲氏蔵)を見た。油画の事で感銘書きにくいが、非常に感服した。近年見た絵の稀なる収穫だった。こういうものになると東洋画も西洋画もない感じだ。感服するのに油画として、などいう意識はまるで起らなかった。いいものというものはいいものだと感じた。

武者の「二宮尊徳」も大変面白かった。自分の祖父が今市時代の尊徳の弟子だった関係で、尊徳の名は子供から親しんでいたが、まとまって知ったのは今度が始めてだ。尊徳の捨身なリズムの強い生活には非常にいい刺激を受けた。(459頁)(リズム)

(2011年3月7日)

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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