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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『正法眼蔵』仏性を味わう 内山興正著 大法輪閣

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『正法眼蔵』仏性を味わう 内山興正著 大法輪閣

■この涅槃については涅槃経の獅子吼菩薩品(ししくぼさつぼん)にいろいろ述べられていますが、大切なのは次の2点です。

「涅槃とは、即ち是れ煩悩諸結の火を滅す」

「涅槃とは畢竟帰に名(なづ)く」

梵語では涅槃のことをニルヴァーナといって、火をフッと吹き消すことがもともとの意味だという。われわれの心のなかでは、いつもなんとなしにムシムシしています。そして時々それがトサカに来ちゃってカッとするじゃないか。ムシムシ、いつも何か物足りようとしているのは煩悩、カッとして結ぼれた処は諸結です。そういう煩悩のノボセの火を滅する。いつも何かにつけて物足りようの思いが働くけれど、そういう思いの丸転がしにならないというのが涅槃だ。

そしてそこが畢竟帰「つまり帰する処」だ。澤木興道老師はこの畢竟帰を現代語に訳して、「仏法とは行きつく処へ行ついた行き方を教えるものである」といわれた。これはまったく名訳です。(11~12頁)

■その点坐禅とは、もっとも洗練された人生態度であり、畢竟帰です。要するに涅槃というのは煩悩諸結の火を滅すること――坐禅して、いま事実アタマを手放しすることだ。アタマでしっかり握ってしっかり結ぼれたものをとにかくパッと手放す。そうすると結ぼれが解けて落っこちてしまう、身心脱落(しんじんだつらく)だ。それが結局畢竟帰、つまり帰する処なのです。どんな煩悩にも流されない、この本当の安らい処が涅槃ということである。(12頁)

■ただしかし、「ふつうのクルマ」と、われわれの「自己の人生というクルマ」とでは、少し違ったところがあることも事実です。というのはどういう点かというと、ふつうのクルマではAという地点からクルマに乗り込んで、Bという地点へ行ってそのクルマから降りることができます。それでAからBへの2点間の道を走ったということになります。

ところが自己の人生というクルマはそうではない。オギャアと生まれて自己の人生というクルマの運転台から降りることはできない。いや根本的には、この生まれる死ぬということさえも、自己の人生というクルマの前に展開する1つの風景でしかないのであって、とにかく自己というクルマの運転台から降りることはできません。たとえノイローゼになって、自分はもう自分を生きているような気がしないといってみても、そういう「自分を生きている気のしない自分」を生きるよりほかはないのないのですから。

つまり、この「自己の人生というクルマ」におうては絶対にその運転台から降りることはないのだから、確かに「自己の人生というクルマ運転」しているわけだが、決して「Aというこちら」から「Bというあちら」への2点間の道を走るわけではありません。かえってただ「自己から自己への道」以外にはないのです。

しかもこの「自己の人生というクルマ」においては、目前にいろいろに展開する風景というものが決して自己の人生より外側にあるものではなく、かえって自己の人生の内容です。それでいろいろに展開する風景ぐるみの人生として、いかに適中運転していくかこそが「自己の人生というクルマの道」です。

つまりここに「道」とは決してこちらからあちらへの2点間の道ではなく、「自己の生命実物が自己の生命実物に畢竟帰して生きる」(仏法の為に仏法を修す)という「的運転する」なのです。それで以上いってきた「仏性=第1義空=涅槃空=畢竟帰空=中道」ということを、自己の人生によく当てはめて考えてみると、結局このような「自己の人生において畢竟帰運転をしていく」ことだというべきでしょう。つまり仏性とは、いまもいったように、決して固定した「あるもの」として名詞的に表現されるべきものではなくして、「刻々に自己の人生を畢竟帰運転していく」と動詞的にいうよりほかはない「行」なのです(岡野注)。(17~18頁)

(岡野注;運転しているのは自分だが車は天地一杯の存在の中を走っている。人生は此岸から彼岸への道であるが、彼岸も自己もクルマも風景もすべて世界=内=存在である。仏教が他の宗教と異なる点は、ここのところで、他の宗教はこの世界の外に超越を措定して、それを信じて祈る。行為として「只管打坐」は彼岸と此岸を含めたこの世界の実相を体感する行為で、この世界に対して超越した存在に「祈る」行為とは意味内容の異なる行為なのだ。)

■その点みんな過去から現在、未来と流れる時間のなかに自分も置かれていると思っているが、そこが違う。過去は過ぎ去っていないのだし、未来はいまだ来ないのだからないのだ。では現在だけはカチッとしてあるかのかというと、一瞬前は過去、一瞬後は未来であって、そのような過去と未来にはさまれている現在は少しも幅がない。まったくの無の一点だ。ところがその無の一点のなかに、あらゆるものが展開され、すべての時間を映している。過去を思うというのもいまおもうのだし未来を考えるというのもいまかんがえる。過去も未来も、いまという無の一点のなかに映っているだけだ。

これは接心をやっているとよく分かる。「日長うして太古に似たり」というけれど、朝から晩までただ坐禅をしていてごらんなさい。そうすると時間のなかに私が坐っているのではなく、私が生きているというのが時間として刻々に生み出されていくということがよく分かる。亙古亙今(こうここうこん)の如々だ。(38~39頁)

■ 「かの説・行・証・亡・錯・不錯等も、しかしながら時節の因縁なり。時節の因縁ををもて観ずるなり。払子(ほっす)・拄杖(しゅじょう)等をもて相観するなり。さらに有漏智・無漏智、本覚・始覚・正覚(しょうがく)等の智をもちいるには観ぜられざるなり」

とにかく自己尽有尽界時々を生きているかぎり、あれもこれもであって、たとえ「錯(あやま)」った、間違ったと言っても、間違ってどこへ行くわけではない。そこも自己尽有尽界時々なのだ。

そういう自己尽有尽界が時々する「時節の因縁を観じ」ようと思ったら、能観所観分かれる以前のいまこの実物をもって観じなければならない。「払子」(もとは獣毛・綿などの柔らかい毛を束ねて柄をつけ蚊などを払うもの)とか「拄杖(しゅじょう)」(行脚のときに使う杖)という日常の手元足元の行動で観じていくほかない。

それは「有漏智」(生存競争のための智慧)や「無漏智」(本来具わっている覚(さと)り)や「始覚」(修行して初めて得られる覚り)、「無覚」(一切の知覚分別を離れたもの)や「正覚」(仏の究竟(くきょう)の覚り)などという閑名目、死物では観ぜられるものでない。自己尽有尽界時々というのは刻々にいきいきしているのだ。(50~51頁)

■「時節の若至せざる時節いまだあらず」ということも、どっちへどう転んでも仏性の真只中にあるということだ。だから仏性とは何か手の届かない神秘的なものなんだと、向こう側に置いて考えたら外れてしまう。誰でも彼でも自己尽有尽界時々の生命実物をこうして生きている。(54頁)

■こういうふうにものを分けて考える西洋人の根本に何があるのか振り返ってみると、「主観と客観」あるいは「自分と世界」という対立するものが、絶対相容れないものとして前提されている。西洋哲学の出発点となる認識論の第1ページを開いてごらんなさい。その初端(しょっぱな)に「認識主体」と「認識の対象」の2つが厳然として出てくる。そしてこの両者が関係し合うところに1つの認識経験が起こるという。見る人と見られたものと関係し合うことによって初めて認識ということが体験されるというわけです。

ところが、この西洋認識論の初めになんの疑いもなく置かれている「主観と客観」「自分と世界」「能と所」というもの――じつはこういうふうに分けるのは1つの仮定でしかない。それに気づかないほど当たりまえのこととしてもう前提され切っているだけだ。

そして西洋のレアリズムのレアルとは、こうして2つを予め分けた上での客体の側のことをレアルというのです。ふつうわれわれの日常会話でも「それそこにある実物が……」というように、実物という言葉を向う側に使う。これもすでに「見る」「見られる」の主客を分けた上で、向う側に在るもののことをいっている。

しかしいま私のいう生命実物、仏教でいう諸法実相、真如実際というのはコレではない。決して自他、能所、主客と分けた上での向う側のものではない。(57~58頁)

■だから仏性という絶対一元の大海は「山河大地皆依建立(さんがだいちかいえこんりゅう)、三昧六通由慈発現(さんまいろくづうゆうじほつげん)」として現われてくる。

この絶対一元の仏性海に生きるということは、道元禅師の仏法の根本であるといっていいと思う。

それというのは道元禅師に一生随侍され「正法眼蔵随聞記」を書かれた2祖懐奘禅師は、ご自身の本としてはたった1冊「光明蔵三昧」を書き残されただけですが、澤木老師はこの光明蔵三昧を提唱されるとき、必ず次のような前置きをされたものです。

「懐奘禅師はご開山がすでに正法眼蔵において仏法の全部を説きぬかれていたので、もはや自分としては何もいうことはなかった。しかしながら『ご開山の1番大切な処はここだ』ということだけは、どうしても書き残しておかなければならないというお気持でこの光明蔵三昧を書かれたのである」

その本の初めに次のようなくだりがあります。

「それ光明蔵とは、諸仏の本源、衆生の本有、万法の全体にて、円覚の神通大光明蔵なり。三身、四智、普門塵数の諸(もろもろ)の三昧も、みな此の中より顕現す」

つまり仏法において1番大切なのは、光明蔵三昧だということです。その光明蔵三昧とは、一切諸仏、一切衆生の根本であって、あらゆる働きは皆そこから出てくる。(60~61頁)

■ 『「三昧六通由慈発現(さんまいろくづうゆうじほつげん)」。しるべし。諸三昧の発現(ほつげん)未現、おなじく皆依仏性なり。全六通の由慈不由慈、ともに皆依仏性なり。六神通はただ阿笈(あぎゅう)摩教(注)にいふ六神通にあらず。六といふは、前三々後三々(ぜんさんさんごさんさん)を六神通波羅蜜といふ。しかあれば、六神通は明々百草頭、明々仏祖意なりと参究することなかれ。六神通に滞累(たいるい)せしむといへども、仏性海の朝宗(ちょうそう)に罣礙(けいげ)するものなり』

要するにもう仏性から逃れられない。生命実物から転がり出ようがない。落ちこぼれようがない。落第しようがない。どっちへどう転んでも、私は駄目ですと思おうまいと、みんな仏性という大光明の真只中に生きているということ――これは間違いないことです。これを知っただけでも今日来た甲斐がありますよ。(64~65頁)

注;阿笈摩教――阿含教のこと。

■だから六神通は明々百草頭、明々仏祖意でよさそうなのだけれど、そう「参究することなかれ」というのはなぜか。ここの処を西有禅師の啓迪は面白く説いている。

「神通というとき仏性という借り物はいらぬ。仏祖意などというものをもってきてくっ付けるには及ばぬ」

要するに只管のみということだ。神通といったかぎり神通が事実働いているのであって、もうただ働くだけだ。そこへ仏性とか仏祖意とか余計なものをくっ付けるには及ばない絶対一元のなかでは、その只管よりほかになにもない。(66頁)

■しかし「是」が「何性」だというだけで説きつくされたのではない。「是」のときも仏性だ。「不是」のときも仏性だ。決して不合格は駄目だから合格をねらおうという話ではない。そういう合格不合格ののない処へいかに刻々的中して覚め覚めるか――その畢竟帰運転が仏性だ。

だから「是」といって、一応きまってはいるけれど、それは「何」で無辺際であり、畢竟帰運転としての「仏」なのだ。そしてそういうことさえも手放して、「脱落し」「透脱し」てしまったらもうどっちへどう転んでも御いのち、十方仏土中唯有一乗法という「姓」を名のるほかない。私がいつもいうけれど年とって頭もうろく体もきかず、面倒みてくれる人もなくて、クソまるけになって転がっていようと結構だ。絶対そういうふうになりたくないと考えなくてもいいのです。(84頁)

■「仏法はまさに自他の見をやめて学するなり」(正法眼蔵「弁道話」卷)

これが一番大切なのです。仏道修行に入っても、オレの見をもっていたら何十年やっても駄目だ。オレの考えを捨てないでそこから仏道を見ていたら、どこまで行っても出会わない。自と他、主観と客観、能と所、この2つに見る見方をやめて仏道を学するのが根本だ。いまの「すべからく我慢を除くべし」ということも、「自他の見をやめて」ということです。(136頁)

■普勧坐禅儀の冒頭に「原(たず)ぬるに夫(そ)れ、道本円通(どうもとえんつう)」という言葉があります。私はこれを分かりやすい言葉でなんとか現代語訳しようと思って、ずいぶん苦心した。円通をなんと訳したらいいのか。円というのは丸くて端がないのだから「足し前がいらない」でピッタリする。だけど通というのはなかなかうまくいえない。便所に入りながら――ははあ通じがいいのだな、通じがいいならフン詰まりしていないんだな。それで「足し前いらず、フン詰まりなし」という言葉が出てきた。この無欠無余の円通のことを、いま満月輪の如しというのです。(139~140頁)

■これは大いに満たされてカッカ燃えているような日輪の姿ではありません。どこまでもアタは満たされないで物足りぬまま、無色透明な処にただ澄んでいく。これはいかにも秋の皓々とした満月の姿です。

そういう生命実物地盤にあるかぎり、龍樹という人の業相の姿は隠れてしまう。2つは1つでその1つさえも隠れてしまい、天地一杯の生命から鳴ってくる「法音」だけになってしまう。

『彼の衆(しゅ)の中に、長者子(ちょうじゃし)迦那提婆(かなだいば)といふもの有り、衆会に謂(い)って曰く、「此の相を識(し)るや否や」。衆会曰く、「而今(いま)我等目に未だ見ざる所、耳に聞く所無く、心に識る所無く、身に住する所無し」』

迦那提婆(かなだいば)という人は龍樹尊者の法を嗣(つ)いだ人です。先に「法音のみを聞いて」といい、後で「耳に聞く所無く」というのは、いかにも言葉が矛盾しているようだけれど同じことをいっている。それは天地一杯からの法音のみを聞いているということは、決して感覚的な六識地盤で2つに分けた後の向う側のものを、見たり聞いたりという話ではない。それで「目に未だ見ざる所、耳に聞く所無く、心に識る所無く、身に住する所無し」という。(142~143頁)

■ここで道元禅師のいわれている衆生と仏性のことを、もう少し分かりやすくいまの哲学の言葉でいったらどうなるのか。一切衆生というのはあるかぎりのあるもの、旧約聖書でいうと在りて有るもの、つまりこれは「存在」のことだ。それに対して仏性というのは、行きつく処へ行きついた生命実物に畢竟帰る運転、まさに帰るべき処なのだから「当為(まさに為すべき)」ということだ。

じつはこの存在と当為の問題が、宗教の一番最後のギリギリの問題なのだ。われわれが自分の人生に目覚めそれを意識したとき、この世の歓楽を貪りたいという強烈な欲望とともに、いやそんな朽ち果てるものに身を任すのではなく、もっと朽ち果てない絶対価値こそ求めなくてはならないという気持もまた起こらざるを得ない。いま在ることと、あるべき姿と――この矛盾ですね。パウロがこの悩みを、宗教的に深めて端的に言い表わしています。

「われ中(うち)なる人にては神の律法(おきて)を悦(よろこ)べど、我が肢体のうちに他の法(のり)ありて、我が心の法と戦い、我を肢体の中にある罪の法の下に虜(とりこ)とするを見る。噫(ああ)。われ悩める人なるかな。此の死の体より我を救わん者は誰ぞ」(ロマ書、7の22-24)(177頁)

■ 『仏性これ仏性なれば、衆生これ衆生なり。衆生もとより仏性を具足せるにあらず。たとひ具せんともとむとも、仏性はじめてきたるべきにあらざる宗旨なり。張公喫酒李公酔(ちょうこうきしゅりこうすい、張公酒を喫すれば李公酔ふ)といふことなかれ。もしおのづから仏性あらんは、さらに衆生にあらず。すでに衆生あらんは、つひに仏性にあらず』(189頁)

■ 『百丈山大智禅師、衆に示して云く、「仏は是れ最上乗なり、是れ上々智なり。是れ仏道立此人(りっしにん)なり、是仏有(う)仏性なり、是れ導師なり。是れ使得無所礙風(すとむしょげふう)なり、是れ無礙慧(むげえ)なり』

仏は無上正徧智者(むじょうしょうへんちしゃ)といい、この上のない正しい徧(あまね)き智慧をもっている者。

「最上乗」とは、人間・天上・縁覚・声聞、菩薩の5乗よりも勝れているとということ。ただ、この上ないとか最上乗というのは、比較しての話ではない。そのケタが外れているということです。

「上々智」は無等々智ともいって等しきもののない智慧のこと、上下という比較を絶している。

「仏道立此人(りっしにん)」とは、仏道はこの人より建立するということ。

「仏有仏性」とは、仏それ自身が仏有(う)仏性だという。(194~195頁)

■ 『これすなはち百丈の道処なり。いはゆる五蘊(ごうん)は、いまの不壊身(ふえしん)なり。いまの造次(ぞうじ)は門開なり、不被五陰(ふひごおんげ)なり。生を使得するに生にとどめられず、死を使得するに死にさへられず。いたずらに生をあいすることなかれ、みだりに死を恐怖(くふ)することなかれ。すでに仏性の処在なり、動著し厭却(えんきゃく)するは外道なり。現前の衆縁(しゅえん)と認ずるは使得無礙風(すとむげふう)なり。これ最上乗なる是仏なり。この是仏の処在、すなはち淨妙国土なり』(197~198頁)

■スミレが大人になればスミレの花が咲くのだし、バラが大人になればバラの花が咲く。それぞれの生命実物がそれぞれの生命実物を発現するだけだ。(207頁)

■「一音の法」と出てきますが、真言宗では「阿字本不生(あじほんぶしょう)」といって阿字が万有の根本です。「阿」という1音ですべてを言い尽くしてしまう。(264頁)

■それなのに動のときは仏性があり不動のときは仏性がないと思い、意識するかしないかで「神」(霊妙な働き)があったりなかったりすると思い、知ればこそ仏性があるので、知らなかったら仏性はないと決め込んでいるのは外道だ。仏法としてはいつも思っても思わなくても、信じても信じなくてもという地盤であって、まったく次元が違っている。(266頁)

(2013年11月2日)

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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