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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『正法眼蔵(8)』増谷文雄 全訳注 講談社学術文庫

投稿日:2020-12-02 更新日:

『正法眼蔵(8)増谷文雄 全訳注 講談社学術文庫

供 養 諸 仏(くようしょぶつ)

■開 題

この巻の奥書にも、ただ「建長七年夏安居日」と見える。それは、すでにいったとおり、道元が亡くなってからのことであって、制作や示衆の日付であろうはずはない。それは、懐弉をはじめとする遺弟たちが、師の草稿について書写した日付を記したものに違いあるまい。ただ、この一巻は、さきの「出家功徳」の巻が、さきの制作を書き改めたものとは事かわって、まったく新しい構想のもとに制作されたもののようである。したがって、なによりも、まずその内容について記しておかねばなるまい。

この一巻は、かなり長文のものであるが、その内容は、比較的に簡明であるということができる。道元は、まず、その冒頭に『大毘婆沙(だいびばしゃ)論』(巻76)から一偈を引いて、それに簡単な注釈を加えているが、そのなかにおいて、道元は、「過去の諸仏を供養したてまつり、出家し随順したてまつるがごとき、かならず諸仏となるなり」といっておるが、それがこの一巻の眼目dっwるように思われる。

ついで道元は、『仏本行集(ぶつほんぎょうじつ)経』や『仏蔵(ぶつぞう)経』あるいは『大般(はつ)涅槃経(ぎょう)』の文をながながと引用している。その分量は、それだけですでに、この一巻の半分にも近いほどであるが、それによって言わんとするところは、釈尊もまたその過去世において、供養諸仏のことに力(つと)められたということ。つまり、釈尊もまた諸仏を供養した功徳によって仏となられたのだというのである。

さらに、道元は、いろいろの経論からさまざまの文を引用して、供養の小行もまたかならず作(さ)仏することを語り、また、もろもろの仏たちも、かならず諸仏を供養なさって、その功徳によって仏となったことを説いておる。そして、その結びには、十種の供養と、六種の供養心をあげて、いちいちそれを説明しておる。いうなれば、ただそれだけのことであるが、わたしには、その間にも、なにか晩年の道元の心境がにじみ出ているように思われてならない。(16~17頁)

■仏は仰せられた。

「もし過去世がなかったならば

まさしく過去仏もないであろう

もし過去仏がなかったならば

また出家の受戒もないであろう」

はっきりと知るがよろしい。三世にはかならず諸仏がましますのである。かりそめにも、過去の諸仏には、その始めがあるはずだなどといってはならない。また、その始めがないなどともいってはならない。もしも仏の始終のありなしを勝手に思い計らうようなことがあったならば、それはけっして仏法をまなぶというものではないのである。過去の諸仏を供養したてまつり、出家してその諸仏に随順したてまつりさえすれば、かならず仏と成るのである。諸仏を供養したてまつった功徳によって仏よ成るのである。いまだかって一仏をも供養したことのないようなものが、どうして仏と成ることができようか。因なくして仏と成ることはあり得ないのである。(19頁)

〈注解〉善根;よき果報を得べき善因というほどの意である。

■「仏は舎利弗(ほつ)に告げて仰せられた。

『わたしは、その昔のことを思い出してみると、最高無上の智慧を求めて、二十億の仏にあいたてまつった。それらはみな釈迦牟尼と号した。その時、わたしは転輪聖(じょう)王となって、生涯を終わるまで、仏およびもろもろの弟子たちに、衣服(えぶく)・飲食(おんじき)・臥具・医療を供養したてまつった。最高無上の智慧を求めんがためであった。だが、もろもろの仏は、なおわたしに予言を与えて、汝は来世において、きっと仏と成るであろうとは仰せられなかった。なぜであろうか。それは、わたしになお有(う)所得の心があったからである。(26頁)

〈注解〉有所得;あれをこれをと、分別名利の思いあるをいう。今日のことばでいえば、功利主義的なものの考え方である。

定(じょう)光;定光仏、または燃燈仏という。過去世の仏名である。

辟支(びゃくし)仏;“略”の音写であって、また縁覚、独覚などと訳する。無仏の世にいでて、性寂静を好み、師仏なくして独悟するがゆえに独覚と称す。

光音天(こうおんてん);また極光淨天ともいう。この天界にては、語らんとする時には、口より浄光を発して、それが言語になるという。そのゆえに光音天と名づくという。(33頁)

■いったい、仏を供養するということは、仏たちが必要とする品々を供養したてまつることではない。なにはともあれ、わが命の存する時間を、むなしく過ごすまいと、いそぎ供養したてまつるのである。たとい金銀だからといっても、仏のためには、なんの役にもたちはしない。たとい香華だからといっても、また、仏のためには、なんの役にかととう。だがしかし、それでも受納して下さるのは、ひとえに衆生をして、その功徳を増長せしめようがための大慈大悲というものである。(36頁)

■〈注解〉那由他;「なゆた」とよむ。“nayuta”の音写である。印度の数の単位であって、兆のあたるらしい。

三両;重さの単位であって、一両は一斤の十六分の一であるという。(44頁)

■『法華経』にいう。

「もし人が、塔廟(とうびょう)や、宝像や、画像に対して、華香(けこう)や幡蓋(ばんがい)などを、尊敬の心をこめて供養するとか、あるいは人をして、楽を作(な)し、鼓を打ち、角笛や貝を吹き、そのほか笛・琴・立琴や、琵琶・鐃鈸(にょうはち)など、いろいろさまざまの音楽をなさしめてもって供養するとか、あるいはまた、歓びの心をもって歌をうたい仏徳を讃歎(だん)するとか、乃至は、一つのちょっとした音楽を供養したものまでが、みなよくことごとく仏道を成就してきた。さてまた、たった一つの花をもって画像に供養したものも、だんだんと数かぎりない仏たちに見(まみ)えたてまつるであろうし、あるいは、ただ礼拝しただけとか、ただ合掌しただけとか、あるいはまた、片手をあげただけとか、ただちょっと頭を下げただけで、それで像に供養したというものすらも、やがてそのうちには、数もしれない仏たちに見えたてまつり、またみずから最高の道を成就して、ひろく無数の衆生たちを済度するであろう」

これは、他でもない、三世もろもろの仏たちの理想とするところ、また眼目とするところである。賢者を見てはひとしからんと思うならば、心をはげまして精進しなければなるまい。いたずらに光陰をむなしくしてはならないところである。

されば、石頭無際禅師も仰せられた。

「光陰むなしくわたるなかれ」

このような功徳も、すべてみな成仏するのである。そのことは、過去も現在も未来も変わるところはない。けっして、ああだ、こうだというようなことはない。仏を供養するという因によって、仏と成るという果を成就することは、このようなのである。

龍樹祖師は仰せられた。

「仏と成らんことを求むるならば、一つの偈を賛歎(だん)するとか、一たび南無と称えるとか、ほんの一度香を焼(た)くとか、あるいは、たった一本の花を供えるとか、そんな小さな行ないをしただけでも、かならず仏と成ることを得るであろう」

そんなことを説いたのは、それは龍樹祖師ただ一人であるとしても、なお頭を下げて信ずるがよい。ましていわんや、それは龍樹祖師が、大師釈迦牟尼仏の説かれたことを、正伝して説いておられるところなのである。いまやわれらは、幸いにして、仏道と言う宝の山にのぼり、宝の海に入ったのである。大いに喜ぶがよい。これはきっと、ながい間にわたった供養諸仏の力なのであろう。かならず仏と成るとは疑ってはならない。そうと決しているのである。釈迦牟尼仏の説かれたところは、そのとおりである。

「またつぎに、小さな因にも大きな果があり、小さな縁にも大きな報いがあるということがある。ましていわんや、諸法実相とか、不生不滅とか、あるいは、不不生不不滅とかいうことを聞いて、因縁の業を行じたならば、けっして成らざることはないであろう」

それは、世尊の説かれたことが、疑いもなくそうであったのを、龍樹祖師がしたしく正伝せられたのである。真理のことばを、正伝し相承したのである。たとい龍樹祖師だけの説であったとしても、他の師の説とは比べものにならないところであるのに、なんぞ知らん、世尊の示されたところを、龍樹祖師が正伝し流布せられたのである。われらは、このことばにあい得たことを、大いに喜ばねばならない。この聖なる教えは、むやみに中国の平凡な師のむなしい説などに比べてはならない。(46~48頁)

〈注解〉石頭無際大師;石頭希遷(790寂、寿91)。青原行思の法嗣(ほっす)。無際大師は諡(し)号である。

諸法実相;もろもろの存在のあるがままの相(すがた)というほどの句であって、仏教的真理の基くところはそれなのである。(49頁)

■おおよそ、供養には十種ある。つぎのようである。

一つには、身供養、

二つには、支提(だい)供養、

三つには、現前供養、

四つには、不現前供養、

五つには、自作(さ)供養、

六つには、他作供養、

七つには、財物供養、

八つには、勝供養、

九つには、無染(ぜん)供養、

十には、至処道供養、

このなかで、第一の身供養とは、仏の肉身に対して供養を設けることで、これを身供養という。

第二には、仏の霊廟に対して供養をたてまつることを、支提(だい)供養という。(61~62頁)

■第三の現前供養とは、まのあたり仏身とその霊廟にむかって供養を設けることをいう。

第四の不現前供養とは、まのあたりに見えない仏や霊廟にたいして、ひろく供養を設けることをいう。(70頁)

■第五に、自作供養とは、自分自身で仏ならびにその霊廟に供養することである。

第六には、他人をして仏および霊廟を供養せしめるのである。いささか財物があれば、怠けるというわけではなくて、他人をして施を作さしめるのである。けだし、自他の供養といえば、彼と我とがともにおなじく為すのである。しかるに、自作供養は大功徳を得る。他作供養は大々功徳を得る。そして、自他供養にいたっては、最大の大功徳を得るのである。

第七には、財物を仏および霊廟や舎利に供養することである。その財物には三種がある。一つには、生活のための品物を供養することである。衣服や食物などである。二つには、尊敬をあらわす物品を供養することである。香や華などである。三つには、荘厳のための道具を供養することである。いろいろな宝やかざりなどである。

第八には、勝供養すなわち、すぐれた供養である。それには三つある。一つには、もっぱら種々の供養を設けること。二つには、浄(きよ)らかな信心をもって、仏徳の重きことを信ずれば、おのずから道理が供養にかなうこと。三つには、いわゆる回向心であって、心のなかに仏をもとめて供養を設けることである。

第九には、無染(ぜん)供養である。無染すなわち汚れのないということにも二つある。一つには、心の無染である。心において一切の過ちを離れることである。二つには、財物の無染である。その施す財物において、法にあらざる過ちを離れることである。

第十には、至処道供養である。つまり、供養がおのずからその果にいたることを、至処道供養というのである。仏果すなわち悟って仏となることは、とりもなおさずその到るべき処であり、供養の行はよくかしこにいたらしめる。ゆえに至処道と名づけるのである。その至処道供養を、また法供養と名づける。あるいは、行供養ともいう。そのなかに三つある。一つには、財物供養、これも至処道供養であるとする。二つには、随喜供養、これも至処道供養である。そして三つには、修行供養、これもまた至処道供養である。(70~71頁)

■また、つぎに、供養する心には六種がある。

一つには、福田(でん)無上心である。いわゆる福田のなかでも最上のものを生ずるのである。

二つには、恩徳(どく)無上心である。一切の善と楽とは、すべて三宝によって生まれてくるのである。

三つには、一切の衆生の最勝の心を生ずること。

四つには、優曇偈のごとく遇いがたき心である。

五つには、三千大世界にもめったにない独一の心である。

六つには、すべて世間においても、また出世間においても、よく依るべき道理をそなえた心である。けだし、如来は、よく世間のことにも、出世間のことにも通じられて、衆生のために依るべき処となるからである。これを具足依義、すなわち依るべき道理をそなえているというのである。

この六つの心は、たとい少しであっても、これをもって三宝に供養すれば、よく数かぎりもしれぬ功徳を得ることができる。ましていわんやその多きにおいてをやである。

このような供養は、かならず誠心誠意をもっていとなむがよろしい。けだし、それらはもろもろの仏たちのかならず修してこられたところだからである。そのよってきたるところは、あまねく経や律のあきらかに語るところであるが、また仏祖たちがじきじき正伝してこられたところである。つねに師僧に仕えて労に服する年月は、とりもなおさず供養の時なのである。だから、肖像や舎利を安置し、供養し礼拝し、塔を建て廟を建てる仕方も、ひとり仏祖の家にのみ正伝している。仏祖の流れを汲むものでなくては、正伝を受けることができないのである。また、もし法のままに正伝せられなくては、正伝を受けることができないのである。また、もし法のままに正伝せられなくては、その仕方が間違うであろう。その仕方が間違がったのでは、その供養は本物にならない。供養が本物でなくては、その功徳もいい加減のものとなる。だから、かならず法のままの供養の仕方の正伝を受けるがよい。令韜(とう)禅師は六祖慧能の塔のほとりに侍して幾年月を送り、また、その六祖慧能は、なお行者(あんじゃ)であったころ、昼も夜もたえず米を碓(つ)いて衆に供したというが、それらもみな法のままなる供養であった。それらはほんの一、二例であって、なおいろいろとあげる暇もないが、ともあれ、このように供養するがよいのである。(72~73頁)

〈注解〉支提(だい);“caitya”の音写。つぎの説明にもあるように、塔婆とも混用せられるが、その範囲はもっとひろく、むしろ廟というところであろう。

南嶽思大禅師;南嶽慧思(577寂、寿64)である。中国天台の第二祖である。大禅師号を賜わった。

波斯匿(はしのく)王;釈尊と同時代の、拘薩羅(こうさら)国の王であった。

有(う)部;“Sarvastivada”を音写して薩婆多となし、訳して説一切有部といい、さらに略して有部となす。

盧行者;六祖慧能のことである。行者とは、禅林にあって雑役に服するものであって、六祖はもとその姓を盧氏といったのである。六祖は五祖弘忍のもとにあって、しばらく推房にあって米つきをしていたことがよく知られている。(73~75頁)

帰 依 三 宝(きえさんぽう)

■開 題

この一巻、「帰依三宝」の巻の巻末には、つぎのような奥書の一文が見える。

「建長七年乙卯夏安居日、以先師之御草本書写畢。未及中書清書等、定御再治之時、有添削歟、於今不可叶其儀。仍御草如此云」

それを、わたしは、現代語訳においては、できるだけ原文の気持ちをたもつようにと、ほぼ訓点読みのままの文をもって訳しておいた。つぎのようである。

「建長七年夏夏安居日、先師の御草本によっいぇ書写しおわる。いまだ中書(なかがき)、清書(きよがき)等に及ばず、さだめて御再治の時には、添削あるべきか。今においてはその儀叶うべからず、よって御草かくのごとしというのである」

建長七年(1255)といえば、いうまでもない、道元が亡くなってから二年目のことである。それについては、すでに言及したこともあったが、いつも師の草稿を書写する役を引き受けていた懐弉は、宝治元年(1247)から、新寺創建のため豊(ぶん)後に下向して、数年のあいだ留守であったらしい。それが、師の病のことを聞いて、いそぎ帰山したのが、どうやら建長五年の春のことであったらしい。だが、やがて、永平寺の第二世におされたり、また、師の悲しい入寂に遇うということもあって、自分の留守中の師の草稿を書写する仕事は、とうとう建長七年の夏案居日までのびのびとなってしまったらしい。

いま、あらためて調べてみると、その建長七年の夏安居日に書写されたという巻々は、あわせて七本に達する。そのなかで、この「帰依三宝」の巻と、そのつぎの「深(じん)信因果」の巻には、いまもご覧になっていただいたように、「いまだ中書、清書等に及ばず」といい、「御再治の時」のなかったことを痛み悲しんでいるのである。

ああそうであったか、ではと、もう一度あらためてこの「帰依三宝」の巻を読んでみると、なるほど、この巻の文章は、道元の文章にしては、しごく淡々としているように思われる。お若い時のような鋭気の颯爽たるところもない。あるいは、前にも記したような「外典の美言」や「対句韻声なんど」もまったく見当たらない。これが、「思う儘の理を顆々(かか)と」書いたというものであろうかと思われる。そして、そのような傾向は、この巻のみに限ったことではなく、むしろ、この前後の巻々を通じての傾向であるように思われる。(78~79頁)

〈注解〉仏陀耶;“Buddha”の音写である。だが一般には仏陀と音写し、仏陀耶と音写することは稀である。

達磨・曇無;達磨は“dharma”の音写であり、曇無は“dhanma”の音写である。いずれも法と訳されるが、前者はサンスクリットであり、後者はプラクリットであるつづいて「梵音の不同なり」とあるのは、そのことなのである。

無記;“avyakrta”の訳、なお善とも悪とも記別していうべからざるをいうことばである。

阿若憍陳如(あにゃくきょうちんにょ);彼は仏の説法を最初に理解し、最初の仏弟子となった人物であり、五人というのは、阿若憍陳如をいれて、仏の最初の説法を聴聞したいわゆる五比丘を意味している。彼らは、仏のもとにあって、最初の僧伽を形成した人々であるので、ここに僧宝というのである。(88頁)

■世尊は仰せられた。

「人々は苦におわれて、しばしば山中にかくれる

あるいは園林、森林、あるいは樹下、塔廟にかくれる

されどそれらは隠れ場として、勝れたものではあるまい

そこに隠れたからとて、よく苦を免れ得ることなし

もろもろの仏に帰依し、法と僧とに帰依するものは

よく四つの真理により、智慧をもて観察して

苦を知り、苦の生起を知り、苦の滅尽を知り、

八つの聖道を知って、ついに安らけき涅槃にいたる

この帰依こそは最勝なり、この帰依こそは最善なり

かならずこの帰依により、苦を免れるがよい」

世尊はあきらかにあらゆる人々のために示しておられる。人々はもろもろの苦におわれて、あるいは山神・鬼神などに帰依し、あるいは外道の塔廟に帰依するが、それはつまらぬことである。彼らはそれによって、けっしてもろもろの苦を免れることはない。いったい、外道の邪教によれば、あるいは、牛をまね、鹿をまね、羅刹(らせつ)をまね、鬼をまね、瘂者をまね、聾者をまね、狗(いぬ)をまね、雞(にわとり)をまね、あるいは灰をその身に塗り、あるいは長髪の姿をなし、羊をもって時をいのり、まず呪文をとなえたのちそれを殺す。あるいは四月のあいだ火に事(つか)え、七日のあいだ風に事える。あるいはおびただしい花をもって、もろもろの天神を供養し、もろもろの願うところは、これによって成就するという。だがしかし、こんなことがよく解脱の因となるなどとは、とても考えられないことである。智者の称讃するところではなく、ただむなしく苦しんで、まったく善い報いとてはないであろう。

こんな具合であるので、ただ漫然と邪道に帰することのないように、はっきりと研究しておくがよい。たといこれらの仕方とはちがう方法であっても、その道理が、もしそれらの道理に符合するようであるならば、それにも帰依すべきではない。この人身は得ることは難く、仏法はあうことはまれである。いたずらに鬼神の眷族として一生をわたり、むなしく邪見のともがらとなって生涯をかさねたならば、こんな悲しいことはあるまい。はやく仏法僧の三宝に帰依したてまつって、もろもろの苦を解脱するばかりでなく、また最高の智慧をも成就するがよろしい。(94~95頁)

■『稀有経』にいう。

「四天下ならびに六欲天を教化して、みなよく四果を得しめようとも、それはなお一人が三帰依を受ける功徳にはおよばないであろう」

四天下とは、東西南北の四つの洲のことである。そのなかでも、北洲はなお仏法の教化のいまだ及ばざるところである。そこのすべての人々をも教化して、すべて聖者とならしめたというならば、それはまことに稀有のことなりと申さねばならない。だがしかし、たといそのようなことを成就し得たとしても、なおよく一人を教えて、三帰依を受けせしめる功徳には及ばないであろうというのである。また、欲界の六つの天界には、得道の人はまれだということである。だが、そこの住み人たちをしてよく四果を得しめようとも、なおよく一人をして三帰依を受けしめる功徳には及ばないであろうとするのである。(95~96頁)

■『増一(いつ)阿含経』にいう。

「一人の忉利天(とうりてん)の住み人があって、まさに五つの衰相を現じ、猪腹のなかに生じようとしておった。それを憂え悲しむ声は、天帝釈にまで聞こえた。天帝釈はそれを聞くと、彼を呼びよせて告げていった。

『そなたは三宝に帰依するがよろしい』

そこで彼は、すぐさま教えのようにしたところ、たちまち猪に生まれることを免れた。仏は偈を説いていった。

『もろもろの衆生は仏に帰依すれば

三つの悪道に墜つることなし

煩悩つき、人間・天上にあって

やがて涅槃にいたるであろう』

すなわち彼は、三帰依を受けると、やがて長者の家に生まれ、また出家することを得て、ついに最高の智慧を成ずることを得たという」

いったい、帰依三宝の功徳は、はかり知り得べきものではない。いわゆる無量無辺なのである。(96~97頁)

■思うに、仏に見(まみ)えるという功徳は、かならず三帰依によるものである。しかるに、われらは盲目の龍でもなく、畜生の身でもないけれども、なおじきじきに如来を見たてまつることもなく、また仏にしたがって三帰依を受けることもできなかった。これでは、仏に見(まみ)えるというには、なお遥かなりとしなければなるまい。恥ずかしいことである。しかるところ、いま世尊はみずから三帰依を授けられたのであるから、この三帰依の功徳が甚深無量であることはあきらかである。だが、また、天帝釈は野牛を拝して三帰依を受けたという。それは三帰依の功徳は、いつでもはなはだ深いものだからである。(101頁)

〈注解〉六欲天;三界のうち、欲界に属する六重の天であるという。四王天や忉利天などもそれである。

四果;小乗における証果を四位にわかてるものである。預流果(よるか)・一来果・不還果(ふげんか)・無学果がそれである。

忉利天子;忉利天は三十三天、欲界六天の第二天である。帝釈の住むところ、その天子とは、その天界の住み人であるらしい。

五衰;天人の五衰である。天人の死せんとするときに現ずる五つの衰相である。

三悪道;また三悪趣という。地獄・餓鬼・畜生の三界は、悪業に引かれて趣き生まれるところであるので、三悪道というのである。

毘婆尸仏;過去七仏の第一仏。(102頁)

■いったい仏教者たるものの仏道修行は、かならず、まず十方の三宝を敬礼したてまつり、十方の三宝をお迎えしてその御前に焼香し散華して、さてそれからもろもろの行を修するのである。それがとりもなおさず古聖先徳ののこされた範例なのであり、仏々祖々のふるくからの作法である。もしも、帰依三宝の作法をいまだかつて行わないなどというものがあったならば、それは外道の教えであると知るがよく、あるいは天魔の教えだと知るがよい。仏々祖々の教えには、かならずそのはじめに帰依三宝の儀式作法があるのである。

正法眼蔵 帰依三宝

建長七年夏案居日、先師の御草案によって書写しおわる。いまだ中書・清書(きよがき)に及ばず。さだめて御再治の時には、添削あるべきか。今においてはその儀叶うべからず、よって御草かくのごとしというのである。(111頁)

〈注解〉釈摩男;摩訶男(まかなん)のことである。彼は仏陀の一族であったので、釈を冠するのである。彼は一家の事情によって出家することを得ず、在家信者として仏教に帰依したという。

一分優婆塞;一分は「いちぶん」と読む。戒を受けるとき、全部の戒を受けず、一戒もしくは多戒を受けることを、一分受もしくは一分戒といい、その一分戒を受ける菩薩を一分菩薩という。一分優婆塞もそれに準じて考えられる。

初果;いわゆる小乗の四果のうちの第一の預流果(よるか)をいう。三界の見感を断じて、はじめて聖者の流れに入った境地であるという。

深 信 因 果(じんしんいんが)

■この一段の物語は、『天聖(しょう)広燈録』にある。しかるに、仏道をまなぶ人々も、とかく因果の道理をあきらかにせず、いたずらに因果を無視するような誤りを犯すのである。可哀そうに、末世の風ひとたび吹ききたって、仏祖の道もおとろえたのであろうか。いまいうところの不落因果、すなわち因果に落ちずとは、それはまさしく因果の否定であって、それによって悪道に堕ちたのである。また、いうところの不眛因果、すなわち因果に眛(くら)からずとは、それはあきらかに深く因果を信ずるのであって、だからしてそれを聞いただけで悪道を脱することができたのである。それはもう不思議に思うべきでもなく、また、疑って頭をかしげてみるべきこともない。しかるに、近代の参禅して仏道をまなぶという人々も、またたいてい因果を否定しているようである。では、いったい、なにによってそうと知ることができるのか。それは、いまいうところの不落と不眛とは、おなじことであって、別に異なったことではないと思っているからである。それによって、ああ因果を否定しているのだなあと判るのである。(119頁)

■第十九祖鳩摩羅多(くもらた)尊者は仰せられた。

「かりにいえば、善悪の報いについては、三つの時がある。いったい、人はただ、仁なるものが夭折し、暴なるものは命ながく、道にそむくものが吉にして、義(ただ)しきものが凶なるを見て、たちまち因果を否定し、罪とか福とかいうは虚しいことだという。まるでそれが、影の形にそい、響の音にしたがうがごとく、毫釐(ごうり)といえども違(たが)うことなきものだということを知らない。それは、たとい百千万の劫を経ても、またけっして摩滅することのないものである」

それで、むかしの仏祖はけっして因果を否定しなかったことが、よく判るではないか。いまの後進者が、まだ仏祖の御教えを知らないというのは、勉強が足りないというものである。勉強が足りないくせに、みだりに人々の善知識などと自称するなどとは、人々をだますものであり、学者の風上にもおkrない代物である。汝たちはけっして、因果否定の趣きをもって、後学後輩のために語ってはならない。それは邪説である。けっして仏祖の法ではない。それはただ、汝らの不勉強によって、そんな間違いに堕ちたのである。(122~123頁)

■だが、近代の宋朝にあって禅をまなぶ人々の、もっとも愚かなところはといえば、それはもう何よりも、不落因果を邪説だと知らないことにある。彼らはいま、如来の正法の流通するところに生まれ、しかも仏祖より仏祖へと正伝する仏法に遇いながら、なお因果を否定する邪(よこし)まのともがらとなるなど、なんとまあ可哀そうなことではないか。禅をまなぶ人々は、なによりもまずいそいで因果の道理をあきらかにするがよろしい。いま百丈禅師の不眛因果という道理は、因果にくらからずというのである。だからして、それはあきらかに、善因を修すれば善果を観ずるということであって、それがほかならぬ仏祖たちの道なのである。そもそも、仏法というものは、なおあきらかに納得できないうちには、みだりに人々のために説いてはならないのである。(124頁)

〈注解〉修因感果;「因を修め果を感ず」である。つまり、善因を修めて善果を感ずるのである。それが仏教だといっておるのである。(125頁)

■龍樹菩薩は仰せられた。

「もし外道の人のように、世間の因果を破るならば、すなわちいまの世ものちの世もないであろう。またもし出世間の因果を破るならば、すなわち三宝も、四諦も、沙門の四果もないであろう」

はっきりと知るがよろしい。世間ならびに出世間の因果を破るのは、外道なのである。いまの世我ないというのは、その身はちゃんとここにあるけれども、その性(しょう)はひさしき以前から悟りに入っているというのである。性とはすなわち心であって、心は身とはおなじでないとするからである。そのように考えるのが、すなわち外道なのである。あるいはまたいう。人が死ぬる時には、かならず、はてしもない性に帰する。仏法を修め習わなくってもそのようにして自然の悟りの海に帰するのであるから、べつに生死(しょうじ)の繰り返しというものはない。だから、のちの世などというものもないというのである。これを断見の外道という。

たといその姿は比丘に似ていようとも、このような邪(よこし)まの考え方をしているようでは、それは断じて仏弟子ではない。まさしくそれは外道なのである。いったい、因果を否定するから、いまの世ものちの世もないなどという誤(あやま)ちをおかすことともなるのである。また、因果を否定するのは、真の善知識にまなばないからである。久しく真の善知識に参じてまなぶ人には、そんな因果を否定するなどという邪まの考え方はあり得ないのである。この龍樹祖師のめぐみふかい教えは、ふかく信じ入って頂戴するがよろしい。(126~127頁)

■はっきりと知るがよろしい。因果を否定してしまっては殃(わざわ)意を招くこととなるであろう。むかしは、先徳たちはみな因果をはっきりと知っておられた。近世では、後進たちはみんな因果にまようている。だが、たといいまの世であろうとも、やはり、菩提心をはっきりと発(おこ)して、仏法のために仏法をまなぼうとするものは、先徳たちのように因果をはっきりと知るがよろしい。因もない、果もないなどというものは、とりもなおさず外道にほかならない。(128頁)

〈注解〉;性(しょう)は不改の義。それによって本質もしくは本体というほどの意をあらわす。すなわち、人間の変わらぬ本性である。

断見;常見の対語。たとえば、人の一たび死すれば、そのままもはや生ずることなしと決めてしまう判斷をいう。

永嘉真覚大師玄覚和尚;永嘉玄覚(713寂、寿49)。六祖慧能の法嗣(ほっす)。真覚(がく)大師と称せられた。その著に『証道歌』がある。

■これらを、いまの大宋国の連中は、いっぱしの祖師だと思っている。だがしかし、この宗杲の考え方などは、まだ仏法でいう方便にもなっていない。ややもすれば自然(じねん)外道の考え方ににた趣きがある。いったい、この物語について頌古、粘(ねん)古をこころみたものは、じつに三十人あまりにたっしている。だが、そのなかの一人だって、不落因果というのは、それは因果の否定ではないかと疑ったものもない。なんということだ、彼らは、因果ということも知らずに、ただいたずらに紛々たるなかに、一生をむなしゅうしているのである。仏法をまなぶには、なによりもまず第一に、因果をあきらかに知らねばならない。その因果を否定するようでは、おそらくは猛烈な邪見をおこして、まったく善根などのない人間となってしまうであろう。

いったい因果の道理というものは、歴々として明らかに、まったく疎漏のないものである。悪を造るものは堕(お)ちる。善を修するものは昇る、それが一毛一厘もたがうことがないのである。もしも因果が否定され、なんの甲斐なきものとなってしまったら、諸仏の出世もあり得ないのであり、祖師の渡来もあり得ないのであり、また、衆生の仏に見(まみ)え法を聴聞するなどということも、すべてあり得ないこととなってしまう。(133~134頁)

■その因果の道理は、孔子や老子などの知るところではなく、ただ仏祖の方々の知って伝えるところである。また、末法にして仏法をまなぶものは、幸いうすくして、正師にあわず、正法を聞くことなく、そのために、因果のことをよく知らないのである。だが、もし因果を否定すれば、その咎(とが)によって、果てしもなく殃(わざわ)いを受けることとなる。因果否定のほかには、他になんの悪をも造らないとしても、この考え方そのものがはなはだ悪いのである。

ということであるから、仏法をまなぼうとする人々は、まず菩提心をおこし、ついで、仏祖の大恩にむくいんとするには、すみやかにもろもろの因もろもろの果をこそ知るがよいというのである。

正法眼蔵 深信因果

建長七年夏案居日、御草案をもってこれを書写す。いまだ中書・清書に及ばず。さだめて再治の事あるべし。しかりといえどもこれを書写す。懐弉(134~135頁)

〈注解〉最後に、道元は、この大修行の公案をとりあげてたたえた三つの偈をあげる。その第一は、宏智(わんし)古仏の頌古(『宏智広録』巻二、頌古第八則)であり、その第二は、夾山(かっさん)の圜悟克勤(えんごこくごん)の頌古(『圜悟語録』巻10、頌古)である。だが、道元には、そのいずれも意に充たないものであったらしく、それらを批判してもって結びとする。

宏智古仏;『わんしこぶつ』と読む。宏智正覚(がく)(1157寂、寿67)または天童正覚という。丹霞子淳の法嗣(ほっす)。

四悪趣;六趣のうち、いまいった天上と人間をのぞいて、その他の四つの世界を指さしている。すなわち、地獄・餓鬼・畜生・修羅の四つの世界である。

夾山圜悟禅師克勤和尚;圜悟克勤(1135寂、寿73)。5祖法演の法嗣。

常見;断見の対。たとえば、人は死してもなお我は永久に滅せずなどと考える考え方をいう。

杭州径山大慧禅師宗杲和尚;大慧宗杲(だいえそうこう)(1163寂、寿75)。圜悟克勤の法嗣。

憨布袋(かんほてい);おろかなる布袋和尚の意である。あの太鼓腹で、楽天的な生き方をしていた乞食坊主であろ。(135~136頁)

四 禅 比 丘(しぜんびく)

■開 題

この一巻も、ここ数巻とおなじように、その巻末には、「建長七年乙卯夏安居日、以御草本書写畢。懐弉」との奥書がある。すでにいったとおり、道元没後第二年目の夏案居中に、たの数巻とともに書写せられたものと知られる。その事情についても、すでにいったところと異なるものはないようである。

さて、この一巻は、かなり長大な一巻ではあるが、その内容はきわめて簡単であるといってよかろう。

まず冒頭に、『大智度論』巻十七からの引用文が、どかりとおかれている。それがいうところの四禅比丘のものがたりである。この四禅比丘のことは、これまでにも、すでに数次にわたって、あるいは善星比丘の名をもって、あるいは四禅比丘の名によって言及されたことがあるが、その詳細なる全貌が語られるのは、これがはじめてのように思われる。

その物語の内容は、その長大な引用文によってよく知られるはずであるから、さらに繰り返していう必要はないのであるが、道元はさらにそれを、他のいくつかの物語と比較しながら、その物語の性格を解説する。かくして、このかなりの長文の巻も、すでにその三分の一が費されている。

しかるに、そこで道元は一転して、『嘉泰(かたい)普燈録』の序の文をとりあげる。『嘉泰普燈録』三十巻は、いわゆる「五燈録」の一つとして、歴とした伝記書であるが、それを撰述した雷庵正受(らいあんしょうじゅ)なるものは、いわゆる三教(ぎょう)一致の説を奉ずるものであって、その序文は、彼のその見解について語っている。道元は、その序文を引用すると、それをきっかけとして、それより以後は、巻末の結語にいたるまで、この一巻の三分の二を費して、縦横無尽、三教一致の説を批判してとどまるところを知らないのである。

かくて、わたしは思う。道元のこの巻における主題は、いわゆる三教一致の説の批判にあったのであって、それに対して、四禅比丘のことは、むしろその導入部をなしているのではないか、と。(138~139頁)

■〈注解〉中陰;前世の生を了えたる後、いまだ次の生を受けざる間をいう。

多聞;よく師の法を聞いて忘れないことをいう。

六師;六師外道である。仏陀のころの新しい思想家たちのなかの、もっとも有力なる六人をあげていえるものである。(154頁)

■古徳はいった。

「大師の世にあられたころにおいても、なお学習によらず、つまらぬ自己の考え方をもつ人があったが、ましていわんや、大師のなき後には、もはや師もなく、禅も得ざるものにおいてをやである」

いま大師というのは、仏世尊のことである。誠に、世尊の世にあらわれたころにおいても、すでに出家し戒を受けたものさえが、なお師の教えを聞かずして、つまらぬ自分の考え方にとらわれたものがないではなかった。ましていわんや、如来はすでになくなられ、時はすでに末法に入り、しかも辺地の下賎なものとして生まれたものが、どうしてその誤りを免れようか。いや、さらにいうならば、すでに四禅をおさめたものさえも、なおこんな具合であった。ましていわんや、なお四禅をおさむるに及ばず、ただいたずらに名利をむさぼるばかりのもの、あるいは官途や世路にひしめく連中は、いうにも足りぬところである。そして、いまでは、大宋国にも、そのようなもの知らずの愚かものばかりがおおい。彼らは、仏法と、孔子・老子の教えは、結局おなじものであって、異なる道ではないというのである。(160頁)

■つまり、むかしから、名称や形相にまようて、正しい理を知らない連中が、とかく仏法をもって、荘子や老子に等しいなどというのである。すこしでも仏法をまなんできた連中のなかには、むかしから、荘子や老子を重んずるものは一人もない。(162頁)

■また先徳はいう。

「孔子や周公のことばや、あるいは三皇(さんのう)・五帝の書のごときは、孝をもって家を治め、忠をもって国を治め、国をたすけ民を利するものであって、それはただ現在の一世のことなのであり、過去や未来にわたるものではない。仏法が三世を益するものであるのとはちがう。そこを間違ってはならない」(164頁)

■第十四祖、龍樹菩薩は仰せられた。

「大阿羅漢や辟支(びゃくし)仏は、八万の大劫を知るといい、もろもろの大菩薩および仏は、無量の劫を知るという」

孔子や老子などは、いまだ現世のうちの前後をも知らないのであるから、むろん宿世のことも知らない。ましてや一劫のことを知るはずはない。ましていわんや百劫千劫のことを知るはずはなく、八万の大劫を知るはずもなく、また無量の劫を知るはずもない。その無量の劫をあきらかに照らしだして、掌(たなごごろ)を見るよりもあきらかに知りたまうのは、もろもろの仏と菩薩であって、それをもって孔子や老子などに比せんとするのは、愚昧というもなお足らざるところである。だから、三教一致などということには、耳を掩(おお)うて聞かぬがよろしい。それは邪説のなかにおいてももっとも邪説というべきものなのである。(165頁)

■孔子はいう。

「貴賤とか苦楽とか、是非とか得失とかは、すべてみな自然である」

その考え方は、すでに西の方天竺における自然外道のたぐいである。貴賤とか苦楽とか、是非とか得失ということは、みなすべて善悪の業の結ぶところである。それなのに、彼らは満劫(ごう)も引業(いんごう)もしらず、また過去世も未来世も知らないのであるから、また現世をも知らないのである。そんなのが、どうして仏法に等しいはずがあろうか。(166頁)

〈注解〉実業;この世のいとなみは、実際に苦果を招くがゆえにかくいうのである。

断見;常見の対。来世なしとする見解を指している。

孔丘;孔子、名は丘、字は仲尼である。

姫旦;周公、名は旦、姓は周である。中国古代の王である。

三皇・五帝。中国古代の伝説上の天子皇帝をいうが、その一々については諸説がある。

四韋陀;四つのヴェーダ(吠陀、ふるくは韋陀と音写)。それにリグ・ヴェーダ、サーマ・ヴェーダ、ヤージュル・ヴェーダ、アタルヴァ・ヴェーダの四つがある。

満業・引業;あわせて二業という。そのうち、満業とは、また別報業ともいい、別報の果をひく業をいうたとえば、ひとしく人間に生まれしめる業を引業というのに対して、さらに貴賤・貧富などの別をあらしめる業を指さして満業というのである。それに対して、引業とは、いまもいうように、総報の果を感得せしめる業をいうのである。

依正二報;依報と正報である。正報とは、人間の身心であり、依報とは、その住む世界をいう。

三菩提;“sambodhi”の音写である。正覚である。

無生;生滅をこえたる境地、すなわち涅槃である。

羅刹;“raksasa”の音写。悪鬼などと訳する。神速大力にして人を魅し、あるいは人を喰うという。(169~170頁)

■先徳はいう。

「このごろは、出家したもので、ふたたび俗界に還(かえ)るものがおおいが、彼らは王に使役されることをおそれて、外道のなかに入るんである。彼らは、仏法のいうところをぬすんで、それでもって荘子や老子を解釈し、そのためにいろいろの混雑を生じて、初心のものは、いずれが正しいか、いずれが邪(よこし)まであるかに迷ってしまうのである。これをヴェーダ(吠陀、ばいだ)の法を生みだす考え方とはいうのである」

それによっても判るではないか、仏法と荘子や老子と、いずれが正しいか、いずれが邪まであるか、それがごちゃごちゃになったのでは、初心のものは迷ってしまわねばならない。いまの智円や正(しょう)受などはそれである。それは、ただはなはだ愚かというばかりではない、また勉強が足りないということが顥(あき)らかなのである。いったい、このごろの宋国の僧たちはひとりだって、孔子や老子は仏法におよばないものだと知っているものはない。その名だけは、仏祖の流れを汲むものと称するともがらが、どこにもかしこにも、全中国の山野にみちてはいるけれども、孔子や老子とは違って、仏法はそれらを抜き出たものだと、よく知っているものは、一人だって、半人だってありはしない。ただ一人先師なる天童古仏のみは、仏法と孔子・老子はおなじではないと、よくご存じであって、昼も夜もそう仰せであった。世には、経師(きょうじ)といい、論師(ろんし)といい、あるいは講師という者はあるけれども、なお仏法ははるかに孔子・老子のほとりを抜きん出たものであると通暁した者はない。ことに、この近代百年来の講師は、参禅して仏道をまなぶ連中のゆたかさをまなび、その理解の仕方をぬすもうとするものがおおいが、そんなのは、まったく誤っていると申さねばならない。(176~177頁)

■もし生知というものがあるならば、因がないという欠点がでてくる。仏法には無因という考え方はない。しかるに四禅比丘は、命終(みょうじゅう)の時にのぞんで、そのような考え方をしたために、たりまち仏を謗(そし)る罪に堕ちてしまった。だから、仏法をもって孔子・老子の教えにひとしいなどと思ったならば、生きているあいだから、もうふかい謗仏(ほうぶつ)の罪を犯していることとなろう。仏法をまなばんとする者は、はやく、仏法と孔子・老子の教えと一致するなどという邪まの考え方をなげ捨てるがよろしい。もしそんな考え方をもっていて、それを捨てなかったならば、ついに地獄に堕ちるであろう。(178頁)

■仏法をまなぶものはあきらかに知るがよろしい。孔子や老子は、三世の法を知らなかった。因果の道理も知らなかった。また、一州のありようも知らず、ましてや四州のありようも知る道理はなかった。あるいは、欲界の六天のこともなお知らなかったし、ましてや三界・九地のありようを知るわけもなかった。あるいはまた、小千世界も知らず、中千世界も知るはずはなく、ましていわんや、三千大世界を見ようはずも、知ろうはずもなかった。

だから彼らは、中国一国におうても、なお小臣としてあり、帝位にのぼらなかったのであって、三千大世界にあって王たりし如来と比することもできない。その如来は、梵天や帝釈や転輪聖(じょう)王などに、昼夜ともなくかしずかれて、つねに説法を請われていたという。孔子や老子には、そのような得はなかった。ただ放浪するただ人であった。また、迷いの世を離れて解脱する道も知らず、ましてや如来のように、もろもろの存在のあるがままの相(すがた)をきわめ尽くすということもあろうはずはなかった。だが、もしそのことがなかったならば、いったい、なにによって世尊にひとしいとなし得ようか。つまり、孔子や老子は、内に徳なく、外にははたらきもないのであって、とても世尊に及ぶことはあり得なかった。したがって、三教一致などという邪説をはく道理もなかった。(178~179頁)

■また孔子や老子は、この世界の存在の限度も、また無の限度も知っているはずはなかった。その広さも知らず、その広さも知らず、その大きさもしらなかったばかりか、また、極微(ごくみ)の存在も、刹那の単位も知っているはずはなかった。だが、世尊はあきらかに、極微の存在を見、また、刹那の単位を知っておられたのであるから、どうして、孔子や老子とひとしいなどといってよかろうか。孔子、老子、荘子、恵子などは、ただの凡夫であって、小乗の預流果にも及ぶことはできない。ましていわんや第二、第三、第四の阿羅漢に及び得ようか。

それなのに、仏道をまなぶ者が、事情にくらきままに、彼らをもろもろの仏にひとしいとするねどとは、これはまた迷いのなかでもまた深い迷いというものである。孔子や老子は、三世も知らない、いろいろの劫も知らない。また一念も知り得ないし、一心も知りはしない。日月(がつ)天に比べることもできないし、四天王やもろもろの天神にも及ぶものでもない。それを世尊に比するなどとは、世間の人も、出世間の人も迷惑するところである。(179頁)

■『景徳伝燈録』にいう。

「二祖は、つねに歎じていっていた。

『孔子や老子の教えは、礼法ならびに風習のさだまりである。『荘子(じ)』や『易経』の説くところは、まだすぐれた道理を尽くしてはいない。しかるに、近ごろ聞くところによると、達磨大士という方が、少林寺に止住しておられるとのことである。さすれば、道の奥をきわめた人が、遠からぬところにましますわけである。では、まさに、その素晴らしいところにいたらねばなるまい』」

いまの人々は、はっきりと信ずるがよろしい。仏法が中国に正伝したことは、ただひとえに二祖が初祖についてまなんだ力によるものである。たとい初祖が西の方より来られても、もし二祖を得なかったならば、伝法はないであろう。そもそも二祖という方は、その他のものと一緒にしてはならないお方である。(181頁)

■如来が世にあられたころ、一人の外道があって、その名を論力といった。みずから、論議においては自分に匹敵するものはなく、その力はわたしが最大であると思っていた。だから、論力といってのである。しかるに、ある時、彼は、五百の離車(りしゃ)族の人々の募金を受けて、五百の難問をえらび、それをもって世尊をせめ立てとうというので、仏のいますところにいたり、仏に問うていった。

「究極の道はただ一つのものであろうか、それともいろいろとあるのであろうか」

仏は仰せられた。

「究極の道はただ一つである」

論力はいった。

「われらがもろもろの師は、それぞれに究極の道があるといっておる。外道たちはみなそれぞれに、各自の説くところを貶(けな)して、相たがいに是非するのであるから、いろいろの道があるではないか」

世尊は、その時すでに鹿頭(ろくず)を教化して、阿羅漢果を成ぜしめていた。その鹿頭は仏のお傍にあって立っていた。しかるに、仏は論力に問うていった。

「いろいろの道を説くもののなかにあっては、誰が第一であろうか」

頓力はいった。

「鹿頭が第一でありましょう」

仏は仰せられた。

「鹿頭がもし第一であるとするならば、彼はどうしてその場を捨て、わたしの弟子となって、わが道のなかに入ったのであろうか」

論力は、その鹿頭の姿をみて、恥じて頭を下げ、仏に帰依してその道にはいった。その時、仏は、義理を説いた韻文を誦(ず)して仰せられた。

「人はそれぞれに究(く)竟なりといい

おのおのみずからに愛着して

みずからを是とし、他者を非となす

されどそはみな究竟にはあらず

されば、その人論者のなかに入りて

義理のあるところを論議するとき

たがいに是とし、非としあい

勝負をあらそうて憂苦をまねく

勝者はたかぶりの坑(あな)におち

負車はうれいの地獄にぞ堕す

されど、よく智慧あるものは

そのいずれにも堕すことなし

論力よ、汝はまさに知るがよい

わがもろもろの弟子たちには

虚もなく、また実もないのである

いったい汝はそのいずれをか求めんとする

汝もしわが論を破らんとするも

すでに破るべきものはないのである

一切智というはよく明らめがたく

そを破らんとすれば、かえってみずからを破ることとなるであろう」(182~184頁)

■いま世尊の仰せられたことばは、この通りである。それなのに、東土中国の愚昧の人々が、みだりに仏の教えに違(たが)って、仏道とおなじ道があるなどといっては、とんでもないことである。それでは、たちまち仏を謗(そし)り、法を誹(そし)ることとなるであろう。西の方天竺の鹿頭ならびに論力、あるいは長爪梵志(ちょうそうぼんし)・先尼梵志などは、博学の人であって、中国ではまだむかしから見ないところである。孔子や老子のとても及ばないところである。しかるに、彼らもまた、みずからの道をすてて仏道に帰依したのである。それなのに、いま孔子や老子のごとき俗人をもってその仏法に比類しようなどというのは、聞くものもまた罪があるであろう。ましていわんや阿羅漢や辟(びゃく)支仏も、やがてはみんな菩薩となるのであって、ただの一人とても小乗にして終わるものはないのである。それなのに、どうして、いまだ仏道に入らない孔子や老子も、もろもろの仏にひとしいなどというべきであろうか。そんなのは大きな邪見というものであろう。

いったい、如来なる世尊が、はるかに一切を超越しておられたことは、すなわち、もろもろの仏・如来や、もろもろの大菩薩や、あるいは梵天や帝釈天などが、みなともに讃歎したてまつり、よく知っておられたところである。また、西の方天竺の二十八祖や、東の方中国の六祖たちの、みなともに知っておられたところである。いまこの末法の時代にめぐりあわせた人々とても、この宋朝の愚昧のともがらのとなえる三教一致などという痴言(しれごと)には耳を傾けてはならない。そんなのは不学のいたりというものである。

正法眼蔵 四禅比丘

建長七年夏案居日、御草案をもってこれを書写しおわる。懐弉(185~186頁)

〈注解〉この一段もまたかなりながい一段であるが、すでにいっておいたように、ここでもまた道元は。三教(ぎょう)一致の説をなすものに対する鋭い批判をつづけている。つまり、この巻のほぼ三分の二にあたる部分が、ことがとく三教一致の説に対する批判である。かくて、わたしには、どうやら、この巻のまことの主題は、三教一致の説の批判であったと申さねばなるまいとおもわれる。

三千大千世界;三千世界ともいう。すなわち、小千世界、中千世界、大千世界の三つの千の世界より成立している世界であるという。

極微色;最小の単位における物質というほどの意である。

;「たん」と読む。老子の名である。

究竟道;究竟とは、“uttara”の訳、無上、究竟の意であって、事理の至極をいうことばである。

鹿頭;“Migasisa”の訳。拘薩羅国の婆羅門にて、呪術にすぐれていたが、のち仏に帰依して、阿羅漢果を成就したという。

長爪梵志;梵志は外道。彼ははじめ、学なるまでは爪を切らじと誓って学に力めていたが、のち仏道に帰し、倶絺羅(くちら)と称して、問答第一といわれるにいたったという。

先尼梵志;先尼とは、“Seniya”の音写。はじめに自然外道であったが、のち仏に帰して比丘になった。(186~188頁)

生 死(しょうじ)

■もし人が、生死のほかに仏をもとめたならば、それはあたかも、車の轅(ながえ)を北にむけて南の方越に赴(おもむ)かんとするようなものであり、あるいは、面(かお)を南にむけて北斗星を見ようとするようなものである。いよいよ生死の因をかきあつめて、ますます解脱の道を見失うばかりである。そこはただ、生死はとりもなおさず涅槃であると心得れば、それでもはや生死だからとて厭うべきものもなく、涅槃だからとて願うべきものもなくなる。その時はじめて生死をはなれる者となるのである。(195頁)

〈注解〉ついで、生死をはなれるには、いかに思い定めるべきかについて語る。それには、「生死のほかに仏をもとめ」ては駄目であり、むしろ、「生死すなはち涅槃」だと心得るがよいとかたるのである。(195頁)

■そもそも、生と死のありようは、生から死に移るのだと思うのは、まったくの誤りである。生とは、それがすでに一時(ひととき)のありようであって、そこにもちゃんとはじめがあり、またおわりがある。だからして、仏法においては、生はすなわち不生(しょう)であるという。滅もまた、それがすでに一時のありようであって、そこにもまた初めがあり、終わりがある。だからして、滅はすなわち不滅であるという。つまり、生という時には、生よりほかにはなんにもないのであり、滅という時には、滅よりほかにはなにものもないのである。だからして、生がきたならば、それはただ生のみであり、滅がくれば、それはもう滅のみであって、ただひたむきにそれにむかって仕えるがよいのである。厭うこともなく、また願うこともないがよろしい。(196頁)

〈注解〉この一段は、生と死の考え方を語っている。それを理解するためには、わたしどもの常識をとおく越えてゆかなくてはならないことを痛感する。なお、「せいはひとときのくらゐ」といい、また「滅もひとときのくらゐ」という表現については、かの「現成公案」の巻を参照していただきたいものである。(196頁)

■この生死はとりもなおさず仏の御いのちである。これを厭い捨てようとするならば、それはとりもなおさず仏の御いのちを失うこととなるのであろう。だからとて、そこに止まって生死に執着(しゅうじゃく)すれば、それもまた仏の御いのちを失うこととなる。仏のありようにこだわっているからである。厭うこともなく、慕うこともないようになって、その時はじめて仏の心に入ることができるのである。だが、その境地は、ただ心をもって量ってみたり、あるいはことばをもっていってみたのでは入ることはできない。ただ、わが身もわが心もすっかり忘れはなち、すべてを仏の家に投げいれてしまって、仏の方からはたらきかけていただいて、それにそのまま随(したが)ってゆく、その時はじめて、力もいれず、心もついやすことなくして、いつしか生死をはなれ、仏と成っているのである。ということであれば、もはや、誰だって、あれこれと心に思いめぐらしてみる要はあるまい。

思うに、仏となるには、ごくたやすい道がある。それは、もろもろの悪事をなさぬこと、生死に執着する心のないこと、そして、ただ、生きとし生けるものに対してあわれみを深くし、上をうやまい、下をあわれみ、なにごとを厭う心もなく、またねがう心もなく、つまり、心に思うこともなく、また憂うることもなくなった時、それを仏と名づけるのである。そして、そのほかに仏をもとめてはならない。

正法眼蔵 生死

(年号を記さず)(198~199頁)

〈注解〉ついで道元は。「この生死は、すなはち仏の御いのちなり」と説く。「御いのち」とは、もっとも大切なもの、かけがえのないものということ。そして、この生死を厭うこともなく、ねがうこともなきにいたった時、それがとりもなおさず仏というものだと語って、この一巻の結びとするのである。

仏のかたよりおこなはれて;仏の方からはたらきかけていただいて、というほどの意である。つまり、まったく受動的な態度をとることである。(199頁)

唯 仏 与 仏(ゆいぶつよぶつ)

■開 題

この一巻も、その制作の時期をあきらかに知ることができない。その巻末の奥書には、「弘安十一年季春晦日、於越州吉田県志比庄吉祥山永平寺知賓寮南軒書写之」と見えるが、それは、申すまでもなく、書写の消息を記したものであって、制作の時期を記したものではない。そもそも弘安十一年(1288)といえば、それはもう、道元その人が没してからすでに三十五年を経ているのである。伝え聞くところによれば、その年、永平寺宝庫に秘蔵されていた「秘密正法眼蔵」(二十八巻)と題号する本が見出され、そのなかの未見の八巻があらためて書写されたが、そのなかの一巻がこの巻であったという。

では、さて、この一巻の内容のことであるが、さして長からぬ一巻のなかにあって、わたしにとって、もっとも印象的な、一読以来わすれることのできないのは、ほかでもない、その冒頭の書き出しの一節である。いわく、

「仏法は、人の知るべきにはあらず。このゆゑに昔より、凡夫として仏法をさとるなし、二乗として仏法をきはむるなし。ひとり仏にさとらるるゆゑに、唯仏与仏、乃能究尽(ないのうぐうじん)といふ」

ふと読みいたれば、それはもう、わたしどもにとっては、ただ事ならぬ一節であるように思われる。仏法というものは、人の知るべきものではない、という。だからして、昔から、凡夫として仏法を悟るものはない、という。それは、ただ、仏によって悟られるものであるから、「唯仏与仏、乃能究尽」というのであるという。では、うたがいもなく凡夫であるわたしどもは、結局するところ、仏法には縁なき衆生なのであろうかというと、そこはもうすこし、デリケートな趣きがあるようである。

そもそも「唯仏与仏」というこの題号は、いまもいう「唯仏与仏、乃能究尽」という、『法華経』方便品にいずる句によったものであるが、その句は、もうすこしつぶさにいえば、「唯仏与仏、乃能究尽、諸法実相」(ただ仏と仏とのみ、すなわちよく諸法の実相を究尽す)である。そして、「諸法の実相を究尽する」というのは、それが、とりもなおさず、いわゆる「無上菩提」の実現にほかならないのである。

しかるところ、この巻における道元は、やがて続いて語りいでる。

「無上菩提の人にてあるをり、これをほとけといふ。ほとけの無上菩提にてあるとき、これを無上菩提といふ」

つまり、無上菩提をよく実現し得た時、そのときその人は、すでに仏であって、もはや、凡夫ではないのである。「凡夫として仏法をさとるなし」とは、そのことであり、「仏法は、人の知るべきにはあらず」とは、そのような微妙な趣きを語っているのである。

詮ずるところ、その境地にいたれば判るのであり、その境地にいたらねば判りっこない。それが仏の世界であり、それが仏法というものである。では、いかにしてその境地にいたることができるか。それがつづいて、道元が委細をつくして説いているところであるが、それも詰まるところは、道元がよくいうところの仏祖の行履(あんり)を踏むことに帰するようである。この巻の結びのことばに、

「このあとをうるを、仏法とはいふなるべし」

とあるのを、わたしは、

「そのように仏の足跡をあきらかにするのを、それをこそ仏法とはいうのであろう」

と訳しておいたが、それがまた、わたしにとっては、忘れがたい一句なのである。(202~204頁)

■仏法というものは、人の知るべきものではない。だからして、昔から、凡夫のままで仏法を悟ったものはなく、また小乗の徒にして仏法を究めたものもない。ただひとり仏に悟られるからして、「仏と仏のみ、すなわちよく究め尽くす」というのである。また、それを悟った時、みずから省みて、まえから悟るということはこうであろうと思っていた、というようなことはないものである。たとい、そのように思っていても、思ったとおりの悟りではないのである。悟りの方からいっても、けっして思ったようなものではないのである。

そういう工合であるから、まえまえから思っていたことは、なんの役にも立つものではない。いよいよ悟った時にも、こうだから悟れたのだなあ、とおもわれることはないものである。だからして、悟る以前にあれこれと思ったことは、じつはなんの用にも立たなかったのだなあ、と思い知るがよろしい。悟りが、それ以前にいろいろと思った、その思いのようではなかったというのは、じつはその思いが悪くって、その力がなかったというのではない。まだ悟らないさきの考え方も、よく悟りに似たようなものであったけれども、その時は、つい顚倒(てんどう)のあやまちを犯していたものだから、その力がなかったのだと、そう思う人もあり、またそういう人もある。だが、それがなんの用にも立たなかったなあと思うことは、それはもう大へんいいところに気がついたということである。つまり、ここで自我の小見にとらわれてはならないぞと戒めているのである。もしも、悟りより以前に考えたことを力として、それで悟ったというならば、そんな悟りはつまらぬ悟りであろうというものである。そうではなくて、悟りより以前の考えにはよらないで、それをはるかに超えてきたのである。だから、悟りというものは、ただ一筋の悟りの力にのみよって助けられてきたものであって、迷いなどというものもないのだと知るがよく、また、悟りというものも別にないものなどと知るがよいのである。(205~206頁)

〈注解〉「仏法は、人の知るべきにはあらず」――と、その冒頭の書き出しは、まことにショッキングである。それはいうなれば、仏と凡夫のまったき異質性を、道元一流の直截な表現で語ったものである。したがってまた、仏法の世界はつまり「唯仏与仏」、すなわち仏と仏のみよく究め尽くすことを得る世界である。それが、この一巻のいわんとする趣きなのであり、また、この冒頭の一節のずばりと道破するところなのである。

二乗;いわゆる声聞乗と縁覚乗である。つまり小乗のやからということである。(206~207頁)

■人が最高の智慧をもって人となった時、これを仏という。あるいは、智慧が仏の有する最高の智慧である時、これを無上菩提というのである。そして、そのような人、そのような智慧のありようを知らないのが、それが愚かというものであろう。では、そのありようはいかにといわば、それは不染汗(ふぜんま)である。不染汗とは、そうしようと無理につとめるでもなく、取捨のはからいもまじえないことであるが、それも強いてそうしようとするではなく、その心につとめてそうあろうとするのでもない。そうではなくて、自然にそうしようとすることもなく、取捨することもなくなった時、その時おのずからにして不染汗が実現するのである。

たとえば、人に会うと、どんな顔をしているかと思う。また花を見、月を見ても、ああならば、こうならばとさらに注文がでてくる。あるいはまた、春は春ながらの心であり、秋は秋ながらの風情であって、ほかにありようはないのに、やっぱり、ああだといいのに、こうだとよいのにと思う。だが、それでどうなるか、思うようになるかどうか、それをわが身にひきあてて思い知るがよい。この春や秋の風情が、思うようであろうと、思うようでなかろうと、いったい、それはどうなるのか。それはべつに積もりつもって自分のものとなるわけでもなく、また、いまも自分がそう思っているわけではない。

そんなことをいう意味は、結局はこういうことである。いまのわが身を構成しているこの四大五蘊(うん)は、いずれもそれが我であるとすべきものではない。また、それが誰だということもできない。だから、花や月にさそわれてうごく心のいろいろも、また我とすべきではないのであるが、ついそれを我だと思っている。我でないものを我だと思っているのである。であるから、そこを踏みこんで、まことは、いやだという色もなければ、いって染まりたいと思う色もないのだと照破するとき、その時おのずから智慧の道における履(ふ)むべき方があらわとなってくる。それがいうところの本来の面目というものなのである。(208~209頁)

〈注解〉不染汗;「ふぜんま」であるが、また「ふぜんな」と読みならわされている。もと“aklista”の訳語であって、煩悩によって汚され、煩(わずら)わされないことをいう。その具体的なありようについては、本文のなかに、道元が嚙んでふくめるように語っているところである。

四大五蘊;四大も五蘊も、いずれも人間の構成要素を語ったことばである。その構成要素のいずれをとっても、これが「われ」だとすべきものはない、といっておるのである。(210頁)

■古人はいったことがある。

「ありとあらゆる世界も、それはつまるところ自己の法身ではあるけれども、それはすこしもわれらを礙(さまた)げるものではない。だが、もし法身がわれらを礙げるような時は、それはもう身うごきもできはしない。だから、その時には、そこから抜けでる道をもとめなくてはならない。では、人々がそこから脱出するにはどうすればよいのであるか」

もしもこの問いに答えて、よく脱出の道をいい得ないようなものは、その法身のいのちもたちまちに絶えて、ながく苦界に沈没してしまうであろう。では、そのように問われた時、どういい得たならば、よく法身のいのちを生かし、苦界に沈まないことができるであろうか。それには、「ありとあらゆる世界も、つまるところは自己の法身である」というがよろしい。だが、もしそういう道理であって、あらゆる世界が自己の法身だという時には、それはもう言語道断の境であって、とてもいい得ないことである。また、いわれないという時には、それではそれで、ふっつりといわないものであろうか。いやいや、そのいうにいわれぬところを、古仏はいっておられる。「死のなかにあって生きるということもある。生のなかにあって死するということもある。また、死のなかにあってつねに死んでいるものがあり、生のなかにあってつねに生きているものもある」と。それは、人が無理にそうあらしめるのではない。ただ、もろもろの物事がおのずからそうあるのである。

だからして、仏が説法をなされる時にも、またそのようにさまざまな光明があり、音声があるのである。現身度生すなわち仏がこの世に身を現じて衆生を済度(さいど)するにも、またそうであると知るがよろしい。これを生滅をこえた知見とはいう。よくよく考えてみると、現身度生というのは、じつは度生現身っすなわち衆生を済度せんがためにこそこの世に身を現じたもうたのであった。だからして、現身といって、それで度生とくるのではない。現身といったら、もうちゃんと度生にきまっているのである。だからまた、仏法は、この度生ということにおいて窮(きわ)まるものだと心得るがよい、また、そう説くがよく、そう悟るがよい。さらにいえば、現についても、身についても、すべてが度生のためなのだと、仏は説きたまい、わたしどもも聞くのである。そして、それもまた、すべてが現身度生のためだというのである。仏はその辺の意味がよく判っておられるから、正覚(がく)を得られた朝(あした)から、大いなる死をとられた夕(ゆうべ)にいたるまで、生涯ついに一字をも説かなかったということもあるが、それもまた、その説かれることばが自由自在であったからなのであろう。(212~213頁)

〈注解〉自己の法身;法身とは、仏のありようを三身(法身・報身・応身)にわかち、その第一として、仏によって証せられた智慧そのものを指していうことばである。だが、ここでは、仏の法身ではなくて、自己の法身である。ここでは、むしろ、人間のもつ叡智そのものをいうのだと受領すべきものであろう。

現身度生;仏がこの世に身を現じて、衆生を済度することをいう。だが、ここでは、またそれを転じて度生現身として論じているので、このまま訳さずにおいたのである。(214頁)

■ふるき仏祖はいったことがある。

「この大地のことごとくが、とりもなおさずまこととのわが身である。この大地のことごとくが、とりもなおさず解脱の門である。この大地のことごとくが、とりもなおさず毘盧遮那(びるしゃな)仏の一眼である。あるいは、この大地のことごとくが、とりもなおさず自己の法身にほかならない」(217頁)

〈注解〉尽大地是真実人体;道元は「生死去来是箇真実人体」とか、「尽十法界真実人体」よいう句をたえず用いておる。

毘盧一隻眼;毘盧(びる)とは、“Vairocana”を毘盧遮那と音写して、それを略したのである。宇宙を仏格としていえる仏である。(220頁)

■そのむかし、一人の僧があって、古徳に問うたことがあった。

「いろんなことがいっぺんにおこってきた時には、どうすれば宜しゅうございましょうか」

古徳はいった。

「そんなものは構(あま)わんどけ」(219頁)

■ふるき仏は仰せられた。

「山河大地と人間とは、同時に生まれたのであり、また三世諸仏と人間とは、一諸に修行してきたのである」(224頁)

■それなのに、鳥はちゃんと、これは小さな鳥が幾百幾千とむらがって飛んでいったところだとか、これは大きな鳥が、幾列、南に去り、北に飛んだ跡だなあと、いろいろ区別してみることができる。それは、車の跡が路にのこり、馬の足あとが草原に見えるよりも、よっぽどはっきりしているのである。鳥には鳥の跡が見えるのである。

そのような道理は、仏にもあるのである。仏は、仏が幾代この世にあって修行なされたかねど、大きな仏も、小さな仏も、一人のこらず知っておられる。それは、まだ仏にならなかったころには、とても知り得ないことであった。なぜ知り得ないかという人もあるであろうが、そこは、仏のまなこでその跡を見るのであるからであり、まだ仏でない人には、その仏のまなこがないのである。ただ仏の物をかぞえるばかりの一人である。だが、もし知らないならば、いろいろの仏のあるかれた跡をば後づけてみるがよろしい。そして、その跡がだんだん目に見えてきたならば、これが仏というものであろうかと、その足跡をいろいろと検討してみるがよろしい。すると、検討しておるうちに、仏の足跡もわかり、その足跡の長短も、浅深もわかってくる。また、そうして仏の足跡を吟味しているうちに、わが足跡もああそうであったかとあきらかになってくるのである。そのように仏の足跡を明らかにするのを、それをこそ仏法とはいうのである。

正法眼蔵 唯仏与仏

弘安十一年三月晦日(みそか)、越州吉田県吉祥山(きちじょうざん)永平寺知賓寮南軒においてこれを書写す。(230~231頁)

道 心(どうしん)

■開 題

この一巻もまた、ごく短小な一巻である。そのうえ、制作の時期も知られず、また、書写の日付も記されていない。そこで、いささか、その制作年代を考証してみたいと思うのであるが、それもなかなか、これという手掛りを得ることを得ないでいる。ただ、わずかに、その行文や内容からして、わたしには、どうもこの一巻は、さして早いころの制作ではない、とおもわれるのみである。

ただ、この一巻は、出家の弟子たちに示すために書かれたものではなくて、さきの「現成公案」の巻や、「菩提薩埵四摂法(ぼだいさったししょうぼう)」の巻とおなじように、書いて在家の弟子に与えられたものであるらしい。そのことだけは、はっきりといって差し支えあるまい。したがって、その内容もまた、経典などからの難しい引用もなく、その論旨もまたきわめて簡明である。

そこには、まず、「仏道をもとむるには、まず道心をさきとす」るがよいのであるが、その道心のありようを知っている人は稀である。では、どのようにして、正しい道心のありようを聞くことができるか。そのことが説かれている。

ついで、道心のありようについて、三、四の条項をあげて語っている。ああよそ、つぎのようである。

1 自己の考え方をさきとせず、仏の説かせたまう法をさきとすること。

2 物法僧の三宝(ぽう)をうやまうこと。特に三帰依をたえず称えるようにすべきことが力説せられていることが、注目せられるところである。

3 また、仏をつくり、経(『法華経』)をつくって、それを礼拝し、供養することがすすめられている。

4 たえず袈裟をかけて坐禅することがすすめられている。

それだけでも、この一巻が在家者のために記されたものであることが知られるであろう。(234~235頁)

■世の末には、ほんとうの道心者など、滅多にあるものではない。だがしかし、ともかく心を無常ということにかけて、世をはかなく、人のいのちはいつどうなるやも知れぬものであることを忘れないがよい。だが、それで、自分は世のはかないことを考えているのだなどと思ってはならない。そこは、よくよく心して、ただ法を重んじ、わが身、わがいのちは軽んずるがよろしい。法のためには、身をもいのちをも惜しんではならない。(239頁)

■そのような間も、また心をはげまして三宝を称えたてまつって、

「南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧」

と称えたてまつることを忘れず、絶えることなくするがよいのである。(239頁)

■また、一生のうちには、仏を造りたてまつろうと力(つと)めるがよい。仏を造りたてまつったならば、三種の供養をたてまつるがよい。その三種とは、草座(そうざ)と石(しゃく)密漿(しょう)と燃燈である。それを供養したてまつるがよいのである。

また、この生涯のうちには、『法華経』を造りたてまつるがよい。書いたり、刷ったりして、それを持するがよいのである。つね日ごろには、それを頂き、それを礼拝して、燈明や、飲食(おんじき)や、衣服(えぶく)をそなえるがよい。いつも頭髪をきよらかにして、頂きまいらせるがよいのである。

また、つねに袈裟をかけて坐禅するがよろしい。袈裟は、第三生に得道するという先例もある。いや、それよりも、すでに三世のもろもろの仏たちの衣であって、その功徳ははかりがたい。また、坐禅は、この世界の法ではない。仏祖の法なのである。

正法眼蔵 道心

(年号不記)(240~241頁)

〈注解〉中有;また中陰ともいう。今生(こんじょう)に死したるのち、まだ次生に生まれない存在をいう。

天眼;天眼通である。その対する境を自由に見ることのできる通力である。

六根にへて;六根を通してというところである。六根は、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの感官である。

草座;僧の敷く座具である。釈尊が成道のとき吉祥草を敷いた故事によるという。

石密漿;氷砂糖を水にとかしたものである。

燃燈;燈明。

第三生に得道する;蓮華色比丘尼がその過去世に、遊女としてたわむれに袈裟をまとい、その因縁によって次の生に仏道を悟ることを得たという、いわゆる本生(じょう)物語のことをいうのである。「出家功徳」の巻を参照。(241~242頁)

受 戒(じゅかい)

■西の方天竺でも、東の方中国でも、仏祖の相伝えてきたところでは、仏法に入るのはじめにはかならず受戒ということがある。戒を受けなかったならば、まだ仏たちの弟子ではないのであり、祖師方の流れを汲むものではないのである。過ちを離れ、非行を防ぐのでなくては、参禅して道を問うことにならないからである。また、戒律を先となすとのことばは、まさしく正法眼蔵である。仏と成り祖と成るには、かならず正法眼蔵を伝え受ける。したがって、正法眼蔵を正伝する祖師は、またかならず仏の戒を受持するのである。仏の戒を受持しない仏祖など、まったくあり得ないのである。そのあるものは、如来にしたがってそれを受持したであろう。またそのあるものは、仏の弟子たちによってそれを受持したであろうが、彼らはみなそれによって仏法の命脈を受持しているのである。

しかるに、いまその仏祖から仏祖へと正伝してきた仏の戒は、ただひとりかの嵩山(すうざん)の初祖達磨大師がまさしくこれを伝来し、さらに中国においては五たび伝えて曹谿(そうけい)の六祖慧能にいたった。それはさらに青原・南嶽などえと正伝せられて、今日にいたっておるのであるが、いい加減な長老たちのなかには、すこしもそんなことは知らないものもある。もっとも哀れむべきこととしなければならない。(248~249頁)

〈注解〉声聞界;菩薩戒の対、小乗の行者が自利のために守る戒律である。

菩薩戒;また大乗界という。大乗の行者(菩薩)の受ける戒律である。(250頁)

■ 仏に帰依したてまつる。法に帰依したてまつる。僧に帰依したてまつる。僧伽(そうぎゃ)なる大衆の尊に帰依したてまつる。

仏に帰依し終わる。法に帰依し終わる。僧に帰依し終わる。

如来なるまことの最高の正覚者は、まさしくこれわが大師にまします。われはいま帰依したてまつれり。今より後には、けっして邪魔・外道に帰依することあらじ。恵みを与えたまえ、恵みを与えたまえ。(これを三たび唱える。また三度目には、恵みを与えたまえの句を三遍唱える)(254頁)

■ よく男の子よ、すでに邪を捨て、正(しょう)に帰して、戒はすでに汝の周辺にみてり。では、まさに三種の清浄戒を受けるがよい。

第一、すべての戒律を摂(しょう)する戒。汝は今の身より仏の身にいたるまで、この戒をよく保つや否や。答えていう。よく保つ。(これを三たび問い、三たび答える)

第二、すべての善きことを摂(しょう)する戒。汝は今の身より仏の身にいたるまで、この戒をよく保つや否や。答えていう。よく保つ。(これを三たび問い、三たび答える)

第三、衆生を利益する戒。汝は今の身より仏の身にいたるまで、この戒をよく保つや否や。答えていう。よく保つ。(これを三たび問い、三たび答える)

上にいうところの三種の清浄戒は、いずれも犯してはならない。汝は今の身より仏の身にいたるまで、よく保つや否や。よく保つ。(これを三たび問い、三たび答える)(254~255頁)

■ では、よき男の子よ、汝はすでに三種の清浄戒を受けた。では、つぎに、まさに十戒を受けるがよい。これはとりもなおさず諸仏諸菩薩の清浄の大戒である。

第一、殺生せざること。汝は今の身より仏の身にいたるまで、よくこの戒を保つや否や。答えていう。よく保つ。(これを三たび問い、三たび答える)

第二、盗まざること。汝は今の身より仏の身にいたるまで、よくこの戒を保つや否や。答えていう。よく保つ。(これを三たび問い、三たび答える)

第三、淫欲せざること。汝は今の身より仏の身にいたるまで、よくこの戒を保つや否や。答えていう。よく保つ。(これを三たび問い、三たび答える)

第四、妄語(もうご)せざること。汝は今の身より仏の身にいたるまで、よくこの戒を保つや否や。答えていう。よく保つ。(これを三たび問い、三たび答える)

第五、酤酒(こしゅ)せざること。汝は今の身より仏の身にいたるまで、よくこの戒を保つや否や。答えていう。よく保つ。(これを三たび問い、三たび答える)

第六、出家の菩薩の罪過を説かざること。汝は今の身より仏の身にいたるまで、よくこの戒を保つや否や。答えていう。よく保つ。(これを三たび問い、三たび答える)

第七、自己を讃え他人を毀(けな)さざること。汝は今の身より仏の身にいたるまで、よくこの戒を保つや否や。答えていう。よく保つ。(これを三たび問い、三たび答える)

第八、法財の慳(おし)まざること。汝は今の身より仏の身にいたるまで、よくこの戒を保つや否や。答えていう。よく保つ。(これを三たび問い、三たび答える)

第九、瞋恚(しんい)せざること。汝は今の身より仏の身にいたるまで、よくこの戒を保つや否や。答えていう。よく保つ。(これを三たび問い、三たび答える)

第十、三宝を謗(そし)らざること。汝は今の身より仏の身にいたるまで、よくこの戒を保つや否や。答えていう。よく保つ。(これを三たび問い、三たび答える)

上にいうところの十戒は、いずれも犯してはならない。汝は今の身より仏の身にいたるまで、よくこの戒を保つや否や。答えていう。よく保つ。(これを三たび問い、三たび答える)

では、この事はこのように保つがよい。受ける身は三たび礼拝する。(255~256頁)

■この受戒の作法は、まちがいもなく仏祖の正伝しきたったものである。丹霞(たんか)の天然禅師(じ)や薬山(さん)の高沙弥(こうしゃみ)なども、ひとしく受持してきたものである。比丘戒をうけなかった祖師はあるけれども、この仏祖正伝の菩薩戒をうけなかった祖師は、いまだかってないのである。それはかならず受持するものなのである。

正法眼蔵 受戒

(年号不記)(257頁)

〈注解〉和尚;受戒のときの師、すなわち戒師である。

阿闍梨;教授師である。受戒に際して作法を指導する師である。

不淫欲;不邪淫もしくは不貧婬となったいる写本もあるが、不淫欲をとる。

不酤酒;酤(こ)は売るである。酒を売るべからずとする戒である。

不自讃毀他;自己を讃え他人を毀(けな)さざることである。

不慳法財;仏法の教えを施すに物惜しみしないことである。

丹霞天然・薬山高沙弥;丹霞天然(824寂、寿86)は石頭希遷の法嗣(ほっす)であり、また、薬山の高沙弥(年寿不詳)は薬山惟儼(いげん)の弟子であるが、彼らはいずれも『景徳伝燈録』巻十四にくわしく記されている。(257~258頁)

別輯 弁 道 話(べんどうわ)

■開 題

ー前略ー ちなみに、この一巻の取扱いは諸本によってさまざまである。

たとえば、かの懐弉和尚(永平寺第二世、1280弱、寿83)の編集になる七十五巻本や、あるいは、嘉暦(かりゃく)四年(1329)の夏、かの義雲和尚(永平寺第五世、1333寂、寿81)によって編集された六十巻本などにも、この「弁道話」の巻は集録せられていない。それもそのはず、そのころには、この巻の存在はまったく知られていなかったからである。

それが、江戸時代にいたって、京都の華族の家より見出されて、かの晃全(こうぜん)和尚(永平寺第五世、1693弱、寿67)によって九十五巻本が編集せられるに及んで、はじめて『正法眼蔵』に採録せられたのである。

ー中略ー

したがって、第二には、この『弁道話』の巻とそのほかの『正法眼蔵』の巻々とでは、道元がむかって語らんとする対象が異なっているのである。というのはこうである。すなわち、興聖寺の成立以後において制作されたものは、たいてい、奥書に「示衆(じしゅ)」と記されている。「示衆」とは、衆に示すということである。衆とは、もともと僧伽(ぎゃ)を意味することばである。仏道修行者たちのあつりである。つまり、その時道元はすでに、出家の弟子たちをもち、また在家の帰依者をもっていたのである。それにむかって語るべきはっきりした対象があったのである。しかるに、「弁道話」の巻においては、もしも真に求道の念をいだいている人があったならばという意味のことが述べられているにすぎない。むかって語るべき対象は、なおさだかでないのである。とするならば、その語るべき内容も、またその叙述の様式も、当然、他の巻々のそれとは違ってくるはずであった。

思うに、「正法眼蔵」ということばは、今日わたしどもが、現代のことばをもって再現するなど、とても企ておよばないところなのである。だからして、わたしも、この現代語訳のなかでは、一度だってその語彙(ごい)を現代のことばに移そうなどと思ったことはない。だが、それはいったいなにを指さしているのだというなれば、わたしはそれを、仏教の本質を追究して掘りさげ掘りさげするいとなみに対して名づけているのだと受領している。それは、この『正法眼蔵』の巻々において、そのようないとなみの結実をもって、その門下の弟子たちや、在家の帰依者たちに語りかけているのである。だが、この「弁道話」の巻においては、すこしその様子が違っている。なぜであるか。それは、そこでは、道元はなお不特定の人々にむかって語っているからである。したがって、その内容は、当然、坐禅のすすめであり、坐禅へのいざないである。だからして、その内容はきわめて勝れたものであるにもかかわらず、それはむしろ、『正法眼蔵』の別輯として列次するがよいというのが、わたしの所存なのである。(264~265頁)

■もろもろの仏・如来は、いずれもすぐれた教えを正伝して、最高の智慧を身につけるにあたっては、最上にして自然なすばらしい方法をもってなされる。それは、ただ仏から仏にさずけて、絶対に間違いのないものであって、つまり、かの智慧の境地にただひとり悠々とひたりきるといったところである。これを自受容三昧という。

しかるに、この三昧にあそぶにあたっては、端坐して参禅するを正しき門となす。この性質は、もともと人々の持ち前の中にそなわっているものであるが、なお修しなかったならば、それはわが掌(たなごころ)にあふれて、その数をしらず、また、これを口に語れば、口いっぱいにあふれて、極まるところもない。もろもろの仏は、つねにそのなかに住んでいるけれども、どこにもなんの分別の跡をものこさず、また、生きとし生ける者はいつでもそのなかに生かされているけれども、そのいとなみはどこにもその跡をあらわさない。

いま語らんとするこの修行と学習は、悟ってみれば、そこにあらゆる存在のあるがままの相(すがた)があり、そこを脱(ぬ)けでる出口の路(みち)は、いつでもただ一つである。そして、関所を脱けて自由になってしまえば、もはやあれだこれだという小さなことはいらないのである。(257~268頁)

■わたしは、発心して法を求めはじめてからこのかた、わが国のあらゆる方面に善知識を尋ねた。そして、ある時、建仁寺の明全和尚に見(まみ)えることができた。ついて随っているいちに、たちまち九年の歳月がたった。その間には、いささか臨済の家風を聴くことを得た。この明全和尚は、祖師なる栄西禅師の高弟であって、ただ一人、最高の仏法を正伝した方である。けっして他のものと並べていうべき方ではない。

だが、わたしは、さらに大宋国におもむいて、善知識を浙江両路に訪れ、いわゆる五門についてその家風を聴いたが、ついに太白山(たいはくざん)の如淨禅師に参じて、一生参学の大事はそれで終わった。それからのち、大宋の年号でいえば紹定(しょうてい)のはじめにわが国に帰ってきた。むろん、法をひろめ衆生を救わんことをわが念顏として、あたかも重き荷物をわが肩にになうがごとき思いであった。

しかし、いましばしの間は、法をひろめようなどという心はうち忘れて、やがて法幢(どう)をたかく揚げる時もあろうから、その時の熟するまでは、しばらく悠々として悠々自適の生をたのしみ、いささか先哲の遺風にならわんものをと思っていた。だが、思いなおしてみると、もしもおのずからして、名利にかかわらず、道を思う心をさきとする真実の求道者があっても、いたずらによからぬ師にまどわされて、ただしい解釈を見失い、むなしくひとりよがりに陥って、ながく迷路にさまようことともなろう。それでは、いったい、なにによって正しい智慧の種を生長せしめて、ついに道を得るの時にあうことを得るであろうか。わたしはいま一処不住の生活をたのしんでいるのだから、どこに行かなくてはならぬということもない。ここは、ひとつ、それでは気の毒だと思うから、かってわたしが大宋国にあって、まのあたりにかの地の禅林を見聞し、また善知識の意味ふかいことばを頂裁したことなどを記しあつめて、この道にまなびいたらんとする人にのこして、仏教の正しい教えを知らしめたいと思う。けだし、これこそは本物に間違いないからである。(268~269頁)

〈注解〉阿耨菩提;阿耨菩提は阿耨多羅三貌三菩提の略語である。

自受容三昧;自受容とは、功徳をみずから受容して、その楽しみをみずから味わうことであり、三昧とは、その境地にひたり切っておることである。

五門にきく;五家(法眼・潙仰(いぎょう)・曹洞(とう)・雲門・臨済の五宗)の家風をきくというところである。(269~270頁)

■大師釈尊は、霊鷲山(りょうじゅせん)の集会(え)において、正法を摩訶迦葉(かしょう)に伝え、それより祖より祖へと正伝して菩提達磨にいたった。その菩提達磨は、みずから中国において、正法を慧可大師に伝えた。それが東土における仏法伝来のはじめである。

そのように一人より一人へと伝えて、やがておのずから六祖なる大鑑禅師にいたったが、その時、真実の仏法はまさしく中国に流布して、もはや教学の細目にかかわるものではないことが理解されてきた。時に、六祖のもとに二人のすぐれた弟子があった。南嶽懐譲(なんがくえじょう)と青原行思とがそれであった。彼らは、ともによく仏の心印を伝え持して、おなじく人々の導師たるべき人であった。その二人の流れがひろく流布したので、そこによく五つの門がひらかれた。いうところの法眼(げん)宗・潙仰(いぎょう)宗・曹洞(とう)宗・雲門宗・臨済宗がそれである。現在、大宋国においては、臨済宗のみが天下にゆきわたっている。だが、五つの宗のわかれてはいるものの、仏心のありようはただ一つである。(274頁)

■思えば、中国でも、後漢のころからこのかた、経典はひろく天下にゆきわたっていたけれども、そのいずれが優れいずれが劣っているかは、なお定まってはいなかった。しかるに、祖師菩提達磨が中国においでになってからは、ずばりとそのもつれの根元をたちきって、純一の仏法がひろまってきた。わが国でもまた、そうありたいと願いたいものである。(274頁)

■仏法をよく護持してきたもろもろの祖や仏たちは、いずれも端坐して治受容三昧に入って行ずることを、悟りを開くための正しき路としてきた。また、西の方天竺、東の方中国において、よく悟りを得た人々は、みなその風にしたがってきた。それは、師と弟子とが、ひそかにこのすばらしい方法を正伝して、この仏法の秘訣を承持してきかからなのである。

わが宗門の正伝としていわく、

「この仏祖より仏祖へとじきじきに伝えてきた仏法は、最上のなかにおいても最上である。善知識にはじめてお目にかかってからは、もはやまったく焼香も、礼拝も、念仏も、修懴(しゅさん)も、看経(かんきん)ももちいない。ただ打ち坐って身も心もともに脱ぎさった境地に入るがよいのである」(274~275頁)

■もし人が、たとえ一時なりとも、その身口意の三業において仏をかたどり、端坐してその境地にひたる時、その身口(く)意の三業において仏をかたどり、端坐してその境地にひたる時、その時この存在の世界はことごとく仏をかたどり、あまねき虚空もまたすべて悟れるものとなる。だから、もろもろの仏・如来におかせられては、ますますその本来の法のたのしみを増し、いよいよ悟りのすばらしい風情をあらたにするのである。さらにはまた、十方の世界のありとあらゆる生類たちも、みないっせいに身心(じん)ともにきよらかとなって、すべてはみな自由自在なることを証(あか)しとするのである。かくして、その本来の面目が現実となって目のまえに現れてくるのであるから、そのとき、もろもろの存在はすべて正覚を成就し、あらゆる物はみな仏身ならざるはなきにいたるのであるから、もはや、悟ったのさとらないのといった限界はとおく超えられて、みんながひとしく菩提樹のもとにあって端坐し、ともどもに最高の大説法を展開して、最上無為なる深き智慧を説きいでるのである。

しかるに、そのような悟りは、またひるがえって、気の付かないうちにも、いつしかお互いに相助ける道が通じているのである。だから、坐禅する人は、かならず、ふるい身心をぱっと脱ぎすて、これまで抱いていた知見や思量もきっぱりと断ち切って、ついに本物の仏法に会うことができるし、また、そこでひるがえって、数かぎりない仏たちの道場にあって仏事を修する人々を助けて、あるいは仏の道をのぼりゆく機縁をあたえ、あるいは仏の道をさらにすすむことを激励する。

さらに、ここにいたれば、十方の世界の、土地も草木も、牆壁(しょうへき)瓦礫(がりゃく)も、すべてみな仏事を行ずるのであるから、そのおこす風になぶき、水に潤されるものは、すべてみな、冥々のうちにも、仏のふしぎな教化にあずかって、まもなく悟りを志現するにいたる。さらにはまた、その水や火を受用するものも、みなすべて、本来成仏の仏の教化を他にも伝えるのであるから、それらのものだちとともに住し、ともに語りあうものも、またことごとく、たがいにみんな限りもない仏徳をそなえるにいたる。かくして、つぎからつぎへとひろく作用して、尽きることなく、間断することなく、思議すべからざる、量るべからざる仏法をも、よくあまねき存在の世界の内外に伝わりひろまらしめるのである。だが、しかし、それらもろもろの当人たちは、そんなこととはすこしも気が付かない、というのは、それらのことはすべて、静かななかで、なんの人為をも加えないで、じきじきに悟られるものだからである。もしも凡庸なものだちの思うように、修と証とが別々のものであるならば、それぞれちゃんと気も付こうというものである。それを、もしも気が付くというものならば、それは悟りというもののありようではない。悟りのありようは、人の迷悟のおよばざるところなのである。

また、その心とその対象とは、ともにおなじく静かななかにあっても、なお悟境を出たり入ったりはするけれども、それも、すべては自受用の境地においてすることであって、塵ひとつ動かすわけでも、相(すがた)ひとつ変えるわけでもなく、しかも、広大なる仏のわざを実現し、深くして微妙なる化導(けどう)をおこなう。そして、その化導のおよぶ草木や土地は、いずれも大いなる光明を放ち、深くして妙(たえ)なる法を説いて極まるところがない。また、草木や牆壁がよく生きとし生けるもののために法を説けば、また、生きとし生ける者もまた、ひるがえって草木牆壁のために法をのべる。かくして、みずから覚(さと)るにも、また他を覚らしむる場合にも、もちろんぴたりと悟りの相をそなえて欠くるところがなく、またよく悟りのありようにかなうて怠るところもないのである。

そんな具合であるから、坐禅というものは、一人がいとなむ一時のいとなみではあるけれでも、なおよくもろもろの存在と冥々のうちにも通い、また、あらゆる時に易々として相通ずるものであるから、尽きることのないこの存在の世界のなかにあって、常恒すなわち過去と現在と未来とにわたって、よく仏の化導のいとなみをなすのである。あれもこれも、ひとしくともに修し、ともに悟るのである。けっしてただ坐しているあいだだけの修行ではないのである。そのありようは、いうなれば、空を打って響(ひびき)をなすというものであり、あるいは、鐘をついてその前後にもなお綿々として妙なる声をきくというものであろうか。いや、それきりではない。さらに誰も彼もが、みんな本来の面目に本然の修行をそなえているのであるから、それはもう量り知り得るところではないのである。かくて、知るがよろしい、たとい十方世界の数かぎりない仏たちの力をあつめ、その仏の智慧をもって、一人の坐禅の功徳を量りきわめようとしても、とてもその傍(そば)にもよりつけないであろう。(275~277頁)

〈注解〉慧可大師;禅門の第二祖、神(じん)光慧可(593寂、寿107)である。

大鑑禅師;禅門の第六祖、大鑑慧能(713寂、寿76)である。

看経;禅家では「かんきん」と読むならいとする。経を黙読することをいうが、のちには読経(どきょう)、諷経(ふぎん)をもいうこととなった。

心印;仏心印である。仏心のありようはみなおなじであるから、これを心印というのである。

身心脱落;我が身心を脱けきるというほどのことばであるが、道元がこのことばにこめた意味については、この『正法眼蔵』の全体を通じて味わいとっていただきたい。

三途六道;三途(ず)は地獄道・畜生道・餓鬼道である。六道は、それに修羅・人間・天の三道を加えたもの。だが、ここではもっと漠然と、あらゆる世界の生きとし生ける者をいう。

修証;修は修行であり、証は証得すなわち悟るである。しかるに、道元は、その修と証とは、両段すなわち別々のふたつのものとは考えられないとするのであるから、「修証」と熟して用いるのが、その独特の用語法である。

■いま、坐禅の功徳の高大なることを説き終わった。だが、愚かなる人は疑っていうであろう。仏法におおくの門がある。それなのに、なにゆえならば一途に坐禅をすすめるのであるか、と。

示していう。それは坐禅が仏法の正門であるからである。

問うていう。なにゆえひとり坐禅をもって、正門なりとなすか。

示していう。

大師釈尊は、あきらかに仏道を悟るすばらしい方法を正伝したもうたのであり、また、三世の如来たちは、いずれもみな坐禅によって仏道を悟ったのである。だからして、これを仏法の正道であるとするのである。それのみではない。西の方天竺、東の方中国のもろもろの祖師たちも、みな坐禅によって仏道を悟ったのである。だからして、いまその正門を人々に示すのである。(280~281頁)

■なるほど、あるいは如来の妙術を正伝するといい、あるいは祖師たちの跡を訪ねるといい、まことに凡人の思慮のおよぶところではない。だがしかし、読経や念仏もまた、おのずから悟りの因縁となり得るであろう。それなのに、ただ空しく坐して、なんのなすところもないというのでは、いったい、なにをもって悟りを得る手だてとするのであろうか。

示していう。

なんじはいま、もろもろの仏の入りたもう三昧の境地たる、この最高の大いなる教えを、むなしく坐してなんのなすところもないと思ったのであるが、それは大乗をそしるものというものである。その迷いのふかいことは、たとえば、大海のなかにいながら、水がないというようなものである。すでに忝(からじけ)なくも、もろもろの仏たちのみずから浸っている三昧の境地に安坐しているのである。それがもう広大なる功徳というものではないか。可哀そうに、汝はまだ眼がひらけず、まだ心は酔うているのであろうか。

いったい、もろもろの仏たちのまします境地というものは、まことに不思議すぁって、人の思いのよく及び得るところではない。ただ、信心のただしい、すぐれた機根のもののみが、よく入ることを得るのである。信心のない人は、たとえ教えても、とても耳には入りはしない。思えば、かの霊鷲山(りょうじゅせん)のつどいにもなお、仏が「退くもまた佳(よ)いかな」と仰せられたような人々のあったという。そもそも、心に正しい信がきざしたならば、修行し、仏道をまなぶがよいのである。そうでなかったならば、しばらくやめておくのがよろしい。ただ、むかしから一向に法のうるおいに与(あずか)ることがないのを恨むよりほかはあるまい。

また、なんじは、読経や念仏をつとめることによって得る功徳というものを、知っているであろうかどうか。ただ舌をうごかし、声をあげるだけで、それが仏事のいとなみであり、それで功徳があるのだと思ったならば、まったくとるに足りない。それが仏法かというならば、それは仏法からはなはだ遠く、いよいよ遥かである。そもそも、経典をひもといて読むということは、仏が頓教(とんきょう)と漸(ぜんきょう)教の修行のありようを説いておられるのを、よく研究して知り、教えのとおりに修行すれば、それでかならず悟りも得られるといったものである。いたずらに思慮分別をついやして、それでもって悟りを得る功徳にしようとするのではない。ただむやみに千辺万遍の口誦(くじゅ)をかさねて、それによって仏道にいたろうなどというのは、たとえば、梶棒を北にむけて、それでもって南方越の国にむかおうと思うようなものである。あるいは、またたとえば、円い孔に四角の木をいれようとするにおなじことである。また、文字は見ながらも、その修する道には暗いのであるから、それはちょうど、医学をまなぶものが、薬を調合することは忘れたようなもので、なんの役にもたたない。ただひまもなく口から声をだしているところは、まるで春の田の蛙がひるも夜も鳴いていりようなもので、結局なんの益もない。まして、いわんや、ふかく名利にまよっている連中はなかなかそれらのことを捨てがたい。それは、利をむさぼる心がはなはだ深いからである。昔もすでにその例がある。いまの世だってないはずはない。もっとも憐れなことではある。

ただ、まさに知るがよい。この七仏以来のすばらしい教えは、道を悟り、心あきらかなる師匠によって、その心は契(かな)い、悟り入ることを得たる修行者が正伝をうける、そのときはじめてぴたりとその意味を受領することができるのであって、文字によってまなぶ学僧たちのとうてい知り及ぶことのできるところではない。だからして、このような迷いはすてて、ただ正しき師の教えにより、坐禅して道をまなび、諸仏のみずからたのしんでおられる自受容三昧なる境地を、わが身をもって悟りとるがよいのである。(283~265頁)

■いまわが国に伝わっているところの天台宗や華厳宗は、いずれも大乗仏教の究極のものである。ましてや真言宗のごときは、大日如来がじきじきに金剛薩埵(さった)に説き与えたところであって、師資相承(じょう)の旨あきらかである。また、その説くところも、即心是仏(すなわち心これ仏)といい、あるいは是心作仏(この心仏となす)とて、ながいながい間の修行を経ることなくして、一たび坐すればたちまち五仏の悟りを成ずることができるという。それはもう仏法の妙をきわめたものということができる。それなのに、いまいうところの修行は、いったい、なにの勝れたところがあればとて、彼らをさしおいて、もっぱらこれをすすめるのであるか。

示していう。

知るがよろしい。仏教においては、教の優劣を論ずることなく、法の浅深を択(えら)ぶことなく、ただ修行の真偽を知るのがよいのである。かっては、草花や山水にひかれて仏道に入ったものもあった。あるいは、土石沙礫(どしゃくしゃりゃく)をにぎって仏の心印を頂戴したということもあった。ましてや、森羅万象のなかにも仏法を語る広大の文字はゆたかに存し、あるいは、微細なる塵のなかにも大いなる説法はおさめられているという。であるからして、即心即仏(すなわち心すなわち仏)などということばも、いうなれば水のなかの月である。あるいは、即坐成仏(すなわち坐すれば仏と成す)ということも、また鏡のなかの影にすぎない。そのような言葉の技巧には拘らないがよろしい。それに反して、いま直証菩提(ただちに菩提を証する)の修行をすすめるのは、まさしく仏祖より直々に伝えてきたすばらしい道を示して、ほんとうの仏教者ならしめようというのである。

また、仏法の伝授を受けるには、かならず証(さと)り得た人をその師匠とするがよろしい。ただ文字にのみこだわる学者は、その導師とするに足りない。それでは、まるで盲人が盲人たちを案内するようなものである。いま、この仏祖正伝の門においては、みんな悟って道を成した老師をうやまって、仏法を護持せしめている。だからして、あの世この世の神々もきたって帰依し、あるいは、すでに悟りを得た聖者もきたって法を問うことがあるが、そのような時にも、かならずそれぞれに、仏祖所伝の心をあかす方法を与えるのである。そんなことは、他の門においては、いまだかって聞かないところである。仏弟子というものはただ仏法をならうがよいのである。

また知るがよらしい。われらはもともと、わが本来の面目として、最高の智慧をちゃんとわが身にそなえているのであるが、ただ、ああこれかと思いあたることができないばかりに、むやみにいろいろの考え方をおこす癖があり、それをわが身のほかの物と思うからして、いたずらに大本をとり間違えることとなるのである。また、そのいろいろの考え方から、甲斐もなきさまざまの所説が生れてくる。あるいは、十二因縁といい、あるいは二十五有(う)といい、あるいは三乗といい五乗といい、あるいはまた有仏といい無仏といって、その所説は尽きるところもない。だが、それらの所説をまなんで、それが仏法を修行する正しい路だと思ってはならない。そんな具合ではあるけれども、いまはまさしく仏の心印により、万事を捨てさって、ただひたすらに坐禅する時、その時はじめて、迷いだ悟りだという計らいもこえ、凡夫の聖者のというわかちにも拘らず、一挙にして規矩の束縛を脱ぎすてて、おおいなる智慧を味わうことができるのである。かの文字という方便にかかずらわるものの、とても肩をならべ得るところではないのである。(288~290頁)

〈注解〉毘盧遮那如来;宇宙の実相を仏格化したものであるが、ここでは密教の教主としての大日如来を意味しておる。

即心是仏;また「即心即仏」ともいい、「即心作仏」ともいう。この心そのままが仏であるというのである。(291頁)

■ ※ここでは、戒・定・慧の三学のなかに定学があり、また、いわゆる六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・静慮〈禅〉・智慧の六種の大行)もしくは六度のなかには、禅度(禅波羅蜜)があるが、それなのに、「なにによりてか、このなかに如来の正法をあつめたりといふや」と問う。それに対する道元の答えは、詮ずるところ、「これは仏法の全道なり、ならべていふべきものなし」ということであった。

三学;仏道修行者のかならず学すべきものとして、戒・定・慧の三つの道法をあげて、これを三学という。

六度;また六波羅蜜という。度とは、波羅蜜(paramita or parami)の意訳である。菩薩の修すべき六種の大行として、布施(壇)波羅蜜・持戒波羅蜜・忍辱波羅蜜・精進波羅蜜・静慮(禅)波羅蜜・智慧(般若)波羅蜜をあげるのである。(294~295頁)

■ ※ここでは、四儀すなはち行・住・坐・臥の四つのなかにおいて、仏教者が坐の一儀のみをとりあげて、そこに修行と証得の焦点をあてるのは何故であるかと問う。それに対する道元の答えは、ただ、もろもろの仏祖がみなこの道によられたという事実を中心としている。

四儀;また四威儀という。行・住・坐・臥の四つがぴたりと作法にかなえることをいう。(296~297頁)

■問うていう。

その坐禅の行は、まだ仏法を悟り得ないものには、なお坐禅し道を修して、その悟りを得るがよいであろう。だが、すでに仏の正法をあきらかにすることを得た人には、もはやなんの必要があろうか。

示していう。

愚かなるもののまえでは、夢を説いてはならぬ、やまがつの手には、舟の棹(さお)をあたえがたいというけれども、やはり教えを説くことにしよう。そもそも、修と証とが別のことであると思っているのは、とりもなおさず外道の考え方である。仏教では、修と証とはまったくおなじものである。いまでも証のうえの修なのであるから、初心の学道がそのままもとからの証のすべてである。だからして、修行の用心をあたえるにも、修のほかに証を期待してはならぬとおしえる。この道が直指人心なのであるのは、もともと証(さと)っているからであろう。すでに修をはなれぬ証であるから、証には終わりがなく、また、証をはなれぬ修であるから、修には初めがない。そのゆえをもって、釈迦如来や迦葉(しょう)尊者は、ともに証のうえの修にひきまわされていた。仏祖の仏法に安住し仏法を護持されてきたあとは、みなそのようである。

とすると、すでに証をはなれぬ修があるのであるから、わたしども、さいわいにしていささかこの素晴らしい修を伝うるものは、その初心の学道において、たちまちにして、いささかの証をおのずからにして得るのである。知るがよろしい。この修をはなれぬ証をけがすことなからしめんがため、仏祖もしきりに修行をゆるくしてはならないと教えている。かくて、この素晴らしい修をはなてば、もとよりの証が掌(て)のなかにあふれ、そのもとよりの証よりたちいでてみれば、かの素晴らしい修が全身におこなわれているのである。

また、大宋国においてまのあたりに見たところによれば、諸方の禅院には、すべて坐禅堂があって、五百六百から千人二千人におよぶ僧を収容して、日夜に坐禅をすすめていた。その席主には、仏の心印を伝える師匠があって、つねに仏法の大意をくわしく聞くのであるから、修と証とが別のものではないことがよく理解されていた。だからして、席主もまた、自分の門下にあつまった者ばかりではなく、すぐれた求道者、仏法のなかに真理をたずねる人など、初心と後心とをえらばず、俗人と出家たるとを論ぜず、すべて仏祖の教えにより、師僧の道にしたがって、坐禅して道を修するがよいとすすめるのであった。

みなさんも聞いたことがありはしないか、祖師はいった。「修といい証ということがないわけではない。ただ取捨してはいけない」と。また、祖師はいった。「道を見たものが、道を修するのだ」と。しるがよろしい、得道のなかにあって修行するがよろしいといっておるのである。(298~300頁)

〈注解〉山子;「さんす」と読む。やまがつである。きこりなどである。

得道;仏道を証すること、すなわち証である。(300~301頁)

■問うていう。

わが国において、これまでに仏教をひろめた諸師のかたがたは、いずれも、中国にわたって法を将来した時に、なにゆえにこの旨をさしおいて、ただ教説をのみ伝えたのであろうか。

示していう。

むかしの人師(にんし)たちがこの法をつたえなかったのは、まだ時期がいたらなかったからであろう。

問うていう。

かの上代の人師たちは、いったい、この法を会得しておられたのでありましょうか。

示していう。

会得しておられたのならば、ひろめられたであろう。(302頁)

■問うていう。

あるものがいわく、「生死(しょうじ)をなげくことはない。生死をはなれるについて、至極すみやかなる道がある。それは、いうところの心性はつねに存して生滅することのないものだとの道理を知ることである」と。その意味するところは、この身体(だい)こそは、生あればまたかならず滅にうつりゆくものであっても、この心性はけっして滅することがない。だから、よく生滅することのない心性がわが身にあることを知れば、それを本来の性とするのであるから、身はただ仮の相(すがた)であって、此処に死し、彼処に生ずるさだめなきものすぎない。それに反して、心はすなわち常に存して、過去も現在も未来も、けっして変わることがない。そのように知るのは生死をはなれるとはいうのである。その意味を知るものは、もはや従来の生死の考え方はなくなってしまって、この身が終わる時には、いわゆる性海(しょうかい)に入る。性海とは、存在のあるがままの相を海にたとえていうことばである。そして、その性海に流れそそいでしまえば、もろもろの仏・如来のように、すばらしい徳があのずから具(そな)わるのである。だが、いまはたとえ知り得ても、前世のまよえる業によってなれる身体としてあるから、もろもろの聖者とおなじでないのである。ただ、いまだこの意味を知らない者は、いつまでも生死の流転を繰り返さなければならない。だから、すなわち、いそいで心性の常住ということを知るがよいというのである。いたずらに呆然として一生をすごしたって、なんの期するところもないではないか。このようにいう意味は、いったい、これは本当に、もろもろの仏祖の道(どう)にかなったものであろうか、どうか。

示していう。

いまいうような考え方は、まったく仏法の考え方ではない。それは先尼外道なるものの説である。

かの外道の考え方はこうである。――わが身のなかには、一つの霊妙な知がある。その知は、つまり、なにかにぶっつかると、よく好悪をわきまえ、あるいは是非を判断する。痛い痒いを知り、苦しい楽しいを知るのも、みなその霊妙な知の力である。しかるに、その霊妙は、この身が滅する時には、この身を脱(ぬ)けてかしこに生まれるのであるから、ここでは滅するように見えるけれども、かしこに生まれているのであるから、いつまでも滅することなくして常住である。――かの外道の考え方はこんな具合である。

それなのに、その考え方に倣(なら)うて、それが仏法であるとするのは、たとえば、瓦礫(がりゃく)をにぎって、それを黄金の宝と思うよりも、なお愚かである。その恥かしい馬鹿馬鹿しさは、たとえるものもない。唐の慧忠国師も、それをふかく誡(いまし)めたことであった。思うに、心は常住であり、身は滅するなどと変な考え方をはたらかせて、これを諸仏の教えに等しいなどといい、生死の本来の原因をとりあげて、それで生死をはなれたのだと思うなど、馬鹿馬鹿しいことではないか、なんとも可哀そうなものである。そんなのは、ただ外道の曲がった考え方だと知るがよく、耳にもふれないがよろしい。

だが、いまは、やむを得ず憐みをたれて、なんじの曲がった考え方をすくってあげたい。知るがよろしい。ぶっきょうでは、もとから、身心(じん)一如にして、また性相(しょうそう)不二なりという。身と心は一つであって、また、本性と相状とは別々ではないというのであって、このことは、西の方天竺でも東の方中国でもおなじく知っていることであって、けっして疑ってはならないところである。さらにいうならば、仏教のなかにおいても、常住を説く法門においては、よろずの存在はみな常住であるといって、身と心をわけることはない。また、空無を説く法門においては、もろもろの存在はみな空無であるというのであって、性と相をわけることはない。それなのに、どうしても身は滅すれども心は常住であるといえようか。それでは正しい理にそむくことになろう。そればかりではない、仏教においてはまた、生死はとりもなおさず涅槃であると悟るがよいのであり、いまだかって生死のほかにおいてはまた、生死はとりもなおさず涅槃であるとさとるがよいのでり、いまだかって生死のほかにおいて涅槃を説いたことはない。ましていわんや、心は身をはなれて常住であると理解することが、それが生死をはなれた仏の智慧であると考えたとしても、その理解や知覚をいとなむ心は、なお生滅するものであって、けっして常住ではない。それではつまらないではないか。よくよく考えてみるがよろしい。

そもそも、身心一如ということは、これはもう仏教のつねに説くところである。それなのに、どうしてこの身が生じもしくは滅する時、心だけがひとり身をはなれて生滅しないということがあり得ようか。もし一如なる時もあり、一如ならぬ時もあるとしたら、それでは仏説はしぜん虚妄だということになるであろう。また、生死は除かねばならぬものだと思ったならば、それでは仏法をきらうという罪を犯すこととなる。つつしまねばことではある。

また、知るがよろしい。仏法において、心性を「大総門の法門」というのは、この大いなる存在の世界をひっくるめて、まったく性と相とをわかつこともなく、生の滅のということもないのをいうのである。発心・修行よりこのかた悟りを開き涅槃にいたるまで、すべて心性ならざるはないというのである。あるいはまた、一切のもろもろの存在も、よろずの現象のならびおこるさまも、すべてはただ一心のしからしめず、かかわらざるところはないというのである。つまり、この仏教のもろもろの法門が、ひとしくみな一心の関わるところで、けっしてそれに異なるところはないと説く。それこそ仏教においていう心性をよく知っておるものといえるのである。

それなのに、ここでは、身と心とを区別し、また、生死と涅槃とをわかって考えようとしているが、そんな必要はすこしもないことである。わたしどもはすでに仏教者である。外道の考え方をかたる狂者のことばなどに、耳を藉(か)してはならない。(306~309頁)

〈注解〉先尼外道;先尼は、“Seniya”の音写。仏陀在世のころの外道であって、「裸体にして狗行者なるセーニャ」として登場する(南伝、中部経典、五七、狗行者経)。また、大乗の経論においては、しばしば勝軍梵志(セーニャの意訳)として登場し、本文にみるがごとき説をなしている。

生死すなはち涅槃;「生死」の巻の「生死すなはち涅槃とこころえて」以下を参照されたい。

菩提涅槃;発心・修行・菩提・涅槃の四つの道程のうち「発心・修行より」を略して、「菩提涅槃におよぶまで」というのである。菩提はまた成道ともいう。(310~311頁)

■問うていう。

この坐禅をもっぱらに行ずる人は、またかならず戒律を厳守すべきであろうか。

示していう。

戒を持し清(しょう)浄を行ずることは、とりもなおさず禅門のさだめであり、仏祖の家風である。だが、まだ戒を受けないもの、あるいは、戒をやぶったものも、その資格がないわけではない。

問うていう。

この坐禅をつとめる人は、また真言や止観の行をかね修(しゅ)しても、また差し支(つか)えないものであろうか。

示していう。

中国にあった時、老師にその秘訣をきいた折、西の方天竺や東の方中国においては、いまもむかしも、仏の心印を正伝して祖師方にして、そのような行を兼ね修したものは、まだ聞いたことがないとの仰せであった。まことに、一事をもっぱらにしなくては、一智に達することはできないものである。(312頁)

〈注解〉真言;真言とは、“Mantra”の訳語で、また咒(じゅ)と訳する。秘密語であって、それを唱えるのである。

止観;天台の行法であって、一種の精神集中である。天台では止観を説いて、「法性寂然名止、寂而常照名観」(法性寂然を止と名づけ、寂にして常に照するを観と名づく)とある。分別を断って心を一処におき(止)正智をもって諸法を照見する(観)のである。(312~313頁)

■問うていう。

この坐禅の行は、在俗の男女(なんにょ)もつとめることができるものであろうか。それとも、ひとり出家の人のみの修するものであろうか。

示していう。

祖師の仰せには、仏法を会得することは、男女をえらび、貴賤をわかってはならないと見える。

問うていう。

出家の人は、この世の雑事をはなれてしまっているから、坐禅修行にさわりがないであろうが、在俗のものには、いろいろとうるさい務めがある。これは、いったい、どのようにしてひたぶるに修行すれば、自然に仏道にかなうことができるであろうか。

示していう。

そもそも、仏祖はあわれみの心をもってこそ、この広大なる慈しみの門をひらいたのである。だから、これはすべての人々をして入らしめようとするものであって、誰だって入れないものがあってはならない。だからして、古今をたずぬれば、その証はすくなくない。さしあたり、代宗や順宗などの方は、帝位にあって天下の政治をつかさどり、たいへん忙しかったけれども、なおよく坐禅修行して、仏祖の大道を会得することを得た。また、李相(しょう)国や防相(しょう)国といった方は、いずれも帝を補佐する位にあって、その股肱(ここう)たりし人物であるが、なおよく坐禅修行して、仏祖の大道を悟ることを得た。それも、ただ志のありしによるのであろう。在家であったか出家であったかの関わるところではあるまい。また、とくなにが大事でなにが大事でないかをわきまえる人は、おのずから信ずるところもあろう。ましてや、世のなかの務めが仏法をさまたげると思うものは、ただ世のなかには仏法がないということのみを知っていて、まだ仏法のなかには世間のようなことはないということを知らないのである。

ちかごろ大宋国に、馮相公(ひょうしょうこう)というものがあった。仏祖の道に長じた大官であったが、のちに詩をつくって、自分のことを詠じていった。

「公事の余暇に坐禅をこのんだ

脇を床にして眠ることもまれであった

それでも長官の職を務めていたが

また長官の名をもって世に知られた」

これは、お上の務めにひまもなかった身であったけれども、仏道に志がふかかったから、仏道を悟ることができたというのである。彼らをもって自分をかえりみ、昔を手本として今をかんがみるがよろしい。

なお、大宋国では、いまの世にも、国王・大臣・官民・男女をえらぶことなく、すべて仏祖の道に心をかけないものとてはなく、また、武門も文人も、いずれも坐禅修行をこころざさぬものとてはない。そして、こころざすものは、たいてい心境を開発しているようである。それによっても、世の務めが仏法を妨げないことが、おのずから知られるのである。

また、国家に真実の仏法がひろまってくれば、もろもろの仏、もろもろの神も、たえず守護するがゆえに、天下はおのずから泰平である。政治のことが泰平であれば、仏法もおのずからそのお蔭をこうむるのである。

また、釈尊の在世のころには、なお邪(よこしま)まの人、邪まの説がはびこっていた。だが、祖師たちの門下においては、獣(けもの)をとり、樵(きこり)する人もよく悟りをひらく。ましてや、その余のものにおいてをやである。ただ、ただしい師の教えをたずねるがよいのである。(315~317頁)

■問うていう。

この行は、いま末代の悪しき世においても、なお修行すれば悟りを得ることができるであろうか。

示していう。

仏教の理論をあげつらう宗派においては、いろいろの名目をたて法相(ほっそう)をかたるのであるが、なお大乗至極の教えを説く宗派においては、正法(ぼう)・像法(ぼう)・末法をわかつことはない。修すればみな仏道を悟り得るという。ましていわんや、この仏祖からじきじきに伝授される正法においては、悟るにしても、自由の境地にあそぶにしても、それはいずれも自分の財宝を味わうことにほかならない。だから、悟ったかどうかも、それを修するものが自然に知ることであって、それはちょうど水を用得るものが、その冷たい温かいを自分で知るようなものである。(318頁)

〈注解〉教家;教相門である。教相すなわち仏教の理論を研究する宗派である。(319頁)

■問うていう。

ある者がいうには――仏法においては、即心是仏(すなわち心これ心)という意味をよくよく弁(わきま)えたようなものは、口に経典を誦(しょう)せずとも、また身に仏道を行ぜずとも、なおよく仏法において欠くるところはないのである。ただ、仏法はもともと自己にあるのだと知れば、それで仏道はすべて悟り得たのである。そのほかには、さらに他にむかって求むべきものはない。ましていわんや、わざわざ坐禅修行などをいとなむの要があろうか。――と、そのようにいうものがあるが、いかがであろうか。

示していう。

そのことばは、まったく取るにたりない。もし、なんじがいまいうようであるならば、心ある人々は、たれかがその由(よし)を教えてくれるであろうから、知らないはずはないのである。

知るがよい。仏法というものは、まさしく自他という考えをすててまなぶべきものである。もしも、自己はすなわち仏なりと知ることをもって仏を悟ることだとするならば、そのむかし釈尊がわざわざ教化伝道の労をいとなまれようはずはない。では、ひとつ、いにしえの千徳のすぐれた話頭をもって、そのことを証(あか)ししてみよう。

むかし、報恩玄則(ほうおんげんそく)という僧が、まだ法眼(げん)禅師の門下にあって監院を務めておったころのこと、法眼禅師が問うていった。

「玄則監寺(かんす)よ、そなたはわしの門下にあって何年になるかなあ」

玄則はいった。

「わたしは御老師の門下にまいりまして、すでにもう三年たちました」

禅師はいった。

「そなたはわしの後輩である。なんでいつもわしに伝法のことを問わないのだ」

玄則はいった。

「わたしは、和尚にうそを申すことはできません。わたしはかって青峰(せいほう)禅師のところにありましたとき、仏法につきましてはいちおうおちつくところに到達いたしました」

禅師はいった。

「そなたは、どのようなことばによって、落ちつくところにいたることができたのであるか」

玄則はいった。わたしは、かって青峰禅師に問うたことがあります。――仏道をまなぶものにとって、自己とはいったいいかなるものでありましょうか――と。すると禅師は、――それは、ひのえやひのとの童子が来って火を求めるということじゃ。――と仰せでありました」

法眼はいった。

「うん、いいおことばじゃ。だが、おそらくは、そなたには理解できなかったのではないかなあ」

玄則はいった。

「ひのえも、ひのとも火に関しております。だから、火をもてるものが、さらに火をもとめるということは、自己をもって自己をもとめるに似ているのだなあと理解いたしました」

法眼はいった。

「それで判った。そなたは会得できなかったのである。仏教がそのようなものであるならば、とても今日まで伝わっているはずはないわい」

そこで玄則は、むっとしてその座を立った。だが、その途中で彼は思った。――禅師は天下の善知識である。また、五百人の雲水の大道師でもある。その方がわたしの非をいさめるのであるからには、きっと大事なことがあるのだろう、――と。そこで、彼は、もう一度、禅師のもとにひきかえして、心のうちをうちあけ、お詫び申しあげて、さて問うていった。

「仏道をまなぶものにとって、自己とはいったいいかなるものでありましょうか」

法眼はいった。

「それはまあ、ひのえやひのとの童子が来やってきて、火を求めるようなものじゃなあ」

 玄則は、そのことばによって、大いに仏法を悟ったという。

それでもよく判るではないか。自己則仏(自己がすなわち仏)ということを理解することをもって、それで仏法を知ったというものではないのである。もしも自己則仏ということを理解することが仏法であるとするならば、法眼禅師はかさねてさきのことばをもって導くようなことはしなかったはずである。また、あのように戒(いまし)めることもなかったはずである。この道の修行者たるものは、はじめて善知識に相(まみ)えてから、ただひたすらに修行の作法をよく問うて、まっしぐらに坐禅修行するがよいのであり、すこしばかりの知識や理解をも心にとどめてはならない。そのようにすれば、仏法のすばらしい方法は、けっして空しいものではないのである。(322~324頁)

〈注解〉則公監院;監寺(かんす)職をしていた玄則である。監寺または監院といい、六知事の一。住持に代わって一寺のすべての寺務を監督する職であり、玄則は報恩玄則であって、法眼文益の法嗣(ほっす)である。

法眼禅師;法眼文益(958寂、寿74)である。羅漢桂琛(らかんけいしん)の法嗣であり、法眼宗の祖となった。(325頁)

■問うていう。

印度や中国の古今のことを聞くと、あるいは竹の声を聞いて道を悟ったものがあり、あるいは花の色を見て心がわかったというものがある。ましていわんや、釈尊は明星を見たときに道を成じ、阿難尊者は門前の旗竿がたおれたときに法を証したという。それのみならず、六祖より以後、五家にいたるまでの間にも、一言・半句によって仏の心印を証得したというものがおおいが、彼らはかならずしも、みなかって坐禅修行したものばかりではあるまい。

示していう。

古今にわたって、色を見て心をあきらめ、声を聞いて道を悟ったというその人たちは、いずれもみな、道を修するにあたっては、あれこれと思いまどうことなく、ずばりと純一無雑にして修行にはげんだことを知るがよろしい。(326頁)

■問うていう。

西の方天竺や中国においては、人はもともと質実正直である。それも世界の中央に位する国柄のしからしむるところであろうが、それによって、仏教の教化を受けても、すらすらと会得することができる。しかるに、わがくにでは、むかしから仁の人、智の人もすくなく、仏法のよき種子もまずしい。それも野蛮未開の国柄のしからしめるところであって、恨めしいことではある。また、この国の出家たちは、大国の在家のものにも劣っている。世をあげて愚かにして、心のせまいものばかりである。けばけばしい功徳にばかり心をひかれ、人の目に見える善ばかりをこのむ。そのような連中では、たとい坐禅したからといっても、たちまち仏法も悟り得るというわけにゆきましょうか。

示していう。

いうとおりである。わが国の人には、まだ仁・智の人もすくなく、また人間が曲がっている。だから、ずばりと教法を説いても、甘露がかえって毒となることもあろう。名利には赴(おもむ)きやすく、迷いはなかなかに融けがたい。ではあるけれども、仏法を証(さと)るということは、かならずしも人々の世智にのみよるものではない。仏がなお世にましましたころにも、てまりよって四果を証したというものがあり、あるいは、たわむれに袈裟衣を身にまとうて仏道を証得したというものもある。それらはいずれも暗愚のやからであり、とんでもないしれ者であった。だが、ただ、正しい信のたすけるところによって、迷いを離れる道があったのである。また、愚かなる老いたる比丘が法を説き得ずして黙坐しているのを見て、彼のために供養の食事を設けたひとりの在家の女性が悟りをひらいたというが、それは、智にもよらない、文にもよらない、また、ことばにもよらず、語るをもまたず、ただひとえに正しい信心にたすけられたものであった。

また、仏教がこの世界にひろまったのは、おおよそ二千年あまりのことである。その国にもいろいろあって、かならずしも仁・智の国ばかりではなく、人もまたかならずしも智さとく聡明のものばかりとはかぎらない。ではあるけれども、如来の正法は、もともと不思議なおおきな功徳の力をそなえているものであって、時がいたればかならずその国土にひろまるのであり、人もまたちゃんと正しい信をもって修行すれば、利根と鈍根とをわかつことなく、ひとしくみな仏道を悟ることを得るのである。だからして、わが国は、仁・智の国でもなく、人々も知解にすぐれてはいないからとて、それで仏法を会得することはできないと思ってはならない。ましてや、人々はみな智慧の正しい種子にゆたかである。ただよくそれについて承(うけた)まわることが稀であり、したがってまた、よくそれを味わうこともまだできぬということであろう。(328~330頁)

〈注解〉事相;理に対する事であり、性に対する相である。したがって、事相の善といえば、人の目に見える善である。

てまりによりて四果を証す;『雑宝蔵経』巻八に見える説話。ひとりの年老いて耄碌した比丘が、年少の比丘からからかわれて手鞠で頭を打たれたことが機縁となって、よく四果を証することを得たという。四果とは、初期の仏教において、修行の証果を四つの段階にわかって語ることばであって、預流果、一来果、不還(げん)果、無学果の四つがそれである。

癡老の比丘黙坐せしみをみて;『雑宝蔵経』巻八に見えるひとりの信心あつい在家の女性があって、老いたる愚かなる比丘のために供養の食(じき)を設けた。しかるに、その比丘は食事が終わっても、法を説くことを得ずして、黙念として坐していた。それを見てかの在家の女性は悟りをひらくことを得たというのである。(331頁)

鶏足の遺風;鶏足山はかの摩訶迦葉が所住のところである。よって鶏足をもって迦葉を指すのである。(335頁)

渓声余韻8(岡野注;増谷文雄のあとがき)

■その道元禅師独特の仏教述語としては、なにより第一に、まず「現成」ということばがあり、ついで「修証」ということばがある。それだけは、是非ともはっきりと把握しておかなくてはならない。

その二つのうち、「修証」ということばについては、道元禅師ご自身が、かの「弁道話」のなかに美事な説明を記しておられる。いわく、

「それ修証はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道の見(けん)なり。仏法には、修証これ一等なり」

またいわく

「すでに修は証なれば、証にきはなく、証の修なれば、修にはじめなし」

それには、もはや、わたしの冗舌を加える余地もない。(339頁)

■それに反して、「現成」ということばについては、これまで、かならずしも明晰な注釈に出会うことができなかった。しかるに、幸いにして、わたしは、はからずも、「大蔵経」のなかで「現成等覚」という訳例にめぐり遇うことができ、また、この『正法眼蔵』のなかでも、道元禅師ご自身が「現成正覚(がく)」ということばを用いることを知ることができた。とすれば、それは「阿毘三仏陀」(abhisambuddha)の訳語であることも、容易に見当がつく。さらにはまた、その「阿毘」(abhi)を意訳したであろう「現成」とは、直観の成立、つまり悟りの実現を表現しているのだということも知ることができた。そのことについては、この『現代語訳 正法眼蔵』の第一巻、「現成公案」の巻の開題にもいささか記しておいたから、お読みくださるならば幸いである。(339~340頁)

(岡野注;この解釈に、私は疑問に感じる。私の「現成」ということばの解釈は、ランダムドットステレオグラムのように、三界は、隠れなく、現に、ありありと現れ成っている、と考えます)

■では、ひとつ例をあげてみると、かの「現成公案」の後半につぎのような一節がある。そこには、まず「うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし」ではじまる一節があって、その後段はつぎのように記されている。

「このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるがゆゑに、かくのごとくあるなり」

そこには、べつに難しい中古文もないし、難解な中国文もない。あるいは特別な仏教述語もありはしない。それなのに、いったい何をいおうとしているのか、その意を捕捉することは容易でない。

だが、その前後には、また行李(あんり)とか、現成公案とか、あるいは仏道を修証するといった文言が見えており、また、ひろくこの『正法眼蔵』を読んでいると、この「大にあらず小にあらず」とか、「来にあらず去にあらず」などという語句は、いうなれば道元禅師の慣用句のようにして、いろいろの巻にでてくるのである。それによって、やっとわたしも気がつくことができたのであるが、それらの語句によって道元禅師が語ろうとしているのは、つまるところ、悟りの世界なのであった。仏教の究極地、諸仏諸祖の世界について語っているのであった。しかるに、そのような世界について語ることばを理解することは、いうまでもないことであるが、もはや言語や文字の問題を超えたものなのである。詮ずるところ、この『正法眼蔵』の難しさなのだと知られたのである。(340~341頁)

(岡野注;この解釈にも、私は疑問に感じる。ランダムドットステレオグラムは、見るのは難しいが、一度見えてしまえば、三界は、隠れなく、現に、ありありとそうなっているので、難解なものではない、と考えます)

(2016年11月18日)

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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