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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『正法眼蔵の世界』 田中忠雄著作集⑴ 浪曼

投稿日:2020-12-04 更新日:

『正法眼蔵の世界』 田中忠雄著作集⑴ 浪曼

■世には、玄妙2つながら忘じきたり、慮知念覚ををなげうちきたるところに、いみじき霊力の発現を期するものがある。かような学風に対して、道元は「仏祖の挙拈(ねん)する妙は知見解会なり」と喝破した。知見解会は仏家のの調度である。これをいとい棄てんとすれば、これに取り縋る知見解会の徒と同じく、仏の御いのちを損うのである。いわゆる論理は、かくのごとき慮知念覚の知であり、知見解会である。それは即(つ)くべからず、離るべからざるものである。即すれば忽(たちま)ち経師・論師となり、離るれば忽ち棒喝の徒となる。さればと言って、殊更に不即不離すれば、驢前馬後の低迷漢となる。進歩や錯、退歩や錯。この故に、学道は必ず故実に則って、不惜身命・但惜身命底を行ずるのみである。ここから不覚不知底の覚知、不思量底の思量、山の廻途参学は現成する。『眼蔵』の論理は、まさしくかくのごとき覚知と思量と参学とをめぐらして条理を尽すものである。いわく――

「禿子(とくし)がいう無理会話、なんぢのみ無理会なり。仏祖はしかあらず。なんぢに理会せられざればとて、仏祖の理会路(りえろ)を参学せざるべからず。たとひ畢竟じて無理会なるべくば、なんぢがいまいふ理会もあたるべからず」(196頁)

■南泉が30年にわたって研ぎすました鎌をさしつけて、道の骨髄を説く大事のときに、僧はなおも道は道はと問いつづける。「現成公案」の巻にいわゆる「人はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離卻(りきゃく)せり」とはこの有様であろうか。これが畢竟して無理会話ならば、汝が理会と思えるものは、そもそもいかなるものであるか。『那一宝』には「嗟(ああ)夫れ無理会擬議不得なるを以て禅語とせば、彼の輿台(かごかき)馬方の輩隠語ありて顧直(あたひ)の数を呼ぶ、古路里才難番堂の如き是れも亦無理会なり」とある。世の論師達のいわゆる直覚や無分別の分別などは、ほとんど例外なく、この馬方の隠語のように不可解な神秘である。知れば何ものでもない20文、30文であるが、さてその20文、30文は何ぞというに、一向に理会するところがない。隠語を20文と解いて理会せりと思うているが、その理会もあたるべからずで、この20文は、古来の脳漿をしぼって、なおかついまだに理会せざるほどの大問題である。これを理会せんとならば、汝のほしいままに立てし無理会の断見を捨てて正師に逢い、仏祖の理会路を学すべきである。――かくして、理会を道(い)うに学道の故実を以てする道元の宗風は、明らかになった。

「しかのごときのたぐい、宋朝の諸方におほし。まのあたり見聞せしところなり。あはれんべし、かれら念慮の語句なることをしらず、語句の念慮を透脱することをしらず。在宋のとき、かれらをわらふに、かれら所陳なし、無語なりしのみなり。かれらがいまの無理会の邪計(じゃけ)なるのみなり。たれかなんぢにをしふる。天真の師範なしといへども、自然(じねん)の外道児なり」

道元在宋の頃には、かような不立文字の学風が一世を風靡していた。大宋国に人なきを歎じて帰朝を決意したのも、これによるのであろう。(197頁)

■道元が天童如浄に親しく道を問うた記録『宝慶記(ほうきょうき)』にこの問題が出ている。無理会の学風は一方において断見外道であり、同時に自然の外道見すなわち天然外道である。断見外道と天然外道とは、その来所は畢竟1つであって、ともに学道の故実を紊(みだ)るものである。そういうことを如浄が諄々と説き、その要点を道元が書きとめておいたのである。

「道元拝問す、今諸方古今の長老等の云く、聞て聞かず見て見ず、直下(じきげ)一点の計較(けこう)無き、乃ち仏祖の道なりと。是を以て堅挙堅払、放喝行棒、学者をして一も卜度(ぼくたく)すること無からしめ、遂に則ち仏化の始終を問はしめ、二生の感果を期すること無からしむ。これ等是の如き等の類、仏祖の道たるべしや。和尚示して云く、若し二生無くば、実に是れ断見外道なり。仏仏祖祖、人の為めに教え設くるに、都(すべ)て外道の言説なし。若し二生無くば、乃ち今生あるべからず。此の世既に存す、何ぞ二生無からん。我が儻久しく是れ仏子なり、何ぞ外道に等しからん。又学人をして直下第二点無からしむが如きは、仏祖一方の善功方便なり、学人の為めに而も所得無きには非ず。若し所得無しと為さば、善知識に参問すべからず、諸仏も出世せざるなり。唯直下見聞して便ち了全ことを要す。更に信及無く、更に修証無くば、北州豈に仏果を得ざらんや、北州豈に見聞覚知無からんや」

この慈誨によって、道元の平素の信念はいよいよ決定(けつじょう)したのであろう。「学人の為めに所得無し」とは、明らかに無理会のことである。この見解を許せば、今生だけの断見となり、やがて一切の道徳を撥無(はつむ)する断見外道に堕ちるのみでなく、正師に参聞して修証するの要をも撥無(はつむ)する天然外道となる。北州は須弥山を囲繞する島の1つ、ここは仏の教化も及ばぬ処というが、もし正師のもとに修証することなくして仏化を得ると言わば、北州にも仏化普ねしと言わぬばならぬ。北州にも慮知念覚はあり、見聞覚知はあるから、聞いて聞かず見て見ず直下に一点の計較無きこともありうる。かような断見と自然見の所有者は、すみやかに祖道の故実を去って、北州国に帰化するがよかろう。(198~199頁)

■「山水経」の経たるゆえんは、無情説法の義にあり、「谿声便ち是れ広長舌……夜来8万4千の偈」のこころであった。山水の広長舌は直ちに経典であった。しかも、このことは、人々を誘うて典籍を離却せしめることではない。「山水経」の経が、いささかでもこの思いを誘発するならば、すでに天然外道の兆しそめた証拠である。典籍を離れることは、正師なく修証なきことと全く同じように、学道の故実を紊る天然外道である。山水を学んで道を得るのは、典籍を世界に味到するのである。「仏教」の巻に「桃華をみて悟道し竹響をききて悟道する。および見明星悟道、みなこれ経巻の知識を生長(しょうちょう)せしむるなり」とあるのは、蓋(けだ)しこの意味である。典籍に即(つ)いて徒らに文字を教える経師・論師には「而今の山水」を挙似せねばならぬ。しかも、典籍を離れてみだりに挙頭を立て払子(ほっす)あげる不立文字の徒には、或従経巻の道を示さねばならぬ。典籍に対して不即不離なる低迷漢には、山水のまさしく経巻なるゆえんを説かねばならぬ。これが道元の「山水経」である。

みだりに拳頭を立てる粗暴の学人は、典籍の外にいみじき特地を求める。そして、かような学人の腹底にも、かの無理会の見解が巣つくっているのである。故に、典籍無用の論者を斥破する「仏経」の巻の言葉を揚げて、「山水経」の参学に対する用心とする。

「しかあるに、大宋国の一二百余年の前後にあらゆる杜撰の臭皮岱(臭き革袋、人間の意ー著者)いはく、祖師の言句、なほこころにおくべからず。いはんや経教は、ながくみるべからず、もちいるべからず。ただ身心をして枯木・死灰のごとくなるべし……。かくのごとくのともがら、いたづらに外道天魔の流類(るるい)となれり。もちいるべからざるをもとめてもちいる、これによりて、仏祖の法むなしく狂癲の法となれり。あはれむべし、かなしむべし。……仏経を仏法にあらずといふは、仏祖の経をもちいし時節をうかがはず、仏祖の従経出の時節を参学せず、仏祖と仏教との親疎の量をしらざるなり。かくのごとくの杜撰のやから、稲麻竹葦(とうまちくい)のごとし。獅子の座にのぼり、人天の師として、天下に叢林をなせり」

無理会の学人は、典籍及び祖師の言句を去って、山水を師とするものである。もしかくのごとくならば、、儒教や道教との別も失われ、仏祖道は他教に習合して、ついに断絶するに至るであろう。道元は仏・儒・道三教一致の説を最も激しく斥けた。(200~201頁)

■「また水の紅海をなしつるところなれば、世界あるべからず、仏土あるべからずと学すべからず。一滴のなかにも無量の仏国土現成なり」

水を世界の一隅に擬するとき、その世界とはあらかじめ横たわれるものである。このとき、水の紅海をなすのは、既成の世界に既成の紅海一枚を添加するのみである。ともに、わが生命とはかかわりなき点景に過ぎぬ。水に世界あるべからず、仏土あるべからずという思いは、ここから生ずるのである。世界なく国土なき水は、わが生命とはなんらの繋りもない。そういう水の集積たる紅海は、いくら如実にえがいても歌うても、まことの作品とはならぬし、かような辺際にある一切の芸術的な努力は、われとわが生命を刻々に消磨するだけである。道元の道は、一茎の草にも一掬の水にも、世界すなわち仏国土の現成を学するにある。「一滴のなかにも無量の仏国土現成なり」というのは、人をしておのずからその生命の根源に立ち還らしめる言葉である。「坐禅儀」の巻に「容身の地を護持すべし」とあるのは、坐禅の作法であるが、その作法は、尺寸の地にも世界すなわち仏国土ありというところから来ている。

一滴のなかにも無量の世界は現成する。再び「現成公案」の一節を想起すれば、「水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸の水にやどり、全月も弥天も、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる」。しかしながら、そのおのおのにやどる月は、相互に罣礙せず、また天月と弥天と罣礙することもない。天月も弥天もその全身を惜しみなく露滴にやどすけれども、それによって天月弥天ともに濡れることなく、露滴もまた破れることがない。これが露滴に世界の現成する風光である。

「しかあれば、仏土のなかにみずあるにあらず、水裏に仏土あるにあらず。水の所在、すでに三際にかゝはれず、法界にかゝはれず。しかもかくのごとくなりといへども、水現成の公按なり。仏祖のいたるところには、水かならずいたる。水のいたるところ、仏祖かならず現成するなり。これによりて、仏祖かならず水を拈じて身心とし、思量とせり。しかあればすなはち、水はかみにのぼらずといふは、内外(ないげ)の天籍(てんじゃく)にあらず。水之道(すいしどう)は、上下縦横に通達するなり」(233~234頁)

正法眼蔵山水経

■雲門匡真大師いはく、東山水上行。

この道原成の宗旨は、諸山は東山なり、一切の東山は水上行なり。このゆへに、九山迷廬(くせんめいろ)等現成せり、修証せり。これを東山といふ

しかあれども、雲門いかでか東山の皮肉骨髄・修証活計に透脱ならむ。いま現在大宋国に杜撰のやから一類あり、いまは群をなせり。小実の撃不能(ぎゃくふのう)なるところなり。かれらいはく、いまの東山水上行話、および南泉の鎌子話(けんすわ)ごときは、無理会話(むりえわ)なり。その意旨は、もろもろの念慮にかゝはれる語話は仏祖の禅話にあらず、無理会話(むりえわ)これ仏祖の語話なり。かるがゆへに、黄檗の行棒および臨済の挙喝、これら理会およびがたく、念慮にかゝはれず、これを朕兆未萌以前の大悟とするなり。先徳の方便、おほく葛藤断句をもちいるといふは、無理会(むりえ)なり。

かくのごとくいふやから、かつていまだ正師をみず、参学眼なし。いふにたらざる小ガイ(豈に犬)子(しょうがいす)なり。宋土ちかく二三百年よりこのかた、かくのごとくの魔子・六群・禿子おほし。あはれんべし、仏祖の大道の廃するなり。これらが所解、なほ小乗声聞におよばず、外道よりもおろかなり。俗にあらず僧にあらず、人にあらず天にあらず、学仏道の畜生よりもあろかなり。禿子がいふ無理会(むりえ)、なんぢのみ無理会なり、仏祖はしかあらず。なんぢに理会せられざればとて、仏祖の理会路を参学せざるべからず。たとひ畢竟じて無理会なるべくば、なんぢがいまいふ理会もあたるべからず。しかのごときのたぐひ、宋朝の諸方におほし。まのあたり見聞せしところなり。あはれんべし、かれら念慮の語句なることをしらず、語句の念慮を透脱することをしらず。在宋のとき、かれらをわらふに、かれら所陳なし、無語なりしのみなり。かれらがいまの無理会(むりえ)の邪計(じゃけ)なるのみなり。たれかなんぢにおしふる。天真の師範無しといへども、自然(じねん)の外道なり。(268~269頁)

■下地為江河(げちいこうが)。しるべし、水の下地するとき、江河をなすなり。江河の精、よく賢人となる。いま凡愚庸流(ようる)のおもはくは、水はかならず江河海川にあるとおもへり。しかにはあらず、水のなかに江海をなせり。しかあれば、紅海ならぬところにも水はあり。水の下地するとき、江海の功をなすのみなり。また水の江海をなしつるところなれば、世界あるべからず、仏土あるべからずと学すべからず。一滴のなかにも無量の仏国土現成なり。しかあれば、仏土のなかに水あるにあらず、水裏に仏土あるにあらず。水の所在、すでに三際にかゝはれず。法界にかゝはれず。しかもかくのごとくなりといへども、水現成(すいげんじょう)の公按なり。仏祖のいたるところには、水かならずいたる。水のいたるところ、仏祖かならず現成するなり。これによりて、仏祖かならず水を拈じて身心とし、思量とせり。しかあればすなはち、水はかみにのぼらずといふは、内外(ないげ)の典籍(てんじゃく)にあらず。水之道(すいしどう)は、上下縦横に通達するなり。(271頁)

(2014年3月30日)

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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