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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『文読む月日』(中)トルストイより

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■すべての他者のなかに、生きとし生けるもののなかに自分自身を認め、自己の生命を通じて生きとし生けるものと合流する者は、死に際して自己の存在のほんの一部をうしなうだけである。(ショーペンハウエル)(44㌻)

■人間は僕(しもべ)でなくてはならない。ただ誰の僕となるかの選択が問題である。もし自分の欲望の僕であれば、必ず人の僕となるし、もし自分の霊的本源の僕であれば、ただ神の僕となるにすぎない。

誰にしても、より高貴な主人に仕えるほうがいいではないか。(45㌻)

■われわれの生活のあらゆる外面的変化は、われわれの思想に生ずる変化に比べれば、取るにも足りない。(70㌻)

■人間の運命を決定するものは、彼が自分自身をどんなふうに理解しているかということである。(ソロー)(71㌻)

■でたらめな思想は、われわれが一緒に住もうと呼んだでたらめな男が、われわれの家に対してするようなことと同じことを、われわれの心に対してするものである。(リュシー・マローリ)(72㌻)

■青年は、幼年時代の子供じみた夢想を棄て、壮年は、青年時代の無知と粗暴な血気を棄て、老人は壮年の我欲を棄てて、ますます全世界的精神を身につける。つまり彼は、より高くより強固な人生の基盤に立つことになる。外的関係ないし条件は徐々に滅び去り、ますます神に没入し、神もまた、彼のなかに入り込み、ついには我欲の最後の着物が脱げ落ちて神と一体になり、己の意思を神の意思に合流せしめて、神の偉大な御業(みわざ)に参画することになるのである。(エマスン)(74㌻)

■家族的エゴイズムは個人的エゴイズムよりずっと強烈である。自分一個のために他人の幸福を犠牲にすることを恥じる人も、家族のためには人々の不幸や困窮をも利用しなければならないと考えるものである。

自分の悪しき行為を弁解するために、最もよく持ちだされる間違った口実はー家族の幸福のため、という口実である。

吝嗇、収賄、労働者の弾圧、不正な商売―これらはみんな家族に対する愛情の名において弁解されるのである。(158㌻)

■ある者告げて、「汝の母と兄弟、汝に会わんとて外に立てリ」と。イエスこれに答えて、「神の御言葉を聴きかつ行なう者、これわが母、わが兄弟なり」。(「ルカ伝」第十章三七節)(159㌻)

■われわれよりも父もしくは母を愛する者は、われにふさわしからず。われよりも息子もしくは娘を愛する者は、われにふさわしからず。(「マタイ伝」第十章三七節)(159㌻)

■われわれが己れの“我”を感ずるあいだは、われわれは限られた存在であり、自愛的な囚われた存在である。それに反して世界の生命と融合して神の声に応えるとき、われわれの“我”は消滅する。(アミエル)(193㌻)

■もしわれわれがほんの一瞬でも己れの小さな“我”を離れ、悪を想わず、光を反映する澄明な鏡となるならばーわれわれの映しえない何があろうか!万有はたちまち輝かしい光となってわれわれの周囲に展開するであろう。(ソロー)(194㌻)

■人間は、幸福であるためには二つの信仰が必要である。一つは人生の意味の説明があるはずだという信仰であり、もう一つは、その最もよき人生の説明を発見することである。(226㌻)

■神は各人に、真実と泰平無事の二者択一を命じている。どちらか一つを択べ、両方ともというわけにはゆかない、というわけである。人間は両者のあいだを振り子のように揺れ動いている。より多く泰平無事を願う人々は、自分が最初に出会った信仰や哲学や政治綱領を受け入れ、ことに多くの場合、自分の父が信じていたものを受け入れる。その結果彼は、泰平無事な境遇と、便利な生活と世間の尊敬とを得るけれども、その代わり真理に対して扉を閉じることになる。(エマスン)(237㌻)

■…されどわが心のままにはあらで、御旨(みむね)のままになれかし。(「ルカ伝」第二十二章四二節)

…されどわが望みのままにあらで御旨のままに。(「マルコ伝」第十四章三六節)

…されどわが意のままにとはあらず、御旨のままに。(「マタイ伝」第二十六章三九節)

■われわれの生命の中心は、われわれが思索し、感じ、意思するかぎりにおける、その思想や感情や意思のなかにも、それらのいしきのなかにさえも、ない。なぜなら道徳的真理は、そうしたいろんなものによっていったん獲得されるけれど、それでもすぐにまたわれわれから逃げてゆくからである。われわれの意識よりもっと奥深くに、われわれの本質はある。われわれの本質こそ、われわれの真の根源である。その根源的領域に、まさにわれわれ自体となって、ふと思いがけなく、無意識的・本能的に入り込んでくる真理、そうした真理のみが、実質的なわれわれの生命、換言すれば、真の私である。われわれが真理とわれわれのあいだになんらかの距離を認めるかぎり、われわれは真理の外にあるのである。思想、感情、意思、生命の意識―それらはまだ生命自体ではない。本質的にはわれわれは、ただ生命のなかにのみ、永遠の生命のなかにのみ、平和と安静を発見することができる。(アミエル)(263㌻)

■言わねばよかったと後悔することが千遍あるのに対して、言えばよかったと後悔することは一度あるかないかである。(267㌻)

■真に有益なもの、真に善きもの、したがって偉大なものは、常に単純である。(272㌻)

■生活がそれと一致していないならば、信仰も信仰とは言えない。(297㌻)

■天の扉は君のために、ちょうど君に必要なだけ開かれている。さまざまの煩労(はんろう)や心の動揺を離れて、君の霊を精神的なものへ向けるがよい。君の行動を律するものは君自身であるべきで、決して身辺に生ずるできごとであってはならない。また君の行為の目的が報酬であってはいけない。常に注意深く身を処し、己の義務を果たし、物事が君にとって快い結果になろうと、不快な結果になろうと、どうでもいい、といった気持ちで、いっさい結果のことを考えぬようにするがよい。(インドのバガワータ)(298㌻)

■富は厩肥(うまやごえ)と同じように、一箇所に積んであると悪臭を放つが、撒布されると土地を肥やす。(328㌻)

■一見恥知らずや、ほら吹きや、狡猾漢や不当な誹謗を事とするものや、厚顔不遜なものや、やくざ者の暮らしは楽で、絶えず清浄な生活を目指して精進し、常に温和で、思慮深くて、無欲な者の暮らしは苦しいように見える。しかし、それはただそう見えるだけである。前者は常に不安動揺のなかにあり、後者は常に平安である。(仏陀の金言)(336㌻)

■多くの人々は、もし自分の人生から個我とそれへの愛とを除いたら、何一つ残らないと思っている。彼らは、個我がなければ生命もないと思っているのだ。しかしそれは、自己棄却の喜びを味わったことのない人々だけに、そう思われるのである。個我の生活を離れ、それを棄却しさえすれば、君はよりよき生の幸福を―愛を知るであろう。(340㌻)

■真の生活は、自己棄却が始まったときやっと始まるのである。(カーライル)(340㌻)

■われわれが自己棄却と呼んでいるものは、己の動物的我から精神的な“われ”へと意識を移す結果にすぎない。この意識の移動が行われさえすれば、それまでは棄却と思われていたものが、別に棄却というほどのものではなく、ただ不要なものからの当然の離脱にすぎない、と見えるようになる。(341㌻)

■一人で力んでみても、誰も驚かない。(諺)(352㌻)

■われわれが、動いている船のなかで船のなかのものを見る場合、われわれには自分たちが動いていることがわからない。しかし、われわれが船の外の、自分たちと一緒に動いていないもの、たとえば海岸などを見れば、われわれわすぐに自分たちが動いていることがわかる。人生においても同じである。みんなが正しい生活をしていないと、誰もそのことに気づかないけれど、ただの一人でもはっと目が覚めて神の掟に従って暮らしはじめたら、たちまちほかの人々がいかに邪悪な生活をしているかがはっきりし、そのため彼らはその人を迫害するのである。(パスカル)(378㌻)

■宗教は、聖人がそれを説いたから真理なのではなく、それが真理だから聖人が説いたのである。(レッシング)(392㌻)

■本当の善とは神への奉仕である。そして奉仕は、光が燃料の消費を伴うように、常に己の動物的生命の消費を伴うものである。(398㌻)

■本当に大事な仕事をしている人々の生活は、いつも単純である。なぜなら彼らにはよけいなことを考える暇がないからである。(399㌻)

■さまざまな欲望でわが身を囲めばかこむほど、君はますます奴隷状態に陥るようになる。なぜなら、君の欲望が大きくなればなるほど、君の自由は減少するからである。完全な自由は、何一つ欲しがらないことのなかにあるが、次善の自由は少ししか欲しないことである。(金口ヨハネ)(400㌻)

■羊は羊同士で暮らすほうが、狼の世話になるより幸福だ。(ジェファーソン)(455㌻)

■より善き人になること以外は何も望まない人々にとっては、どんな学問もやさしい。なぜならば、彼らはどんな学問の分野においても、万人に必要なものだけしか知ろうとしないからである。(ソクラテス)(423㌻)

■世界創造の目的は人間の知りうることではなく、人間は己れを律するに外面的目的をもってせず、わが心の内なる神の御旨の指示に従わなければならない。

あたかも航海士が、その船の正しい進路を選ぶために沿岸の光景を指標にしうるのは、その光景が肉眼で見えるとき、たとえば河を通るようなときだけであって、大洋を航行する場合は、羅針盤に頼らなければならないように、キリスト教徒としても、日常の茶飯事においては外面的目的に従って行動していいけれども、普遍妥当的な人生の意義の探究の場合は、真理の道を逸脱するや否や、さらには逸脱しそうになるや否や、いつもはっきり聞こえるように警告する良心の声に従わなければならない。(フョードル・ストラーホフ)(474㌻)

■われわれの内に奥深く存在するものは、みんな神の反映にほかならない。(マルチノ)(499㌻)

■諸行無常の理(ことわり)を悟ったとき、汝は初めて常住不変のものを発見するであろう。(仏陀の言葉)(507㌻)

■狭き門より入れ。けだし滅びに至る門は広く、その道は幅広くして、これより入る者多し。げに命に至る門は狭く、その道は狭くして、これを見出す者少なし。(「マタイ伝」第七章一三、一四節)(512㌻)

■絶えずそれに心がけている人だけが、善き生活を送ることができる。(513㌻)

■人は善意に基づいて行為しなければならないということを理解するためには、特別深い思想など必要ではない。私は全世界のことを知るわけにはゆかず、そこで行われるすべての出来事を理解しこれを説明する能力もないけれど、ただ一つ自分自身に向かって、私の行為の格率が万人にとって普遍妥当な法則たりうるかどうかを問うてみる。もしそうでないならば、私の行為の格率は不正なもの、それもその格率から私や他の人々に害悪が生ずるかもしれないからというのではなく、それが万人に妥当する根本的法則たりえないゆえに、不正ななのである。ところが理性は私に向かって、端的にそのような法則を尊重するよう求める。私はまだその尊重が何に基づいているかを理解できないけれど、自分がその法則のなかに、その価値において私の傾向性が私に教唆するいっさいをはるかに超えた何ものかを尊重しているのだということや、ただそのような道徳律への尊重から生ずる行為のみが、その他のいっさいの格率に沈黙を命ずる人間としての義務であることは理解できるのである。(カント)(542㌻)

■人々には必要とされるけれど、自分は人々を必要としない者は幸福である。(596㌻)

■罪深い人間は人生において常に他の人々と結びついているけれども、彼が罪深ければ深いほど、心中孤独を感ずるものである。それに反して善良で聡明な人間は、人々のあいだにあってしばしば孤独を感ずるものであるが、その代わり、孤独裏にあっても絶えざる人類との合一を意識するものである。(596㌻)

『文読む月日』(中)トルストイより2006年12月19日

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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