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『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

『終着駅』J・パリーニ著 新潮文庫

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『終着駅』J・パリーニ著 新潮文庫

■それにしても、私はソフィヤ・アンドレーエヴィナが気の毒だと思う。彼女は悪い女というわけではない。ただ、夫の達成したものが理解できないのだ。彼女の魂は、人類の改善を目指す彼の夢を呑みこむほど広くない。もっともその夢を理解するには、たいした努力が必要なわけではないのだが。貧しきものが土地を相続する。最初の者が最後になり、最後の者が最初になる、等々。レフ・ニコラーエヴィチが言うことは、すべて以前に誰かが言ったことだ。宗教と倫理の世界では、人は真実を発明するのではない。発見し、広く知らしめるのだ。(医師マコヴィーツキーの手記)(61頁)

■レフ・ニコラーエヴィチは落ちついてしゃべり、立ち聞きされるのも恐れていなかった。彼は、ツァーリの迫害に対して安全だと言い得る、数少ないロシア人の一人である。「モラルの原則に立たない革命によっては、ロシアの人民、その他いかなる人民にしろ、状況は改善されないよ。そのモラルの原理は、力を用いないことを前提としているのだからね」(医師マコヴィーツキーの手記)(70頁)

■「ジェイクスピアは立脚点がまったくわからない」とパパは言う。「彼は姿が見えない。読者に対して自分をはっきり見せるのが作家の義務だ。〈これはいいが、これはよくない〉と言うことがね」(三女サーシャの手記)(97頁)

■「『行ないによって人柄が知れる』だわ」と彼女が言った。(秘書ブルガーコフの手記)(143頁)

■「その男が言うには、レフ・ニコラーエヴィチは最後の象徴的な行動を取るべきだというんだ。財産を親類縁者と貧乏人に分配して、それから一文も持たずに家を出て、乞食になって町から町をさまようべきだとね」

マーシャは目を見張った。彼女は幻惑させようとして、手品師のようにぼくはレフ・ニコラーエヴィチの返事の写しを取りだした。

きみの手紙は深く私の心を動かしました。きみのすすめることこそ、私がつねに夢見ながら、実行するにいたらないことです。これには多くの理由が挙げられるでしょうが、そのどれも私の身を惜しむ理由にはなりません。また、私の行動が他人におよぼす影響についても、あれこれ心を悩ましてはならないのです。どちらのせよ、それはわれわれの力のおよぶところではないし、それによってわれわれの行動を決めるべきではありません。人は必要なときにのみ、そのような行動を取るべきです。なんらかの偽善的、あるいは外面的な理由からではなく、魂の要求に答えるためにのみ、そして、以前からの状態にとどまることが不可能になったときにのみ、行なうべきなのです。ちょうど、呼吸ができないときに咳をせずにいられないように。私はいまやそのような状態に近づきつつあります。しかも日に日に近くなるのです。

きみが勧告されたこと――社会的地位をなげうって、財産を私の死後に期待する権利を持つ人びとに分配すること――は、もう25年前にやりました。しかし、私が家族のなかで暮らしつづけていること、妻や娘とともに、周囲の貧困と対照的な、恐ろしく恥ずべき贅沢な環境で暮らしていることが、ますます苦痛になってきています。きみの勧告を考えずに1日も過ごすことはできません。

きみの手紙に感謝します。私のこの手紙は、ただ一人にしか見せません。きみもどうか誰にも見せないでください。(秘書ブルガーコフの手記)(146~147頁)

■「きっと夢を見ていたんだ。」

「わたしのこと?」

「いいや」

「じゃあ何のこと?」

「ぼくはいつも夢のことまで告白しなけりゃならないのかね? きみにとって結婚とはそういうものなのかい?」(妻ソフィヤ・アンドレーエヴナの手記)(167頁)

■「あなたのおかげで家じゅう大騒ぎですよ、レフ・ニコラーエヴィチ」

「ほんとうかい?」

「ターニャさんはあなたが死んだと思っておられます」

「そうなりゃいっそ幸運だがね」

私も同じ切り株に腰を下ろした。それは大きくて朽ちかけており、座り心地はよくなかった。

「なんだって私を探しにきたんだね?」

「みなが大騒ぎをしているので心配になったのです」

「お前さんは心配しすぎるよ、ドゥシャン。自分の命なんぞいっこう大事じゃない、というぐあいに生きなくちゃ」

「大事なのはあなたの命です」

「ばかばかしい。私は全然気にならないね。気になるのはこのすばらしい空気だ。嗅いでごらん、ドゥシャン」(医師マコヴィーツキーの手記)(207頁)

■「わたしが66だってことなど誰も気に欠けないみたいね。6の女にはこの屋敷の面倒は見切れませんよ。聞こえてるの?もうくたくた。自分の時間なんぞこれっぽっちもありゃしない!」彼女の泣きだしそうな声は聞き苦しいまでに高くなった。「わたしはもうやっていけない!それがわからないの?わたしの言いたいことを聞いてくれる人は誰かいないの?」

「誰がきみにやってくれと頼んでいるんだ?」戸口から聞こえた。パパだった。猛りたっている。両眼は火か木棒でつつかれた石炭のように燃えている。(三女サーシャの手記)(238頁)

■翌日、両親のあいだの溝を示すもう一つの出来事が起こった。去年、ママはうちの財産を守るために、アラメドという若いサーカシア出身の見張り番を雇った。(三女サーシャの手記)(239頁)

■階下のホールから寝室へ声が流れこんできた。夫がドゥシャン・マコヴィーツキーと話している。かすかに彼の言葉が聞き取れる。「異常者はいつも正常者より目的を達するのがうまい。彼らは自分を引き止める道徳観を持っていない。恥も、良心もないからな」(妻ソフィヤ・アンドレーエヴナの手記)(266頁)

■仲違いの原因とはつぎのようなものである。第1に、私はますます社交界から身を引く必要を感じているが、きみがその点で私に従うことはできるはずもないし、また従うこともないだろう。なぜなら、私ときみとは、まったく基本的な点で反対の信念を抱いているからだ。これは私には完全に当然と思われるから、きみに反対するいわれはない。その上、近年きみはますます苛立ち、専制的で扱いにくくさえなってきた。そのために、私のほうの感情を表すことを控え、そうした感情自体、断たざるを得なくなった。これが第2の点だ。第3の、いちばん大きく致命的な原因は、われわれ双方に罪のないことだが、人生の意味と目的に対する意見がまったく対立していることである。私にとって財産を持つことは罪悪だが、きみにとっては必要不可欠の条件だ。きみと別れないためには、私は自分にとって苦痛な状況を受け入れなければならなかった。ところが、きみはその受容をきみの意見に対する譲歩と受けとったため、われわれの誤解は深まる一方になった。(トルストイの手紙)(292~293頁)

■しかし私はきっと出ていく。むしろ、少しも心を動かさずにきみの苦しみを直視できていたら、この生活もつづけられたかもしれないが、私にはそんな能力はない。

愛する人よ、きみの周囲の人ばかりか、きみ自身を苛むのはやめなさい。きみは彼らの百倍も苦しむのだから。それだけだ。(トルストイの手紙)(294頁)

■「あなたのお姉さんは、ほんとに人のいいおばかさんね」ワルワーラは今朝、朝食を食べながら言った。「あの人は、誰にでも自分は頭がいいと思わせるのよ。だからみんなに好かれるのよ」(三女サーシャの手記)(333頁)

■「そうかもしれん。しかし彼女の愛は、日に日に憎悪に形を変えていく」彼はそこで切ってちょっと考えた。「わかるかい、あれは長年、子供たちのせいで自分の自己中心主義から救われていたんだ。子供たちに夢中だったからね。しかしそれが終わってしまったので、いまはあれを救うものがないんだよ」(三女サーシャの手記)(340頁)

■ソフィヤ・アンドレーエヴナが問題を起こすのは、いつも、表現の仕方なのだ。世間にはよくあることだが、彼女も自分の口調をコントロールできない。無数のせめぎあう感情が頭のなかで交錯して、ニュアンスをめちゃくちゃにしてしまう。だから、彼女の本心がどこにあるかは推量するほかないのだ。(秘書ブルガーコフの手記)(354頁)

■ソフィヤ・アンドレーエヴナに頼まれて、ぼくはこの感想の写しを渡した。すると、彼女はそれを居間のピアノの上に置いた。そこならレフ・ニコラーエヴィチの目に止まるからである。彼は部屋を通りがけに「これは何だ?」とぶっきらぼうに訊いた。

彼はその紙を取りあげてざっと目をとおした。読みながら少し唇を動かした。

「おもしろくもない」と言って、ピアノの上に落した。(秘書ブルガーコフの手記)(356頁)

■彼は注意深く聴いてから言った。「ソーニャ、きみの泣き言はほとほと聞き飽きたよ。わたしがいまほしいのは自由だ。82にもなるんだから、きみに子供扱いされるのはもうごめんだ。わたしはもう女房のエプロンの紐に繋げられはせん!」(妻ソフィヤ・アンドレーエヴナの手記)(372頁)

■ソフィヤ・アンドレーエヴナは息を詰めてその紙をひったくった。唇を動かしながらゆっくりと読んだ。

私の出立はきみを悲しませるだろう。それは残念なことだが、ほかにどうしようなかったことを理解し信じてもらいたい。家での私の立場はしだいに耐えがたいものになり、これ以上我慢できなくなったのだ。すべての不快なことを抜きにしても、私にはもうこれ以上、自分が暮らしてきた贅沢な生活をつづけることはできない。だから私は、自分と同年輩の老人なら当たり前のことをするまでのことだ。つまり、生涯の最後の日々を孤独と静寂のなかで過ごすために俗世を去るのだ。

どうかこのことを理解し、たとえ私の居場所が知れても、迎えになど来ないでほしい。きみが来たところで私ときみの立場を悪くするばかりで、私の決心を変えはしないだろう。

48年間、貞淑に連れ添ってくれたきみには感謝している。私が悪かった点はすべて許してほしい、同様に、私もきみが悪かったと思われる点はすべて心から許そう。私の出立がきみにもたらす新しい状況と折りあいをつけ、私に対しては悪感情を抱かないように願いたいものだ。

ことづてがあればサーシャに渡すように。彼女には居場所を教えるから必要なものを送ってくれるだろう。しかし私は誰にも言わないように約束させたから、彼女は私の居場所を言うことはできないだろう。

10月28日付けのその手紙は、例ののたくるような字で署名してあった。(秘書ブルガーコフの手記)(380~381頁)

■(1910年10月28日)11時半床につく。3時まで眠る。すると、最近の数夜のように、足音とドアのきしる音がする。以前はわざわざ見ようともしなかったが、今回見たら、書斎の明るい光が隙間から洩れ、書類をぱらぱらめくる音がしている。ソフィヤ・アンドレーエヴナが何かを探し、たぶんそれを読んでいるのだろう。彼女は昨晩、私の部屋のドアを閉めないように要求した。彼女の部屋のドアは2つとも開かれていて、どんなささいな私の動きもつつぬけだ。あらゆる私の言動は、即刻彼女が知らなければならず、その管理下に置かれなければならないというのだ。彼女がドアを閉めホールを歩いていく足音を聞いたとき、今度ばかりは心の底から嫌悪感と怒りがこみあげてきた。なぜかわからないが、自分を抑えかねた。眠りにつこうとしても眠れない。輾転反則ののち、灯をともし、体を起こした。

突然ドアが開き、ソフィヤ・アンドレーエヴナが入ってきて、「どうかなさったの?」と訊いた。私の部屋の明かりを見て驚いたと言う。怒りがつのった。脈を数えた――97。

もはや横になることもできず、突然家出する決意がかたまる。彼女に書き置きをし、もっとの必要なものだけを詰めこみはじめる。(トルストイの日記)(389~390頁)

■彼は居心地悪そうにまた重心を移した。「百姓家(イズバ)を借りることにしたよ」と床に目を落したまま彼が言った。「教会の鐘の音が聞こえる気持のいい小屋なんだ。私の人生を終えるにはいいところだよ、サーシャ。本をよんで、考えて、たぶんちょっと書くこともできるだろう」(三女サーシャの手記)(403頁)

■サーシャが神についてたずねた。意識の混濁状態のなかで、常日頃考えていたこととはちがう何ものかを認識したのではないかと考えたのだ。私はひそかに彼女を軽蔑した。しかし彼は相変わらずやさしく、彼女の質問にいつもの率直さをもって答えた。「神は永遠の全体で、人間各自はその極小の部分を体現しているものだ。われわれは、時間と、空間と、物質のなかでの、神性の現われなのだ」彼女も私もその言葉を書きとめた。

レフ・ニコラーエヴィチは指を挙げた。「おまえにもう1つ言っておこう、サーシャ。神は愛ではない。しかし人のなかに愛があればあるほど、神はその人のなかにはっきりと現われるし、真に存在するのだ」

「それでは神の存在は不定ということになりませんか?」と私はたずねた。

彼はかぶりを振った。「不定なものなどない」

私はその言葉に感謝した。(医師マコヴィーツキーの手記)(419頁)

■「私に嘘をつく必要はないよ」と彼は言った。「しかしきみの気持はよくわかる。が、きみは私の医者であって、守護天使じゃないことは忘れてはいかん。何ごとが起ころうとも、きみの責任じゃないよ」

突如、咳の発作が襲って、彼は激しく全身を震わせた。私は1杯の水を与えた。

「すべてうまくいくさ」と彼は言った。「きみの言うとおりだ」

私は床に目を落した。彼を子供扱いするなんて私はばかだった。

「これで終り」と彼は言った。「王手だ」

私が見上げると、彼はほほえんでいた。(医師マコヴィーツキーの手記)(422~423頁)

■彼はわれわれの階級の他の人びととちがって、フランス語を使うことはもうめったになかったが、よい格言を撰んだものだ。「成すべきことを成せ。たとえ何ごとが起ころうとも」(高弟チェルトコフの手記)(435頁)

■木曜日の朝、彼はサーシャに言った。「私はまもなく死ぬかもしれんが、死なないもしれん。誰にわかる?」

「そんなこと考えないようになさいな、パパ」と彼女は言った。

彼女の言葉は見当ちがいに彼を刺激した。「考えずにいるなんてことができるか?私は考えねばならんのだ!」(高弟チェルトコフの手記)(437頁)

■レフ・ニコラーエヴィチは彼らを見てラーニャに囁いた。「そう、これでおしまいだ。べつに何でもないよ」

われわれは凝然と立ちつくしていた。私は、9年前、ガスプラで彼が死にかけたときのことを思い出した。レフ・ニコラーエヴィチは、暖かいクリミアの太陽のもとで療養するためにそこへ行ったのだ。ある時期彼の病状が悪化し死ぬかもしれないと思われたとき、セルゲイが、「伯爵」と最後の言葉を交わしたいと願っている現地の司祭に会いたいかとたずねた。レフ・ニコラーエヴィチは答えた。「彼らにはわからないのかね。死の床にあっても、2足す2はやっぱり4だっていうことが!」(高弟チェルトコフの手記)(445~446頁)

■医師たちは彼の反対を押しきってまたカンフル注射を打った。

「ばかな……ばかな!」と彼は嗄れ声で小さく叫んだ。「注射はやめろ……お願いだからそっとしておいてくれ!」

にもかかわらず、注射は効を奏した。ふたたび、ほとんどすぐに彼はずっと楽になり、ベッドで身を起こした。そしてセルゲイを呼んだ。

「息子よ」セルゲイが彼のそばにひざまずき、耳を父の唇に寄せると、彼は言った。「真理を……わたしは熱愛する……なぜあの人たちは――」もう1度真理を定義しようとし、言葉の鞭を振るおうと努力したが力尽きて、彼の声はとぎれた。(高弟チェルトコフの手記)(443頁)

2010年10月10日

-『仏陀』増谷文雄 著 角川選書ー18

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