岡野岬石の資料蔵

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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『悪魔との対話(サンユッタ•ニカーヤⅡ)』中村 元 訳 岩波文庫

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『悪魔との対話(サンユッタ•ニカーヤⅡ)』中村 元 訳 岩波文庫

第1集 詩句をともなった集

第Ⅳ篇 悪魔についての集成

第1章

第1節 苦行と祭祀の実行

■わたしはこのように聞いた。或るとき尊師は、ネーランジャラー河の岸辺で、ウルヴェーラ〔村〕において、アジャパーラというニグローダ樹(=バニヤンの樹)のもとにとどまっておられた。さとりを開かれたばかりのときであった。

□さて尊師が独り静かに坐して瞑想しておられたときに、次のように思われた、――「わたしは、もはや苦行から解放された。わたしが、あの〈ためにならぬ苦行〉から解放されたのは、善いことだ。わたしが安住し、心を落ち着けて、さとりを達成したのは、善いことだ」と。

□そのとき悪魔(注1)・悪しき者(注2)は、尊師が心で思われたことを知って、尊師のところにおもむいた。近づいてから、尊師に詩を以て語りかけた。――-

□「人々は苦行によって浄められるのに、

その苦行から離れて、

清浄に達する道を逸脱して、

浄くない人が、みずから浄しと考えている」と。

□そこで尊師は、「この者は悪魔・悪しき者なのだ」と知って、悪魔・悪しき者に次の詩を以て答えた。――

「不死に達するための苦行なるものは、

すべてためにならぬものであると知って、――

乾いた陸地にのり上げた船の舵や艪のように、

全く役に立たぬものである。

さとりに至る道――戒めと、精神統一と、智慧と――を修めて、

わたしは最高の清浄に達した。破滅をもたらす者よ。お前は打ち負かされれたのだ。」

□そこで悪魔・悪しき者は、「尊師はわたしのことを知っておられるのだ。幸せな方はわたしのことを知っておられるのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。(13~14頁)

(注1)悪魔;Mara. その語句は、「自分の領域を超えようと実行した人々を殺す」。(中略)悪魔は単数で、唯だ一人と見なされている。多数の悪魔が現われて誘惑したという仏伝の伝説は、後代になって成立したものであり、最初期のものではない。

(注2)悪しき者;その語義は、「他人を悪になずませる、あるいはみずから悪になずむ」という意味である。(303~304頁)

第2節 象

■わたしはこのように聞いた。或るとき尊師は、ネーランジャラー河の岸辺で、ウルヴェーラ〔村〕において、アジャパーラというニグローダ(バニヤン)樹のもとにとどまっておられた。さとりを開かれたばかりのときであった。そのとき尊師は、夜のくら闇の中で戸外で露地に坐しておられた。雨がしとしとと降っていた。

□さて悪魔・悪しき者は、尊師に、髪の毛がよだつような恐怖を起こさせようとして、大きな象王のすがたを現わし出して、尊師に近づいた。

□譬(たと)えば、かれの頭は、黒い岩塊のようであった。かれの牙は、純なる銀のようであった。かれの鼻は大きな鋤のへらのようであった。

□そのとき、尊師は「これは悪魔・悪しき者である」と知って、悪魔・悪しき者に詩で語りかけた。――

「長いあいだの輪廻にわたって、きよらかな、また嫌らしいすがたをしてきたが――そなたはそれだけで充分なはずだ。悪しき者よ。お前は打ち負かされたのだ。破滅をもたらす者よ。」

□そこで悪魔・悪しき者は、「尊師はわたしのことを知っておられるのだ。幸せな方はわたしのことを知っておられるのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。(15頁)

第8節 歓 喜

■わたしはこのように聞いた。或るとき尊師は、サーヴァッティー市で、ジュータ林・〈孤独な人々に食を給する人〉の園にとどまっておられた。

□そのとき悪魔・悪しき者は、尊師に近づいた。近づいてから、尊師のもとで、この詩句をとなえた。

「子ある者は子について喜び、また牛のある者は牛について喜ぶ。

人間の喜びは、執著するよりどころによって起こる。

執著するよりどころのない人は、実に、喜ぶことがない。」

□〔尊師いわく、――〕

「子ある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。

人間の憂いは執著するよりどころによって起こる。

実に、執著するよりどころのない人は、憂うることがない。」

□そこで悪魔・悪しき者は、「尊師はわたしのことを知っておられるのだ。幸せな方はわたしのことを知っておられるのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。(22~23頁)

第10節 寿 命⑵

■〔或るとき尊師は〕王舎城に〔とどまっておられた。〕

そこで尊師は次のように言われた。――

 「修行僧たちよ。この人間の寿命は短い。来世には行かねばならぬ。善をなさねばならぬ。清浄行を行わねばならぬ。生まれた者が死なないということはあり得ない。たとい永く生きたとしても、百歳か、あるいはそれよりも少し長いだけである」と。

□そこで悪魔・悪しき者は、尊師に近づいた。近づいてから詩を以て尊師に語りかけた。――

「昼夜は過ぎ去らぬ。生命はそこなわれない。

人の寿命はめぐり廻天する。――車輪の幅がこしきのまわりをめぐり廻天するように」と。

□〔尊師いわく、――〕

「昼夜は過ぎ行き、生命はそこなわれ、人間の寿命は尽きる。――小川の水のように。」

□そこで悪魔・悪しき者は、「尊師はわたしのことを知っておられるのだ。幸せな方はわたしのことを知っておられるのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。(24~25頁)

第2章

第1節 岩 石

■或るとき尊師は、王舎城の〈鷲の峰〉という山にとどまっておられた。

□そのとき尊師は、夜のくら闇に中で戸外で露地に坐しておられた。雨がしとしとと降っていた。

□さて悪魔・悪しき者は、尊師に、髪の毛がよだつような恐怖を起こさせようとして、尊師に近づいた。近づいてから、尊師から遠からぬところで、次々と大きな岩石を〔山頂から突き落として〕砕いた。

□そのとき、尊師は「これは悪魔・悪しき者である」と知って、悪魔・悪しき者に向かって、詩詩を以て語りかけた。――

「たとい〈鷲の峰〉全体が震え動くことがあろうとも、

完全に解脱したブッダたちは、動揺することがない。」

□そこで悪魔・悪しき者は、「尊師はわたしのことを知っておられるのだ。幸せな方はわたしのことを知っておられるのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。(26頁)

第2節 獅 子

■或るとき尊師は、サーヴァッティー市で、ジュータ林・〈孤独な人々に食を給する人〉の園にとどまっておられた。そのとき尊師は、多数の会衆に囲まれて、法を説いておられた。

□そのとき悪魔・悪しき者は、次のように思った、――「ここで、修行者ゴータマは、多数の会衆に囲まれて、法を説いている。わたしは修行者ゴータマに近づいて、眩惑させてやったら、どうだろう。」

□そこで悪魔・悪しき者は、尊師に近づいた。近づいて、尊師に向かって、詩を以て語りかけた。――

「あなたは、会衆のうちにあっても畏れることなく、獅子が吼えるように(注1)、声をひびかせるのは、なぜですか。

あなたにとって好敵手としての力士がここにいるのです。あなたはは、すでに勝利を博したと思いますか?」

□〔尊師いわく、――〕

「偉大な健き人たち(注2)は、諸々の会衆のうちにあっても畏れることなく、歓んでいます。諸々の修行完成者は、〔智慧の〕力を得て、世間にありながら執著をのり超えている。」

□そこで悪魔・悪しき者は、「尊師はわたしのことを知っておられるのだ。幸せな方はわたしのことを知っておられるのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。(27~28頁)

(注1)獅子が吼えるように;ここから「獅子吼」という表現が成立したのである。

(注2)偉大な健き人たち;mahavira. 諸々もブッダのことで、次に出てくる tathagata と同義である。漢訳仏典ではしばしば「大雄(だいおう)」と訳す。

第3節 岩 の 破 片

■わたしはこのように聞いた。或るとき尊師は、王舎城のうちのマッダクッチという〈鹿の園〉にとどまっておられた。

□そのとき尊師の足が岩の破片で傷つけられた。実に尊師の苦痛は、身に答え、激しく、苦しく、烈しく、ひどく、鋭く、不快で、不愉快であった。それらの苦痛のうちにあっても、尊師は、よく気を落ち着けて、はっきりと自覚して、心の害われることなく、堪え忍んでおられた。

□そこで悪魔・悪しき者は、尊師に近づいた。近づいてから、尊師に向かって、詩を以て語りかけた。――

「あなたは、ものぐさで臥(ね)ているのですか?あるいは詩作に耽って臥ているのですか?

あなたのなすべき事柄は、数多くあるのではありませんか。

人里はなれた休息所に、眠そうな顔をして、独りで、このように眠りに耽っているのはどうしてですか?」と。

□〔尊師いわく、――〕

「わたしは、ものぐさで臥ているのではない。また詩作に耽って臥ているのではない。

わたしは目的を達成し、憂いを離れている。

わたしは、一切の生きとし生けるものを憐んで、人里はなれた休息所に、ひとり臥すのである。

矢が胸を貫いて、心臓が激しくどきどきと動悸している人々でも、

矢がささっているのに、眠ることができる。

〔煩悩の〕矢を離れたわたしがどうして眠らないということがあろうか。

めざめているが気がかりもなく、また眠るのを恐れることもない。

夜も昼も、わたしを後悔させて苦しめることがない。

世の中のどこにも、わたしは害(そこな)いを見ない。

それ故に、一切の生きとし生けるものどもを憐みながら、われは眠る。」

□そこで悪魔・悪しき者は、「尊師はわたしのことを知っておられるのだ。幸せな方はわたしのことを知っておられるのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。(28~29頁)

第5節 こ こ ろ

■わたしはこのように聞いた。或るとき尊師は、ジュータ林・〈孤独な人々に食を給する人〉の園にとどまっておられた。

□そのとき悪魔・悪しき者は、尊師に近づいた。近づいてから、尊師のもとに向かって、詩を以て語りかけた。――

「かけ廻るこのこころは、虚空のうちにかけられたわなである。

そのわなによって、そなたを縛ってやろう。修行者よ。そなたはわたしから脱れることはできないであろう。」

□〔尊師いわく、――〕

「快く感ぜられる色かたち、音声、味、香り、触れられるもの(注)、――

これらに対するわたしの欲望は去ってしまった。そなたは打ち負かされたのだ破滅をもたらす者よ。」

□そこで悪魔・悪しき者は、「尊師はわたしのことを知っておられるのだ。幸せな方はわたしのことを知っておられるのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。(31頁)

(注)快く……触れられるもの;ここでは五官の対象になずむこと、五欲を去ることを教えている。六入(六境)の説の成立する以前の段階のものであることを示している。(316頁)

第6節 鉢

■〔尊師は〕サーヴァッティー市にとどまっておられた。そのとき尊師は個体を構成する5要素(5取蘊)に関して、諸々の修行僧たちに、法に関する講和によって説き示し、勧め、励まし、喜ばせた。またそれらの修行僧たちは、意義を理解し、注意し、心の全体を傾倒し、耳を傾けて、教えを聞いた。

□そのとき悪魔・悪しき者は、このように思った。――「ここで修行僧ゴータマは、個体を構成する5要素に関して、諸々の修行僧たちに、法に関する講和によって説き示し、勧め、励まし、喜ばせた。またそれらの修行僧たちは、意義を理解し、注意し、心の全体を傾倒し、耳を傾けて、教えを聞いた。では、わたしは修行僧ゴータマに近づいて、眩惑してやったらどうだろう。」

□そのときに、多くの鉢が、〔乾かすために〕屋外に置かれていた。

そのとき一人の修行僧が他の修行僧にこのように言った、――「修行僧よ、修行僧よ。この牡牛はこれらの鉢を破壊するであろう」と。

□このように言われたときに、尊師はその修行僧にこのように言われた。――「修行僧よ。これは牡牛ではない。これは悪魔・悪しき者が、そなたらを眩惑するためにやってきたのだ。」

□さて尊師は、「これは悪魔・悪しき者なんのだ」と知って、悪魔・悪しき者に向かって詩を以て語りかけられた。――

「色かたちと、感受作用と、表象作用と、識別作用と、形成されたもの(注)と、――

わたしはこれではない。またこれは、わたしに属するものではない。このように観じて、わたしはそれらについての執著を離れる。

このように執著を離れて、安穏に達し、一切の束縛を超えている者を、

魔軍がいかなる場所に探し求めても、見出すことができなかった。」

□そこで悪魔・悪しき者は、「尊師はわたしのことを知っておられるのだ。幸せな方はわたしのことを知っておられるのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。(32~33頁)

(注)形成されたもの;ここに挙げられている5種の構成要素を、仏教の教義学では五蘊(五陰)という。この5つによって個人存在が構成されているのであるが、凡夫はその一つ一つについて執著を起こす。(316頁)

第8節 施 し の 食 物

■或るとき尊師は、マガダ国のうちのパンチャサーラー(5本の沙羅樹)という名のバラモン村に住しておられた。

□そのときパンチャサーラーというバラモン村では、若い男女が互いに贈物をする習俗があった。

□さて尊師は朝早く衣を着て、鉢と重衣とを身に受けて、パンチャサーラーというバラモン村に、托鉢のために入って行かれた。

□そのときパンチャサーラー村に住むバラモンや資産者たちは、悪魔・悪しき者にとりつかれていた。――「修行者ゴータマが托鉢の食物を得ることができないように、――」と。

□さて尊師は、洗った鉢をもってパンチャサーラーというバラモン村に托鉢のために入って行ったが、やはり鉢を洗ったままで帰ってきた。

□そのとき悪魔・悪しき者は、尊師に近づいた。近づいてから、尊師に次のように言った。――「修行僧よ。施しの食物を得たかね?」

□「悪しき者よ、わたしが施しの食物を得ないように、お前がそうさせたのではないか。」

□「では、尊いお方! パンチャサーラーというバラモン村に再び入って行きなさい。尊師が施しの食物を得られるように、わたしははからいましょう。」

「悪魔は、如来を襲うという禍いをかもし出した(注1)。悪しき者よ。そなたは何を考えているのだ? わたしには、悪の報いは起こらない。

われらは、何物をももっていないが、さあ、大いに楽しく生きて行こう。

光り輝く神々のように、喜びを食(は)む者となるだろう。」

□そこで悪魔・悪しき者は、「尊師はわたしのことを知っておられるのだ。幸せな方はわたしのことを知っておられるのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。(35~36頁)

(注1)如来を襲うという禍いをかもし出した;その趣意は、パンチャサーラー村のバラモンたちは、ゴータマブッダという修行僧に施しをすれば、それによって功徳を積むことができたはずであるのに、悪魔がバラモンたちをそそのかして、ブッダに施しをさせないようにさせたから、功徳を生ずる機会を奪ったことになり、したがって禍をかもしだしたということになるからである。ちなみにこの箇所からも見られるように、バラモンたちがゴータマ・ブッダに施与をすることは当り前のことであり、ただ悪魔が邪魔をしたというだけにすぎないのであるから、バラモン教と仏教とは二者択一的な矛盾関係にあったのではないという事情が知られる。キリスト教対イスラム教というような関係ではないのである。

(注2)大いに楽しく生きて行こう;相当漢訳には「正史(たとい)所有がなくても、安楽に自活せむ。常に欣悦を食とせむ」という。これが仏教徒の生活理想だったのである。(319頁)

第9節 耕 作 者

■サーヴァッティー市がゆかりの場所である。そのとき尊師は、諸々の修行僧たちに、ニルヴァーナに合致する法に関する講話によって、説き示し、勧め、励まし、喜ばせた。またそれらの修行僧たちは、意義を理解し、注意し、心の全体を傾倒し、耳を傾けて、教えを聞いた。

□そのとき悪魔・悪しき者は、このように思った。――「ここで修行僧ゴータマは、諸々の修行僧たちに、ニルヴァーナに合致する法に関する講和によって、説き示し、勧め、励まし、喜ばせた。またそれらの修行僧たちは、意義を理解し、注意し、心の全体を傾倒し、耳を傾けて、教えを聞いた。では、わたしは修行僧ゴータマに近づいて、眩惑してやったらどうだろう。」

□さて悪魔・悪しき者は、農夫のすがたを現わし、大きな鋤を肩にかけて、長い(牛追いの棒)を手にして、髪をふり乱し、大麻の衣を着て、足は泥にまみれたままで、尊師に近づいた。近づいてから尊師に次のように言った、――

□「修行僧よ。牡牛を見ましたか?」

□「悪しき者よ。どうしてお前は牡牛に用があるのか?」

□「修行者よ。眼はわたしのものです。色かたちはわたしのものです。眼が〔対象に〕触れて起こる識別領域はわたしのものだ。そなたは、どこに行ったら、わたしから脱れられるのだろうか?

嗅覚作用はわたしのものだ。香りはわたしのものだ。嗅覚作用が〔対象に〕触れて起こる識別領域はわたしのものだ。そなたは、どこに行ったら、わたしから脱れられるのだろうか?

舌はわたしのものだ。味はわたしのものだ。舌が〔対象に〕触れて起こる識別領域はわたしのものだ。そなたは、どこに行ったら、わたしから脱れられるのだろうか?

身体はわたしのものだ。触れられるものは、わたしのものだ。触れられるものは、わたしのものだ。そなたは、どこに行ったら、わたしから脱れられるのだろうか?

心はわたしのものだ。心で考えられるものも、わたしのものだ。心の接触から起こる識別領域は、わたしのものだ。そなたは、どこに行ったら、わたしから脱れられるのだろうか。」

□「悪しき者よ。眼はそなたのものである。色かたちはそなたのものである。眼の接触から生じた識別領域はそなたのものである。しかし眼が存在せず、色かたちが存在せず、眼の接触から生ずる識別領域が存在しないところには、そなたの行くべき通路は存在しない。

□悪しき者よ。聴覚作用はそなたのものである。音声はそなたのものである。聴覚作用の接触から生じた識別領域はそなたのものである。しかし聴覚作用が存在せず、音声が存在せず、聴覚作用の接触から生ずる識別領域が存在しないところには、そなたの行くべき通路は存在しない。

□悪しき者よ。嗅覚作用はそなたのものである。香りはそなたのものである。嗅覚作用の接触から生じた識別領域はそなたのものである。しかし嗅覚作用が存在せず、香りが存在せず、嗅覚の接触から生ずる識別領域が存在しないところには、そなたの行くべき通路は存在しない。

□悪しき者よ。舌はそなたのものである。諸々の味はそなたのものである。舌の接触から生じた識別領域はそなたのものである。しかし舌が存在せず、諸々の味が存在せず、舌から生ずる識別領域が存在しないところには、そなたの行くべき通路は存在しない。身体はそなたのものである。触れられるものは、そなたのものである。身体の接触から生じる識別領域はそなたのものである。しかし身体が存在せず、触れられるものが存在せず、身体から生ずる識別領域が存在しないところには、そなたの行くべき通路は存在しない。

□悪しき者よ。心はそなたのものである。考えられるものはそなたのものである。しかし心が存在せず、考えられるものが存在せず、心の接触から生ずる識別領域が存在しないところには、そなたの行くべき通路は存在しない。」

□〔悪魔いわく、――〕

「人々が『これがわがものである』と語るところの物、

『〔これは〕わがものである』と語る人々、――

そなたのここおがそこにとどまるならば、修行者よ、そなたは、わたしから脱れることはできないであろう。」

□〔尊師いわく、――〕

「人々が〔わがものであると執著して〕語るところの物、それは、わたしに属するものではない。

〔執著して〕語る人々がいるが、わたしはかれらのうちの一人ではない。

このように知れ。悪しき者よ。そなたは、わたしの行く道をも見ないであろう。」

□そこで悪魔・悪しき者は、「尊師はわたしのことを知っておられるのだ。幸せな方はわたしのことを知っておられるのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。(39~40頁)

第3章(さらに5つの経)

第5節 娘 たち

■傍らに立った悪魔の娘・〈愛執〉は、尊師に詩を以て話しかけた。――

「あなたは悲しみに沈んで、森の中で瞑想しているのですか? それとも、なくした財を取り戻そうとしているのですか?

あなたは村のなかで、なにか罪を犯したのですか?

何故に人々とつき合わないのですか?

あなたは、だれとも友にならないのですか?」と。

□〔尊師いわく、――〕

「愛しく快いすがたの軍勢に打ち勝って、

目的の達成と心の安らぎ、楽しいさとりを、わたしは独りで思っているのです。

それ故にわたしは人々とつき合わないのです。

わたしは、だれとも友にならない。」

□そのとき悪魔の娘・〈不快〉は、尊師に詩を以て話しかけた。――

「修行僧はこの世で、どのように身を処すること多くして、5つの激流を渡り、ここに第6の激流をも渡ったのですか?

どのように多く瞑想するならば、外界の欲望の想いがその人をとりこにしないのですか?」と。

□〔尊師いわく、――〕

「身は軽やかで、心がよく解脱し、

迷いの生存をつくり出すことなく、しっかりと気を落ち着けていて、執着することなく、

真理を熟知して、思考することなく瞑想し、

怒りもせず、〔悪を〕憶い出すこともなく瞑想し、

このように身を処することの多い修行僧は、この世で5つの激流を渡り、

ここに第6の激流までも渡った。

このように多く瞑想するならば、外界の欲望の想いがその人をとりこにすることがない。」(60~61頁)

■〈愛執〉と〈不快〉と〈快楽〉とは、光り輝いてやってきたが、風神が柔毛と落場とを吹き払うように、師はそこで彼女らを追い払われた。(62頁)

第Ⅴ篇 尼僧に関する集成

第3節 ゴータミー尼

■サーヴァッティー市がゆかりの場所である。

ときにキサー・ゴータミー尼は、早朝に衣をつけ、鉢と衣とを手に執って、托鉢のためにサーヴァッティー市に入って行った。

□サーヴァッティー市で托鉢したのち、食後に、食事から還ってきて、昼間の休息のために、うす暗い密林におもむいた。うす暗い密林をかき分けて入って、昼間の休息のために、ある樹木の根もとに坐した。

□そのとき悪魔・悪しき者は、キサー・ゴータミー尼に、身の毛もよだつほどの恐怖を起こさせようとして、瞑想から離れ去らせようとして、キサー・ゴータミー尼に近づいた。近づいてから、キサー・ゴータミー尼に向かって、詩を以て語りかけた。――

「あなたは子を失った母のように、顔に涙を流しながら独りで坐しているのは、なぜなのか?

そなたが独りで森をかき分けて入り、〔独りで樹の根もとに坐しているのは、〕男を求めているからなのか?」

□そこで、キサー・ゴータミー尼は、このように思った。――「これは、悪魔・悪しき者が、わたしに、身の毛もよだつほどの恐怖心を起こさせようとして、瞑想をやめさせようとして、詩をとなえているのだ」と。

□さてキサー・ゴータミー尼は、「これは悪魔・悪しき者である」と知って、詩を以て語りかけた。――

「わたしは、もうすっかり子を亡くしてしまいました。男たちも、それと同じく過ぎ去ってしまいました。

わたしは悲しみもせず、泣きもしません。友よ。わたしはあなたを恐れません。

快楽の喜びは、いたるところで壊滅され、〔無明の〕闇黒(あんこく)の塊りは、破り砕かれました。

死の軍勢に打ち勝って、わたしは汚れなく暮らしています」と。

□そこで悪魔・悪しき者は、「キサー・ゴータミー尼はわたしのことを知っているのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。(69~70頁)

第5節 蓮 華 色 尼 (れんげしきに)

■サーヴァッティー市がゆかりの場所である。

そのとき蓮華色(ウッパラヴァンナー)尼は、早朝に衣をつけ、鉢と衣とを手に執って、托鉢のためにサーヴァッティー市に入って行った。

サーヴァッティー市で托鉢したのち、食後に、食事から還ってきて、昼間の休息のために、うす暗い密林に入った。うす暗い密林をかき分けて入って、昼間の休息のために、美しく花の咲いた或るサーラ(沙羅)樹の根もとに坐していた。

□そのとき悪魔・悪しき者は、蓮華色尼に、身の毛もよだつほどの恐怖を起こさせようとして、瞑想から離れ去らせようとして、蓮華色尼に近づいた。

□近づいてから、蓮華色尼に向かって、詩を以て語りかけた。――

「修行する尼よ。頂きに花が咲き誇っている樹に近づいて、あなたは独りで、サーラ樹の根もとに立っておられる。そうして、あなたの美しい容色には並ぶ者がいない。

愚かな女よ。そなたは悪人どもをおそれないのですか。」

□そこで、蓮華色尼は、このように考えた、――「詩をとなえているこの者は、誰なのだろう? 人間なのであろうか? あるいは人間ならざる者なのであろうか?」と

□そこで蓮華色尼は、「これは、悪魔・悪しき者である」と知って、詩を以て語りかけた。――

「汝のように悪だくみののある者どもが、ここに千人の百倍来ようとも、わたしは一本の毛筋も動かしません。驚きはしません。悪魔よ。わたしはそなたを恐れはしません。――たとい独りでいても。」と。

□〔悪魔いわく、――〕

「わたしは、ここで姿を消して、そなたの腹に入ろう。そなたの眉間のあいだに立ったとしても、そなたはわたしを見ることはできないだろう。」

□〔尼いわく、――〕

「心を制して自在となっているから、わたしは神通をよく修めている。

わたしは一切の束縛から解脱している。友よ、わたしは、そなたを恐れはしない。」

□そこで悪魔・悪しき者は、「蓮華色尼はわたしのことを知っているのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。(72~74頁)

第7節 ウバチャーラ尼

■〔或る時尊師は〕サーヴァッティー市に〔とどまっておられた。〕

□そのときウバチャーラ尼は、早朝に衣をつけ、鉢と衣とを手に執って、托鉢のためにサーヴァッティー市に入って行った。サーヴァッティー市で托鉢したのち、食後に、食事から還ってきて、昼間の休息のために、うす暗い密林に入った。

うす暗い密林をかき分けて入って、昼間の休息のために、或る樹木の根もとに坐していた。

そのとき悪魔・悪しき者は、ウパチャーラ尼に近づいた。近づいてから、ウパチャーラ尼に向かって、次のように言った。――「尼さま。あなたは、どこに生まれようと望まれるのですか?」と。

□〔尼いわく、――〕「友よ。わたしはどこにも生まれようとは望みません。」

□〔悪魔いわく、――〕

「三十三神と、ヤーマ天の神々と、トゥシタ(兜率)天の神々と、化楽(けらく)天の神々と、〔他化(たけ)〕自在天の神々、――〔かって以前のあなたが住んだ〕そのところに、〔生まれようと願って〕心を専念なさい。〔そこへ生まれたならば〕あなたは快楽の喜びを享受するでしょう。」

□〔尼いわく、――〕

「三十三神(忉利天)と、ヤーマ天の神々と、トゥシタ(兜率)天の神々と、化楽天の神々と、〔他化(たけ)〕自在天の神々。

かれらは愛慾の絆に縛られて、もとどおり悪魔に支配されます。

この世はすべて燃えています。この世はすべて煙っています。この世はすべて炎を吐いています。この世はすべて震えています。

しかし震えず、動揺せず、凡俗の人々の親しみなじむことなく、悪魔の至り得ないところ、――-

そこでわたしの心は楽しんでいるのです。」

□そこで悪魔・悪しき者は、「ウパチャーラ尼はわたしのことを知っているのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。(75~77頁)

第9節 セーラー尼

■〔或る時尊師は〕サーヴァッティー市に〔とどまっておられた。〕

□そのときセーラー尼は、早朝に衣をつけ、鉢と衣とを手に執って、托鉢のためにサーヴァッティー市に入って行った。サーヴァッティー市で托鉢したのち、食後に、食事から還ってきて、昼間の休息のために、うす暗い密林に入った。

うす暗い密林をかき分けて入って、昼間の休息のために、或る樹の根もとに坐していた。

□そのとき悪魔・悪しき者は、セーラー尼に、身の毛もよだつほどの恐怖を起こさせようとして、瞑想から離れ去らせようとして、セーラー尼に近づいた。近づいてから、セーラー尼に向かって、詩を以て語りかけた。――

「だれがこの個体を作ったのですか? 個体の作者(つくりて)はどこにいるのですか?

この個体はどこから生じ、この個体はどこで滅びるのですか?」と。

□そこでセーラー尼は、このように考えた。――「詩をとなえているこの者は、誰なのだろう? 人間なのであろうか? あるいは人間ならざる者であろうか?」と。

□つづいてセーラー尼は、このように思った。――「これは、悪魔・悪しき者が、わたしに、身の毛もよだつほどの恐怖を起こさせようとして、瞑想から離れ去らせようとして、詩をとなえているのだ」と。

□そこでセーラー尼は、「これは悪魔・悪しき者である」と知って、悪魔・悪しき者に詩を以て語りかけた。――

「この個体は自分の作ったものではない。この個体は他人の作ったものではない。

原因に依って生じ、原因が滅びたならば〔個体も〕滅びる。

譬えば、或る種子が、田に播かれて、地味と湿潤との両者とに依って生えて成長するように、そのように〔六つの〕認識領域は、

原因に依って生じ、原因が滅びたならば滅びるのである。」

□そこで悪魔・悪しき者は、「セーラー尼はわたしのことを知っているのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。(79~80頁)

第10節 ヴァジラー尼

■〔或る時尊師は〕サーヴァッティー市に〔とどまっておられた。〕

□そのときヴァジラー尼は、早朝に衣をつけ、鉢と衣とを手に執って、托鉢のためにサーヴァッティー市に入って行った。サーヴァッティー市で托鉢したのち、食後に、食事から還ってきて、昼間の休息のために、うす暗い密林におもむいた。

うす暗い密林をかき分けて入って、昼間の休息のために、或る樹の根もとで、休息のために坐していた。

□そのとき悪魔・悪しき者は、ヴァジラー尼に、身の毛もよだつほどの恐怖を起こさせようとして、瞑想に耽るのをやめさせようとして、ヴァジラー尼に近づいた。近づいてから、ヴァジラー尼に詩を以て語りかけた。――

□「この生ける者は、誰が作ったのか? 生ける者の作者(つくりて)はどこにいるのか? 生ける者はどこから生じるのか。生ける者はどこに滅びるのか?」と。

□ところでヴァジラー尼は、このように思った。――「詩をとなえているこの者は、誰なのだろう? 人間であるのか? あるいは人間ならざる者であろうか?」と。

□ついでヴァジラー尼は「これは、悪魔・悪しき者が、わたしに、身の毛もよだつほどの恐怖を起こさせようとして、瞑想に耽るのをやめさせようとして、詩をとなえたのだ」と。

□ついでヴァジラー尼は、「これは悪魔・悪しき者である」と知って、悪魔・悪しき者に向かって詩を以て答えた。――

「そなたは何故に〈生ける者〉というものを認めるのか? 悪魔よ。汝は悪しき見解をいただいている。

この〈生ける者〉はただ諸々の形成されたものの集合である。ここに〈生ける者〉は認められない。

譬えば実に諸々の部分が集まったならば「車」という名称が起こるように、それと同じく、5つの構成要素(五蘊)が存在するのに対して〈生ける者〉という仮りの想いが起こるのである(注)。

実に苦しみがおこり、苦しみがとどまりかつ滅びてゆく。

苦しみのほかには、なにものも生起しない。苦しみのほかには、なにものも滅びない」と。

□そこで悪魔・悪しき者は、「ヴァジラー尼はわたしのことを知っているのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。(80~82頁)

(注)仮の想いが起こるのである;この詩句は、無我説の論拠を示すものとして、後世に有名になった。『ミリンダ王の問い』などにも引用されている。(333頁)

第Ⅵ篇 梵天に関する集成

第1章

第1節 懇 請

■わたしはこのように聞いた。或るとき尊師は、ウルヴェーラで、ネーランジャラー河の岸辺で、アジャパーラという名のバニヤンの樹の根もとにとどまっておられた。初めてさとりを開かれたばかりのときであった。

□そのとき尊師は、ひとり隠れて、静かに瞑想に耽っておられたが、心のうちにこのような考えが起こった。――

□「わたしのさとったこの真理は深遠で、見がたく、難解であり、しずまり、絶妙であり、思考の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところである。ところがこの世の人々は執著のこだわりを楽しみ、執著のこだわりに耽り、執著のこだわりを嬉しがっている。さて執著のこだわりを楽しみ、執著のこだわりに耽り、執著のこだわりを嬉しがっている人々には、〈これを条件としてかれがあるということ〉すなわち縁起という道理は見がたい。またすべての形成作用のしずまること、すべての執著を捨て去ること、妄執の消滅、貪欲を離れること、止滅、やわらぎ(ニルヴァーナ)というこの道理もまた見がたい。だからわたしが理法(教え)を説いたとしても、もしも他の人々がわたしのいうことを理解してくれなければ、わたしには疲労が残るだけだ。わたしには憂慮があるだけだ」と。

□実に次の、未だかつて聞かれたことのない、すばらしい詩句が尊師の心に思い浮んだ。

「苦労してわたしがさとり得たことを、

今説く必要があろうか。

貪りと憎しみにとりつかれた人々が、

この真理をさとることは容易ではない。

これは世の流れに逆らい、微妙であり、

深遠で見がたく、微細であるから、

欲を貪り闇黒に覆われた人々は見ることができないのだ」と。

□尊師がこのように省察しておられるときに、何もしたくないという気持ちに心が傾いて、説法しようとは思われなかった。

□そのとき〈世界の主・梵天〉は尊師の心の中の思いを心によって知って、次のように考えた、――「ああ、この世は滅びる。ああ、この世は消滅する。実に修行を完成した人・尊敬さるべき人・正しくさとった人の心が、何もしたくないという気持に傾いて、説法しようとは思われないのだ!」

□ときに〈世界の主・梵天〉は、譬えば力ある男が曲げた臂(ひじ)をのばし、のばした臂を曲げるように梵天界から姿を消して、世尊の前に現れた。

□そのとき〈世界の主・梵天〉は上衣を1つの肩にかけて、右の膝を地に着け、尊師に向かって合掌・敬礼して、世尊にこのように言った、――「尊い方! 尊師は(真理)をお説きください。幸ある人は教えをお説きください。この世には生まれつき汚れの少ない人々がおります。かれらは教えを聞かなければ退歩しますが、〔聞けば〕真理をさとる者となりましょう」と。

□〈世界の主・梵天〉はこのように述べ、このように言いおわってから、次のことを説いた。

「汚れある者どもの考えた不浄な教えがかってマガダ国に出現しました。

願わくはこの不死の門を開け。

無垢なる者の覚(さと)った法を聞け。

譬えば、山の頂にある岩の上に立っている人があまねく四方の人々を見下すように、あらゆる方向を見る眼ある方は、真理の高閣(たかどの)に登って、〔自らは〕憂いを超えていながら〈生まれと老いとに襲われ、憂いに悩まされている人々〉を見そなわせたまえ。

〔起て、健き人よ、戦勝者よ、

隊商の主よ、負債なき人よ、世間を歩みたまえ。

世尊を、真理を説きたまえ。

〔真理を〕さとる者もいるでしょう。〕」

□そのとき尊師は梵天の懇請を知り、生けとし生ける者への哀れみによって、さとった人の眼によって世の中を観察された。

□尊師はさとった人の眼によって世の中を見そなわなして、世の中には、汚れの少ない者ども、汚れの多い者ども、精神的素質の鋭利な者ども、精神的素質の弱くて鈍い者ども、美しいすがたの者ども(注1)、醜いすがたの者ども(注2)、教え易い者ども、教えにくい者どもがいて、ある人々は来世と罪過への怖れを知って暮らしていることを見られた。

□譬えば、青蓮の池・赤蓮の池・白蓮の池のおいて、若干の青蓮・赤蓮・白蓮は水中に生じ、水中に成長し、水面に出ず、水中に沈んで繁茂するし、また若干の青蓮・赤蓮・白蓮は水中に生じ、水中に成長し、水面に達するし、また若干の青蓮・赤蓮・白蓮は水中に生じ、水面に成長し、水面から上に出て立ち、水に汚されない。

まさにそのように、尊師はさとった人の眼をもって世の中を見そなわして、世の中には、汚れの少ない者ども、汚れの多い者ども、精神的素質の鋭利な者ども、精神的素質の弱くて鈍い者ども、美しいすがたの者ども、醜いすがたの者ども、教え易い者ども、教えにくい者どもがいて、ある人々は来世と罪過への怖れを知って暮らしていることを見られた。

□見終わってから、〈世界の主・梵天〉に詩句をもって呼びかけられた。

「耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。

〔おのが〕信仰を捨てよ。

梵天よ。人々を害するであろうかと想って、

わたくしはいみじくも絶妙なる真理を人々には説かなかったのだ。」

□そこで〈世界の主・梵天〉は、「わたしは世尊が教えを説かれるための機会をつくることができた」と考えて、世尊に敬礼して、右廻りして、その場で姿を消した。(83~87頁)

(注1)美しいすがたの者ども;精神的なすがたの美しいことをいう。性質(たち)、人品の善い者をいう。

(注2)醜いすがたの者ども;性質(たち)の悪い人、人品の善くない人をいう。(336頁)

第2節 恭しく敬う

■わたしは、このように聞いた。或るとき尊師はネーランジャラー河の岸辺に、アジャパーラという名のバニヤンの樹の根もとにおられた。さとりを開かれたばかりであったのである。

□そのとき尊師は、ひとり隠れて、静かに瞑想に耽っておられたが、心のうちにこのような考えが起こった。――

「他人を尊敬することなく、長上に柔軟でなく暮らすことは、やり切れないことである。わたしは、いかなる〈道の人〉またはバラモンを尊び、重んじ、たよって生活したらよいのだろうか?」と。

□そのとき尊師は次のように思った、――「まだ完全に実践していない戒めの体系を完全に実践するために、わたしは他の〈道の人〉あるいはバラモンを尊び、重んじ、たよって生活したいものである。しかしわたしは、神々や悪魔や梵天を含めての全世界のうちで、〈道の人〉やバラモンや神々や人間を含めての生きもののうちで、わたしよりも以上に戒めを達成し実践している人なるものを見ない。――わたしは、その人をこそ尊び敬(うやま)いたよって生活したいものであるが。

□未だ完全に実践していない禅定の体系を完全に実践するために、わたしは他のバラモンまたは〈道の人〉を尊び、重んじ、たよって生活したいものである。

□まだ完全に実践していない智慧の体系を完全に実践するために、わたしは他のバラモンまたは〈道の人〉を尊び、重んじ、たよって生活したいものである。

□まだ完全に実践していない解脱の体系を完全に実践するために、わたしは他のバラモンまたは〈道の人〉を尊び、重んじ、たよって生活したいものである。

□まだ完全に体得していない〈われは解脱したと確かめる自覚(智慧と直感)〉の体系を完全に体得するために、わたしは他の〈道の人〉あるいはバラモンを尊び、重んじ、たよって生活したいものである。しかしわたしは、神々や悪魔や梵天を含めての全世界のうちで、〈道の人〉やバラモンや神々や人間を含めての生きもののうちで、わたしよりも以上に〈われは解脱したと確かめる自覚〉を達成している人なるものを見ない。――わたしは、その人をこそ尊び敬いたよって生活したいのであるが。

□むしろ、わたしは、わたしがさとったこの理法を尊び、敬い、たよってくらしたらどうだろう。」

□そのとき世界の主・梵天は、尊師が心の中で考えておられることを知って、譬えば力ある男が曲げた腕を伸ばし、あるいは伸ばした腕を屈するように、梵天界のうちから姿を隠し、尊師の前に現われ出た。

□さて世界の主・梵天は、一方の肩に上衣をかけて、尊師に向かって合掌し、尊師に向かって次のように言った、――

□「尊いお方さま! そのとおりでございます。そのとおりでございます。過去にさとりを開き、敬わるべき人々であった尊師らも、真理を尊び、重んじ、たよっておられました。未来にさとりを開き、敬わるべき人々であった尊師らも、真理を尊び、重んじ、たよられることでしょう。また現在さとりを開き、敬わるべき人(単数)でる尊師も、真理を尊び、重んじ、たよるようにしてくださいませ。」

□〈世界の主・梵天〉は、このように言った。このように説いたあとで、次いで次のように説いた。――

「過去にさとりを開いた仏たち、また未来にさとりを開く仏たち、また多くの人々の憂いを除く現在の世の仏、――正しい教えを重んずるこれらすべての人々は、過去に住したし、現在住し、また未来に住するであろう。これが諸仏にとっての決まりである。

それ故に、この世においてためになることを達成しようと欲し、偉大な境地を望む人は、仏の教えを憶念して、正しい教えを尊重しなければならない。」(88~90頁)

第2章

第2節 デーヴァダッタ

■或るとき、デーヴァダッタが立ち去ってからまもなく、尊師は王舎城のうちの〈鷲の峰〉なる山に住しておられた。

□そのときサハー世界の主たる梵天は、夜が更けてから、容色うるわしく、〈鷲の峰〉なる山を遍く照らして、尊師のもとにおもむいた。尊師に挨拶をして、傍らに立った。

□傍らに立ったサハー世界の主たる梵天は、デーヴァダッタについて、尊師のもとで、この詩をとなえた。――

「芭蕉は実が生(な)ると滅びてしまう。竹や蘆(あし)は実が生じると滅びてしまう。牝の驢馬は自分の胎児のために滅びてしまう。そのように、悪人は尊敬を受けると滅びてしまう。」(114頁)

第4節 アルナヴァッティー

■〔「尊いお方さま。われらは、修行僧アビブーが梵天界にうちに立ってこのように詩をとなえているのを聞きました。」〕

「さあ、奮い立て。外に出て行け。仏の御教えにつとめよ。死王(悪魔)の軍勢を追い払え。――象が葦の生えている住居(=池)を出て行くように。

この教説と戒律とにつとめはげむ人は、生まれをくり返す迷いの生存(輪廻)を捨てて、苦しみを終滅するであろう。」

□「尊いお方さま。われらは、修行僧アビブーが梵天界にうちに立ってこのように詩をとなえているのを聞きました。」

□「みごと! みごと! 修行僧たちよ。そなたらが、修行僧アビブーが梵天界のうちに立って詩をとなえているのを聞いたのは、みごとだ!」

□ 尊師はこのように言われた。かれら修行者たちは嬉しくなって、師の説かれた事柄を喜んだ。(120頁)

第5節 全 き 安 ら ぎ

■ 或るとき尊師はクシナーラにおいて、ウバヴァッタナにあるマッラ族の紗羅林の中でサーラ樹(沙羅双樹)の間で全き安らぎに入るときにとどまっておられた。

□ そのとき尊師は修行僧たちに告げられた。――「怠けることなく修行を完成なさい。もろもろの事象は過ぎ去るものである」と。これが修行をつづけてきた者の最後のことばであった。

□ ここで尊師は初禅(第一段階の瞑想)に入られた。初禅から起って、第二禅に入られた。第二禅から起って、第三禅に入られた。第三禅から起って、第四禅に入られた。第四禅から起って、空無辺処定に入られた。空無辺処定から起って、識無辺処定に入られた。識無辺処定から起って、無所有処定に入られた。無所有処定から起って、非想非非想定に入られた。

□ 次いで〔尊師は〕非想非非想定から起って、無所有処定に入られた。無所有処定から起って、識無辺処定に入られた。識無辺処定から起って、空無辺処定に入られた。空無辺処定から起って、第四禅に入られた。第四禅から起って、第三禅に入られた。第三禅から起って、第二禅に入られた。第二禅から起って、初禅に入られた。

初禅から起って、第二禅に入られた。第二禅から起って、第三禅に入られた。第三禅から起って、第四禅に入られた。第四禅から起って、尊師はただちに全きニルヴァーナに入られた。

□ 尊師が亡くなられたときに、亡くなられるとともに、サハー世界の主である梵天が次の詩を詠じた。――

「この世における一切の生あるものどもは、ついには個体を捨てるであろう。

あたかも世間において比すべき人なき、かくのごとき師〔智慧の〕力を具えた修行実践者、正しい覚りを開かれた人が亡くなられたように。」

□ 尊師が亡くなられたときに、亡くなられるとともに、神々の主であるサッカ(=帝釈天)が次の詩を詠じた。――

「つくられたものは実に無常であり、生じては滅びるきまりのものである。

それは生じては滅びる。これら(つくられたもの)の静まったやすらいが安楽である。」

□ 尊師が亡くなられたときに、亡くなられるとともに、若き人アーナンダはこの詩をとなえた。――

「そのときこの怖ろしいことがあった。そのとき髪の毛のよだつことがあった。――あらゆる点ですぐれた全き覚りを開いた人がお亡くなりになったとき。」

□ 尊師が亡くなられたときに、亡くなられるとともに、アルヌッダ尊者はこの詩を詠じた。

「心の安住せるかくのごとき人にはすでに呼吸がなかった。

欲の汚れなく、眼ある方はやすらいに達して亡くなられたのである。

ひるまぬ心をもって苦痛を耐え忍ばれた。

あたかも灯火の消え失せるように、心が解脱したのであった。」(121~123頁)

第Ⅶ篇 バラモンに関する集成

第1章 敬わるべき人

第2節 罵 り

■或るとき尊師は、王舎城の竹林における栗鼠飼養所にとどまっておられた。□さて「罵(ののし)る者バーラドヴァージャ」というバラモンは、バーラドヴァージャ姓のバラモンが〈道の人〉ゴータマのもとで出家して、家なき状態に入ったそうだ、ということを聞いた。

□かれは、心に喜ばず怒って、尊師のもとにおもむいた。尊師に近づいてから、野卑な荒々しいことばで、罵り、非難した。

□このように言われたときに、尊師は、罵る者なるバーラドヴァージャ・バラモンに次のように言われた。――「バラモンよ。そなたはどう思うか? 友人・朋輩・親戚・血縁者・客人たちがそなたのところにやってくるだろうか?」

□「ゴータマさん! 友人・朋輩・親戚・血縁者・客人たちが時々やってきます。」

□「バラモンよ。そなたはどう思うか? そなたはかれらに噛む食物・吸う食物・美食をさし出しますか?」

□「ゴータマさん! わたしはかれらに噛む食物・吸う食物・美食をさし出します。」

□「バラモンよ。もしもかれらがそれらを受けなかったならば、それは誰のものとなるのでしょうか?」

□「ゴータマさん! もしもかれらがそれらを受けなかったならば、それはわれわれのものになります。」

□「そのとおりなのです。バラモンよ。罵ることのないわれわれをそなたは罵った怒らないわれわれを怒った。争論することのないわれわれに争論をしかけた。しかしわれわれはそれを受けとらない。バラモンよ。これはそなたのものとなるのだ。ところが罵らないわたしに罵り返し、怒らないわたしに怒り返し、争論しないわたしに争論し返すならば、この人は共に会食し、共につき合うと言われる。だからわたしたちは、そなたと会食しないし、共に交換することもない、バラモンよ。これはそなたのものとなる。これはそなたのものとなる。」

□「王と共にいる従者たちは、ゴータマさまをこのようなものだと知っている。――『道の人、ゴータマは敬わるべき人である』と。それなのにゴータマさまは怒る、と。」

□〔尊師いわく、――〕

「怒ることなく、身がととのえられ、正しく生活し、正しく知って解脱している人、

心が静まったそのような立派な人に、どうして怒りがあろうか。

怒った人に対して怒りを返す人は、それによって悪をなすことになるのである。怒った人に対して怒らないならば、勝ちがたき戦にも勝つことになるのである。

他人が怒ったのをしって、心に気をつけて他人が怒っているのを知っても、自ら気を落ちつけて静かにしているならば、その人は、自分と他人との両者のためになることを実行しているのである。

真理に通達していない人々は、自分と他人と両者の治療を行っている人のことを、『かれは愚人だ』と考える。」

□ このように言われて、罵る者であるバーラドヴァージャ・バラモンは尊師にように言った、――「すばらしいことです。ゴータマさん!すばらしいことです。譬えば、倒れたものを起こすように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』といって暗闇の中で灯火をかかげるように、ゴータマさんは種々のしかたで真理を明らかにされました。だから、わたしは尊師ゴータマに帰依いたします。また真理の教えと修行僧のつどいに帰依いたします。わたしはゴータマさんのもとで出家し、正式の戒律を受けたいのです。」

□罵る者であるバーラドヴァージャ・バラモンは、尊師のもとで出家し、正式の戒律を受けることができた。

□正式の戒律を受けてからまもなく、罵る者であったバーラドヴァージャ・バラモンさんは、独りで隠棲し、怠ることなく努め励んでいたので、まもなく、立派な人々がそのために正しく家から出て家をもたぬ状態におもむくところのその無上なる清浄行の完成を、まさにこの世において自ら知り体得し具現して住していた。――「生存は消滅した。清らかな行いを実践しおえた。なすべきことは、なしとげた。もはやさらにこのような状態におもむくことはない」ということを理解した。

□さてバーラドヴァージャさんは、尊敬さるべき人々の一人となった。(128~130頁)

第5節 傷害しない人

■ サーヴァッティー市がゆかりの場所である。

□ときに「傷害しない人」バーラドヴァージャ・バラモンは尊師のもとにおもむいた。近づいてから尊師に挨拶し、喜ばしく、追憶に関することばを交して、傍らに坐した。

□傍らに坐した「傷害しない人」バーラドヴァージャ・バラモンは尊師に向かって次のように言った、――「ゴータマさん! わたしは障害しない人なのだよ。ゴータマさん! わたしは障害しない人なのだよ。」

□〔尊師いわく、――〕

「〔実際が〕名の示すとおりであるならば、そなたは〈傷害しない人〉であるかもしれない。

しかし身体によっても、ことばによっても、心の中でも、障害しない人、他の者を傷ついた人、――かれこそ〈障害しない人〉なのである。」

□このように言われて、「傷害しない人」バーラドヴァージャ・バラモンは尊師に向かって次のように言った、――「すばらしいことです。ゴータマさん! すばらしいことです。譬えば、倒れたものを起こすように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』といって暗闇の中で灯火をかかげるように、ゴータマさんは、種々のしかたで真理を明らかにされました。だから、わたしは尊師ゴータマに帰依いたします。また真理の教えと修行僧のつどいに帰依いたします。わtっしはゴータマさんのもとで出家し、正式の戒律を受けたいのです。」

□正式の戒律を受けてからまもなく、傷害しない人バーラドヴァージャ・バラモンは、尊師のもとで出家し、

□傷害しない人バーラドヴァージャ・バラモンさんは、独りで隠棲し、怠ることなく努め励んでいたので、まもなく、立派な人々がそのために正しく家から出て家をもたぬ状態におもむくところのその無上なる清浄行の完成を、まさにこの世において自ら知り体得し具現して住していた。――「生存は消滅した。清らかな行いを実践しおえた。なすべきことは、なしとげた。もはやさらにこのような状態におもむくことはない」ということを理解した。

□さてバーラドヴァージャさんは、敬わるべき人々の一人となった。(135~136頁)

第6節 結 髪

■ サーヴァッティー市がゆかりの場所である。

□ときに結髪のバーラドヴァージャ・バラモンは尊師のもとにおもむいた。近づいてから尊師に挨拶し、喜ばしく、追憶に関することばを交して、傍らに坐した。

□ 傍らに坐した結髪のバーラドヴァージャ・バラモンは、尊師に詩を以て語りかけた。

「内に結髪のしがらみあり、外に結髪のしがらみあり、――-

人々は結髪のしがらみにまといつかれている。

それ故に、ゴータマよ、あなたにお尋ねします、――

この結髪を解きほごすのは、誰ですか?」

□〔尊師は答えた、――〕

「人として、堅く戒めをたもち、明らかな智慧をそなえ、心の念(おも)いと明らかな智慧とを修養し、つねに熱心で、つつしみ深くつとめる修行僧は、この結髪を解きほごすであろう。

欲情と憎悪と無知(迷い)とが脱落し、煩悩の汚れを滅ぼしつくした〈敬わるべき人々〉――かれらは、結髪をすでに解きほごしたのである。名称と形態とがすっかり滅び、障礙(しょうがい)も、形態についての想いもすっかり滅びてしまったところでは、〔内的と外的との〕結髪は断ち切られるのである。」

□ このように言われて、結髪のバーラドヴァージャ・バラモンは、尊師に向かって次のように言った、―― 「すばらしいことです。ゴータマさん! すばらしいことです。譬えば、倒れたものを起こすように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』といって暗闇の中で灯火をかかげるように、ゴータマさんは、種々のしかたで真理をあきらかにされました。だから、わたしは尊師ゴータマに帰依いたします。また真理の教えと修行僧のつどいに帰依いたします。わたしはゴータマさんのもとで出家し、正式の戒律を受けたいのです。」

結髪のバーラドヴァージャ・バラモンは、尊師のもとで出家し、正式の戒律を受けることができた。

正式の戒律を受けてからまもなく、結髪のバーラドヴァージャ・バラモンは、独りで隠棲し、怠ることなく努め励んでいたので、まもなく、立派な人々がそのために正しく家から出て家をもたぬ状態におもむくところのその無上なる清浄行の完成を、まさにこの世において自ら知り体得し具現して住していた。――「生存は消滅した。清らかな行いを実践しおえた。なすべきことは、なしとげた。もはやさらにこのような状態におもむくことはない」ということを理解した。

□さてバーラドヴァージャさんは、敬わるべき人々の一人となった。(136~138頁)

第7節 浄らかさを求める者

■ 〔尊師いわく、――〕

「多くの呪文をやたらにつぶやいていていても、人は生まれによってバラモンとなるのでない。内心は汚物に汚れ、欺瞞にたよっている。

王族でも、バラモンでも、庶民でも、シュードラでも、チャンダーラや下水掃除人でも、精励してつとめ、熱心であり、つねにしっかりと勇しく行動する人は、最高の清らかに達する。このような人々をバラモンであると知れ。」(139頁)

第8節 火を拝む者

■或るとき尊師は王舎城の竹林のうちにある栗鼠飼養所にとどまっておられた。

□そのとき火を拝むバーラドヴァージャ・バラモンは乳酪を以て煮た米飯を用意しつつあった。――「わたしは火神に祈りましょう。わたしは火の供養を行いましょう」と思って。

□さて尊師は朝早く衣をつけて、鉢と衣を手に執って、托鉢のために王舎城に入って行かれた。王舎城のうちで戸ごとに托鉢に廻って、火を拝む者なるバーラドヴァージャ・バラモンの住居におもむいた。近づいてから傍らに立っておられた。

□ 火を拝む者なるバーラドヴァージャ・バラモンは、尊師が托鉢して廻っておられるのを見た。見てから尊師に向かって次の詩で語りかけた。

「3つの明知を具え、生まれもよく、大いに学識があり、明知と実践とが完全にそなわっている人こそ、わが乳粥を享受するがよい。」

□〔尊師いわく、――〕

「多くの呪文をやたらにつぶやいていていても、人は生まれによってバラモンとなるのでない。

内心は汚物に汚れ、欺瞞に覆われている。

〔ⅰ〕前世の生涯を知り、また〔ⅱ〕天上と地獄とを見、〔ⅲ〕生存を滅ぼしつくすに至って、直観智を確立した聖者、――

この3つの明知があることによって、〈3つの明知をそなえたバラモン〉となるのである。

明知と実践とを具えている人こそ、わが乳粥を受けて食べるがよい。」

□「ゴータマさまはこれを受けて召し上がってください。あなたはバラモンです。」

□〔尊師いわく、――〕

「詩を唱えて得た物を、わたしは食べてはならない。バラモンよ。これは真理を見通す者どもの道理ではない。

諸々のブッダ(聖者)は、詩を唱えて得た物を拒まれる。

バラモンよ。真の道理があるところに、この生活が成立する。

完全な聖者・大仙人・煩悩の消滅した者・悪行による後悔をすることのない人――

この人に他の飲食物を以て奉仕せよ。

それは、功徳を求める人の田となるからである。」

□ このように言われて、火を拝む者なるバーラドヴァージャ・バラモン尊師に次のようにいった。――「すばらしいことです。ゴータマさん! すばらしいことです。譬えば、倒れたものを起こすように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道をしめすように、あるいは「眼ある人々は色やかたちを見るであろう』といって暗闇の中で灯火をかかげるように、ゴータマさんは、種々のしかたで真理を明らかにされました。だから、わたしは尊師ゴータマさんに帰依いたします。また真理の教えと修行僧のつどいに帰依いたします。わたしはゴータマさんのもとで出家し、正式の戒律を受けたいのです。」

□ 火を拝む者なるバーラドヴァージャ・バラモンは、尊師のもとで出家し、正式の戒律を受けることができた。

□ 正式の戒律を受けてからまもなく、火を拝む者なるバーラドヴァージャ・バラモンは、独りで隠棲し、怠ることなく努め励んでいたので、まもなく、立派な人々がそのために正しく家から出て家をもとぬ状態におもむくところのその無上なる清浄行の完成を、まさにこの世において自ら知り体得し具現して住していた。――「生存は消滅した。清らかな行いを実践いおえた。なすべきことは、ましとげた。もはやさらにこのような状態におもむくことはない」ということを理解した。

□さてバーラドヴァージャさんは、敬わるべき人々の一人となった。(140~143頁)

第9節 スンダリカ

■ 或るとき尊師はコーサラ国のうちでスンダリカー湾の岸辺にとどまっておられた。

□ そのときスンダリカ・バーラドヴァージャというバラモンは、スンダリカー河の岸辺で火を供養し、火の供犠を行っていた。

□ さてスンダリカ・バーラドヴァージャというバラモンは、火を供養し、火の供犠を行ってのち、座から立ち上がって、遍く四方を眺めた。――「そもそも誰がこの供物のおさがりを受けて食べたらよいのであろうか?」と考えて。

□ スンダリカ・バーラドヴァージャというバラモンは、尊師が或る樹木の根もとで、頭を包み、坐しているのを見た。見たあとで、左手で供物のおさがりをつかんで、右手で水瓶を持って、尊師のところにおもむいた。

□ ときに尊師は、スンダリカ・バーラドヴァージャというバラモンの足音を聞いたので、頭の覆いを開いた。

□ そこでスンダリカ・バーラドヴァージャというバラモンは、「この方は頭を剃髪している! この方は頭を剃髪している!」といって、そこから退こうと欲した。

□ そこでスンダリカ・バーラドヴァージャというバラモンは、次のように思った、――「この世で或るバラモンたちは、頭を剃っていることもある。では、わたしは近づいて行って、かれの生まれを尋ねることにしよう」と。

□ そこでスンダリカ・バーラドヴァージャというバラモンは、尊師のもとにおもむいた。近づいてから、尊師に向かって次のように言った、――「あなたの生れは何ですか?」

□〔尊師いわく、――〕

「生まれを尋ねるな。行いを尋ねよ。

火は実に微細な木材からも生じる。

たとい賤しい家からの出身であろうとも。

毅然として、慚愧の念で身を防いでいる。

聖者は、高貴の人となる。

真実によって制御され、〔諸感官の〕制御を身に具え、

智慧の奥義に達し、清浄行を実践した人、祭儀を準備した人は、かれにこそ呼びかけよ。

供養され敬わるべき人は、適当な時に供養を〔火の中に〕ささげる。」

□〔スンダリカ・バラモンいわく、――〕

「実に、わたしのこの供物はよくささげられた。

そのような立派な、知識に到達した人をわたしは見たのだから。

けだし、以前にはあなたのような人を見なかったので、他の人が供養のおさがりを受けて食べた。

 〔今となっては〕ゴータマさまが受けて召し上がれ。あなたさまはバラモンです。」

□〔尊師いわく、――〕

「詩を唱えて得たものを、わたしは受けて食べてはならない。

バラモンよ。これは、真理を見通す者どもの道理ではない。

緒々のブッダ(賢者)は、詩を唱えて得た物を拒まれる。

バラモンよ。真の道理があるところに、この生活法が成立する。

そうではなくて――完全な聖者・大仙人・煩悩の消滅した者・悪行による後悔をすることのない人、――この人に飲食物を以て奉仕せよ。

それは、功徳を求める人の田となるからである。」

□「ゴータマさん! では、わたしはこの供物のおさがりを誰に与えたらよいのでしょうか?」

□「バラモンよ。神々と梵天とを含む世界において、修行者・バラモン・神々・人間を含む生ける者どものうちで、如来および如来の弟子よりも以外には、供物のおさがりを受けて食べて完全に消化させ得る人を見出しません。バラモンよ。だから、そなたは、その供物のおさがりを、草のないところに捨てよ。あるいは生き物の棲んでいない水の中に沈めよ。」

□ そこでスンダリカ・バーラドヴァージャというバラモンは、その供物のおさがりを、生き物の棲んでいない水の中に沈めた。

□ さて、その供物のおさがりが水の中に投げすてられたときに、チッチティ、チティ、チティと音を立てて、煙を生じ、湯気を出した。譬えば、日中の太陽に熱せられた鉄板を水の中に投げ込むと、チッチティ、チティ、チティという音を立てて、煙を生じ、湯気を出すように、同様に水の中に投げ込まれた供物のおさがりは、チッチティ、チティ、チティという音をたてて、煙を生じ、湯気を出す。

□ そこでスンダリカ・バーラドヴァージャというバラモンは、ぞっとして、髪の毛もよだち、尊師のもとにおもむいた。近づいてから、傍らに立っていた。

□ 傍らに立っていたスンダリカ・バーラドヴァージャというバラモンに向かって、尊師は詩を以て呼びかけた。

「バラモンよ。木片を焼いたから浄らかさが得られると考えるな。

それは単に外側に関することであるからである。

外的なことによって清浄が得られると考える人は、

実はそれによって浄らかさを得られることができない

と真理に熟達した人々は語る。

バラモンよ。わたしは〔外部に〕木片を焼くことをやめて、

内面的にのみ光輝を燃焼させる。

永遠の火をともし、常に心を静かに統一していて、

敬わるべき人として、わたくしは清浄行を実践する。

バラモンよ。そなたの慢心は重荷である。

怒りは煙であり、虚言は灰である。

舌は木杓であり、心臓は〔供養のための〕光炎の場所である。

よく自己をととのえた人が人間の光輝である。

バラモンよ。戒めに安住している人は法の湖である。

濁りなく、常に立派な人々から立派な人々に向かって称賛されている。

そこで水浴すた、知識に精通している人々、

肢体がまつわれることのない人々は、彼岸にわたる。

真実と法と自制と清浄行、――-

これは中〔道〕に依るものであり、ブラフマンを体得することである。バラモンよ。

善にして真直ぐな人々を敬え。

その人を、わたしは〈法に従っている人〉であると説く。」

□ このように言われて、スンダリカ・バーラドヴァージャというバラモンは尊師に向かって次のように言った。――「すばらしいことです。ゴータマさん!すばらしいことです。譬えば、倒れたものを起こすように、覆われたものを聞くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』といって暗闇の中で灯火をかかげるように、ゴータマさんは、種々のしかたで真理を明らかにされました。だから、わたしは尊師ゴータマに帰依いたします。また真理の教えと修行僧のつどいに帰依いたします。わたしはゴータマさんのもとで出家し、正式の戒律を受けたいのです。」

□ スンダリカ・バーラドヴァージャというバラモンは、尊師のもとで出家し、正式の戒律を受けることができた。

□ 正式の戒律を受けてからまもなく、スンダリカ・バーラドヴァージャというバラモンは、独りで隠棲し、怠ることなく努め励んでいたので、まもなく、立派な人々がそのために正しく家を出て家をもたぬ状態におもむくところのその無上なる清浄行の完成を、まさにこの世において自ら知り体得し具現していた。――「生存は消滅した。清らかな行いを実践しおえた。なすべきことは、なしとげた。もはやさらに、このような状態におもむくことはない」ということを理解した。

□ さてバーラドヴァージャさんは、敬わるべき人々のうちの一人となった。(143~149頁)

第2章 在 俗 信 者

第1節 田を耕す人

■ わたしが聞いたところによると、――或るとき尊師(ブッダ)は、マガダ国の南山にある「一つの茅(かや)」というバラモン村にとどまっておられた。

□ そのとき「田を耕す人」というバーラドヴァージャ姓のバラモンは、種を負時に五百挺の鋤(すき)を牛に結びつけた。

□ さて尊師(ブッダ)は朝早く内衣を着け、鉢と上衣とをたずさえて、田を耕すバーラドヴァージャ姓のバラモンが仕事をしているところにおもむかれた。

□ ところでそのときに田を耕すバーラドヴァージャ姓のバラモンは食物を配給していた。

□ そこで尊師は、食物を配給しているところに近づいて、傍らに立たれた。

□ 田を耕すバーラドヴァージャ姓のバラモンは、尊師が食を受けるために立っているのを見た。そこで尊師に告げて言った、「道の人よ。わたしは耕して種を播く。耕して種を播いたあとで食う。あなたもまた耕せ、また種を播け。耕して種を播いたあとで食え」と。

□〔尊師は答えた、――〕「バラモンよ。わたしもまた耕して種を播く。耕して種を播いてから食う」と。

□ そこで田を耕すバーラドヴァージャ姓のバラモンは詩を以て尊師に語りかけた。

「あなたは農夫であるとみずから称しておられますが、われらはあなたが耕作するのを見たことがない。耕作者であるというあなたに、おたずねしますが、答えてください、――

あなたが耕作するということを、われらはどのように了解したらよいのでしょうか?」

□〔尊師は答えた、――〕

「わたしにとっては、信仰が種子(たね)である。苦行が雨である。智慧がわが軛(くびき)と鋤(すき)である。慚(はじること)が鋤棒である。心が縛る縄である。気を落ち着けることがわが鋤先と突棒とである。身をつつしみ、ことばをつつしみ、食物を節して過食しない。わたくしは真実をまもることを草刈りとしている。柔和がわたくしにとって〔牛の〕軛を離すことである。

努力がわが〈軛をかけた牛〉であり、安穏の境地に運んでくれる。退くことなく進み、そこに至ったならば、憂えることがない。

この耕作はこのようになされ、甘露の果実(みのり)をもたらす。この耕作を行ったならば、あらゆる苦しみから脱(のが)れる。」

□〔そこで田を耕すバーラドヴァージャ姓のバラモンは言った、――〕「ゴータマさまは〔供養の食物を〕召し上がれ。あなたは耕作者です。ゴータマさまは甘露の果実をもたらす耕作をなさるのですから。」

□〔尊師いわく、――〕

「詩を唱えて〔報酬として〕得たものを、わたくしは食うてはならない。バラモンよ、このことは正しく見る人々(目ざめた人々)のならわしではない。詩を唱えて得たものを、目ざめた人々(諸々のブッダ)は斥(しりぞ)ける。バラモンよ、定めが存するのであるから、これが〔目ざめた人々の〕生活法なのである。

全き人である大仙人、煩悩の汚れをほろぼし尽し悪い行いを消滅した人に対しては、他の飲食をささげよ。けだしそれは功徳を積もうと望む者のための(福)田であるからである。」

このように説かれたときに、田を耕すバーラドヴァージャ姓のバラモンは、尊師に次のように言った、――「すばらしいことです。ゴータマさま! すばらしいことです。譬えば、倒れた者を起こすように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』と言って暗闇の中で灯火をかかげるように、ゴータマさまは、種々のしかたで真理を明らかにされました。故にわたしはここにゴータマ尊師に帰依いたします。また真理と修行僧のつどいに帰依いたします。ゴータマさまは、わたしを在俗信者として受け入れてください。今日以後命の続く限り帰依いたします。」(154~157頁)

第2節 ウ ダ ヤ

■ サーヴァッティー市がゆかりの場所である。

□ときに尊師は早朝に衣をつけ、鉢と衣を身に受けて、ウダヤというバラモンの住居に〔托鉢に〕におもむいた。

□ そのときウダヤというバラモンは、尊師の鉢に米飯を盛って、それを満たした。

□ 再び、尊師は早朝に衣をつけ、鉢と衣を身に受けて、ウダヤというバラモンの住居におもむいた。そのときウダヤというバラモンは、尊師の鉢に米飯を盛って、それを満たした。

□ 三たび、ウダヤというバラモンは、尊師の鉢に米飯を盛って、それを満たしたあとで、尊師に、次のように言った。――「道の人・ゴータマがくりかえしやって来るとは、しつこい奴だな!」

□〔尊師いわく、――〕

「いつもくりかえし種子を播き、

いつもくりかえし神々の王が雨を降らし、

いつもくりかえし農夫は田畑を耕し、

いつもくりかえし〔雨を降らす神々の王が〕他の国土にまでも及び、

いつもくりかえし托鉢行者が食物を乞い、

いつもくりかえし施主が施与をなす。

いつもくりかえし施主が施与をなしたあとで、

いつもくりかえし天界なる場所におもむく。

いつもくりかえし乳牛業者は乳を絞り、

いつもくりかえし仔牛は母に近づく。

いつもくりかえし人は疲れ、また苦しみ労する。

いつもくりかえし愚者は母胎に入り、〔迷いの生存をつづける〕。

いつもくりかえし生まれ、また死に、

いつもくりかえし墓場にはこぶ。

しかし智慧豊かな人は、再び迷いの生存に至ることのない道を得て、再びくりかえし生まれることはない」と。

□ このように説かれたときに、ウダヤというバラモンは尊師に向って次のように言った。――「すばらしいことです。ゴータマさま! すばらしいことです。譬えば、倒れた者を起こすように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』と言って暗闇の中で灯火をかかげるように、ゴータマさまは、種々のしかたで真理を明らかにされました。故にわたしはここにゴータマ尊師に帰依いたします。また真理と修行僧のつどいに帰依いたします。ゴータマさまは、わたしを在俗信者として受け入れてください。今日以後命の続く限り帰依いたします。」(154~159頁)

第6節 つ む じ 曲 が り

■ サーヴァッティー市がゆかりの場所である。

□ そのとき、「つむじ曲がり」という名のバラモンが、サーヴァッティー市に住んでいた。

□ ときに「つむじ曲がり」という名のバラモンは次のように思った。――-わたしは〈道の人〉ゴータマのところへ行こう。道の人ゴータマが語ることには、何でもたてついてやろう。

□ そのとき、尊師は戸外の露地でそぞろ歩きをしておられた。

□ さて「つむじ曲がり」という名のバラモンは尊師のもとにおもむいた。さぞろ歩きをしておられる尊師に近づいて、自分も追随してそぞろ歩きをして、尊師に次のように言った、――「道の人よ。法を説いてください。」

□〔尊師いわく、――-〕

「よく説かれたことでも、心が汚れ、争いがちのつむじ曲りには理解されがたい。争闘を捨てて、争いがちを除き、また心の不信を除くならば、その人は、よく説かれたことを理解するであろう。」

□ このように言われたので、「つむじ曲がり」という名のバラモンは、尊師に向って次のように言った。――「すばらしいことです。ゴータマさま! すばらしいことです。譬えば、倒れた者を起こすように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』と言って暗闇の中で灯火をかかげるように、ゴータマさまは、種々のしかたで真理を明らかにされました。故にわたしはここにゴータマ尊師に帰依いたします。また真理と修行僧のつどいに帰依いたします。ゴータマさまは、わたしを在俗信者として受け入れてください。今日以後命の続く限り帰依いたします。」(168~169頁)

第8節 薪 を 採 る 人

■ 或るとき尊師はコーサラ国の或る林の荒地に住しておられた。

□ そのときに、「バーラドヴァージャ姓のバラモンの或る一人」に属する多くの弟子たち・若者たちが、薪を採る人として、その荒地におもむいた。

□ かれらは近づいて、尊師がその林の荒地のなかで足を組んで、身体を真っ直ぐに立てて、まのあたりに気を落ちつけて坐しているのを見た。見てから、バーラドヴァージャ姓のバラモンのところにおもむいた。

□ 近づいてから、バーラドヴァージャ姓のバラモンに向って次のように言った、――

「さあ、これこれの林の荒地に、或る〈道の人〉が足を組んで、身体を真っ直ぐに立てて、まのあたりに気を落ちつけて坐しているのを、あなたさまはお知りくださいませ。」

□ そこでバーラドヴァージャ姓のバラモンは、それらの若者たちと共に、その林の荒地におもむいた。すると、尊師が、その林の荒地のなかで、足を組んで、身体を真っ直ぐに立てて、まのあたりに気を落ちつけて坐しているのを見た。見てから、尊師のもとにおもむいた。すると、尊師が、その林の荒地の中で、足を組んで、身体を真っ直ぐに立てて、まのあたりに気を落ちつけて坐しているのを見た。見てから、尊師のもとにおもむいた。近づいてから、尊師に向って詩で語りかけた。――

「奥深いすがたの、いとも恐ろしい林の中で、

人を離れた、空虚な森に入って、

あなたは、動揺せず、安立せる妙なるすがたで、いともみごとに瞑想する。托鉢修行者よ。

歌詠もなく、音楽もない森の中で、

聖者はただ一人で林に住んでおられる。

ただ独りで心喜び林の中に住むことは、すばらしいことだと、わたくしには思われます。

この方は、無上の三天、世界の王(梵天)と共住することを望んでおられるのだ、とわたくしはおもいます。

〔そうでなければ〕どうして、あなたは、梵天に達するために、人のいない森に住みついて、ここで苦行なさるのでしょう。」

□〔尊師いわく、――-〕

「人々がいろいろと種々の対象に依拠しているところのいかなる希望、喜びでも、無知を根として現われ出たものであり、希求されているが、わたしはそれらをすべて根こそぎに断ってしまった。

だから、わたしは、望むことなく、求めることなく、近づくことがない。あらゆる事柄について清らかに見とおしている。

無上の、めでたいさとりに達して、わたしは、独り隠れて、恐れることなく、瞑想する。」

□ このように言われたので、バーラドヴァージャ姓のバラモンは、尊師に向って次のように言った。――「すばらしいことです。ゴータマさま! すばらしいことです。譬えば、倒れた者を起こすように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』と言って暗闇の中で灯火をかかげるように、ゴータマさまは、種々のしかたで真理を明らかにされました。故にわたしはここにゴータマ尊師に帰依いたします。また真理と修行僧のつどいに帰依いたします。ゴータマさまは、わたしを在俗信者として受け入れてください。今日以後命の続く限り帰依いたします。」(171~174頁)

第10節 乞 食 す る 者

■ サーヴァッティー市がゆかりの場所である。

□ ときに、乞食している或るバラモンが、尊師のもとにおもむいた。近づいてから尊師に挨拶して、喜びのことば、思い出の話を交わして、傍らに坐した。

□ 傍らに坐したその乞食するバラモンは、尊師に向って次のように言った。――「ゴータマさま! わたしもまた乞食する者であり、あなたもまた乞食する者です。そこには少しも差別はありません。」

□〔尊師いわく、――-〕

「他人に食を乞うからとて、それだけではビク(托鉢僧)なのではない。

毒となるきまりを身に受けている限りは、その人はビクではない。

この世の福楽も罪悪も捨て去って、清らかな行いを修め、よく思慮して

世に処しているならば、かれこそビクとよばれる。」

□ このように言われたので、その乞食するバラモンは尊師に次のように言った。――「すばらしいことです。ゴータマさま! すばらしいことです。譬えば、倒れた者を起こすように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』と言って暗闇の中で灯火をかかげるように、ゴータマさまは、種々のしかたで真理を明らかにされました。故にわたしはここにゴータマ尊師に帰依いたします。また真理と修行僧のつどいに帰依いたします。ゴータマさまは、わたしを在俗信者として受け入れてください。今日以後命の続く限り帰依いたします。」(175~176頁)

第11節 サ ン ガ ー ラ ヴ ァ

■ サーヴァッティー市がゆかりの場所である。

□ そのとき、サンガーラヴァという名のバラモンがサーヴァッティー市に住んでいたが、水によって身を浄める行者であり、水によって清浄を達成しようとしていた。かれは朝夕に水中に下りて水に浴することを実行していた。

□ そのときアーナンダさんは、早朝に衣をつけ、鉢と衣とを身に受けて、托鉢のためにサーヴァッティー市に入って行った。サーヴァッティー市で托鉢をなし終えて、食事をすませて、食器を片づけてから、尊師のもとにおもむいた。近づいてから、尊師に挨拶をして、傍らに坐した。

□ 傍らに坐したアーナンダさんは、尊師に次のように言った。――「尊いお方さま。ここにサンガーラヴァという名のバラモンがサーヴァッティー市に住んでいますが、水によって身を浄める行者であり、水によって清浄を達成しようとしています。かれは朝夕に水中に下りて水に浴することを実行しています。尊いお方さま。どうか尊師は、特別の思し召しで、サンガーラヴァという名のバラモンの住居にお出かけくださいませ。」

□ 尊師は沈黙によってそれを承認された。

□ さて尊師は朝早く衣をつけて、鉢と衣とを身に受けて、サンガーラヴァというバラモンの住居におもむいた。近づいてから、予め設けられた座席に座した。

□ そこでサンガーラヴァというバラモンは、尊師のもとにおもむいた。近づいてから、尊師に挨拶し、喜ばしい話を交して傍らに坐した。

□ 傍らに坐したサンガーラヴァというバラモンに対して尊師は次のように言った、――「バラモンよ。あなたは水によって身を浄める行者であり、水によって清浄を達成しようとしていて、朝夕に水中に下りて水に浴することを実行していると伝えられているのは、本当ですか?」

□「ゴータマさま。そのとおりです。」

□「バラモンよ。ではあなたは、いかなる利益を認めて、水によって身を浄める行者となり、水によって清浄を達成しようとして朝夕に水中に下りて水に浴することを実行しているのですか?」

□「ゴータマさま。ここに、わたくしは昼間につくった悪業を夕に沐浴して洗い落とし、夜につくった悪業を朝早くに沐浴して洗い落とすのです。この利益を見るが故に、わたくしは、水によって身を浄める行者となり、水によって清浄を達成しようとして、朝夕に水中に下りて水に浴することを実行しているのです。」

□「バラモンよ。戒めを渡し場としている道理なる湖は、濁りなく澄み、

諸々の善人が善人のために讃めたたえるものである。

そこでは、真の知識を得た聖者たちが沐浴し、五体を浄めて彼岸に渡る。」

□ このように説かれたときに、サンガーラヴァというバラモンは尊師に向って次のように言った。――「すばらしいことです。ゴータマさま! すばらしいことです。譬えば、倒れた者を起こすように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』と言って暗闇の中で灯火をかかげるように、ゴータマさまは、種々のしかたで真理を明らかにされました。故にわたしはここにゴータマ尊師に帰依いたします。また真理と修行僧のつどいに帰依いたします。ゴータマさまは、わたしを在俗信者として受け入れてください。今日以後命の続く限り帰依いたします。」(176~179頁)

第Ⅷ篇 ヴァンギーサ長老についての集成

第5節 みごとに説かれたこと

■〔或るとき尊師は〕サーヴァッティー市のジュータ林・〔〈孤独の人々に食を給する人〉の園に住しておられた。〕

□ そこで尊師は修行僧たちに呼びかけられた、――「修行僧たちよ」と。

□ 修行僧たちは尊師に向って「尊いお方さま!」と答えた。

□ 尊師は次のように言われた、――

 「修行僧たちよ。4つの特徴を具えたことばは、みごとに説かれたのである。悪しく説かれたのではない。諸々の智者が見ても欠点なく、非難されないものである。その4つとは何であるか?

□ ここで修行僧が、⑴みごとに説かれたことばのみを語り、悪しく説かれたことばを語らず、⑵理法のみを語って、理にかなわぬことを語らず、⑶好ましいことのみを語って、好もしからぬことを語らず、⑷真実のみを語って、虚妄を語らないならば、この4つの特徴を具えていることばは、みごとに説かれたのであって、悪しく説かれたのではない。諸々の智者が見ても欠点なく、非難されないものである。」

□ 尊き師はこのことを告げた。このことを説いたあとでまた、〈幸せな人〉である師は、次いで次のように説いた。――

「立派な人々は説いた―― ⑴最上の善いことばを語れ。(これが第一である。)⑵正しい理(ことわり)を語れ、道理に反することを語るな。これが第二である。⑶好ましいことばを語れ。好もしからぬことばを語るな。これが第三である。⑷真実を語れ。偽りを語るな。これが第四である。」(190~191頁)

第6節 サーリプッタ

■ 或るときサーリプッタ尊者は、サーヴァッティー市のジュータ林・〈孤独の人々に食を給する人〉の園にとどまっておられた。

□ そのときサーリプッタ尊者は、修行僧たちに、法に関する談話をして、示し、勧め、はげまし、喜ばせた。その談話は、丁寧で、障害なく、濁りなく、事柄の意義を知らせるものであった。そうしてその修行僧たちはその意義を理解し、注意して、心をすっかり集中し、耳を傾けて、ことわりを聞いた。

□ そこでヴァンギーサさんは、次のように思った、――「このサーリプッタ尊者は、法に関する談話をして、示し、勧め、はげまし、喜ばせた。その談話は、丁寧で、障害なく、濁りなく、事柄の意義を知らせるものであった。そうして、その修行僧たちは、その意義を理解し、注意して、心をすっかり集中し、耳を傾けて、ことわりを聞いた。さあ、わたしは、ふさわしい詩をとなえて、サーリプッタ尊者を、面と向って称讃しよう」と。

□ そこでヴァンギーサさんは、座席から起き上がって、上衣を1つの肩にかけて、サーリプッタ尊者に向って合掌して、サーリプッタ尊者に次のように言った、――「サーリプッタさん。わたしは、ふと思い出すことがあります。ふと思い出すことがあります。」

□〔師いわく、――〕

「ヴァンギーサさん。では思い出せ。」

□ さてヴァンギーサさんは、ふさわしい詩をとなえて、サーリプッタ尊者を、面と向って称讃した。――

「智慧が深く、聡明な英智に富み、種々の道に通達し、大いなる智慧あるサーリプッタは、もろもろの修行僧に、ことわりを説く。

かれは簡略に説くこともあり、また、詳しく語ることもある。九官鳥の鳴き声のように、〔自由自在な〕弁舌の才を発揮する。

かれが、魅惑的な、聞くに快い、甘美な声で教えを説いているとき、その甘く快い声を聞いて、修行僧たちは、心喜び、なごんで、耳を傾けた。」(192~193頁)

第12節 ヴァンギーサ

■ 或るときヴァンギーサ尊者は、サーヴァッティー市のジュータ林・〈孤独の人々に食を給する人〉の園にとどまっておられた。

□ そのときヴァンギーサ尊者は、〈敬わるべき人〉の境地を体得してからまもなく、解脱のたのしみを感じながら、そのとき次の詩句をとなえた。――

「かって、わたしは、詩文の芸に陶酔して、村から村へ、町から町へと流浪した。

たまたま、われらは、〈さとれる人〉にお目にかかった。

われらに信仰心が起こった。

あのかたは、わたしに、〔個人存在の5つの〕構成要素・〔6つの感官と6つの認識対象とを合わせた18の〕要素ということわりを説かれた。

わたしはそのかたの教えを聞いて、家を捨てて出家した。

実に聖者(ブッダ)は、必ず〔究極の境地に至ると〕定まっているのを見たそれらの多くの修行僧や修行尼を益するために、さとりを得たのである。

実にそれは、わがブッダのもとにあっては、わたしにとって、歓迎されることであった。

わたしは3種の明智を体得し、ブッダの教えを実践しました。

わたしは前世の生涯に通じて知っています。天の眼を浄めました。3種の明智あり、超人的な神通力を具え、他人の心の中を見抜くことに巧みであります。」(203~204頁)

第Ⅸ篇 林に関する集成

第6節 アルヌッダ

■ 或るときアルヌッダ尊者は、コーサラ国のうちの或る林の荒地にとどまっていた。

□ときに、昔はアルヌッダ尊者の妻であって今は三十三天の神々のうちの一人となっているジャーリニーという神が、アルヌッダ尊者に近づいた。

□ 近づいてから、アルヌッダ尊者に詩を以て語りかけた。――

「むかしあなたがすんでおられましたところ、――一切の欲楽をかなえた三十三天――に生まれようとの願いを起こしなさいませ。

そこであなたは天女たちに恭しく敬われとりまかれて輝いておられました。」

□〔アルヌッダいわく、――〕

「わが身の思いにとらわれている天女たちは禍いである。

天女たちを求める人々も、禍いである。」

□〔ジャーリニーいわく、――〕

「世にほまれある三十三天の人々および神々の住居であるナンダナ園を見ない人々は、

楽しみなるものを知っていない。」

□〔アルヌッダいわく、――〕

「愚かな女よ。そなたは敬わるべき人々(=ブッダたち)のことばがどんなものであるかを理解していない。――

『つくられたものはすべて無常である。生じてはまた滅びる性質のものである。それらは生起して滅びる。それらの静まった安らぎこそ安楽である』と。

ジャーリニー(罠にかける女)は、もはや神々の群のうちに再び住むということはない。生れを繰り返す迷いの生存はもはや滅ぼし尽された。いまや再び迷いの生存は存在しない。」(212~214頁)

第7節 ナーガダッタ

■ 或るときナーガダッタ尊者は、コーサラ国のうちで、或る林の荒地にとどまっておられた。

□ ときに、林の荒地に住みついている或る神がナーガダッタ尊者を憐み、そのためをはかってやろうとして、ナーガダッタ尊者に近づいた。

□ 近づいてから、ナーガダッタ尊者に次の詩をとなえて語りかけた。――

「ナーガダッタよ。そなたは、てきとうなときに村に入れ。そなたは昼に帰って、あまりにも長く在家の人々と交わり、苦楽を共にしている。

わたしは恐れます――ナーガダッタがあまりにもずうずうしく家々にくぎづけになっているのを。

死滅をもたらす力恐ろしき死王に支配されないようになさい。」

□ そこでナーガダッタ尊者は、その神に警告されて、はっと気がついた。(214~215頁)

第8節 家の主婦(入り浸っている人)

■ 或るとき或る修行僧は、コーサラ国のうちの或る林の荒地に住んでいた。

□ そのときその修行僧は或る家庭にあまりにも入り浸りになっていた。

□ ときにその林の荒地に住みついている神が、その修行僧を憐んで、そのためをはかってやろうとして、その修行僧に警告しようとして、その家で主婦のすがたを化現(けげん)して、その修行僧に近づいた。

□ その修行僧に近づいて次の詩をとなえて、語りかけた。――

「河の岸、都市の門の広場、公会堂、車の走る街路で、人々が集まってはあなたとわたしのことを陰口しています。なぜでしょう。」

□〔修行僧いわく――〕

「世には気に障ることばが多いです。修行僧はそれを耐え忍ばねばなりません。

そのためにおずおずしてはなりません。それによって苦しめられることはないのです。

森の中で恐れる塵のように、〔人々の〕声におびえる人は、軽薄な人であると言われます。

かれは修行を完成することがありません。」(215~216頁)

第9節 ヴァッジ族の人(ヴェーサーリー市)

■ 或るときヴァッジ族の人である或る修行僧がヴェーサーリー市のうちの或る林の荒地に住んでいた。

□ そのとき、ヴェーサーリー市では夜通しの祭りが行われていた。

□ ときにその修行僧は、ヴェーサーリー市のうちで太鼓・銅羅・楽器の鳴りひびく音を聞いて、嘆きながら、そのとき、次の詩をとなえた。――

「われらは唯だ一人森の中にすんでいます。――森に捨てられた木片(きぎれ)のように。このような夜に、われらよりもみじめな人がいるでしょうか。」

□ そこでその林の荒地に住みついている神が、その修行僧を憐れんで、そのためをはかろうとして、その修行僧に警告しようとして、その修行僧に近づいた。

□ 近づいてから、その修行僧に詩を以て語りかけた。――

「そなたは森の中に住む。――

森に捨てられた木片のように。

だが、多くの人々がそなたを羨む。

――地獄の者どもが天上に赴く人々を羨むように。」

□ そこでその修行僧は、その神に警告されて、はっと気づいたのであった。(216~217頁)

第10節 聖典の暗誦(または法)

■ 或るとき或る修行僧が、コーサラ国のうちの或る林の荒地に住んでいた。

□ そのときその修行僧は、以前には非常に長いあいだ聖典の暗誦に大いにつとめていたが、後になっては、つとめること少なく、沈黙して、控えていた。

□ さてその林の荒地に住みついている神は、その修行僧が聖典の教えをとなえるのをきかなくなったので、その修行僧のところに近づいた。

□ 近づいてから、その修行僧に次の詩で語りかけた。――

「修行僧よ。そなたは修行僧たちとともに住んでいるのに、なぜ真理のことばをとなえないのか?

真理のことばがとなえられるのを聞いたならば、心が清らかな喜びにみち、

現世で人々の賞讃を博する。

□〔修行僧いわく、――〕

「昔は、わたしは離欲を達成するまでは真理のことばを学びたいという願望がありました。

いまやわたしは、離欲を達成したからには、

見たことでも、聞いたことでも、考えたことでも、すべて知った上では捨てさらねばならぬ、ということを、

立派な人々は説かれました。」(217~218頁)

第11節 根本からではないこと(または思索したこと)

■ 或るとき或る一人の修行僧が、コーサラ国のうちの或る林の荒地に住んでいた。

□ そのときその修行僧は昼間の休息をしていたが、よからぬ悪い思索を行った。――すなわち欲にもとづく思索と、憎悪にもとづく思索と、害心にもとづく思索とであった。

□ さて、その林の荒地に住みついていた神は、その修行僧を憐んで、そのためになることを望んで、その修行僧にそっと警告して気をつけさそうとして、その修行僧に近づいた。

□ 近づいてから、次の詩を以てその修行僧に話しかけた。――

「そなたは、根源から正しく注意しないために、思索に酔っているのです。

根源によるのではない、正しからざる思索を捨てよ。

戒律を捨てて退くことなく、師(ブッダ)と理法と集い(サンガ)とに関して、根源からしっかりと憶いつづけよ。

そうすれば、そなたは、喜びに達し、喜びを楽しみ、歓喜に富む者となり、苦しみを終滅するであろうことは、疑いない。」

□ そこでその修行僧は、その神に警告されて、はっと気がついた。(218~219頁)

第13節 だらけた人々(または多くの修行者たち)

■ 或るとき多くの修行僧たちがコーサラ国のうちの或る林の荒地に住んでいたが、かれらは、うわついていて、心騒がしく、ざわざわしていて、おしゃべりで、べちゃべちゃしゃべくり、心の落ち着きがなく、しっかりと気をつけていないで、心の統一もなく、心が散乱し、だらけていた。

□ そのとき林の荒地に住みついていた神が、それらの修行僧たちを憐んで、そのためになることを望んで、それらの修行僧に近づいた。

□ 近づいてから、それらの修行僧たちに、次の詩を以て話しかけた。――

「ゴータマの弟子であった昔の修行僧たちは、楽しく暮らしていた。

求める心なく食を乞い、求める心なく臥具や座具を乞い、

世間においては何ものも無常であることを知って、かれらは苦しみを滅した。

〔ところが今の修行僧たちは〕村の中で村長(むらおさ)が〔税を取り立てる〕ように、みずからを悪人となして、食べては、食べては、横になり、他人の家の富に心奪われている。

サンガ(修行僧の集い)に合掌をなし、

わたしはここに或る人々を敬礼する。

しかし、怠けて暮らしている人々は、捨てられ、導く主もなく、まさに死人のごとくである。

わたしはまさに、かれらのことを意味して、語ったのである。

怠らないで努めて暮らしている人々に対しては、わたしは敬礼をなす。」

□ そこでそれらの修行僧たちは、その神に警告されて、はっと気がついた。(220~221頁)

第14節 紅蓮華(または白蓮華)

■ 或るとき或る一人の修行僧がコーサラ国のうちの或る林の荒地に住んでいた。

□ そのときその修行僧は托鉢から帰って食事をすませてから、蓮池の中に浴して、紅蓮華の香りを嗅いだ。

□ ときにその林の荒地に住みついていた或る神は、その修行僧を憐んで、かれのためを思って、その修行僧にそっと警告して気づかせようとして、その修行僧のいるところに近づいた。

□ 近づいてから、その修行僧に次の詩を以て語りかけた。――

「水中に生ずるこの蓮の花は、与えられたものでもないのに、そなたはその香りを嗅いだ。

この香りは、盗まれるものの一つだ。君よ。そなたは、香りの盗人だ。」

□〔修行僧いわく、――〕

「わたしは、この花を取り去ったのではありません。折ったのでもありません。離れて、蓮華の香りを嗅いだのです。

それなのに、どういう理由で、わたしを〈香りの盗人〉と呼ぶのですか? 蓮の茎を掘り、蓮根を喰う人、このように汚れた行動をなす人を、どうして盗人と呼ばないのですか?」

□〔神いわく、――〕

「下女の汚れた衣のように、汚れて荒々しい男に向かって、わたしは説いているのではない。

わたしは、そなたに向かってこそ言うべきである。

罪汚れなくして、常に浄らかさを求めている人には、

毛先ほどの悪でも、雲ほどに大きく見えるのである。」

□〔修行僧いわく、――〕

「ヤッカよ。ああ、あなたは、わたしのことを知っておられます。またわたしを憐れんでくださいます。

ヤッカよ。もしもあなたが、このようなことを〔わたしのうちに〕見るならば、さらに告げてください。」

□〔神いわく、――〕

「わたしは、そなたに依存して生きているのではない。またそなたのために仕事をしてくれる人々がいるのではない。

修行僧よ。ひとは何によって〈よきところ〉に行き得るのかということを、そなた自身が知るべきである。」

□ そこでその修行僧は、その神に警告されて、はっと気がついた。(221~223頁)

第Ⅹ篇 ヤッカについての集成

第12節 アーラヴァ

□〔ヤッカいわく、――〕「わたしは、そなたに質問しよう。道の人よ。もしもそなたが説明することができなければ、わたしは、そなたの心を散乱させ、そなたの心臓を破り裂き、両足を捉えてガンジス河の彼岸に投げ捨ててしまうであろう。」

□〔尊師いわく、――〕

「いな、友よ。わたしは、神々、悪魔、梵天を含む世界のうちで、道の人やばらもんたち、神々や人間を含む生きとし生ける者どものうちで、わたしの心を乱し、心臓を破り裂き、両足を捉えてガンジス河の彼岸に投げ得るような者を見出さない。しかし、友よ、そなたは、なんでも欲することを質問なさい。」

□〔ヤッカいわく、――〕

「この世で、人にとって最上の富は何であるか?

何をよく修めたならば、幸せをもたらすのか?

諸々の味のうちですぐれて良いものは何であるか?

どのように生きることを、最上の生活と言うのか?」

□〔尊師いわく、――〕

「信(まこと)は、この世において人の最高の財である。徳を良く実行したならば、幸せをもたらす。

真実は、実に諸々の飲料のうちでも、すぐれ甘美なるものである。

明らかな智慧によって生きることが、最上の生活である、と人々は言う。」

□〔ヤッカいわく、――〕

「どのようにして激流を渡るのであるか?

どのようにして大海を渡るのであるか?どのようにして苦しみを超えるのであるか? どのようにして全く清らかになるのであるか?」

□〔尊師いわく、――〕

「ひとは、信仰によって激流を渡り、つとめはげむことによって海を渡る。勤勉によって苦しみを超え、明らかな智慧によって全く清らかとなる。」

□〔ヤッカいわく、――〕

「どのようにして智慧を得るのであるか? どのようにして財を得るのであるか? どのようにして名誉を得るのであるか? どのようにして友交を結ぶのであるか?

この世からかの世へと移って、死んだあとで悲しまないようにするには、どうしたらよいのであるか?」

□〔尊師いわく、――〕

「尊敬さるべき真人たちを信仰する人が、安らぎに至るための教えを聞こうと願って、怠りなまけることのない聡明な人は、明らかな智慧を得る。

身に適したふさわしいことを為し、重い荷に堪え、努力する人は、財を得る。

真実をまもることによって、良い評判を得、ものを与えるならば友交を結ぶ。

〔このようにするならば〕この世からかの世へと移って、死んだあとでも悲しむことがない。

家を求めながらも信仰あり、

真実と自制と、堅実と、捨離と、この四つの徳を具えている人は、

死んだあとでも悲しむことがない。この世からかの世に移って、死んだあとでも、このように悲しむことがない。

真実・自制・捨離・忍耐よりもさらにすぐれたものがこの世にあるかどうか、

ひろく世の〈道も人〉・バラモンたち、他の人々に尋ねよかし。」(242~245頁)

第Ⅺ篇 サッカ(帝釈天)に関する集成

第1章

第2節 スシーマ

□尊師は、次のように言われた。――

□「修行僧たちよ。むかし神々と阿修羅との戦闘が起こった。

□ そこで神々の主であるサッカ(帝釈天)は三十三天の神々に呼びかけた。――『友よ。もしも戦闘におもむいた神々に恐怖が起こり、戦慄が起こり、身の毛のよだつことが起こったならば、その時にはわが旗の先を見上げよ。そなたらがわが旗の先を見上げたならば、恐怖が起こっても、戦慄が起こっても。身の毛のよだつことがあっても、それは除かれるであろう。

□ もしもそなたらがわが旗の先を見上げることができなければ、神々の王であるパジャーパティの旗の先を見上げよ。そなたらがパジャーパティの旗の先を見上げたならば、恐怖が起こっても、戦慄が起こっても、身の毛のよだつことがあっても、それは除かれるであろう。

□ もしもそなたらがパジャーパティの旗の先を見上げることができなければ、神々の王であるヴァルナの旗の先を見上げよ。そなたらがヴァルナの旗の先を見上げたならば、恐怖が起こっても、戦慄が起こっても、身の毛のよだつことがあっても、それは除かれるであろう。

□ もしもそなたらがヴァルナの旗の先を見上げることができなければ、神々の王であるイシャーナの旗の先を見上げよ。そなたらが神々の王であるイシャーナの旗の先を見上げたならば、恐怖が起こっても、戦慄が起こっても、身の毛のよだつことがあっても、それは除かれるであろう。』

□ 修行僧たちよ。では、神々の主であるサッカの旗の先を見上げるときに、あるいは神々の王であるパジャーパティの旗の先を見上げるときに、あるいは神々の王であるヴァルナの旗の先を見上げるときに、あるいは神々の王であるイシャーナの旗の先を見上げるときに、恐怖が起こっても、戦慄が起こっても、身の毛のよだつことがあっても、それは除かれることもあろうし、あるいはまた除かれないこともあるであろう。

□ それは何故であろうか? 神々の主であるサッカ(帝釈天)は、欲情を離れず、憎悪を離れず、迷いを離れていないから、臆病であって、戦慄し、驚いて、逃げてしまうからである。

□ またわたしは、このように語る。――『修行僧たちよ。もしもそなたらが森の中にいとうとも、樹木の根もとにいようとも、空家(あきや)にいようとも、恐怖が起こったならば、戦慄が起こったならば、身の毛のよだつことがあったならば、その時にはわれを憶念せよ。かの尊師すなわち、敬わるべき人、全きさとりを開いた人、明知と行いとを具えた人、幸せな人、世間を知った人、人間を調練する無上の人、神々と人間との師、ブッダ、尊師はこのような人である』と。

□ 修行僧たちよ。そなたらがわたしを憶念するならば、恐怖が起こっても、戦慄が起こっても、身の毛のよだつことがあっても、それは除かれるであろう。

□ もしもわたしを憶念することができないならば、〈法〉を憶念せよ。法は尊師によって善く説かれたものである。現に効験の認められるもの、時を隔てぬもの、『来り見よ』と言われるもの、目的に導くもの、識者が各自それぞれ知るものである。

□ もしそなたらが法を憶念するならば、恐怖が起こっても、戦慄が起こっても、身の毛のよだつことがあっても、それは除かれるであろう。

□ もし法を憶念することができないならば、〈集い〉を憶念せよ。――『尊師の弟子の集いは、善く実践している。尊師の弟子の集いは真直ぐに実践している。尊師の弟子の集いは道理にもとづいて実践している。尊師の弟子の集いは方正なる実践をしているその集いとは、すなわち、四対の人々と八種の人々(四双八輩)である。尊師の弟子のこの集いは、供養さるべく、尊敬さるべく、施与を受けるべきであり、合掌さるべきであり、世人にとって無上の福田(功徳を生ずる田)である。』

□ もしそなたらが集いを憶念するならば、恐怖が起こっても、戦慄が起こっても、身の毛のよだつことがあっても、それは除かれるであろう。

□ それは、なぜであるか? 如来、敬わるべき人、全きさとりを開いた人は、欲情を離れ、憎悪を離れ、迷いを離れ、怯むことなく、戦慄せず、驚かず、逃げ去らないからである」と。(253~255頁)

第4節 ヴェーパチッティ(堪え忍ぶこと)

■ 〔或るとき尊師は〕サーヴァッティー市のジュータ林・〈孤独な人々に食を給する人〉の園にとどまっておられた。そこで尊師は、修行僧たちに告げて言われた。――「修行僧たちよ。」その修行僧たちは、「尊いお方さま!」と、尊師に答えた。

□ 尊師は次のように言われた。――

□「修行僧たちよ。むかし神々と阿修羅との戦闘が起こった。

□ そのとき阿修羅の主であるヴェーパチッティは阿修羅たちに呼びかけた。――『友よ、神々と阿修羅との戦闘がたけなわになったときに、もしも阿修羅が勝ち、神々が敗れるということになったならば、神々の主であるサッカの頸を第五の紐で縛って、阿修羅の城に、わたしのもとに連れてこい』と。

□ 神々の主であるサッカもまた、三十三天の神々に呼びかけた。――『友よ、神々と阿修羅との戦闘がたけなわになったときに、もしも神々が勝ち、阿修羅が敗れるということになったならば、阿修羅の主であるヴェーパチッティの頸を第五の紐で縛って、善法堂に、わたしのもとに連れてこい』と。

□ 修行僧たちよ。その戦闘において、神々が勝ち、阿修羅たちは敗れた。

□ そこで、三十三天の神々は、阿修羅の主であるヴェーパチッティの頸を第五の紐で縛り、神々の主であるサッカのもとに、善法堂に連れてきた。

□ さて阿修羅の主であるヴェーパチッティは頸を第五の紐で縛られていたが、神々の主であるサッカが善法堂に入ったり出たりするのを見て、口汚い粗暴なことばで罵り、誹謗した。

□ そのとき綱をもつ御者であるマータリは、神々の主であるサッカに、次の詩を以て語りかけた。――

『恵み深きサッカさま。ヴェーパチッティが面と向かって粗暴な言葉を発するのを、だまって聞いて忍んでおられるのは、こわいからですか? 無力だからですか?』

□〔サッカいわく、――〕

『わたしがヴェーパチッティの暴言を忍ぶのは、こわいからではない。また無力だからでもない。

わたしのような聞き分けある者がどうして愚か者と競い合うであろうか。』

□〔マータリいわく、――〕

『もしも制止する人がいないならば、愚人はますます猛り怒るでしょう。だから、厳しい罰を加えて、思慮ある人は愚者を制止すべきです。』

□〔サッカいわく、――〕

『わたしは、こう思う。他人が怒っているのを知ったときに、気を落ち着けて、静かにしているならば、それが愚人を制止することである。』 

□〔マータリいわく、――〕

『ヴァーサヴァよ。耐え忍ぶことのうちにはこの過失があるのを、わたしは見ます。

《かれは、わたしを恐れて忍んでいるのだ》と、愚人が思うときに、愚者は増長する。――逃げて行く人を見ると、牛がますます増長するように。』

□〔サッカいわく、――〕

『かれは《わたしを恐れて忍んでいるのだ》と思いたければ、そう思わせておけ。そう思いたくなければ、それでもよい。

善き利のうちでも最上の利である〈耐え忍ぶこと〉よりもすぐれたものは、存在しない。

或る人が力の有る者でるのに、無力な人を耐え忍ぶならば、それを〈最上の忍耐〉と呼ぶ。力のない人はつねに耐え忍ぶ。

或る人が愚者の力を力としているならば、その力を〈無力〉と呼ぶ。徳にまもられている力には、〈言い逆らう人〉がない。

怒った人に対して怒り返す人は、それによってさらに悪をなすことになるのである。怒った人に対して怒りを返さないならば、勝ちがたき戦にも勝つことになるのである。

他人が怒ったのを知っても、みずから気をつけて静かにしているならば、その人は、自分と他人と、両者のためになることを行っているのである。

自分と他人と両者のために癒そうとつとめている人を〈愚者〉だと、人々は考える。――ことわりにも通じていないのに。』

□ 修行僧たちよ。神々の主であるサッカは、みずからの功徳の果報によって生きながら、三十三天の神々の支配・統理をなしつつ、忍耐と柔和とを称讃するものとなるであろう。

□ そなたらは、このように善く説かれた教えと戒律において出家したのであるから、耐え忍ぶことと柔和とを身につけて修めたならば、輝くであろう。」(256~260頁)

第5節 善いことばによる勝利

■ サーヴァッティー市がゆかりの場所である。

□ 「修行僧たちよ。むかし神々と阿修羅との戦闘がたけなわであった。

□ そこで阿修羅の主であるヴェーパチッティは、神々の主であるサッカに次のように言った、――『神々の主よ。善いことばによって勝利せよ』と。

□ ときに、神々と阿修羅とは、仲間の者どもを並べて立たせて言った、――『これらの者どもが、われらの善いことばと悪いことばとを区別して判定するであろう』と。

□ そこで阿修羅の主であるヴェーパチッティは、神々の主であるサッカに向かって次のように言った、――『神々の主よ。詩を詠ぜよ。』

□ このように言われたので、神々の主であるサッカは、阿修羅の主であるヴェーパチッティに次のように言った、――『ヴェーパチッティよ。そなたらは、ここでは昔からの神々である。詩を詠ぜよ。』

□ このように言われたので、阿修羅の主であるヴェーパチッティは、次の詩をとなえた、――

『もしも制止する人がいないならば、愚人どもはますますて猛り怒るでしょう。

だから、厳しい罰を加えて、賢者は愚者を制止すべきです』と。

□ 阿修羅の主であるヴェーパチッティがこの詩をとなえたときに、阿修羅たちは随喜したが、神々は沈黙していた。

□ そこで阿修羅の主であるヴェーパチッティは、神々の主であるサッカに、次のように言った、――『神々の主よ。詩を詠ぜよ』と。

□ このように言われたので、神々の主であるサッカは、次の詩をとなえた、――

『わたしは、こう思う。他人が怒っているのを知ったときに、気を落ち着けて、静かにしているならば、それが愚人を制止することである。』

□ 神々の主であるサッカがこの詩をとなえたときに、神々は随喜したが、阿修羅たちは沈黙していた。

□ そこで神々の主であるサッカは、阿修羅の主であるヴェーパチッティに次のように言った、――『ヴェーパチッティよ。詩を詠ぜよ』と。

〔ヴェーパチッティはとなえた、――〕

『ヴァーサヴァよ。〈耐え忍ぶこと〉のうちにはこの過失があるのを、わたしは見ます。《かれは、わたしを恐れて忍んでいるのだ》と愚人が思うときに、愚者は増長する。――逃げて行く人を見ると、牛がますます増長するように。』

□ 阿修羅の主であるヴェーパチッティがこの詩をとなえたときに、阿修羅たちは随喜したが、神々は沈黙していた。

□ そこで阿修羅の主であるヴェーパチッティは、神々の主であるサッカに、次のように言った、――『神々の主よ。詩を詠ぜよ。』

□ このように言われたので、神々の主であるサッカは、次のもろもろの詩をとなえた、――

『《かれはわたしを恐れて忍んでいるのだ》と思いたければ、そう思わせておけ。そう思いたくなければ、それでもよい。

善き利のうちでも最上の利である〈耐え忍ぶこと〉よりもすぐれたものは、存在しない。

或る人が力の有る人であるのに、無力な人を堪え忍ぶならば、それを〈最上の忍耐〉と呼ぶ。

力のない人はつねに堪え忍ぶ。

或る人が愚者の力を力としているならば、その力を〈無力〉と呼ぶ。徳にまもられている力には、〈言い逆らう人〉は存在しない。

怒った人に対して怒り返す人は、それによってさらに悪をなすことになるのである。

他人が怒ったのを知っても、みずから気をつけて静かにしているならば、その人は、

自分と他人と、両者のためになることを行っているのである。

自分と他人と両者のために癒そうとつとめている人を〈愚者〉だと、人々は考える。――ことわりにも通じていないのに。』

□ 神々の主であるサッカがこの詩をとなえたときに、神々は随喜したが、阿修羅たちは沈黙していた。

□ そこで神々の集いと阿修羅の集いとは、次のように言った、――

□『阿修羅の主であるヴェーパチッティが詩をとなえたが、それらの詩は、暴力に関することに属し、刀剣に関することに属し、口論であり、不和であり、争いである。

□ 神々の主であるサッカが詩をとなえたが、それらの詩は、暴力に関することに属せず、刀剣に関することに属せず、口論しないことであり、不和ならざることであり、争わないことである。

神々の主であるサッカの善きことばによって勝利あれ。』

□ 修行僧たちよ。こういうわけで、神々の主であるサッカの善く説いたことばによって勝利を博した。」(260~264頁)

第6節 鳥の巣

■ サーヴァッティー市がゆかりの場所である。

□ 「修行僧たちよ。むかし神々と阿修羅との戦闘がたけなわであった。

□ その戦いにおいて阿修羅たちが勝ち、神々が敗れた。

□ 敗れた神々は、北に向かって逃れ、阿修羅たちはそれを追撃した。

□ そのとき、神々の主であるサッカは、御者のマータリに向かって詩で語りかけた、――

『マータリよ。綿の樹の林にある鳥の巣に車の轅(ながえ)を向けることを避けよ。

これらの鳥どもが巣を失ったりするよりは、むしろ阿修羅の手にかかって生命を捨てたいものだ。』

□『かしこまりました。尊いお方さま!』と御者マータリは、神々の主サッカに答えて、千頭の駿馬(しゅんめ)をつけた車を返した。

□ そこで阿修羅たちはこのように思った。――『いまや神々の主であるサッカの、千頭の駿馬のひく車が返された。神々は再び阿修羅たちと戦うのであろう』と。かれらは恐れおののいて、阿修羅の都に入って行った。

□ 修行僧たちよ。神々の主であるサッカが法によって勝ったのは、こういうふうにしてであった。」(264~265頁)

第7節 害心なし

■ サーヴァッティー市が〔ゆかりの場所である。〕

□「修行僧たちよ。むかし神々の主であるサッカが独り隠棲して静坐していたときにこのような考えが起こった。――『わたしは、わたしの敵対者に対しても害心をもたないことにしよう』と。

□ そのとき阿修羅の主であるヴェーパチッティは、神々の主であるサッカが心の中で考えていることを知って、神々の主であるサッカのもとにおもむいた。

□ ところで神々の主であるサッカは、阿修羅の主であるヴェーパチッティが遠くからやってくるのを見た。見てから、阿修羅の主であるヴェーパチッティに向かって言った。――『とまれ。ヴェーパチッティよ。そなたは〔わたしに〕捕えられたのだ。』

□『友よ。そなたは、以前に心で考えたことを捨てるな。』

□『ヴェーパチッティよ。そなたは、わたしに対していかなる害心をもいだかないことをわたしに誓え。』

□〔ヴェーパチッティいわく、――〕

『虚言を語る者の罪障、聖者を誹謗する者の罪障、

友を裏切る者の罪障、恩を知らない者の罪障、――

そなたに害心をいだく者は、まさにその罪障に触れる。スジャー妃の夫(注)よ。』」(265~266頁)

(注)スジャー妃の夫;Sujampati. 帝釈天のこと。帝釈天の妃がスジャー(Suja)なのである。(411頁)

第8節 阿修羅の主であるヴィローチャナ(または目的)

■ サーヴァッティー市がゆかりの場所である。

□ そのとき尊師は昼間はくつろいで、静坐瞑想しておられた。

□ さて神々の主であるサッカと阿修羅の主(注)であるヴィローチャナとは、尊師のもとにおもむいた。近づいてからそれぞれ門の脇によりかかって立っていた。

□ そこで阿修羅の主であるヴィローチャナは、尊師のもとでこの詩をとなえた。――

「目的が達成されるまで、人は努めなければならぬ。

その目的は、達成されたならば、みごとに輝く。

これがヴィローチャナのことばである。」

□〔サッカいわく、――〕

「目的が達成されるまで、人は努めなければならぬ。

その目的は、達成されたならば、みごとに輝く。堪え忍ぶことよりもさらにすぐれたものは存在しない。」

□〔ヴェーロチャナいわく、――〕

「一切の生きとし生けるものは、目的をめざして生まれたものである。――

あちらでも、こちらでも、それぞれ分に応じて。

ところで一切の生きものの享楽は、その目的と結合することが最高である。

これがヴェーロチャナのことばである。」

□〔サッカいわく、――〕

「一切の生きとし生けるものは、目的をめざして生まれたものである。――

あちらでも、こちらでも、それぞれ分に応じて。

ところで一切の生きものの享楽は、その目的と結合することが最高である。

その目的は、達成されたならば、みごとに輝く。耐え忍ぶことよりも、

さらにすぐれたものは存在しない。」(266~268頁)

(注)神々の主であるサッカと阿修羅の主;神々と阿修羅たちとが武器をもって互いに争うという神話は、ヴェーダ聖典、ことにブラーフマナ文献にしばしば現れるが、前者の主であるサッカ(インドラ神、帝釈天)と、後者の主であるヴィローチャナ(毘盧遮那)とが揃ってブッダのもとに赴いたことになっているから、ここでは、ブッダの権威が両者の上に位置しているのである。そうして耐え忍ぶことが最上のものであるということを力説して、結局は神々の主であるサッカの方に軍牌を挙げている。つまりその趣意は、精神的な美徳のほうが暴力、武力に打ち勝つということを説いているのである。(411~412頁)

第10節 海辺の仙人たち(あるいはサンバラ)

■ サーヴァッティー市が〔ゆかりの場所である。〕

□〔尊師は言われた、――〕「修行僧たちよ。むかし、戒律ををたもち美徳を具えている多くの仙人たちが、海岸の、木の葉で葺いた庵に静かに住んでいた。

□ そのとき神々と阿修羅との戦闘がたけなわであった。

□ さて戒律をたもち美徳を具えているそれらの仙人は、次のように思った。――『神々は正しいが、阿修羅たちは不正である。われらに阿修羅からの危険が起こるかもしれない。さあ、われらは、阿修羅の主であるサンバラのところへ行って安全をまもってくれるように懇願しよう』と。

□ そこで、戒律をたもち美徳を具えているそれらの仙人たちは、譬えば力のある男が屈した腕を伸ばし、伸ばした腕を屈するように、海岸にある木の葉で葺いた庵から姿を消し、阿修羅の主であるサンバラの面前に現われた。

□ そのとき、戒律をたもち美徳を具えているそれらの仙人たちは、阿修羅の主であるサンバラに、詩をとなえて語りかけた、――

□ 『仙人たちはサンバラのところに来て、

安全をまもってくださいと懇願しています。

危険を授けようと、安全を授けようと、

あなたの好きなようになさい。』

□〔サンバラいわく、――〕

『サッカ(帝釈天)に仕える汚れた仙人どもには、安全はあり得ない。

お前たちは安全を懇願するけれども、おれはお前たちに危険をあたえよう。』

□〔仙人たちいわく、――〕

『われらは安全を求めるけれども、あなたは危険を与える。

われらはこの危険をあなたにお返しする。

あなたには尽きることのない危険がおこるぞよ。

播いた種に応じて果実を収穫する。

善い行いをした人は、良い報いを得、

悪い行いをした人は、悪い報いを得る。

父さん! あなたは種を播いたが、その報いを受けるであろうぞよ!』

□ 次いで、戒律をたもち美徳を具えているそれらの仙人たちは、阿修羅の主であるサンバラを呪詛して、譬えば力の有る男が屈した腕を伸ばし、伸ばした腕を屈するように、阿修羅の主であるサンバラの面前で姿を消し、海岸にある木の葉で葺いた庵のうちに現われた。

□ さて阿修羅の主であるサンバラは、戒律をたもち美徳を具えているそれらの仙人たちに呪われて、その夜のうちに3回、びくっとして目が覚めた。修行僧たちよ』

第1章おわる(269~271頁)

第2章

第1節 神々(1)または誓い

■ サーヴァッティー市が〔ゆかりの場所である。〕

□〔尊師はいわく、――〕「修行僧たちよ。神々の主であるサッカがむかし人間であったときに、7つの誓戒を受けて守っていた。それらを受けて守っていたので、サッカはサッカの地位を得ることができた。

□ その7つの誓戒とは何であるか?

□〔1〕自分が生きている限り、わたしは母と父とを養おう。〔2〕生きている限り、わたしは家の中の年長者を敬おう。〔3〕生きている限り、わたしは柔和なことばを語ろう。〔4〕生きている限り、わたしはそしることばを語らないことにしよう。〔5〕生きている限り、わたしは、垢やもの惜しみ心のくっついていない心で、寛仁で、手を洗ってきよめて、施し捨て去ることを喜び、他人の懇願に応じ、施して分配することを楽しむ者として、わが家に住みたい。〔6〕生きている限りは、真実を語る者でありたい。〔7〕生きている限りは、怒ることのない者でありたい。もしもわたしに怒りが起こったならば、速やかにそれを除くことにしよう。

□ 神々の主であるサッカはむかし人間であったときに、これらの7つの誓いを立て、身に受けていた。それらを身に受けていたからこそ、サッカはサッカたる地位を受けることができたのだ。」

□〔尊師はこのように言われた。そうしてさらに次の詩をとなえられた、――〕

「母と父とを養う人、家においては年長者を敬う人、やさしい心の通う会話をなす人、そしることばを捨てた人、もの惜しみを除くのに努めている人、真実なる人、怒りに打ち克った人、――かれら三十三の神々は〈立派な人〉と呼ぶ。」(273~274頁)

第4節 貧しい人

■ 或るとき尊師は、王舎城のうちの竹林にある栗鼠飼養所にとどまっておられた。

□ そこで尊師は修行僧たちに告げて言われた、「修行僧たちよ」と。

□「尊いお方さま」と、それらの修行僧たちは、尊師に答えた。

□ 尊師は次のように言われた、――

□「修行僧たちよ、むかしこの王舎城に或る一人の男がいたが、かれは人として貧しく、哀れで、みじめであった。

□ かれは、如来の説かれた教えと戒律とに対して信仰をもち、戒めを受けたもち、学んだことを受けたもち、捨て去る心がまえを受けたもち、智慧を受けたもっていた。

□ かれは、如来の説かれた教えと戒律とに対して信仰をもっていたので、戒めを受けたもっていたので、学んだことを受けたもっていたので、捨て去る心がまえを受けたもっていたので、智慧を受けたもっていたので、身体が壊れてのちに、死後に、善いところ、天の世界に生まれて、三十三天の神々と共住するに至った。かれは、容貌と名声とでは他の神々を超えていた。

□ そこで、三十三天の神々は、呟(つぶや)き、不平を言い、憤った。――『実に不思議なことだ。実に奇妙なことだ。――この〈神の子〉が、むかし人間であったときには、貧しい人、哀れな人、みじめな人であったのに、身体が壊れて、死んだのちには、よいところ、天の世界に生まれて、三十三天の神々と共住し、容貌と名声とでは他の神々を超えるに至ったとは!』

□ そのとき、神々の主であるサッカは、三十三天の神々に告げて言った、――『友らよ。あなたがたはこの神の子について、つぶやきなさるな。この神の子は、むかし人間であったけれども、如来の説かれた教えと戒律とに対して信仰をたもち、戒めを受けたもち、学んだことを受けたもち、捨て去る心がまえを受けたもち、智慧を受けたもっていた。かれは、如来の説かれた教えと戒律とに対して信仰をもっていたので、戒めを受けたもっていたので、学んだことを受けたもっていたので、捨て去る心がまえを受けたもっていたので、智慧を受けたもっていたので、身体が壊れて、死んだのちには、よいところ、天の世界に生まれて、三十三天の神々と共住し、容貌と名声とでは、神々を超えるに至った。』

□ そこで神々の主であるサッカは、三十三天の神々を宥(なだ)めて、そのとき、次の諸々の詩句をとなえた。

 『如来に対する信仰が不動で確立し

その人の戒行がみごとで、聖者の嘉(よし)とするものであるならば、それは称讃される。

集い(サンガ)に対する浄らかな信仰があり、その人の見識が真直ぐであるならば、その人を〈貧しからず〉と呼ぶ。

その人の生活は空虚ではない。

それ故に、聡明な人は、信仰と、戒めと、澄んだきよらかな心と、真理を見ることに、努めよ。――諸々のブッダの教えを想い起こしながら。』」(279~281頁)

第5節 楽しいところ

■〔或るとき尊師は〕サーヴァッティー市のうちのジュータ林に〔とどまっておられた。〕

□ そのとき、神々の主であるサッカは、尊師のもとにおもむいた。近づいてから、尊師に敬礼して、傍らに立った。

□ 傍らに立った神々の主であるサッカは、尊師に向かって次のように言った、――「尊いお方さま。そもそも楽しい土地とは、どんなものなのですか?」

 「園のなかの霊域、林のなかの霊域、美しくつくられた浴地も、

人間の楽しいところの十六分の一にも及ばない。

村にせよ、森にせよ、低地にせよ、平地にせよ、敬わるべき人々の住む土地、――それこそ楽しい土地である。」(281~282頁)

第3章(またはサッカの関する5つの経)

第1節 斬り殺して

■〔或るとき尊師は〕サーヴァッティー市のうちのジュータ林に〔とどまっておられた。〕

□ そのとき神々の主であるサッカは尊師のもとにおもむいた。近づいてから、尊師に敬礼して、傍らに立った。

□ 傍らに立った神々の主サッカは、尊師に詩を以て語りかけた。――

 「何ものを斬り殺して安らかに臥すのですか? 何ものを斬り殺して、悲しまないのですか?

いかなる一つのものを殺害することを、あなたは嘉(よし)とするのですか?

ゴータマよ。」

□〔尊師いわく、――〕

 「怒りを斬り殺して安らかに臥す。怒りを斬り殺して、悲しまない。毒の根である最上の蜜である怒りを殺することを、聖者は称讃する。それを斬り殺したならば、悲しむことはないからである。」(291頁)

第5節 怒らぬこと(不傷害)

■ わたしはこのように聞いた。或るとき尊師は、サーヴァッティー市のうちのジュータ林・〈孤独な人々に食を給する人〉の園にとどまっておられた。

□ そこで尊師は、修行僧たちに告げて言われた。――「修行僧たちよ。」その修行僧たちは、「尊いお方さま!」と尊師に答えた。尊師は次のように言われた。

□「修行僧たちよ。むかし神々の主サッカは善法堂という公会堂において三十三天の神々を宥(なだ)めていたが、そのとき次の様な詩をとなえた。――

 『怒り打ち克たれるな。怒った人々に怒り返すな。

怒らぬことと不傷害とは、つねに気高い人々のうちに住んでいる。怒りは悪人を押しつぶす。――譬えば、山岳が〔人々を〕押しつぶすように。』」

(296~297頁)

(2021年1月28日、了)

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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