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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『正法眼蔵(2)』増谷文雄 全訳注 講談社学術文庫

投稿日:2020-12-02 更新日:

『正法眼蔵(2)増谷文雄 全訳注 講談社学術文庫

山水経

■いまの山水は、古仏のことばの顕現(岡野注;現成の方がいいと思う)である。いずれも法に則して、その功徳を究め尽したものである。それはこの世界の成立の以前の消息であって、いまもなお活きているのであり、万物のきざしもない古(いにしえ)からのことであるから、その顕現は古今をつらぬくものである。かくて、山のもろもろの功徳は高大かつ無辺であるから、あるいは雲に乗って到り、あるいは風に順(したが)ってはたらき、自由自在にして到らざるはないのである。(17頁)

●もし山の運歩を疑著(ぎじゃく)するは、自己の運歩をもいまだしらざるなり。自己の運歩なきにはあらず、自己の運歩いまだしらざるなり、あきらめざるなり。自己の運歩をしらんがごとき、まさに青山の運歩をもしるべきなり。青山すでに有情にあらず、非情にあらず。自己すでに有情にあらず、非情にあらず。いま青山の運歩を疑著(ぎじゃく)せんこと、うべからず。いく法界(ほっかい)を量局として、青山を照鑑すべしとしらず。青山の運歩および自己の運歩、あきらかに撿点すべきなり。退歩歩退、ともに撿点あるべし。未朕兆(みちんちょう)の正当時、空王那畔(くうおうなはん)より、進歩退歩に運歩しばらくもやまざること、撿点すべし。(18~19頁)

■太陽山の道楷(どうかい)和尚は衆に示していった。

「青山はつねに運歩し、石女(せきじょ)はよる児(こ)を生む」と。

山はつねにあらゆる功徳をそなえている。そのゆえに、つねに安住し、またつねに歩くのである。その運歩のいとなみをつまびらかにまなぶがよい。山が歩くといっても、それは人間が歩くのとはちがう。だが、人間が歩くのとおなじでないからとて、山の歩くことを疑ってはならない。いま仏祖の説くところも、すでに山の歩くことを語っている。それは物の根本を抑(おさ)えているからである。「つねに運歩す」とのこの垂示をよくよく思いめぐらしてみるがよい。歩くがゆえに常なのである。青山の運歩はその疾(はや)きこと風よりも速(すみ)やかであるが、山外の人もまた知らず気づかない。山を見るまなこのない人は、気づかず、知らず、見ず、聞かざるが道理というものである。

もし山の運歩を疑うならば、それは自己の運歩をもまだ知らないのである。自己にも運歩がないわけではない。まだ自己の運歩を知らないだけである。それを明らかにしないだけである。自己の運歩を知っているなら、きっと青山の運歩をも知るはずである。青山はもとより生き物であるわけでもなく、生き物でないわけでもない。自己もまた生き物であるわけでもなく、ないわけでもない。とするならば、いま青山の運歩を疑うなどとはありえないことである。いろいろの世界を基準として青山を考えてみることを知らないからである。よくよく青山の運歩、ならびに自己の運歩をしらべてみるがよい。進歩のみならず、退歩をもしらべてみるがよい。この世界のはじめのかの時から、乃至(ないし)は、まだ万物のなかったかの時から、あるいは進歩し、あるいは退歩して、その運歩のしばらくも休む時のないことを点検してみるがよいのである。

もしもその運歩の休む時があったならば、仏祖の現われることもなかったであろう。もしもその運歩に終りがあったならば、仏法は今日に到らなかったであろう。進歩はいまだ休(や)まず、退歩もまたいまだ休(や)まないのである。その進歩と退歩と撞着せず、その退歩は進歩と相反しない。そのありようを山は流れるといい、あるいは流れる山といい、またあるいは「青山は運歩する」といい、あるいはまた「東山は水上を行く」という。それをまなぶことが山をまなぶというものである。山の身心をあらためず、山の面目をそのままにして、ひるがえってまなびいたるのである。青山に運歩があるものか、東山が水の上を行くものかと謗(そし)ってはならない。それは、おのれの見解が低くちいさいから、青山があるくという句をあやしむのであり、まなぶこと少なくして拙(つたな)きがゆえに、流るる山ということばに驚くのである。いま「流るる山」といえば誰もおどろかないが、それもその道理によく通じているわけではなく、ただ矮小な見聞に沈没してのことである。

つまり、山とは、その積みきたった功徳のことごとくを挙げて、その名となし、その命となすものであって、そこには歩きがあり、流れがあり、時に及んでは、山が小児(こども)を生むこともある。また、山が仏祖をなすの道理によって、仏祖もまたそこから出現してくるのである。たとい草木・土石・牆壁(しょうへき)のみが眼のまえに現われてきても、疑ってはならぬ、驚いてはならぬ。それで山のすべてが成っているわけではない。また、それがたといすばらしい宝のように見えたとしても、それはけっして実相ではない。たとい諸仏の修行の場処のように思えても、かならずしも愛著すべきではない。たといそれが諸仏のふしぎな功徳とうなずけようとも、真実はただそれだけではないのである。

それぞれの見るところは、それぞれの主觀と対象によるものである。それを仏祖もまたそうだと思ってはならない。それらは一隅の小さな見解である。対象を転じて心(しん)となし、心を転じて対象となすことは、仏の呵(か)したまうところ。心を説き、性(しょう)を説くことは、仏の肯(うべな)わぬところである。心を見、性を見るなどというは外道のいうところである。また、言(ことば)にかかわり句にとどこおることは解脱にいたる道ではない。ここには、そのような境地を突き抜けたものがある。いまいうところの「青山はつねに運歩する」というのがそれであり、「東山は水上を行く」というのがそれである。つぶさに学び究めるがよいのである。

また「石女はよる児を生む」の句は、石女の児を生む時を夜だといっておる。いったい、世には男石があり、女石があり、そのいずれでもない石もある。それらを天に配し地に配して、天石といい地石という。俗間にいうところであるが、あまり人の知らないところである。それが子を生むというのはどういうことか、その道理を知らねばならぬ。子を生むというのは、親と子よがならび生ずるのであるか。児も親となるを子を生むこととのみ思ってよいのであろうか。また親の子となるとき、はじめて子を生むという意味が成るのではないか。そこを徹底して思いめぐらしてみるがよい。(21~24頁)

〈注解〉石女;うまずめ

     量局;尺度、基準の意。局はちぢこまるの意。(24頁)

■いまの大宋国には、一群の杜撰(ずさん)のやからどもがはびこっていて、すこしばかり本当のことをいっても、いっこうに打撃をあたえることができぬ有様である。彼らは、いまの「東山水上行」の話や、南泉の「鎌子(けんす)」の話などは、無理会話(えわ)というものだという。その意味は、もろもろの思惟にかかわれる語話は、仏祖の禅語というものではなく、理解のできない話こそ仏祖の語話だというのである。さればこそ、黄檗の棒や、臨済の喝(かつ)などは、理解のおよびがたく、思惟のかかわるところではないが、これこそ無始以前の大悟というものである。先徳の手段がたいてい、煩わしき言辞を離れて、ずばりとした句をもってするのは、それが無理会だからであるというのである。

そのようなことをいう輩(やから)どもは、いまだかって正師にまみえたこともなく、仏法をまなぶ眼もなく、いうに足りない小さな愚か者である。宋国では、この二、三百年このかた、そのような不埒なにせものの仏教者がおおい。こんなことでは仏祖の大道はすたれてしまうと思うと悲しくなる。彼らの解するところは、小乗の徒にもなお及ばず、外道よりも愚かである。俗にもあらず、僧にもあらず、人間でもなく、天上の者でもなく、仏道をまなぶ畜生よりも愚かである。汝らがいうところの無理会話とは、汝らのみ理解できないのであって、仏祖はけっしてそうではない。汝らに理解できないからとて、仏祖の理路はまなばねばならないのである。もしも畢竟するところ理解できないものならば、汝のいうところの「理会」ということもありえないのである。

そのようなたぐいの輩が、いまの宋土の諸方におおく、わたしも目(ま)のあたりに見聞したことがある。かわいそうに彼らは、思惟は言語であることを知らないのであり、言語が思惟をつらぬいていることを知らないのである。わたしはかつて宗にあったころ、彼らを嘲笑(あざわら)ったことがあるが、彼らはなにごともいうことができず、ただ黙っているだけであった。彼らがいう「無理会」とは、一つの邪計にすぎないのである。誰がそんなことを彼らにおしえたのか。本物の師がなかったから、おのずからにして外道の見解におちたのであろう。

さて、この「東山は水上を行く」とは、仏祖の心底であると知らねばならぬ。もろもろの水水は諸山の脚下に現われる。だから、諸山は雲に乗って天をあゆむのである。もろもろの水の頂は諸山である。のぼるにも、くだるにも、その行歩(ぎょうほ)はともに水上である。諸山の爪先はよくもろもろの水を踏んであるき、もろもろの水はその足下にほとばしり出でる。かくてその運歩は縦横自在にして、もろもろの事が自然にして成るのである。水は強にあらず弱にあらず、湿にあらず乾にあらず、動にあらず弱にあらず、冷にあらず煖にあらず、有(う)にあらず無にあらず、迷にあらず悟にあらず。凝(こお)りては金剛よりも堅くして、よく破るものなく、融けては乳よりも柔らかにして、誰もこれを壊すことはできない。

かくて、水の成就し所有する功徳は、誰もあやしむことはできない。時に及んでは、十方の水を十方において見ることをまなぶがよい。いや、人間が水を見る時のことのみでない。水が水を見る時のことをもまなぶがよい。水が水を見究めるのであるから、水が水を表現するのである。それをまなぶのである。それによって人は、自己が自己に相逢ううべき路を見出すこともできるであろう。また、他己が他己を究める活路をも見出し、凡俗の常情を超克することもできるであろう。(28~30頁)

〈注解〉杜撰;疎漏にして誤りのおおいことをいうことば。もと杜黙(ともく)なるものの作詞がよく韻をまちがえていたという故事による。道元は宗の禅僧たちの綿密ならぬ考え方を評して、しばしばこのことばを用いている。

     魔子・六群・禿子;魔子は悪魔のやから、六群は六比丘とて、しばしば戒を破った比丘たち、禿子は外形のみ僧形にして、その心事のしからざる者をいうことば。それらのことばを連ねて、仏法を毒するにせものの仏教者というほどの意を表わしている。(30~31頁)

■仏いわく、

「一切の諸方は、畢竟して解脱にして、住するところあること無し」

それによっても知られるように、自由にして繋縛(けばく)されることなくとも、もろもろの物は存在している。それなのに人が水を見る時には、ただ流れて止まらずとのみみる一途(いっと)である。その流れ方にもさまざまあって、人の見るところはその一端のみである。すなわち、地を流れ、空を流れ、上にむかって流れ,下にむかって流れる。昇っては雲をなし,下っては淵をなす。

『文子(もんし)』にいわく、

「水の道は、天にのぼりては雨露(うろ)となり、地にくだりては江河となる」

いま俗間ににいうところもなおこのようである。仏祖の弟子と称する人々が、俗人よりも無知であっては、なによりも恥かしいことではないか。いわく、水のゆくところは水のよく知覚するところではなくとも、水はよく行動するのであり、また、水のまったく知覚せざるところでなくとも、水はよく行動するのである。(37頁)

■かくて、仏祖のいたるところには、かならず水がいたり、水のいたるところところには、かならず仏祖が現われる。それによって、仏祖はかならず水をとりあげて、これを身心ととなし、これを思索の糧(かて)とする。だから、水は上にのぼらないなどとは、内外の文献にも見えない。水の道は上下に通じ、縦横に通ずるのである。

それなのに、仏教の経典には、時に、火と風は上にのぼり、地と水は下にくだるという。その上下について研究してみると、それは仏道の上り下りをいうのである。つまり、地と水のゆくところを下とするのであって、下を地と水のゆくところとするのではない。また、火と風のゆくところを上であるとするのみである。この世界のありようは、かならずしも上下・四方の基準によるものではなくて、かりに、四大(しだい)・五大・六大などの行くところによって、その方角を定めているだけである。無想天は上にあり、阿鼻獄は下にあるとするのではない。阿鼻獄はどこにもある。無想天もどこにもある。

それだから、龍魚が水を宮殿と見るのは、人が宮殿を見るようなものであろう。けっして流れ行くものとは思えないであろう。もし傍(かたわら)にあって観る者が、汝の宮殿は流れる水ではないかといったとしても、それはわたしどもが「山は流れる」ということばを聞くとおなじであって、龍魚はただびっくりして目を疑うのみであろう。あるいは、さらに宮殿楼閣の欄干はこう、円柱はこうといい張るかもしれない。そこの道理をよくよく思い来り、思い去ってみるがよい。(38~39頁)

■山ははるかなる古より大聖の居すところである。賢人(けんにん)・聖者(しょうじゃ)はともに山を住いとし、山を身心(しんじん)となした。賢人・聖者によって山はその意味を実現したのである。いったい、山にはどれほどの大聖・大賢が入ったことであろうかと思うのであるが、山に入ってからは、誰もたがいに相逢うようなことはなかった。ただ山のはたらきが現われるのみである。山に入った跡さえものこってはいないのである。

さて、世間にあって山を眺める時と、山中にあって山と相逢う時とでは、その顔つきも眼つきもはるかにちがっている。人は山は流れぬという。その憶測・知見は、すでに龍魚のそれと同じではない。人間が自分の世界にあって考えていることは、他類のものの疑うところ、あるいは疑ってもみないところであろう。だから、「山は流れる」という仏祖のことばをまなぶがよいのである。ただ驚き疑うにまかせておいてはならぬ。その一つをとれば「流れる」であり、他の一つをあぐれば「流れぬ」である。ある時は「流」であり、またある時は「不流」である。そこをまなび究めなくては、如来のおしえは判らないのである。古仏はいう、

「無間業(むげんごう)を招かざることを得んと欲せば、如来の正法輪(しょうぼうりん)を謗(ぼう)ずることなかれ」

と。このことばをふかく骨髄に銘ずるがよい。そらに銘ずるがよく、地に銘ずるがよい。それはすでに、樹に刻み石に刻み、あるいは野に説き里に説いて経としてのこされてある。(43~44頁)

■よって知るべきである、山は人間社会のものにあらず、また高き天のものでもないのであり、人の思い測りをもって山を推し測ることはできない。もしも人間社会のならいに準(なぞら)えて考えなければ、誰が「山は流れる」とか「山は流れぬ」などという表現に頭を傾(かし)げようか。(44~45頁)

■いったい、この世界に水があるというが、ただそれのみではない。また水の中にも世界があるのである。さらに、水の中がそうであるのみでなく、雲の中にも生き物の世界があり、風の中にも生き物の世界があり、火の中にも衆生の世界があり、地の中にも衆生の世界あり、全世界のなかに衆生の世界がある。あるいは、一茎の草の中にも衆生の世界があり、一振りの杖の中にも衆生の世界がある。そして、衆生の世界のあるところには、そこにまた、かならず仏祖の世界がある。そのような道理をよくよく聞いてまなぶがよい。

とするならば、水はすなはち真龍の住むところであって、それはただ流れ落ちるのみではない。流れるのみだというのは、そのことばがすでに水を謗(そし)っているのである。だから、たとえば、水は流るるにあらずと無理にもいわねばならぬのである。水は水のあるがままの姿でよいのである。水は水そのものであって、流れではないのである。一つの水の流るるを究わめ、流れざるを究むれば、あらゆる存在を究め尽くすことも、またたちまちにして成るのである。

また、山にも、宝にかくれる山があり、沢にかくれる山があり、空にかくれる山があり、山にかくれる山がある。そのかくれるところに山の山たる所以(ゆえん)があることをまなぶべきである。

古仏はいう、

「山はこれ山、水はこれ水」

と。そのいうところは、凡情の見るところの山を「これ山」というのではなく、仏祖が見るところの山を「これ山」だというのである。だからして、よく山をまなび究めるがよく、山をまなび究むれば山に教えられるところがあろう。そのような山水は、おのずからにして賢を生み、聖(しょう)を成すのである。(48~49頁)

仏祖

■開題

この「仏祖」の巻は、仁治二年(1241)の正月三日、いつものように興聖宝林寺において、書しかつ衆(しゅ)に示したものであった。だが、その日、法堂(はっとう)にのぼった道元には、いささか日頃のそれとは趣を異にした気韻がただよっていたのではあるまいかと、わたしは想像を逞しうする。

なんとなれば、その日はなお正月のはじめにおける示衆(じしゅ)のことは、この師の生涯において、他にその例をみない。しかも、その好日を選んで、衆に示すところは、他でもない、道元自身が面授伝法(ぽう)の仏祖たる自覚の開示であったからである。

したがって、この巻の内容もまた、まったく、他の巻々とその類を異にするものであった。それはまず、

「宗礼(それ)仏祖の現成は、仏祖を挙拈(こねん)して奉覲(ぶごん)するなり」

と冒頭(ぼうとう)せられる。そもそも、仏祖とはいかにして成るものであるか。それはただ、仏祖を捉えきたって見(まみ)えたてまつるのだという。つまり、仏祖を拝して仏祖となるのであり、それが面授伝法の消息である。

そして、道元は、それに僅かの説明を加えたるのち、毘婆尸仏(びばしぶつ)大和尚より如淨大和尚にいたるまでの、歴代五十七位の仏祖をあげて、ずらりと並べ記し、その終りもまた、ただ、

「道元、大宋国方慶(ほうきょう)元年乙酉(いつゆう)夏安居時、先師天童古仏大和尚に参侍して、この仏祖を礼拝頂載すること究尽(ぐうじん)せり。唯仏与仏なり」

との一句をもって結んでいる。

これを要するに、この日の説示は、歴代五十七位の仏祖の名を並べあげて、われこそはこれらの仏祖正伝の法をじきじきに嗣ぐ仏祖であるといっているのである。

それは、他に例を見ない、まことに事かわった垂示であったが、おそらくは、それを聞くなみいる大衆たちも、仏祖正伝の法をまのあたりに見るの思いに、ひとしおの緊張感をみなぎらせたことであろうと想像せられる。(52~53頁)

■そもそも仏祖となるには、仏祖を撰(えら)びきたって見(まみ)えたてまつるのである。それは過去・現在・未来の諸仏の場合のみではない。けだし、このことの何時(いつ)はじまったかは知りえないからである。ただ、まさしく仏祖の面目を保ちもてるものを得きたって、これを礼拝し、これに相見(まみ)えるのである。ただ、仏祖の功徳を示現(じげん)せしめ、それを頂載し、礼拝し、かつ体得するのである。(53~54頁)

■わたし道元は、大宋国方慶(ほうきょう)元年(1225)の夏安居の時、先師なる天童古仏大和尚に参じて侍し、この仏祖を礼拝し頂載することを究めつくした。まさに、ただ仏と仏とのあいだの相承(そうじょう)である。(61頁)

嗣書

■第二十八祖達磨大師が中国に来られてこの方、仏祖に嗣法ということのあることが、はじめて中国にも知られたのであって、それ以前にはまったく知られていなかった。西の方からきた論師(じ)・法師(ほっし)なども、聞きおよばず、知らざるところであった。また、十聖・三賢など、まだ修行中のものの聞き及ぶところではなく、ましてや、経の文字づらのみを撫でまわしている呪術師などは、そんなことがあろうとは思いもかけぬところであった。彼らは、仏法の器たる人身を受けながら、ただ徒らに教義の網にからまれて、脱出する法もしらず、跳躍する時をも期せず、まことに哀れなものである。それゆえに、学道のことはさらに精細に思いめぐらし、修行のことはさらに志気を振るい起こさねばならぬというのである。(74頁)

■人物の話のついでに、むかしからの仏祖の家風をいろいろと語り、大潙(だいい)と仰山(きょうざん)のことに及んだ時、和尚は、「わしのところの嗣書を見たことがありましょうや」といった。すると、和尚は、自分で起って行って、嗣書を捧げてきていった。

「これは、たとい親しいひとでも、たとい永年侍僧をつとめる者でもみせない。それが仏祖の訓戒である。しかるに、わたしは時々都城にでて知府(ちふ)にお目にかかるのだが、そのように都城にあった時、一夜夢をみたことがある。大梅山(だいばいざん)の法常禅師と思われる高僧が、一枝の梅花をかざしていった。〈もし海を渡ってくる本物があったならば、花を与えることを惜しんではならぬ〉と、そういって、わしに梅花を手渡した。わしは夢のなかで、思わず〈いまだ船舷(ふなばた)を跨(また)がざるに、好(よ)し、与うるに三十棒をもってせん〉と吟じた。しかるに、それからいまだ五日を経ざるに、いまそなたと相見えることをえた。しかも、そなたは海を渡って来たのである。梅花の綾もおそらくこの嗣にかけたのであろう。それを大梅が教えてくれたのにちがいあるまい。ぴたりと夢と符合するので、これを取り出して来たのである。もしもそなたが、わしの法を嗣ぎたいと思うならば、それも惜しみはしない」

わたしは感きわまって措(お)くところをしらず、嗣書をお願いするところであっただろうが、ただ焼香し、礼拝して、その嗣書を敬重し供養するのみであった。その時、焼香の侍者に法寧というものがいたが、彼もこの嗣書をはじめて見るのだといった。

わたしはひそかに思った。この一段のことは、まったく仏祖の冥々のたすけなくてはあり得ないことであって、辺地日本の愚か者が、なんの幸いがあってか、この事に遇うことができたのであろう。そう思うと、感涙しきりに落ちて袖をぬらしたことであった。その時、天台山の維摩堂や大舎堂などは、まったく人無うして静まりかえっていた。その嗣書は、地(じ)に梅をしいた白綾に書したもので、長さ九寸余、幅一丈余であった。軸は黄玉にして、表紙は錦であった。

天台山から天童山にかえる途中、わたしは、大梅山の護聖寺の宿舎に泊まったが、その夜は大梅祖師がきたって、花咲ける梅花一枝をさずける夢をみた。仏祖のみそなわすところは、まことにしるしありというべきである。その一枝はおよそ縦横一尺ばかりのものであった。その梅花はまさに優曇華ともいうべきであろうか。夢もうつつも、おなじく真実であろう。このことを、わたしは、宋にあったころも、また故国に帰ってからも、まだ人に話したことはない。(90~91頁)

■「迦葉(かしょう)仏が涅槃に入られてから、釈迦牟尼仏ははじめて世にいでて成道せられました。ましてやまた、現在刧の諸仏がどうして過去刧の諸仏に嗣法いたしましょうか。このこと、いかがな道理でありましょうか」

すると先師はいった。

「そなたのいうところは、ただ教えを聴く者の解釈である。十聖(じっしょう)・三賢(げん)など、なお究極の境地にいたらぬ者の道である。仏祖正伝の道ではない。わしが仏から仏へと相伝してきた道はそうではない。釈迦牟尼仏はまさしく迦葉仏に嗣法したと習ってきた。釈迦仏が嗣法してからのち、迦葉仏は涅槃に入ったと学んできたのである。釈迦仏がもし迦葉仏に嗣法しなかったならば、それは自然(じねん)外道と同じであろう。誰か釈迦仏を信ずる者があろう。そのようにして仏から仏へと相嗣いでいまにいたっておるから、いずれの仏も正しい法の嗣ぎ手である。連続しているか、いっしょであるかということではなく、まさにそのようにして仏と仏とが相嗣ぐのだとまなぶのである。もろもろの小乗のやからがいうところの、劫だの寿だのの尺度には関わらないにである。

もしも仏道が、ただひとり釈迦仏にはじまるというならば、まだわずかに二千年のことである。けっして古くはない。その相嗣ぐところもなおわずかに四十余代にすぎない。まだ新しいといってよかろう。この仏道の相伝はそのようにまなぶべきではない。釈迦仏は迦葉仏に嗣法するとまなび、迦葉仏は釈迦仏に嗣法したとまなぶのである。そのようにまなんでこそ、それがまさに諸仏・諸祖の嗣法というものなのである」

その時、わたしは、はじめて仏祖に嗣法ある所以(ゆえん)を領解(りょうげ)することをえたのみならず、また、それまでの旧い穴から抜け出ることができたのであった。(96~97頁)

法華転法華(ほっけてんほっけ)

■開題

「十方仏土中者(は)、法華の唯有(ゆいう)なり。これに十方三世一切諸仏、阿耨多羅三藐三菩提衆(しゅ)は、転法華あり、法華転あり。これすなはち、本行菩薩道の不退不転なり」

そのいうところは、十方の仏土はただ法の花ひらくところであるというのである。そこには、十方三世の諸仏・諸菩薩があって、あるいは法華を転じ、あるいは法華に転ぜられているのであるが、それがそのまま菩薩のかぎりもない修行の不退転のあゆみであるという。

わたしどもは、心迷えば法華に転ぜられるといえば、それを恨むべきことなし、心悟れば法華を転ずといえば、それを歓ぶべきことなりと受領してきた。だが、それは、どうやら、おろかな凡情の差別であったらしい。心迷えば法華に転ぜられるという。だが、それも法華のいとなみであるならば、結構なことではないか、と道元はいう。心悟れば法華を転ずという。だが、それもまた、突きつめて考えてみると、法華のわれらを転じてそこに到らしめるのではないかという。かくて結語がある。

「広大深(じん)遠なり、深(じん)大久遠(くおん)なり。心迷法華転なり、心悟転法華なる、実にこれ法華転法華なり」

かくして、「法華転」と「転法華」の二つの命題は、さらに広大なるところにおいて、みごとに「法華転法華」なる一つの命題に帰しているのである。そして、それこそ、道元が指さして、この一巻において開示しようとするところであったと知られる。(102~103頁)

■だから、そこに説くところは疑いもなく一仏乗であって、かならずただ仏が仏に究尽せしめる。かの七仏も諸仏もそれぞれに諸仏をして究尽せしめ、あるいは釈迦牟尼仏を成道せしめるのである。西の方天竺、東の方中国にいたるまで、十方の仏土において然るのである。第三十三祖慧能大和尚にたるまで、ただ仏tと仏がのみが一乗の法を究尽しきたったのであり、それが疑いもなくただ一仏乗の一大事なのである。

〈注解〉阿耨多羅三藐三菩提;無上等正覚と訳する。仏の最高の智慧をいうことばである。(107頁)

■この経はまたいう、「一心に仏を見んと欲す」と。それは自分のことと思うか、また他人のことと思うか。釈迦牟尼仏はかって、分身として成道したこともあり、全身をもって成道したこともある。また、「倶(とも)に霊鷲山(りょうじゅせん)に出ず」というのは、みずから身命を惜しまないからである。あるいは、、「つねにここに住して法を説く」との開示があり、「方便にして涅槃を現ず」との悟人がある。「近しといえども見ず」というが、それもわが一心のゆえであることを信ぜぬものはあるまい。まことにこの土(ど)は「天人つねに充満」するところ、すなわち、釈迦牟尼仏・毘盧遮那仏の国土にして、常寂光土にほかならない。われらはおのずから四土を具するというが、詮ずるところは、生仏一如の仏土に住するのである。

微塵を知るものは法界を知り、法界を証するものは微塵を証する。諸仏はみずから法界を証して、われらには証を与えないわけではない。その説法は「初めも中も終りも善き」がゆえである。したがって、いまもその証はあるがままの相である。驚き怖るるもまたあるがままならぬはない。ただ異なるところは、仏はその知見をもって微塵を見、微塵に安住するのである。法界に坐しても広きにあらず、微塵に坐しても狭いとはしないのである。その故は、安住せずしては坐すことがないからである。安住すれば広き狭きに驚くことがないのである。それは法華の実体とそのはたらきを究め尽しているからである。

とするならば、われらがいま具するこの相と性(しょう)は、この法界における修行であろうか、微塵における修行であろうか。ともあれ、驚くことはない、怖るることはない、ただ法華の転ずるながいながい菩薩の修行にちがいないのである。それを微塵の小とみるも、法界の大とみるも、おのが作意でも計らいでもない。計らうにも思うにも、法華の計らいをならうがよく、法華の思うところを思うがよいのである。

もし開示悟入ときくならば、それを「衆生をして開示悟入せしめんと欲す」と受けとるがよい。もし法華が「仏の知見を開く」と転じたならば、それを「仏の知見を示す」と受けとるがよく、もし法華が「仏の知見を悟る」と転じたならば、それは「仏の知見に入る」とならうがよく、あるいは法華が「仏の知見を示す」と転ずるならば、「仏の知見を悟る」と受領するがよい。そのように法華の転ずる開示悟入にもいろいろの考え方があろう。すべて諸仏如来の実現したまえる知見も、この広大無辺なる法華の転ずるところ。あるいは、成仏の予言もまた自己が仏の知見を開くことに他ならず、けっして他人の与えるものではないのである。それがとりも直さず、心迷えば法華に転ぜられるということである。(121~123頁)

〈注解〉常寂光土;四土の一つ。生滅なく(常)、煩悩なく(寂)、智慧の光のみみちあふれている国土という。それは法身の仏たる毘盧遮那の国土であるとする。ただし、ここに釈迦牟尼仏と毘盧遮那仏の二仏をあげているのは、現身の仏にとっても、法身の仏にとっても、このあるがままの世界が常寂光土であるとするのであろう。(124頁)

■また「心悟れば法華を転ず」という。ここでは法華を転ずるのである。さきにいうところの法華がわれらを転ずる力を究めつくすとき、われらは翻(ひるがえ)って自己を転ずるような力を実現するにいたる。その実現を「転法華」という。これまでの法華の転ずるはたらきは、いまもけっして休むことはないけれども、それが自然にはねかえって法華を転ずるのである。驢事(ろじ)はまだ了(おわ)らないのに馬事が到来するのである。それがこの世に現われる唯一の大事というものである。

たとえば、この今日が語るところの地より湧きいでる無数の聖衆は、久しき昔からの法華の修行者たちであるが、いまや自己を転じて湧出するのであり、また法華に転ぜられて湧出するのである。いや地より湧きいでるのみではない。虚空からも湧きいでるのである。さらにいわば、地と空とのみではない。法華より湧きいずると知るがよいのである。

いったい、法華の立場にたってみる時は、かならず父は少(わか)く子は老いているものである。子が子でないわけでもなく、父が父でないわけでもない。それでもなお、子は老い父は少(わか)しとまなぶがよい。世の不信にならって驚いてはならぬ。世の不信なるもまた法華のならいである。だから、ある時仏ましまして法華を転ずるのである。すると、仏の開示に転ぜられて地より湧き、仏の知見に転ぜられて地より湧きいずるのである。

その法華の転ずる時、法華の悟りがあり、悟られたる法華がある。たとえば、下方というのはとりも直さず空中である。この下といい空というのが、そのまま法華を転ずることである。あるいは仏の寿量を語るもまたそれである。仏寿や、法華や、法界や、一心は、いずれも下ともなり、空ともなると思い廻(めぐ)らしてみるがよい。だから、下方空というは、それがそのまま転法華の成就である。(129~130頁)

■いったい、中国にこの経が伝えられてよりこのかたすでに数百年、その間には注解義釈をつくる者おおく、またこの経によってすぐれた導師となった者もあるが、いまわれらが高祖曹谿慧能のように、法華転のおもむきをえた者はなく、また転法華のむねを説ける者はない。いまそれを聞き、その趣に遇うことをえたのは、まさに古仏の古仏に遇うを見るのであり、これこそ古仏の仏土というものであろう。歓ぶがよい。劫より劫にいたるも法華である。昼より夜にいたるも法華である。法華は劫より劫にいたるがゆえであり、昼も夜もすべて法華であるがゆえである。たとい自ら心を強くしても弱くしても、すべてそれが法華である。すべてあるがままなるが珍宝であり、光明であり、仏智の行ぜられるところである。まことに広大にして深遠である。心迷えば法華が転ずるのであり、心悟れば法華を転ずるのである。さらにいえば、これこそ法華が法華を転ずるのである。

「心迷えば法華転じ、心悟れば法華を転ず、究尽することよくかくのごとくなれば、法華法華を転ず」

そのように供養し、恭敬し、尊重し、讃歎するならば、それがまさしく法華これ法華というところであろう。(132~134頁)

〈注解〉色即是空;『般若心経』のよく知られた句であるが、いま道元はその句をもって娑婆即寂光土なることを語っているようである。(134頁)

     法華是法華;道元がこの巻において、法華ということばに込める意味はまことに広大無辺である。それはただかの『法華経』のことのみではない。この世界のおのずからの展開がそれであり、また仏の教化のいとのみのことごとくがそれである。その意味のことごとくをこめて、ここに「法華これ法華なるべし」の結語が語られているのだと知られる。(135頁)

心不可得(後)

■心不可得、これが諸仏の保持するところである。諸仏はこれを最高の智慧としてその身に保持してきたのである。

『金剛経』にいう。

「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」

それが諸仏の保持するところの心不可得をそのままいい表わしている。諸仏は、三界は心不可得である、諸仏は心不可得であると会得してきたのである。それを明瞭に会得することは、諸仏にならわねば得られないのであり、諸仏にならわねば伝えらられないのである。諸仏にならうというのは、丈六の仏身にならうのであり、一本の草花にならうのである。諸祖にならうというのは、諸祖の皮肉骨髄にならうのであり、破顔微(み)笑にならうのである。その意味するところをいわば、正法(ぼう)の本質は仏祖と仏祖とのあいだに明瞭に正伝されてきているのであって、その心象はあたかも指さすがごとく、一人から一人へとじきじきに伝えられている。だから、師を訪れてまなべば、かならずその骨髄・面目をつたえられて、その身そのままに受けることができるというのである。したがって、仏道をならわず、仏祖の室に入らないものは、とてもそれを見聞し、会得することはできない。問うて聞くこともできない。打ち出していうなどとは夢にも思いおよばぬところである。(159~160頁)

〈注解〉三界;欲界(欲望に駆使される人間の世界)、色界(現象そのものの世界)、無色界(叡智による抽象の世界)。

     諸法;もろもろの存在。

     丈六身;一丈六尺の仏身。それが仏の身量であるとせられている。(161頁)

■そこで老婆が問うていった。

「わたしはあるとき「金剛経」をきいたことがございますが、そのなかに過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得という句がありました。いま和尚さんは餅を買うて、いったい、いずれの心を点じようとなさるのか。答えてくださったら餅を売りましょう。もし答えができなければ売るわけにはゆきません」

徳山(さん)はその問いをまえにしてただ茫然、答うるすべをしらなかった。そこで老婆は、つと立ちあがって、袖をはらって去り、ついに徳山に餅を売ってくれなかった。(165頁)

■この話の経緯を考えてみると、徳山はまだそのころ本当には判っていなかったことがよく判る。老婆はそのとき徳山を沈黙せしめたが、かといって彼女が実は本物であったかどうかは定めがたい。おそらくは、心不可得ということばを聞き、心などあるものではないとのみ思って、かくは問うたのであろう。徳山はなかなかの男であったから、考える力もあったのであろう。とするならば、考えてみて、かの老婆が本物であったことも、どこかで言及しているはずであるが、まだ徳山も徳山になっていない時のことであったから、老婆の本物であるかどうかも、なお判らない、見えなかったのでもあろうか。

また、そのように老婆を疑うのは、まんざら理由のないことでもない。もし徳山が答え得なかったならば、なぜ徳山にむかって、「和尚が答え得ないならば、かえって老婆に問うよい。わたしが和尚のために答えよう」といわなかったか。その時徳山の問いを迎えていったことばがあるならば、それで老婆の本当に力あることも判るはずである。もしもこの二人に、古人の骨髄や面目、あるいは古物の光明や瑞相(ずいそう)に参入する工夫があったならば、徳山をも老婆をも、可得をも不可得をも、あるいは、餅をも心をも、掴むも放すも自由自在であったであろう。

いわゆる仏心とは三世である。心と三世とは禹(う)の毛ほどのへだたりもないのであるが、また、相去り相離るることを論ずるならば、十万八千里なりといってもなお及ばないであろう。過去心とはなにかと問うものがあらば、彼にむかっていうがよい、「これ不可得」と。現在心とはなにかと問うものがあったならば、答えていうがよい、「これ不可得」と。また、未来心とは何ぞと問うものがあったならば、また「これ不可得」と答えるがよい。そのいうところの意味は、心をかりに不可得と名づける、そのような心があるというのではない。また、心は得られないというのでもなく、ただ不可得というのである。あるいは、心は得ることができるというのでもなく、ただ一途に不可得というのである。また、過去心不可得とはどういうことかと問うものがあらば、生死去(こ)来と答えるがよい。現在心不可得とはどういうことかといわば、生死去(こ)来というがよい。あるいは、未来心不可得とはいかにといわば、また生死去来というがよい。いったい、牆壁(しょうへき)瓦礫(がりゃく)にほかならぬのが仏心であって、三世の諸仏はいずれもそれを不可得であると証(さと)ってうる。また、仏心にほかならぬ牆壁瓦礫があらば、三世の諸仏はそれをも不可得であると証している。ましてや、山河大地にほかならないものは、不可得そのものである。草木風水にして不可得なるもの、それが心であるといってもよい。あるいは、「まさに住する所なくしてその心生ず」という。それもまた不可得である。あるいは、また、十方の諸仏は一代にして八万の法門を説くという。不可得の心(しん)とはかかるものなのである。(169~170頁)

■また、大証国師のころ、西の方から大耳(だいじ)三蔵なるものが京師に到着した。他心通をえた者ということであった。そこで、唐の粛宗(しゅくそう)は国師に命じて彼を試みさせた。三蔵はちらりと国師をみて、進みでて礼拝し、その右にたった。やがて国師が問うていった。

「なんじは他心通をえたというが、そうであるか」

「いうまでもない」

と三蔵は答えた。

国師はいった。

「では、いってみるがよい。わたしはいま何処におるか」

三蔵はいった。

「和尚は一国の師であられるのに、おやまあ、西川(せいせん)においでで競艇を見ておいでじゃ」

しばらくして、国師はふたたび問うていった。

「いってみるがよい。わたしはいま何処におるか」

三蔵はいった。

「和尚は一国の師であられるのに、なんとまあ、天津橋(てんしんきょう)のうえで猿まわしを見ておいでじゃ」

国師はまた問うていった。

「もう一度いってみるがよい。わたしはいま何処にあるか」

今度は、しばらく経っても、三蔵はどうしても答えることができなかった。そこで、国師は叱咤していった。

「この野狐精(やこぜい)め。なんじの他心通はいったいどこへ行った」

だが、三蔵はいぜん答うるところがなかった。

このようなことは、知らなければいけない。聞かなければおかしいと思うであろう。仏祖と三蔵とではまるでちがう、天地の差があるのである。仏祖は仏法が判っておる、三蔵はまだそれを知らない。いったい、三蔵は在俗の者でもなることができる。たとえば、文学の道に通じた者などもそうである、だがしかし、ひろくインドや中国の言語に通ずるのみならず、他心通までも修得していても、こと仏法の身心にいたっては、なお夢にも知らないのである。だから、仏祖の位を証得(しょうとく)している国師のまえにでると、たちまちに看破せられることとなる。

仏道において心(しん)をまなぶには、よろずの存在がそのまま心である。三界はただ心である。ただ心のみであるから唯心なのであろう。仏もまたそのまま心といってもよい。いや仏のみではない。自己も他人もすべてひとしくそうなのである。だからして、いたずらに西川(せいせん)までも下ってゆく必要はなく、あるいは天津橋(てんしんきょう)までも飛んでいって心をさがす必要はない。もし仏道の身心を会得したいならば、仏道の智慧をまなぶがよい。さすれば、仏道ではすべての大地がみな心である。生ずると滅するとにかかわらず、すべての存在がみな心である。すべての心がみな智慧だと学んでもよい。

三蔵にはそれが判らないから、ただ野狐のわざを弄するのみであった。だから、はじめの両度の問いにも、国師の心が判らず、国師の心に通うことができなかった。ただいたずらに、西川だの天津だの、あるいは競艇だの猿廻しなどと、人をたばかる野狐のわざを弄するばかりであった。どうして国師が判るものか。また、どこに国師がいるのか判ろうはずもなかった。「わたしはいま何処におるか」と、国師が三度まで問うても、そのことばの意味も判らなかった。もし判ったならば、国師に問うべきであった。聞く耳がないからすれ違ってしまうのである。もし三蔵が仏法をまなんだことがあったならば、国師のことばも判ったであろうし、国師の身心を見ることもできたであろう。だが、日頃から仏法をまなんでいなかったので、人天(にんでん)の導師にめぐりあいながら、いたずらに機会を逸してしまった。あわれなこと、かなしいことである。

いったい、三蔵の学者などに、どうして仏祖の足跡が判るものか。国師の在処(ありか)が知れるものか。ましてや、西方の論師(ろんじ)やインドの三蔵など、とても国師の足跡が判ろうはずはない。三蔵の知りうるところは、天帝(てんたい)も知るであろう、論師も知るであろう。論師や天帝の知りうるところぐらいは、やがて仏位にいたるべき菩薩の智力のおよばぬところではなく、また、十聖・三賢(さんげん)もけっして及びえないものではない。だが、国師の身心は、天帝も知りえざるところ、いまだ仏位にいたらぬ菩薩もまだ判らないところである。仏教において身心を論ずればこのようである。これを知り、これを信ずるがよい。(174~177頁)

■ある時、ひとりの僧が国師に問うていった。

「古仏心とは、どのようなものでありましょうか」

国師はいった。

「牆壁瓦礫(しょうへきがりゃく)じゃ」

これも心不可得である。

またある時、ひとりの僧が国師に問うていった。

「諸仏のつねなる心とは、どのようなものでありましょうか」

国師はいった。

「幸いに、わしの参内(さんだい)に出遇ったなあ」

これも不可得の心を究明しているのである。

またある時、天帝釈が国師に問うていったことがある。

「どのようにしたならば、この無常の世界を解脱することができましょうか」

国師はいった。

「天神は道を修めて、この無常の世界を解脱するがよろしい」

天帝釈はかさねて問うていった。

「その道とは、どのようなものでありましょうか」

国師はいった。

「つかのまの心、それが道である」

天帝釈がいった。

「つかのまの心とは、どのようなものでありましょうか」

国師は手をあげて指さしていった。

「これが般若の台(うてな)である。あれが真珠の網でござる」

天帝釈は頭をさげて礼拝した。

およそ仏道にあっては、仏祖たちの会座(えざ)において身心を談ずることが多い。いずれもそれをまなぶことは、凡情の思量をもってしては及ばないところである。心不可得ということを思いめぐらしてみるがよいのである。(194~195頁)

〈注解〉真珠網;この世界を指さして真珠をちりばめた網というのであろう。『華厳経』に因陀羅網とて、この世界の構造を語るに宝石をちりばめた宝網のたとえがある。推して知るべきである。(196頁)

古鏡(こきょう)

■開題

この「古鏡」の巻は、仁治二年(1241)九月九日、いつものように興聖寺において衆(しゅ)に示された。

では、その巻題のもとに道元が説こうとするものは、いったい何であるか。それについて、わたしは、ここでまず、道元がこの『正法眼蔵』の巻々において、しばしば試みている手法をあかしておきたいと思う。

道元は、まず、その冒頭の一節ににおいて、ずばりと、そのいわんとするところを凝縮して語りいでる。この巻においていうなれば、

「諸仏諸祖の受持し単伝するは、古鏡なり。同見同面なり、同像同鋳なり、同参同証す。胡来胡現、十万八千、漢来漢現、一念万年なり。古来古現し、今来今現し、祖来祖現するなり」

とあるのがそれである。道元は、この巻においていわんとするところを、すでにこの数十字のなかに凝縮して打ち出しているのである。

幾度もいうように、この『正法眼蔵』の巻々は、総じて、まことに難解である。まさに難解第一の書である。だが、その難解にめげずして、さらに幾度となく読みきたり読みさるうちに、ふと気がついてみつと、その難解さは、しばしば、その冒頭の一段において極まるのである。何故であろうかと思いめぐらしてみると、結局するところ、そこに、いまもいうように、もっとも凝縮された要旨がずばりと語りいだされているからである。

では試みに、いまここに引用した冒頭の一節を、いささか解きほぐしていうなれば、おおよそ、つぎの四点にわかっていうことを得るであろうか。

その第一には、もろもろの仏祖が伝え来るものはなにか、それは仏心ということもできよう。智慧ということもできよう。あるいは心印ということもできよう。だが、それらは、結局、抽象的な概念にしかすぎない。それを、もっと具体的にいうなれば、古鏡をもって象徴することができるとする。

その第二には、もろもろの仏祖がそれによって営むところを、古鏡に事寄せていえば、同像同鋳であるということを語っている。彼らの言行は、一見すれば不覊奔放であるが、まことは、ぴたりと一致しておるという。同参同証という所以である。

その第三には、その営むところを、さらに突きつめていえば、つねにあるがままを把握していることを特徴とするという。古鏡の、胡来胡現であり、漢来漢現であることを力説しているのは、そのことを語っているのである。

そして、その第四には、そのような仏祖のありようは、古今を通じて変わるものではないことが示されている。古来古現し、今来今現すというは、そのことである。道元が古仏ということばを愛惜していることは、この『正法眼蔵』の巻々のいたるところにみられるが、そのことばのなかには、この考え方が基底として存している。

さて、そのように凝縮した冒頭の一節を打ち出したのち、道元は、つぎつぎに、古鏡にちなむ仏祖の言行・問答をとりあげて、こんどは、嚙んで含めるような心ばえをもって、つぶさにそれぞれの解説をこころみる。

そこには、伽耶舎多尊者(がやしゃたそんじゃ)のふしぎな円鑑の物語もある。六祖慧能のよく知られた明鏡の偈(げ)も説かれている。さらに、雪峰・玄沙・三聖(しょう)などの古鏡にちなむことばが論ぜられ、最後に、南嶽が馬祖のためにしめした「瓦を磨いて鏡となす」という物語があげられている。その結びに及んで、

「塼(せん)もし鏡とならずば、人ほとけになるべからず」

という一句があるのが、わたしには忘れられない。(198~200頁)

■もろもろの仏祖が伝え受け、保持し、また伝えいたるものは古鏡である。それはいつでも、同じ面(おもて)をうつし、同じ証(さとり)をうつし出す。胡人がきたれば胡人をうつしだすこと、その数かぎりなく、漢人がきたれば漢人ををうつし出すこと、その時をえらぶことがない。古人がくれば古人を現じ、今人がくれば今人を現じ、また祖が来れば祖を現ずるのである。(200~201頁)

〈注解〉この一段は、仏祖の一人より一人へと仏心を単伝するありようを語るに、古鏡をもって象徴するのである。古鏡とは、智慧をたとえていうのが、古来からのならいである。

     胡人;胡は北方のえびず。それによって、すべての異邦人をいうのである。

     漢人;漢は中国本土の称。漢人はすなはち中国人である。(201頁)

■では、心と眼がみな相似ているというはどういうことであるか。それは、心は心に相似ているいるのであり、眼は眼に相似ているのである。相似ているのは心と眼であって、たとえば、心・眼それぞれに相似ているということである。では、さらに、心が心に相似ているとはどういうことであるか。いわゆる「道眼は眼に礙(さ)えられる」ということでる。

いま、かの童子がいうところの偈の意は、そういうことであって、それが、童子のはじめて僧伽難提(そうぎゃなんだい)尊者にまみえた真の理由であった。その意味をよくよく思いめぐらして、大円鑑のうつしだす仏祖の面影をまなぶがよい。それが古鏡をかえりみることなのである。(208頁)

■第三十三祖大鑑禅師慧能は、かって黄梅山の法席にあって修行していたころ、壁に一偈を書して祖師弘忍に呈(てい)した。いわく、

「菩提はもと樹なし

明鏡もまた台に非ず

本来一物なし

いずれの処にか塵埃(じんあい)あらん」

では、その表現をまなびとってみるがよい。大鑑禅師を世の人々は古仏とよぶ。圜悟禅師も、「曹谿のまことの古仏に稽首(けいしゅ)する」といっておる。だからして、大鑑禅師が明鏡について語れば、「本来一物なし、いずれの処にか塵埃あらん」である。また、「明鏡は台に非ず」という。そこにいのちがある。思いめぐらしてみるがよい。明々なのはみな明鏡である。だから、明るいものがくれば、明るいのである。それは何処でもないから、何処にもないのである。ましてや、鏡にない塵が、この世界のどこにのこっていようか。鏡につもらぬ塵が、鏡にのこっていようはずがあるものか。かくて知るがよい、この世界はけっして「塵の世界」ではないのである。だからして古鏡のおもてである。(211~212頁)

〈注解〉第三十三祖大鑑禅師;大鑑禅師は曹谿慧能の諡号。六祖である。ここに第三十三祖というは、西天二十八祖よりつづいて数えたのである。

     菩提本無樹云々;『法宝壇経』によれば、五祖弘忍のもとに神秀と慧能があったころのこと、神秀が宝林寺の南廊壁間に、その心所見を呈して、「身是菩提樹、心如明鏡台、時時勤払拭、勿使惹塵埃」と書した。それに対して、慧能もまた所見を呈して、壁間にこの偈を書したという。ただし、古来その結句は「何処惹塵埃」(いずれの処にか塵埃を惹かん)と伝えられている。(212頁)

■雪峰山の真覚(しんかく)大師は、ある時、衆(しゅ)に示していった。

「このことを会得しようとならば、わが内は一面の古鏡によう似ておる。胡人が来れば胡人がうつり、漢人が来れば漢人がうつる」

すると、玄沙師備(げんしゃしび)がすすに出て、問うていった。

「では、ひょっこり明鏡の来たるに遇ったら、どういうことになるのでしょう」

雪峰はいった。

「胡人も漢人も、ともに隠れるよ」

玄沙はいった。

「わたしはそうは思いません」

雪峰はいった。

「しからば、そなたはどう思うか」

玄沙はいった。

「では、和尚の方から問うていただきたい」

雪峰が問うていった。

「では、にわかに明鏡に来たるに遇った時にはいかに」

玄沙がいった。

「木端微塵でござる」

まず、雪峰が「このこと」といったのは、いったい何のことかと考えてみなければならぬ。だが、いまのところは、これをしばらく雪峰の古鏡論としてまなぶことにしよう。

まず、「一面の古鏡のごとし」という。一面とは、まったく際限がなく、また、内も外もないことである。そのような盤のうえを一つの球(たま)がはしる。それが自己なのである。

また、「胡人が来れば胡人が現ずる」という。胡人というは、一人の赤鬚の異邦人である。また、「漢人が来れば漢人が現ずる」という。漢人とは、開闢(びゃく)のいにしえから、かの国土に生(お)い育ってきた人であるが、いま雪峰のいうところでは、古鏡の功徳としてその漢人が現われるという。いまの漢人はその漢人ではないから、すなわち漢人が現ずるというのである。

さらに雪峰は、「胡人も漢人も、ともに隠れる」という。それは、さらにいうならば、「鏡そのものも隠れる」というところであろう。そこで、玄沙は、いや木端微塵に砕けるのだといった。いうなれば、そんなところであろうけれども、そこで今度は、玄沙が責められる番だ。では、「わしにその砕片を還(かえ)してくれ」とか、あるいは、なんでわしに明鏡を還してくれないか」と。(218~219頁)

■かって、江西の馬祖が南嶽に師事していたころ、南嶽は、ふしぎな仕方でさとりを得しめた。それが瓦を磨くということばのはじめであった。

そのころ、馬祖は伝法院に住して、世のつねのように坐禅を行ずること、ほぼ十余年のころのことであった。雨夜の草庵のたたずまいを思いやるがよい。雪にとざされて寒々とした坐牀(ざしょう)にも怠ることがなかった。その草庵を、ある時、南嶽が訪れたのである。

馬祖がかたわらに侍立していると、南嶽が問うていった。

「そなたは、この頃なにをしておるか」

馬祖はいった。

「この頃わたしは、ただ坐っておるだけでございます」

南嶽がいった。

「坐禅をして、どうしようというのか」

馬祖がいった。

「坐禅をして仏になろうとするのでございます」

すると、南嶽は、一片の瓦をひろってきて、草庵のほとりの石にあてて磨きはじめた。それを見て、馬祖は、問うていった。

「和尚は、なにをなさるのですか」

南嶽がいった。

「瓦を磨くのじゃ」

馬祖はいった。

「瓦を磨いて、それをどうなさるのですか」

南嶽がいった。

「磨いて鏡にしようというのじゃ」

馬祖はいった。

「瓦を磨いて、どうして鏡となすことができましょうぞ」

南嶽がいった。

「坐禅したからとて、どうして仏になることができようか」

この一段の対話は、昔から何百年ものあいだ、人々はたいてい、ただ南嶽が馬祖を激励したとのみ思っている。けっして、そうとのみは限らないのである。すぐれた聖者の言行は、はるかに凡人の境地をぬきん出ているのである。

いかにすぐれた聖者であろうとも、もし瓦を磨く手立てがなかったならば、どうして人のために方便をたてえようか。人のためにするというのは仏祖の本質というもの。そのために手段を講ずるのは、いうなれば手なれた家具というものである。家具であり、調度であるから、それが仏の家につたえられるのである。ましてや、いま南嶽は、それをもって、みごとに馬祖をみちびきたもうた。その指導のありようは、仏祖正伝とは直指(じきし)であることをよく示している。

まことに知る。磨いた瓦が鏡となった時、馬祖が仏となったのである。また、馬祖が仏となった時、馬祖はたちまち馬祖その人となったのである。そして、馬祖が馬祖となったその時、坐禅がたちまち坐禅となった。

だからして、瓦を磨いて鏡をなすということが、古仏の骨髄として伝えられて、いまもなお、瓦のなれる古鏡が存する。その鏡は、よくよく磨いてみると、もともと清淨(しょうじょう)なものであって、塵に汚れた瓦ではなかった。ただ瓦であったものを磨いただけである。そこに鏡が実現するというのが、とりもなおさず仏祖の工夫というものである。

もしも、磨いた瓦が鏡とならないならば、鏡を磨いても鏡となすことはできまい。誰が考えたことでもあるまいが、おなじ「作」の一字を冠して、作仏といい、また作鏡(さきょう)というではないか。

また、古鏡を磨くにあたり、あやまって瓦としてしまうことはないかと心配する者もあろうか。だが、この磨く時の消息は、他の場合をもって推し測るべきものではない。ともあれ、南嶽のことばは、まさにいうべきことをいいえているのであって、結局するところ、かならず瓦を磨いて鏡となすことをうるのである。では、いまの人もまた、その瓦をとって試みに磨いてみるがよい。きっと鏡となすことをうるのであろう。

もしも、瓦が鏡とならないものならば、人が仏となろうはずはない。もしも、瓦は泥のかたまりだと軽んずるならば、人もまた泥のかたまりと軽んじねばなるまい。人にもし心があるとならば、瓦にもまた心があるはずである。誰が知ろうぞ、瓦を磨ききたって瓦を現ずる鏡のあろうことを。また、誰ぞ知らん、鏡を磨ききたって鏡をなせる鏡の存することを。(257~259頁)

仏性(ぶっしょう)

■釈迦牟尼仏はいった。

「一切衆生、悉有(しつう)仏性、如来常住、無有変易」

それは、われらの大師釈尊のとかれた大説法であるが、また、すべての仏たち、すべての祖たちの頭(ず)頂となし、眼目となすところである。仏教者はこれをまなびきたること、すでに二千百九十年(日本の仁治二年にあたる)、その間、正嫡(しょうちゃく)をかずうればおおよそ五十代(先師天童如浄禅師に至る)、西のかた天竺において代々伝持すること二十八代、東の国において世々相承(そうじょう)すること二十三世、みなよく保ちつづけて今日にいたる。

釈尊がいうところの「一切衆生、悉有仏性」とは、その意味するところはいかに。それは、「こんな物がどうして来たのだ」といっておられるのである。あるいは衆生といい、あるいは有情(うじょう)といい、あるいは群生(しょう)といい、あるいは郡類という。悉有というのは、その衆生のことであり、その群有(う)のことである。つまり、悉有は仏性であって、その悉有の一つのありようを衆生というのである。まさにその時にいたれば、衆生はその内も外もそのまま仏性の悉有である。それは仏祖の伝える皮肉骨髄のみではない。「汝はわが皮肉骨髄を得たり」であるからである。

それによっても判るように、いま仏性に悉有せられる「有(う)」は、有りや無しやの有ではない。悉有は仏のことばであり、仏の舌であり、したがって、また仏祖の眼目であり、仏者の鼻孔である。それはけっして治有(しう)でもなく、本有(ほんぬ)でもなく、また妙有などというものでもない。ましてや、縁有や妄有(もうう)であろうはずはない。心・境・性(しょう)・相などに関わるものでもない。だからして、衆生悉有の身心と世界とは、すべて、業(ごう)の力をもって変えうるものでもない。妄情を縁として齎(もたら)されるものでもなく、あるいは自然にしてかくあるものでもなく、神通の力によって証得せられるものでもない。もしも衆生の悉有なる仏性が、業によるもの、縁によるもの、あるいは自然にしてかくあるものとするならば、もろもろの聖者のさとりも、もろもろの仏の智慧も、あるいはもろもろの祖の眼目も、また業や縁や自然にしてしかるものであろう。だが、そうではないのである。すべてこの世界にはまったく外より来るものはない。ずばりといえば、べつに第二の人があるわけではない。ただ、「直ちに根源を切断することを知らず、あれこれと妄想を逞(たくま)しゅうして休(や)む」の時がないのである。「徧界(へんかい)かって蔵(かく)さず」という。妄情によってなる存在などあろうはずもないのである。

だが、「徧界(へんかい)かって蔵(かく)さず」というのは、かならずしも「一切世界はわが有(う)」ということではない。それは外道のまちがった所見である。だからといって、また本有(ぬ)の有でもない。それは古今にわたっての存在であるからである。また、はじめて起これる有でもない。「一塵をも受けず」であるからである。また、突如として出現する有でもない。それは凡人も聖者もともに同じく有するがゆえである。あるいは、始めのない有でもない。だから「こんな物がどうして来たのだ」という。あるいは、ある時はじめて存する有でもない。だから「平常心これ道(どう)」というのである。つまるところ、悉有というのは、快(こころ)よき便の捉えどころがないようなものであって、そのように会得すれば、悉有は気持ちよく身体を脱落してゆくのである。(304~306頁)

〈注解〉什麼物恁麼来;『景徳伝燈録』巻五、南嶽伝にみえる一句。南嶽懐譲がはじめて六祖慧能に見参したときの問答であって、そこには、「乃直詣曹谿参六祖、祖問、什麼処来。曰、嵩山来。祖曰、什麼仏恁麼来」とある。「こんな物がどうして来たのだ」というほどの意であろう。

     始有・本有・妙有・縁有・妄有;有という仏教の述語はもと“bhava”(=beinng)の訳語である。音写してまた烏波(うは)ともいう。あることであり、存在である。そのありようにさまざまある。ある時より始めてあるを始有(しう)という。もとよりあるを本有(ぬ)という。空にして有(う)なるを真空妙有という。また、縁(条件)あるによりてあるを縁有といい、迷妄によりてあるを妄有という。そして、仏性の悉有はそのいずれでもないとするのである。

     心・境・性・相;心は内なる心、境は外なる対象、自仏の本質として易(かわ)らざるは性であり、その性のあらわれとしてのすがた・はたらきは相である。

     偏界不曾蔵;「偏界曾つて蔵(かく)さず」である。『碧巌録』第五三則に、「偏界不蔵、全機独露」の句もみえる。一切の諸方はいささかもその秘密をかくし蔵することなく、その実相をそのままに露呈しているというほどの意である。

     平常心是道;『無門関』の「平常心是道」のくだりに、南泉と趙州の問答がある。「趙州問、如何是道、泉曰、平常心是道」と。

     快便難逢;『渉典続貂(しょうてんぞくちょう)』によれば、『談藪(だんそう)」なる文献に「下坡不走、快便難逢」の句があるという。坡(どて)でここちよく小便をする。小便はさらさらと流れてゆく。それはもう逢えない。そんな意味であろう。その句をもって、道元は、つぎの透体脱落の句にかけているのである。(306~308頁)

■その仏性ということばを、学者のなかには、先尼外道のいう「我(が)」のように思い誤っているものがすくなくない。それは、然るべき人にあわず、自己にもあわず、師にもまなばないからである。ただいたずらに、わが内に風のそよぎ火のもゆるようにゆれ動く心識をもって、それが覚知のはたらきだと思っているのである。いったい、仏性に覚知のはたらきがあるなどと、誰がいったのであろうか。なるほど、諸仏のことを覚者といい知者とはいうけれども、仏性はけっして覚知でも覚了(かくりょう)でもない。ましてや、諸仏を覚者・知者というときの覚と知とは、なんじらが云々する誤れる考えをいうのではない。風・火の二大(にだい)のうごきを覚知とするのではない。ただ、一箇両箇の仏の面目、祖の面目をなるを覚知とするのである。

漢より宋にいたるまでの間にも、あるいは西の方天竺にまで往復し、あるいは人々の教化に力をつくした古老先徳はすくなくなかったが、そのなかにも、風大・火大の動きをもって仏性のはたらきと思っていたものはすくなくなかった。あわれむべきことである。仏教のまなびかたが疎漏であったためにこの誤りをおかしたのである。いま仏教をまなぼうとする後学初心のものはそうではいけない。

たとい覚知をまなんでも、覚知とはそんな心の動きではない。たとい心の動きをまなんでも、心のはたらきはそんなものではない。もし本当の心のはたらきを会得できれば、本当の覚知もわかるはずである。「仏性とは、かれに達しこれに達す」という。仏性はかならず悉有である。悉有が仏性であるからである。悉有とはばらばらになったものではなく、また鉄のかたまりのようなものでもない。あるいは、雲水が拳骨を突きだすあれであって、大でもなく小でもない。また、すでに仏性というからには、もろもろに聖者とならべていうべきでもない。それは仏性と比すべきものではない。

ある一部の人々は、仏性は草木の種子のようなものだという。それは、法雨のきたって、しきりと潤すとき、芽を出し、茎を生じ、枝や葉をひろげ、花をひらき果(み)をむすぶにいたり、さらにその果は種子をはらむ。だが、そのように考えるには凡夫の計らいというものである。たといそのような見方をしても、その種子とその花と果(み)は、それぞれ別々の心のすがたと考えてみるがよい。果のなかに種子があったり、種子のなかには見えないけれども根や茎があったり、あるいは、どこから集めてくるわけでもないが、そこばくの枝や葉をだして繁りはびこる。そんな内か外かの問題でもなく、生ずる生じないの問題でもない。これは古今にわたって空しからぬものである。だから、たとい一応は凡夫の見解にまかせるとしても、ここでは根も茎も枝も葉も、すべてが同時に生じ同時に滅するものと知らねばならない。同じく悉有なる仏性だからである。(310~311頁)

〈注解〉つづいて、仏性について、先人の誤れる所見三つを揚げて批判する。その一つは、自我の覚知はたらきをもってそれとする所見であり、その二つには、心意識の動きをもってそれとする所見であり、その三つには、草木の種子をもってそれを喩える所見である。

     先尼外道;先尼は“Seniya” の音写であって外道の姓である。その外道の説くところは、さきの「即心是仏」の巻にくわしく紹介され、かつ、大証国師慧忠の語をもって、それに批判が加えられている。

■仏いわく、

「仏性の義を知らんと欲(おも)わば、当(まさ)に時節の因縁を観ずべし。時節もし至れば、仏性現前す」

いま仏性の義を知りたいと思うならばという。それはただ知るのみのことではない。また行じようと思うならばであり、証(あか)ししようとするならばであり、あるいは、説こうとするならばであり、忘れようとするならばである。その説も、行も、証も、忘も、あるいは錯(たが)うも、錯わざるも、すべては時の関係である。その時の関係を観察するには、時の関係をもって観ずるのである。払子(ほっす)・拄杖(しゅじょう)などをもって観ずるのである。けっして、有漏智・無漏智、もしくは本覚・始覚(しかく)・無覚・正覚(しょうがく)等の智をもってしては観察しがたいのである。当(まさ)に観ずべしというは、観るか観られるかにかかわらず、また正しく観るか誤って観るかなどということでもなく、まさに当に観ずるのであるから、自己が観るのでもなく、他が観るのでもない。時の関係そのままにして、時の関係を超絶するのである。仏性そのままにして、仏性を脱却するのである。仏は仏そのままに、性は性そのままに観ずるのである。

時節もし至ればという。その句を、昔の人も、往々にして、いつか仏性が現われる時があるだろうから、その時を待つのだと思っている。このように修行してゆけば、自然に仏性の現われる時期もあるだろう。時期が来なければ、いくら師を訪(おとな)うて法を問おうとも、分別して思いめぐらしても、なかなか現われてくるものではあるまいと、そのように考えて、なすこともなく俗塵に沈み、むなしく阿呆(あほう)な面(つら)をさらしている。そんな徒輩はおそらく自然外道の仲間なのであろう。

いまいうところの「仏性の義を知らんと欲(おも)わば」とは、いいかえれば、また「当(まさ)に仏性の義を知るべし」ということである。また「当に時節の因縁を観ずべし」というは、「当(まさ)に時節の因縁を知るべし」ということである。いわゆる仏性を知ろうと思うならば、時節の因縁がそれであると知らねばならない。時節もし至ればというのは、すでに時節がいたっておるのだ、なんの躊躇(ため)らうことやあらんというのである。疑うならば疑ってみるもよい。仏性はいつか我に還って来ているのである。

まさに知るがよい。時節もし至らばとは、寸分の時も空しく過ごしてはならぬということであり、もし至らばとは、すでに至るというに同じである。もしも時いたらばと待つならば、仏性はついに至らぬであろう。かくして、時すでに至れりとあらば、それこそ仏性の現われである。あるいは、その理(ことわり)もおのずから明らかなのである。およそ、時のいたらぬ時というものはなく、仏性の現前せざる仏性というものはないのである。(315~316頁)

〈注解〉有漏智・無漏智;漏とは煩悩のはたらきをいうことば。有漏智とは、いまだ煩悩を断たざる世俗智をいい、それに対して、無漏智とは、一切の煩悩をはなれた清浄な智慧をいう。

     本学・始学;本覚とは、本有(ほんぬ)の覚性というほどの意である。それに対して、始学とは、教えを聞いてはじめて覚(めざ)めることである。だが、そのような覚める性は、突きつめてみると、もともとわが内に存するものであったはずである。それが本有の覚性である。

     天然外道;また自然(じねん)外道、もしくは自然見(じねんけん)外道という。十種外道の一つである。一切の存在は因によりて生起することを認めず、自然にしてかくあるものとなすが故に、なんの人力の加うるところなしとする見解に立つのである。

三昧;“sama-dhi”の音写である。また三摩提(さんまでい)と写す。定と訳す。心を一処に集中して動せしめざるをいう。

     六通;六神通である。定・慧等の力によってうる六種の自在なる力をいう。神足通、天眼通、天耳通、他心通、宿命通、漏人通(ろうじんつう)をいうのが常である。

     神通波羅蜜;波羅蜜は“pa-ramita-”音写であって、到達、完成、成就を意味する。(318~319頁)

■中国の第六祖曹谿山大鑑禅師が、そのむかしはじめて黄梅山に詣(いた)ったとき、五祖は問うていった。

「汝はいずれの処よりきたのか」

彼はいった。

「嶺南人でございます」

五祖はいった。

「来(きた)ってなにを求めんとするか」

彼はいった。

「ただ仏となることを求めるのでございます」

五祖はいった。

「嶺南人は無仏性である。どうして仏になれようぞ」

この「嶺南人は無仏性」というのは、嶺南人には仏性がないというのでもなく、嶺南人は仏性があるというのでもない。ただ「嶺南人は無仏性」というのである。「どうして仏となれようぞ」というのは、どうして仏となろうとするのかというのである。

 いったい、仏性の道理は、これを明確につかんだ先達(せんだち)はすくない。それは、もろもろの小乗の徒輩や、経師(きょうじ)や論師(ろんし)の知りうるところではない。ただ仏祖の流れを汲むもののみがそれを伝え来っておる。仏性というものは、成仏以前に身に具(そな)わっているものではなく、仏となってはじめて具わる。仏性はかならず成仏にともなう。その道理をよくまなびよく究めるがよい。二十年も三十年もかけて工夫しかつまなぶがよい。修行の途中にあるものが知りうるところではない。いま衆生に仏性ありといい、また衆生に仏性なしというは、この道理によるのであり、それは成仏以来はじめて具足するのだとまなぶのが正しいのである。そのようにまなばないのは仏法ではあるまい。でなかったならば、仏法はとうてい今日に到りえなかったであろう。もしこの道理を知らなかったならば、成仏も判るまい、聞くことも見ることもないのである。

かかるがゆえに、五祖は、彼に向かって語るに、嶺南人は無仏性だといったのである。仏法をまなぶにあたって、まず聞きうることの難きは、衆生無仏性ということである。あるいは善知識にしたがい、あるいは経巻によって、聞いてよろこぶべきことは、衆生無仏性ということでなくてはならぬ。一切衆生に仏性なしと、いやというほど聞かされ思いしらされるのでなかったならば、まだ仏性のことを聞いた判ったとはいえない。六祖はひたすらに仏とならんことをねがう。五祖は彼をしてよく作(さ)仏せしめようとする。それには他のいい方はない。ただ「嶺南人は無仏性」だというのみである。かくて、無仏性と語り、無仏性と聞く。それがまっ直ぐに作仏にいたる道だと知られるのである。とするならば、まさに無仏性のその時こそが、とりも直さず仏となるの時である。いまだ無仏性と聞かず、語らざるの時には、まだまだ仏にはなれないのである。

すると、六祖はいった。

「人に南北はあっても、仏性には南北はありません」

そのことばを取りあげて、その句のこころを思いめぐらしてみるがよい。とくに南北ということばは、心にあてて照らしてみるがよいのである。この六祖のことばには大事な意味がある。それは、人は仏となりえても、仏性は仏となりえないという一つの構えである。六祖がそれに気がついていたかどうか。

思うに、四祖五祖の語った無仏性という表現は、まことに注目をうながすに足るものであった。はるかにそれに相対して、迦葉仏や釈迦牟尼仏などの仏たちは、仏となり法を説くにあたって、悉有仏性と表現する力をもっておられた。その悉有の有から無仏性の無へと法が嗣(つ)がれてきてもすこしも不思議ではない。かくして、無仏性の語は四祖・五祖の室内より聞こえきたって、はるかに今日におよんでおる。だが、この時、六祖ほどの人であったならば、この無仏性の語をもう一歩ふみ込んだ工夫があってしかるべきであったと思う。有りや無しやはしばらく措(お)いて、いったい仏性とはいかにと問うてみるべきであった。仏性とはそもそもどのようなものかと訊(たず)ぬべきではなかったか。今の人々も、仏性と聞けば、さらに仏性とはなんぞと問うことをせず、ただ仏性の有りや無しやなどをのみ論ずる。それと同じである。迂闊(うかつ)というものである。

とするならば、しばらくいろいろの場合の無をとりあげて、無仏性の無にあてて考えてみるがよい。六祖は「人に南北あり、仏性に南北なし」といった。その表現を再三再四、ふかく沈潜して掬(すく)うてみるがよい。蝦(えび)をとるには撈波子(ろうはし)という竹具ををもってすくう。まさにそのようにして掬ってみるがよい。あるいはそれをしずかに拈(こ)ねまわしてみるもよい。しかるを愚かなる輩(やから)は、人間には物のひっかかりがあるから南北があるが、仏性は虚(きょ)にして無礙なるがゆえに南北の論におよばずと、六祖のことばをそんな工合に推し測る。それはわけもない愚蒙(ぐもう)の沙汰というもの。そんな愚かな考え方をなげすてて、まっ直ぐにまなびいたらねばならぬ。(330~333頁)

■第十四祖龍樹尊者は、梵音にはナーガルジュナ(那伽閼刺樹那)といい、訳して龍樹、龍勝、もしくは龍猛という。西の方天竺の人である。ある時、南天竺にいたってみると、その地の人々はたいてい招福の術を信じ、尊者がすぐれた法を説いても、彼らはたがいに相顧(かえり)みて、

「人は福(さいわい)のあるのがこの世でなによりのこと。仏性などと説いたって、誰も見ることはできはしない」

といった。だが、尊者は説いていった。

「汝ら仏性を見ようと思うならば、まず我(が)の慢心をさるがよい」

彼らはいった。

「仏性とは大きなものか小さなものか」

尊者はいった。

「仏性は大にあらず小にあらず、広きにもあらず狭きにもあらず、また福(さいわい)もなく報(むくい)もなく、不死にして不生である」

彼らは、その理(ことわり)のすぐれたるを聞いて、ようやく心をひるがえした。そこで尊者は、こんどは、その座において自在身を現じた。それは満月のようであった。会衆はすべてただ法を説く声のみを聞いて、尊者のすがたは見えなかった。その会衆のなかに、長者の子で迦那提婆(かなだいば)という者があって、みなにいった。

「みなさんはこの相(すがた)が判りますか」

会衆はいった。

「こんなのは、まだ見たことも聞いたこともない。あるいは、心に知るところでもなく、身に経験したこともない」

そこで提婆がいった。

「これは、尊者が仏性の姿を現じて、わたしどもに示しておられるのです。どうしてそうと判るかといえば、無相三昧はそのすがた満月のごとしとあります。仏性は廓然として虚(こ)明なものであるからです」

彼がそういい終わると、満月の輪相はたちまち消えて、尊者はまたもとの座に復し、偈を説いていった。

「身にまろき月の相を現じ

もって諸仏の本体をあらわす

法を説くにその形なく

よって声色(しょうしき)にあらざることを示す」

まさに知るがよい。真に役立つものは声や形に現われたものではなく、本当の説法というものは形がないのである。龍樹尊者はそれまでにも仏性を説くこと幾度なるかを知らない。いまはただその一つを略してあげるのみである。

そこにはまず、「汝仏性を見んと欲せば、先ず我慢を除くべし」とある。その説く意味を、素通りせずに考えてみるがよい。それは見ることができないわけではない。だが、見るためには我慢を除かねばならぬ。我(が)もひとつではない、慢(まん)ももさまざまである。それを除くにもまたさまざまの方法があろう。だが、いずれにしても、かくすれば仏性を見ることをうるのである。この眼で見るように見えるのである。

また、「仏性は大にあらず小にあらず」という。それも世のつねの凡夫や小乗のやからの例にならってはならぬ。かたくなに仏性は広大なものとのみ思うのは、かえって誤解を重ねることとなろう。もしも大にあらず小にあらずというその表現にひっかかるようならば、いままさに龍樹の前にあってそれを聴くような思いををもって思いめぐらしてみるがよい。そう思って聴いておると、尊者はやがて偈を説いて申される。「身に円月の相を現じ、もって諸仏の体を表わす」と。それは、もろもろの仏の実体を身をもって表現するのであるから、とうぜん円月の相でなくてはならない。そこでは、長いの短いの、四角いの円いのというのは、すべてその実体ではない。その身相における表現が判らなければ、円月の相が判らないばかりではなくまた諸仏の実体も判らないであろう。

すると、愚かなる者はいうのであろう。その時、尊者はかりに化身をもって円月の相を現じたのであろうと。そう思うのは、仏道を相承(そうじょう)しないやからどもの間違った考えである。何処に、また何時、尊者が自身ならぬ身を現じたというか。まさに知るがよい。そのとき尊者はただ高座に坐しておったのみである。その身のありようは誰もが坐っていると同じであった。その姿がそのまま円き月の姿を現じていたのである。その姿は四角でも円(まる)でもなく、有でも無でもなく、陰でも顕(けん)でもなく、その他なにものでもなかった。ただそのままの姿であった。それを円月相というは、そこには一体なにがあったか、どうみても、それは月であった。その姿は、まず我慢を除いたものであるから、もはや龍樹ではなくて諸仏の実体である。それでもって諸仏の実体を現じているのだから、それがそのままそれである。だから、仏の姿がどうということではない。また、仏性が満月を思わせるような虚明(こめい)なものだからといって、それで円月相をもち出したわけでもない。ましてや、そのはたらきは声色(しょうしき)でもなく、その姿は肉身でもない。あるいは、いずれの蘊(うん)・処(じょ)・界に属するものでもない。いや、一応はそれらに似ているようであるが、ただそれらをもって表現するだけのことである。それはあくまでも諸仏の実体である。それは説法の姿にほかならぬ。だから、その形はない。その形がないから、無相三昧にししてはじめてその相を現ずるのである。

いまその一座の人々は、その円月相を望見しながら、その目はそれを見ることがなかったという。それは説法の機微というものである。自在身を現じてもそれは声や形ではない。円月の相は陰顕自在であるから、座上にあって自在身を現じたその時でも、すべての会衆はただ法を説く声をきくのみにして、師の姿を見ることがなかったのである。ただ、この師の法嗣(ほうし)たる迦那提婆尊者のみは、あきらかに満月の相を知り、円月の相を見、その姿の現ずるを見、諸仏の本性を識(し)り、また諸仏の実体を識った。師の室に入ってその法を受くる者はたくさんあっても、この迦那提婆に比すべきものはあるまい。彼こそは半座の尊者である。会衆の導師として、師の坐を分かたれる者である。けだし、彼が正法眼蔵を付与せられ、無上の大法を正伝せられたことは、かって霊鷲山上の会座(えざ)において、摩訶迦葉が仏の高足(こうそく)としてそれを受けたとおなじである。

龍樹は仏教に帰する以前、すでに婆羅門の諸学に通じ、多くの弟子をもっていた。だが彼は、それらをみな謝して去らしめ、仏祖となってのちはただ一人提婆を正嫡(しょうちゃく)として、眼蔵を付与し大法を正伝した。それが無上の仏道の単伝というものである。しかるに、時として、われも龍樹菩薩の法嗣であると僣称(せんしょう)して、論を造り、説をなす者をみることがある。それらはたいてい、龍樹の名をかりたのみであって、龍樹の造(ぞう)ではない。ただ、さきに去らしめられた弟子たちが人々を迷わすだけのものである。仏弟子たるものは、ただひとすじに、迦那提婆の伝うるところのみが龍樹の所説であると知るべきである。それが正信を得たというものである。しかるに、偽作と知りながらもそれを受ける者が少なくないのは、仏法を謗(ぼう)ずる愚かなる衆生というものであって、あわれにもまた悲しむべきことである。

さて、迦那提婆はその時、龍樹菩薩のその姿を指さして、一座の人々に告げていった。「これは尊者が仏性の姿を現じて、われらに示しておられるのである。どうしてそれが判るかといえば、無相三昧はその姿満月のごとくにして、仏性は廓然として虚明(こめい)なものであるからである」と。いまこの世界にくまもなく流布する仏法をまなび来れる古今の人々にして、この姿をもって仏性なりといったものが誰があろうか。その余の人々はただ、仏性とは眼に見、耳に聴き、心に識(し)るなどのものではないと表現するのみである。この姿が仏性とは知らないからいい得ないのである。祖師が惜しむわけではないが、ただ眼も耳もふさがっているから見聞することができないのである。あるいは、それをそうと識るべき境地にいたらないから了別するころができないのである。無相三昧の姿の満月のごとくなるを望見し礼拝しながらも、なお眼はそれと見ることができないのである。

彼は、仏性は廓然(かくねん)として虚明(こめい)であるという。だから、身をもって仏性を説くにもまた虚明にして廓然である。仏性を説くために現じた姿は、諸仏の実体を顕しているのである。いずれの仏もこの姿を実体としないものがあろうか。けだし、仏の実体はその姿である。姿として現れる仏性があるのである。かつて、仏性とは四大(しだい)である、五蘊であると説いた仏祖の指標も、かえってそのかりそめの姿によるのである。すでに諸仏の本質をかたるに体(たい)という。この世界のありようがすべてそうなのである。一切のことがそれによるのである。仏の功徳というも、その姿に尽き、その姿に究極する。その数かぎりない功徳のひとつひとつが、その姿のかりそめの現われにほかならないのである。

それなのに、龍樹・提婆の師弟より以後、印度・中国・日本においてたまたま仏教をまなぶ人々があっても、まだ龍樹・提婆のように語った者はない。おおくの経師(きょうじ)・論師などが仏祖のことばを解しそこねたのである。宋国においても、むかしからこの物語をえがこうとして、身にえがき、心にえがき、空にえがき、壁にえがくこと能わずして、ただむやみに筆のさきによってえがき、かの法座のうえに鏡のような一つの輪をえがいて、それが龍樹の現じた円月相であるとした。それ以來すでに数百年の歳月を経て、ずっと人の眼をごまかしつづけけているのに、誰一人としてそれを誤りがと指摘する者もない。万事がそのように間違っているのだから、かなしいことである。もしも龍樹の現じた円月の相が、一つの輪相であったと心得るならば、それこそ本当に画餅一枚というべきもの。人を愚弄するにも程があろうというものである。

悲しいかな、大宋国の在家も出家も、誰一人として龍樹のことばを解せず、提婆のことばに通ずる者もなかった。ましてやかの尊者の姿を身をもって迫るものはなかった。円月はくらく、満月は欠けていたのである。それも古(いにしえ)をまなぶことをおろそかにし、古をしたう心のいたらぬがためである。先人も後輩も、せっかく真の仏の姿に遇うて、画餅を味わうの愚をおかしてはなるまい。

識るがよい。かの円月の相を現じたるをえがかんとならば、その法座にその姿が現われねばならない。眉を揚(あ)げ目をまたたく端正な姿がそこになくてはならない。正法眼蔵そのものの姿が、そこに高々(こうこう)として坐しているのでなくてはならぬ。あるいは、にっこりと微笑する顔がそこになくてはならない。けだし、その時こそ、仏が成り祖が成るの時だからである。その画がそのまま月の姿でなかったならば、それはいまだ到らず、説法もせず、声色(しょうしき)もなく、なんの用をもなさぬのである。もしその姿をえがこうとならば、円月相をえがくがよい。円月相をえがけば、円月の姿がえがかれるであろう。その姿が円月相であるから、円月相をえがけば満月の相がえがかれ、満月の姿が現ずるであろう。しかるに、その姿をあががず、円月をえがかず、満月の相をえがかず、したがって、諸仏の実体を表わすことをえず、説法もせず、ただいたずらに画餅一枚をえがく。それがなんの用をなそう。いそぎ見たからとて、誰も飢えを充たすことはできまい。なるほど月は円い。円きは仏の姿である。その円きをまなぶに一枚の銭のように思ってはならぬ。一枚の餅に似ているとしてはならぬ。その姿は円月の姿である。「その形満月のごとし」である。一枚の銭、一枚の餅は、その円きをまなぶがよいのである。(344~351頁)

〈注解〉那伽閼刺樹那;ナーガルジュナの音写。龍樹等と訳す。紀元二~三世紀の人。はじめ婆羅門の学をまなび、のち仏教に帰して、大乗仏教を唱導した。おびただしい著作があり、後世の仏教者によって八宗の祖師と称せられる。

     無相三昧;三昧の境地に入って、空三昧を成就すれば、空なるがゆえに一切の差別なきを観ずる。その境地を無相三昧という。

     天然外道;また自然(じねん)外道、もしくは自然見(じねんけん)外道という。

■おそらくは、それは描くことのできないものであろう。法はすべて描かないがよく、描くならば簡明に描くがよい。だから、円月相を身に現じた姿などは、古来から描いたものはないのである。およそ仏性とは、いまの心のはたらきであろうと思う考えが脱けないから、有(う)仏性というも、無仏性というも、いずれも理解する手がかりがないのであろう。また、それをどう表現してみようぞとまなぶものも稀である。その怠りが仏道の衰えであると知るがよい。諸方の堂頭のなかには、一生に一度もまったく仏性ということばを口にしたことのない者すらもある。ある者はいう、「教えを聴こうとする者は仏性を談ずる。参禅の雲水たちは口にすべきではない」と。そんな輩はまことに畜生である。なんという悪魔の徒党が、わが仏・如来の道にまじって、これを汚そうとするのであるか。そんな聴教(ちょうきょう)というものが仏教にあろうか。そんな参禅というものが仏教にあろうぞ。そんな聴教そんな参禅は、いまだかつて仏道にはないとしるがよいのである。(345頁)

〈注解〉堂頭;「どうちょう」と読む。禅林にて、一寺の頭すなわち住持をいう。(356頁)

■大潙山の大円和尚は、ある時、衆に示していった。

「一切衆生無仏性」

それを聞く人々のなかには、聞いてよろこぶすぐれた機根の人もあろう、また驚いてわが耳を疑うものもあろう。釈尊の説いたことばは「一切衆生悉有仏性」である。大潙の語るところは「一切衆生無仏性」である。有と無のことばの道理ははるかにことなる。そのことばの当否を疑うのも尤(もっと)もなことである。だが、「一切衆生無仏性」の表現こそもっとも勝れている。

斉安(さいあん)国師の「有仏性」の句は、古仏のそれとともに双手(もろて)をなしているようであるが、それはいわば、一本の杖を二人で舁(かつ)いでいるようなもの。いまの大潙はそうではない。一本の杖が二人を呑んでいるともいえよう。さらにいえば、斉安国師は馬祖の直弟子、大潙は馬祖の孫弟子である。いま大潙のいう趣は、一切衆生無仏性をもって理のきわまるところとなす。それは、けっして、いい加減にして桁をはずれたことばではない。仏教のなかの経典もそのように受けとっているのである。(361頁)

■つぎに大潙にむかっていいたい。たとい一切衆生無仏性とはいい得ても、なお一切仏性無衆生とはいい得まい。また一切仏性無仏性とはいうまい。ましてや、一切諸仏無仏性とは夢にもいまだ見ざるところであろう。試みにいってみるならば拝見したいものである。(362頁)

〈注解〉鳥道;鳥の道である。鳥はその道をゆくけれども、そこには跡があるわけではない。有りと無しにかかわらないのである。いまそれをもって衆生と仏性の関係にたとえるのである。

大潙山大円禅師;潙山霊祐(853寂、寿83)であり、諡(おくりな)して大円禅師という。(363頁)

■そこで南泉が、「誰ぞ長老の所見ではあるまいなあ」といった。それは、これを自分の所見とはよもやいうまいなあ、というほどのことばである。そなたの所見かときかれても、それを自分のですと頷(うなず)いてはならない。自分の考え方にぴったりだからとて、それは黄檗のものではない。黄檗の所見はかならずしも自己の所見ではない。長老たちの見るところはどこまでdも露(あら)わなるものだからである。

そこで黄檗は「不敢(ふかん)」つまり「いえ、けっして」といった。このことばは、宋土においt、おのが能(のう)について問われたとき、できることをできるという場合でも「不敢(ふかん)」というのである。だから「敢えてせず」ということばは、かならずしも敢えてしないのではない。そのことばのままとはかぎらないのである。長老の所見は、たとい長老であっても、たとい黄檗であっても、それをいうには「不敢」であろう。一頭の水牛がでで来て「もう、もう」というの類である。そういうのが物のいい方というもの、その物いう意味は、ひとつみずから試みにいうてみるがよろしい。

■趙州(じょうしゅう)真際(ざい)大師に、ひとりの僧が問うていった。

「狗子もまた仏性があるでしょうか」

その問いのこころを、まず明らかにしなければならぬ。狗子とは犬である。その犬に仏性があるかと問うのでもなく、ないかと問うのでもない。大丈夫たるものもまた学道すべきやと問うたのである。あやまってすごい老師に遇うた。その恨みはふかいけれだも、三十年ものかた、やっと半箇の聖人たることをえたという故事もある。その風流をまなぶのである。

趙州はいった。

「無」

そのことばがあって、はじめてまなぶべき方途が見えるのである。仏性そのものからいっても無である。狗子のほうからいっても無である。あるいは第三者がそばから見てもやはり同じく無である。その無にいたって、はじめて石をも融かす時がくるのである。そこでかの僧はいった。

「一切の衆生はみな仏性ありという。なんとしてか狗子にはないのでありましょうか」

そのいう意味は、もし一切衆生が無であるならば、仏性も無であろう。狗子もまた無であろうという。その意味はいったいどういうことかと問うのである。狗子の仏性のことなど、あらためて無といわなくても判っているではないかとするのである。そこで趙州がいった。

「人間には業識(ごっしき)があるからなあ」

そのことばの意味は、人間がもっているのは業識であるということ。業識があるから、人間には有りというが、狗子にはそれが無いから仏性無しという。業識ではなお狗子を理解しえないから、どうしても狗子に仏性ありといえないのである。たとい有るといおうと無いといおうと、どっちにしても、ここは業識の問題である。

また、ひとりの僧が趙州に問うていった。

「狗子もまた仏性有りや無しや」

この問答は、すでにこの僧が趙州のこころを知っていたのであろう。いったい、仏性を語り、仏性を問うというのは、仏祖の日常茶飯のことである。趙州は答えていった。

「有(う)」

その有のありようは、教家の論師などがいう有でもなく、有部にいうところの有でもない。そこはさらに一歩をすすめて仏のいう有をまなばねばならぬ。仏のいう有が趙州のいう有である。趙州の有は狗子の有であり、狗子の有は仏性の有である。

その時かの僧はいった。

「すでに有ならば、なんとしてかまたこの皮岱に入り来るのでありましょうか」

この僧のことばは、いま有るのか、むかしから有るのか、あるいはすでに有るのかと問うているのである。すでに有といえば、そえはこの世のもろもろの存在に似ているけれども、仏性のありようは玲瓏(れいろう)としてひとり明らかである。それがすでに有るというのは、いったい、外からはいってくるのか、そうでもないのか。いま「なんとしてかこの皮岱に入り来るのか」という問いは、いい加減に考えて間違えてはならない。

そこで趙州がいった。

「それは彼らが知っていて、ことさらに犯すがためである」

この語句は世俗のことばとして、ながく巷間に流布しているが、ここでは趙州のことばである。そのこころは、知りながらもことさらに犯すということであるが、いまこのことばに疑いを抱かぬものはすくなくないであろう。ことに「入り来る」という入るの一字が判りにくいが、その入るの一字もかならずしも適切ではない。いわんや、「庵中不死の人を識(し)らんと欲せば、豈(あに)ただ今のこの皮岱を離れんや」である。その不死の人が誰であろうと、いずれの時にか皮岱を離れないものがあろうか。とすると、「ことさらに犯す」というのは必ずしも「皮岱に入る」ことではなく、「皮岱に入る」とは必ずしも「知りてことさらに犯す」ことでもない。そこはどうしても、「知りて」のゆえに「ことさらに犯す」のでなくてはならない。

だから、この「ことさらに犯す」とは、つまり、なにか繋縛(けばく)を脱する過程が包み蔵(かく)されているのである。それをまた突然「入ってくる」などと説くのである。その脱する過程は、その時には、自分にも判らないし、人にも判らない。では、まだまだ完全には脱(ぬ)け切っていないのだといってはいけない。それは驢(ろ)がさきか馬があとかと論ずる輩のいうこと。ましてや雲居(うんご)高祖もいっておるではないか、「仏法のかたほとりの事をまなんでくると、たちまちあれこれと詰らぬことが気になってくるものだ」と。まさにその通りであって、いささか仏法の周辺をまなぶと、その過ちが日とともに深く、月とともに深まってくる。狗子の仏性の有無などということが気になってくるのもそれである。だが、知りて犯すのもまた仏性があるからである。(376~379頁)

〈注解〉業識(ごっしき);善悪の業によって招いた果報というほどの意味。

教家の論師;教家は禅家に対する語。仏教をまなぶに、経を説くところを分別して、文字言語によっていたろうとする学者たちというほどの意。

     有部;部派仏教の一つ。“サーヴァスチヴァーダ”を音写して薩婆多(さつばた)といい、意訳して説一切有部という。それを略して有部というのである。三世実有の説を主張するのがその特色である。(380頁)

(2015年7月12日)

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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