岡野岬石の資料蔵

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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『人生を〈半分〉降りる』 中島義道著 ちくま文庫

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■生きることをやめる土壇場になって、生きることを始めるのでは、時すでに遅しではないか。(12頁)(『道徳書簡集』セネカ)

■さあ家に帰ろう。そうして帰ったうえは、どうか交わりをやめ、世人との遊びを絶ちたい。世間と私とは双方からたがいに忘れ合おう。ふたたび車に乗って何を求めに行こうか。今は何の望みもない。親戚の情のこもった話を悦び、琴や書物を楽しんで憂いを消すのである。農夫は私に、もう春になったことを告げる。これから西の田に仕事が忙しくなろうとしているのだ。あるときは巾(きぬ)をかけて飾った車に命じ、あるときは一艘の舟に棹さし、うねうねとした深い谷川の奥をたずね、また高低のはげしい山路を通って丘を越えて行き、山水の美景をたのしむ。木々はよろこばしげに、枝葉がしげり花咲こうとしており、泉は滴りながら、はじめて氷がとけて流れ出ている。こんな春のいぶきを見て、万物がよい時節を得て、幸福そうな様子を、私は喜ぶのであるが、またそれに比べて私の生命がだんだん終わりになるのを思って心が動くのである。春が来て春が逝く、こうして人生は過ぎて行くのである。(14、15頁)(『陶淵明』星川清孝訳)

■青年のころから、私はこの四〇歳の時期を成功への努力の終点と決め、どんな種類のことにせよ、自分の望むことのできる限界と決めていた。この年齢になったら、そのときどんな境涯にあったとしても、そこから抜け出そうとじたばたするようなことはしないで、それからは行く末のことを心配せずに、その日その日を暮らしてゆこうと固く心に決めていた。ついにその時は来て、私はなんの苦痛も感じないで、この計画を実行に移した。(16~17頁)(『孤独な散歩社の夢想』J・J・ルソー)

■地上では、私にとってはすべては終わってしまった。善にせよ悪にせよ、人々はもう私に何もすることができない。私にはもうこの世で期待したり恐れたりすることは何一つ残っていない。……地上にある私はもと住んでいた惑星から落ちてきて別の惑星にいるようなものだ。(18頁)(『孤独な散歩社の夢想』J・J・ルソー)

■諸君は今にも死ぬかのようにすべてを恐怖するが、いつまでも死なないかのようにすべてを熱望する。(19頁)(『道徳論集』セネカ)

■自分自身の人生の利益を知るほうが、公共の穀物の利益を知るよりももっと有益なことである。最も重大な業務に最もてきしているきみの精神的な活力を、たとえ名誉はあっても幸福な人生にはなんの役にもたたない役目から呼び戻すがよい。そして考えてみるがよい。きみが若年のころから、学問研究のあらゆる修業で勉強してきたことは、巨大な量の穀物がきみの良好な管理に委ねられるためではなかったのだ。きみは何かもっと偉大でもっと崇高なものを自分に約束したはずである。(22~23頁)(『道徳論集』セネカ)

■おらゆる人間はあらゆる時代と同様に、今でもまだ奴隷と自由人とに分かれている、なぜなら、自分の一日の三分の二を自分のためにもっていない者は奴隷であるから。そのほかの点では、たとえ彼が政治家・役人・学者など何者であろうとしても同じことである。(25頁)(『人間的、あまりに人間的』ニーチェ)

■日本民族の絶滅とか人類の滅亡は大事件だけれど自分がまもなく死ぬのは大した事件ではない、と思いこんでいる人。こうした人を哲学的に分類すると「実在論者(realist)」と言えましょう。これに対して、――私のように――「自分が死ぬ」ことこそ何にもまさる大事件であり、人類の死も世界の滅亡もどこ吹く風という人々は「唯名論者(nominalist)」と称してよい。

説明すれば長くなりますが、かいつまんで言いますとこういうことです。中世以来の大論争なのですが、その論点は普遍概念に対応するもの(例えば、概念としての人間)と個物(個々の人間)とはどちらが「実在するか」という問いです。こう言うと「個々の人間が実在しているに決まっているじゃないか」と思われるかもしれませんが、それは考えを突きつめていないからです。(26頁)

〔もちろん現在の私(岡野)は実在論者です〕

■ところで、なぜ彼らが唯名論者と呼ばれるかといいますと、「普遍が実在する」と主張することが実在論だからで、この文脈で「個物のみが実在する」と主張することはすなわち「普遍はただ名だけだ」ということになり「唯名論」となるわけです。(29頁)

■ある経営学の本を書いていたときのことである。古典的業績を引用しているうちに、どうもそれにはタネ本ならぬタネ論文があるらしいことに気がついた。そこで、人気のない朝から大学の図書館の書庫に行き、お目あての論文をさがしはじめた。……棚にならんだ雑誌の背表紙を目で追いながら、ほこりをはらい、めざしている年をさがす。書架の下のほうにようやくそれを見つけて、しゃがみこんで手にとってみる。……その場で活字に目を走らせながら、ふと、私はあることに気がついて、背筋がぞくっとした。

「この論文は六五年ものあいだ、この瞬間をただひたすら待っていたんだ」

この論文はコピーをとられることはおろか、印刷されてから六五年間、一度も読まれた形跡がないのだ。……この論文はわたくしのようなような人間がどこからかやってくるのをただひたすら待っていたのである。著者はもう何十年も前に亡くなっている。……「ああ私の仕事とはこういうものだったんだ。この仕事に就いてほんとうによかった」と感慨でいっぱいになった。(105頁)(『できる社員は「やり過ごす」』高橋伸夫)

■私が専門の大家であるのは、蛭の脳髄に限るのだ。――それが私の世界なのだ!そして、それはまたれっきとした一つの世界なのだ!……なんと長いこと、私はこの一つのこと、つまり蛭の脳髄を追いかけてきたことか!ぬるぬるした真理を取り逃すまいと思って!ここに私の国があるわけだ!

――そのために私はほかのいっさいのことを投げ捨てた。そこで、私の知識のすぐ隣には、私の暗黒な無知がたむろしているということになった。私の知的良心は私が一つのことだけ知って、ほかのいっさいを知らないようにと要求する。およそ中途半端な知識の持ち主、おぼろげな者、はっきり決まらない者、のぼせて夢みごこちの者を見ると、私は嘔吐をもよおす。

私の誠実が終わるところでは、私は盲目だし、また盲目でありたいと願う。およそ知ろうとかかるかぎりは、かならず誠実でありたいと思う。つまり、過酷に厳密に狭く残酷に血も涙もなく。(107頁)(『ツァラトゥストラはこう言った』ニーチェ)

■哲学が教えるのは行なうことであって、語ることではありません。哲学が要求するのはこういうことです――各人は自己の方式にのっとって生活すること、言うことと生活が矛盾しないこと、さらに内なる生活そのものが自己のあらゆる行為と一つであって、色の違いがないことです。英知の最高の義務と証拠は、言葉と行為が調和を保つことであり、自己がどこにおいても自己自身を同等であり同一であることです。(116頁)(『道徳書簡集』セネカ)

■おもうに真に人間好きな人は、人間嫌いになるのが当然の成行きなのだろう。(131頁)(『いまなぜ青山二郎なのか』白洲正子)

■きみの意志の格律が、つねに同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ。(144頁)(『実践理性批判』カント)

■……一般的に言えば、宗教の誤りは危険であり、哲学の誤りはただ滑稽なだけである。(171頁)(『人性論』D・ヒューム)

〔芸術の誤りは、不快なだけである。岡野〕

■女性は一種類の記憶しかもたない。性的衝動や生殖に関連する記憶である。

恥を知るためには、それが意識されなければならない。羞恥心にもつねに分化は必要なのである。たんなる性的な存在である女性がなぜ非性的に見せかけることができるかといえば、性的そのものでしかないからだが(……)、それと同様につねに無恥である女性は、なぜ自分を羞恥の権化みたいに見せかけることができるかといえば、まったく彼女に羞恥心がないからである。(207、208頁)(『性と性格』O・ヴァイニンガー)

■女性は一人でいるときでもつねに他人と交際している。他人の影響を受けつづけている。女性はモナドではない。モナドならかならずやほかとの境があるはずである。女性は限界をもたない。(209頁)(『性と性格』O・ヴァイニンガー)

■……女性は存在せず、また存在を主張しようとしないから嘘を吐く。日常経験の事実だけしか言わない人間、内的判断形態をもたずに外的なものだけで判断する人間、すなわち存在しようとしない人間はかならず嘘を吐く。女性はどんなに客観的に真実を語っていてもつねに嘘を吐いている。(210、211頁)(『性と性格』O・ヴァイニンガー)

■……何かに打ち当たる迄行くという事は、学問をする人、教育を受ける人が、生涯の仕事としても、必要ぢやないでしょうか。あゝ此処におれの進むべき道があった!漸く掘り当てた!斯ういふ感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事が出来るでせう。容易に打ち壊されない自信が、其呼び声とともにむくむく首を擡げて来るのではありませんか。既に其域に達している方も多数のうちにはあるかも知れませんが、若し途中で霧か靄のために懊悩していられる方があるならば、何んな犠牲を払っても、あゝ此所だといふ堀当てる所迄行ったら宜しからうと思ふのです。必ずしも国家の為ばかりだからといふのではありません。又あなた方の御家族の為に申し上げる次第でもありません。貴方がた自身の幸福のために、それが絶対に必要ぢやないかと思ふから申上げるのです。もし私の通つたやうな道を通り過ぎた後なら致し方もないが、もし何処かにこだわりがあるなら、それを踏潰す迄進まなければ駄目ですよ。――尤も進んだつて何う進んで好いか解らないのだから、何かに打つかる所迄行くより外に仕方がないのです。(231、232頁)(『私の個人主義』夏目漱石)

■そして、こうした無慈悲な「世間論者」の中心に親がいる。もしあなたが豊かな人生を送りたいのなら、親の言うことを一〇〇パーセント聞くことだけは避けねばなりません。親とは、(普通)子供たちが無事に人生を終えてくれることだけを願っている救いようのない人種です。英雄にならなくてもいい。警察のごやっかいにならずに健康で、きちんと定職について、できれば結婚し家庭をもって幸せに暮らしてくれればいい。つまり、幸せに死んでくれればいい。これが全国いや全世界の親(とくに母親)の願いでしょう。(236頁)

『人生を〈半分〉降りる』 中島義道著 ちくま文庫 2008年5月3日

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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