(48)塀の内と外(177頁)
映画にエンドマークが出て、何だか気持ちがはぐらかされたような感じがした。もうちょっと、盛り上げてもいいじゃないか。あんなに、苦労して脱獄したのだから。
でも、その終わり方が、僕に様々な考えを拡げる種になった。
塀の内と外では時空が違う。塀の外は、普通の日常の当たり前の世界なのだ。塀の内側では、それはもう自分にとっては大変な世界だった。ところが、ぴょんと降りたら、この壁のたった一枚で、外側では日常のごく普通の世界がずっと続いていたという落差。それが、何か非常に変な感じとして残った。
内も外も、ほんとうは同じ時間が回っているはずだ。ところが、ぴょこんと壁の反対側にまたいだとたんに、こちらの空間ではこちらの当然がある。塀の外側の世界に降りて、あの主人公は、一瞬にして獄中から日常の世界に入って行って、何事もなかったようにスタスタと歩いて行った。
丁度それは、僕が水晶を採りに行って感じた世界や、溺れかかったときに感じたのと同じ様な印象だった。
「わぁ…世界というものは、単純ではないなぁ…」
この今流れている時間も空間も、人の数だけ同時に存在している。それだけでなく、一人一人の日常生活のすぐ横に、その人の数多くの可能的時空が同時に流れている。ちょっとサイドステップするだけで、簡単に世界が変わる。
「これは、何か単純にはいかないぞ…」という感覚だった。
それは人為的に作っても簡単に生じる。
たとえば、今はあるかどうか知らないけれど、以前中国では経済の解放政策で経済特区という空間を作った。そういう空間を設定すれば、もうその空間は「こっち」とは違う。その特区に入ったら、その他の場所に住んでいる人からみれば、SFのような不思議な空間が現出する。「ここからここまでを、こうしましょう!」などと決めるだけで、あっという間に時空は変わってしまう。国も同じで、国境を一歩またいだだけで、時空がパッと変わってしまうではないか。