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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『禅に聞け』澤木興道老師の言葉  櫛谷宗則編 大法輪閣

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『禅に聞け』澤木興道老師の言葉  櫛谷宗則編 大法輪閣

■泣き顔をヤメイ。ちっちゃな気で「オレはツマラヌ」と思い、「ヒトはエライ」と思うて泣き顔してコセコセして。――そせてちょっとツマルと調子づきやがって。(12頁)

■宗教をもって生きるとは自分で自分を反省し反省し、採点してゆくことである。(12頁)

■世の中はヒトやヨソモンを背景にして自分をエラク見せようとする。味ないものを、皿で味をもたすようなもんじゃ。

そんなことで世間では、人間を見失う。(13頁)

■宗教では連帯責任ということはない。私一人である。(13頁)

■凡夫は見物人がないとハリアイがなくなる、見物人さえあれば火の中にまで飛び込む。(13頁)

■ネズミが子供につかまえられて、ナブリモノにされ、コブチ(ネズミ取り)の中でバタバタ、バタバタ……――鼻はすりむけ、尻尾はちぎれ、それで最後に猫の鼻先につきつけられて、食われてしまう。

わしが、この場合ネズミならと思うことがあるな。「畜生、だれが人間の奴のナブリモノなんかになるもんか」と、コブチの中で坐禅してやるな。(14頁)

■よそ見なしが成仏である。よそ見がやんで、はじめて飯もだまって食える。(14頁)

■仏道とはよそ見せんこと。そのものにナリキルことである。これを三昧という。

飯を食うのはクソをするためではない。クソをするのはコヤシをつくるためではない。ところがこのごろは、学校へ行くのは上の学校へ行くため、上の学校へ行くのは就職するため、と思うている。(14頁)

■菩提心をおこすとは「よそ見をやめる」ことである。「坊主しよか、坊主やめよか。坊主しよか、坊主やめよか」――このよそ見がやんで「ただ正法眼蔵をもって重担となして随処に主宰とならん」(「大智禅師発願文」)とキマッタとき、菩提心をおこしたのである。(14~15頁)

■よそ見なしに、この肉体を仏道につかうのが、大尊貴生、露堂々(たいそんきせいろどうどう、この上なく尊く、行きつく所へ行きついて、はっきりしている)ということである。

仏とは「よそ見のやんだ人」である。(16頁)

■人間という奴は頭の早い奴で、化けものを見てはや腰ぬからかして、幻影を見ておびえておる。(17頁)

■クラガリを手探りでゆくことをやめろ。大手をふって歩ける所で歩け。「夜行を許さず。明に投じてゆくべし」(『景徳伝燈録』15・投子同章)――これが宗教の極則である。(17頁)

■すべきことをするのが最上安楽であるに決まっている。(63頁)

■一生涯、負け戦さして、逃げづめに逃げて、ついに逃げおおせない。――そんな負け戦さの生涯ではダメだ。(63頁)

■昼寝する身体で坐禅もできる。坐禅する身体で昼寝もするのである。(68頁)

■今晩泥棒しに行くためにメシ食うなら、「ドロボウめし」でありパンパンしに行くためにメシ食うなら「パンパンめし」だし、坐禅するためにメシを食うなら「仏道メシ」である。――いったいわれわれは何のためにメシ食うておるか。(68~69頁)

■安泰寺でフトン新調するのと、女郎屋のおやじがフトン新調するのとはワケが違う。女郎屋のおやじは人をつるませて金儲けするためなのだし、われわれの所では坐禅する人に風邪をひかせないためである。坐禅する人とは仏さまなのじゃから、つまり仏さまのフトンである。(69頁)

■坐禅するために食う。坐禅するために寝る。してみれば食うのも寝るのも坐禅することになる。(69頁)

■われわれの本尊は坐禅である。この本尊さまはわれわれ凡夫という一切衆生を、この生肉をヘシマゲテ坐禅させることによって救いとるのである。(69頁)

■坐禅するのは、生死から仏道へのキリカエじゃ。それで「一超直入如来地(いっちょうじきにゅうにゅらいち)」(『証道歌』)とも「坐禅は三界の法にあらず、仏祖の法なり」(『別本正法眼蔵』仏道)とも言う。(69~70頁)

■飢え死するつもりで坐禅しておればいい。「法輪転ずれば食輪転ず」などということをアテにしておるとワケが違う。法輪さえ転ずれば食輪などどうでもいいんじゃ。(72頁)

■とにかく俗情にイロメをつかったのは、みんな禅ではない。

仏法は。人間の考えの特用向きのことではないんじゃ。(72頁)

■安心(あんじん)があって念仏するから念仏である。安心があって坐禅するから坐禅である。

安心がのうてする念仏は念仏ではない。安心がのうてする坐禅は坐禅ではない。

飯を食うのも、ゆきつくところへゆきついた食事ををすればこそ仏行である。(74頁)

■わが宗では「坐禅」が本尊。

非思量が法身(ほっしん)。

「修せざれるにはあらわれず、証せざるにはうることなし」(『正法眼蔵』弁道話)が報身(ほうじん)。

「行も亦(また)禅、語黙動静体安然(ごもくどうじょうたいあんねん)」(『証道歌』)が応身(おうじん)。(74頁)

■「坐禅したら肚ができる」――そんな「肚」なんかどうでもいいというのがハラであり、坐禅である。(75頁)

■ハラをつくるとは、メイメイ持ちの小さな根性がなくなるこっちゃ。(75頁)

■仏教を簡単に言えば無我である。無我とはオノレなしということ。オノレがないから、宇宙いっぱいじゃ。宇宙いっぱいということを、諸法実相と言う。(76頁)

■求めたものは失われる。

求めざる豊かさ――回向返照(えこうへんしょう)、退歩してみれば、求めるものは何もない。逃げも追いもできぬものである。実相は不生不滅、不垢不浄、不増不減なのじゃから。(76頁)

■薬山和尚が坐禅しておった。師匠の石頭大師が、「汝、なにをしとるか」

「なんにもしておりません」

「なんにもしておらんのなら、遊んどるのか」

「遊んどるなら、遊んどるおいうことをしています。遊んどることもしておりません」

「汝、為さずという。この什ニ(なに、漢字変換できず)をかなさざる、という」

「千聖(せんしょう)もまた知らず」

――この薬山の坐禅を、石頭大師は、極力、讃嘆してござるが、まったく「千聖(せんしょう)もまた知らず」という坐禅こそは、途方もなく幽邃(ゆうすい)なものである。

今では速修料を払って、1週間ぐらい坐って、見性たらなんたらいう世界もあるそうじゃが、「千聖(せんしょう)もまた知らず」という薬山禅師の坐禅は、そんなものではないことは言うまでもない。

「千聖(せんしょう)もまた知らざるところ」に坐るのじゃから、――それが祗管打坐である。(77~78頁)

■宗門の坐禅は張り合いがない。「張り合いのいい」のが好きなのは凡夫の性である。

スポーツやパチンコ、競輪など、なんではやるか――勝った負けたで張り合いがいいからじゃ。(82頁)

■無量無辺というものが、この人間の欲に物足りたものであるはずがない。(82頁)

■尽十方ということが、凡夫の思いに物足りたものであるはずがない。(83頁)

■物足りぬ、坐禅を承当するだけである。

物足りぬ、坐禅を身をもって行ずるだけである。

物足りぬ、坐禅を身につけることである。(83頁)

■坐禅ににらまれ、坐禅に叱られ、坐禅に礙(さ)えられ(邪魔され)、坐禅に引きずられながら、泣き泣き暮らすということは、もっとも幸福なことではないか。(83頁)

■ 「坐禅をしている時には、なるほど成仏かもしれませんが、坐禅していない時には凡夫ですか」と言うてきた者がおる。

ではヌスットしている時にはヌスットだが、かれがヌスットしておらん時にはヌスットでないか。またこれからヌスットをしに行くために飯を食うておるのと、これから坐禅するために飯を食うておるのと、これ同じか、これ異か。――ヌスットいっぺんやっただけでも世の中は相手にせん。坐禅をいっぺんやっただけでも坐禅は永劫やったのである。(83頁)

■仏法が宇宙いっぱいなのは、無所得だからである。常精進も無所得なればこそ疲れないのである。(84頁)

■坐禅しておると、よう妄念がおこりますと言うてくる人があるが、妄念がおこるということがわかるのは、波風がおさまりノボセが下がったからである。(84頁)

■妄念を気にするのは、「凡夫」が気にするだけである。(87頁)

■グズグズ言うな。よそ見せんと、ただ坐れ。(87頁)

■「船子和尚、薬山にあること30年、ただこの事をあきらめ得たり」(『正法眼蔵三百則』上)――何をあきらめたか。――「オッと坐禅じゃ」ということをあきらめたのじゃ。(87頁)

■小乗とは自他の心をおこした所にある。小乗の解脱はつくりものである。(90頁)

■仏法のサトリと言えば時間空間いっぱい、天地いっぱいのものでなくてはならぬ。キンカンやホオズキみたいなサトリを1つ2つサトッテも屁でもない。(91頁)

■ええことすると、「ええことをした、した」とベッタリそれがひっつく。

サトレば「サトッタ、サトッタ」と、またこれがベッタリひっつく。

ええことしたり、サトッタりせんほうがええんじゃ。――サッパリしておらねばならぬ。足をおろしてはならぬ。(91頁)

■うっかりと立脚地をさだめてはならぬ。(91頁)

■修行がマチガッテおるのなら、悟りもマチガッテいることは言うまでもない。(92頁)

■非思量とは胸算用なし。(92頁)

■淨穢(じょうえ)という2つがあるなら、淨穢がケンカする。淨穢そのものを超えねばならぬ。(92頁)

■われわれが道を追うのではない。仏道からわれわれが追いかけられているのである。(93頁)

■学問したり、スポーツしたり、サトリだとか迷いだとか――坐禅までサトリのマラソン兢走して、手をつっこむつもりでやりおるから間違ってしまう。

いらいなぶり(もてあそび)なし――そのとき、宇宙とつづいた本来の面目がある。(93頁)

■道を求めると言うても、我見我欲が道を求めているのでは仕方ない。(93頁)

■もの足りようで追いかけるのではなく、いつどこでも「ゆきつくところにゆきついた」境涯が「非思量」である。(94頁)

■仏法は個人の解脱ではない。だから釈尊も「我与大地有情同時成道(われとだいちうじょうどうじじょうどう、山川草木悉皆成仏(しっかいじょうぶつ)」と言われる。

メイメイ持ちのサトリを得ようというのは仏法ではないんじゃ。(94~95頁)

■人間はサトリまでメイメイ持ちをほしがる。(95頁)

■仏法とは無我である。

我とは「メイメイ持ち」ということである。ところが坐禅してまで「メイメイ持ちのサトリ」をひらこうとするから間違う。

メイメイ持ちでないことが無我というんじゃ。(95頁)

■メイメイ持ちの自分だけが、サトリを得、安心を得たいと考えておる。――貴様ひとりのために仏法はあるんじゃないぞ。(95頁)

■うっかりするとメイメイ持ちのものが一番大切なものかと思う。そうして宇宙いっぱいのものを忘れてしまっている。(95頁)

■坐禅しながら仏になろうと思うのは、たとえば故郷に帰るのに、早く帰りたい帰りたいと、汽車に乗っていながら汽車の中でかけだしているようなもんじゃ。(96頁)

■坐禅のとき「作仏(さぶつ)をも図(はか)らぬ」というのが仏祖正伝の祗管打坐である。

それをもし、坐禅の外に、向こうに仏やサトリを置いて、これを追いかけるならば神我外道(じんがげどう)となる。仏を行ずるから「行仏」である。仏を向こうにみとめるなら、すべて神我外道である。(97頁)

■人間的要求を捨てなければ、身心脱落でないことはわかっとる。(100頁)

■仏法というものは不可得じゃ。ツカムものではなく、ハナツものじゃ。それをツカミながら地獄へ行くんじゃね。どうせツカンダッテ、馬糞みたいなものをつかんでおるだけじゃ。ナンゾにするのが流転輪廻のモトである。(100頁)

■仏法はいつでも不可得、無所得。――ところが「何かを求めうる」と思うので、いつの間にやら、マチガッテしまう。(100頁)

■仏道修行は迷いもなし、悟りもなし。――迷いと言うても悟りと言うても、人間沙汰である。悟りと迷いと分別するのじゃから、人間の沙汰なのである。見聞覚知はどこまでも見聞覚知であり、分別揀択はどこまでも分別揀択であって、仏法ではない。仏法は迷いを捨てて悟るのでない。逃げたり追うたりせぬのが坐禅である。(101頁)

■好肉上に「サトッタ」と入墨して歩いたらどうか。

胃を忘れているのが胃の健全なることである。サトリ、サトリと忘れられないのはサトッテおらぬ証拠じゃ。(102頁)

■厳陽(ごんよう)尊者(嗣趙州)、趙州に問う、「わたしは無になりきって何も持っておりませんが、どうですか」

州いわく、「そんなもの捨ててしまえ」

厳いわく、「何にも持っておらんのに何を捨てるのですか」

州いわく、「そんなに持っとらん持っとらんと言うのなら、背負ってけ」

(103頁)

■自分の本当の歸着点はいったい何か。――みんな道連れなし。まったく余人所不見(よにんしょふけん)――自分ギリの自分の行きつく所がなければならぬ。(105頁)

■「一生参学の大事ここにおわりぬ」ということは、仏道が実物となることじゃ。身についてくることじゃ。(105頁)

■祗管(しかん。ひたすら、ただ)ということが大切である。タダする。――何のためにする?――何のためでもない。何の駄賃もない。タダする。(106頁)

■サトリとは泥棒が空家に入ったようなものじゃ。入ってみたものの、盗る物がない。逃げなくともいい。追いかけてくる者もない。――だからはなはだモノタリナイ。(107頁)

■お釈迦さまはおれだけ悟ったとはおっしゃらぬ。有情非情同時成道なのだから。

ところがみんなは、そんな」連帯的サトリでは物足らぬ。個人もちの悟り、ご利益が好き。――つまり「我」が好きなのだ。。(107頁)

■サトリとは決して面倒な所へ行くのではない。当たりまえになることである。(108頁)

■アタリマエ――だから坐禅するよりほかなくなった。(108頁)

■智慧とは、行きつくところへ行ついた判断を、つねに持つことである。(112頁)

■人間で相場のつくようなものなら、相場が狂うに決まっている。相場の狂うものを有為法という、ツクリモノというこっちゃ。

仏とはツクリモノなし。(114頁)

■しずかに落ち着いてよく読んでみれば、マルクスもエンゲルスも「餌の分配」の話でしかない。(115頁)

■月ひとつでも、嬉しいつきもあれば悲しい月もあり、月見酒ということもある。――どれも人間の見る月は業識相応(ごつしきそうおう)の月であって、どれもこれも本当ではない。(117頁)

■新聞ひとつ見るのでも、みんな見る所は違うじゃろう。株式相場を真先に見る奴やら、スポーツ欄を真先に見る奴やら、小説を見るもの、政治欄を見るもの――みんなおのおの違う、人間の思いで見ればみなこのように違う。分別妄想すればみな違うのじゃ。

人間の分別妄想せぬ所ではじめて、万人共通の世界がある。人間の考えでないから、メイメイの見た所ではないからじゃ。

ところが人間という奴は、「考えに考えたうえ」マチガウ。(117頁)

■自分の今、見ている世界を真実じゃと思うておるから間違う。みんなおのおのの業感でながめているのでしかない。猫の見ているのと、わしが見るのとでは違う。便所に入ると、蝿の千分の一ぐらいの小ちゃな虫がおるが、あの虫はいったい何を考えているか。わしと同じじゃない。世界観も社会観も、あの虫とわしとでは違う。――そういう業感から見た見方をすべてやめてしまったところにこそ真実の世界がある。(118頁)

■われわれはウマイとかマズイとか好き嫌い、善い悪い――みんな2つあると思うている。それでは本当に2つあるのかと言うと、本当はそうではない。実物は1つである。そうしてしかも、この1つも空である。(119頁)

■宇宙にものは2つはない。

――それを好き嫌い、善悪、正不正と2つを見るのは、各々業感によって見るからである。それでみんな見る所によって異なるだけである。(119頁)

■われわれ、自主意識の幻覚の中の自分を自分と思うておるから間違う。

霊魂不滅等と、新興宗教はよう言うが、これも自主意識の幻覚の自己でしかない。

本当の自分は、諸仏衆生平等の自性、心仏及衆生是三無差別である。(133頁)

■めいめい持ちの心を自主意識という。(133頁)

■宇宙いっぱいのものを、即今即今、一切につくしてゆくことが三昧である。(146頁)

■仏法では1ギリの1はない。有ギリの有もない。無ギリの無もない。

仏法では一即一切、一切即一であり、有即是無、無即是有である。(146頁)

■だれやらが数学者に「1」というものがあるのかと聞いたら、じつは数学では「1」というものが「あることにして」それから先の話じゃげな。

仏教では「1」というものはない。「2は1によってあり。1もまた守ることなかれ」――一即一切、一切即一である。(146頁)

■どこでも天地いっぱい。いつでも永遠。(146頁)

■人生のすばらしい一刹那を、いつでも今ここに活動することが、仏道の「行」ということである。(146頁)

■安楽とは「よろこび」「たのしみ」「おちつき」であると面山和尚が言っておる。ゆきつく所へゆきついたのが安楽である。

「することをまっすぐにする」のが安楽であり、おちつきである。(147頁)

■すべてとりあわぬのが観無常である。(147頁)

■宗教として大切なことは、われわれ自身の生き方ということでなくてはならぬ。(168頁)

■人生観と関係のない宗教なんかペケだ。(168頁)

■ヨコのつながり、タテのつながり――こんなツナガリがあるのは、みんな仏法ではない。こんなつながりはもともと絶対としてあるものではない。それをあると思うてアテにするのが凡情じゃ。(中略)

人間はこんなタテ、ヨコのつながりで、泣いたり笑ったり怒ったり悲しんだり苦しんだりしておるばかりじゃ。流転とは、こんなヨコやタテの連絡をアテにし、今をおろそかにしてしまっている生活のこっちゃ。ヨコ、タテの連絡で「ありゃこりゃ」するところを書くのが文芸というもので――だから、そんなものがなんにもない道元禅師などは、小説のタネにはならぬ。

こんなヨコ、タテのつながりは、すべて世間というもので、――こんな「ヨコ、タテのつながりのない、今ぎり、ここぎり」が坐禅である。そして「ヨコ、タテのつながりなし」が諸法実相と決まっているのである。(169~170頁)

■この世の中では大きいか小さいか――めいめい勝手なモノサシで測って言うから大騒ぎとなる。仏教では大小広狭(こうきょう)無礙(むげ)自在という。――モノサシをもって大きい、小さいを言うのではない。(170頁)

■仏教は無量無辺、――それゆえ、もし無量無辺を度外視して仏教を知ろうとしたら全然ダメである。(170頁)

■ババンチ(婆んち)が「ありがたい」と言うのがおかしゅうてかなわん。なんぞ雀の涙ぐらいの効能功徳でもあると、すぐ「ありがたい」と言いおる。「ありがたい」というのが第一まちがいじゃ。自分を標準にして「ありがたい」と言うのじゃから。――仏をアテにして、なんぞウマイことしようと思うておる。(171頁)

■自分というものは自分をもちこたえてゆくことはできない。自分が自分を断念した時かえって宇宙とつづきの自分のみとなる。(176頁)

■メイメイ持ちがなくなったところを、諸法実相とも言い、悉有仏性とも言う。(176頁)

■尽十法界自己光明――

おれとは尽十法である。おれとは、がまぐちの中をセセッているような小さなものではない。(176頁)

■「この身は尽十法界なり」――ここまで自信をもっていないとシッポがでるぞ。ヤキモチやいたり調子づいたりシッポが出るぞ。(176~177頁)

■思うても思わいでも尽十法界である自己を信ずるのが信心というものである。この信心だけが、絶対くたびれることのない精進でもある。(177頁)

■仏道は自己の仏性を信ずることである。(177頁)

■われわれみずから、知っても知らいでも、仏性を持っている。つまり諸法実相をもっておる。(177頁)

■実相は始末がついている。

迷う張り合いがない。(177頁)

■ちっとも「ユガメラレテいない自分」、ちっとも「呆(ぼ)けさせられていない自分」を学ぶことが仏道というものである。(177頁)

■「無常を観ずることを菩提心と名づく」と『学道用心集』にはある。ところでまた「菩提とは、如実に自分を知る」ことじゃと、『大日経』には言うておる。つまり「無常を観ずる」ことが、何より「実のごとく自心を知る」ことじゃ。(178頁)

■無我とは、阿呆ということではない。宇宙いっぱいということである。(178頁)

■無我を裏返して言えば諸法実相である。(178頁)

■無我、無心と言うてもべつにボーッと意識がなくなるということではない。

無心とは必然に反抗せぬことである。つまり宇宙とのつづきに服従することだ。

宇宙とのつづきで働くことである。(178頁)

■われわれは自己でありながら宇宙いっぱいであり、宇宙いっぱいでありながら自己である。――唯有(ゆいう)一乗法、無二亦(やく)無三(『法華経』方便品)というのはそのことである。(179頁)

■1滴の水が大海に入り、1塵が大地に埋まる時、1滴の水はもはや大海であり、1塵はもはや大地である。(179頁)

■宗教の理念が最高潮までいった時、「天地いっぱいの自己」という仏教までゆくのである。(179頁)

■思想とは「すべて出来上がったうえでの話」でしかない。仏法とは「すべて出来上がる以前」のことである。(182頁)

■宗教は思想ではない。修行するものである。(182頁)

■宗教行とはモノつまり実物である。効能書ではない。(182頁)

■仏法をウスボンヤリさせてはならぬ。(182頁)

■ややもすると、仏法を、実物と関係のない缶詰めにして持っていようとする。(183頁)

■仏法は書物ではない。経蔵にいくらお経が積んであっても、人間がのうては何にもならぬ。人間と人間でなければならぬということは、「仏法が行である」ということだ。(183頁)

■概念の中身は時々刻々に変わる。固定したものは何もない。だから『般若心経』には、無眼耳鼻舌身意とあり、五蘊皆空とある。また見渡すかぎり一切のものは、1つとして同じものはない。どの人の顔も違うように一切別々じゃ。(183頁)

■色即是空、空即是色と――言葉で言えばすでに順序がつき、言うている間に片方がおくれる。実物は同時じゃ。実物とは行である。(183頁)

■実物さえあれば言葉は自由自在に表現できる。しかし言葉は実物ではない。言葉の中に実物があるなら、「火、火」と言うたら舌は火傷し、「酒、酒」と言うたら酔っぱらうじゃろうが、しかしそうはゆかんじゃないか。(183~184頁)

■平言葉で言えぬ奴は、学問がこなれておらぬからじゃ。(184頁)

■世界中の思想というが、凡夫と凡夫の考えの違いでしかない。どうせ「ともに是れ凡夫なるのみ」じゃ。(184頁)

■世間では「信心」というと、仏さんにオベッカ言うことぐらいに思うておる。――「ほかの者はどうなってもようございますが、私だけはどうぞ極楽の特等席へ」――そんなこと願うのは信心ではない。

「信」とは「澄淨」の義であり、「心」とは三界唯一心である。つまり三界唯一心の「心」に澄み浄くなること、「実のごとく自心をしる」ことが「信心』というものである。(188頁)

■信とは「澄み浄き」ということである。ノボセの下がったことである。それをノボセ上がることを信だと思って、一所懸命ノボセ上がろうとするが、なかなかノボセられぬ。そこでノボセタ真似している奴さえいる。(188~189頁)

■凡夫根性のコワバリをよくもみほぐすこと。信心とは「澄み浄き」ということで、そういう波風がしずまることである。(190頁)

■信心とは身体健全、商売繁盛、家運隆盛、子孫繁栄を願うことではない。信とは澄浄の義で、つまり言うたら、澄みきよく、濁りのやんだこと、ノボセの下がったことである。――正気になることじゃ。(190頁)

■メイメイ持ちの話ならナンデモナイ。宇宙いっぱいが問題である。メイメイ持ちなら、どんなサトリをひらこうがエラクなろうが、よいことをしようが、みんな迷いの一環である。南無とは「メイメイ持ちでないところに帰命(きみょう)」することである。(191頁)

■菩提心をおこすということは「自未得度先度他」(おのれいまだ度らざるさきに、他を度さんとねがうこと)であり、われと一切衆生と別々でないことである。(202頁)

■われのほかに神を見れば神我外道となる。神は我でなければならぬ。万物をつくった神がほかにあるなら仏法なはならぬ。(202頁)

■凡夫は業にひかれ、この業感からこの世を見、おたがい腐れ合うて生々世々(しょうじょうせせ)ひきつづく。これが流転輪廻である。

それで今この業のままで、この業を解脱するよりほかはない。この業感のメガネをはずしてみると、釈尊が成道のとき仰せられたように「大地有情同時成道、山川草木悉皆成仏」なのじゃ。

それゆえ釈尊のてまえひとりも迷ってはおらぬ。ところが衆生は自ら迷っていると思うている。そこを自覚させようというのが、釈尊の慈悲であり、仏の教えである。(203頁)

■凡夫はひがんでおるもんじゃから、やれ餓鬼だの、畜生だの、地獄だの――妙なクセがこびりついて、クセだけになってしまっておる。(203頁)

■成仏からこぼれてしまうようなスキマがないと知ることが一切知である。(204頁)

■阿弥陀も観音も薬師も文殊、普賢もみんなお釈迦さまの内容の表現である。(205頁)

■釈迦というものは、どういうものかと言うと、白紙というより、青空のように透明で、「一切衆生とベタ一面つづき」ということである。(205頁)

■十万億土とは「自分から自分への距離」である(205頁)

■仏法の根本精神は「個人もちなし」(無我)ということである。(222頁)

■無我とは放心していることではない。大乗の菩薩行とはウッカリしておらぬことだ。

小乗では阿呆がいいのだが、大乗は阿呆を修繕するこっちゃ。(222頁)

■世界中のあらゆる人から自分が見られて、どう思われるか――よく工夫しなくてはならぬ。金持から見たらどうか。貧乏人から見たらどうか。西洋人から見たらどうか。マルクス主義者から見たらどうか。ネール首相から見たらどうか。――あらゆる方角から見て、ハクの剥げないものを持っておらねばならぬ。(223頁)

■久遠の道でなければ真の納得はゆかぬ。久遠の道とは、「無所得の常精進」である。(223頁)

(2013年12月24日)

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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