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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『脱・西洋の眼』薗部雄作著 六花社

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『脱・西洋の眼』薗部雄作著 六花社

■「一口に言えば末流の末流の、印象派の形骸そのまた模倣ではありませんか。真の批評家ならこのことは分かっていい筈です。それなのに真におのれの内なる美に根差した仕事を見る眼はなく内容なき雷同的の模倣を、只それがあまりに通常なるがために見破る力の無いという事は、批評家としては痛ましい事ではありませんか(岡野注;岸田劉生)」と批評家に対してもいっているが、これは現今の美術状況でもまったく同じである。アンフォルメルの末流の末流、インスタレーションの末流の末流といいかえても同じであるからだ。いったい、その「末流の末流」「印象派の形骸そのまた模倣」の画家が誰だったのか、またそれを評価した批評家が誰であったのかも皆目わからないが、時流を病気だといって批判した劉生だけは存在感がたかまるだけだ。それだけではなく、時流がいかに当てにならないかは、2,30年前の新聞や雑誌の記事を見ればよくわかる。とりあげている者も、とりあげられている者も、ほとんどちがうことをいったり、ちがった作品をつくっている。時流に飛び込んだ者は、たえず時流にあわせて泳いでゆくか、ちからつきて溺れるか、時代遅れとなった形骸を引きずってゆくしかない。(35頁)

■「新しきものは概念より生まれず、〈心〉より生まれるものこそ永遠に新鮮なり!世界中の画家が、変なものを描こうと苦心している時に、自分は〈美〉を描こうと苦心している」と宣言する。「自分も初めは、その変なものを描こうとした一人だ」。とくに「変なものと思っていた訳ではないが、そういう風に描かなければ力が出ないと思っていた」。そして「アカデミックという事、平凡であるということが恐ろしかった。真面目くさって。最も本当のものを描いている気で。しかし、変なものは結局変なものであった」(岡野注;カッコ内は岸田劉生の言葉)。(79頁)

■たしかに世界美術の個々の作品の表情は一見多様であろう。美の形式〈かたち〉も、自然界の動物や植物の〈かたち〉が多様であるように。けれどもその根底は、東西の違いを超えて同一の源泉で「解合」するのだ。自然が同一の源泉で解合するように。多様な現象を超えた普遍の〈美〉を念頭にしての深遠な言葉である。(81頁)

■しかし劉生はさらに言う。「自分はまだまた深い美をこの世にもたらすべき男だと自分を信じている。自分の見る美の深さからこの事を想像している。しかし、その故にこの書を軽しとしない」。「最近の作品に至っては、自分は相当な自信を持つ」と。たんなる自画自賛ととってはいけない。自分を自覚した者の言葉だ。ゲーテも、自分を過剰に評価する者も過小に評価する者もともに大きな誤りであるといっている。またショーペンハウアーは、「もしも偉大な精神の持ち主が謙遜の徳を具えている、というようなことでもあれば、それは世人の気にいることであろう。しかし、そのようなことは、残念ながら[形容矛盾]なのである。なぜかというと、偉大で謙遜なせいしんというものがあるとすれば、彼は自分の思想や意見や見解やまた流儀習慣などよりも、他人たちの、しかもその数限りないあの連中の思想や流儀の優れた価値を認め、そしてこれらとはいつも甚だしくゆき方を異にする自分の思想や流儀を、それらに従属させ順応させるとか、あるいは自分の思想をまったく抑圧して他人たちと同様の月並みな作品や業績を生みだすだけであろう」と。思想を美におきかえても同じである。(82~83頁)

■「そしてたとえ、彼の生活と活動とが、彼の真価を認識しえない時代に巡り合わせたにしても、彼はどこまでも彼自身なのであって、そういう境遇におかれた場合の偉大な人物の姿は、みじめな宿場で一夜を過ごさなくてはならなくなった高貴な旅人に似ている。夜が明けると、彼は快活に旅を続けていく」。(岡野注;カッコ内はショーペンハウエルの言葉)(83~84頁)

■「たとえば或る人が港を出るやいなや激しい嵐に襲われてあちらこちらへと押し流され四方八方から荒れ狂う風向きの変化によって、同じ海域をぐるぐる引き回されていたのであれば、それをもって長い航海をしたとは考えられないであろう。この人は長く航海したのではなく、長く翻弄されたのである」。(岡野注;カッコ内はセネカの言葉)(101頁)

■老子は『道徳経』の冒頭で、「これこそが理想的な〈道〉だといって人に示すことのできるような〈道〉は,一定不変の真実の〈道〉ではない。これこそが確かな〈名〉だといっていいあらわすことのできるような〈名〉は、一定不変の〈名〉ではない」(金谷治訳、以下同)と宣言する。つまり、人間によって名づけられた現象界のもろもろの具体物――動植物や鉱物その他、あるいは人の内なる事象――心理や観念や思想も、言葉によって名づけられ言いあらわされたものは、すべて真の実体ではない、と。「〈名〉――言葉によって言いあらわされないところに真実の〈名〉はひそみ、そこに真実の〈道〉があって、それこそが、天と地との生れ出てくる唯一の始原である」。そして、わたしたちが、「天」とか「地」とかいう名前で言いあらわしているものが、「さまざまな万物の生れ出てくる母体である」という。そしていきなり、「だから、人は変わりなく無欲で純粋であれば、その微妙な唯一の始原を認識できるのだが、いつも変わりなく欲望のとりこになっているのでは、差別と対立にみちた末端の現象がわかるだけ」であると。(131~132頁)

■ここではまず、現象世界一切をとにかく人間の有用的見地から見るのをやめなさい。そうして、いったん物象の現像的誘惑をはらいのけて、その奥へ眼を向けなさい。そうすれば、それらの現象物一切を生み出している根源――天地の核心――唯一の微妙な始原〈道〉を透視することができるであろうと。けれども、だからといってそこに〈道〉そのものが眼に見える〈かたち〉となってあるわけではない。しかしまた言う。「この末端のもろもろの具体的な現象世界と、それらを生みだしているその母胎――〈道〉との二つの世界は違ったものではない」と。老子はしばしば、ある〈こと〉や〈もの〉に対して、そうではないと否定しておいて、またそうであるといって肯定する。一見とまどうような、わたしたちの言葉の世界では矛盾したようなことをいう。しかし最後には、それは「根本的には同じ」ものであるといって一つに合せる。そして、ただわたしたちの「〈名〉――言葉の世界では」、それを「道といい万物」と言っているように「それぞれ違った呼び方になる」だけである、と。(132頁)

■美について、プラトンも「いろもなくかたちもない美」という言い方をしている。それを見るためには、やはり、老子の道とおなじく、たんに現象の相対的な美――たとえば具体的な動植物や人間に現れている美を漠然と見るだけではなく、その美を現わしている個体の外観を超えて――眼を転じて普遍――真実の美そのものを観なければならない、と。もちろん、その美そのものには〈いろ〉も〈かたち〉もない。そして次のようにいう、「一つの肉体の美はもう一つの肉体の美と姉妹関係をもつ。さらにあらゆる肉体の美はすべて同一不二の美を現前している」。つまり、個々の人間としてばらばらに個性ある肉体の美しさとして現れてはいるが、それらすべての肉体の美を観取したならば、こんどは、それぞれの個体美にとらわれることなく、それらの「肉体の美から心霊上――形而上――の美へと視線をむけなければならない」と。心霊――魂――形而上とは、それはもちろん老子のいう〈道〉にちかいものであろう。〈いろ〉も〈かたち〉もなく眼にも見えない〈もの〉であるのだから。そしてそれは劉生のいう「無形の美」とほとんど同義であろう。

「もっとも深き美の有無はこの感じの有無にある」と劉生はいう。つまりその作品が末端の現象面だけをとらえているのか、それとも、その現象物――名をとおしてその奥にある「形なき美」――〈道〉を体現しているかと。そしてその美――〈道〉に通じていないものは――老子のいういわゆる末端の現象、つねに動いてやまない相対的な幻像にのみひきずりまわされているだけで、真の美との直接関係を見失っている、と。さらに、この〈無形の美〉――〈道〉が作品としてこの世に現われるばあいには思いもよらないほど千差万別の姿となる。名も形もない〈道〉ともろもろの具体的現象物との関係のように。そしてそれを劉生は「無限、神秘、厳粛、荘重、荘厳、不思議な生きた感じ」の人や風景や物の姿となって現われるといっている。(134~135頁)

■しかし現象としての人間でありながら〈道〉の本体を見てしまった者――そしてそれと一体になってしまった者は、相対的価値観によって成り立っている人間社会のなかでは精神的に孤立する。けれども、いったん見てしまった者は、もはや見るまえの自分に戻れない。見者の宿命だ。心に見えたものを見ないと――つまり真実を偽って生きることはできない。(150頁)

■劉生も言う「すべてが氷解した」「物をそのまま見ない人の気がしれなくなった」。「あんな変なものにするのか」。それは「あんなに美しい物があそこに見えないからだ」と。同じものを見ても、現象の美をとおして母体の美を直視する眼と、もろもろの個物の美にとらえられてそれを相対的に見る眼では全く違って見える。そしてまた既成の美意識をとおして見るのでは、さらに違って一段と母体の美からは遠ざかる。(151~152頁)

2010年1月31日

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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