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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『文読む月日(下)』トルストイ 北御門二郎訳 ちくま文庫

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■己れのために、宝を地上に積むことなかれ。ここにては虫と錆とに損なわれ、盗人に押し入られ盗まるるなり。汝ら己れのために、宝を天に蓄えよ。かしこにては虫と錆とに損なわれず、盗人に押し入れられず、盗まれざるなり。汝の宝のあるところに、汝の心もまたあらん。(「マタイ伝」第六章十九~二一節)(14㌻)

■貧乏に苦しまぬようにするには、二つの方法がある。一つは自分の富を増大させることであり、もう一つは欲望を減らすことである。前者はわれわれの支配圏外であるが、後者はわれわれの支配下にある。(15㌻)

■肉体は、絶えず自己を主張してやまないものであるから、それだけ精神的努力が必要である。自分の精神を鍛錬することをやめたが最後、汝は肉体の虜囚となってしまう。(18㌻)

■病人がまるで生きることをやめて、病気治療だけに専念したりするよりも、むしろ不治の病の場合にしろ、治療可能な病気の場合にしろ、病気なんか無視して普通の生活をするほうが、たとえそのために生命(いのち)が縮まっても(縮まるかどうか大いに疑問だけど)、そのほうがまともに生きることであって、絶えず自分の肉体のことを恐れ思い煩うこととは違うだけに、ずっと有利と言えるであろう。(21㌻)

■病気を恐れず、治療を恐れるがよい。有毒な薬を飲んだりするという点で治療を恐れるというのではなくて、病気の結果、自分は道徳的要求から解放されていると考えがちだという点で、治療をおそれるがよい。(22㌻)

■神とは何ぞや?と尋ねられるならば、私は答えよう。神とは―私が自分をその一部として意識する無限者であり、全体者である、と。(44㌻)

■どんなものでも顕微鏡や望遠鏡で見ると、ごくつまらないものになってしまう。(ソロー)(51㌻)

■天与の資質を与えられた人々は、それを、肉体的な幸福や、世俗的な幸福や、人を支配し人より上に立つことと交換しはしない。(ピョートル・ヘリチーツキー)(71㌻)

■五歳の子供から私までは、ほんの一歩である。生まれたばかりの赤ん坊から五歳の子供までの距離は、恐ろしく遠い。胚児と生まれ立ての赤ん坊のあいだには―深淵がある。未存在と胚児とのあいだには深淵どころではなく、そこには人智の捕捉できない謎がある。(84㌻)

■君が十日間寝たっきりでいて、その後立って歩こうとすれば、君の足がすっかり弱くなっているのに気づくであろう。つまり、君が何かの習慣で獲得しようと思えば、それを大いに、そして頻繁に実行しなければならないし、反対に何かの習慣から離れたいと思えば、それを行わないようにしなければならない。(エピクテトス)(90㌻)

■自分の仕事を発見した人は幸福なるかな。彼にはもうほかの幸福を探す必要はない。彼には仕事があり、人生の目的があるのだ。(カーライル)(93㌻)

■死がわれわれを待ちかまえている―このことだけはわれわれは確実に知っている。〝人の一生は、部屋のなかを掠めて飛び去る燕のようなもの〟。われわれはどこからともなくやって来て、どこえともなく去ってゆく。見透しがたい暗さが後方にあり、濃い闇が前方にある。いよいよわれわれの時が来たとき、われわれが、うまいものを食べたとか食べなかったとか、柔らかい着物を着たとか着なかったとか、大きな財産を残したとか何一つ残さなかったとか、栄誉に輝いて暮らしたとか蔑まれたとか、学者と思われたとか無学者と思われたとかいったことが―われわれが神に委託された才能をいかに活用したか、ということに比べてどれほどの意味を持つのであろう。(ヘンリー・ジョージ)(95㌻)

■時は過ぎても、言葉は残る。(109㌻)

■自分の使命を認識する人は、そのこと自体によって自分の人間的価値をも認識する。ところで、自分の使命を認識するのは、ただ宗教的な人間のみである。(115㌻)

■君は仕事を完成させる義務はないけれども、それを回避してもいけない。君に仕事を託した神は、君の仕事を期待しているのだから。(『タムルード』)(118㌻)

■嵐に遭って初めて航海士の腕は発揮され、実戦の場で初めて軍人の勇気が試されるように、人間の男らしさというものは、彼が人生における最も困難で危険な状況に直面したとき初めてわかるのである。(ダニエル)(133㌻)

■人々は、自己棄却が自由を破壊すると思っている。彼らは、実は自己棄却のみがわれわれをわれわれ自身から、われわれの堕落した奴隷状態から解放することによって、真の自由をわれわれに与えてくれるものであることを知らない。われわれの欲悪煩悩こそ―最も残酷な暴君である。それに屈したが最後、われわれはその無残な奴隷となって、自由に呼吸をすることもできなくなるであろう。ただ自己棄却のみが、われわれを奴隷状態から救ってくれるのであろう。(フェヌロン)(137㌻)

■享楽的で自己満足的な思想家とか芸術家とかは、いるものではない。真にその人には使命があるかどうかに対するただ一つの疑うべからざる証拠は、自己棄却、すなわち他人に奉仕するためにその人に与えられた力を発揮することである。苦しみなくして霊の果実は生じない。

この世界に幾種類の甲虫がいるかを数えたり、太陽の黒点を調べたり、小説やオペラを書いたりするのは、個人的目的によっても可能であるが、人々に、もっぱら自己棄却と他者への奉仕のなかにのみ存在する彼らの幸福を教え、それを強く表現するためには、自己犠牲なしにはすまされない。

キリストが十字架で死んだのも宜なるかな。自己犠牲の苦悩がすべてを克服するのも宜なるかな。(138㌻)

■真理に鋭敏な人々は、自分たちに見える至高の光に一致した理解の仕方をし、その光にふさわしい生活を築こうとするが、真理に鈍感な人々は、従来の人生観、従来の生活体制に固執し、これを擁護しようとする。(140㌻)

■俺の生活は俺のものと考えている人は、謙虚ではない。なぜならその人は、誰に対しても何一つ責任はないと思っているからである。自分の使命は神に仕えることだと思っている人は、謙虚にならざるをえない。なぜなら彼は、絶えず自分はまだ充分責任を果たしていないと感ずるからである。(144㌻)

■キリストの教えを信ずる者には、一定の完成度に達するごとに、さらにより高き段階を目指す欲求が生まれ、その段階からさらにより高き段階が望まれる、といったふうに、どこまで行っても限界がない。キリストの教えを奉ずる者には、自分のうしろの、これまで通ってきた道は見えないで、いつも前方のまだ通ったことのない道だけが見えるので、常に自分をまだまだ未完成だと感ずるものである。(146㌻)

■己れの外に向かって権利を主張するよりも、己れの内に向かって義務を思うがよい。(147㌻)

■誠に誠に汝らに告ぐ、一粒の麦地に落ちてもし死なずば、ただ一つにしてとどまる。もし死すれば多くの実を結ぶ。(「ヨハネ伝」第十二章二四節)(179㌻)

■大木も初めはかよわい幼木にすぎない。九階の塔も、小さな煉瓦の積み重ねより始まる。千里の旅も一歩より始まる。自分の思想に注意せよ―思想こそ、行為の始まりである。(老子による)(220㌻)

■この世の喧噪のなか、誘惑の渦巻くなかにあっては、われわれの欲望に対する対抗手段を探求する暇はない。

君がただ一人ののとき、誘惑が存在しないときに君の目的を定めるがよい。そのとき初めて君は、君を襲う誘惑と闘うことができるであろう。(ベンサム)(222㌻)

■また他の一人言いけるは、「主よ、われ汝に従わん、されどまず家の者に別れを告げしめたまえ」と。これにイエス言えり、「鋤に手をかけて、なおうしろを顧みる者は、神の国にふさわしからず」(「ルカ伝」第九章六一、六二節)(257㌻)

■自分の生涯を自己完成のために献げてきた人は、いつも前方を見ている。立ち止まっている人だけが、自分のしてきたことを振り返って眺めるものである。(257㌻)

■己のために、宝を地上に積むことなかれ。ここにては虫と錆とに損なわれ、盗人に押し入れられ盗まるるなり。汝ら己のために、宝を天に蓄えよ。彼処にては虫と錆とに損なわれず、盗人に押し入れられず、盗まざるなり。汝の宝のあるところに、汝の心もまたあらん。(「マタイ伝」第6章十九~二一節)(261㌻)

■死すら、全力をあげて正義のために闘う人の勝利を阻むことはできない。さらば闘え、不屈の正しき心よ。幸不幸に右顧左眄することなく前進せよ。そして汝がそのために闘う正義の勝利を信ずるがよい。滅びるものはただ不正なもののみであり、正しきものの負ける道理はない。なぜならそれは汝の意思によってでなく、永遠なる神の掟によって行われるものであるからである。(カーライル)(286㌻)

■一人の人間が大勢の人々を支配する権利がないばかりでなく、大勢の人々が一人の人間を支配する権利もない。(ウラジミール・チェルトコフ)(292㌻)

■人間が死ぬことも、お金や財産を失うことも別に悲しむべきことではない。それらはもともと人間に属しているものではない。人間が自分の真の財産、すなわち人間的尊厳を失うこと、これこそ悲しむべきことなのである。(エピクテトス)(356㌻)

■受け取るときには手を伸ばすな。与えるときには手を縮めるな。汝が自らの手で稼いだものを、自分の罪の償いとして人に与えよ。与えるときは躊躇せず、与えたあとは惜しがるな。なぜなら、汝は汝のなした善に対して、何がそのよき報酬であるかを知るであろうから。(377㌻)

■ところがわれわれは世の中が悪い、世の中がよくできていないと苦情を言い、実は世の中がよくできていないのではなくて、われわれがなすべきことをなしていないのだ、ということを考えようとしません。ちょうど酔っぱらいが、あんまり酒場や居酒屋がたくさんあるから、こんなに酔っぱらったのだ、と苦情を言うようなもので、実は彼のような酒飲みが大勢いるようになったからこそ、酒場や居酒屋がふえた、というのが真相なのです。(382㌻)

■人々の生活がよくなるための方法はただ一つ、人々自身がよくなることです。もし人々がよくなれば、おのずからよき人々のよき社会が現出するでしょう。(383㌻)

■諸君およびすべての人々の救いは、罪深い、暴力的な社会革命のなかにはなく、精神革命のなかにこそあるのです。そうした精神革命によってのみ、われわれ一人ひとりは、自分のため、また人々のために人々の望みうるかぎりの最大の幸福、最良の社会を築くことができます。人間の心が求めてやまぬ真の幸福は、なんらかの将来の、暴力によって維持される社会体制のなかに与えられるものではなく、現在、われわれがどこでも、また生死いずれの瞬間でも、愛を通じて手に入れることができるものなのです。(385㌻)

■君は生きる、つまり生まれて、成長して、大人になって、老人になって、とうとう死んでしまう。はたして君の一生の目的が君自身のなかにあるでしょうか?そんなはずはありません。そこで人間は、一体なんだろう、この私は?と自問します。

答えはただ一つ、私は愛する何物かであるということです。そして最初は自分だけを愛しているように見えるけれども、しばらく生き、しばらく考えさえすれば、過ぎ去ってゆく生命、死んでゆく存在である自分を愛することは不可能であり、無益であることがわかります。私は自分を愛すべきだし、また愛していると感ずる。しかし自分を愛してみて、私は私の愛の対象が実は愛するに値しないことを感ぜざるをえません。それでも私は愛せずにはいられない。愛こそ――生命ですから。

ではどうしたらいいでしょう?他人を、隣人を、友だちを、自分を愛してくれる人を愛したらいいでしょうか?最初それは、愛の要求を満足させてくれるように思われます。しかしながらそれらの人々も、まず第一に不完全な存在であり、第二に刻々変化する存在であり、何よりも――死んでしまう存在です。一体何を愛したらいいのでしょう?

答えはただ一つ、万人を愛すること、愛の根源を愛すること、愛を愛すること、神を愛することです。愛する相手のためにでも、自分のためにでもなく、愛そのもののために愛するのです。そのことさえ悟れば、人生における悪はたちまち消滅し、人生の意味が明瞭な、悦ばしいものとなるのです。(388,389㌻)

■親愛なる諸君、われわれの生活をわれわれの内なる愛の強化に置き、世間は世間の欲するままに、つまり天が命ずるままにその道を歩くに任せようではありませんか。そうすることによってわれわれは、自分自身にも最大の幸福を受け、人々にも己れにあたうかぎりの善を行なうことを信じてください。(391㌻)

■もしも人がその真の本性を失ったなら――どんなものを持ってきても、それが彼の本性ということになる。ちょうどそれと同じように、もしも真の幸福を失ったら、どんなものを持ってきてもそれが彼の幸福ということになってしまう。(パスカル)(395㌻)

■何かいいことをしようとするたびに邪魔をするのは、「われわれはわれわれの置かれた社会的地位というものを考えないわけにゆかない」という思いである。

そうした逃げ口上を言う人の大多数にとって、自分らが実生活上、あるいは〝天の摂理によって〟置かれた地位を保持するということは、つまり彼らが自分らの財力の許すかぎり、たくさんの馬車や下僕たちや広大な家を持ちつづけるということなのである。ところが私としては、もし天が彼らをそうした地位に置いたとしたら(実際にそうであるか、はなはだ疑わしいけれど)、天はまた、彼らにその地位を放棄することを求めていると思うのである。

レヴィの地位は税金を集めることだったし、ペテロはガリレア湖畔の漁師だったし、パウロは司祭長の玄関番だった。そして三人ともその身分を放棄した。放棄すべきだと思ったからである。(ジョン・ラスキン)(398㌻)

■何人も新布を古き衣に接ぐことはせじ、補いたる布、古き衣を破りて、破れさらにははなはだしかるべし。また新しき酒を古き皮袋に入るることはせじ、しかせば袋裂け、酒流れでて、袋もまた廃らん。新しき酒は新しき皮袋に盛るなり、かくて二つながら保つなり。(「マタイ伝」第九章一六、一七節)(398㌻)

■宗教が第二義的な場所にしか占めていない人は、全然宗教を持たぬ人である。神は人間の心のなかでいろんなものと共存しうるけれども、自分が第二義的な場所を占めることには、堪えうるものではない。神に第二義的な場所を当てがう者は――全然場所を与えていないのである。〈宗教=芸術〉(ジョン・ラスキン)(408㌻)

■自分は善を行なうのだけれど不幸を感ずると言う人は、神を信じていないのか、その人が善と思っているものが実は善でないかのどちらかである。(437㌻)

■精神的生活を送る人は、年齢が増すにつれてその精神的視野が広くなり、その意識は鮮明になるが、世俗的生活を送る人は、年とともにますます愚鈍になってゆく。(『タムルード』)(470㌻)

■「それは私がまだ五十歳に充たぬ頃である。私には善良な、愛し愛される妻や、立派な子供や、私が別に骨を折らなくとも、自然に生じ、また増大して行く莫大な財産があった。私はそれ以前のどの頃よりも身内の者や友人達に尊敬され、他人に賞めそやされ、殊更うぬぼれなくとも、自分の名声が輝かしいものであると考えることが出来た。しかも私は、自分の同年輩の人々の間にめったに見かけないほどの、精神的肉体的力を持ち合わせていた。肉体的には、草刈りで農夫達におくれをとらずに働くことが出来た。智的労働では、八時間から十時間ぶっつづけに仕事が出来、その無理があとに尾を引くということもなかった」。

そんな健康で幸福であるはずのトルストイの中にきみょうにも「どう生きたらいいのか、何をしたらいいのか分からなくなるといった、生命力の停滞ともいう疑問が起きはじめた」。

〈一体なぜ、私は生きて行くのか?なぜ何かを望むのか?なぜ何かをなすのか〉もっと別な言い方をすれば〈私の生に、どうにものがれようのなく迫ってくる死によっても滅ぼされない、何らかの意味があるのだろうか?〉という疑問が現れ、疑問はますます頻繁に繰り返され、ますますしつこく解答を迫り始めたのだ。

〈よろしい、お前は、ますます増加する莫大な財産を手にするだろう。――でも、それがどうだというのだ?〉

〈よろしい、お前はゴーゴリ、プーシュキン、シェークスピア、モリエール、その他世界のすべての作家以上に名声に輝くかもしれない――でも、それがどうだというのだ〉

〈私の業績が、よしどんなものにせよ、早晩すっかり忘れ去られ、そしてなによりも今日、――でないならば明日、死がこの私をおそい、私は、元も子もなくなってしまうではないか。なのに、一体何のためにあくせくせねばならないのか?〉

〈私は何故生きているのか?〉

〈私はいったい何者か?〉

それはまさに、「この年まで成熟して心身共に発達し、人生の全展望が開ける生の頂点に達して、――さてそこで、見渡してみれば、人生には何もないし、過去にもなかったし、未来にもないであろうことがはっきりと分かって、馬鹿みたいにぼんやりとその頂点に立っている」といった心の状態であった。

だからといって、「お前は生の意義を悟りっこない。考えるな、ただ生きよ、と言っても、そんな訳には行かない。私は以前から、あまりに永い間そんな風に暮らして来すぎた」のだから。

トルストイは「自然科学から哲学まで、人間が獲得したあらゆる学問の中から、その疑問に対する説明を探した。それでもなんにもみつからなかった」。

その間、自殺の想念がごく自然に生じてきた。

「この想念が、すごく魅惑的なので、私はあわててそれを実行に移すことがないように、自分自身に対してからくりをしなければならない。私があまりに事を急ぐのを欲しなかったのは、ただ、何とかこの窮状を打開するためにやれるだけやってみたいと思ったからだ。もし打開ができなくても、死ぬのはいつでも死ねると思われたのだ」。

やがて、トルストイは茨の道を通って、その解答が、自ら不合理と考えていた、「神えの信仰」の中にあることを、それも、無学で、貧しい、素朴な、額に汗して働く、農民や労働者の信仰の中にこそあることを悟る。

しかし、「この大転換は、ある日突然に私の内部に生じたのではない。何十回なん百回と、喜びと生気、それにつづく絶望と生存不可能の意識を繰り返して、いつのまにか徐々に生の力が私に帰ってきたのである」。

「私は、神を感じ神を求めるとき、そんな時だけよみがえり、まぎれもなく生きていることに気づく」。

「かくて私の内部および周辺において、全てが未だかってなかったほど明るく輝き、そしてその光はもう決して私を離れなかった」。

「神を求めつつ生きよう」。

こうして生きる光を得たトルストイは、さらに信仰の問題を掘り下げながら、今まで書いてきた『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』などの大作を否定し、これからは「民衆とともに生き、人生のために有益な、しかも一般の民衆に理解されるものを、民衆自身の言葉で、民衆自身の表現で、単純に、簡素に、わかり易く」書こうと決意するのである。

そのようななかから次々と民話が誕生した。(507,508,509,510㌻)

『文読む月日(下)』トルストイ 北御門二郎訳 ちくま文庫2007年10月3日

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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