岡野岬石の資料蔵

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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『仏弟子の告白(テーラーガーター)』中村 元訳 岩波文庫

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『仏弟子の告白(テーラーガーター)』中村 元訳 岩波文庫

一つずつの詩句の集成

第1章

■わたしの庵(いおり)はよく葺(ふ)かれ、風も入らず、快適である。天の神よ、思うがままに、雨を降らせ。わたしの心はよく安定し、解脱している。わたしは努力をつづけている。天の神よ、雨を降らせ。

尊き人・スプーティ長老(注)はこのように詩句を唱えた。(8頁)

(注)スプーティ;〔須菩提(しゅぼだい)と音写し、善吉・善現と訳す〕はシュラーヴァスティー市の長老の子として生まれた。祇園精舎を寄進した給孤独長者の子として生まれた。祇園精舎で釈尊の弟子となった。ブッダから無諍第一の弟子とたたえられた。かれは後代には空を理解すること第一といわれ、解空(げくう)、空生(くうしょう)ともいわれた。般若経典のなかでもブッダの説法の相手として常に登場している。

 かれの詩句が唯だ一つしか伝えられていないということは、上座部のほうからみると、かれは異端者であったが、後代の大乗仏教はかれを前面に押し出したということも考えられる。(234頁)

■善人で賢者であり道理を見る人々とだけ交われ。怠らずに努め、洞察をなすもろもろの賢者は、〈深遠にして、見難く、精妙にして微細である大いなる道理〉を体得する。

尊き人・マンターニの子プンナ長老(注)はこのように詩句を唱(とな)えた。

(注)プンナ;詳しくはプンナ・マンターニプッタ多数の音写名があるが、普通は富楼那(ふるな)と書く場合が多い。かれはカピラヴァウストゥから遠からぬところにあったバラモン村に生まれ、バラモン階級に属した。母はコンダンニャ長老の妹の子であった。かれは説法に巧みであった。かれはもろもろの仏弟子のうちでも「説法第一」の名声を得ていた。(234~235頁)

■かっては制御し難かったが、いまや自制によって制御されているダッバ(注1)は、満足し、疑惑を超え、勝利者となって、恐怖をいだくことがない。なぜならば、このダッバ(注2)、善良であって、完全に安らぎを得て、みずから安立しているからである。

尊き人・ダッパ長老はこのように詩句を唱(とな)えた。(9頁)

(注1)ダッパ;Dabba なる人はマッラ族の王家の生まれであったが、釈尊に会って、7歳で出家し、のち、教団の臥坐具や食事などの分配の係りとなった。またダッパマーラなる人は、教団の施設をつかさどっていたというが、恐らく同一人であろう。

(注2)dabbaとは、普通名詞としては「善良な」「有能な」という意味であり、ここに一種の語呂合わせがあるのである。(235頁)

第2章

■わが師はわたくしに言われた、――「シーヴァカと。ここから去ろう」と。わたくしの体は村に住んでいるが、わたくしの心は森に行ってしまった。わたくしは疲れて臥しているいるけれども、そこへ行こう。(事物の真相を)識っている人々に執著は存在しない。

ヴァナヴァッチャ長老の新参の若い弟子(注)(シーヴァカ)(12頁)

(注)新参の若い弟子;samanera「沙弥(しゃみ)」と訳される。(236頁)

■5つ(の下位の束縛)を断て。5つ(の上位の束縛)を捨てよ。さらに5つ(のすぐれたはたらき)を修めよ。5つの執著を超えた修行僧は、〈激流を渡った者〉と呼ばれる。

タンダダーナ長老(12頁)

■生れ(血統)の良い駿馬が、たてがみをなびかせ、尾を振りながら、難渋しないで駆けるように、汚れなき安楽が得られたときには、わが昼夜は苦難なく過ぎゆく。

ベーラッタ長老(12頁)

■大食(おおぐら)いをして、眠りをこのみ、ころげまわって寝て、まどろんでいる愚鈍な人は、糧(かて)を食べて肥る大きな豚のようである。くりかえし母胎に入って(迷いの生存をつづける)。

ダーサカ長老(12頁)

■水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は力をこめて矢を矯(た)め、大工は木材を矯め、慎しみ深い人々は自己をととのえる。

タラ長老(14頁)

第3章

■矢作りが矢を矯(た)めるように、自己を直立さしめて、心を真っ直ぐにして、無明(むみょう、根源的な無知)を断ち切れ。

ハーリタ長老(16頁)

第4章

■あたかも〔母が〕愛しきひとり児に対して善き婦人であるように、いたるところで一切の生きとし生けるものに対して、善き人であれかし。

ソーバーカ長老(17頁)

■刀が体に刺さっている場合に〔刀を抜き去る〕ように、〔ターバンを捲いた〕頭〔髪〕に火がついている場合に〔急いで火を消そうと努める(注)〕ように、生存の貪りを捨て去るために、修行僧は、気をつけながら遍歴すべきである。

ヴァッダマーナ長老(19頁)

(注)「頭燃を払う」というのは仏典にはありふれた表現で、日本の禅宗に至るまでよく口にするが、西洋の翻訳者は気がつかない。(239頁)

第7章

■(真理を)見る者は、(真理を)見る(他)人を見、また(真理を)見ない人をも見る。しかし、(真理を)見ない者は、(真理を)見る(他)人をも見ないし、また(真理を)見ない人をも見ない。

ヴァッパ長老(26頁)

(注)ヴァッパ;Vappaは、ブッダが出家して苦行していたとき、ともに修行していた5人の修行者の一人であり、鹿野苑でブッダの最初の説法を聞き、のち、さとりを得た。(241頁)

■ウッケパカタ(蓄財をなした)ヴァッチャが多念にわたって集積したものを、かれは、安坐して、高貴な歓喜にみちて、在家社たちに説く。

ウッケーパカタ・ヴァッチャ長老(27頁)

■偉大なる健(たけ)き人は、あらゆる事象の彼岸におもむいて、(わたくしを)教えみちびいてくださった。わたくしは、あの方の教えを聞いて、その御許(みもと)に楽しんで住んでいた。3つの明知を達成し、仏の教えをなしとげた。

メーギヤ長老(27頁)

■わたしの煩悩は焼きつくされた。あらゆる迷いの生存は根こそぎにされた。生まれることを繰り返す迷いの生存は滅びてしまった。いまや再び迷いの生存は存在しない。

エーカダンマ・サヴァーニーヤ長老(28頁)

■心の中で怠ることなく、絶えず聖者の道を実践している聖者、休らいに帰し、つねに気をつけている修行完成者には、もはや悲しみは存在しない。

エークッダーニヤ長老(28頁)

■全知である最上の智ある人(ブッダ)によって説かれた、大いなる味わいのある、偉大な人の教えを聞いて、不死(の境地)を得るために、道を実践した。あの方は安穏の道を究めておられる。

チャンナ長老(28頁)

■この世では、戒しめこそ最上である。また知慧ある人は、最上の人である。――人々と神神とのあいだで、戒しめと知慧の故に勝利を博する。

ブンナ長老(28頁)

第8章

■きわめて微細、微妙な道理を見、思慮に巧みで、謙虚であり、仏につかえるのを習いとした者には、安らぎ(ニルヴァーナ)は決して得難いものではない。

ヴァッチャパーラ長老(29頁)

■老いぼれた人を見て、苦しんだ人を見て、病んだ人を見て、また寿命が尽きて死んだ人を見て、そこで、わたしは、心を楽しますもろもろの欲望の対象を捨てて、家を出て、遍歴の身となった。

マーナヴァ長老(29~30頁)

■善く身を修めている人に会うのは、善い。疑いは断たれ、知慧は増大する。愚者をも賢者となす。それ故に、立派な人々とつき合うには、善い。

スサーダラ長老(30頁)

■この心は、以前には、望むところに、欲するところに、快きがままに、さすらっていた。今やわたくしはその心を適切に抑制しよう、――象使いが鉤(かぎ)をもって、発情期に狂う象を全くおさえつけるように。

ハッターローハプッタ長老(=アーローハプッタ)(31頁)

第9章

■愛しき児よ。托鉢し易く、安らかで、危険のないところへ行きなさい。悲しみに打ちひしがれるな(注)。

カッサパ長老(32頁)

(注)修行僧カッサパが幼いときに、父がなくなり、母が育てた。やがてカッサパは出家し、師釈尊とともに遠くでかけようとして、母のもとに来たとき、母はこの詩を以て教えさとしたという。「托鉢し易く、食物の得易いところへ行け」というのは、母の情である。(242~243頁)

■シーハ(注)よ。昼夜に怠ることなく、倦(う)むことなく、つとめていなさい。善いことがらを修養なさい。いろいろのものの集まりであるこの身を速やかに捨てなさい。

シーハ長老(32頁)

(注)シーハ;Sihaとは「獅子」という意味である。ブッダがこの詩を以てシーハ修行僧を教えさとした。(243頁)

■個体の〔5つの〕構成要素はありのままに見られた。迷いの生存はすべて打ち破られた。生まれることを繰り返す迷いの生存は滅びている。今や迷いの生存を再び繰り返すことはない。

バヴィッタ長老(33頁)

■わたしは実に水中から陸上に、自分を引き上げることができた。大きな水流に流されていたかのごときわたしは、〔4つの〕真理(注)を体得することができた。

アッジェナ長老(34頁)

(岡野注)〔4つの〕真理;四諦(したい)。

第10章

■(神々の召し上る)百味ある甘露の食物も、今日わたくしが頂いた食物には及ばない。――(その食物とは、)無限の見とおす力のあるゴータマ・ブッダによって説かれた真理のことである。

パリプンナカ長老(35頁)

■その人の汚れは消え失せ、食物をむさぼらず、その人の解脱の境地は空(くう)にして無相であるならば、かれの足跡は見出し難い。――空飛ぶ鳥の跡の知りがたいように。

ヴィジャヤ長老(35頁)

■かつ尊き師・釈尊族の子にしてめでたき方に敬礼したてまつる。最上の境地に達したこの方は、最上の真理を良く説き示してくださいました。

メッタジ長老(36頁)

■正しい努力をそなえ、(4つの)専念(四念処)をその境地とし、解脱の花に覆われている人は、汚れの無いものとなり、完全に安らぎに達するであろう。

デーヴァサバ長老(37頁)

第11章

■在家の生活を捨てて〔出家しても〕、堅固な決心が無くて、口先を鋤(すき)として大食(ぐら)いをして、なまけている愚鈍な人は、大きな豚のように糧(かて)を食べて肥り、くりかえし母胎に入って(迷いの生存をつづける)。

ベーラッタカーニ長老(38頁)

■たかぶりのために欺かれ、もろもろの形成された事物に汚され、いろいろの所得によって心の乱れている人々は、心の統一安定を得ることができない。

セートゥッチャ長老(38頁)

■或る目標となるものが百の特相あり、百の特徴をもっているときに、唯だ1つの部分(特相ないし特徴)のみを見る人は、愚者であり、百を見る人は賢者である。

スヘーマンタ長老(39頁)

第12章

■命は消耗してゆくのに、身体はでっぷりと肥って重く、身体の快楽のみ貪る修行者に、〈道の人〉たる善き徳性がどうしてあり得ようか。

アディムッタ長老(42頁)

■薮と樹木の多い山岳、(木や草に)覆われている名高いネーサーダカ山によって、そなたは見下されているのである。

マハーナーマ長老(注)(42頁)

(注)マハーナーマ;Mahanamaは5人の修行者の一群のうちの一人である。かれはネーサダカ山に住んでいたが、煩悩を断ずることができないで、「こんな汚れた心では、生きていても何の要があろうか。」と思って、自分が嫌になって、山頂に登って、身を投げて死のうと思って、自分自身に向かって、この詩をよんだのである。そこで思案するのは無用であると覚って、アラハット(阿羅漢)の境地に達した。(244頁)

二つずつの詩句の集成

第1章

■ところで、この世で食物や飲料を(多く)所有している人は、たとい悪いことを行なっていても、かれは愚かな人々から尊敬される。

アジナ長老(47頁)

■師が教えを説いておられるのを聞いたときに、全知者、不敗の人、隊商の主、偉大なる建(たけ)き人、最もすぐれた御者に対して、わたくしは疑いをいだく気はなかった。道に関しても、実践に関しても、わたくしに疑いは存在しなかった。

メーラジナ長老(47頁)

■屋根を粗雑に葺(ふ)いてある家には雨が洩れ入るように、心を修行していないならば、情欲が心に侵入する。

■屋根をよく葺いてある家には雨が洩れ入ることがないように、心をよく修行してあるならば、情欲が心に侵入することが無い。

ラーダ長老(47頁)

■婦女たちに束縛されない聖者たちは、安らかに眠る。実につねに警戒してまもらねばならぬ人々(婦女たち)のあいだにあっては、真実を得ることは、きわめて難しい。

□愛欲よ。われらは、お前を殺してしまった。われらは、いまやお前に負い目は無い。われらは、いまや安らぎ(ニッバーナ)におもむく。そこに至れば、悩むことがない。

ゴータマ長老(48頁)

第2章

■大海の上では、人は、小さな木片に乗っているならば、沈むように、怠け者と交わっているならば、立派に生きている人でも沈む。それ故に、努力しない怠け者を避けよ。

□離れて住む尊い人たち、熱心に瞑想に努める人たち、つねに精を出して努める聡明な人たち、と共に住むべきである。

ソーマミッタ長老(53頁)

第3章

■4つの専注すべきことがら(注1)、7つの〔さとりを得るための事柄〕、8つの〔部分より成る正しい道〕を修養して、わたしは五百劫(という過去の長い年月を)一夜のうちに回想した。

ソービタ長老(54頁)

■安穏(の境地)に達するために、わたくしは、5つの覆い(注2)を捨てて、(自分を反省して見るための)真理の鏡――自分を知りかつ見ること――を手に執って、この身体を内外にわたってすべて観察した。そうして、身体は内にも外にも空虚なものであるということを見た。

ブンナマーサ長老(55頁)

(注1)漢訳では「四念処」。

(注2)5つの覆い;欲望、嫌悪、心のざわざわすること・後悔、疑いをいう。(247頁)

第4章

■(人間の個体生存という)小さな家は無常である。わたくしは〔幾多の生涯にわたって〕あちこちに繰り返し家屋の作者(つくりて)(注)をさがしもとめて来たが、生涯をくりかえすのは、苦しいことである。

□家屋の作者(つくりて)よ! 汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁(はり)はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心の方向を転ぜられ、まさにこの世において消滅するであろう。

シヴァカ長老(58頁)

(注)家屋の作者;「家屋の作者」とは人間の妄執(渇愛)である。(248頁)

■(注)愛すべく喜ばしい五欲の対象をすてて、信の心によって家から出て、苦しみを終滅せしめる者であれ。

□われは死を喜ばず。われは生を喜ばず。よく気をつけて、心がけながら、死の時の至るのを待つ。

ニサバ長老(60頁)

(注)『スッタニパータ』第337詩に同じ。そこでは釈尊が自分の愛児ラーフラに対して説いた教えということになっている。(248頁)

■(注)この人はボロ切れなのである、とカッパタクラがいった。澄んだ、溢れるばかりの甘露の瓶に、(ブッダの)教えのけじめがつくられた。もろもろの瞑想を積み重ねるための境地がつくられた。

□カッパタよ。わたしがそなたの耳朶(じだ)を打つことのないように、そなたはうとうと眠りなさるな。カッパタよ。そなたは集い(サンガ)の人々のなかでうとうと眠っていたので、けじめを知らなかった。

カッパタクラ長老(61頁)

(注)この2つの詩句は、釈尊が修行僧カッパタクラを叱って言ったのである。(248頁)

第5章

■みごとな冠あり、尾が美しく、青い頸(くび)もうるわしく、面(おもて)もきれいで、美声の孔雀どもは鳴いている。この大地は緑草ゆたかに、水がみちている。空は雲が美しい。

□心喜べる人には、温良なるすがたがある。それを思え。善き人が、よきブッダの教えにおいて進み行くのは、やさしい。いとも清浄純白であり、微妙で、見難いところの、かの不死なる最上の境地に触れよ。

チューラカ長老(64頁)

■愚妹なる凡夫は、長い時期にわたって輪廻しつつ、もろもろの生存領域(注)をへめぐって来た。――(4つの)尊い真理を見ることなしに。

□そのわたしが、怠らずに修養に努めたときに輪廻は断たれ、すべての生存領域は根絶された。いまやわたしはさらに迷いの生存を繰り返すことはない。

ヴァッジタ長老(65頁)

(注)生存領域 gati(複数)。地獄、餓鬼、畜生、〔修羅〕、人間、天上の五道または六道をいう。transitionsという訳は不可。(249頁)

三つずつの詩句の集成

■以前になすべきことを後でしようと欲する人は、幸せな境地から没落して、あとで後悔する。

□実に人が(実際に)為そうとすることを語れ。為さないようなことがらを語るなかれ。(実際には)なさないのに(口先で)語っているだけの人を、賢者は知り抜いている。

□完全にさとりを開いた人の説かれた安らぎ(ニルヴァーナ)は、実にいとも楽しいものである。悲しみなく、塵埃(じんあい)なく、安穏(あんのん)であり、そこでは苦しみが滅びている。

バークラ長老(68頁)

■「これはあまりに寒すぎる」「あまりに暑すぎる」「これはあまりに夕方で遅すぎる」と、このように言って、青年が業務を放棄するならば、機会は(むなしく)過ぎ去ってしまう。

□寒さをも暑さをも、草よりも以上のものとは考えないで、人間として為すべきことを実行しているならば、その人は幸せから離れることはない。

□わたしは、遠ざかり離れる思いに専念して、ダッパ草、クサ草、ポータキラ草、ウシーラ草、ムンジャ草、パッパジャ草を、(わが)胸もて、かき分けて行こう。

マータンガプッタ長老(69頁)

□よく説かれたこと(注)を実行せよ。――(道の人)にうやまい仕えること、人々からかくれて独りで坐すこと、心を静めることを――。

(注)よく説かれたこと;仏典では仏の説法の内容がよく説かれたもの(善説)であることをいう。よいことばを語る、という意味ではない。(250頁)

ヴァーラナ長老(70頁)

■信仰によって世俗から離れ、新たに出家した新参の(修行僧)は、怠らずに清らかな生活を送っている良き友たちと交わるべきである。

□信仰によって世俗から離れ、新たに出家した新参の修行僧は、サンガ(教団)のうちに住みながら、聡明に戒律を学ぶべきである。

□信仰によって世俗から離れ、新たに出家した新参の(修行僧)は、為すべきことと為してはならぬことを心得て、心が乱されることなく行なうべきである。

ウパーリ長老(注)(72頁)

(注)ウパーリ;(優波離と音写する)は、もとカビラヴァストゥで釈迦族の宮廷の理髪師であったが、たまたまアルヌッダなど5人の貴公子に従って、釈尊がアヌピヤーに滞在していたときに、釈尊のもとに至って諸王子とともに出家した。戒律を守り、精通していたことは仏弟子たちのうちで第一であったので、「戒律第一」といわれる。第一結集のときに、律を誦出(しょうしゅつ)したとう。これらのかれの回想の詩句には、いかにも戒律を守る覚悟が示されている。(250頁)

■以前に為すべきことを後でしようと欲する人は、幸せな境地から没落して、あとで後悔する。

□実に人が(実際に)為すであろうことを語れ。為さないようなことがらを語るなかれ。(実際には)為さないのに(口先で)語っているだけの人を、賢者は知り抜いている。

□完全にさとりを開いた人の説かれた安らぎ(ニルヴァーナ)は、実にいとも楽しいものである。悲しみなく、塵埃(じんあい)なく、安穏であり、そこでは苦しみが滅びている。

ハーリタ長老(74頁)

四つずつの詩句の集成

■「われらは、この世において死ぬはずのものである」という、このことわりを他の人々は知っていない。しかし人々がこのことわりを知れば、争いはしずまる。

□人々が(ことわりを)はっきりと知らないときには、自分たちが不死であるかのごとくに振る舞う。しかし、ことわりをはっきりと知っている人々は、病人たちのあいだにおける無病者である。

□なにをしようとも、その行ないがだらしがなく、どんな誓いを立てても、汚れていて、〈清らかな行い〉もよごれているならば、大いなる果報をもたらすことはできない。

□ともに清らかな行ないを修行している人々に対して尊敬していることが認められない人は、真実の教えから遠く離れている。――虚空が大地から遠く離れているように。

サビヤ長老(78頁)

■ああ、わたしはガヤーの春祭りに来て良かった。――正しいさとりを開いたブッダが最上の教えを説いておられるのを見たのであるから。

□(ブッダは)大いなる輝きのある(徒衆の師)、最高の境地に達した、〈神々と世人との〉指導者、比類なき見通す力のある勝利者である。

□(ブッダは)偉大な象、偉大な建(たけ)き人、汚れの無い大いなる輝き、あらゆる汚れが消滅し、恐れることの無い師である。

□かの尊き師は、永いあいだ煩悩に汚れていた、邪(よこし)まな見解の絆(きずな)に縛られていたわたし、セーナカを、あらゆる束縛から開放してくださいました。

セーナカ長老(注)(79頁)

(注)セーナカ;Senakaは、もともとバラモン教の火の行者であったウルヴェーラ・カッサパの妹の子である。ガヤーの近くに住み、毎年、ガヤーで催される春の祭りに参加し霊場で沐浴していたが、たまたま、ブッダに会って、出家した。かれの回想によると、ゴータマ・ブッダに会ったことが直接の機縁となっている。(252頁)

■ゆっくりしてよい時に急ぎ、急がねばならぬときにゆっくりする愚人は、正しい道理によって処置することができないので、苦しみを受ける。

□かれのものごとは欠けて行く、――黒分(月の欠けて行く半ヶ月)における月のように。かれは恥辱を受け、友人たちと仲違いする。

□ゆっくりしてよい時にゆっくりし、急がねばならぬときに急ぐ賢者は、正しい道理によって処置することによって、幸せを獲得する。

□かれのものごとは満ちて行く、――白分(月の満ちて行く半ヶ月)における月のように。かれは名声と名誉とを獲得し、友人たちとも仲違いしない。

サンプータ長老(79~80頁)

■人々はわたしを「幸運なラーフラ」と呼んでいる。わたしは2つの幸運を受けている。1つは、わたしがブッダの子であるということであり、他の1つは、わたしがもろもろの道理を見通す眼をもっていることである。

□わたしの汚れは消滅し、わたしはもはや迷いの生存を受けることがない。わたしは、尊敬さるべき人(アラハット)、布施を受けるべき人、3種の明知のある人、不死を見る人である。

□かれらは、もろもろの欲望のため盲目となって、(よこしまな)網に覆われ、妄執の覆いをまとい、怠惰の親族に縛られている。――魚網の入口にいる魚のように。

□わたしは、その愛欲を捨てて、悪魔の束縛を断ち切り、愛執を根こそぎにし、清涼となり、安らぎに帰した。

ラーフラ長老(注)(80~81頁)

(注)ラーフラ;Rahula.羅睺羅(らごら)と音写する。釈迦とヤソーダラー妃との間に生まれた子である。釈尊がさとりを開いてのちカピラヴァストゥへ帰郷したとき、釈尊によって出家させられた。ゴータマ・ブッダは9歳のラーフラをサーリプッタ長老に託して出家させたという。20歳で具足戒を受けた。「密行第一」(戒律のこまかなところまで守ること第一)の称をうけた。ただし、かれはただし、かれは釈尊の子であるために、他の人々を軽蔑する風があり、釈尊はそれを戒めた。(『スッタニバータ』第335–342詩)

■理法(ダンマ)は、実に、理法を実践する人を護(まも)る。理法をよく実践するならば、幸せをもたらす。理法を良く実践したならば、このすぐれた功徳がある。理法を良く実践する人は、悪い境界におもむくことが無い。

□正しいことと正しくないこととの両者は、等しい果報をもたらすものではない。正しくないことは、人を地獄にみちびき、正しいことは善い境界(天上)に達せしめる。

□それ故に、もろもろの善いことがらをなす意欲を起すべきである、といった喜んでいる人は、幸せな人・(ブッダ)によって〔みちびかれている。〕道理に安住している、最上の幸せな人(ブッダ)の弟子たちは、しっかりとしていて、導かれて、最上の帰依をなすに至る。

□悪瘡の根(無明)は切除された。愛執の網は根こそぎにされた。かれは輪廻を消滅した者である。もはや〔汚れは〕少しも存在しない。――清らかな満月の夜の月のように。

ダンミカ長老(81~82頁)

■わたしは、生活のために出家した(注)。完全な戒律(具足戒)を受けて、それから信仰を得た。そうしてしっかりとした意志力をもって努力した。

ムディタ長老(83頁)

(注)教団の収入が増大して出家僧侶の生活が楽になると、信仰心からでなくて、生活のために出家する人々が現れた。ある者は不運のために出家し、或る者は生活のために出家した。そうして、生活のために出家して信仰はその後で得たのである。また世間で役に立たぬ者、生活能力のない者も、教団に入るようになった。(253頁)

五つずつの詩句の集成

■不当なることに自己を専念させて、仕事を追求している人は、もしも実行して目的を達成できないならば、「それは、わたしの運が悪いしるしだと」という。

□もしも人が、1つの不運を引き抜き、征服して、投げすてるのであれば、それは、〔負の〕骰の目のようなものであろう。またもしも人がすべてを投げ捨てるのであれば、譬えば、盲人が、なだらかな処と凹凸があって難渋する処との見分けのできないようなものであろう。

□実に人が(実際に)為そうとすることを語れ。為さないようなことがらを語るなかれ。(実際には)なさないのに(口先で)語っているだけの人を、賢者は知り抜いている。

□うるわしく、あでやかに咲く花でも、香りの無いものがあるように、善く説かれたことばでも、それを実行しない人には、実りがない。

□うるわしく、あでやかに咲く花で、しかも香りのあるものがあるように、善く説かれたことばも、それを実行する人には、実りが有る。

スプータ長老(84~85頁)

■わたしのために、ブッダはネーランジャラー河に来られた。わたしは、かれの教えを聞いて、誤まった見解を除き去った。

□(以前には)わたしは種々の祭祀(さいし)を行なっていた。わたしは、火の献供をも実行していた。――「これは清浄なことである」と考えながら。わたしは盲目の凡夫であった。

□誤った見解の密林に踏み迷い、誤まった偏執に昧(くら)まされて、盲目であり無知であったわたしは、不浄を清浄である、と考え込んでいた。

□わたしの誤まった見解は捨てられた。迷いの生存はすべて壊滅された。わたしは、いま(真に)布施に値する火(注1)の祭りを行なう。われは、修行完成者に敬礼する。

□わたしは、迷妄をすべて捨て去った。生存に対する妄執をうち破り、生れを繰り返す迷いの生存は滅びてしまった。今や迷いの生存を再び繰り返すことはない。

ナディー・カッサパ長老(注2)(88頁)

(注1)布施に値する火;ヴェーダの宗教ではdaksinaganiとは、祭壇に南方に置かれる祭火であり、anvaharya-pacanaともいい、3つの祭火の1つであるが、語が似ているので、それとの連想をもっていたのかもしれない。

(注2)ナディー・カッサパ;Nadi Kassapaは、カッサパ3兄弟のうちの2番目であり、3百人の〈火の行者たち〉とともに、ネーランジャラー河畔に住んでいたが、兄弟とともにブッダに帰依した。(254頁)

■早朝と、日中と、夕方と、日に3度、わたしは、ガヤーの春の祭りに、ガヤーで、水の流れに入って、水浴した。

□「わたしが以前に他の諸生涯においてつくった罪悪を、いまや、ここで、洗い流してしまおう」と、わたしは以前には、そのような見解をもっていた。

□(ブッダの)よく説かれたことば、真理と利(岡野?)をともなう語句を聞いて、あるがままの、真実に即した道理を、正しく観察し反省した。

□わたしは、いまや、あらゆる罪悪を洗い去り、汚れなく、身心をととのえ、清らかであり、清浄なる人の清浄なる後嗣(あとつぎ)であり、ブッダの実子である。

□8つの部分より成る流れ(八正道)のうちに跳び込んで、わたしはあらゆる罪悪を流し去った。わたしは3つの明知を体得した。ブッダの教えはなしとげられた。

ガヤー・カッサパ長老(注)(89頁)

(注)ゴータマ・ブッダがヒンドゥー教の霊場ガヤーへ来て、カッサパ3兄弟(ウルヴェーラ・カッサパ、ナディー・カッサパ、ガヤー・カッサパ)を帰依させたことは、仏教教団発展のための大きなはずみになった。ガヤー・カッサパ(伽耶迦葉)は、カッサパ3兄弟の末弟であり、ガヤーに住み、2百人の(火の行者たち)をひきいていたが、二人の兄とともにブッダに帰依した。(254頁)

■〔ブッダいわく――〕「そなたは風病(注)に悩まされているのに、人の住まない荒地である林や叢(くさむら)に住みながら、修行者としてどのようにやって行こうとするのであるか?」

□〔ヴァッカリ長老いわく――〕「この身を大いなる喜び・楽しみで遍満しながら、荒々しいことにも堪え忍んで、わたしは叢の中に住みましょう。

□〔4つの〕専注(四念処)と〔5つの〕すぐれたはたらき(五根)と〔5つの〕力とを修養しながら、またさとりを得るための〔7つの〕ことがら(七覚支)を修養しながら、わたしは叢の中に住みましょう。

□精励して努め、熱心であり、つねにしっかりと行動しながらも、一致和合している(仲間の修行者たち)を見て、わたしは叢の中に住みましょう。

□自らを制した最上の人、心の安定した人である〈正しく覚りを開いた人〉(ブッダ)を追憶しながら、昼夜に怠ることなく、わたしは叢の中に住みましょう。」

ヴァッカリ長老(89~90頁)

(注)ヴァッカリ長老が風病で悩んでいたのを知って、ブッダが見舞いに来たのである。(254~255頁)

■悪人は、咎め立てする心で、勝利者(ブッダ)の教えを聞く。そのようなことをすると、正しい真理から遥かに遠ざかる。――地が天から遥かに遠ざかっているように。

□悪人は、咎め立てする心で、勝利者(ブッダ)の教えを聞く。そのようなことをすると、正しい真理から遥かに遠ざかる。――黒分(月の欠けて行く半ヶ月)における月のように。

□悪人は、咎め立てする心で、勝利者(ブッダ)の教えを聞く。そのようなことをすると、正しい真理において乾からびる。――水の乾からびたところにいる魚のように。

□悪人は、咎め立てする心で、勝利者(ブッダ)の教えを聞く。そのようなことをすると、正しい真理において栄えない。――田に腐った種子(たね)を播いたように。

□喜びに満ちた心で、勝利者(ブッダ)の教えを聞く人は、あらゆる汚れを捨てて、心の乱されない境地を体得して、最上の静けさに到達して、汚れ無く、マ円かな安らぎを得るであろう。

ヤサダッタ長老(91頁)

六つずつの詩句の集成

■名声あるゴータマの驚異的なはたらきを見て、わたしは嫉妬と傲慢に欺かれて、最初のうちは、かれにひれ伏すことをしなかった。

□わたしの意向を知って、人間たちの御者(ブッダ)は、わたしを促した。そこで、わたしには、不思議な、身の毛もよだつ感激が起こった。

□以前にはわたしは結髪行者であったが、そのときのわたしの神通力(注1)は僅かのものであった。(釈尊に会った)そのときに、わたしはそれを捨て去って、勝利者(ブッダ)の教えにおいて出家した。

□以前には、祭祀(さいし)を行うことに満足し、欲望の領域に心が乱されていたが、のちには、欲情と嫌悪と迷妄とを根こそぎにした。

□わたしは前世の状態を知っている。わたしのすぐれた眼(まなこ)(天限、てんげん)は浄められた。神通力をそなえ、他人の心を知るものであり、すぐれた聴力(天耳、てんに)を獲得した。

□わたしが在家の生活から脱して出家したその目的である(あらゆる束縛の消滅)を、ついにわたしは達成した。

ウルヴェーラー・カッサパ長老(注2)(94~95頁)

(注1)神通力;この場合には行者として受けていた利益、人々から受ける尊敬をいう。

(注2)ウルヴェーラ・カッサパはカッサパ3兄弟のうちの長兄であり、火の献供を行なう5百人の行者の長であったが、ブッダの教化により出家した。かれの回想は迫真力をもっている。(255頁)

■ともに清らかな行ないを修行している人々に対して尊敬していることが認められない人は、真実の教えから退いている。――乾からびた水溜りの中にいる魚のように。

□ともに清らかな行ないを修行している人々に対して尊敬していることが認められない人は、真実の教えにおいて栄えない。――田に腐った種子(たね)を播いたようなものである。

□ともに清らかな行ないを修行している人々に対して尊敬していることが認められない人は、法王(ブッダ)の教えのうちにありながら、安らぎから遠く離れている。

□ともに清らかな行ないを修行している人々に対して尊敬していることが認められる人は、真実の教えから退くことがない。――水の多いところにいる魚のように。

□ともに清らかな行ないを修行している人々に対して尊敬していることが認められる人は、真実の教えにおいて栄える。――田に良い種子を播いたように。

□ともに清らかな行ないを修行している人々に対して尊敬していることが認められる人は、法王(ブッダ)の教えのうちにあって、安らぎはかれの近くにある。

マハーナーガ長老

■恣(ほしいまま)にふるまう人には、愛執(あいしゅう)が蔓草のようにはびこる。林のなかで猿が果実(このみ)を探し求めるように、かれは(この世からかの世へと)あちこちにさまよう。

□この邪悪なる妄執、世間に対する執著(しゅうじゃく)のなすままである人は、もろもろの憂いが増大する。――雨が降ったあとにはビーラナ草がはびころように。

□この世において如何ともし難いこの邪悪なる妄執に打ち克ったならば、憂いはその人から消え失せる。――水の滴(しずく)が蓮華から落ちるように。

□さあ、みなさんに告げます。――ここに集まったみなさんに幸あれ。欲望の根を掘れ。――(香しい)ウシーラ根を求める人がピーラナ草を堀るように。葦が激流に砕かれるように、悪魔にしばしば砕かれてはならない。

□ブッダのことばを実行せよ。瞬時も空しく過すな。時機を空しく過した人々は、地獄に堕ちて、苦しみ悩む。

□怠りは塵垢(ちりあか)である。塵垢は怠りに従って生ずる。つとめはげむことによって、また明知によって、自分にささった矢(とらわれ)を抜け。

マールンキヤ・プッタ長老(岡野注)

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(岡野注);この本の途中ですが、マールンキヤ・プッタ長老を描いた本の章を明日からアップしていきます。

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『ブッダ・ゴータマの弟子たち』増谷 文雄著 現代教養文庫

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15 マールンクヤ(摩羅迦)

(1)

■ここにもまた、あまりに有名ならぬ一人の仏弟子をとりあげる。その名をマールンクヤ(摩羅迦)もしくはマールンクヤー・プッタ(摩羅迦子)という。彼の名は、あまり経典のなかには現れてこないが、ただ、彼を対告衆(たいごうしゅう)すなわちブッダ・ゴータマのおしえをいただく対手とする一つの経が、いろいろの意味において、後代の仏教者もしくは仏教研究者の注目をあつめるところとなっておる。わたしもまた、そのような意味から、この仏弟子にふかい関心をよせざるをえないのである。

この経に登場するマールンクヤが、なお若者であったかどうか、どこにも確証はないけれども、わたしは、いつとはなしに、彼のうえに青年のイメージを描いているのであるが、そのうえ、かれは、うたがいもなく、哲学的思惟にふかい興味をもっていた人物であったから、今日のことばでいうならば、「哲学青年」ということばが、もっとも彼にぴったりするように思われる。

彼の出身は、コーサラ(拘薩羅、くさら)の都サーヴァッティー(舎衛城)であって、その種姓ヴァイシャ(吠舎、べいしゃ)すなわち庶民であったが、彼の父は、コーサラの国王パセーナディ(波斯匿、はしのく)に仕えて、その財務官をつとめていたというのであるから、その家はかなり富者であったにちがいない。

出家してからの彼は、その哲学好きの性向をつのらせて、しばしばブッダを訪れてた、そのころ流行の哲学的問題について問いを呈していたようである。だが、ブッダは、それらの問いにたいして、一向にはっきりした解答を与えてくれない。それが、この哲学青年には不平でならなかった。彼の思いを、いささか分析してみるならば、彼は、そのころすでに盛名たかいブッダ・ゴータマを慕って出家してきた。この人ならば、なにを問うてもずばりと素晴らしい解答を与えてくれるにちがいないと思っていた。しかるに、案に相違して、その人は、彼の呈する問いには、いつも言を左右にして、一向に素晴らしい解答を与えてはくれない。彼はいささか幻滅の悲哀を感ぜずにはいられない。そして、この経の叙述は、そのような心境の彼が、今度こそはと、腹をきめて、その師を訪れるところから始まるのである。

それもまた、彼らが例の祇園精舎にあった時のことだと記されているが、経のことばはまず、これまで彼がブッダに呈して解答を与えられなかった問いが、どのような問題であったかを、ずばり並べあげている。

第一には、「世界は常住なりや、無常なりや」ということ。この世界の存在がすべて無常である、変化するものであるということは、ブッダ・ゴータマの思想の根底をなすものである。それはもう、ブッダが解答を保留する必要など、まったく存しないところである。ここでマールンクヤが問うているのは、そのことではなく、もっと次元を異にして、この世界は時間的に無限なものであるか、それとも有限なものであるかと、そのことを問うているのである。

その第二には、「世界は有辺(うへん)なりや、無辺なりや」ということ。それは第一の問いと対をなしているのであって、ここでは、この世界は空間的に無限なものであるか、それとも有限なものであるかと問うているのである。

その第三には、「霊即身なりや、霊と身とは各別なりや」とある。今度は、世界の問題ではなくて、人間の問題である。人間の肉体と霊魂とは、どういう関係にあるか、それは、別々のものであるか、それとも同一のものなのかと問うているのである。

そして、その第四には、「タターガタは死してものちもなお存するか、それとも存せざるものか」という問いであった。それは、ずばりといえば、人間の死後の存在の問題である。

今日のわたしどもでいえば、人間は死後もなお存するものであるか、それとも存せざるものかという問いなのである。それを、なぜここでは「タターガタ」といわねばならなかったかというと、その時代においては、なお輪廻の思想が一般的に信ぜられていたからである。その思想のかんする限り、人間は死後もなお存在してさまざまの生を繰り返すというのが建前である。そのような輪廻転生のわずらわしさから解放せられた人間がすなわち「タターガタ」なのである。「タターガタ」とは、「如来」とたくされていることばであり、それは他ならぬ仏をいうことばであるが、ここでは、もっと一般的に、輪廻転生のわずらわしさを解脱した人間の意と解すべきであり、かの時代には、そのような人間について、はじめて死後の存在が問題となりえたのある。

それらの問題は、どうやら、そのころの思想家のあいだでの、いわば流行の論題であったらしく、他の経にも、ときどきそれが見えている。

マールンクヤは哲学好きの青年であったから、自分たちの師匠がそれらの論題にたいして素晴らしい解答を与えてくれることを熱望している。

それなのに、ブッダ・ゴータマは、何度つついても一向に答えてくれない。

経のことばは、彼の不満を「これらの論題は、世尊によりて説かれず、捨ておき、拒まれたり。われは、世尊がこれらをわれに説かざるを悦(よろこ)ばず、忍ばず」としるしておる。

そこで、今日もまた、説かれなかったならば、自分はもう、この師のもとでの修行をやめて世俗に還(かえ)ろう。彼は、そのような決心でブッダを訪れたのである。いや、彼は、ブッダを訪れて、その通りに申しあげたのである。それはもう、たいへんな剣幕で、「知らなければ知らないと、はっきり申していただきたい」とまでいっておる。

(2)

それに対してブッダ・ゴータマはこう仰せられた。

「マールンクヤよ、わたしは汝に、それらの問題について解答を与えてやるから、来ってわたしの許で修行するがよいといったであろうか」

そういわれると、彼もまた、「そうではございません」と答えるよりほかはない。彼が出鼻をくじかれて、悄然とした態度にかわったとき、ブッダは、一つの喩(たと)えを説いて、懇々として彼をさとした。その喩えは、古来「箭喩(せんゆ)」と称して、ひろく仏教者のあいだに語りつたえられている。漢訳の同本が、この経に題するに「箭喩経」、訳していえば「箭(や)の喩(たと)えを説いた経」という経題をもってしているのは、その喩えに重きを置いてのことと思われる。それは、おおよそ、つぎのように語られてある。

「マールンクヤよ、ここに一人のひとがあって、毒箭(どくや)をもって射られたとする。すると、彼の親友や同僚たちは、いそいで彼のために医者を迎えるであろう。だが、彼は、医者の手をおしのけて、わたしを射た人はどんな人であるか、わたしを射た弓はいかなる弓であるか、あるいは、わたしを傷つけた矢はどんな矢なのか、それらのことがことごとく知られないうちは、この矢を抜いてはならぬといったら、いったい、どういうことになるであろうか。マールンクヤよ、そうしたら、彼は、それらのことをことごとく知りえないうちに、死んでしまわねばならぬではないか。

マールンクヤよ、それとおなじことであって、もし人が、これらの問題についてわたしがことごとく語るまでは、わたしの許で清浄(しょうじょう)の行を修するわけにはゆかないといっていたのでは、彼はついに清浄の行を修する機会なくして、命を終わらねばならないであろう」

その道理に合った説得によって、マールンクヤの顔にようやく納得の色が浮かんできたとき、ブッダ・ゴータマは声をはげまして、命ずるがごとくにいった。

「その故に、マールンクヤよ、わたしの説かないないことは、説かれぬままに受持するがよろしい。また、わたしの説いたことは、説いたままに受持するがよろしい。

マールンクヤよ、では、わたしの説かなかったこととは何であろうか。わたしは、世界の常住・無常、あるいは有辺・無辺については何事も説かない。また、霊魂と肉体のこと、あるいは、死後の存在についても何事も説かない。それらのことは、道理の把握に役立たず、聖道(しょうどう)の実践に役立たたず、究極の目的の実現に役立たないからである。

では、マールンクヤよ、わたしの説いたこととは何であろうか。〈こは苦なり〉とわたしは説いた。〈こは苦の生起なり〉とわたしは説いた。〈こは苦の滅尽なり〉とわたしは説いた。また、〈こは苦の滅尽にいたる道なり〉とわたしは説いた。それらのことは、道理の把握に役立ち、聖道の実践に基礎をあたえ、究極の目的の実現に導くからなのである。

されば、マールンクヤよ、わたしの説かないことは説かれぬままに受持するがよく、また、わたしの説いたことは、説いたままに受持するがよいのである」

そこに、わたしどもは、ブッダ・ゴータマの自信にみちたことばを見ることができる。そのことばを聞いて、マールンクヤは、経のことばをもっていえば、「歓喜して、その教えを信受した」という。

(3)

では、いったい、ブッダ・ゴータマは、その哲学青年マールンクヤの呈するそれらの問題にたいして、何故に答えることを拒否したのであろうか。あるいは、ブッダのことばをもっていうならば、何故にそれらの論題を説かざれ流ままに捨ておいたのであろうか。その理由を、今日の学者たちは、なお、色々と問題にしているのである。

その理由は、さきにブッダがマールンクヤに与えたことばのなかにも、一応語られている。それは、古来の訳語のままにいえば、「利義をもたらさず」ということであり、「梵行の基礎とならず」ということであり、また「正覚(しょうがく)、涅槃に資せず」ということであった。それをわたしは、道理の把握にも役立たず、聖道の実践にも役立たず、また究極の目的の実現にも役立たないからであると意訳しておいた。だが、いったい、それらの論題を論ずることは、何故にそのように役立たないことなのであろうか。いまの学者たちは、そこまで立ち入って、なおいろいろと問題にしているのである。

なるほど、それらの論題は、もう一度要約していえば、まず、この世界が時間的に、また空間的に、有限であるか無限であるかということであり、ついで、肉体と霊魂とが一つであるか、別のものであるかということであり、さらに、人間の死後の存在が考えられるか否かということである。わたしどもは、そんなことはどうでもよいと捨ておいてよいものであるかどうか。特に、あとの二つの論題、すなわち、霊魂と肉体の問題、ならびに、死後の存在の問題はけっして関心なき能(あた)わざるところではあるまいか。もしも、それらの問題について、明快な解答が与えられるものならば、それらは、けっして、道理の把握に役立たぬものでもなく、聖道の実践に資せぬものでもあるまい。それなのに、いったい、ブッダ・ゴータマはどうしてそれらの論題に解答を与えることを拒んだのであろうか。わたしも、ながい間、この経の語るところにたいして、なお割り切れない思いを存していたのである。

しかるに、今になって気がついてみると、それらの論題は、もともと、右か左かと、明快な解答を与えることのできない問題であった。ブッダ・ゴータマがそれらの論題に解答を与えることを拒んだのは、そのことをちゃんと知っておられたと考えざるをえない。それを、西洋哲学の術後をもっていうならば、それらの論題は「アンティノミー」すなはち二律背反に属する論題であったのである。二律背反とは、たがいに相反する矛盾する命題が、同等の権利をもって主張されうることをいう言葉であって、いまマールンクヤがその師に呈した論題は、どうやら、そのようなものであったと考えられる。

その問題については、その後の仏教のなかにだって、あるいは否定的に、あるいは肯定的に語られていることを、わたしどもはよく知っている。ある者は、死を語って「四大空に帰す」といい、ある者は、「一大事とは今日ただ今のことなり」となすかと思えば、他方、「菩提をとぶらう」ことに専念し、あるいは、「来世往生」を説くものもある。いやブッダ・ゴータマその人のことばのなかにだって、その両者の言表がみられる。たとえば、ある時には、「ただ今日まさに作(な)すべきことを熱心になせ」と仰せられたかと思うと、他方においては、「かかることをなす人々は後生に善道をうるであろう」と説いて憚(はばか)らなかった。

詮ずるところ、大事なことは、これらの論題については、同等の権利をもって主張することのできる二つの答えが成立するということである。その二つの答えは、疑いもなく相反するものであり、相矛盾するするものである。それにも拘らず、二つの答えが同等の権利をもって成立するというところに、これらの論題がもつ特別の性格が存する。それを、この師はちゃんとご承知であったにちがいないのである。

しかるに、そのような問題について、いずれか一つの答えに固執する。それが却(かえ)って誤ちのもとである。そのことを、この経の漢訳同本は、「一向説」と表現している。これは真、これは虚と、一方的に裁断をくだす、そういう態度を、わたしはとらない。それをまた「われは一向にそれを説かず」とも語っておられる。だが、それを理解することは容易なことではない。だから、この師は、わたしが説かなかったことは、説かないままに受持するがよいと語られたものと思われるのである。

哲学青年マールンクヤの質問にかかわって、わたしもまた、面倒な議論を並べてしまったのであるが、ブッダ・ゴータマの弟子たちのなかには、このような哲学づいた若者もあったということ、それをこのように導きたもうたということを知っていただければ幸いである。(201~213頁)

〔岡野注;20世紀に、数学者ゲーデルは不完全性定理で、真でも偽でもない命題が存在することを証明した〕

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■カーティヤーナよ。立ち上がれ。(足を組んで)静坐せよ。眠ってばかりいるな。目ざめておれ。怠け者の親族である死王が、奸計をもって、怠惰なるそなたに打ち克つことのないように。

□譬えば大海の波のように、生と老いとが、そなたを圧倒する。だから、そなたは自己のよき島(注)(よりどころ)をつくれ。けだしそなたには、他のよりどころが無いからである。

□実に師は、もろもろの執著を超え生と老いとの恐れを超えているこの道を支配した。夜の初めから終りまで、つねに怠ることなく専念従事せよ。しっかりと修養をなせ。

□以前からの、もろもろの束縛を解放せよ。そなたは大衣をまとい、剃刀を用いて頭を剃っていて、托鉢で得た食物を食する。遊戯や快楽に耽るな。睡眠に耽るな。瞑想をなせ。カーティヤーナよ。

□カーティヤーナよ。瞑想せよ。勝利を得よ。そなたは安穏に至る道に熟達している者である。そなたは、無上の清浄を得て、円かな安らぎに達するであろう。――炎が水によって消されるように。

□光炎のか細い燈火は、風にたわめられる。――蔓草が風にたわめられるように。そのように、そなたも、執著することなく、悪魔を払い落せ。インドラと同姓の者〔カーティヤーナ〕よ。感受される事物に対する貪りを離れて、まさにこの世で清涼なるものとなって、〔死の〕時を待て。

カーティヤーナ長老(99~100頁)

(注)良き島;sudipa.「激流によって流されない洲をつくれ」と注解されている。インドでは、こうずいになると、沃野も村落もすっかり水浸しになり、平原では山は見えないから、一面に大海のようになる。その場合には、幾らか小高いところの洲がよりどころとなるのである。日本人には想像もできない光景である。(257頁)

■(智慧の)眼あり、太陽の裔(すえ)であるブッダは、あらゆる束縛を超越し、あらゆる流転を滅ぼす〔教え〕を、みごとに説かれた。

□〔その教えは〕安らぎにみちびくものであり、毒の根、刑場、を断ち切って、〔人をして〕安らぎの境地を得させる。

□それは、無智の根を断ち切ることによって、業のからくり装置を破壊し、もろもろの識別作用を固執することに対して叡智の金剛杵(という武器)を下す。

□尊い八支よりなる道(八正道)は、大いなるあじわいあり、いとも深遠にして、生と死を堰(せ)き止め、苦しみを静止させる、めでたいものである。

□それは、業を業であると知り、報いを報いであると知り、縁によって起こった諸事象をあるがままに照らして見るものであり、大いなる安穏にみちびき、静まっていて、最後には幸せとなるものである。

ミガジャーラ長老(100~101頁)

■怒りなく、みずから制し、平静に生活し、正しい知慧によって解脱して、やすらいに帰したそのような人は、どうして怒ることがあろうか。

□怒った人に対して怒り返す人は、それによって、いっそう悪をなすことになる。怒った人に対して怒らないならば、勝ち難き戦に勝つのである。

□他人が怒ったのを知って、気をつけて、自ら静かにしているならば、その人は、自分と他人と両者のためになることを行なっているのである。

□自分と他人との両者のために治療を行なっている人のことを、「愚かな奴だ!」と人々は考える。――ことわりに通達することもなく。

□もしもそなたに怒りが起ったならば、鋸(のこぎり)の譬喩に心を向けよ。もしも味に対する執著が起ったならば、子の肉の譬喩を思い起せ。

□もしもそなたの心がもろもろの欲望と迷いの生存のうちに駈けめぐるならば、正しく念(おも)いをたもつことによって速やかに抑制せよ。――穀物を食(くら)う悪しき家畜を抑制するように。

ブラフマダッダ長老(104頁)

■覆われたものに、雨が降り注ぐ。開きあらわされたものには、雨は降らない。それ故に、覆われたものを開けよ。しからば、それに雨は降り注がない。

□世の人は死によって圧迫され、老いに囲まれ、愛欲の矢に刺され、常に欲望により燻(くす)べられる。

□世人は死のために圧迫され、また老に取り巻かれ、救い手もなく、常に害される。刑罰を受けることになった盗賊のごとくである。

□死と病と老との三者は、あたかも火むらのごとくに迫って来る。これに抗うには力がない。これを逃れるには敏速さがない。

□多かろうと少なかろうと、一日(のうちの時間)を、空しく過してはならない。一夜を(無益に)捨てるならば、それだけそなたの生命は減ずるのである。

□歩んでいようと、立っていようと、臥床に横臥していても、最後の夜は迫って来る。そなたは、いまは怠けていてよい時ではない。

シリマンダ長老(104~105頁)

■人間のこの身体は、不浄で、悪臭を放ち、(花や香を以て)まもられている。種々の汚物が充満し、ここかしこから流れ出ている。

□ひそんでいる鹿を罠によって捕え、魚を釣針によって捕え、猿をねばねばしたもちで捕えるように、〔五欲の対象が〕凡夫をとらえる。

□美麗なる、色かたち、音声、味、香り、触れられるもの――これらの5つの欲望の対象は、婦女の容姿のうちに見られる。

□執著に染まった心でこれらのものを京楽する凡夫どもは、恐ろしい墓場をみたし、くりかえし迷いの生存を重ねる。

□足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、よく気をつけて、もろもろの欲望を回避する人は、この世でこの執著をのり超える。

□もろもろの欲望のうちに患(わずら)いを認め、出家して世俗から離れることを(安穏)であると見なして、あらゆる欲望から離れている。わたしは、もろもろの汚れの消滅に達した。

サッカカーマ長老(105~106頁)

七つずつの詩句の集成

■高い台地の上の木陰で、最上の人(ブッダ)がそぞろ歩き(経行(きんひん))をしておられるのを見て、そこでわたしは近づいて、最上の人に敬礼した。

□衣を一つの肩にかけて、両手を合わせて、わたしは、生ける者どものうちの最上の者、汚れ無き人人につき従って、そぞろ歩きをした。

□それから、問い訊すのに巧みな知者(ブッダ)は、わたしに種々の質問を発した。わたしは、恐れることもなく、臆することもなく、師にはっきりと答えた。

□いろいろの質問をなし終えたときに、完全な人格者は、ともに喜んで、修行僧の集いを見わたして、次のことを語った、――

□「アンガ国とマガダ国の人々は幸せだなあ! かれのつくった衣服、托鉢の食物、生活必需品、臥具、かれらのなす起(た)ち上っての歓迎、ふさわしい接待を、この(ソーパーカ)が受けてくれるのだから。」また「かれらは幸せだなあ!」といって、次のように語った。――

□「ソーパーカよ。今日から以後、(会いたいと思うときには)わたしに会いに来なさい。ソーパーカよ。これが、そなたの受戒であれかし」と。

□生まれて7歳で、わたしは受戒することができて、いま最後の身体をたもっている。ああ、教えがみごとに真理に即応していることよ!

ソーパーカ長老(110~111頁)

■わたしは、手で葦を折って、庵をつくって住んだ。それ故に、わたしの名を、世間の通称でサラバンガ(葦を折る者)と呼ぶ。

□いま、わたしは手で折ってはならない。ほまれ高きゴータマは、われらのために〈学ぶべきことがら〉を制定された。

□わたし、サラバンガ、は、以前には全般にわたる総括的な〈病〉というものを見なかった。(ところが今では)神々を超えた(ブッダ)のことばを実行することによって、(わたしは)この〈病〉を見た。

□その道によって〔過去の仏である〕ヴィパッシーが行き、その道によって〔同じく過去の仏であった〕シキーとヴェッサブーとカクサンダとカッサパとが行ったところのその直き道によって、〔あなた〕ゴータマは行かれました。

□七人の目ざめた人々(七仏)は、妄執を離れ、執著することなく、消滅のうちに没入しておられる。真理そのものとなった、これらの立派な人々が、この真理を説かれたのである。

□すなはち、〔1〕苦しみと、〔2〕苦しみの成り立ちと、〔3〕(実践すべき)道と、〔4〕苦しみの壊滅である止滅という四つの尊い真理が、生きとし生けるものを慈しむために、説かれたのである。

□その境地が得られたならば、輪廻における無限の苦しみは息(や)む。この身体が壊滅するが故に、また生命の消滅するが故に、もはや他の迷いの生存はあり得ない。わたしは、あらゆることがらについて、みごとに解脱している。

サラバンガ長老(111~112頁)

八つずつの詩句の集成

■多くの〔世俗の〕仕事をしてはならない。人々を避けよ。〔雑な縁をつくり出すために〕努め励んではならない。がつがつして味に耽溺する者は、幸せをもたらす目的を見失う。

□実に、かれら(修行者)は、良家の人々からつねに受ける礼拝と供養とは、汚泥のようなものであると知っている。細かな(鋭い)矢は抜き難い。凡人は(他人から受ける)尊敬を捨てることは難しい。

□他人の行ないに依存して人の業(行ない)が悪業であるのではない。(それだから)みずからその悪い行ないを行なってはならない。なんとなれば、人々は(自分自身の)業の親族なのであるからである。

□ひとは、他人のことばによって(他人が「お前は盗んだ!」と言ったからとて)盗人であるのではない。ひとは、他人のことばによって聖人であるのではない。自分がその人のことを知っているように、神々もまたかれのことを知っている。

□「われらは、この世において死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。――このことわりを他の人々は知っていない。しかし人々がこのことわりを知れば、争いはしずまる。

□知慧のある人は、たとい財産を失っても、生きて行ける。しかし知慧をもっていなければ、たとい財産を失っても、生きて行ける。しかし知慧をもっていなければ、たとい財産のある人でも、〔実は〕生きてはいけないのである。

□略 □略

大カッチャーヤナ長老(113~114頁)

十ずつの詩句の集成

■略 □略 □略

□知慧のある人は、たとい財産を失っても、生きて行ける。しかし知慧をもっていなければ、たとい財産のある人でも、〔実は〕生きてはいないのである。

□知慧は、聞いたことを考えて見分ける。知慧は、名誉と名声とを増大する。知慧のある人は、この世でもろもろの苦しみのなかにいても、楽しみを見出す。

□これは今日だけの定めではない。奇妙でもないし、不思議でもない。――生まれたならば、死ぬのである。そこに何の不思議があろうか。

□生まれたものには、生の次に必ず死がある。生まれ、生まれて、ここに死す。実にいのちあるものどもは、このような定めがある。

□略 □略 □略

大カッピナ長老(123~124頁)

■わたしの進歩は遅かった。わたしは以前には軽蔑されていた。兄はわたしを追い出した。――「さあ、お前は家へ帰れ!」といって。

□こうして、追い出されて、わたしは僧園の通路の小屋に、がっかりして、静かに立っていた。――なお教えのあることを期待して。

□そこへ尊き師が来られて、わたしの頭を撫でて、わたしの手を執って、僧園のなかに連れて行かれた。

□慈しみの念をもって師はわたしに足拭きの布を与えられた。――「この浄らかな物をひたすらに専念して、気をつけていなさい」といって。

□わたしは師のことばを聞いて、教えを楽しみながら、最上の道理に到達するために、精神統一を実践した。

□わたしは過去世の状態を知った。見通す眼(まなこ)(天眼)は浄められた。3つの明知は体得された。ブッダの教えはなしとげられた。

□パンタカは、千度も(神通力によって)千度も自分のすがたをつくり出し、楽しいマンゴーの林のなかで坐していた。――〔供養するための〕時が告げられるまで。

□次いで、師は、時を告げる使者をわたしのところへ派遣された。時が告げられたときに、わたしは〔跳び上って〕空中を通って〔師のもとに〕近づいた。

□師の御足に敬礼して、わたしは一方の側(かたわら)に坐した。わたしが坐したのを知って、そこで師は〔わたしの帰依を〕受けた。

□全世界の布施(尊敬)を受ける人、もろもろの献供を受ける人、人間どもの福田(福を生ずる田)は、供物を受けたもうた。

チューラパンタカ長老(岡野注;周梨槃特)(124~125頁)

■略 □略 □略 □略

□聖者は、望むところ少なく、満足して、在家者とも、出家者とも、両者とともに交じらわず、人々から離れて住むべきである。

□略 □略 □略 □略 □略

ヴァンガンタの子であるウパセーナ長老(127~128頁)

■略 □略 □略 □略 □略 □略 □略

□「(あらゆるものは)無常である」と観じて、「いかなるものも我ではない」という〔非我の〕思いと、「不浄である」という想いと、「世の中の事物について楽しまない」という〔想い〕を修養すべきである。――これが〈道の人〉にふさわしいことである。

□さとりを得るための〔7つの〕手段と、〔4つの〕神通力と、〔5つの〕すぐれたはたらきと、〔5つの〕力と、8つの部分より成る尊い道とを修養すべきである。――これが〈道の人〉にふさわしいことである。

□聖者は妄執を捨てよ。もろもろの汚れを根こそぎに壊滅せよ。解脱して住せよ。――これが〈道の人〉にふさわしいことである。

ゴータマ長老(128~129頁)

十一の詩句の集成

■略 □略 □略

□他人が護ってくれることもなく、また他人を護ることもしない修行者は、快楽を顧みることなく、安楽に臥す。

□略 □略 □略

□わたしは、師(ブッダ)に仕え、ブッダの教え(の実行)を成しとげた。重い荷をおろし、迷いの生存にみちびくものを、根こそぎにした。

□略 □略

□われは死を喜ばず。われは生を喜ばず。よく気をつけて、心がけながら、死の時が来るのを待つ。

サンキッチャ長老(131~132頁)

十二ずつの詩句の集成

■わたくしは賤しい家に生まれ、貧しくて食物が乏しかったのです。わたくしは稼業が卑しくて萎んだ花を掃除する者(注1)でした。

□人々には忌み嫌われ、軽蔑せられ、罵られました。わたくしは心を低くして多くの人々を敬礼しました。

□そのとき、全き覚りを開いた人(ブッダ)、大いなる健き人が、修行僧の群にとりまかれて、マガダ国の首都に入って来られるのを、わたくしは見ました。

□わたくしは、天秤棒を投げ捨てて、〔師に〕敬礼するために、近づきました。わたくしを憐れむが故に、最上の人(ブッダ)はそこに立ち止まっておられました。

□そのとき、わたくしは、師の御足(みあし)に敬礼して、一方の側にたって、あらゆる生きもののうちの最上者(ブッダ)に、「出家させてください」と請いました。

□そのとき、慈悲深き師、全世界をいつくしむ人は、「来なさい。修行者よ」とわたくしに告げられました。これがわたくしの授戒でありました。

□そこでわたくしは、独りで森に住んで、怠ることなく、勝者(ブッダ)が教え諭されたとおりに、師のことばを実行しました。

□略 □略 □略 □略 □略

スニータ長老(注2)(134~136頁)

(注1)萎んだ花を掃除する者;実際は、不浄物を掃除する者のことをいう。

(注2)スニータ;Snitaは王舎城における掃除人夫であったが、ブッダに会って出家した。sunita

とは、「行ないの良い」という意味である。(265頁)

十三の詩句の集成

■略 □略 □略 □略 □略 □略

□わたくしが過度の精励努力を行ったとき、世の中における無上の師、眼(まなこ)あるかたは、箜篌(くご)の譬え、〔――弦を強く張り過ぎることもなく、緩めすぎることもないようにとの教え――〕を用いて、わたしに理法を説いてくださった。

□わたしはかれの教えを聞いて、その教えを楽しんで過ごした。最高の目的を達するために、わたしは心の平静を実践した。3つの明知は体得された。ブッダの教えはなしとげられた。

□出離すること、心が遠ざかり離れることに専念し、瞋恚(しんい、しんに)をいだかないことに専念し、執著の壊滅に専念し、

□妄執の壊滅、心の迷わぬことに専念している人は、個体を構成している種々なる局面の生じ〔滅びる〕すがたを見て、心は完全に解脱する。

□完全に解脱し、心の静まった修行僧には、すでに為しおえたことに付け加えて積み重ねることは、なにも存在しない。なすべきことは、もはや存在しない。

□一つの岩塊より成る岩山が風に吹かれても微動だにしないように、すべての色かたち、味、音声、香り、触れられるもの、

□欲求されるものも、欲求されないものも、そのような立派な人を動揺させることはない。かれの心は安住し、束縛されていない。その消滅するさまを、かれは静観する。

ソーナ・コーリヴィサ長老(注)

(注)ソーナ・コーリヴィサ;漢訳では「二十億耳」「億耳」と訳される。チャンバーの長者の子であり、かってアンガ国の領土における身分の高い侍従であったが、出家した。しかしひたすら修行に精励したけれどもさとることができず、還俗(げんぞく)を決心したところ、ブッダが箜篌の喩え(=絃を強くも弱くも張たないとき、音色よく弾くことができるという)を説いたので、ついに、さとりを開いた。最後に付加された要約の文句のなかで、かれは『大神通力ある『ソーナ・コーリヴィサ長老』と呼ばれているから、大神通力でも知られた人であると考えられる。(265~266頁)

十四ずつの詩句の集成

■略 □略 □略

□楽しいことがらに浮き浮きして高ぶり、苦しいことがらにがっかりして沈み、愚人どもは、その両者に悩まされる。――-ことがらを、あるがままに見ないので。

□苦楽のうちにありながらも妄執を超えている人々は、入口の石のごとくに安定している。かれらは、浮き浮きして高ぶることもなく、がっかりして沈むこともない。

□実に、利益にも、損失にも、名声にも、名誉にも、非難にも、称讃にも、苦しみにも、楽しみにも、

□かれらは、いかなることにも汚されない。――蓮華の上の水滴のように。健き人たちは、あらゆることがらについて楽しく、あらゆることがらについて敗れることがない。

□略 □略 □略 □略

□快楽も怒りも捨て去って、種々なる生存のうちにあっても心静まり、執著することなく世の中を歩む人々、――かれらには快も不快も存在しない。

□かれらは、さとりを得るための〔7つの〕ことがら、〔5つの〕すぐれたはたらき、〔5つの〕力を修めて、最上の静けさに到達し、汚れなくして、円(まど)かな安らぎに入るであろう。

ゴーダッタ長老(142~143頁)

十六ずつの詩句の集成

■略 □略 □略 □略 □略 □略 □略 □略 □略 □略 □略 □略

□わたしは、死を喜ばず。われは生を喜ばず。あたかも雇われた人が賃金をもらうのを待つように、わたしは死の時が来るのを待つ。

□わたしは、死を喜ばず。われは生を喜ばず。よく気をつけて、心がけながら、死の時が来るのを待つ。

□略 □略

アンニャーコンダンニャ長老(注)(145~147頁)

(注)アンニャー・コンダンニャ;彼は最初の説法を聞いて弟子となった五人のうちの一人として最初に挙げられる。かれの名は漢訳では「阿苦(多)憍陳如」「了本際」などと訳されている。ブッダが鹿野苑で五人の修行者にたいして、最初の説法をしたとき、最初に阿羅漢のさとりを開いた人である。ブッダが「ああ、実にコンダンニャは悟った」とたたえたので、アンニャーシ(=悟った)が名に付けられた。(のちに、アンニャーとかアンニャータと呼ばれるようになった。)(268頁)

二十ずつの詩句の集成

■〔盗賊は言う(注)――〕「われらは過去に祭祀のために、あるいは財貨を得るために、人々を殺した。かれらは、いかんともし難く、恐怖をいだき、おびえ慄え、悲泣した。

□ところが、お前はおびえていない。顔色はますます澄んで明るくなっている。こんな大きな危険が迫っているのに、お前はどうして泣き悲しまないのか?」

□〔アディムッタ長老は答えていう、――〕「頭目(かしら)よ。望み欲することの無い者には、心の苦しみは存在しない。実に束縛が消滅してしまった人は、すべての恐怖を超越している。

□迷いの生存にみちびく妄執が消滅して、事象をありのままに見たときには、死にたいする恐怖は存在しない。――譬えば、荷をおろしたときには〔ほっとして〕もはや恐怖が存在しないようなものである。

□わたしは、清らかな行ないをよき実践して来た。道もまたよく修めた。わたしには死にたいする恐怖は存在しない。――譬えば病気が癒えたときには死にたいする恐怖が存在しないように。

□わたしは、清らかな行ないをよく実践して来た。道をもまたよく修めた。迷いの生存は味わいの無いものであるということを経験した。――毒を飲んで捨てたようなものである。

□彼岸に達し、執著することなく、つとめを果し、汚れのなくなった人は、寿命の尽きることに満足している。――譬えば、刑場から釈放された人のように。

□最上の真理の境地に到達し、全世界に対して求めることなく、かれは死を悲しむことがない。――火のついた家から脱出した人のように。

□集合してできたいかなるものでも、どのような生存が得られるのであろうとも、これらはすべて〔常住なる〕主宰者をもたないものである。――偉大なる仙人(ブッダ)はこのように説かれた。

□ブッダによって説かれたようにそのことを理解する人は、いかなる迷いの生存をも受けない。――ひとが灼熱した鉄丸をつかまないようなものである。

□われには『われが、かって存在した』という思いもないし、またわれには『われが未来に存在するであろう』という思いもない。潜在的形成力は消滅するであろう。ここに何の悲しみがあるのであろうか。

□諸事象の生起を純粋にありのままに見、(個体を構成する)諸形成力の連続を純粋にありのままに見る人には、もはや恐怖は存在しない。頭目(かしら)よ。

□世間を、草や薪に等しい、と明らかな智慧をもって観するとき、かれは、〈わがもの〉という観念を見出し得ないが故に、『われに(このものが)存しない』といって悲しむことがない。

□わたしは身体を嫌悪する。わたしは生存を求めない。この身体はやがて裂かれるであろう。そうして他の身体はもはや存在しないであろう。

□もしもそなたが欲するならば、身体についてなすべきことを為せ。そこでは、それに由来する嫌悪も愛情も、わたしには存在しないであろう。」

□かれの、身の毛もよだつ不思議なそのことばを聞いて、若者どもは刀を捨てて、次のように言った、――

□「尊い方よ。何をしたので、またあなたの師が誰であるので、また誰の教えに依って、〈悲しみのない境地〉が得られるのですか?」

□「わが師は、すべてを知る人、すべてを見る人、勝利者、大いなる慈悲ある師、全世界の人々を癒す医師である。

□そのかたが、消滅にみちびくこの無上の真理を説き示された。その教えによって、そこで〈悲しみのない境地〉が得られるのである。」

□盗賊どもは、仙人のみごとに語ったことばを聞いて、刀と武器とを捨てて、或る者どもはその仕事から離れた。また或る者どもは出家することを喜んだ。

□かれらは、出家して、幸せな人(ブッダ)の教えにおいて、覚りを得るための〔7つの〕ことがらと〔5つの〕すぐれた力とを修めて、賢者となり、心に歓喜し、嬉しくなって、感官を制して、つくり出されたものではない〈安らぎの境地〉を体得した。

アディムッタ長老(152~153頁)

(注)アディムッタ長老が母に会いに行こうとするときに、途中で、盗賊たちが、かれを捕えた。盗賊たちは、かれの肉を女神に献供としてささげようとしたのである。そのときに、盗賊たちの発した語である。(269頁)

■略 □略 □略 □略 □略 □略 □略 □略

□ (わがもの)という観念は、わたしの内部に起って、速やかに熟する。6つの接触の場(六入)を有する身体はつねにそこを流れて行く。

□その矢、すなわち疑惑を除き去るために、さぐり針を使って、他のメスを使わない医師を、わたしは見たことがない。

□わたしの内部に刺さっている矢を、誰が、刀を使わずに、傷を残さないで、抜き去ることができるであろうか?――四肢を害なうことなしに。

□毒の患いを除去するかの最上の法主(ほっす)は、わたしが深淵に堕ちたときに、陸地を、あるいは(救いの)手を示してくださるであろう。

□塵や泥を除き難い沼のうちに、わたしは沈み込んでいる。その沼は、詐欺と嫉妬と傲慢とものうさと睡眠におおわれている。

□貪欲にもとづく欲望の思いという車は、雷鳴のようなうわつき、雲のような束縛、悪しき見解を運んで行く、

□ (愛欲の)流れは至るところに流れる。(欲情の)蔓草は芽を生じつつある。その流れを誰が堰き止め得るであろうか? その蔓草を実に誰が断ち切るであろうか?

□尊い方よ。流れを堰き止める堤をつくれ。――意より成る流れが、圧力で樹をたち切ってしまうように、あなたを暴力でたち切ることがないように。

□こういうわけで、恐怖におののき、こちらの岸から彼方の岸を求めていたわたしにとって、知慧を武器として仙人の集いに侍(かしず)かれていた師(ブッダ)は救いであった。

□〔煩悩の流れに〕はこばれていたわたしに、みごとに造られた浄らかな教えの精要より成る堅固な梯子(はしご)を授け、「恐るな!」とわたしに言われた。

□〔4つの〕念いの専住という宮殿に登って、わたしが以前には尊重して考えていた人々が個人存在になずんでいるのを観察した。

□そうしてわたしが船に乗る道を見たときに、自分自身に固執することなく、最上の渡し場を見た。

□自分自身に由来し、迷いの生存にみちびく素因によって顕示された矢。――これらを休止させるために、最上の道を説き示された。

□毒の患いを除去するひとであるブッダは、永いあいだわたしのうちに潜在し永いあいだ住みついていたわたしの結び目を、断ち切ってしまった。

テーラカーニ長老(157~158頁)

■略 □略 □略 □略 □略 □略 □略

□世の中で財産のある人々を見るに、かれらは財を得ても、迷妄の故に、与えることをしない。かれらは貪欲であって、財産を蓄積して、ますます快楽を追求する。

□国王は武力をもって大地を征服し、海辺に至るまでの地域を占有し、海のこなたでは満足せず、海の彼方までも求めるであろう。

□王者も、他の多くの人々も、愛欲を離れないのに死に会い、何か不満なことがあるかのごとくに、身を捨てる。けだしこの世においてはもろもろの欲望を満たすということはありえないからである。

□略 □略 □略

□財産によっても長寿を得ず、富によって老いを除き去ることはできない。ひとの命は短くて、無常であり、変じ壊(やぶ)れるものである、と賢者は説く。

□富者も貧者もともに(死に)触れられる。愚者も賢者もまた同じく(死に)触れられる。愚者は、愚かさの故に殺されたかのごとくに臥す。しかし賢者は(死に)触れられてもおののかない。

□それ故に、知慧は財よりもすぐれている。知慧によってこそ人はこの世で究極に到達するのである。実に究極に到達しない人々は、迷妄の故に、種々の生存において、もろもろの悪い行ないをなす。

□略 □略 □略 □略 □略 □略 □略 □略 □略

ラッタパーラ長老(158~161頁)

■愛らしく好ましいすがたに心をとどめる人は、いろ・かたちを見ては、心の落ち着きが失なわれる。欲情に染まった心をもって、それを感受し、それに執著したままでいる。

□いろ・かたちから生ずるかれの多数の感受は増大する。かれの貪欲と悩害心もまた増大する。そこでかれの心は害なわれる。このように苦しみを積みかさねる人は、安らぎから遠く隔たっている、と言われる。

□愛らしく好ましいすがたに心をとどめる人は、音声を聞いては、心の落ち着きが失なわれる。欲情に染まった心をもって、それを感受し、それに執著したままでいる。

□音声から生ずるかれの多数の感受は増大する。かれの貪欲と悩害心もまた増大する。そこでかれの心は害なわれる。このように苦しみを積みかさねる人は、安らぎから遠く隔たっている、と言われる。

□愛らしく好ましいすがたに心をとどめる人は、香りを嗅いでは、心の落ち着きが失なわれる。欲情に染まった心をもって、それを感受し、それに執著したままでいる。

□香りから生ずるかれの多数の感受は増大する。かれの貪欲と悩害心もまた増大する。そこでかれの心は害なわれる。このように苦しみを積みかさねる人は、安らぎから遠く隔たっている、と言われる。

□愛らしく好ましいすがたに心をとどめる人は、味を味わっては、心の落ち着きが失なわれる。欲情に染まった心をもって、それを感受し、それに執著したままでいる。

□味から生ずるかれの多数の感受は増大する。かれの貪欲と悩害心もまた増大する。そこでかれの心は害なわれる。このように苦しみを積みかさねる人は、安らぎから遠く隔たっている、と言われる。

□愛らしく好ましいすがたに心をとどめる人は、触れられるものに触れては、心の落ち着きが失なわれる。欲情に染まった心をもって、それを感受し、それに執著したままでいる。

□触れられるものから生ずるかれの多数の感受は増大する。かれの貪欲と悩害心もまた増大する。そこでかれの心は害なわれる。このように苦しみを積みかさねる人は、安らぎから遠く隔たっている、と言われる。

□愛らしく好ましいすがたに心をとどめる人は、思考の対象を知っては、心の落ち着きが失なわれる。愛情に染まった心をもって、それを感受し、それに執著したままでいる。

□思考の対象から生ずるかれの多様の感受は増大する。かれの貪欲と悩害心もまた増大する。そこでかれの心は害なわれる。このように苦しみを積みかさねる人は、安らぎから遠く隔たっている、と言われる。

□かれは、もろもろのいろ・かたちになずまない。いろ・かたちを見ては、よく気をつけている。心に愛執を離れて感知し、しかもそれに執著していない。

□かれはいろ・かたちを見て、感受作用を感じていても、(業が)尽きて、もはや積まれることがないように、気をつけてくらしている。かれはこのようにして苦しみを除いて行くので、安らぎはかれの近くにある、と言われる。

□かれは、もろもろの音声になずまない。音声を聞いては、よく気をつけている。心に愛執を離れて感知し、しかもそれに執著していない。

□かれは音声を聞いて、感受作用を感じていても、(業が)尽きて、もはや積まれることがないように、気をつけてくらしている。かれはこのようにして苦しみを除いて行くので、安らぎはかれの近くにあると言われる。

□かれは、もろもろの香りになずまない。香りを嗅いでは、よく気をつけている。心に愛執を離れて感知し、しかもそれに執著していない。

□かれは香りを嗅いで、感受作用を感じていても、(業が)尽きて、もはや積まれることがないように、気をつけてくらしている。かれはこのようにして苦しみを除いて行くので、安らぎはかれの近くにあると言われる。

□かれは、もろもろの味になずまない。味を味わっては、よく気をつけている。心に愛執を離れて感知し、しかもそれに執著していない。

□かれは味を味わって、感受作用を感じていても、(業が)尽きて、もはや積まれることがないように、気をつけてくらしている。かれはこのようにして苦しみを除いて行くので、安らぎはかれの近くにあると言われる。

□かれは、もろもろの触れられるものになずまない。触れられるものに触れては、よく気をつけている。心に愛執を離れて感知し、しかもそれに執著していない。

□かれは触れられるものに触れて、感受作用を感じていても、(業が)尽きて、もはや積まれることがないように、気をつけてくらしている。かれはこのようにして苦しみを除いて行くので、安らぎはかれの近くにあると言われる。

□かれは、もろもろの思考の対象になずまない。思考の対象を識別しては、よく気をつけている。心に愛執を離れて感知し、しかもそれに執著していない。

□かれは思考の対象を識別して、感受作用を感じていても、(業が)尽きて、もはや積まれることがないように、気をつけてくらしている。かれはこのようにして苦しみを除いて行くので、安らぎはかれの近くにあると言われる。

マールンキャプッタ長老(注)(161~165頁)

(注)パーリ聖典ではMalunkyaputtaまたはMalukyaputta(Malukya女の子息)として出て来る。或る日かれが釈尊を訪ねて、教えを簡潔に述べてくださいと頼んだので、このように教えたのだという。また、右に対応するマールンキャプッタの記事は、他の文献にも出て来るが、それによると、マールンキャプッタは老齢であったが、この教を聞いて出家し、アラハット(阿羅漢)となったという。(273~274頁)

■わたしが乗るためには、柔らかい布が象の頸に敷かれていたし、またわたしは、サーリ米の御飯に浄肉のスープをふりかけて食べてきたが、〔幸福ではなかった。〕

□しかるに、今日、幸運にも、忍耐強い者となり、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑想にふける。

□(注1)ボロ布でつづった布を着て、忍耐強い者となり、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑想にふける。

□托鉢によって得た食物だけを食べて、忍耐強い者となり、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑想にふける。

□三種の衣だけを着て、忍耐強い者となり、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑想にふける。

□家の貧富をえらばずに托鉢して、忍耐強い者となり、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑想にふける。

□独りで坐して、忍耐強い者となり、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑想にふける。

□一つの鉢に盛られる食物だけを食べて、忍耐強い者となり、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑想にふける。

□食事の時を過ぎては食事しないで、忍耐強い者となり、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑想にふける。

□森に住んで、忍耐強い者となり、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑想にふける。

□樹の下に住んで、忍耐強い者となり、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑想にふける。

□屋外に住んで、忍耐強い者となり、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑想にふける。

□死骸の棄て場所に住んで、忍耐強い者となり、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑想にふける。

□指定された場所に住んで、忍耐強い者となり、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑想にふける。

□(注2)坐ったままで横臥しないで、忍耐強い者となり、残飯が鉢に盛られたのを楽しみながら、ゴーダーの子・バッディヤは、執著することなく、瞑想にふける。

□略 □略 □略 □略 □略 □略

□かつて、わたしは、高く円い城壁をめぐらされ、堅固な見張り塔や門のある城の中で、剣を手にした人々に護られながら、しかもおののいて住んでいた。

□今日、幸運にも、恐れおののくことなく、恐怖・戦慄を断ち切って、ゴーダーの子・バッディヤは、森に潜んで、瞑想にふける。

□幾多の戒しめに安住して、心の落ち着きと知慧とを修めて、わたしは、順次に、あらゆる束縛の消滅を体得した。

カーリゴーダの子であるバッディヤ長老(168~171頁)

(注1)から(注2)までに説かれていることが、いわゆる十三頭陀行である。しかし十三頭陀行としては言及してはいないから、十三頭陀行という項目(法数)は『テーラガーター』がつくられた頃にはまだ成立していなかったのであろう。〔しかしまた成立してはいたが、詩句のうちには明示しなかったのであるとも考えられる。〕そしてこのような修行法は、精舎の建物の中に住んだ後代の修行僧の生活とは著しく異なるものであった。(274頁)

■〔アングリマーラが問うて言った、――〕「(道の人)よ。あなたは歩いているのに『わたしは立っている』といい、また、わたしが立っているのに、あなたは『わたしは立っていない』と言います。(道の人)よ。あなたは何故に、『あなたは立っているのに、わたしは立っていない』というのですか? わたしはあなたにこの意義を質問します。」

□〔ブッダは答えた、――〕「アングリマーラよ。わたしは、一切の生きとし生けるものどもに対する暴力を抑制して、つねに立っています。しかるに、そなたは生きるものどもに対して〔害する心を〕抑制していない。それ故に、わたしは(静かに)たっているが、そなたは(静かに)立ってはいないのです。」

□〔アングリマーラは言った、――〕「ああ、わたしの尊崇する大仙人、道の人、が大きな林に入られてから、永い時が過ぎた。では、真理にかなった、あなたの詩句を聞いて、わたしは千にも達する数多くの悪業(あくごう)を捨てましょう」と。

□盗賊は、このように言って、刀と武器とを穴や断崖や深い溝のなかに投げ落とした。盗賊は幸せな人(ブッダ)の両足に敬礼して、その場で出家することをブッダに懇請した。

□神々と世間との師である大仙人、慈しみ深いブッダは、かれに向かって、「修行者よ。さあ、来なさい」と言った。まさにこのことで、かれは、修行僧立つ資格を得たのである。

□以前には怠りなまけていた人でも、のちに怠りなまけることが無いなら、その人はこの世の中を照らす。――雲を離れた月のように。

□以前には悪い行いをした人でも、のちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす。――雲を離れた月のように。

□たとい年の若い修行僧でも、仏の道にいそしむならば、その人はこの世を照らす。――雲を離れた月のように。

□すべての方角の者どもは、わたしについて、真理に関する談話を聞け。すべての方角の者どもは、わたしについてブッダの教えにいそしめ。すべての方角の者どもは、わたしについて、真理を体得した心静かなる人々と交われ。

□すべての方角の者どもは、わたしについて、忍耐を説く人々、不抗争を称讃する人々の説く教えを、適当な時に聞け。そうして、それにしたがって実行せよ。

□かれは実にわたしをも害することなく、また他のいかなる人をも害することがないであろう。最高の静けさに到達し、動く者でも動かないものでも(すべての生きものを)守るであろう。

□水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯(た)め、大工は木材を矯め、賢者は事故をととのえる。

□或る人々は、杖とか、鉤とか、鞭とかで調練する。わたしは、杖にもよらず、刀にもよらずに、立派な人に超練された。

□以前には、わたしは加害者であったが、わたしの名は「傷害せざる者」である。いま、わたしは、真に名前のとおりの者である。わたしは、いかなる人をも害することがない。

□わたしは、以前には「アングリマーラ」(切った指でつくった輪をかけている者)という悪名で知られていた。大きな激流に流されていたが、すでにブッダに帰依するに至った。

□わたしは以前には手が血で染められ、「アングリマーラ」という悪名で知られていた。わたしが帰依するのを見よ。迷いの生存にみちびく素因は、根だやしにされた。

□略 □略 □略 □略 □略

□森の中で、あるいは樹木の根もとで、山の中で、あるいは洞窟の中で、至るところで、そのとき、わたしはおびえていた。

□(しかし今では)わたしはしあわせに臥し、幸せに立ち、幸せに生活を送っている。悪魔の縄にかかることもない。ああ、わたしは師の慈しみを蒙っているのである。

□略 □略

□わたしは、師(ブッダ)に仕え、ブッダの教え(の実行)をなしとげた。重い荷をおろし、迷いの生存にみちびくものを、根こそぎにした。

アングリマーラ長老(注)(171~175頁)

(注)アングリマーラは、盗賊であったが、釈尊の教化を受けて、きっぱりと人殺しを止めた。(276頁)

■略 □略 □略 □略

□聖者は托鉢から帰って来て、供(とも)もなく、独りでいる。汚れなきアルヌッダはボロの布切れを探し求める。

□思慮あり汚れなき聖者アルヌッダは、ボロの布切れを選び、取り、洗い、染めて、(綴じて)着た。

□略 □略 □略

□世間における無上の師は、わたしの意向を知って、神通力によって、心のはたらきだけで現わし出した身体を以て、近づいて来られた。

□わたしが、横臥しないで坐っている行(常坐不臥)を始めてから55年が経過した。無気力なものうさを根だやしにしてから25年が経過した。

□心の安住せるかくのごとき人には、すでに呼吸がなかった。欲を離れた聖者はやすらいに達して亡くなられたのである。

□ひるまぬ心をもって苦しみを耐え忍ばれた。あたかも聖火の消え失せるように、心が解脱したのである。(岡野注;ブッダの臨終の場でのアヌルッダの言葉だろう)

□略 □略 □略 □略 □略 □略 □略 □略 □略 □略 □略 □略□略

アルヌッダ長老(注)

(注)アルヌッダ;阿那律(あなりつ)。仏弟子のうちでは天眼第一といわれた。アルヌッダに関する伝説は、種々さまざまで必らずしも一致しない。若干の所伝よると、アルヌッダはシャカ族に生まれたが、かっては貧しい食物運搬人であった。しかしかれは出家して、55年間常坐不臥の行を修して、ものうさをほろぼし、ヴァッジ族のヴェールヴァ村の竹林でなくなった。他の所伝によると、かれは、仏教信者マハーナーマの弟で、釈尊の従弟に当る。釈尊の教えを聞いている最中に居眠りをして、釈尊の叱責を受け、それ以後、不眠の誓いを立てて、精励したから、ついに失明した。だが、天眼(=智慧の眼)を得たという。釈尊の死の直後に、慟哭し悲嘆する弟子たちを慰めて激励した。(277頁)

■略 □略 □略 □略 □略 □略 □略 □略 □略 □略

□もろもろの悪しき特質と煩悩とのはびこる時期である。遠ざかり離れることを実践している人々は、まだ正しい教えをいくらか残している人々であって、……。

□それらの煩悩は、増大しつつ、多くの人々に侵入する。悪鬼が狂人と戯れるように、それらは愚人と戯れるのだと、わたしは思う。

□それらの人々は、もろもろの煩悩に制圧されて、煩悩のもととなるものを追って、それぞれ走って行く。――みずから物を捉えたときの大声で叫ぶように。

□かれらは、正しい教えを捨てて、互いに争う。かれらは(誤まった)見解に従って、「これこそ勝(すぐ)れている」と考える。

□かれらは財と妻子とを捨てて家を出て行ったのに、一椀の食を乞うためにさえも、なしてはならないことを為すのを習いとしている。

□かれらは、腹がふくれるほどに食べて、背を下にして臥している(注)。目がさめると雑談をしている。――雑談をするのは、師の禁ぜられたことであるのに。

□あらゆる職人の技術を重んじて、それらを習得するが、内心は安らかではない。これが「修行者としての生活の目標」なのである。

□かれらは、塗料、油、粉抹、水、座具、食物を、世俗の在家者たちに贈って、(返礼として)ますます多くを得ようと望んでいる。

□楊枝、カピッタの果実、花、噛む食物、鉢にみちた豊かな托鉢食、マンゴーの実、アーマラカの実を(も贈って、ますます多くを得ようと望んでいる。)

□医薬に関しては医師のように、為すべきことと為すべからざることに関しては在家者のように、粧い飾ることに関しては遊女のように、権威に関しては王族のように〔ふるまう。〕

□かれらは、奸詐(かんさ)なる人、欺瞞する者、放埒なる者どもであって、多くの術策を弄して、財を受用する。

□かれらは会議を開催するが、それは(わざわざ)業務をつくり出すためであり、真理を実現するためではない。かれらは他人に法を説くが、それは(自分たちの)利得のためであり、(実践の)目的を達成するためではない。

□かれらは、教団(の修行生活)の外にありながら、教団の利得に関して争う。慚愧の心の無いかれらは、他人からの利得に依って生活していながら、恥じることがない。

□或る人々は、そのように、剃髪し、重衣をまとっているが、修行に勤めないで、利得や供養を得ることにうつつをぬかし、尊敬されることだけを求めている。

□このように、種々のことがらが過ぎ去ると、今や、あのように、未だ体得しないことを体得し、またすでに体得したことを護りつづけるということは、容易ではない。

□あたかも、履物をはかないで、棘のある道を、しっかりと心を落ち着けて、歩むように、聖者は村の中を歩めよ。

□昔のヨーガ行者を追憶し、かれらの行いを想いつづけて、たとい今が最後の時となろうとも、不死の境地を体得せよ。

□道の人・〔5つの〕すぐれたはたらきを修養した人・バラモン・仙人である〔パーラーパリヤ〕は、再び迷いの生存を繰り返すことを滅ぼし、以上のことを語って、サーラ樹の林の中で、まどかな安らぎに入った。

パーラーパリヤ長老(178~180頁)

(注)背を下にして仰臥するのは、教養の無い人々の寝かたである。「稚児の寝かた」(立花注)。修行僧(ビク)や教養のある人々は、右脇を下にして、〔頭を北に向けて〕臥すのがきまりである。仏の涅槃像にみられるあの臥し方が理想なのである。(278頁)

三十ずつの詩句の集成

■みずからを修め、よく制御している多くの信者たちを見て、パンダラサ姓の仙人は、プッサという名の〔修行僧〕に、尋ねた。――

□「未来の世の中には、人々はどのような欲望をもっているのでしょうか? どのような意向をもっているのでしょうか? どのようなふるまいをするのでしょうか? あなたにお尋ねしますが、どうか、わたくしに説明してください。」

□〔プッサは答えた、――〕「パンダラサという仙人よ。わが説くところを聞け。よくこれを思念せよ。わたしは(そなたのために)未来を語ろう。

□未来においては、怒り、また恨み、(己れの悪を)覆い、強情で、偽り、嫉妬し、異なった言説を語る者が多いだろう。

□21偈略(岡野)

□心汚れ、尊敬の念のない僧尼は、未来において、慈悲心ある立派な人々を罵るであろう。

□智慧劣り、俗悪で、恣(し、ほしいまま)に欲にふけっている愚者は、〔法〕衣をたもつことを長老から教えられても、これを聴かないだろう。

□このように教えを受けても、これらの愚者は互いに相敬うことなく、あたかも荒れ馬が馭者に対するがごとく、師の言に注意することがないだろう。

□(注)最後の時が来たならば、未来における僧尼らの行跡はこういう風であろう。

□未来にこの大きな恐怖が迫って来る前に、そなたらは、ことばやさしく、心が和らいで、互いに尊敬する者であれ。

□慈しみの心あり、憐れみ深く、戒めをよく守り、精励努力し、果敢で、つねに剛勇であれ。

□なおざりは恐ろしいことだと見なし、精励は安穏の境地であると見なし、不死の境地を体得して、8つの支分よりなる道(八正道)を実践せよ。」

プッサ長老(183~186頁)

(注)ここでは未来についての予言のかたちをかりて、当時の教団の堕落した有様を記しているのである。〔現在のような悪い世の中になることは、すでに昔の偉人によって予言されていたと考えて、予言のかたちで過去世または現在世の堕落を説くことは、ヒンズー教のブラーナ聖典と共通である。〕(279頁)

■6偈略

□悪い欲望をいだき、怠惰で、元気が無く、学ぶこと少なく、他人を尊敬しないような人が決してわたくしにはかかずらいませんように。――その人はこの世において、そもそも、何にかかずらうでしょうか?

□ひろい学識があり、聡明であり、もろもろの戒行によく専心し、そして、心の平静をうることに専念する者――〔かれこそ、わが〕頭上に立て。

□ひろがる妄想にふけり、妄想を喜びとする獣〔のごとき者〕、――かれは、無上の安らぎ、安穏を獲得するにいたらない。

□妄想を捨てて、妄想のない道を楽しむ者、――かれは、無上の安らぎ・安穏を体得するに至る。

□村でも、林でも、低地でも、平地でも、聖者たちの住む土地は、楽しい。

□2偈略

□(他人を)訓戒せよ。教えをさとせ。宜しくないことから(他人を)遠ざけよ。そうすれば、その人は善人に愛され、悪人から疎まれる。

□〔真理を見る〕眼ある尊き師・ブッダは、他の一人のひとのために、真理の教えを説かれた。教えが説かれているとき、〔道を〕求めるわたしは、耳をそば立てた。

□かれは、こころ静かに、やすまり、思慮して語り、心が浮わつくことなく、もろもろの悪しき性質を吹き払う。――風が樹の葉を吹き払うように。

□こころ静かに、やすまり、思慮して語り、心が浮わつくことなく、もろもろの悪しき性質を吹き捨てよ。――風が樹の葉を吹き捨てるように。

□こころ静かに、煩労(はんろう)なく、心が清く澄んで、けがれなく、性行が良く、聡明であり、苦しみを滅ぼす者であれ。

□こういうわけで、或る在家の人々をも、さらに出家者さえも、信頼してはならない。もとは善良であっても、のちに不良となる者どもがいる。また、もとは不良であっても、のちに善良となる人々がいる。

□官能的欲望と、害心と、ものうさと、ざわつきと、疑惑――、これらの5つは、修行者にとって、心の汚れである。

□尊敬をうけていても、また尊敬されていなくても、どちらであろうとも、つとめはげんで生活する者は、精神の安定がゆらぐことがない――

□瞑想し、堅忍不抜で、もろもろの見解を微細なところまで洞察し、執著を滅すのを楽しんでいる人、――かれを(立派な人)と呼ぶ。

□5偈略

サーリープッタ(岡野注;舎利弗)長老(186~191頁)

■(注1)聡明な人は、――二枚舌を使う人、怒り易い人、けちな人、そして(他人の)破滅を喜ぶ人と、つき合ってはならない。悪人と交わるには、わざわいである。

□(注1)略

□見よ、粉飾された形体をを!(それは)傷だらけの身体であって、いろいろのものが集まっただけである。

□(注2)学識あり、みごとに談論し、ブッダの侍者であるゴータマ(アーナンダ)(注3)は、〔重き〕荷をおろし、束縛を離れ、執著を離れ、執著を超え、よく心の安らぎをえ、生死の彼岸に達し、最後の身体をたもっている。

□(注4)太陽の裔(すえ)であるブッダの〔説いた〕もろもろの教えの基礎となっている、かの安らぎに至る道の上に、このゴータマ(アーナンダ)は立っている。

□(注5)わたしは、ブッダから八万二千〔の教え〕を受けました。また修行者たちから二千〔の教え〕を受けました。――こういうわけで八万四千の教えが行われているのです。

□学ぶことの少ないこの人は、牛のように老いる。かれの肉は増えるが、かれの智慧は増えない。

□2偈略

□一を聞いて百を知り、意義を知り、ことばや語句に精通する者は、よく会得し、そして意義を探求する。

□忍受することによって〔なそうという〕欲求が生じる。努力してこれを測定する。内によく心の安定した人は、時に応じて、奮励する。

□学識あり、真理の教えをたもち、智慧あり、真理を理解しようと願うブッダの弟子、――このような人に親しみ仕えよ。

□学識あり、真理の教えをたもつ人は、大いなる仙人の〔宝の〕蔵を守護する人、全世界の人々の眼(まなこ)である、――〔この〕学識ある者は、尊敬さるべきである。

□真理を喜び、真理を楽しみ、真理をよく知り分けて、真理にしたがっている修行者は、正しいことわりから堕落することがない。

□身体を〔動かすのを〕惜しんで、もの倦き思い、ただ肉体の快楽を貪るものには、どこから〈道の人の〉快さが起こるであろうか?――〔身体が刻々に〕衰えて行くのに奮起もしないで。

□(注6)四方、さだかに見えず、教えもまた、わたしにとって明らかでない。善き友がこの世を去って、暗黒〔に覆われたよう〕におもわれる。

□(注7)友が世を去り、師も逝去されてしまった者にとっては、〔もはや〕(身体に関して心がけること)ほどの〔良き〕友は存在しない。

□むかしの人々は、すでに去り、新しい人々は、わたしとなじまない。今日、わたしは、ただ独り思いに耽る。――雨のために巣ごもりする鳥のように。

□(注8)〔わたしに〕会おうと、諸国から来た多くの人々、教えを聞こうとする〔それらの〕人々をさえぎってはならない。かれらを、わたしに会わせるがよい。まさに、その時である。

□〔師ブッダを〕見ようと、ひろく諸国から来た人々に、師はそれ(謁見)を許し、眼あるかた(ブッダ)はそれをさえぎらなかった。

□ (注9)二十五年(注10)の間、わたしは、学ぶ者であったが、官能的欲望の想いは起らなかった。見よ、――教えが真理にみごとに即応していることを!

□二十五年の間、わたしは、学ぶ者であったが、いかりの想いは起らなかった。見よ、――教えが真理にみごとに即応していることを!

□二十五年の間、わたしは慈愛にあふれた身体の行いによって尊き師のおそばに仕えた。――影が身体から離れないように。

□二十五年の間、わたしは慈愛にあふれたことばの行いによって尊き師のおそばに仕えた。――影が身体から離れないように。

□二十五年の間、わたしは慈愛にあふれたこころの行いによって尊き師のおそばに仕えた。――影が身体から離れないように。

□ブッダが経行(きんひん)されているとき、わたしは、その後からつき従って経行した。また、ブッダが教えを説かれているとき、わたしに智慧が生じた。

□わたしは、まだなすべきことのある身であり、学習する者であり、まだ心の完成に達しない者であった。それなのに、わたくしを慈しみたもうた師は、円(まど)かな安らぎに入られた〔亡くなられた〕。

□あらゆるすぐれた徳性を具えた覚者が、円かな安らぎに入られたとき、〔世の人々に、〕そのとき、恐怖があった。そのとき、身の毛のよだつことがあった。

□(注11)「学識あり、真理の教えをたもち、大いなる仙人の〔宝の〕蔵を守護し、あらゆる世の人人の眼(まなこ)であるアーナンダは、円かな安らぎに入った。

□学識あり、真理の教えをたもち、大いなる仙人の〔宝の〕蔵を守護し、あらゆる世の人々の眼(まなこ)、闇の中で暗黒をのぞく者、

□機敏な才智あり、つねに気をつけていて、しっかりとしている仙人であって、正しい真理の教えをたもち、宝石の鉱脈である長老アーナンダは、……。」

□(注12)わたしは、師〔ブッダ〕に仕えました。ブッダの教えを実行しました。重い荷をおろしました。迷いの生存にみちびくものを根だやしにしました。

アーナンダ長老(191~195頁)

(注1)両詩は、六群ビクがデーヴァダッタにくみするビクたちと交際しようとするのを、アーナンダがいましめて説いたのだという。

(注2)この詩と次の詩は、アーナンダが夜、臥床で阿羅漢のさとりを得た光景を告げているのである。

(注3)アーナンダはここで「ゴータマ」と呼ばれているから、釈尊と同じゴータマ姓を名乗っていたことが解る。

(注4)この詩と次の詩は、かれが梵天に答えたもの。

(注5)この詩の作者は、聖典編集の結集(けつじゅう)のことを知っていたらしい。

(注6)サーリープッタ長老の死を聞いてアーナンダが詠んだもの。

(注7)これ以下1046までの詩句は、ブッダの入滅後におけるもの。

(注8) ブッダの遺誡の一つ。ブッダがアーナンダを戒めて述べたものである。

(注9) これ以下の九つの詩句は、アーナンダがブッダの侍者であったときの心境をよんだもの。

(注10) アーナンダは、ゴータマ・ブッダに25年間常侍していたことになる。つまりゴータマ・ブッダが55歳のころ(あるいはそれ以前)に侍者となったわけである。出家したのは、それよりも早いかもしれない。

(注11)これ以下3つの詩句は、アーナンダ長老の死後、かれを慕う修行者たちがよんだもの。かれらは第一結集(けつじゅう)のとき集まっていた。

(注12)これはアーナンダが亡くなるときに自から唱えたものである。(282~283頁)

四十の詩句の集成

■(注1) 群衆に尊敬されて遍歴すべきでない。〔もしそうするならば〕心が乱れ、心の安定は得難いであろう。さまざまな人々から受け容れられるのは苦しみである、と見なして、群衆〔と交わること〕を喜んではならない。

□ 聖者は良い家庭には近づいてはならぬ。〔もしそうするならば〕心が乱れ、心の安定は得難いであろう。がつがつして味に耽溺する者は、幸せをもたらす目的を見失う。

□ けだし、かれら(修行者)は、良家の人々からつねに受ける礼拝と供養とは、汚泥のようなものであると知っているからである。細かな(鋭い)矢は抜き難い。凡人は(他人から受ける)尊敬を捨てることは難しい。

□ わたしは坐臥所から下(くだ)って、托鉢のために都市に入って行った。食事をしている一人の癩病人に近づいて、かれの側(かたわら)に恭(うやうや)しく立った。

□ かれは、腐った手で、一握りの飯を捧げてくれた。かれが一握りの飯を鉢に投げ入れてくれるときに、かれの指もまたち切れて、そこに落ちた。

□ 壁の下のところで、わたしはその一握りの飯を食べた。それを食べているときにも、食べおわったときにも、わたしには嫌悪の念は存在しなかった。

□ 以下15詩句略

□ 多くの〔世俗の〕仕事をしてはならない。人々を避けよ。〔雑な縁をつくり出すために〕努め励んではならない。がつがつして味に耽溺する者は、幸せをもたらす目的を見失う。

□ 多くの〔世俗の〕仕事をしてはならない。この、目的にみちびかぬことがらを遠ざけるがよい。〔もしも、そうしなければ〕、身体は悩み、疲労する。かれは、苦しんで心の平静を得ることはできない。

□ 以下9詩句略

□ 賢明にして偉大な瞑想者であり心の安定している〈真理の将軍(注2)〉サーリプッタにたいして、かれらは、礼拝・合掌して、立っていた。〔――つぎのように、たたえながら――。〕

□「生まれ良き人よ。あなたに敬礼します。最上の人よ。あなたに敬礼します。あなたがなにに基づいて瞑想しておられるのか、――わたくしたちは、それを知りません。

□ ああ、すばらしいことです。深遠なことです。――真理をさとった人々(ブッダ、複数)の自身の境地は! わたくしたちの思い知るところではありません。たとい、わたくしたちが、毛髪の先を射る者のように極めて微細なことを突きとめ得る人々の集まりであったとしても。」

□ 尊敬を受けるにふさわしいそのサーリプッタが、そのとき、そのように神々の群れから尊敬されているのを見て、カッピナはほほえんだ。

□ 〔福徳を生ずる〕ブッダの田に関する限り、偉大な聖者(ブッダ)を除いて、わたしは〈悪を払いのける〉という徳において傑出している。わたしに等しい者は存在しない。

□ わたしは師(ブッダ)に仕え、ブッダの教え(の実行)をなしとげた。重い荷をおろし、迷いの生存にみちびくものを、根こそぎにした。

□ 測り知れないゴータマ〔・ブッダ〕は、衣服にも、臥床にも、食物にも執著していない。――-蓮華の花が水に汚されないように。かれは、出離に心を傾注し、三界から離れている。

□ かの偉大な聖者・偉大な聖社は、〔4種の〕心の専注を頸とし、信仰を手とし、智慧を頭とし、つねに安らぎを得て生活している。(196~201頁)

大カッサパ長老

(注1)以下3つの詩句は、ビクたちが衆人と交るのをマハーカッサパが戒めて、自分の道を明らかにしたものである。  

(注2)真理の将軍;サーリプッタの称号である。

五十の詩句の集成

■ わたくしが、山の洞窟に、伴(つれ)もなく、唯だ一人住んで、一切の生存は無常であると観ずるのは、いつのことであろうか? わたくしのこの思いは、そもそも、いつの日に起こるであろうか?

□ 以下7詩句略

□ わたくしが、心の安定を具現して、無量のいろ・かたち、音声、香り、味、触れられるもの、考える対象を、燃え立っているものであると知慧もて見るのは、そもそも、いつの日のことであろうか? そのことは、いつ起こるであろうか?

□ わたしが、〔他人から〕悪口を言われても、それだからとてくよくよすることなく、また褒めたたえられても、それだからとて悦ぶことがないようになるのは、そもそも、いつの日のことであろうか? このことは、いつ起るであろうか?

□ わたしが、内的にも、外的にも、これらの〔5つの〕構成要素(五蘊)や無量に多くの事象を、木片(きぎれ)や雑草に等しいものだと思いなすようになるのは、そもそも、いつの日のことであろうか? このことは、いつ起るであろうか?

□ 以下7詩句略(202~205頁)

□ 家庭では友人と愛する人々と親族とを捨て、世間では遊戯と歓楽と愛欲の対象とを捨て、すべてを捨ててこれに近づいた。それなのに、心よ、汝はわたしに満足していない。

□ これは、わたしだけのことがらである。それは他人のことがらではないからである。鎧を着ける時が来たのに、どうして嘆き悲しむのだ。「このすべては動転するものである」と観察して、わたしは出家して、不死の境地をもとめた。

□ 善きことばを語る人、人間のうちの最上の人、大力ある人、人々を調練する御者(ブッダ)は、〔このように語られた。――〕「心は動転するもので、猿のごとくである。それ故に、欲情を離れていなければ、心を制することは困難である」と。

□ けだし、欲情は種々さまざまで、甘美で、楽しく、無知なる凡夫の執著するところである。かれらは、再びう生まれることを求めて、苦しみを得ることを欲している。かれらは、心に導かれ、地獄に堕とされる。

□「孔雀や鷺の鳴く林に、豹や虎に囲まれて住み、身体に対する顧みを捨てよ。空しく時を過すな」といって、心よ、あなたは以前にはわたしを促した。

□「(四つの)瞑想(四禅)と、〔五つの〕すぐれたはたらきと、〔五つの〕力と、さとりを得るための七つのてだてと心の安定を得るための修養を修めよ」と、そなたは以前にはわたしを促した。心よ。

□「不死の境地を得るために、出離にみちびき、一切の苦しみの消滅に没入し、一切の煩悩から浄める、八つの実践法よりなる道を修めよ」と、そなたは以前にはわたしを促した。心よ。

□「個体を構成する〔五つの〕要素は、苦しみである」と正しく反省せよ。苦しみの生ずるもとを捨てよ。この世において苦しみを終滅せよ」と、そなたは以前にはわたしを促した。心よ。

□「〈無常なるものは苦しみである〉。〈空なるものは非我である〉。〈罪は殺害するものである〉と正しく観察せよ」「心の思考をとどめよ」と、そなたは以前にはわたしを促した。心よ。

□「剃髪し、異様なすがたをして、罵詈(ばり)に遭いながら、鉢に手にするのみで、家々に托鉢せよ。偉大な仙人である師のことばを尊守せよ」と、そなたは以前にはわたしを促した。心よ。

□「家々のあいだでは、よく自己を制し護って、街路の内を歩み、もろもろの欲望に心の執著することなく、明らかに照らす満月の夜の月のごとくあれ」と、そなたは以前にはわたしを促した。心よ。

□「森に住む者であれ。托鉢して食物をうる者であれ。死骸の棄て場所に住む者であれ。ボロ布でつづった衣を着る者であれ。坐ったままで横臥しない者であれ。つねに、汚れを払い落す(頭陀)〔の行ない〕を楽しむ者であれ」と、そなたは以前にはわたしを促した。心よ。

□ そなたが、無常にして動転するものに向かってわたしの心を向けさせるのは、樹木を植えて果実を求めようとする人が、その樹を根もとから断ち切ろうとするその譬喩のようなことを、そなたは為すのである。心よ。

□ かたち無きものよ。遠くに行く者よ。独り歩む者よ。いまや、わたしはそなた(心)のことばに従いますまい。もろもろの欲望は苦いもので、辛苦であり、大きな恐怖をもたらすからである。わたしは、安らぎに心を向けてのみ日を送ろう。

□ わたしが出家したのは不運のためでもない。恥知らずのためでもない、気まぐれのためでもない、追放されたためでもない、また生活のためでもない。心よ。わたしは、そなたのすすめに従ったのである。

□ 「〈小欲であること〉、〈かくし立てを捨てること〉、〈苦しみを静めること〉は、立派な人々、以前になずんだならわしに帰る。

□ 愛執、無知、いろいろの快いことがら、快適ないろ・かたち、楽しい感受、心にかなう欲望の対象――これらを、すべて捨て去った。わたしは、すでに捨て去ったもののところに、帰るわけにはいかない。

□ 心よ。あらゆる場合に、わたしはそなたのことばに従って来た。多くの生涯にわたって、わたしはそなたを怒らせたことはなかった。内心に由来することは、そなたのおかげでおかげである。そなたのつくり出した苦しみのうちに、わたしは永いあいだ輪廻した。

□ 心よ。そなたこそ、われわれをバラモンとなす。そなたは、われわれを武士族、王族の仙人ともなす。われわれは、いつかは庶民、隷民となる。神々の状態もまた、そなたの故に現れる。

□ ひとえにそなたの故に、われらは阿修羅となる。そなたの故に、われらは地獄の衆生となる。またいつかは、畜生となる。餓鬼の身を受けることもまた、ひとえにそなたの故である。

□ 以下2詩句略

□ 師はわれに、この世界を、無常で、堅固ならず、実質のないものであると示したまうた。心よ。われをして勝利者(ブッダ)の教えに入らしめよ。いとも渡り難き大きな激流から〔われを〕救いたまえ。

□ 以下14詩句略

テーラプタ長老(202~211頁)

六十の詩句の集成

■ 4詩句略

□(注1)肉と筋とで縫い合わされた骸骨の小舎(こや)、悪臭を放つ身体は、厭わしいかな。他のものである肢体を、そなたはわがものであると思いなしている。

□ 皮膚でつなぎ合わせた糞袋よ。胸に潰瘍をもつ魔女よ。そなたの身体には、九つの(孔から流出する)流れがあり、常に(液汁が)流れ出ている。

□ 糞尿に礙(さ)えられているものよ。そなたの身体には、九つの(孔から流出する)流れがあり、悪臭を放っている。清らかならむことを求める修行僧は、それを避ける。――排泄物を避けるように。

□ わたしが、そなたを知るように、そのように、もしも人がそなたを知るならば、あたかも両手に肥溜めを避けるように、人は遠く離れて、そなたを避けるであろう。

□〔遊女は答える、――〕「このことは、あなたのおっしゃるとおりです。偉大な健き人よ。道の人よ。或る人々は、老いた牛がぬかるみの泥の中にはまりこむように、この〔不浄な身体〕に落ちこむのです。」

□〔大モッガラーナが説いて言う、――〕(鬱金香)または他の染料で、空中に絵を画こうと思う者があれば、それは身の破滅を生ずるもとにほかならない。

□ 内によく安定したこの心は、虚空のごとくである。悪心ある女よ。蛾が火むらに近づくように、われを奪い去ることなかれ。

□ 見よ、粉飾された形体を! (それは)傷だらけの身体であって、いろいろのものが集まっただけである。病いに悩み、意欲ばかり多くて、堅固でなく、安住していない。

□(注2) 数多くの徳性をそなえたサーリプッタが〔死の〕安らぎに入ったとき、そのとき恐ろしいことが起った。――そのとき身の毛のよだつことが起った。

□ もろもろのつくられた事物は、実に無常である。生じ滅びる性質のものである。それらは生じては滅びるからである。それらの静まるのが安楽である。

□ 五種の構成要素(五蘊)を、(アートマンとは異なった)他のものであると見て、アートマンであるとは見ない人々は、微妙なる真理に通達する。――毛の尖端を矢で射るように。

□ またもろもろの形成されたもの(諸行)を(アートマンとは異なった)他のものとして見て、アートマンであるとは見ない人々は、微妙なる真理に通達した。――毛の尖端を矢で射るように。

□ 以下6詩句略

□(注3) 静かな安らいの境地に達し、辺鄙なところを臥坐所とする聖者(大カッサパ)は、最上のブッダの相続者であって、梵天に敬礼される人である。

□ バラモン(注4)よ。静かな安らいの境地に達し、辺鄙なところを臥坐所とする聖者にして、最上のブッダの相続者であるカッサパに敬礼せよ。

□ およそ人が、くりかえし人間に生まれて、しかもみなバラモンとして生まれ、ヴェーダ聖典に通暁した学者であって、

□ 三種のヴェーダ聖典を読誦し、その奥義に達したものであったとしても、この人を敬礼するのは、〔大カッサパを敬礼する場合の〕十六分の一にも値しない。

□ 朝食前に、八つの解脱を順と逆とのしかたで体得して、それから托鉢に出かけるところの、

□ そのような修行者を襲撃してはならない。バラモンよ。自己を破滅させてはならない。そのような尊敬されるべき人(アラハット)にたいして、心に信をおこせ。すみやかに合掌して敬礼せよ。――なんじの頭が〔七つに〕裂けることのないように。

□ 輪廻にみちびかれ、正しい真理の教えを見ない者は、曲りくねった路(みち)・邪道をかけめぐり、下に堕(お)ちる。

□ 糞にまみれた蛆虫のように、もろもろの事象(ごみくず)に心を迷わされ、利益や尊敬を受けることに沈潜し、ポッティラは、空しく〔この世を去る。〕

□(注5) 両方において解脱を得、内によく心の安定した、この容姿端麗なサーリプッタがやって来るのを見よ。

□ かれは、〔愛執の〕矢を抜き、束縛を滅ぼし、三種の明知があり、死(悪魔)を捨て去り、供養を受けるにふさわしく、人々のための無上の福田(功徳を生ずるもと)である。

□(注6) これらの多数の神々、一万の神々は、神通力をもち、名声あり、すべてみな梵天を主導者としているが、モッガラーナに敬礼しつつ、合掌して立って、〔こう言った。〕――

□ 生まれ良き人よ。あなたに敬礼します。最上の人よ。あなたに敬礼します。――もろもろの汚れを滅しておられるあなたに。師よ。あなたは、供養を受けるにふさわしい方です。

□ あなたは、人間や神々に供養され、死に打ち克つ人として現れて来ました。白蓮華が〔泥〕水に汚されないように、もろもろの事象に汚されません。

□ かれは一瞬のうちに千回も世界を見通した。かの修行者は、大梵天のごとくであり、神通力という徳に関しても、生死を知ることに関しても自在であり、適当な時に神々を見る。

□(注7) サーリープッタは実に、智慧と戒行と平静にとによって彼岸に達した修行者であり、そのように最高の人である。

□ わたしは、幾百億の数の自己のすがたを、一瞬のうちに化作(けさ)しよう。わたしは種々に身を変化(へんげ)することに巧みで、神通に熟達している。

□ モッガラーナ姓の者であるわたしは、禅定と明知との達人であり、完成に達し、無執著なる人(ブッダ)の教えにおいてしっかりと確立し、もろもろの感官の安定を得ていて、束縛を断ち切った。――象が腐った蔓草を断ち切るように。

□ わたしは師(ブッダ)に仕え、ブッダの教え(の実行)をなしとげた。重い荷をおろし、迷いの生存にみちびくものを、根こそぎにした。

□ わたしが出家して家無き状態に入ったその目的を、わたしは達成した。それは、すべての束縛を滅ぼしつくすことであった。

大モッガラーナ長老(岡野注;目犍連、目連)(212~220頁)

(注1)以下の4つの詩句は、モッガラーナを誘惑しようとして近づいて来た遊女を教えさとして言ったのである。主として不浄観を説く。

(注2)以下の4つの詩句は、サーリプッタ長老が入滅したときに説いたものである。

(注3)以下の6つの詩句は大カッサパについて述べたものである。

(注4)バラモンであるサーリプッタの甥が、王舎城に托鉢に入って来た大カッサパを見て、禍をもたらす女神を見たかのごとくに嫌悪感に襲われていたので、モッガラーナがサーリプッタの甥をいましめ、教えさとしたのである。

(注5)以下の2つの詩句は、サーリプッタ長老を称讃して述べたものである。

(注6)以下の諸詩句は、サーリプッタが大モッガラーナを称讃して述べたものである。

(注7)以下の諸詩句は大モッガラーナが自分の徳を明らかにしようとして述べたものである。(288頁)

詩句の大いなる集成

■(注1) ああ、わたしは家から離れて出家して、家無き状態に入ったのに、黒い〔悪魔〕から来たこれらの思いが頑強にわたしに襲いかかる。

□ 偉大な射手(いて)である貴公子たち、よく熟練し、剛弓をてにし、怯(ひる)むことのない人々が千人もいて、わたしを取り囲むかもしれない。

□ もしも、それ以上の数の女人たちが来ようとも、わたしを悩まし害なうことはないであろう。わたしは真理のうちに安住しているのである。

□ わたしは、太陽の裔(すえ)であるブッダから、ひとたび、安らぎにおもむくこの道を聞いたからである。わたしの心は、それに安住したのしんでいる。

□ 悪魔よ。わたしがこのように生活しているのに、そなたは近づいて来る。わたしも〔そなたと〕おなじようにしよう。〔そなたは〕わたしの歩む道を見ることはないであろう。

□(注2) 快楽と不楽と家の生活に執著する思慮とを、すべて捨てて、なにものにも欲を起すな。かれこそ、欲を離れているから、無欲の修行者である。

□ この世における大地と天界、世界のうちに没入しているいろ・かたちあるいかなる事物も、すべて、無常にして、老い朽ちる。叡智ある人たちは、このように知って日を送る。

□ 人々は、もろもろのこだわりのうちにあって、見られ、聞かれ、触られ、考えられたものについて、縛られている。人は動揺することなく、この世に対する欲望を除け。この世に汚されない者を、人々は〈聖者〉と呼ぶからである。

□ かれらは、凡夫であるが故に、六十八〔の邪(よこしま)な見解〕を固執し、考察をめぐらし、正しくないことがらに執著している。しかし、かの修行者は、なにごとに関しても党派に執著するな。まして、煩悩に悩まされた重苦しさにとらわれるな。

□ 天稟(てんぴん)の素質あり、長い年月にわたって精神を安定し、偽ることなく、聡敏にして、羨むことのない聖者は、安らかな境地に到達した。かれは、縁によって安らぎに達した者として、〔死の〕時の至るのを待つ。

□(注3)「ゴータマ〔・ブッダの弟子、ヴァンギーサ〕よ。慢心を投げ捨てよ。高慢への道をすっかり捨てよ。なんじは、高慢への道に迷って、永いあいだ後悔しつづけた。

□ 隠し立てのための蔽われ、慢心のためにうちのめされて、人々は地獄に堕ちる。慢心のためにうちのめされ、地獄に生まれて、人々は、長い時期にわたって悲しむ。

□ けだし、道によるが故の勝利者である修行僧は、正しく実践して、いかなるときにも悲しまず、名誉と幸せを享受する。人々がかれを〈真理を見る者〉と呼ぶのは、正しい。

□ それ故に、この世において、荒れることなく、高ぶらず、心の覆い礙(さまた)げをすてて、清らかとなり、また高慢をすっかりすて去って、心の静まった人となり、明知によって〔苦しみを〕終滅せよ。」

□(注4) 知慧が深く、聡明な英智に富み、種々の道に通達し、大いなる智慧あるサーリプッタは、もろもろの修行僧に、ことわりを説く。

□ かれは簡略に説くこともあり、また詳しく説くこともある。九官鳥の鳴き声のように、〔自由自在な〕弁舌の才を発揮する。

□ かれが、魅惑的な、聞くに快い、甘美な声で教えを説いているとき、その甘く快い声を聞いて、修行者たちは、心喜び、なごんで、耳を傾けた。

□(注5) 今日、〔満月の〕十五日に、五百人の修行者たちは、清らかになるために、集まって来た。〔これらの〕仙人たちは、束縛を断ち切り、苦悩なく、くりかえし迷いの生存を受けることを滅ぼした。

□ あたかも、輪転王が、大臣たちにとりまかれ、海に囲まれているこの大地を、あまねく巡行するように、

□ そのように、三種の明知あり、悪魔を避けた弟子たちは、戦いの勝利者・隊商の王・無上なる人(ブッダ)に仕える。

□〔われわれは〕すべて、尊き師(ブッダ)の子であり、ここにはむだなものはなにも存在しない。わたしは、〈太陽の裔にして、妄執の矢を打ち砕く人〉(ブッダ)を礼拝する。

□(注6) 一千人を超える修行者たちは、汚れを離れなにものをも恐れることのない道理、安らぎ、を説いた〈幸せな人〉(ブッダ)に仕える。

□ かれらは、正しくさとった人の説かれた雄大な教えを聞く。実に、さとった人は、修行者たちの集まりに崇められて、きらめいている。

□ 尊き師よ、あなたは「象」と名づけられ、仙人たちのうちでも最上の仙人である。あなたは、大きな雲のようになって、弟子たちに雨をそそぐ。

□ 午後の休息から立ち上って、師(ブッダ)を見たてまつろうと願って、弟子ヴァンギーサは、あなたの両足に〔頭をつけて〕敬礼する。偉大な雄々しき人よ。

□ かれ(ブッダ)は、悪魔の邪(よこし)まな路にうち克ち、心の荒みを破って、日を送る。かれが、束縛をときほぐし、こだわり無く、(教えを)区別して説き明かしているのを、見よ。

□ 実に、かれは、激流を渡るために、種々の道を説かれた。そうしてその不死の境地が説かれたとき、真理を見る人々は、動揺することなく、安立(あんりゅう)していた。

□ 世を照らす人は、徹見して、あらゆる見地を超えたものを見た。かれは、最高のものを知り、さとって、それを五人に(注7)説き示した。

□ このように真理がみごとに説かれたときに、真理を知った人々のうちで誰が、怠けるであろうか。それ故に、この尊き師の教えにおいて、人は怠ることなく、つねに〔尊き師を〕礼拝して、従い学ぶべきである。

□(注8) 長老コンダンニャは、ブッダに従ってさとった人である。かれは、出離の念鋭く、しばしば〈安楽に住むこと〉と〈遠ざかり離れる生活〉を身に体得していた。

□ およそ、師の教えを行なう仏弟子の体得できるものは、すべて、かれ〔コンダンニャ〕が怠ることなく、従い学んだ結果到達したところのものである。

□ 大威力をもち、三種の明知をそなえ、他人の心を究め知っている、ブッダの後嗣(あとつぎ)コンダンニャは、師の両足に〔頭をつけて〕敬礼する。

□(注9) 三種の明知あり、師を捨て去った〔仏〕弟子たちは、かの山腹に坐り、苦しみの彼岸に達した聖者(ブッダ)に仕えている。

□(注10) 大神通力のあるモッガラーナは、〔みずからの〕心をもってかれらの心を精査し、かれらの心がすっかり解脱し、こだわりのなくなっているのをたずね求める。

□ こういうわけで、かれらは、〈あらゆる属性を具え、苦しみの彼岸に達し、幾多の美徳を具えた聖者〉ゴータマに仕える。

□ 偉大な聖者アンギーラサ(注11)(ブッダ)よ。あたかも、雲のない空に、月が、汚れの無い太陽のように輝くのと同様に、あなたは、栄光によって全世界を超えて輝く。

□(注12) かって、わたしは、詩文の芸に陶酔して、村から村へ、町から町へと流浪した。たまたま、わたしは、あらゆる事象の彼岸に達した〈覚れる人〉にお目にかかった。

□ 苦しみの彼岸に達したかの聖者は、わたしのために、真理の教えを説いた。教えを聞いて、わたしたちは喜び信じた。わたしたちに信仰心が起った。

□ わたしは、かれのことばを聞いて、(個人存在の)〔五つの〕構成要素・〔六つの感官と六つの認識対象とを合わせた十二の〕領域・〔十二の領域に六つの認識作用を合わせた十八の〕要素を知って、家を捨てて出家した。

□ 実に、人格完成者(ブッダ)たちは、〔かれらの〕教えを実践する多くの男女を益するために、〔この世に〕出現される。

□ 実に聖者(ブッダ)は、必らず〔究極の境地に至ると〕定まっているのを見たそれらの修行僧や修行尼を益するために、さとりを得たのである。

□ 眼ある人・太陽の裔であるブッダは、生ける者どもを慈しむがゆえに、四つの尊い真理を、みごとに説かれた。

□ すなわち⑴苦しみと、⑵苦しみの成り立ちと、⑶苦しみの超克と、⑷苦しみの終滅(おわり)(静止)におもむく八つの部分よりなる尊い道(八正道)とである。

□ これらのことがらは、このように、ありのままに説かれた。わたしは、それらを、真実にあるがままにさとった。わたしは、自己の目的を達し、ブッダの教え〔の実行〕をなしとげた。

□ わたしは、超人的な神通力を完成し、聴力を浄め、三種の明知があり自在力を具え、他人の心の中を見抜くことに巧みである。

□(注13)現世において、もろもろの疑惑を断たれた完き智慧ある師に〔ヴァンギーサが〕お尋ねします。――「世に知られ、名声あり、心が安らぎに帰した〔ひとりの〕修行者がアッガーラヴァ〔霊樹のもと〕で亡くなりました。

□ 先生! あなたは、そのバラモンに『ニグローダ・カッパ』という名をつけられました。ひたすらに真理を見られた方よ。かれは、あなたを礼拝し、解脱をもとめ、つとめ励んでおりました。

□ サッカ(釈迦族の人、釈尊)よ。あまねく見る人よ。わたくしたちはみな、〔あなたの〕かの弟子のことを知ろうと望んでいます。わたくしたちの耳は、聞こうと待ちかまえています。あなたは〔わたくしたちの〕師です。あなたは、この上ない方です。

□ わたくしたちの疑惑を断ってください。これをわたくしに説いてください。知慧ゆたかな方よ。かれが円(まど)かな安らぎに入ったということを知らせてください。千の眼のある帝釈天が神々のために説くように、わたくしたちの間で説いてください。あまねく見る人よ。

□ この世で、およそ束縛なるものは、迷妄の道であり、無知を朋(とも)とし、疑惑に依って存するが、完(まった)き人に会うと、それらはすべてなくなってしまう。この〔完き人〕は、人間どもの最上の眼であります。

□ 風が密雲を払いのけるように、〔この〕人(ブッダ)が煩悩の汚れを払いのけるのでなければ、全世界は覆われて、暗黒となるでありましょう。光輝ある人々も、輝かないでありましょう。

□ 聡明な人々は、世を照らします。聡明なかたよ。わたくしは、あなたをそのような方だと思います。わたくしたちは、あなたを〈如実に見る人〉であると知って、御許(みもと)に近づきました。衆人のなかで、わたくしたちのために、〔ニグローダ・〕カッパのことを明らかにしてください。

□ すみやかに、いとも妙なる声を発してください。白鳥がその頸をもたげておもむろに鳴くように、よくととのった、円やかな声で。わたくしたちは、すべて、すなおに聞きましょう。

□ 生と死を残りなく捨て、悪を払い除いた〔ブッダ〕に請うて、真理を説いていただきましょう。けだし、もろもろの凡夫は、〔知ろうと欲し、言おうと〕欲することをなしとげることはできないが、完き人(如来)たちは、慎重に思慮してなされるからです。

□ この完全な確定的な説明が、正しい知者であるあなたによって、よく持(たも)たれているのです。わたくしは、この最後の合掌をささげます。〔みずからは〕知りながら〔語らないで、わたくしたちを〕迷わしたまうな。知慧すぐれた方よ。

□ 上から下までさまざまなこの尊い理法を知っておられるのですから、〔みずからは〕知りながら〔語らないで、わたくしたちを〕迷わしなさいますな。励むことすぐれた方よ。夏に暑熱に苦しめられた人が水を求めるように、わたくしは〔あなたの〕ことばを望むのです。聞く者に〔ことばの雨を〕降らせてください。

□ カッパ師が清らかな行ないを行なって、達成しようとした目的は、かれにとって空しくはなかったのでしょうか。かれは安らぎに帰したのでしょうか。それとも、生存の根元を残して、安らぎに帰したのでしょうか。かれがどのように解脱したのであるか、――わたくしたちは、それを聞きたいのです。」

□「かれは、この世において、名称と形態に関する妄執を断ち切ったのである」と、尊き師は答えた。「かれは、長い年月のあいだ陥っていた妄執の流れを断ち切り、生死(迷いの生存)を残りなく超え渡った」と、五人の修行者の最上者であった尊き師は、そのように語った。

□〔ヴァンギーサいわく、――〕「第七の仙人(ブッダ)よ。あなたのおことばを聞いて、わたくしは信じます(注14)。わたくしの問いは、決してむだではありませんでした。バラモンであるあなたは、わたしくしをだましません。

□ ブッダの弟子〔ニグローダ・カッパ〕は、ことばで語ったとおりに実行した人でした。そして、かれは、人を欺く死魔のひろげた堅固な網を破りました。

□ 先生! カッパ師は、妄執の根元を見たのです。ああ、カッパ師は、いとも渡り難い死魔の領域を超えたのです。

□ 人間どものうちの最上の人よ。わたくしは、神々のなかの神〔ブッダ〕に敬礼します。〔そして〕あなたに従い行なっているあなたの子――偉大なる建(たけ)き人、竜の実子である竜〔ニグローダ・カッパ〕――に敬礼します。」(229~230頁)

尊き人・ヴァンギーサ長老は、このように詩句を唱えた。

(注1)以下の5つの詩句は、ヴァンギーサ長老がまだ出家したばかりのよきに、美しく粧い飾った多数の女人が精舎に近づいて来たのを見て、愛欲の念を起したので、それを除こうとして述べたものである。

(注2)以下の5つの詩句は、自分の身のうちに起った快楽、不快などを除こうとして述べたものである。自分の心がまえを述べている。

(注3)以下4つの詩句はヴァンギーサが、弁舌の際を得て慢心を起こしたことをみずから反省して、自分を戒めて述べたものである。

(注4)これ以下3つの詩句は、サーリプッタ長老をたたえている。サーリプッタを形容する前半の句は、『ダンマパダ』第403詩の前半と『スッタニバータ』の第627詩句の前半と同じ。

(注5)以下4つの詩句は、釈尊が「自恣経」を説くために、大勢のビクに囲まれて坐っているのを見て、ヴァンギーサがその光景を称讃して述べたものである。

(注6)以下の4つの詩句は、釈尊がニルヴァーナに関する法話を説いたのを、ヴァンギーサが称讃して述べたものである。

(注7)釈尊の説法を最初に聞いた五人の修行者(ビク)をいう。

(注8)以下の3つの詩句は、ヴァンギーサがコンダンニャ長老を称讃して述べたものである。

(注9)釈尊が Isigili 山の中腹 Kalasila 岩という岩にビクたちとともにとどまっていたときに、ヴァンギーサが釈尊と大モッガラーナなどの修行僧たちをたたえて、以下の3つの詩句を述べた。

(注10)次の詩句とともにモッガラーナ長老をたたえている。

(注11)アンギーラサはこの場合ブッダの呼び名である。

(注12)以下の10の詩句は、ヴァンギーサがアラハットの境地に達して、自分の行ないを反省して、師と自分との徳を顕示して述べたものである。

(注13)ヴァンギーサの師であったニグローダ・カッパ長老が亡くなったときに、かれはその場所に居合せなかった。そこで、以下の12の詩句は、ヴァンギーサの死にについて釈尊に問うて述べているのである。

(注14)わたくしは信じます;教えを信じて、心が澄んで、明るく、喜ばしくなることをいう。(293頁)

(2021年6月10日了)

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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