岡野岬石の資料蔵

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読書ノート

読書ノート(2009年)

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読書ノート(2009年)

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『ウィトゲンシュタインの知88』野家啓一篇 新書館 

■『確実性の問題』

 『確実性の問題』は1949年から51年にかけて書かれたメモの集積である。外見は『哲学探究』と同様短い断章より成るものであるが、『哲学探究』が著作としての完成度をかなりの程度実現しているのに対して、これはまだ未選別未推敲のメモのまま残されている。というのも、ウィトゲンシュタインにはもうそれをまとめなおす時間が残されていなかったのである。このメモが書き始められた年に彼は前立腺ガンの告知を受けている。そして最後の第676節の日付は51年4月27日となっている。その翌日、ウィトゲンシュタインは意識を失い、次の日の朝、62歳の生涯を終える。まさに、死を受け入れつつ書かれた絶筆なのである。

 きっかけはムーアの論文「常識の擁護」とそれを巡るマルコムの議論にあった。ムーアはこの論文において認識論の伝統に叛旗をひるがえした。従来の認識論においては、不確実な命題を確実な命題で基礎づける試みが繰り返され、しかも、その確実性は意識の領域に求められていたが、それに対してムーアは、自分の手や大地といった外界の存在において根拠の探求を打ち止めにしようとした。こうした意識内在主義の拒否と根拠の終端の確認は、まさにウィトゲンシュタインの方向と共通するものであり、彼はムーアに強く共感しつつ、その不備を咎め、さらなる展開を求めたのである。

 ウィトゲンシュタインは、探求の主題となりそれゆえ知の対象となる確実性と、ムーアが求めた確実性の領域とを区別する。例えば、歴史の探究においては、探求されている時代に大地が存在したことはその探求における不動の枠組みとなっている。大地が存在したことは歴史的探求によって明らかにされることではなく、歴史的探求を可能にするための前提として、歴史的探求を営む者が鵜呑みにしなければならないことにほかならない。それゆえ、歴史的探求の実践に加担しつつ、大地の存在を疑うことは不可能なのである。もし大地の存在を疑うならば、そのとき歴史的探求は放棄されなけばならない。ここに、『確実性の問題』が明らかにしようとする確実性の領域がある。それは確かに根拠の終端ではあるが、他の諸命題を支える基礎としての根拠となるわけではない。「動かぬものは、それ自体がはっきりと明瞭に見て取られるがゆえに不動なのではなく、そのまわりにあるものによって固定されているのだ」(『確実性の問題』第144節)。つまり、不動の基盤があるから実践が可能になるのではなく、われわれがかく実践しているからこそ、そこに不動の枠組みが要求されるのである。

 さらに『確実性の問題』の特徴は、そうした枠組みを規則ではなく、「ここに手がある」や「大地がある」といった経験命題の形をしたものに求めたことにある。そうした命題は「世界像命題」と呼ばれる。それは、われわれがこの世界で生きるために鵜呑みにしなければならない生活の枠組みにほかならない。そして、あらゆる探求はこうした枠組みをもと。それは、それ自体として絶対確実という身分をもつものではないから、実践と探求の場を変えることによって疑いの目を向けることも可能である。しかしそのときには、その疑いの枠組みとして他の経験命題が不動の位置をもたされることになる。疑うためには疑われぬものが必要とされる。「すべてを疑おうとする者は、疑うところまで行き着くこともできない」(『確実性の問題』第115節)。

 それゆえ、個別の命題を単独で取り出すならば、いかなる命題であれ、疑うことは可能である。われわれは名証的な命題を個別に受け入れ、その礎石の上に知識を構築するのではない。受け入れられるものは個別の命題ではなく、体系全体である。ここには、一見クワイン的な全体論的知識観がある。だが、体系全体を受け入れることにおいて不可疑の枠組みが要請されるという洞察は、クワインの全体論とは異なる方向を示していると言うべきだろう。(野矢茂樹)(80~81頁)

■論理形式

――前略――

 さて一方、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』(1922年)においては、命題の有意味生は命題が現実の像であることに存する(4.01)。像とは現実のモデルとなるようないま一つの事実である(2.12,2.141)ということに留意して、この論点を検討してみよう。さて、およそ何ものかが他の何ものかの像であるためには、両者が何らかの写像形式を共有していなければならない(2.17)。たとえば空間的な像は有色的なものを写像する(2.171)。このとき、いかなる写像形式に関してであれ像と写像されるものとに共有される形式というもの、いわば最大限に抽象的な写像形式というものが考えられるはずである。ウィトゲンシュタインはそれを「論理形式」と呼ぶ(2.18)。論理形式によって写像する像は論理像であり、事実の論理像が思想である(2.181,3)。そして思想とは有意義な命題なのである(4)から、つまるところ命題はそれがしゃぞうする現実と同じ論理形式を有するのでなければならない。こうして、ラッセルにおいては判断主観が命題を理解するための与件として位置づけられていた命題の形式という観念は、『論考』においてそのような認識論的枠組みがまったく捨象された論理形式という観念へと鋳直される。

――後略――(中川大)(95頁)

■写像理論

 「『論理哲学論考』の写像理論」という場合、それは、「命題とは何か」という問いに対して「命題とは現実の像である」と答える「命題の写像理論」のことを指すことも、また、「そもそも像とは何であるか」という問いに答える「写像の一般理論」のことを指すこともありうる。しかし、後者の理論は前者の理論を支えるために提示されていることが明らかであるとおもわれるので、われわれは「命題(あるいは文)とは何か」という問いがいかなる問いであったかを振り返ることから始めよう。

――中略――

 ラッセルの説では、真理の対応説が保存されるものの、主観の作用から独立したところで文の有意味生を確保しようとしたフレーゲ説の眼目は失われてしまう。こうしてウィトゲンシュタインの目標は、主観の作用を排除しつつ対応説を維持する命題論となる。それが写像理論である。写像理論は、ラッセルの考えに反して、偽の命題も真の命題と同様、事実となんらかの対応関係を有すると主張する。すなはち命題の有意味性は一般に事実との対応が保証する。ただし、真の命題と偽の命題とは、それらのじじつとの対応の仕方が異なるのである。

 さて、『論考』において世界(すべての現実)は諸事実からなり、事実は諸事態の存立であり、事態は諸対象の結合である(1.1,1.2,2,2.01,2.063)。そして像とはその要素が対象と対応し、現実と写像形式を共有することによって現実のモデルであるような事実である(2.12,2.13,2.17)。そして像は現実と一致するかもしないかも、真であるかも偽であるかもしれない(2.21)のであるから、像というものは、現実の写像でありながら、しかも偽でありうるものだということになる。ところで有意味な命題は事実の論理像(論理形式によって現実を写像する像)である(3,4.01)から、命題は現実の写像であるということによってその有意味性を保証され、しかもそれは命題の真偽からは独立のこととなる。

 この見解において、名前と命題の対比は明確である。すなわち、名前の現実に対する関係は唯一的であり、名前は対象を名指さなければその意味を失うのに対して、命題は二肢関係的であり、真でなくても意義を失うわけではない。命題は真という仕方で現実に関係づけられることもできるという意味で方向をもち、それが命題が意義を有するということである。それにひきかえ、フレーゲは文も名前であると、ラッセルは名前(通常の固有名)も文も不完全記号であると見なすことによって、この対比を見失ったのである。(中川大)(96~97頁)

■超越論的

「超越論的」(transzendental)という言葉は『超越的(transzendent)」から派生したものであり、超越的なもの(意識を超えた対象)の妥当性と意味を認識の問題として論ずることを意味する。それを哲学的概念として洗練させたカントは『純粋理性批判』において、「私は、対象にではなく、対象を認識するわれわれの認識の仕方に、この認識の仕方がアプリオリに可能である限りにおいて、これに一般に関与する一切の認識を超越論的と称する」(B25)と述べている簡単に言えば「超越論的」とは「経験の可能性の条件」に関わる認識のことであり、ウィトゲンシュタインの用法も基本的にはこのカントによる定式化を踏まえている。

『論理哲学論考』において、「超越論的」という言葉が用いられているのは2箇所のみである。それらのうち一方は「論理」に、他方は「倫理」に関わっており、両者はともに「語り得ぬもの」の領域に属する。論理と倫理というかけ離れたものが、なぜともに「超越論的」であり「語り得ぬもの」であるのか。ここに『論考』の秘密を解く鍵が隠されている。

 第一は「倫理は学説ではなく、世界の鏡像である。論理は超越論的である」(6.13)という箇所である。これは「論理の命題は同語反復命題(トートロジー)である」(6.1)という節に対する注釈であり、論理は経験科学のように世界の内容について語るものでなく、論理空間の構造という世界の形式を示すものであることが述べられている。論理はいっさいの経験的じじつに先立ち、われわれの経験の可能性をあらかじめ条件づけるものであるがゆえに、「超越論的」なのである。

 第二の用例は「倫理を口にしえないことは明らかである。倫理は超越論的である」(6.421)という箇所に見ることができる。倫理の命題は「事実」ではなく「価値」を語るものである。ウィトゲンシュタインによれば、すべての出来事や状態は偶然的であり、世界の中に「価値」は存在しない。経験科学の語る「事実」が偶然的であるのに対し、世界のあるべき姿を指定する「価値」は必然的でなければならない。だが、世界の「内」に在るものが偶然的である以上、「出来事や状態を偶然的でなくするものは世界の中に在ることはできない」(6.41)のであり、それは世界の「外」に在るほかない。世界の外部にあるものをわれわれは語ることができない。「倫理の命題は存在しえない」(6.42)と結論されるゆえんだ。

 だとすれば、倫理は世界の外にあるものとして、「超越論的」よりはむしろ「超越的」と称されるべきであろう。だが、倫理は世界を超越したものではなく、あくまでも「世界の限界」に接するものとして、やはりわれわれの経験の可能性の条件をなしているのである。世界の限界は言語の限界を通じて内側からのみ画定されるというのが『論考』の基本姿勢であった。いわば論理と倫理は「内部」と「外部」とから相補的に世界の「かたち」を定めているのである。

 『論考』以後、ウィトゲンシュタインは「超越論的」という言葉をまったく用いていない。だが、そのことから彼の後期哲学を一種の「自然主義」と見ることは間違いである。前期・後期を問わず、経験の可能性の条件を「言語の可能性の条件」の探求を通じて解明しようとする彼の態度は一貫して揺らぐことはなかった。「言語ゲーム」の考察もまた、それが事実概念であるとともに方法概念でもあるという両義性ににおいて、経験的探求であると同時に超越論的探求であるという二重性を備えている。その意味で、ステニウスが『論考』を特徴づけるのに用いた「超越論的言語主義」という呼称は、ウィトゲンシュタインの哲学全体に対してもそのまま当てはめることができるのである。(野家啓一)(106~107頁)

■独我論

『論理哲学論考』において「独我論」は次のように登場する。

 5.6  私の言語の限界は私の世界の限界を意味する。

 5.61 論理は世界に満ちている。世界の限界は論理の限界でもある。

    (略)

     我々は考えられないことを考えることはできない。我々はまた、考えら

    れないことを語ることもできない。

 5.62 この考察は独我論はどの程度まで真理であるかという問いを決するための  

    鍵を与える。

     独我論 が言わんとすることは全く正しい。ただそれは語られることで

    はなく、示されることなのである。

     世界が私の世界であることは、この言語(ただそれだけを私が理解する

    ような言語)の限界が私の世界の限界を意味するということの内にしめさ

    れている。

 この箇所の「私の言語」という表現は、『論考』を読む者に唐突な印象を与えるに違いない。そのうえ、最後の命題は明らかに間違っているように見える。〈私の〉理解する言語と〈私の〉世界との間にどのような関係が成り立っていようと、そのことの内に〈世界そのもの〉が私の世界であることなどが示されるはずがないからだ。――略――(永井均)(108頁)

《私(岡野)の意見:世界そのものは勝手に身体に写り込んできて私の世界の地を作る。その世界を意識が解釈していくときに独我論が持ち上がってくる。》

■治療的分析

 哲学的に考えることでどうしても陥ってしまいがちな隘路というものがある。そういった隘路にはまりこんだときの苦しみを知っていれば、ウィトゲンシュタインの次のような言葉は何らかの副因を含んでいるように聞こえてくる。

「哲学者は、病気をとりあつかうように、問いをとりあつかう」(『哲学探究』第1部255節)。

ここで「とりあつかう」と訳出されているのは英語では treatment であり、医学では「治療」と訳される言葉である。ウィトゲンシュタインの哲学は、哲学の旅路の救急病院でありたいと申し出ているかのようだ。では哲学はどんな病気に人を導きうるというのだろうか、またそこにどんな治療法を用意しておかなければならないと彼は思ったのだろうか。

 上の引用の直前に、数学の場合が例として挙がっている。彼が考えていたのは、数学者が突如「数とは何か?それは実在か否か?」といった問いに取り憑かれた場合のことである。ここからはあのクリプキ流の誇張懐疑が連想される。「私が今していることは本当に加算だろうか?実は私が加算だと思っているだけで、それはクワ算だと誰かに言われたら抗弁のしようがないではないか」。それでも数学者はそのまま演算を続けるだろうが、哲学者はここで立ち止まることを余儀なくされる。

――略――(新宮一成)(156頁)

■ザラザラした大地

 ウィトゲンシュタインの哲学は大きく二つの時期に分けられる。すなはち、『論理哲学論考』に代表される前期と『哲学探究』を中心とする後期とである。むろん一人の哲学者の一連の著作に連続性と非連続性があるのは当然だが、ウィトゲンシュタインの場合、その「転回」が余りにも劇的であったために、後の解釈者たちはその謎を解明しようとして腐心した。いわばこの「非連続の連続」とも言うべき事態を過不足なく捉えることが、ウィトゲンシュタイン解釈における扇の要となるのである。『探求』の序文の中で彼は「16年前ふたたび哲学に従事するようになってから、私は、自分が最初の本に書いたことのうちに重大な誤りがあることを認めねばならなかった」と述べている。最初の本とはもちろん『論考』のことである。それではそこにある「重大な誤り」とは何であったのか。それに一つの手がかりを与えてくれるのが『探求』107節の以下のような文章である。

「現実の言葉を精密に考察すればするほど、この言語とわれわれの要請との間の軋轢は強くなる。(論理の透明な純粋性は、私にとって探求の結果生じたものではなく、一つの要請であった。)この要請は今や空虚なものとなろうとしている。――われわれは摩擦のない滑らかな氷の上に迷い込んだのであり、そこでは諸条件がある意味で理想的なのだが、まさにそのためにわれわれは歩くことができない。われわれは歩きたいのであり、そのためには摩擦が必要である。ザラザラした大地に戻れ!」

 ここでは「現実の言語」と透明で純粋な論理言語、すなわち「理想言語」とが氷上と大地というメタファーによって鮮やかに対比されている。『論考』においてウィトゲンシュタインが目指したのは、理想言語という氷の上に論理分析の鑿でもって透明な氷の宮殿を構築することであった。条件はすべて「理想的」にしつらえられている。だが、その宮殿で人間が生活することはできなかった。そこには応接間や広間はあっても台所はなく、寝室に備え付けられていらのはプロクルステスのベッドであったからである。

 宮殿を出たウィトゲンシュタインは、氷の上には何よりも「摩擦」がないことに気づく。この「摩擦」という比喩は、カントの「軽快な鳩は自由に翼を張って空中を飛びながら、空気の抵抗を感じて、真空のなかであればもっと遥かにとく飛べるであろうにと考えるかもしれない」(『純粋理性批判』諸言)という言葉を思い起こさせる。『論考』の時期のウィトゲンシュタインが抱いたのも、この鳩と同様の錯覚であった。後に彼は理想言語に触れて「まるでそれらの言語がわれわれの日常言語よりももっと優れた、完全な言語であるかのように聞こえる」(『探求』81節)と述べて、その錯覚を訂正している。ともかく、歩いたり飛んだりするためには摩擦や抵抗が必要なのである。そこでウィトゲンシュタインは「ザラザラした大地へ戻れ!」と叫ぶ。摩擦のある大地とは、生活の文脈の中に埋め込まれた日常言語が織りなす人間的な世界のことにほかならない。

 理想言語から日常言語への視座の転換は、同時に命題の論理分析から言語ゲームの記述へという方法論上の転換でもあった。ウィトゲンシュタインが「透明な純粋さという先入見は、われわれが自分たちの全考察を転回することによってのみ取り除くことができる(ただし考察の転回は、われわれ本来の必要を中心にしてなされねばならない)」(『探求』108節)と述べるゆえんである。

「ザラザラした大地」に立ち戻ったウィトゲンシュタインは、透明な氷原とはおよそ対照的な薮や泥濘に足をとられながら、困難な道を手探りで進むことになる(その歩行記録が膨大な遺稿として残されている)。しかし、ともかくもそれは人間の住む、猥雑ではあるが肥沃な大地なのである。(野家啓一)(158~159頁)

■世界像

――略――

 世界像と将棋の規則との比較は、『確実性の問題』では明確に論じられていない重要な問題を提起する。将棋の規則であれば、例えば二歩禁止の規則をなくした新しいゲームを考えることもできる。あるいはまた、将棋の規則に従わずに済むもっとも抜本的な、そして唯一の方法は、将棋を指さないことである。では、世界像はどうだろうか。それは改変可能であったり、拒否可能であったりするのだろうか。

 ウィトゲンシュタインが世界像の改変可能性を示唆していることはまずまちがいないところである。すなわち、いまわれわれが受け継いでいるこれらの神話と異なる神話をもっている人々は考えうる。だが、改変可能であるのもかかわらず、世界像を拒否することは不可能であるように思われる。例えば「これは私の手だ」ということをごく日常的な場面で疑うとすれば、私は私の正気をも疑わねばならないだろう。それはつまり、私には「これは私の手だ」ということは疑いえないということである。同様に、昨日の大地の存在を疑うこと、テーブルの上に置かれた3個のリンゴが見ているうちに4個になるのではないかと考えること、こうしたこともまた、正気からの離脱によってしか可能ではない。

 ひとつの解釈にすぎないが、世界像はおそらく生活形式と結びついている。ウィトゲンシュタインはさまざまな議論において、しばしば異なる生活形式を想定する。しかし、われわれはこの生活形式を拒否することはできない。生活形式もまた、改変可能だが拒否不可能なのである。実際、3個のリンゴが見ているうちに4個になるのではないかと考えることは、われわれの生活形式に反しているだろう。それは将棋のように隔離されたゲームからの離脱ではなく、われわれがまともとみなす生活からの離脱にほかならない。(野矢茂樹)(171頁)

■言語論的転回

 哲学史の常識といったものをあらためて眺めてみると、3つの名前がひとつの単位になるといったことが、どうも多いように思われる。だれでもすぐ思い出すのは、「デカルト・スピノザ・ライプニッツ」と、「ロック・バークリー・フューム」だろう。ほかにも、「ソクラテス・プラトン・アリストテレス」だとか、「フィヒテ・シェリング・ヘーゲル」だとかもある。こうした3つ組は、必ずしも、ヘーゲル流の「正・反・合」といった弁証法的発展過程の図式と合致するわけでもなければ、影響関係をはっきり問題にできるのは三代目までだけといった法則があるようにも思えない。結局のところ、深く考える必要はなくて、3という数が――変な言い方だが――語呂がいいだけかもしれない。

 初期の分析哲学の歴史に関しても、現在の哲学史的常識は、3つの名前を返す。つまり、「フレーゲ・ラッセル・ウィトゲンシュタイン」である。そして、もうひとつの哲学史的常識によれば、3つの名前のどこかで、「言語論的転回」が生じたことになる。――中略―― こうして、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』こそが、言語論的転回のもっとも明確な表現であるという主張に行き着くことになる。

――略―― 私のみるところ、言語論的転回後の哲学に特徴的なのは、たがいに関連しあう、つぎのような2つの認識の少なくとも一方が、そこに含まれていることである。

(1)哲学的問題の発生そのものに、言語が深く関わっていることの認識。

(2)哲学的問題の解決において、言語にかかわる問題の考察を経由することの不

   可欠性の認識。

『論理哲学論考』が、この両方の認識を含んでいるという点は、まず疑いない。

――略―― (飯田隆)(182~183頁)

■分析哲学

 分析哲学とは、哲学的問題を概念(あるいは言語表現)の分析により解明しようとするアプローチに対する総称だが、狭い意味では、今世紀、特に英語圏で隆盛を誇った伝統を指す。後者には、2つの学派が区別できる。

(1)論理分析 ――略――(2)日常言語分析 ――略――(古田裕清)(186~187頁)

■科学哲学

 ウィトゲンシュタインは20世紀の科学哲学の成立と展開に、2重の意味で決定的な役割を果たしている。まず彼は前期の『論理哲学論考』を通じてウィーン学団の「論理実証主義」に哲学的バックボーンを与え、次に、『哲学探究』に代表される後期思想を通じて、いわゆる「新科学哲学」の勃興を促したのである。彼の前期から後期への思想的転回は、そのまま旧科学哲学から新科学哲学への潮流転換に対応していると言ってよい。

 ウィーン学団は「形而上学の除去」をスローガンにして従来の哲学を批判し、哲学そのものの「科学化」、すなわち「科学的哲学」の確立を目指して出発した。彼らの宣言書『科学的世界把握』の末尾には、指導的代表者としてアインシュタイン、ラッセルと共にウィトゲンシュタインの名が掲げられている。ウィーン学団にとって、哲学の課題とは言明の明晰化であり、その方法は「論理分析」であった。これは『論考』の思想そのものにほかならず、彼らにとって本書がバイブルの位置を占めたゆえんである。

 ――中略――

 20世紀の科学哲学はクーンの「パラダイム論」のよって決定的な転機を迎える。彼の『科学革命の構造』は科学的知識の累積生と連続的進歩という論理実証主義の基本前提に対する正面からの異議申し立てであった。クーンはパラダイムを論ずる際に、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論を引き合いに出している。実際、「科学的探求の論理の一部として、事実上疑いの対象とされないものが確実なものである」(『確実性の問題』342節)や「改めて行なわれる実験が、それ以前の実験に偽証の罪を負わせることはできない。できるのは、われわれの見方を一変させることだけである」(同前292節)といったウィトゲンシュタインの言葉は、クーンのパラダイム転換の概念を先取りするものであった。その意味で、前期・後期を問わず、ウィトゲンシュタインの哲学を抜きに現代の科学哲学を語ることはできないのである。(野家啓一)(188~189頁)

■数学基礎論

 ――略―― とはいえ、この間違え方の中には彼の特異な数学観が現れており、そのために、20世紀初頭の「数学の危機」に対して、ウィトゲンシュタインは他の同時代人の誰もとることができなかったユニークな態度をとることができた。このことは強調しておきたい。

 その数学観を大雑把にまとめると次のようになる。(1)数学とは規則に従った式の変形(つまり計算・証明)に尽きるのであり、それ以外はすべて数学にまつわる哲学的散文にすぎない。(2)数学的命題はその意味を計算・証明の過程からくみ取るのであり、数学的命題の意味は外部からあてがわれるのではない。(3)数学者の言説を自分が批判する場合、それは、式の変形の部分ではなく、哲学的散文の方を批判しているのだ。

――中略――

 これに対し、ウィトゲンシュタインの態度はとてつもなくラディカルなものである。すなわち、数学には認識論的危機は生じていない。なぜなら、数学は式変形のゲームであり、何かを知るという営みではないから、というものだ。

 「私がゲームすることができる限り、私はゲームできるのであり、すべては秩序

 だっている。じっさい、事態は次のようである。計算としての計算は秩序だって

 いる。矛盾について語ることはまったく意味をなさない。」(『ウィトゲンシュ

 タインとウィーン学団』120頁)

 「数学で矛盾が発見されたからといって、数学者たちが何百年も計算してきたも

 のがすべて、突然廃棄されるだろうか。それは計算ではなかったと我々は言うだ

 ろうか。断じてそうではない。」(『ウィトゲンシュタインとウィーン学団』

 195~6頁)

 矛盾が顕在化していないなら、支障なく数学ゲームを続行できるのだから、矛盾を気にすることはない。かりに矛盾が明らかになったとしても、規則を手直ししてゲームを続行すればよい。いずれにせよ、数学が矛盾を免れているということをあらかじめ示しておこうとする試みは迷信的恐れを動機とするにすぎない。私はこうした考え方は間違っていると思う。しかし、この間違いは彼以外の誰にもまねのできないまさしく天才的間違いだとも思うのである。(戸田山和久)(190~191)

■宗教哲学

 デレク・ジャーマンも映画(『ウィトゲンシュタイン』)の中で語らせているように、ウィトゲンシュタインは「私はすべての問題を宗教的立場から見ないではいられない」と語った。また、「真に宗教的な人間にとって、悲劇的なものは何もない」という言葉も残している。論じたいことは多岐にわたるが、以下では、彼が(1)宗教を「語りえないもの」として定式化したこと、(2)宗教を「生活を統制するもの」として捉えたことに焦点をしぼって論じてみたい。

(1)ウィトゲンシュタインいわく、「私ははっきりとある宗教を思い浮かべることができる。だが、その宗教には教義がなく、それゆえ、そこでは何も語られない。明らかに、宗教の本質は語られるということとは全く関係ないのである」(『ウィトゲンシュタインとウィーン学団』)。――中略――

 いずれにしろ、彼は理論的・体系的な宗教哲学なるものを構築する立場とは正反対の立場にたつ。そして、これこそが彼の「宗教哲学」である。だとすれば、彼が考えている宗教は人の行為や生き方と直結することもうなずける。

(2)同性愛者でもあったウィトゲンシュタインは、自分のおよんだ行為に対して嫌悪感を抱くのが常であり、後悔の念からか、「自分の生き方を変えたい」という旨の言葉を折にふれて残している。ひょっとしたら、同性愛者であったことは、彼が宗教を「生活を統制するもの」として強く捉えたことの要因の一つかもしれない。さらにドゥルーリーも述べているように、「自分の生活の仕方のすべてを変えようという、常にもち続けたウィトゲンシュタインの意志に対して同情や共感を感じないとすれば、彼を理解することはできない」だろう。

 これは、ウィトゲンシュタインのいわば「宗教的」生を理解するうえで、重要な言葉である。彼は「懺悔は新生活の一部であるに違いない」(『断片』)と書きつけている。懺悔によってそれまでの自分と決別でき、新しい自分の生が始まる、というわけだ。また彼は、キリスト教は「〔言葉で語られる〕良い教えはすべてなんの役にもたたない、君達は暮らしぶり(あるいは暮らしの方向)を変えなければならない」(同)ことをとりわけ物語っている。とも認めている。思えば、「人生は尾根を走る一本の道に似ている」(同)。右にも左にもツルツルした斜面があるから、どの方向をとっても滑り落ちてしまう。不安定なじんせいの行路を歩んでいるとき、その歩むべき方向をはっきりと示してくれるものが、ウィトゲンシュタインの考える宗教である。こうしたことを理解すれば、冒頭に紹介した彼の二番目の言葉も納得できるだろう。(星川啓慈)(202~203頁)

2009年1月7日

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『空海の風景』を旅する」 NHK取材班 中公文庫 

■「明経道にすすめ」と叔父がいったとおりに空海はすなおにこの道(コース)にす

 すむのだが、結局は、この創造力にあふれた少年は、ぼう大なもろもろの注疏

 (ちゅうそ)の暗唱をしていっさい創意がゆるされないという知的煉獄にあえぎ、

 沙上で渇えた者が水を求めに奔るようにしてそこから脱出するにいたる。この知

 的創造性を抑圧された煉獄のはてにきらびやかな代償としてあたえられるものが

 栄達であったが、しかしながらいったんこれを契機に疑問をいだけば、いったい

 そういう栄達が人間にとって何であるかという、渇者のみがもつ思考の次元にゆ

 かざるをえない。しかも大学明経科において百万語の注を暗誦したところで、そ

 こで説かれているものは極言すれば具体的な儀礼をふくめた処世の作法というも

 のでしかなく、人間とはなにかという課題にはいっさい答えていないのである。

 (『空海の風景』二 司馬遼太郎)

 ひとたび人間とは何か、という哲学的問いを立てたならば、本質的な問いを回避したところに積み上げられる知識や規範などは、逆にみずからの精神を束縛しようとするものだと感じられる。さらに、世の中の秩序が、大衆を奴隷的精神の持ち主へと貶め、管理することによって成り立っていると考えたならば、高級官僚など、いわばその精神的な奴隷たちのリーダーに過ぎないと思い至ったであろう。(100~101頁)

■「儒者よ、あなたは私より年長であり、年長であるからといって長幼の序をやか

 ましく言い、その躾を核にして浅薄な思想を作りあげているが、それは錯覚であ

 る。長幼の序などというそんなばかなものは実際には存在しないのだ。時間には

 始めというものがなく、あなたも私も無始のときから生まれかわり、死にかわ

 り、常無く転変してきたものである」(『空海の風景』三)

 儒教的思想によって空海の出家を阻もうとする大足への反論と、大学で学んできた儒教への決別の宣言である。空海は道教に対しても同様に、不老長寿の薬をいくら飲んでも、結局人はいつか死ぬ運命にあるのだ、と批判する。

 仮名乞児の言葉とは、空海の言葉であり、この作品は出世ばかりを求める大学のエリートたちの群れとも、俗世との関わりを断って、無為に生きようとする流民たちの思想とも決別することを宣言しているのだ。その表現スタイルと書の美しさに加え、24歳にして身につけた教養の幅と思索の深さに驚く。(106頁)

■あらためていうべきことでもないが、遣唐使は国家使節である。

 国家使節である以上、入唐する僧もまた、国家が認めた正式な得度僧(官僚)である必要がある。つまりは、僧侶としての国家資格をもっていなければならないということだ。しかし、今まで私たちが見てきた空海は、室戸岬や山野を跋渉する放浪の私度僧だったはずである。

 ここに、注目すべき年がある。

 空海入唐の前年、808年(延歴22年)という年だ。

 実は、空海が乗り込んだ第16次遣唐使船は、この803年3月に、すでに大阪を出航してしまっているのである。この時、遣唐使の中に空海の名はない。この船が順調に航行を続けていれば、空海は次の遣唐使船の出発(836年)まで30年以上待たねばならなかった。

 しかし、空海が乗り遅れたこの船は往航の途中で暴風にあい都に引き返すことになったのである。船の修繕を行ない態勢を整えて再出発したのが、804年5月。空海は、この時、乗船に成功した。

 803年は、石山寺に伝わる太政官符の写しによれば、空海が得度受戒した年と記録されている。となれば、空海は入唐ののために「あわただしく」受戒した可能性が高い。

 空海は生来、山岳を好み、厳しい肉体的精神的鍛錬を経て力を得た。かたちの上では私度僧ながら、実としては都の官僧を上回る知識と実践を積んできた自信があったことだろう。深い個の自覚と自信に支えられた空海が、いきなり人生の方針を転換して今さら国家承認の僧侶になろうとする理由が見あたらない。空海の得度受戒の理由は、ただひとつ、唐に渡りたいと願う何らかの動機が突如発生し、その目的を達するための手段として行なわれたと考えるのが自然だ。

 司馬遼太郎は、その「動機」を、空海がある経典を発見したことのよると考えた。

 『大日経』と呼ばれる密教の根本経典のひとつである。

 『大日経』は、従来の仏教経典とはまったく異質の新鮮さを持っていた。それまでの経典がブッダ(釈迦)が説法をする形式をとるのに対し、『大日経』では、歴史上の実在人物ではない法身の大日如来が、直接、仏の最高の悟りの知恵とは何かを説く。

 インドで成立したのは7世紀末頃といわれ、それが唐に伝えられ擤ん訳されたのは724、5年のことだという。空海が生まれるわずか50年前のことだ。多くの経典を読破し、山岳修業を積んで断片的な密教(雑密)を次々と身につけていた空海も、この時すでにインドでは雑密を超えて『大日経』を中心に据えた新しい密教体系が成立していることは知らなかったにちがいない。『大日経』は思想的年代的に当時最先端の経典だったということができる。

『大日経』は驚くべき速度で日本にも伝わっていたが、司馬遼太郎によれば、空海がその重要性に気づくまで誰もそれを解せず、諸寺の経蔵に埋没していた。

  空海は、この漢詩を読むことによって大日経の理論は理解できた。

  ただし、空海にも解せない部分がある。大日経には、仏と交感してそこから利

 益をひきだすという方法が書かれている。その部分は、秘密(宇宙の内部の呼吸

 のようなもの)であるがために、宇宙の言語である真言を必要とした。(中略)

 こればかりは手をとって伝授されることが必要であった。

  空海はこれがために入唐を決意した。大日経における不明の部分を解くためで

 あった。空海の入唐目的ほど明快なものはない。(『空海の風景』6)(146~

 149頁)

■最澄について触れておきたい。

 空海が「毛人」(蝦夷と呼ばれた東国人捕虜)の系統をひいていたとするならば、最澄は「渡来人」(中国・朝鮮半島からの移住者)の家系にあった。かれは、空海のように国家官僚への道にいったん入るような迂回路をとらず、一直線に出家している。12歳の頃だった。20歳で受戒すると、琵琶湖を見下ろす比叡山に登り「比叡山寺」という小さな草庵を建立した。これがやがて現在の延暦寺となる。都を離れ、山に修行の地を求めた点においては、空海と同様の山岳修業者の系統に属する。最澄入山は思想的信念によるものだったが、その行動の背景には、政教を混濁する一方で官僚化し、仏教哲学の原典である経典をないがしろにして解釈論ばかりを争う奈良の仏教界に対する批判があったからに他ならない。最澄が華々しい仏教界のリーダー的存在として姿を現すのは、遷都後、平安京の時代になってからのことだ。むろん、独学で求道(ぐどう)することを旨とする最澄の意志によってではない。桓武天皇の政治的思惑によってである。

  最澄は時代の人であったろう。かれの運命は、かれが得度した翌年に桓武天皇

 が即位し、いわば大帝の時代がはじまったことで――当時の最澄自身はきづかな

 かったろうが――大きく基礎がつくられたといっていい。(中略)

  桓武の政治方針のひとつの重点が、害のみがあって益するところのすくない奈

 良仏教との絶縁にあった。長岡や平安京への遷都も、仏教の巣窟である奈良から遁げだすためであったとさえいわれているほどであった。(中略)

  桓武がその後の態度でもわかるように最澄に異常なほどの肩入れをする気持をもつにいたったのは、ひとつには桓武の生母高野新笠が天皇家にめずらしく「諸蕃」の出身だったということにもよるかもしれない。百済から渡来した者の子で、実家はなお百済の遺習をもっていたらしい。(『空海の風景』7)(153~154頁)

■最澄の入唐動機は、かれ自身が書いた上表文によれば、中国本場の天台教学の移入にあった。空海が『大日経』を研究対象にしたとするならば、最澄のそれは『法華経』だった。『法華経』は経典の王と呼ばれた古典的最高経典である。ここにも奈良仏教への懐疑が根本にある。

 奈良仏教は宗論ばかりを重んじて肝心の経典を軽んずるが、本来は、論が従で経が主でなければならない。天台大師智顗(ちぎ)は『法華経』を核にして、一人その道を行っている。私も長年天台を研究してきたが、いまだ真意をつかみがたい。このうえは、師から直に教えを請いたい――。

 これが、最澄の思いだった。空海がブッダ(釈迦)の仏教から飛翔し変転した最澄の教理に活路をもとめようとしたのに対し、最澄は実直にブッダの言葉に返りその原点に立ち戻ろうとしたともいえる。新しい仏教を新しい仏教を創始しようという覇気は同じでも、方法論のベクトルは反対方向にのびていた。

  最澄は空海にくらべ、ぎらつくような独創性に欠けるところがあった。が、物事の本質を見ぬく聡明さにおいては同時代の僧たちから卓越しており、見ぬいた以上はそれを追求する執拗さと勇気を多量にもっていたかに思える。

  最澄は空海とはちがい、密教的性格のもちぬしではなく、うまれつきとして顕教的な合理性と素直さの側にいるひとであった。(『空海の風景』7)(155~156頁)

■はたして恵果と空海はどのように出会い、師弟となっていったのだろうか。

  以下のことは、空海自身が書いた『御請来目録』の文章に拠る。

  恵果は空海を見るなり、笑を含んで喜歓したというのである。

    和尚、乍チ見テ、笑ヲ含ミ、喜歓シテ曰ク、我、先ヨリ汝ノ来ルヲ待ツヤ

    久シ。今日相見ル、大好シ、大好シ

  恵果があれほどによろこぶさまが目に見えるようである。「大好々々」というのは、おそらくこの当時の口語であったものを、空海が文中にはさんだにちがいなく、このため、恵果の音声まできこえてくるようである。

  恵果はさらにいう。自分は寿命が蝎きなんとしている(中略)。しかしながら付法(法を伝えること)に人が無かった、さっそくあなたに伝えたい(中略)……と恵果は全身でよろこびを示し、きわめて異例なことに、初対面の空海に対し、どうやら何の試問もおこなわず、すぐさまあなたにすべてを伝えてしまおう、と言い放ってしまっているのである。

  事実、そのとおりになった。(『空海の風景』15)(206~207頁)

■インドで成立した密教は呪術的宗教の域を脱し、体系的な宇宙観を持つ思想としての純粋密教を成立させてゆくが、その過程でそれぞれの根本経典を持つふたつの流派を生んだ。ひとつは空海が入唐動機に掲げた大日経であり、もうひとつは金剛頂経を軸とする流派である。

 それぞれの法は、師から弟子へ阿闍梨位を相伝することで引き継がれてきた。たとえば金剛頂経系の法の伝授を見れば、その第一祖は大日如来である。以下、金剛薩埵(こんごうさった)、龍猛(りゅうみょう)、龍智、金剛智、不空と続き、第七祖が恵果となる。金剛智から恵果の師、不空まで来唐したインド僧であり、恵果はインド直伝の密教を中国人として初めて承け継いだ阿闍梨だった。恵果から阿闍梨を譲位されるということは、密教の正統後継者になることを意味し、空海は大日如来から数えて第八祖になるということなのである。

 加えて、恵果はそれまで別々の流れの中にあった大日経系、金剛頂経系のふたつの系統をはじめて一人身で受け継いだ阿闍梨だった。かれを師とした空海は、片一方だけの系統に属することのない密教の統合的な阿闍梨として君臨することになるのである。

  空海は日本にいるときから、大日経のなかに出ている梵字の象徴としての真意、あるいは印契、三摩耶、真言などについてはわからず、それを恵果はたちどころに答えて空海というあたらしい器にそそぎ入れた。(中略)

  おそらく、かれは不眠不休であったにちがいない。たとえば玉堂寺の珍賀などは20年以上もこの宗乗に参じていながらその一部をわずかに知るのみであるのに、独学者の空海はわずか3ヶ月でこれらのすべてわ習得したことになる。(『空海の風景』16)(209~210頁)

■――密教と顕教はどのようにちがうのでしょうか?

「根本的にちがうところもあるのですが、大きく3つあると私は思っています。

 第一は、観想と真言念誦(ねんじゅ)のどちらに比重を置くかという問題。顕教では観想が重視され、真言を唱えるのは一回でも苦心して唱えれば効果があるとされる。しかし密教ではちがいます。基本的な真言は最低でも10万回くりかえすことが要求されます。

 第二には、密教ではその真言の伝授が非常に大切です。書いた言葉ではなく、師によって体ごと伝えられた真言こそ効果があるとされます。その真言によってあらわれる感応も重要です。たとえば密教では、その力によって雨を降らせたり止めたりできるようになります。これは顕教にはない部分です。

 三番目は法の伝授の厳しさです。顕教では誰でも師について学ぶことができる。師は導いてくれるだけの存在です。しかし、密教においては師が法を伝える弟子を選ぶとき、優れた弟子を見極める責任が問われます。もし、選んだ弟子がうまく修行できなかったら、その責任は師である自分の罪になります。ここが密教の法を伝える難しいところです」(212頁)

■ 渭城朝雨浥軽塵 渭城(いじょう)の朝雨 軽塵(けいじん)を浥(うるお)す

  客車青青柳色新 客車(かくしゃ)青青 柳色新たなり

  勧君更尽一杯酒 君に勧む 更に尽くせ一杯の酒

  西出陽関無故人 西のかた陽関を出づれば故人無からん

 詩吟でうたわれる「無からん無からん故人無からん」で有名な詩である。

「渭城の朝の雨は埃り立ちやすい地を湿らせた。宿の柳も雨に洗われ、みずみずしい緑を取り戻している。さあ君よ、更に一杯の酒を尽くせよ。陽関を過ぎれば友もいなくなるのだ」

 王維が、友人元二(げんじ)の官命による出立に際して詠んだ惜別の詩だ。王維は8世紀、盛唐の人で、空海が長安に入るおよそ40年前まで、ここで暮らしていた。敬虔な仏教信者で、晩年は仏教の教えによる人々の救済を夢見ていたという。(221頁)

■ 留学生の空海は、素手で長安に入ったようなものであった。かれは20年間かかって密教を学べばいいだけのことで、密教をシステムごと「請益」して帰るのが義務でなく、また請益についての経費も、国家は一文もかれに持たせていない。

  空海は、恵果から、一個人としてゆずりうけたのである。その経費は、20年間の留学費をそれに充当したとはいえ、そういうものだけでまかないきれるはずがなさそうであった。ともかくも、空海は工面して、一応事なきを得た。しかし、このぼう大なものを買うについての経済的苦しみは、かれの気分を、ときに重くしたにちがいない。(中略)

  空海の帰国後の態度の痛烈さは、こういうことにも多少の理由があるであろう。(中略)国家とか天皇とかという浮世の約束事のような世界を、布教のために利用するということは考えても、自分より上の存在であるとは思わず、対等、もしくはそれ以下の存在として見ていた気配がある(後略)。(『空海の風景』16)(244~245頁)

■ この時期、最澄は幸福であった。彼は、空海という20年期間の留学生が、早々に帰ってくるとは夢にもおもわなかった。さらにその空海が、密教の全体系を伝承しているなどということは、最澄は気配にも感じていない。(『空海の風景』18)(248頁)

■すでに最澄は、みずから持ちかえった「密教」を紹介して一世を風靡していた。これに対し、いまだ無名ではあるが、両部の密教を相承し、その正統後継者であることをもって最澄に対峙せんとする空海は、みずからの思想に一点の曇り、矛盾があってもならぬと考えたであろう。智(精神の原理)と理(物質の原理)は対立する概念ではなく、真実の世界においては一つのものであるという「両部不二」の論理を完成させることで、空海が京に入る準備は思想的には整った。(262頁)

■「お大師さんは、大学を飛び出して自然のなかに修行に入っていったときから、俗世と非俗の世界を行ったり来たりしてはったわけです。京都にいて忙しかったときも、なんべんも山に籠って修行したりしている、その間は天皇さんの頼み事もほっぽり出しておられるんですわ」(松永有慶)(266頁)

■ 理趣経(般若波羅蜜多理趣品)というのはのちの空海の体系における根本経典ともいうべきものであった。他の経典に多い詩的粉飾などはなく、その冒頭のくだりにおいていきなりあられもないほどの率直さで本質をえぐり出している。

  妙適清浄の句、是菩薩の位なり

  欲箭(よくせん)清浄の句、是菩薩の位なり

  触清浄の句、是菩薩の位なり

  愛縛清浄の句、是菩薩の位なり

 (中略)妙適清浄の句という句とは、文章の句のことではなく、ごく軽く事というほどの意味であろう。

 「男女交媾の恍惚の境地は本質として清浄であり、とりもなおさずそのまま菩薩の位である」

  という意味である。

  以下、しつこく、似たような文章がならんでゆく。インド的執拗さと厳密さというものであろう。以下の各句は、性交の各段階をいちいち克明に「その段階もまた菩薩の位である」と言いかさねてゆくのである。(中略)

  理趣経はいう。男女がたがいに四肢をもって離れがたく縛りあっていることも清浄であり、菩薩の位であると断ずるのである。この経の華麗さはどうであろう。(『空海の風景』3)(280~281頁)

■『理趣経』には煩悩からの解脱をめざす釈迦仏教とは、人間というものの捉えかたにおいて決定的に異なる価値観がはっきりと示されている。釈迦仏教においては煩悩として否定されてきた人間の本能的営み、それも含めてあらゆるものは清浄であり、我々の生きる宇宙は慈悲に満ちた世界であって、絶対的に肯定されるべきものだという思想がそこには貫かれている。

 しかしそれを当時の一般的仏教理解に照らしてみれば、その衝撃の度合いは、はかり知れなかったであろう。『理趣経』は、もし、表面的に理解されたならば、矮小なセックス礼賛の教えとして人口に膾炙(かいしゃ)してしまいかねないと考えられてきた。(282頁)

■(中略)それを最小限にするためには、静止したワンカットにおいて、全体が写し撮られているべきなのである。

 しかし、幅26メートル余、奥行き7メートル余という仏像の壇だけでもワイドレンズには収まりきらず、かならず画角からはみだす仏像が出てきてしまう。私たちは、カメラを3脚に据えて右端から左端までゆっくりとパーン(横移動)するほかなかった。

 人間の眼はこの「空間」を気配とともに一瞬でとらえ、なおかつそのひとつひとつを無意識下にズームアップして自在に観察する力をもっている。人間の持つ潜在的な肉体の能力の深みを痛感した。

 空海のねらいはまさに、そこにあったともいえるだろう。これは人間がふだん自覚しない自分自身の能力を引き出すことを要請する装置である。(296頁)

■ 生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く

  死に死に死に死んで死の終わりに冥(くら)し

  (空海『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』)(364頁)

2009年1月24日

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『フール・オン・ザ・ヒル』(ビートルズ)の歌詞

 The Fool On The Hill

 Day after day, alone on the hill,the man with the foolish grin is perfectly still

 But nobody wants to know him, they can see that he’s just a fool as he never gives an answer  

 But the fool on the hill sees the sun going down

 And the eyes in his head see the world spinning round

 Well on the way,head in a cloud, the man of a thousand voices talking perfectly loud

 But nobody ever hears him or the sound he appears to make and he never 

 seems to notice

 But the fool on the hill sees the sun going down

 And the eyes in his head see the world spinning round.

 And nobody seems to like him they can tell what he wants to do

 And he never shows his feelings But the Fool on the Hill

 Sees the sun going down and the eyes in his head see the world spinning round

 Oh round,round,round,round,round

 He never listens to them

 He know that they’re the fools

 They don’t like him

 The fool on the Hill sees the sun going down

 And the eyes in his head see the world spinning round.

  

 Oh round,round,round,round,round

   フール・オン・ザ・ヒル

 来る日も来る日も丘の上にひとり

 薄ら笑いを浮かべた男がじっと静止している

 だが 誰一人あいつに近づこうとはしない

 誰もがあいつをバカ呼ばわり

 そして 男は返事ひとつしようとしない

 丘の上の愚か者は沈む夕日を眺めながら

 大きく開いた心の眼で回る地球を見つめている

 時には 雲の中に頭を隠し

 男は様々な声色を使い 大声で喚いてみる

 だが 誰一人として 男の声も

 その不思議な音も聞いた者はいない

 そして 男のほうもまるで無関心のよう

 丘の上の愚か者は沈む夕日を眺めながら

 大きく開いた心の眼で回る地球を見つめている

 あんなバカは好きなようにさせておけと

 みんながあいつを爪はじき

 そして 男も他人に心を開こうとしない

 丘の上の愚か者は沈む夕日を眺めながら

 大きく開いた心の眼で回る地球を見つめている

 あいつは人の言葉などお構いなし

 彼らのほうこそ愚かだと知っているから

 みんなに嫌われても平然としている

 丘の上の愚か者は沈む夕日を眺めながら

 大きく開いた心の眼で回る地球を見つめている

 

  丘上の愚者(小田嶋隆訳)

 日毎 小高き丘に登り

 蒙昧の笑み浮かべる男

 粛々として不動たり

 世人は彼を織らず

 その暗愚なるを知るのみ

 彼の男 黙して答えず

 丘上の愚者

 悠揚として落日を眺む

 頭上なる双眸は

 四海の廻転を静観して久し

 営々と 雲の裡なる頭(こうべ)を挙げ

 彼の男 万雷の声持て怒号せり

 世人は そを聞かず

 濤声は 虚空に漂うのみ

 彼の男 拘泥せず

 丘上の愚者

 悠揚として落日を眺む

 頭上なる双眸は

 四海の廻転を端倪して久し

 世にある人 彼を好まざりき

 その好むところを語るのみ

 彼の男 心底を明かさず

 彼の男 衆生の声を聴かず

 その愚かなるを知ればなり

 彼を慕う者ついにあるまじ

2009年2月1日

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『セザンヌとの対話』ジョアキム・ギャスケ著 成田重郎訳 東出版

■セザンヌ――(中略)わしの画布から地球の方に。重く重く。どこの空気があるか。稠密な軽快さがあるか。天下とは同一の上昇に於いて、同一の慾望に於いて、友情を、これらの外光の下にある事物すべてから、解放することであるかもしれない。世界の1分が過ぎてゆく。その現実に於いて、それを画くこと! そして、そのためにすべてを忘れること。1分、そのものに成ること。そこにやって来るのが尖鋭な種板だ。われわれの前に現れたすべてのものを忘れて、われわれの見る所のものの像を与えること。

(中略)

 ギャスケ――あなたは、すべてを忘れなければならないと、おっしゃる。それならば、何故、風景の前で、ああいう準備をし、あんなに瞑想するのですか。

 セザンヌ――残念ながら、わしはもう無邪気でないからだ。われわれは文明人だ。われわれが嫌でも応でも、古典的な心づかいが、われわれのなかにある。わしは、絵画に於いては、明瞭に表現したいと思う。えせの無知者には、流派よりも、ずーっと憎悪すべき一種の非文明がある。つまり、今日では最早無知であり得ないということだ。人は、最早、無知ではない。われわれは生まれながら、容易なものをもたらしている。その容易なものを打ち壊さなければならない。容易さは芸術の死である。あの洞窟の天井の下に、自分達の狩猟の夢を彫り込んだ、初期の人間達のことに思い至るならば! 或いは又、善良なキリスト教徒達が、墓地の壁に壁画の天国を描いたことを、思って見るならば! それが、すべてが、彼等の実技と成り、魂と成り、印象となったのだ。

 かようにして、風景の前にいることだ。風景から宗教を解放することだ。或る日々には、わしが正直に描いているようにおもわれる。わしは、わしの発見した道のプリミテフのままでいるのだ。わしは、ね。君、聴きたまえ、ちょっとでいい。わしの拙劣の信仰を以って、公式に到達したいのだが……完全に実現したいのだが……(14~15頁)

■セザンヌ――そう。抽象的実技は、涸渇しながら扮飾する自分の美辞の下に、乾き切ることでおしまいに成る。ボローニヤ人達を御覧。彼等はもう何も感ぜぬ……人が或る感覚を必要とする時には、自己圏内の観念を、思想を、言葉を、持ってはならぬ。偉大なる言葉というものは、あなたがたの思想に非ざる思想だ。写真版は芸術の癩病である。ほら、ね、神話。あれは、絵画の方では、跡をつけることが出来る。それは侵略的実技の歴史だ。終わりに女神達を描いた時には、もう人は女達を描かなかった。展覧会を廻って見たまえ。幸運な男は、葉の下の水の反映を表出するを知らない。彼は、それに水の精をくっつける。アングルの《泉》! この画は水とどんな関係があるのか……君は、文学の方では、無駄話をする。こう呼ぶ……ヴェニユース、ヅゥス、アポルロンと。君が、もう、深い情緒を以て、言い得ない時には、海の泡沫、空の雲、太陽の力と。君は、こんな希臘神の病人達を信じているのか。そこでだ、

 真より美なるもの

 何もなし

 真のみが

 愛すべきもの(16~17頁)

■セザンヌ――そんなことはない。銀色では、恐らく、あろう。青い、青味がかかっている。……決して灰色じゃない。灰色であるにしても、生まで、黄色で、騒々しくって、金平糖製よろしくだが、それ以上のことはない。それはちょうど、何も見ない観客者達が、プロヴァンスを叱責するようなものだ……さよう。土は、ここでは、いつも振動している。起伏があり光を反射し、眼瞼をしばたたかせる。だが、土はいつも差異を見せ、柔らか味があるように感ずるがいい。一つの拍子が土をうねうねさせている。

  ただ遊戯と舞踏だけを愛せよ、

  ただただ、拍子だけを求めよ、(20~21頁)

■セザンヌ――(中略)わしは文学的絵画を好まない。一人物を使って、彼の考え、彼の為すことを書くのは、つまり、その思想なり、或いは、その挙動なりが、デッサンや色彩に依って、表出されていないことを告白することだ。そして、ギュスタヴ・ドレのように、自然の表情を強制しようと望むこと、樹木を曲がりくねらし、岩を渋面作らせること、或いは又、ダ・ヴィンチのように洗練することさえも、それは、まだ、文学に属するのだ。全く彩られた論理がある。画家はそれに対してのほか、服従してはならぬ。頭脳の論理に対しては、決して従ってはならぬ。画家がそれに没頭すれば、おしまいだ。常に眼の論理に従え。もし画家が正しく感ずれば、彼は正しく考えるであろう。絵画は、第一に、一つの光学である。われわれの芸術の素材がそこにある。われわれの眼の考えるもののなかにある……自然の意味する所を述べるために、自然が尊重される時に、自然は常に解決させられる。(中略)(23頁)

■セザンヌ――(中略)それで、わしは、まだ知らない。百姓のことじゃ、そう、そう、わしは、時々、疑問に思ったのだが、あの人達は風景が何か、樹木が何か知っているか、というのだ。そうだ。こんなことは、君には変に思われるであろう。わしは時たま散歩をした。馬鈴薯を売りに、市場へ行く一人の小作人の荷車の後から、附いて行った。彼は、われわれが頭脳をもって、総体として、見たと呼ぶ所のものを決して見なかった。彼は決してサント・ヴィクトワールを見なかった。百姓達は道に沿うて、あちら、こちらに種が播かれたこととか、明日の天気がどうとか、また、サント・ヴィクトワールが帽子を冠るか、冠らないかを、知っている。あの人達は、それを獣のように嗅ぎわける。ちょうど、犬がただその必要に応じて、そのパンの片が何か、知っているようなものである。しかし、樹という樹は緑であり、そして、その緑が1本の樹木であり、この地が紅く、あの崩れた紅が丘陵であるということを、大部分は、自分の功利的無意識のほかで、それを感じ、それを知っているとは、わしには、ほんとに信ぜられない。わたくし自身の何ものも失わないで、わしはその本能に追い駆けなければいけないし、それから、そちこちの野原の色彩は、わしには1つの思想を意味するものでなければならぬ。ちょうど、それは百姓達にとって、1つの収穫を意味するようなものである。百姓達は黄色を前に見ると、始めなければならない収穫の所作を自然に感ずる。それは、ちょうど、わしが、その同じニュアンスを前にして、わしの画布の上に、これと対応して、方形の麦畑を波打たせる色調を、本能的に取り入れなければならない筈であったようなものである。このように一筆一筆を下ろせば、地は再び活きて来ることであろう。わしの畑を耕すおかげで、そこに立派な風景が立ち現れて来ることでもあろう……クゥルベとその薪束の話を覚えておいでか。クゥルベは、薪束だったことを知らずに、自分の色調を出した。それが何を描写しているか、と彼がたずねた。人が見に行った。すると薪束だった。宇宙だった。宏漠たる宇宙だった。本質的画家にとっては、色彩だけのなかに物体を見、それを把握し、それを自己の内部で、他の物体と結ぶあの画家の眼が無ければならぬ。自然に対しては、余りに細心に過ぎたといういうことも、余りに真面目に過ぎたということも、余りに屈従したということも、決してないのである。だが、多少、人は自己のモデェルを自由にするものである。そして、特に自己の表現方法を支配するに至る。表現方法をモチフに従わせなければならぬ。モチフをおのれに屈せしめぬがいい。それに対しては、おのれを曲げるがよい。それを内部に生まれさせ、芽生えさせるがよい。自己の前にあるものを画くこと。そして出来るだけは、最も論理的に表現しようと忍ぶこと。わしは、このほかのことは、決してやらなかった。君は、その時、君を待っている発見を想いやらないのだ。が、実現すべき進歩のためには、自然しか存在しない。そして、眼は、自然に接触して教育される。眼は眺め、且、仕事をするおかげで、同心的となる。(24~25頁)

■セザンヌ――(中略)いつかの晩、われわれはエーキスに帰りながら、カントのことを話した。わしは君の見地に立ちたいと思った。感じのある樹木達? 1本の樹と、われわれの間に、共通な何物があるのか。わしに見える通りの1本の松と、実際あるままの1本の松との間はどうか。あーん、わしが、もし、そいつを画に収めたら……そうするとだ、われわれの目の前に落ちて来て、われわれの画と成るのは、あの自然の部分の実現ではなかろうか……感じのある樹木達よ……そして、この彩画のなかには、範疇表の全部よりも、君の実在と君の現象の全部よりも、あらゆる人々の一層近づき得る外観の哲学がないのではなかろうか。それを見ると、自己との、人間との、あらゆる事物の相対性を、感ずるかもしれないのだ。わしは、独り思うたのだが、空間と時間とを描きたいのだ。どうしてかと云うと、空間と時間とが、色彩感覚の造形と成ってほしいからだ。というのは、わしは、時々、色彩を以って、実体的大実在(グラン・ザンテイテ・ヌウメナル)だ、生きた思想だ、純粋理性の存在だ、と想像するからだ。われわれは、それらとは一致し得るのでもあろう。自然は表面だけのものではない。深さを持つ。色彩は、この表面に於ける、表現である。色彩は、宇宙の根源から立ち昇る。色彩は、宇宙の生命である。宇宙の思想の生命である。その生命に対して、デッサンは全然の抽象である。それ故、決してデッサンと色彩とを分離してはならぬ。それは、ちょうど、君が言葉を使わずに、純粋の数字を以って、純粋の象徴を以って、考えようと望むようなものだ。デッサンは代数である。文字である。デッサンに生命が至れば、デッサンが感覚を意味すれば、忽ちデッサンは彩られる。色彩の充実は、いつもデッサンの充実と一致する。実際、自然のなかで、何かデッサンされたものをわしに、見せてくれたまえ。どこ? どこ? 素直にデッサンをして、建てるもの、壁とか家とか。それを見たまえ。時間や自然が、それらを、斜にたたせているのだ。自然は直線を怖れている。技師達には、馬鹿げた話だ! われわれは、道路係じゃない。技師達と来たら、色彩にはひどく悩まされている次第さ。あの連中はね……ところで、わしはだ……そう、感覚が、すべての基本だ。(30~31頁)

■セザンヌ――わしは、更に、次のように書きとめてある。(読む)

 【光を与える色彩感覚は、抽象の原因であって、これらの抽象は接触点が些(さ、少ない)やかで、繊細である場合は、わしの画布に彩色することを許さぬし、また、物体の区画限定を追求することも許さない。そのために、わしの画像なり、彩画なりは、不完全であるということに成るのだ。他面に於ては、写影の遠近が相互に落ちて合う。そのために、新印象派画家の嵌込み細工が生じたのである。それは黒線で輪郭を取る。全力を尽くして打破すべき欠陥だ。然るに自然に相談すれば、この目的を達するほうほうが、われわれに与えられるのである。】

 ギャスケ――で、それは?

 セザンヌ――写影! 色彩の写影。彩られた場所――写影の魂がここで合体する――囚われた日光7色熱、太陽に於ける写影の遭遇……わしは、わしの写影を、パレットの上のわしの色調でもって作り上げる。お解りか……写影を見なければならない……はっきりと……だが、写影を配置し、それを融合せしめることだ。それがね、廻転しなくっちゃいけない。そして、それと同時に、中にはいらなくっちゃいけない。容積(ヴォリューム)だけが大事なのだ。よく描くには物体間に少しばかりの空気がいる。ちょうど、よく考えるには、思想間に、感覚を中に入れるようなものである。瀝青(ビチューム)は平板である。論理は狭小である。写影がもうなくなっている穴倉のなかで、画をかく。直観が、もうなくなっている3段論法のなかで、緊めつけられる。ボール紙よ。膨れなくっちゃいけない。いいかい、君。諸々の色調の正しい挿入に於ける諸々の対照を、近親関係に置かなければいけない。眼の極く僅かばかりの過失でも、すべてを打倒する。それで、このわしと来たら、恐ろしいのだ。わしの眼は、幹に、土くれに、ひっついて了う。わしは、そいつを引き離そうと、悩んでいる。それだけ、何かが、わしを引き留めるわけである。

 ギャスケ――そうですよ。わたくしは、そのことに気がついていました。あなたは、次の筆を下ろすのに、時々、20分というもの、じっとしていましたね?

 セザンヌ――そして、眼だ。ねえ。わしの家内が、そう云っていたが、わしの眼が、頭から飛び出し、充血しているのだ……一種の陶酔、恍惚といったようなものが、霧のなかにでもいるように、わしをふらふらさせるのだ。わしが、画布から立上がる時に……ねえ、わしは、ちょっと狂人じゃないか……絵画の固定観念……フランノフェル……バルタザル・イラエス……幾度も、わしはね、そのことを、われとわが身に、たずねているのだ。(32~33頁)

■セザンヌ――(中略)誠実な人間は、血のなかに自分の法典を持つ。天才は生きながら、自分自身の法典を作る。そう、それに違いはない。天才は、他人の何ものも、無視はしないが、自分自身の方法を作り出すのだ。

 ギャスケ――一つの方法?

 セザンヌ――(中略)わしの方法は、空想の憎悪がそれだ。君。わしは決して、他の方法を持ち合わせなかった。わしはキャベツのように馬鹿でありたいのだ。わしの方法、わしの法典というのは現実主義だ。しかし、よく聴いてくれたまえ。偉大に満ち満ちた現実主義だ。真実なるものの勇壮である。クゥルベ。フロオベール、それ以上である。わしは浪漫派に属しない。物質の小さな拇指に於ける宇宙の無辺、奔流。これが不可能だと君は思うか。血で彩られた無窮よ。ルーベンスよ。(35~36頁)

■セザンヌ――アングルにも、やはり、血がない。アングルはデッサンする。復興期前派は、デッサンした。彼等は彩色した。自然の大きさで弥撒の祈祷文集の彩色をした。絵画、絵画と称されているもの、は、ヴェネツィア派と共に生まれている。テェヌの物語る所によると、フィレンツェでは、あらゆる画家達は、先ず、金銀細工師であった。彼等はデッサンをした。アングルのように……ああ、全くアングル、ラファエロ、そして、商品全体は、頗るきれいだ。わしは他の一人以上に鈍物ではない。わしは思いのままに線を楽しんでいる。だが、そこに暗誦がある。ホルバイン、クルゥエ、又は、アングルは線しか持たない。それだけじゃ充分ではないのだ。それは頗るきれいだ。が、それだけじゃ充分ではない。あの『泉』を見たまえ……純粋だ。優美だ。爽快だけれども、プラトニックだ。これは一つの画像(イマージュ)だ。空中では廻転しない。ボール紙の岩は、その湿気を少しも、あの濡れ肉の大理石とは、交換しない……周囲の滲透はどこにあるのか。(中略)。(48頁)

■セザンヌ――ドガは、画家には不足である。画家に成り切っていないのだ……ちょっと、タンペラマンがあれば、頗るつきの画家には成れる。一つの芸術感(サンス・ダール)があれば、沢山だ。そして、それは疑いもなく、ブゥルジョワの恐怖である。その感じというのは。それだから、学士院、年金、名誉なんてものは、阿呆達や、無考えの連中や、滑稽な奴等のためにしか、与えられ得ないのだ。そかし、わしの話しているのは、そういう連中のことじゃない。そいつ等は、学校へゆけ。教授連に即け。わしの知ったことじゃない。わしの心から悲しむのは、こういうことだ。君が信じて居られ、そして、わしに話してくれるあの若い人達が、いずれも、イタリアを走せ廻らず、また、ここルゥブル博物館で日を暮らさないということだ。後で、自然の懐に飛び込むだけで済ます。すべてのことは、とりわけ、芸術に於いては、自然と接触して発展させた、そして、適用した理論である。このわしの上に振りかかったようなことが、その若い人達の上に起こらないでほしいものだ。と、わしは願う。(54頁)

■セザンヌ――(中略)わしは来る途中、君に話したようなわけで、あの中世期の芸術のすべては、非常に感動せしめるものだが、それを、わしの芸術に、ルネッサンスの芸術に、対立させたのである。おわかりだろう。ああいった、中世期の礼拝式的象徴主義というようなものは、全く抽象的である。そのことを考えなければいけない。ルネッサンスの異端的な芸術は全く自然的である。一は自然を曲解して、われわれには、何か解らないが、神学的真理を表示する。他は、君がよく感じている通り、抽象を現実に連れ戻すが、現実は常に自然的であり、敢えて言うならば、肉感的な普遍的な意味を持つ。……わしの賛美するのは、林檎が復興期前派の聖母の手のなかでは、象徴的だが、ルネッサンスの聖母の手のなかでは、子供の玩具になることである。(中略)われわれ画家としては、救世主を讃える天使の渦巻きよりは、寧ろ、この葡萄樹の開花を描かねばならぬ。われわれの見ることだけ、或いは、われわれの見ることの出来ることだけを、描くことにしよう……あのジョルジォーネのように。ほれ、その……(57頁)

■セザンヌ――われわれのあらゆる空想を、大きな肉の夢を以って美しくしよう。気高いものにしよう。自然を空想から、描き出さないことにしよう。われわれに、それが出来なければ、それだけ、いけない。君、おわかりだろうが、マネは《草の上の昼飯》のなかで、何か知らないが、ここで、すべての官能を極楽入りさせるような、あの気高さの何か知らないが、顫えを加えなければ、ならなかったのだろう。(58頁)

■セザンヌ――わしは、理論的に、正しいことを望まない。だが、しかし、自然に即して、正しくありたいのだ。アングルは、その様相(ステール)にも拘らず、エーキスの噂や、彼の賛美者の話のように、頗る小さな画家に過ぎない。最も偉大なる人々と云えば、それを君はご存知だ。ヴェネツィア人達とスペイン人達だ。(63頁)

■セザンヌ――ああ、誰でも、自分の鍋のなかに、何が煮えているか位知っています。わしはあなたを知っていますよ、あなたを描いているのだから……ね、ギャスケさん。あなたには、確信というものがある。それが、わしの希望の最たるものだ。確信! わしが、一つの画に取り掛る度毎に、今度は、うまく行くのだぞ……と、自信するし、またそう思う。だが、すぐ思い出すことは、これまで毎度、いつでも、しくじったことだった。そこで、わしは、血をしぼる……あなたは知っているだろう、人生で良いもの、悪いものを。そして、あなたは、あなたの道を辿る……わしは、わしがこの手におえない画技を手に、どこへゆくのか、どこへ行ったらよいものか、決して知らないのだ。あらゆる理論は、内部的にする……これは、わしが、人生に於て、臆病であるためであろうか。実際、人に性格があれば才能がある。わしは性格があれば沢山だ、とは言わない。良く描くには、善良な人であることだけで足りる、とは言わない。そんなことなら、わけもないことであろうが……だが、道楽者が天禀を持つものと、わしは思わない。

ギャスケ――ワグネル。

セザンヌ――わしは、音楽家じゃない……それから、ね、いいか。道楽者というのは悪魔のタンペラマンを持つものでではない。常に、或るもの……一人の友達……であるためには、このタンペラマンを以って、けりがつくわけではないね。ギャスケさん。なにね、手をよごさないでおくことだ。芸術家なんてものは、多少誰でもそうだ。けれども、才能のないのは、正に、その連中なのだ。自己の芸術に就いては、変性しないものでなければならぬ。そして、自己の芸術のなかで、変化しないものであるためには、その生命に於て、そうであるべく、鍛錬されなければならぬ……うむギャスケさん、老ポワローはどう?

 要するに。為すことを知るということと、知らせることとがある。為すことを知っている時には、知らせる必要はないのだ。このことは、いつでも知れ切ったことだ。(82~83頁)

■セザンヌ――わしの云いたいのは、芸術家は、個々人の極端に限られた数をしか目ざしていない、ということである。そして、実際は、芸術家がその生きている時に、余り多くの人を知るのだから、たまらない。芸術家は、そのモチフと共に、その省察と共に、そのモデルと共に、おのが場所を生きなければならぬ。特徴を与えること……そして、とりわけ、性格の聡明な観察に基かない見解を軽蔑しなければならぬ。芸術家は文学者精神を恐れなければならぬ……ギャスケさん、あなたん所の息っちゃんが、よくわしを解ってくれますよ……この精神が、よく、画家を、その真の道から離れしめ、自然の具体的研究から遠ざからしめ、そのために手に触れ難い思索のなかに、長過ぎる位、落ち込んで了うことに成ったのだ。われわれは、百遍も、このことを言った……ああ、批評家達、あのユイスマンの連中……わしは、いつも、あの人達に、わしをぐるぐる振り廻す連中に、手紙を書きたいと思っていた……画技の基本を成すものに、3つの事がある。それは、あなたがたには、決してお解りに成るまい。わしは、そのために35年来、献身して来た。3ケ条というのは、慎重、誠実、服従。思想に対して慎重。自己に対して誠実。対象に対して服従……対象への絶対の服従。(88頁)

■セザンヌ――そーら、そーら、君は夢中に成っている……わしは、のぼせないよ。はぁ……その籠(籠を描いた絵)は、わしが後々の記念に、わしの御者にやったのだ。おわかりだろうと思うが、あの男は、わしの母をひどく大事にしてくれる……そこで、あの人は満足していた。わしに大変ありがたいと云った……けれども、あれは、わしの所に、その画を置いて行った……あれは、その画を持ち帰るのを忘れたのだ……何と君に言ったらよいのだろうか……その程度には描くことだ、それが、わしの運命なのだから。

ギャスケ――画伯……

(中略)

セザンヌ――わしは、画をかきながら、死ぬ、と心で誓ったのだ。《画をかきながら、死のうと、わたくしは自ら誓った》それは官能のためには、馬鹿に成って了う情熱の赴くにまかせる老人達を、脅かす耄碌のなかに、沈んで了うよりは、ましだ……神はわしのために、その事を斟酌するであろう。(97頁)

■セザンヌ――そうだ。君には、君の比喩がある。君の比較がある。われわれのデッサンが、余り眼につく時のわれわれのように、《ように》を連発するように思われるに拘らず。人の袖を引っぱり過ぎてはいけない。だが、画家のわれわれとしては、色調だけだ。眼に見えることだけだ……彼、バルザックは、御馳走の出た食卓の話をする。自分の静物をつくる。だが、ヴェロネェズ式にだ……1枚のナプキン……

 セザンヌ読む。

《……降ったばかりの雪が積もったように白く、そして、その上には、小さな白パンを盛り上げた食器が、対称的な山をなしていた》

セザンヌ――わしの若い時には、絶えず、これを描きたいと思った。清々しい雪白のナプキンを。今じゃ、わしは知っている、《食器が対称的に山をなしていた》ことと、《小さな白パン》としか、描いてはならないことを。わしが、もし《盛り上げた》のを描いたら、おしまいだ。君、お解りになるか。で、わしが、ほんとに、わしの食器とわしのパンとを、自然に即したように釣合をとり、暈せば、花環も、雪も、あらゆる振動も、そこにあるべきことを確信されていい。(100頁)

■(美術館の)戸の上に、わしは、彫らせよう、《画家達入るべからず、外に太陽あり。》(103頁)

■セザンヌ――昔の人達は、どうしてか、わしは知らないが、数キロの仕事をやってのけるために、行動した。わしは、50センチのカンヴァスを塗り上げるために、自分を焼き尽くし、自分の命をつめている。構うものか。これが人生だ。わしは、画をかきながら、死のう。

セザンヌ――わしは、画をかきながら、死のう……画をかきながら、死ぬ……(104~105頁)

■ピサロはわたしを好く思っていますが、このわたしはわたしで、頗るわたし自身を良く思っています。周囲の全ての人達よりも、わたしはずっとえらいのだと思い始めています。わたしが自分の都合のよいように考えていることは、良く知っての事です。わたしはふんだんに勉強しなければなりません。これは愚鈍な奴にほめちぎられるような結末に達するためではありません。通俗的に世間で評判取るようなことは職人の工技の所業にほかなりません。そんなものは、作品を非芸術的なものとし、取柄のないものとするばかりです。一層真実となし、更に高尚にしようという悦びのため以外は、わたしは何も附け加えようなどとは、してはならないのです。

 威をもって臨む時が、常にあるものですし、また、空虚な外観にいい気になって眼を細める人達よりも、遥かに熱心で一層徹底した賛美者がいるものだ、ということを信じて下さい。(1874年9月26日母への手紙)(118頁)

■わたしは、少し遅れて自然を見始めた。と言っても、それがために、興味津々たるものあることを止めはしない。(1878年12月19日、ゾラへ)(120頁)

■わたしは、理論的にわたしの試みの結果を弁護できる、と感ずるようになる日までは、黙々として仕事だけすることに決心した。

 〔1889年11月25日に、セザンヌはかねてベルギィの20人界のマウス書記長から

  ブリュッセル展覧会に出品方を勧誘されていたので、承諾の旨答えた。1877年

  以来、セザンヌは印象派展にも出品せず、ひたすら沈黙を守りながら制作にい

  そしんでいたのである。彼はもう50代に達していた。〕(121頁)

■光を与える彩色感覚は、抽象の原因であって、この抽象が、わたしの画を塗抹することも許さず、また、物象の限界を追窮することも許さない。これは接触点が微弱で、繊細の場合のことである。そのために、わたしの画像なり画作なりが不完全であることが目立つのである。(1905年10月23日、ベルナアルへの手紙)(123頁)

2009年2月3日

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『回想のセザンヌ』エミル・ベルナール著 有島生馬訳 岩波文庫

■翁は近東風な敷物の上に3つ骸骨を並べた畫を描きかけていられた。これはもう一月も前から毎朝従事していた仕事で、朝の6時から郊外の畫室に通い、10時半頃いったんエクスに帰って午食し、直ぐ又モティフへ風景写生に出かけ、5時に帰って来るというのが生涯の日課で、四季何時も変わる事はなかった。帰って来て夕食を済ますや否や床へ滑り込んで終う。そういう風だったから度々酷く疲労し、話す事も聞く事も出来なくなって、夜具の中で不快な昏睡状態に陥っていられるのを見かけたが、翌朝はいつも亦元気を恢復されていた。

 3つの骸骨を指して、「まだ足りないのは實現(レアリザシヨン)だ。私はそれを補うまで漕ぎつけ得ると信じているが、御覧の通りの老体である、崇高な其の点まで達し得ないで、死んで終うかも知れない。ああ、ヴェニス人等が成就したような實現!」話題はそれからも度々聞かされた次のような意見に移って行った。「私はブゥグロォのサロンへ合格したいのだが、この實現という事が十分でないため、妨げられているのを承知している。視覚の問題などはいうに足らぬ。」固より世にときめく大家連の批評には何等の信頼も措かなかったろうが、その所信は常に正當な判断で、獨創が邪魔になり自作の不完全を認め得ないような事はなかった。(22~23頁)

■實にⅠケ月の滞在中というもの、絶えず翁は『骸骨』ばかりに執着して描くのを見た。恰も遺言状でも作る勢いで。この繪は朝夕色も形も見違えるほど必ず變ったが、いつも自分にはもう十分に出来上って居て、そのまま畫架から取外して差支えないように思われた。翁の制作の態度は恰も畫筆を手に握ったまま瞑想しつつあるようなものだった。

 その他には新しく備えられた大畫架に、浴女裸身が大畫布が、まだ顚倒の有様のままで載っていた。デッサンが可成り狂って見えた。なぜモデルを使わないのですと訊いたら、翁が答えて50を超えれば餘り厳格に人がそれを咎めはしないにしても此の年で女を裸體にするというのは愼まねばならぬ。然しエクス一圓にモデル女を見出すことの困難も知って居られた。カルトンを探し出し、青年時代アカデミィ・シェイスで勉強された頃のデッサンを示された。「いつもこのデッサンで間に合わせているのだ、勿論十分ではない。然し私の年齢では仕方がない。」この極端な捉われ方と遠慮とは、一つは婦人に對する護身のため、一つは宗教上の廉恥心と田舎の小さな町では何等かの噂なしに濟まされないと云う正直な心掛けからとであるらしかった。――(中略)――それともう一つ翁の氣に入っていた譯は、例の有名な實現(レアリザシヨン)の件である。翁は一月の間Ⅰ日でも實現を口にされない日はなかった。(24~25頁)

■一體翁は世間の評判を大層嫌われた。一度ブリュクセルから20餘枚翁の作品を載せたカタリグを受取った事があったので、それをお見せした時もてんで見向きもしないで、勤めて話を外にそらして終われた。翁の研究法には何時までも停止ということはなかった。若し尚お永生されたとすれば、それ迄の仕事は結局その初階たるに過ぎなくなったであろう。「私は毎日進歩しつつある、私の本領はこれだけだ。」翁は公言された。

 屢々よくなっただろうと云って見せられた作品にも、實際は以前と較べて劣るように思われるものがあった。然し翁は胸裡に確たる理想を抱いて居られたのだから、その斷言には決して遲疑のあろう筈がなかった。かかる確信はあったが、ただ作品の仕上げにまで至らぬと云うのが翁の缺點だったらしい。翁の製作は波はずれて遲緩だったため、多數の未成品が出来た。ブゥルゴン町の畫室續きの物置には此の種の風景畫などが澤山投げこんであった。スケッチ風と云うでもなく、習作と云うのでもなく、ただ色階をやっと始め出した許りで休めてあった。それ等は畫面全

體が未だ塗り潰されてもいない位で、モティフの何たるかがやっと分る程度だった。世間の人々が此の種の「やりかけ」で直ちにセザンヌを判斷しようとするのも大きな誤りの一つである。(30~31頁)

■或る時「調子の變移(パッサージ・ドウ・トン)とは元々ルフレに始まるもので、すべての物象はそれに隣接する境の蔭を基點としている。」〔注:Pour moi, le passage du ton a son origine dans le reflet; tout objet parsicipe sur ses bords ombreux de son voisin. こうである。いま影、日向、色彩等悉く物體が生ずる光線の効果をルフレと考えてみるなら、ふつう譯す反映或いは反射よりも内容が明らかになるかもしれない。〕という卑見を陳べたらば、その定義を尤とされた。「君の見解は正しい、だからまだ進歩する。」と評された。自分はすこしずつでも翁を理解し得たと思い滿足を感じた。印象派の畫家に關して「ピサロは自然に肉薄した。ルノワァルは巴里の女性を創った。モネェは一種のヴィジオンを與えてくれた、外には取立てて云うほどの者はいない。」特にゴォガンに就いてはその感化の恐るべきを酷く嫌われた。「ゴォガンは大變貴方の繪を愛し、又努めて倣おうとしていました。――と云うと、――そうかね、ではてんで私を理解していなかったのだ。――と聲を勵まして、――私は決して圓味(モドウレエ)や、調階(グラデエシヨン)が全然無視されている作品を押賣利されようと思わない。彼は無視覺な男の一人だ。てに油繪の筆を持っていた畫家ではない、ただ支那式の形像(イマーデュ)を描いたと云うに過ぎない。」かくて形體(フオルム)にし、色彩に關し、藝術に關し、藝術家にし、翁の理想とする所を説明された。(31~32頁)

■エクス 1904年5月26日

  わが親愛なるベルナール

 君が「西洋(ロクシダン)」の來月號に發表されんとする観想はかなり私を感心させた。

 然し私はいつもこの一點へ歸る。畫家は先ず自然のけんきゅうに沒頭し、自己の修養であるべき繪畫の制作に努力せねばならぬことだ。

 藝術上の論議は殆ど無益に等しい。自分の仕事で一歩一歩進境を獲得しつつ進むそれだけで十分だ。俗物共の無理解に對する賠償であるとみていい。文學者等が抽象の言語を弄する間に、畫家は色彩と素描とによって、その感覺、その認識を築き上げて行く。

 餘り心配性でもいけない。餘り凝り過ぎてもならぬ。餘り自然に捉えられ過ぎるな。兎角はそのモデル、殊にその表現法に自主たらねばならぬ。眼前のものに悟入し、出來るだけ理論的な自己表現に執着せよ。

 善き握手を!(60頁)

2009年2月5日

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『私の絵 私のこころ』 坂本繁二郎 日本経済新聞社

■19世紀後半からフランスで始まった印象派は、モネ、ピサロ、シスレー、セザンヌ、ルノワールといったそうそうたる画家が苦心して打ちたてたものです。クールベの「自分は目に見えるものしか描かない」という写実精神が根となり、そこに主観的で情念の真実や、科学的な真実をそれぞれ唱える印象各派の枝葉が咲き伸びたのです。私は、その西洋独自の合理性、組織性、集中性にはひかれたのですが、まだそれだけでは尽きないものが絵の世界にあるのではないかと思い続けていました。

 理論があって絵があるのではありません。あるとすればそれは追随です。絵があって理論があるのではありません。あるとすればそれは批評の分野です。制作を通じての思索と苦しい試行錯誤のなかからあふれ出たものが、その人それぞれの〝絵のことば〟になるのでしょう。(51~52頁)

■肉感的な立場、皮相的な立場、それは多元的で感覚的なとらえ方だと思います。自分を虚にして自然の脈動にふれるにはより精神的な態度がひつようなのであって、その虚の世界から出発した自分の上に、初めて充実した存在感を築くことが、永遠の個性を生み出していくのではないかと思ったのです。言いかえますと、自然を写生するときは、自我を消してしまうのです。そうした後に向こうを見て、自然から自分に宿ってくるものをいかにしてカンバスにとらえたらいいのか――これが私の模索するテーマのひとつでもありました。時代を超越すること、限内の喜びや悲しみでなく、さらに大きな世界に通じる喜びや悲しみであること、この二つが絵に限らずすべての芸術についていえることです。はしくれとはいえ芸術の世界に足を突っ込んだ以上、引き下がるわけにはいきません。目標とするところにどれだけ近づけるかわかりませんが、安易な妥協だけは考えませんでした。(54頁)

■パリの画廊街は、われながら実にたんねんに見て回りました。売れっ子はピカソでした。私より一つ年上だと知りましたが、あふれるような器用な感覚と技法を持ち合わせ、腕にまかせて描いているのだなと思いました。過去の作家のよさを絶えずとり入れ、構成にしろ、色の調子にしろ要領よく煮つめて〝見せ場〟をつくる才には感心しましたが、では絵の中にどこにほんとのピカソがあるのか、と開き直ってみると、当の本人はどこかソッポを向いてこちらがだまされたような感じがします。絵を見て、自分以上の人にはただ頭が下がるのですが、ピカソには、うまいと思っても頭が下がるところを見いだせませんでした。

 セザンヌはあまりに合理的で組織的で、淡彩のなかには、東洋的に近いものがあるのですが、理屈っぽさが先にきて、ゴッホの理屈なしのよさと対照して私には不満でした。またミレーの絵にも東洋のにおいといいますか、芭蕉、蕪村の句に近いものを感じましたが、日本人の私にとってはそれは普通の世界に過ぎません。

 その点コローには頭が下がりました。目に見えた道具だてをせず、風景、とりわけ人物の方でありのままの認識をこめて、自然そのものをにじみ出させています。コローを平凡とみる人もいるのですが、私は過去から多くの人がやってきた壁にぶち当たった場合、新奇な道を切り開くことより、その壁に正面から取り組み、一歩でも踏み出すことの方が偉大であもあり、新しくもあると思っています。その意味でコローはあらゆる近代思想を超越した新しさとクラシックの味を見せてくれました。フランスでの収穫は、コローの作品に接したことだといまでも信じているほどです。(75~76頁)

■抽象とか具象とかいいますが、心より技のまさった抽象画に比べれば、心で描いた具象の方がより抽象に近づくのではないかと、馬を描くうちに強く確信しました。

 光こそ自然が語りかけてくれることばとさえ思いました。アトリエの光のぐあいは、制作する私にとって生死をきめる問題です。ひとつ、ふたつと窓を閉ざしていくうちに、アトリエ中の窓を全部板で打ちつけ、窓からはいる乱反射や雑光を断ち、天窓からの純光で仕事をするくせがついてしまいました。(90頁)

■受賞(昭和31年文化勲章)の感想を求められて私はこう答えました。

「作家がジャーナリズムの波に乗ることはたいして誇りになることとは思いませんし、評価と実力がピッタリくることは恐らくあり得ないことです。評価以上の力があっても、またそれ以下の場合でも、悲劇ではないでしょうか。画家はただ自らの作品そのものの喜びにひたる希望があってこそ生きがいといえます。真に向上を意味する新しく実のある作品が出来にくくなると、再び古代の作品が見直され、あこがれとなるものです。最近の世相は、単に新奇であるというだけのことでもてはやされ、新しさを単に種捜しのように追い求めていく傾向が見られますがそれは一時の評価を得ても、あわれともいえます。

 画家は一般の人より割合に社会からかわいがられているようですが、趣味としてやるのならば別として、作家道に進むということは、生活態度においてもなまやさしいものではありません。芸術において形式こそ違っていますが、古来よりの東洋の作品も、西洋の作品も、高度のものほど自然に淘汰摘出され、つまり〝よいものはよい〟という至極平凡な点に落ち着いて、東洋も西洋もそれぞれほほえみ合っているように思います。もしこの事実がないなら、私たちはそれこそ芸術の向上の方向も希望もあり得なくなりましょうし、それこそ請来の光明もなく、ただ単に現実場当たりの仕事のみになってしまって、過去、現在、未来、一切のすべてが無意味となるでしょう」。(106頁)

■「物の存在を認むる事に依って自分も始めて存在する。存在によりて存在する意識は、自分の外には何物もないけれども、物の存在を認むる事は、自他同存でありながら意識には物なる只其事のみである。自分なる者があっては、それだけ認識の限度が狭くなる。自己を虚にして始めて物の存在をよりよく認め、認めて自己の拡大となる。此存在の心は、自然力その脈動する意識であるかも知れない。刹那々々のみを、自分たり得る心である。強いて説明すれば消滅するこころだらう。」(「存在」明治44年)(147頁)

■「自分の五体の現肉欲に依りて見たるものは、たった皮肌的神経の力の範囲である。音も、色も、熱も、確かに認め得るには相違ない。けれども自分丈けの事、例えば不透明の物のあちらは見へない丈けの認め方である。それで此神経が動いて居る間は、其れ以外の脈動と云う様な意識は隠れてしまって居る。虚の意識は我利と相容れない、我利も極度に達すれば又別であるが、要するに文字は只仮示である。人体には自分の肉丈けの欲を充たす丈の神経と共に、意識の慾望と其の可能性が存して居る。若し之れがないならば、哲学など云う意識探求の喜悦があるわけがない。哲学的進路に誰れが眼を円くして心を引かるゝものがあるだろうか、直接衣食住其事でない此の道に、人が興味を持つ筈がない。或は哲学に無感興の人もあるに相違ないが、其等は根本的に意識力が少ないか無いかで、其無い意識を辿る事ならば、無論馬鹿気た無用事に相違ないから、感興もないだろう。此種の人はそれ丈け狭い範囲に存在して居るので、其人の叫ぶ権限は随つて狭い範囲にしか力が及ばない。怒りと笑ひと泣くのと而して相論ずるときは、必ず喧嘩である。火に手をあてゝ熱いと云う意識を、馬鹿として笑う事が出来ない様に、哲学の意識は理屈ではなく本能意識に於てである。狂とは違うのである。それが一見非実際なるかの如き形なるが故に、狭い実際場裏に稍ともすれば無視される。しかし哲学意識程、実際界に密接して離るゝ事の出来ぬ意味のものはない。」(「存在」)(148~149頁)

■「哲学に渉つた芸術は必ずしも人間と関係を保たない方面と、又最も適切な関係の方面とあるだろう。無論人的立場より求むる心の要求には、関係の適切なる方面が交渉するに相違ないが、一元的芸術には、又肉的局限立脚の芸術では及ばないものが宿る。それで之れが世間と云うところに用事を持つとき、肉的立場のものは狭い近い周囲にのみ関係を持つもので、時代でも過ぎれば直ちに忘却さるゝ芸術であるが、一元的のものは総べてに脈動して時代を経た世界に迄、何処迄も関係を持つだろう。斯くして却つて尤も世間的用事を発揮して来る。之は人間向上欲の大なる一つの方向で、この立場より見れば、人肉限内的欲望は狭い消極の満足にしか見えないだろう。」(「存在」)(149頁)

■「時勢や知識は何処までも横には拡がる。しかし、それは必ずしも感能の深さではない。作品の上では之が屢々混同されて、唯時勢に依って作られた形式の変化に過ぎないものでも、直ちに感能の深さであるかの様に間違へられる事がある。

 平面的進行は左程の骨は折れずに、時勢や流行の力で以て、無性者でも働き者でも差別なしにどんどん押しやって仕舞う。今日の小学生徒は遊び半分に、14、5年前の大家の苦心惨憺で以つてやつと仕上げた様な事を、御茶の子で仕て退ける。但し多くは平面的丈けの意味での事で、深さの方は時勢や流行と必ずしも倶はないから、各自の先天的器量の馬力に依る外仕方がない。だから此方面にレコードを破る程の進行をする人は容易に出て来ない。」(「方寸」大正2年)(150~151頁)

■「(前略)吾等は善人に反感を持つ事を普通の心では不条理とも見えねばならぬが、一面にの此の動かす可からざる或る物は根強くより真実を求めんとする心に隠れて居るから仕方がない。

 この心持は直ちに作品の上に屢々見るのである。才気溌剌として、何処迄も、只自己と云う馬力だけが推進器となった作品に殊に多く見らるゝのである。一見すれば眼を眩する斗りに正直でもあり華やかであるが、認識浅き才器は遂に何処迄進んでも才器であって、何物か隠れたる骨格の様なものゝ不足を感ぜざるを得ない。物の捉まって居ない不足である。此例証は現在の我画界の人と作品についても思当らるゝものがある。物を否定したり是認したりするのも理屈の上丈けでの是否では無論だめである。其人格から出る必然のものでなければならぬ。」(「思って居る事共」大正2年)(152~153頁)

■「画を描くからには誰れでも何かつかむところがあるに相違ない、しかしつかむと云う事は其処に悲哀がある。画を描くからには何か其処に機縁がなければならぬだろうけれども、希望より云えば、つかむと云う事は仕たくないものである。つかまずして現はれたものなら、まだまだ自己の真実の形を見得る丈け我慢も出来る。自己に意識しない進行には、詭りのあり得様がないからである。意識して歩を進めると云うところには、多く或る不満が倶なひ勝である。意識は知的になり易い。知らず知らずにも本能感得の純を妨ぐる事があるからである。其れかと云って意識なしに進む事は事実される事ではない。偶然の結果以外に其れは期待する事は出来ない位置である。それでそうなると進路はただ一筋の羽目から羽目を進まぬわけに行かない事になる。(「進路」大正3年)(154頁)

■「要するに新鮮と知とが相容れない形を持って居る間、吾等の進路は是が非でも此の無理な形に居ねばならない。此処に不断足の裏に火の燃えて居る悶々が起こる。知は何処迄行つたところで盲に追い及ぶ事が出来ない。盲は又知に従わねばならぬ、困った形なのである。吾等は批判の心を要すると共に、愈々歩を進めるときは盲に就かぬわけにいかぬ。盲知に依って新鮮の世界に接する以上のいゝ道を、今の処思う事が出来ない。若し一を知って其儘一に居たならば、其処にはもう堕落の第一歩が芽ぐむであろう。知って其儘居るのは安逸である。其うして安楽に居るには此世界は余りに勿体ない。進む可き唯一の真実の道は、かくて盲に就いて得る捨身本能覚の道しか開けては居ない。止むを得ず吾等の最上の難有い位置は只黙々の裏に迎合するのみにならぬわけに行かないのである。批判の上からは色々と価値の上下も出来得るけれども、創作進行者には実際難有いものゝ外に難有いものゝ有り得様はない。」(「進路」)(154~155頁)

■「進行の上に注意すべきものゝ内、根本的に大切なものは云う迄もなく其質の如何である。質は直ちに其人の生き甲斐、描き甲斐の如何で、画の向上と云ひ、よしあしと云ふも、要するに質を措いて他に何物もない。質の如何は直ちに意味の如何であり、其人の生き甲斐の光明の如何である。質は、主義や振りや見かけではない。只其人と自然との交渉の度合いの正味其物である。」(「画の質」大正3年)(155~156頁)

■「所詮真とか生命とか云う様な感じ等も、要するに人と自然との交渉された質の純なところに起る感じ、又は之を他から見たときに起る感じだと思う。小児の画の真実的なのも、要するに質の純なる交渉の表現である故に外ならぬ。そして何れ丈けかの質は誰しも持って居るだろうし、従って其各質其れ其れ相応丈けの事は大なれ小なれ真性の画が描け得られねばならぬわけであるのに、其れが描けないと云うのは何かつまらぬ雑念に目が暗んで居るのだと思はねばならぬ。」(「画の質」)(156頁)

■「すべて無意味に属する真似の行動は、自質認識の不明か弱いところから起る。例え自質は小さいのでも、其声は其れが其人の正味の総べてで、より以上の意味の何物もない筈である。けれ共自分の側に自質以上の大きな質が現はれると、自質の声は打ち消され聞取悪くなる。だからしつかりせねばならぬ。豪らい芸術は一面誘惑者であり、又吾人の行く可き道を御先に失敬されたものだとも云える。単に自質の叫びを放散すると云う事丈けならば、まだしも誤りは少ないけれ共、向上の努力が動くところに自質の叫びが迷ひ出す。自分以上のものは青も赤も其れが前途であるものとして現はれる。自質の手綱は此時一層の厳しさを要する。自質の叫びをよく聞き得しもののみ其歩みは太り、聞き誤つたものが後悔する羽目になる。始めから自質の声を誤つて進むならば、云う迄もなく結果は右往左往で、結局何も進み得ない事にならねばなるまい。」(「画の質」)(156~157頁)

■「感激、総ての事は只此一事に尽きる。理屈はない、感激が事実であるならばそれが真であらねばならぬ。優れた位置と云う様な形式に知らず知らず進む事がある。そう進む事に或る嬉びがうつかりすると働くけれども対自然の生活味は位置の様な形式ではない。。只感激丈である。其証明丈である。それ故に無知の幼年も感激に於て老年者の上に立つ事が出来る。生活味が強いのだ。それ丈け高価と云っていゝ。複雑とか広さとかの価値は横に拡がる計りである。」(「感激」大正4年)

「感激とそれに倶う誠実、良心、何れも兄弟分である。人の顔に露骨に現はれるものは誠実の有無である。そして彼は其処に彼の感激の有無を語って居る。専門家の相貌には従って芸術の有無も大抵顔に示されて居る。誠実なくして芸術の事を云々する者に対する程心持ちのわるいものはない。要するに感激の有無は直ちに善心の有無と云ってもいゝ様である。」(同上)

「作品の消えざる意味なるものは此の感激の働ける故に外ならぬ。感激を作品にする以外に芸術の作品はない筈だ。其の感激を無理した努力、感激のない只の馬力で出来た作品、之等は皆折角出来ても反古になる作品である。感激は何うしても事実の真に相違ない。感激の何物であるかを味得された者ならば、情理共に味得されたものとしてもいい筈だ。貴というものは実に感激である。」(同上)(157~158頁)

■「素描は単調であるが、澄切った表現が出来るからいゝ、色彩も出来ることなら素描の如くぴつたりと現は度いものだが、色彩の持つ反映関係はどうしても時間的感情の重積となる傾向があり、特に洋画的色彩に於て其建築的長所と共に時間的とろさが短所となる。大抵の洋画が一面面白い絵でありながら、、深さもありながら、常に此とろさにつきまとはれて居るのは残念である。最も此短所を見せたのは、初期印象派である。色彩には目覚めたが時間的な科学的な弊害にも取付かれた客観的印象をたどりたどりして居ては例へ或る主観はあるにはあつても、要するに際限なき連続の集積に過ぎない。之が色彩なくして形の上に現はれたのが先年当り一時流行したやたらに細かい描写の無駄手間である。後期印象派になるとずつと此点が主観的に一図が一つの心として一元に近づいたが、すかしまだ時間的感じを脱しては居ない様である。其処に行くと、ずっと古代の絵や、ミレー、コロー等の態度は頭の中で一応噛んだ自然で、所謂写生的とろさはない。ミレーの『絵は一応自然から放れて描く可きものだ』と云う心持は、此辺にあるのだろう。東洋の絵は、土台最初より此態度だから時間的な感じなどはもとめてもない。しかし空間的適切さに於てこそ之でもよいが、建設的厚味と現実的直接さに於て、何うも浅く走り度がる一長一短である。更に此両方の長所を握む事が吾々の前途に横はる問題だ。」(「素描と色と」大正10年)(161~162頁)

■「仏国は美と科学とを調和させることを誇りとしているそうですが、全くこゝでの美の展開は実に合理的で、事によつては其道筋が余り見え透いて微笑されることがあります。」(「巴里通信」大正11年)(163頁)

■「絵画に於ける物感は凡そ画である限り何程かは必ず裏付いて居るに相違ないが、人によりて物感の厚薄は甚しい相違がある。中には殆ど物感など無視されたものもある。しかし其いかによき色彩の趣味性であり明確らしい線条が引かれてあるとしても、それに物感の裏付いて居るものがないならば、それ丈物足らぬものであり、作家の趣味又は主観的意志以上の生活感は稀薄となる。物感は特に作家の本能的個人的なもので、形や色の如く人間相互の感化伝習が容易でない。趣味色彩も勿論個人的なものではあるが、物感に比すれば遥かに共通消長のものである。物感はそれだけ画者個人的生活感の実証が裏付いて居る。時代思潮や趣味やを超越して、尚且つ今日の人にも働きかゝるものをもつ古代作品の如きは、作家の偉らかった本能物感の働いて居る力に因るところが深いのである。永遠性の如きは物感の裏にあるとも云えるであろう。」(「硲君について」昭和5年)(167~168頁)

■「勃興時代の作品は物感が凡そ盛んだが世紀末的になる程技巧が之と入りかはる。技巧の練達、思想の新奇を誇られても、物感的実質が之に裏付いて居ないのでは、遂に問題が問題ともならないのである。東洋画の如く気韻墨色精神に重きを置かれ、一見物感と云う如き実形を超越された如きものでも、其事実は矢張り画面の墨色に裏付く物感なくして何の表現でもあり得ないのである。気韻も精神も物感に確実性があつて上の事で、よい作品にならばなる程此事は明らかに実証されて居ると思う。紙本に於ける墨色、床の間との調和等の上から、表現の約束が自づから東西洋の面風を甚敷別趣にして居るけれ共、絵画成立の帰するところにかはりはないであろう。」(同上)(168~169頁)

■「絵画にありては其作家の思想、色々な主義、傾向の相違も帰するところは作家の本能力の範囲に制限さるゝので、此点如何に思索的であつても多角的躍進家であつても、結局はその点保守の形に傾くのを何うしても免れない。先天的に受けた性格は、青年期にありてこそ多少の成長はあるとしても、そうそうは変化するものでなく、如何に努力精神の人でも此点其進歩は常に遅々として居るのが普通である。錬磨によりて技術的に進歩し、又内容にも其処に次第に覚醒は勿論あるけれども、天分本能の範囲を一歩も出る事は出来ない。理知や思想は画に方向を与へるけれども、画を決定するものは本能である。常に外貌を色々変化させる作家でありながら却って実質は単調な足跡を作るやうな皮肉なのもある。」(「本能」昭和13年)(171頁)

■「単に鑑賞する立場にありては、日に月に新時代の空気を求めらるゝのも当然であるが、作家としての実行となるとそうは行かないのである。ここでは一生涯をとしての一個人としての最高能率を目標としての歩みでなければならない。作家其人の正確にもよる事であるが、凡そ日に月に新らしさの方向に進むが如きは、希望は別として実際問題としては自殺をするに等しい結果を見る外あるまい。平面的な単なる衣更へ的変化ならば、比較的仕易い事でもあろうが、高度、深度を重点とする者にありては、之を一言にしていつて見るならば、10年間のたゆまぬ精励で一歩前進向上を遂げられたのならそれは好成績と解される。人間本質的の向上脱皮は容易な事ではないのである。単なる画描き技術的のみの変化が屢々向上と履き違へられないやうにすべきである。創作家としては此意味で時代生と云う事に対しても、自らの歩みを考へねばなるまい。私の考へでは、永遠性、人間性を期する高度、深度に力点を置いて歩む者にありて観者の要求の如く刻々新を追うよりも或程度保守の形となるのは当然止むを得ないものと思ふ。批評家の中には新傾向に同情の余り、そう云う傾向の作家を推奨して、却つて、ひいきの引き倒しをして居るやうなのも見られる。作家自身としても此点錯覚しない用心が必要だらう。」(「当面些語」昭和21年)(172頁)

■「古今の歴史を見ると一応新旧の隔たりがあるやうに見えるが、之は日常外形の生活事情の隔たりに錯覚さるゝところ多く、作品の実質的働きが人間に交渉して居るところは、古作品と新作品の時代性は超越して居ると思ふ。又実際に現はれて居るところに見ても、結局高度、深度のより大なるもの程応用の働きをもして居ると思ふ。大衆性と云う如き事も結局はそれであると思ふ。深度、高度の増大はそれだけ共通性となり、超国家的となり、人類的となる。即ち美術が超時代性を具有する限り、此の事情に消長するものだらうと思ふ。勿論之は美術の本質的要用の意味で応用美術方面を云うのではない。」(「当面些語」)(173頁)

■「古来日本画の組織が大体丈山尺樹等の組立で出来て居りますが、用紙との関係もある事ですが、気持丈け走った具体組織の根底不充分の悲しさ。之れが実に古今を通じての大作家になる程一層痛切な意味に響いて居り、此事は単に美術以上何だかすべての文化乃至政治の如きも同様東洋の悲哀をいみするやうで此組織不足の為東洋は兎角西洋から押されて居る感があり兄の御著(構図の研究)の如きは正に此不足を補ふ絶好の滋養に違ひないと思ひます。しかし現今の日本画畑に何処迄生きた意味にあれを吸収出来て居るかどうか、組織不足のまざまざの現象として古来の流派を利用して居る作家のみ辛ふじて画がまとまつて居る有様。組織の根本なくして西洋流を取入れようとして居る新派作家のあはれな苦労。此点日本の西洋畑の方は立体観念も組織力も余程向上して居りますが、之れは又西洋流の悩みをぬけずに居るやうで、つまり印象派以後に現はれた多元的写生神経の為めの統一不足。西洋の作家も之を克服すべく努力はされて居りながら仲々それが六ケ敷いものとなつて居ると思はれ、セザンもそうですが、ヂュッフィの如く心性作家でもバラバラを組立てた一元形をやつと製らへて居り、ルオーの如き努力も小品は相当迄行って居るようですが、矢張り気息切れを見せて居る。日本の洋画も西洋流の多元性がまだ一元を得て居るところ迄なつて居ないのが大部分ではないでせうか。」(『黒田重太郎宛書簡」昭和21年)(174~175頁)

■「東洋は作品の質に力点が傾いて居り之に比して西洋のそれは量的にも要求が深いやうに思はれます。此二つの帰着は、勢東洋にては人間性人格が問題の主要性となり西洋は仕事と云うところに傾き易い。西東室内装飾の好みにも此要求のあり方がまざまざと現はれて居り、東洋と云つても支那や印度はやゝ日本よりは西洋味が加はるようですが、吾々にありて心からの満足を得るには結局量よりも質になるやうに思はれ、尤も量的又は計画性、構成の如きも質の一面と云えますが、矢張りそれに人格の質が供はらないならば頭は下がらぬやうです。」(『黒田重太郎宛書簡」昭和25年)(175~176頁)

■「小生の抱いて居る油彩についての考えを云つて見ますと、油彩表現の長所が実相表現に便宜であるところにあるのですが――絵画表現に就いて現在考えられる理想的状態は、実相具象つまり作家の姿が出来る丈そのまゝの真相を現はす事、例へ表現法、其形式の如何にかゝはらず抽象となりシュールとなりキュービックとなっても此実相具象を帯同せる範囲にある事が必要と思はれる事。若し此根本性が他に外れて抽象が勝手な形の抽象化となれば、其造形が如何に明確愉快に絵画的構成色調の美しさ等が発揮されたとしても、結局は絵画としての目標よりも工芸美の方へ近づく事となり、作品として面白くとも人間表現としての力が稀薄に傾く。近代抽象作品に共通する一長一短がこゝにあり。あらゆる方面に自由明せき、多様性の装飾性、構成、表現に於て魅力的であり、会場効果的である事は結構ですが、絵画が単に面白く又美しい装飾的魅力に留つてよろしいものならば、特に絵画としての独立した境地もなくなり、他の工芸品とかはらぬ存在でしかない事になります。絵画は絵画の長所であり得る人間表現でなければならぬと思ふのです。」(「井上三綱宛書簡」昭和25年)(176~177頁)

■「絵画と彫刻が特に単なる装飾美以上の表現に適して居るのは写実力のためであり、折角の児童自由画の殆んどが面白さはあつても足りないのは此写実の不足から来るもの足りなさで、大人の画でも写実のないものは面白いものでも児童画に近似する。写実の真実(広い意味の)こそ人類的エスペラントの大道のあるところで大事な問題のあるところと思ひます。しかし抽象とか写実とか名づけても明瞭な境界線があるわけではないので此要点を把握するのが天才の仕事でしよう。」(「井上三綱宛書簡」昭和29年)(177頁)

■「作家の社会的関係は、一般に評価されている線より偉すぎる場合でも、また力が足らぬ場合でも、夫々悲劇ではないでせうか。当面の社会に、ジャーナリズムの波に乗って何事か迎合されたとしても、それは作家として大した誇りではありません。画家は一般の人より割合に社会から可愛がられている様に思はれます。然しそれでありながら、社会的関係には悲劇の運命に晒らされ易い事情もあります。画家はただ自らの作品そのものゝ歓びに浸る希望があつてこそ、生甲斐ともなるものです。

 絵画を趣味乃至修養としてやるのならば別ですが、作家道に身を進めるといふことは、対社会関係に兎角矛盾を生じ、生やさしいものではありません。そして真に向上を意味する創作の新しさは、本質的に過去以上の偉さ良さが備つたものでなければなりません。単に新奇といふだけのものでしたら、変質者でも、気狂ひでも出来ることです。

 新しい実質のある作品が人間の能力の限度で愈々尋常一様では出来なくなつてから先きの事を仮りに想像しますと、新しい作品よりも古代作品が人間の憧れとなるやうな、皮肉なことにならぬとも限らない様に思はれます。現在でも、或る程度はこの事実が現存している様に考えます。実質不足の単なる形骸や、新しさを単に種探しの様に躍起になつて求める作家には、同情はされても所詮それは哀れであります。」(「坂本繁二郎夜話」昭和35年)(178~179頁)

■「芸術において形式こそ違つていますが、古来よりの東洋の作品も、西洋の作品も、高度のものほど自然に淘汰摘出されていまして、つまり、よいものはよい、といふ至極平凡な帰着点に落着いて、東洋も西洋も夫々微笑み合つている様に思はれます。若しこの事実がないなら、私達はそれこそ芸術の向上の方向も希望もあり得なくなりませうし、それこそ一切の総べてが無意味となるでせう。これでは考へただけでもやりきれないことになります。」(「坂本繁二郎夜話」昭和35年)(180頁)

2009年2月14日

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『クリティカル・パス』 バックミンスター・フラー著 白陽社

■同様にギリシャやエジプトの幾何学者、たとえば紀元前300年ごろのユークリッドは、バビロニヤの多次元的な有限のシステム、ツマリ経験によって喚起された時間を含む次元から、2次元の平面幾何学と、その無限平面を面分割して形成される「正方形」の単位にしか関心をもたなくなっていった。その結果、個の平らな2次元の基盤に重ね合わせて、ギリシャやエジプトの幾何学者たちは無時間、無重力、無温度の3次元的な立方体の座標システムを発展させたのである。(90頁)

■ユークリッド幾何学派のギリシャ人たちによる幾何学的な証明はどれも、3次元的形態や、温度、重力、時間のかかわった四次元の実在からではなく、2次元の平面幾何学から始めなければならなかったのである。(90頁)

■キリストの死、そして彼の弟子たちの布教活動の結果、信ずる者は救われるという考え方は、それまでなかったほどに人気を博していった。宗教と軍事力がいっしょになった皇帝権力は、権威によって定式化された信条(credo’「私は信ずる」という意味)が、紀元前のギリシャの科学者たちの完全に異端の考え方や発見によってオビヤカされることに気がついた。2000年後、ジェイムズ・ジーンズ(訳注 英国の物理・天文・数学者。1877−1946)が言ったように、「科学とは、経験した事実を秩序だてようとする真剣な試みなのである」。科学的な思考は、非科学的に権威づけられた間違った考え方に対して、実験による証拠を突きつけてきた。皇帝=教皇は自らのどんな臣民にも、「経験した事実を秩序だてようとする試み」をしてほしくなかったのである。(100頁)

■テクノロジーは、宇宙の見えない出来事の全量域を包括するために、現実の世界を999倍に拡大した。これらは、以前は不思議とか、迷信じみた神秘と思われていたことであった。いまやこれらのものは自然科学や応用化学においては現実の出来事となった。無数の未解決の問題とともに、こうした99%の目に見えないものを包括して、日常の厳密な感覚的現実に加えると、波長を合わせる(tuning-in)とか、波長を外す(tuning-out)という、無線によってもたらされた概念が生じてくる。過去の2つの宇宙、つまり⑴この世と⑵あの世、という考え方であり、われわれは物をもつか、もたないかであった。物質と空間。「生」と「死」。いまやわれわれは合わせる(tuning-in)か、外す(tuning-out)かである。「波長を外す」ということは死を意味しているのではない。誰かが2つの宇宙の必要性に対してそう言わない限り、この世の中とそれをとりまく広大な不思議なものとが一体であるということが認識されたときに、人類が2つの宇宙「現世」と「来世」とを求める必要性はしだいに薄れ始めたのである。(117頁)

■球に対する垂線はどれ一つとして互いに平行なものはない。地球の大気圏内を重力によって地球に密着して最初に一周した飛行士たちは、半周ほど回ったときにも「逆さま」だとは感じなかった。彼らは自分の経験を正確に表現するために、他の言葉を用いる必要があった。そこで飛行士たちは着陸することを「降りる」ではなく「内方へ向う(Coming-in)」、同様に「上がる」の代わりに「外方へ行く(Coming-out)」、という言葉をつくり出した。内方(in)、外方(out)は現在、科学的に認知された言葉なのである。私たちは、内方(in)か外方(out)そして周方向(around)にのみ進むことができる。(119頁)

■われわれにはこの宇宙に於ける二つの基本的な現実がある。それはフィジカルなものとメタフィジカルなものである。物理学者たちは、すべての物理的現象をエネルギーの限定された現れであると定義している。つまり物質として結合したエネルギーか、電磁気的反応の放射として分離したエネルギーのどちらかであると。これらの二つのエネルギー状態は互いに転換可能である。これらのエネルギーの発生と消滅のどちらも実験に基づいた証明はなされていないことから、世界の科学者・哲学者たちはいまのところ、宇宙は永遠に再生的であるとはっきりと認めている。

 物理学者たちは、エネルギーは反作用的な力や振動する波によって、つねに電磁気的に、重力的に、化学的に組織化されたてこであることを発見した。メタフィジカルなものは無重量、無次元の抽象的な思考と数学的原理だけで成り立っており、計器の文字盤上のフィジカルな針をてこで動かすことはできない。エネルギーはどんな状態であってもフィジカルなものであって、資本金勘定帳に記帳されうるものなのである。(195頁)

■宇宙的原価計算だけが、地球の生物学的進化と宇宙の相互変換的再生の、互いに完全に依存しあう電気化学的、生態学的な関係を一般的に説明する。そのうえ宇宙的原価計算は、われわれのちっぽけな惑星の地球とちっぽけな恒星である太陽が相互に機能する自然界の神秘的な機能に潜む全体性から、重力的かつ放射的に機能する部分を説明する。宇宙的原価計算は、地球に乗りこんでいる人類によってうやうやしくも演じられている利己的で恐ろしいほどに人為的な「財産」ゲームを、まったくばかげたものと気づかせる。

 幸いにも、太陽は全宇宙的構造のなかで放射として地球上に運ばれる全エネルギーに対して何の支払いも要求しない。それは、われわれの抗しがたい無知と恐れにもかかわらず、人類が成功するように促しているのである。人類が目ざめ、繁栄し、あらかじめデザインされたということに対して意識的に重要な宇宙的責任を引き受けるように、恒星たちは伝えようとしている。その責任に基づく認識と遂行には、宇宙における人類のとるに足らない筋肉とマインドの宇宙的な成長による進化論的な発見を伴うので、地球上にまかれた人類という種は実を結ばないかもしれない。(209頁)

■1900年以前の平均的地球人は全生涯に5万キロメートルを移動したにすぎないが、それは現在まで私が移動した距離の合計のわずか1%にすぎない。(224頁)

■まったく現実的な意味で私は決して「家を離れない」。私の裏庭はしだいによりおおきく、より球状になり、いまでは世界全体が私の球体化した裏庭である。「あなたはどこに住んでいますか」と「あなたはどんな方ですか」という質問はだんだんと意味のない質問になってきている。

「現在、私は宇宙船地球号の乗客」であり、そして「私は自分が何物なのかわからない。教養高く専門化した人種でないことはわかっている。私は物、すなわち名詞ではない。私は肉体そのものではない。私は85歳だが、これまで1000トン以上もの空気、食物、水を吸収し、それらは一時的に私の肉体となり、そしてしだいに私から解離していった。あなたも私も動詞、すなわち進化するプロセスであるように思われる。私たちは宇宙を構成する一部分の機能ではないだろうか」。(225頁)

■私の新しい1927年の決意で一つの基本的な信条は、すでに述べたように、誰かのために成し遂げなければならないことは何であれ、別の誰かを犠牲にして行なってはならないということだった。ロビンフッドは――その物語は私が幼いころ、亡くなる少し前の父が大きな声で読んでくれたものだが――幼年期にもっとも影響を受けた伝説上のヒーローだった。それは、私の「第一の人生」に、困っているとか危ない目に遭っているとわかったひとびとのために、すぐに良心的で空想的な正義をもたらそうとする即興的行動様式が備わっていたことを意味した。愚かにも「第一の人生」では、自らへの過信から、しばしば自分が履行できる肉体的、金銭的または法的手段を超えて、考えもなく責任を引き受けようとした。この向こう見ずのせいで私は複雑なジレンマに陥った。というのは、法的責任を引き受けつづけようと試みることで、不注意にも何も知らない家族を捲き込み、ばかげた金銭的犠牲を強いてしまったのである。

 新しい人生を開始するにあたって、私はロビンフッドから大弓と棍棒、そして小切手帳を取り去り、ただ、科学の教科書、顕微鏡、計算機、測量用トランシット、そして一般的な産業用の工作機械設備一式を与えた。私は彼に方向転換させ、生物の改革の代わりに新しい非生物の形成へと向わせた。私はロビンに、「宣伝」したり、「売りこみをしたりする」広報専門化やマネージャーや代理人をいっさい認めなかった。もし、「新生」ロビンフッドが開発した新しい器具類が人類に正当な利益の増加をもたらすことができるなら、その器具類は連続して起こる冷酷な経済的非常事態を通じて、必然的に社会に取り入れられるだろう――それは進化にとって適切な再生的懐胎期間の決定を指示する――ということは明瞭だと思われた。(228~229頁)

■大きな問題が残った。生活するための、仕事をする原料や工具を手に入れるためのお金はどうやって得るのか?

 その答えは「プリセッション」だった。「プリセッション」がなんであり、どうしてそれが答なのかは説明を必要とする。

 水の詰まった柔軟なゴム製のチューブの端にしっかりふたをして、両端を互いに反対方向に引っ張ると、チューブ全体の中央部分は、引っ張る方向に垂直(直角)な断面が同心円状に徐々に中心に向って収縮していく。

 同じく、水の詰まった柔軟なゴム製のチューブの端にしっかりふたをして、端を両側から押すと、チューブの中央部分は押される方向に対して垂直(直角)な断面が同心円状に外側に向って最大限に膨張しようとする。

 水に石を落とすと、石の落下方向に対して垂直(直角)な平面上に外側に向って進む円形の波が発生する。外側に拡張していく円形の波は(90度の角度で)垂直な波を発生させ、今度はその波が水平に外側に広がっていく次の波を生み出す、というようにつづく。

 これらすべての直角効果は、プリセッショナルな効果をもたらす。は、運動中の物体が他の運動中の物体に及ぼす効果である。太陽と地球はともに運動している。運動中の太陽は運動中の地球に180度の方向の引力を及ぼしているにもかかわらず、地球はプリセッションによって、太陽が地球に及ぼす引力の方向に対して90度の、つまり直角の方向に軌道を描いて回っている。

 われわれの惑星地球上で、生命の成長の再生に成功することは、つねに生物学的な種の染色体にあらかじめプログラムされた個体生存の的な――直角の――「副次的作用」としてのみ生態学的に達成されることである。ミツバチは、蜜を求めて花弁に入っていくように染色体にプログラムされている。これによって、ハチは偶然のように(しかし実質的にはプリセッション的に)ブンブン音を立てる尻尾を(それぞれのハチの左右対称軸と飛行経路に対してそれぞれ90度の角度で)花粉にまみれさせる。そして、ハチは他の花に夢中で入っていき、意識せずにハチの動作軸に対して直角に(プリセッション的に)、それらの花に花粉を落とし、受粉させ、交配させる。そのようにして、地球上のすべての移動する動物が、さまざまなプリセッション的な(直角の)意図的ではない方法で、異なった場所に根をおろしているすべての植物を交雑受粉させるのである。(237~238頁)

■自然は明らかに、永遠に再生する宇宙の完全性を人間がうまく維持するよう意図していたので、もし私が、人類にとってずっと好ましい物理的環境を産出する人工物の開発を引き受けたなら、実際それは全人類の発展が成功する可能性を高めることで、自然が私の努力を支えてくれるということは十分可能だと思われた。ただし、私がそうするためにはもっとも効果的な技術的方法をうまく選択しつづけることが必要なのである。自然は明らかに相補的なエコロジーの再生作業を自分自身で支えていた。それゆえ、私ハ自然に身を委ね、私が発明した環境に寄与する人工物を実現する物理的法則を自然が授けてくれることに頼らなければならなかった。私は、水素が機能しているような独特な仕方で行動することが認められる前に、自然は水素に対し、「生活費を稼ぐ」ことを要求していないことに気づいた。自然はその相補的な構成員の誰に対しても、「生活費を稼ぐ」ことを要求しない。(241頁)

■したがって、もし私が次のように事を進めるなら、自然は知識をあたえてくれると結論づけたのである。

 (A)私自身、妻、そして幼い娘が、きわめて明白ではあるが未だ実行されてい

 ない、人間の環境に利益をもたらすように適応させる人工物のデザイン、制作そ

 してデモンストレーションといったフィジカルな進化論的仕事に直接的に専心

 し、そして、

 (B)人間社会において確立された経済機構のなかで「生活費を稼ぐ」ということに関心をもたず、さらに、

 (C)私の家族、そして私自身の生活に必要なものが、一見したところ純粋な偶然のように、しかもいつも「ちょうどよいとき」にのみ、強く要求しないのに与えられていることを知り、また、

 (D)「ただ偶然に」与えられつづけ、さらに、

 (E)こうして「偶然で」、予算を組むことができず、しかも現実的な支えというものが持続することを知り、そして、

 (F)私が自発的に、当面の問題と関連した人工物を開発する仕事に何のためらいもなく専心しつづける場合にのみ、支えが存在しており、もし私が、

 (G)人類に、その習慣と考えを変えるよう説得しようとしたりせず、誰かに私の言うことを聞くように要求したりせず、他人が要求したしたときだけ情報を提供するならば、そしてもし私が、

 (H)他人が開発している人工物の制作を競合的に始めたりせず、ほかの誰もやろうとしないものだけに従事するなら……

  そうしたなら、ひとまず私は次の二つの仮定が正当であるとけつろんすることができる。

  (1)自然は本質的な宇宙的再生の「主流」の実現化に仕える人間の活動を経済的に支えるであろう。その実現とは、いままでただ染色体に焦点を当てられた生物の、「直角に」見える副次的作用によってのみ達成されたものである。そして、(2)プリセッショナルな行動の法則化された物理法則は、アクセラレーションとエフェメラリゼーションの法則化された原理がなすように、社会経済的な行動を支配する。(242~243頁)

■環境を制御する人工物による社会経済のプリセッションは、明らかに以下のことを通じてのみ働きだせる戦略的進路だった。すなわち、われわれの直観的な感性を最大限信じること、頻繁に取り組み姿勢を決定し軌道修正すること、さらには、われわれの責任において発展的に生まれる思考に確実に参加すること、絶えず経験から生まれてくる進化する事象がすべて集合した現象の相対的重要度に対する新たな洞察、である。それにはすべての判断の間違いを迅速に認め、修正することも含まれた。そこではつねに「包括的な塾考」が求められた。(244頁)

■自分の生活パターンの厳格な方向づけをしてきたこの52年間の前半を通じて、――その過程で私は仕事をつづけていくために必要不可欠な材料、道具、そして資金の提供を生態学的なプリセッションに全面的に依拠する一方、家族と自分のために「生活費を稼ぐ」という考えを永遠に捨て去る決心をしたのだが――私の友人、家族、そして妻の家族や友人達からは、私が「生活費を稼ごう」としないのは妻と娘の信頼をひどく裏切る行為であると言われつづけた。そういったことに駆り立てられて、私はときどき友人から提供された仕事を引き受け、その間は友人たちも家族も安心し、とても喜んだ。しかし、そのたびに私の主要な戦略は棚上げになり、状況は悪化した。そしてついに、私はどうしたわけか再び向こう見ずになり、最先端の化学的そして技術的方法でつくられた、環境を変える人工物によって問題解決を図るための、財源なしの包括的オウログラムに再び戻ってしまうのである。そうするとすべてが再び円滑に運ぶようになった。(250頁)

■私が何よりも最優先させてきたまだ言及されていない一つの誓約がある。それは、すでに列挙したすべての規律を発展し誓約をする以前に、とりわけプリセッションの原理に対して立てたものである。それによって私は家族と自分のために生活費を稼ぐという発想から完全に解放され、同時にすべての人工物の発明を日々実際に物理的に実行し、そしてそれらを物理的証明へと還元することができたのである。

 私はこの非常に重要な誓約を慎重に守り通してきた。もしもこの誓約を、人生の行動パターンを決める最初の段階で立てていなかったならば、私はきっと、互いに相補的なすべての解決策と自己規律につながる洞察力をもてなかっただろう。(251頁)

■1930年、「ミスターサイエンス」、誰もが知るアインシュタインは『宇宙的な宗教意識――非擬人化された神の概念』を出版した。アインシュタインはそのなかで、ローマ・カトリック教会が「異端者」として破門したケプラーやガリレオのような偉大な科学者たちは、宇宙の秩序に対する絶対的なしんねんから、非擬人化された宇宙的神に身を委ねており、その信念の深さは形式的宗教組織を率いる人たちをはるかに上回っていたと述べた。

 1927以来、私は眠りにつくときはいつも「絶えず再考する神への誓い」と呼んでいるいることに思考を集中することにしている。「主への祈り」は明らかに、私たちがその名を決して知ることのない心から誠実で思慮深い多くの人々によって、案出されてきたものである。以下に私の最近の再考を述べる。

 科学は神の存在の可能性をすべて無効にするというロシア人たちの仮定とは反対に、私の以下につづく宣言は、科学的な細心の注意を払った、直接的な経験に基づく〈神〉の証明から成り、明確に論証されたものであることを確信している。(略)(253頁)

■これはまた、あるシステムにおける線分の長さは、その表面積が2乗の割合で、そして体積が3乗の割合で増大するのに対して、1乗の割合で増大するという数学的原理を含んでいる。最初の長さが1.8メートルで直径が5センチメートル、つまり縦横比が36対1の「細長い」鉄製の針は、長さが7.2センチメートルで直径が0.2センチメートルの針に縮尺できる。1.8メートルの長さの針は水に沈む。7.2センチメートルの長さの針は水に浮かぶ。その体積、すなわちその重量が水の表面の分子幕をつくっている原子間の相互引力によって維持される重量よりもはるかに小さくなって、重量が無視できるくらい微小なものになり、その表面積が水の表面張力だけに関係するようになったのである。(264頁)

■明らかに、全原理におけるあらゆるシナジー(岡野注;相乗効果)作用をさらに統合していくシナジーの完全無欠性は、非同時的で、ただ部分的に重なり合って影響する、複合体の永続的な再生の原理を純粋な原理のなかで維持するために、それ自身の包括的な妥当性を絶え間なく試しつづけ、純粋な原理によってすべての挑戦を調整しているのである。

 上述のことが真実であるという理解は、次のことを人類に知らせることになるだろう。すなわち、純粋な原理で、純粋な原理によるマインドにより機能するとともに、永続的原理のいくつかを純粋な原理によって理解し、客観的に使用できるマインドを備えた人類が宇宙に登場したのは、宇宙システムへの人類の登場と、永続的な原理のいくつか――すべてではない――にアクセスし利用する人類のマインドとによって引き起こされる知識の分裂にもかかわらず、宇宙の永遠に再生的な完全無欠性の原理が乱されずに存続できるかどうかを発見するために、神が果敢にも企てたことなのだということを。これは、ただすべての原理の知識だけを求めてシナジー的に増加していく英知に接近しようとはしない――すなわち、永続的に再生的な完全無欠性を損ないかねない――人間の観念に固有な、しばしば頑迷で自己中心的で利己的で欺瞞的な独善生に、原理のシナジー作用におけるシナジーが十分対処できるかどうかを、純粋な原理のなかで試すための純粋な原理における実験なのであった。それは、神という完全無欠性が知る必要のあること、それも実験による証明によって知る必要のあることかもしれない。(266頁)

■(A)日々の知的現実の最前線が人々に完全に見えないせいで生じる理解することの難しさと、(B)「生きることとは何か」を人々が理解し把握することを妨げる専門化――もし人類がこのわれわれの惑星上に存続していくつもりなら、1980年代にはA、Bに対する障害を効率よく克服しなければならない――に加えて、われわれはいままた1990年までに克服しなければならないもう一つのやっかいな障害に直面している。その障害(C)とは、人間が非常に限られた速さの動きしか「見る」ことができないということである。人間は人間の身体全体が成長する場合も、また一部の組織が成長する場面も見ることはできない。人間は時計の針の長針・短針の動きや木々が物理的に生長する動きを見ることができない。人間は服がもはや合わなくなったということから、回顧的に成長に気づくのである。人間は去年の景色が遮られてはじめて、樹木の生長に気づく。人間が包括的に「見る」ことができるものの99,9%は、すでに起こってしまったことの遅れて現れる余波である。(270頁)

■富は、(物質や放射という)フィジカルなエネルギーが、メタフィジカルな目的意識と技術知識(ノウハウ)に結びついてできる。科学者たちは、宇宙のどんなフィジカルなエネルギーも失われることはないことを明らかにした――つまり、宇宙全体として見れば、富を物理的に構成しているものは減らないのである。われわれは、目的意識(ノウワット)と技術的知識(ノウハウ)というメタフィジカルな富を使うごとに、さらに多くを学ぶことを経験から知っている。経験は増す一方である――ゆえに、富を構成するメタフィジカルな部分は増加する一方であり、したがって統合された富全体もやはり増加の一途をたどることになる。(317頁)

■富とは、汎宇宙的に作用して天体から放射されてくる一定の自然エナルギーの収入だけを、次のように使う人間の組織化された能力と技術的知識(ノウハウ)にほかならない。すなわち、かくも多くの人間がこれから迎える長い日々の生活に、(1)保護、(2)快適さ、(3)滋養をもたらし、(4)人間にまだ利用されていない知的・審美的能力の蓄えをさらに発展させる環境を整備し、(5)一方ではたえず束縛を取り除き、(6)また一方では情報をふやしてくれる経験の幅と深さを増大させることによって予想したとおりに対処していく能力とノウハウ、それこそが富なのである。(318~319頁)

■この時点で、まったく新しい技術との交替によってよって、より少ないものでより多くを生む小型化が結果としてまず発生せざるをえない――巨人ゴリアテの棍棒に勝ったダビデの投石器の石は、巨人の手の届かないところから放たれたのである。

 この、より少ないものからより多くをなそうという包括的で容赦のない傾向は、一括して「漸進的エフェメラリゼーション」として知られている。エフェメラリゼーションは完全な無によってすべての最大極限を成し遂げるという傾向に向かい、それはすべてに重さのあるフィジクスはすべてに重さのない知性のメタフィジクスによって支配されるという傾向である。(364~365頁)

■海軍の科学では、科学的に発展させてきた4種の予測技術がある。私なりに「予測する」という意味を定義すれば、そこには主観的なものと客観的なものとがある。主観的とは「私が何もしなければ、これこれのことが起こるであろう」、客観的とは「もし私がそうすれば、これこれのことが起こるだろう」ということである。純粋科学とは、「経験した事実を秩序づけ、もしそれが証明されたときには、それから法則化された原理を導きだすこと」を意味する。応用化学は、「複数の法則化された原理を客観的に利用するための技術的な手段を開発すること」を意味する。技術(アート)とは、「人力で十分だったり人力では難しかったりする特殊な場合(ケース)に応用化学の理論体系を適用してみごとに実現すること」を意味する。(370頁)

■地球という私たちの知る唯一の惑星はシントロピー的にエネルギーを輸入している場所の一つであり、そこではエントロピー的な太陽の放射エネルギーは植物のシントロピー的な光合成によってたえず封じ込められ、ランダムな放射として受取ったエネルギーが美しく整然と配置された分子構造(物質)に変換され、ほかの生物や有機体は順々にその植物が造り出す分子を消費して、それによって自らが物理的にシントロピー的「成長」を遂げるのである。われわれはこの惑星の自然なエコロジーのなかに歴然と現れる、この偉大なシントロピー的に作用するパターンを見いだすのである。(422頁)

■この惑星のあらゆる生命機能はシントロピー的にデザインされている。すなわち、放射エネルギーを閉じ込め保存し、永遠に再生しつづける宇宙のシントロピー的な統合を全体的に維持する過程でさらにシントロピー的な機能をつくり出すためにその放射エネルギーを使うようにデザインされている。多くの人間に見られる傾向、すなわち土を耕したり動物の世話をしたいといった欲求、芸術家の創造への衝動や職人の製作への意欲、そして他人のために時間と困難を軽減するための発明や開発を行う発明家の欲求など、それらすべての人類の性向がシントロピー的にデザインされていることを歴然と示しているのである。人類のそうした寛大で思いやりのある性向は、本来シントロピー的なものである。利己的性向は「エントロピー的」である。自然は人類のそのシントロピー的な機能ゆえに、宇宙の再生的な自然を維持しつづけるためにこの地球上に人類を置いたのである。(423~424頁)

■彼が歩いた後には草木も生えないと思わされるくらい無数の新しいアイデアで埋め尽くされていくと同時に、ひとかけらの「競争心」に燃える若い研究員がひどく打ちのめされていく一方、私は「数学」は「経験」から創り出されていく姿を日々確認できた。(520~521頁)《デザインサイエンス革命とは何か――訳者あとがきにかえて 梶川泰司》

2009年3月14日

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『マーク・ロスコ』 川村記念美術館 淡交社 

■絵を描くことについて、お話しようと思います。絵を描くことが自己表現に関わると考えたことは、これまでに一度もありません。絵とは、自分以外のひとに向けた世界に関わるコミュニケーションにほかなりません。このコミュニケーションの内容に納得すると、世界は生まれ変わります。ピカソ、あるいはミロ以降、世界はそれまでの世界とはまったく別のものになりました。ふたりの世界の見方が、わたしたちの物の見方を変えたのです。美術に関するかぎり、自己表現の教えはすべて誤りです。自己表現は心理療法の分野に属します。自分自身を知るのが貴重なのは、そうすれば作品制作の過程から自己を排除できるからにすぎません。このことを強調するのは、自己表現の過程そのものに多くの価値を見るひとがいるためです。美術作品の制作はそれとはまた別問題であり、わたしは仕事としての美術について語ろうと思います。(188頁)《ロスコの言葉――プラッド・インスティテュートにおける講演》

■――自己抑制(コントロール)の問題について、若者は語るべきではないでしょうか?

 自己抑制の問題に、若者か年配かは関係ないと思います。どう決めるかの問題です。決めるべきは、抑制するものがいったいあるのか、ということ。より自由な、荒々しい種類の絵は白髪頭の老人より若者が描くほうが自然、ということはないと思います。年齢の問題ではありません。選択の問題です。そうした考え方が流行している。今日では、画家は自由であればあるほど良くなると漠然と思われている。それは流行にすぎません。(190頁)《ロスコの言葉――プラッド・インスティテュートにおける講演》

■――自己表現ですが……「コミュニケーション」対「表現」。うまく折り合いをつけることはできませんか、私的なメッセージと自己表現との間で。

 私的なメッセージとは何かというと、自分でそのことを考えつづけてきたということです。それは自己表現とはちがいます。あなたは自分自身のことをひとに伝えることもできます。わたしには、わたしのものだけではない世界の見方を伝えるほうが好ましい。自己表現は退屈です。わたし自身の外側にある無について、広範な経験について語りたい。(190~191頁)《ロスコの言葉――プラッド・インスティテュートにおける講演》

■――抽象表現主義を定義できますか?

 定義は一度も読んだことはないし、今日のこの日までそれが何を意味するのか知りません。最近目にした記事のなかで、わたしはアクション・ペインティングの画家と呼ばれていました。なんのことだかわからないし、わたしの絵が抽象にしろなんにしろ、表現主義と関係があるとも思いません。わたしは反表現主義者です。(191頁)《ロスコの言葉――プラッド・インスティテュートにおける講演》

■(岡野注:ジャスパー・ジョーンズの1958年、レオ・キャステリ・ギャラリーの個展で、星条旗や標的を描いた絵画を目にして)ロスコは「こういったものすべてから逃れるのに、われわれは何年も費やしたんだ」と評している。(209頁)

2009年3月28日

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『ニコラ・ド・スタール』 カタログ 1993年東武美術館

■ジャン=リュック・ダヴァルは、ニコラ・ド・スタールがマティスの《赤いアトリエ》と《ダンス》を見て重大な衝撃を受けたことを指摘している。スタールはこれらの作品をそれぞれニューヨークとフィラデルフィアで見たのである。この年老いたフォーヴ(野獣)は以前からスタールを魅了していた。1949年にスタールは、ピエール・ルキュイールに宛てて、マティスの「……独特な、それは独特なマティエール」について書き送っている。しかし、とりわけ1952年のサロン・ド・メに出品されたマティスの《王の悲しみ》は、やはりピエール・ルキュイールに宛てて、自分にとってマティスが何を表わしているかを書いている。

 「芸術においては価値あることは二つしかありません。

1.権威のきらめき

2.ためらいのきらめき

それのみです。一方は他方から生まれますが、究極において両者は明確に区別されます。84歳のマティスは紙の切れ端でさえきらめきを得ることに成功しています」。(104頁)

■スタールはこう言っている。「絵画で唯一真険に追究すべきは、奥行きである。絵画は組織立てられた空間である」。(112頁)

■1954年11月19日、アンティーブからニコラ・ド・スタールはピエール・ルキュイールに宛てて次のように書いていた。「今夜、カンヌは神々しいほど美しい。カリフの宮殿が秋の低い光にきらめく。船のマストは刈り取られ、そして伝説のような白。そのほかにも紫のボートの音が響く夜明けの燃えるような輝きがある」。およそひと月の後、1954年12月13日、彼はカンヌからジャック・デュブールに宛てて書いた。「今朝、カンヌの港には光が溢れていた。過剰なまでの光に船はまるで宙を飛んでいるようにみえた」。要するにスタールはデビューした頃から変わっていなかった。相変わらず太陽の眺めに熱狂する能力をもっていて、今日では雨天の時にしか思い出さないこの天体が、朝に夕に、水面を震わせるのを見ると熱狂するのだった。現代社会においては眼差しの力によって太陽を昇らせるためには、画家が必要なのであろうか。また自分が現代文化のもっとも輝かしい希望のひとつであるとき、単なる平凡な日没を描くという考えにどうしておじけつかないことがあろう。だがスタールはそれを行った。恥とも思わなかったし偽りの謙虚もなかったが、彼はおそらく不安を抱いたに違いない。そしてまた、完璧な光を追究する男の激しい情熱のすべても。(138頁)

■「私がユニークであるのは、多かれ少なかれ接触を持ちながらも、カンヴァスに投入することに成功しているこの跳躍にしたすらよるのである」。(140頁)

■ダグラス・クーパーはこの新たな飛躍の始まりをこう言い表わしている。「(中略)この点においてのみならず、また構図においても油彩の使い方においても、ベラスケスとマネのスタールへの影響が感じられる。1954年の春から夏にかけて彼はこれらの画家の作品を研究したのだ」。(140頁)

■たとえば「主題は、特別な意味を持ちますか。個人的あるいは象徴的に」という質問に対して彼は単純に「主題は存在しない」と答えたが、彼のメモには「何との関係で特別の意味というのか。個人的なといわれれば、それは当然である。象徴的といわれても私には分からぬ……事物は制作中の芸術家と常に交流している。私の知っているのはそれだけだ」。(172頁)

2009年4月6日

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『フッサール・セレクション』 立松弘孝編 平凡社

■周知の通りデカルトは、これらすべての諸作用をコギトという言葉で総称している。つまり、私にとって存在する世界とは、そのようなコギトの中で意識されて存在し、コギトの中で私にとって妥当する世界に他ならない。世界はその意味のすべてを、すなわち普遍的な意味も特殊な意味も、さらにまたその存在の妥当性も、もっぱらそのようなコギタチオネスからのみ獲得するのである。(『省察』H. I, 60)(220頁)

〈私(岡野)の意見:自己の意識に関係なく世界は写りこみ、身体に自己の世界観の地を作る〉

■・・・、還元された自我が世界の一部分でないのと同様、他方の世界とそれに属するすべての客観も、私の自我の一部分ではなく・・・(『省察』H. I, 65)(221頁)

〈私(岡野)の意見:自分は世界の部分であるのと同様に、自分の身体の内部でも自我は写り込んだ世界の地の中の一部分である。〉

■・・・。アウグスティヌスはこう語っている。「外へ出て行こうとせず、汝自身のうちへ帰れ。真理は人の心に宿る」と。(『省察』H. I, 183)(222頁)

〈私(岡野)の意見:真理は人の身体に写る、というべきである〉

■われわれは客観を、いわばそれを排除する括弧に入れ、一つの符号をそれに付与するのである。・・・という私の意志を表わすための符号を付けるにである。・・・、私は依然としてすべてのものをみているのである。(『第一哲学』H. Ⅷ, 110f.)(225頁)

〈私(岡野)の意見:これも同じく、その前に既に身体に写っている〉

■超越論的現象学は超越論的自我論としてのみ可能であるように思われる。現象学者としての私は必然的に独我論者である。(『第一哲学』H. Ⅷ, 173f.)(227頁)

〈私(岡野)の意見:当然認められない。本質は時間を含まない記号になってしまう。つまり、本質は「真・善・美」のみであって個別のものには本質はない。〉

■われわれの現象学は、リアルな諸現象の本質学であってはならず、超越論的に還元された諸現象の本質学でなければならない。(『イデーン』H. Ⅲ, 6)(229頁)

〈私(岡野)の意見:超越論的に還元された本質学の対象は「真・善・美」のみである〉

■・・・、たとえば自我の能動的能作としての知覚が機能するためには、いわばその前提として、知覚の志向的対象となるべき何かが、あらかじめ受動的に与えられているのではないか、ということが問題になる。(235頁)

〈私(岡野)の意見:これこそが、写り写られの問題〉

■しかもこの志向的構成の概念には、客観主義的世界像に対するフッサールの根本的な批判が集約されているのである。(235頁)

〈私(岡野)の意見:意識と身体の違い〉

■すなわち客観主義が、人間とそれを取り巻く事物世界との間の根源的な志向的相関関係を捨象して、あたかも後者がわれわれとは無関係に独自に存在するかのように看做すのに対して〈私(岡野)の意見:これが正しい〉、志向性の現象学は自我と対象的世界の根源的関係を開示するばかりでなくさらに進んで、あらゆる対象的存在者にその存在の意味と妥当性を付与する認識の主体、行為の主体としての自覚をすべての自我に覚醒させるのである。(236頁)

〈私(岡野)の意見:自分の中には自我意識の及ばない、無意識の地平と他者が写り込んでいる〉

■現象学は哲学者の究極的な自己責任から生まれた自我論であるというべきであろう。(236頁)

〈私(岡野)の意見:自我は放下したほうがよい〉

■人間は確かに一面において、世界に内在するリアルな自然的存在者である。〈私(岡野)の意見:その通り〉しかしその反面「志向的統一体としての世界を、自己の意識生活の中で初めて構成する自我」(FTL. 211)は「認識の序列において世界の存在に先立つ自我」(FTL. 202)でなければならない。最後の節では、いわゆる哲学の第一命題としての〈われ在り〉の原理を中心に、自我の問題を考察してみたい。(236頁)

〈私(岡野)の意見:ここまできて読み続けるのを断念する。現象学は方法論としてはすばらしく役に立つが、その前提とするパラダイムが自我意識と志向性なので記号、本質、デジタルで今の私にはとうてい認められない〉

2009年4月29日

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『宇宙96%の謎』 佐藤勝彦著 角川ソフィア文庫

■ケブリッジ大学のS・ホーキングは、「無境界仮説」を提唱しています、宇宙が虚数(2乗してマイナスの値となる数値)の時間として始まるなら、「特異点」はもはや存在せず、したがって「神の最初の一撃」も必要ではなくなり、すべて物理学の法則によって宇宙の創生も語れるというのです。(20頁)

■最近、最もインパクトの大きな宇宙論的観測は、現在の宇宙には「真空のエネルギー」が満ちており、それに働く斥力によって宇宙は今、加速度的膨張をしているという発見です。(29頁)

■真空は物質がまったく存在しない空間と考えられていますが、量子論的真空では電子と電子の反物質である陽電子がペアでポッと生まれては、また消えてしまう、対(つい)生成と対消滅を繰り返す、激しく〝ゆらいでいる〟状態なのです。(29頁)

■しかし、同時に期待したいのは、従来の理論に矛盾、もしくはそれまでの理論では説明することのできない観測が出てくることです。知の世界の体積が膨らめば当然それだけ、その表面、フロンティアも広がるのは当然でしょう。実際、「暗黒物質(ダークマター)」「暗黒エネルギー(ダークエネルギー)」の問題は、依然として大きな謎です。私たちは、私たちの住んでいるこの宇宙を構成する物質の実に96%を占める「暗黒物質」「暗黒エネルギー」が何であるかを、今のところまったく知らないといっていいのです。(32頁)

■私はしばしば、学問の進歩を海底火山にたとえます。海底火山が海面下で成長しているとき、海上では何もわかりません。最後に山の頂上が海の上に現れたとき、通りかかった船から見えるのはその頂上だけです。しかし見えない海底にあって、それを支える基礎がしっかりしてはじめて、頂上は海面から出ることができるのです。(47頁)

■私がみなさんに申し上げたいのは、画家・ゴーギャンの問いかけの、「我らいずこより来るや?」という質問に対して、これまでは宗教やてつがくでしか議論できなかったものが、本当に科学の言葉で語れる時代になってきたということです。そして、それは単に理論としての話だけでなく、宇宙観測を通じても証拠づけられる時代になりつつあるのです。この本のメインテーマは、これに尽きます。(47頁)

■いずれにしましても、このように人間はずっと地球(世界)、宇宙の始まりについて興味を持ってきました。そして、宗教や哲学がそれに答えようとしてきたものともいえます。しかし、科学的にそれが議論できるようになったのは、ほんの90年前くらいからです。アインシュタインという天才によって、宇宙全体、時間や空間を科学として扱えるような理論が作られてからのことです。1916年、アインシュタインによって「一般相対性理論」が作られ、それによって物質を含んだ時空としての宇宙を、科学的に扱うことが可能になったといえます。

 宇宙という字の「宇」は四方、上下の意と漢和辞典には載っていますから、空間を指します。「宙」は往古来今の意ですから、時間のことです。中国の古代暦の由来などが記された『淮南子(えなんじ)」という書物には、このように説明されています。(55頁)

■アインシュタインの残した有名な言葉に、「私にとってもわからないこと。それは、なぜわれわれが世界を認識できるかということだ」というのがあります。たしかに私たち人間は、宇宙の中では非常に小さな存在で、取るに足らないような小さな1つの生物にすぎません。それなのに、自分を含むすべての世界の起源だとか、構造などについて議論できるというのですから、本当に素晴らしいことです。(58頁)

■15年ほど前の夏、半年遅れで英国王立研究所のクリスマス・レクチャーが東京で開催されました。講師は『利己的遺伝子』の著者として知られているリチャード・ドーキンス、演題は「生命の進化」でした。彼は動物の眼の発生起源など豊富な例をあげながら、「神によってデザインされたように見えるものでも、自然選択という『幸運の塗り重ね』によって作られたのだ」と熱っぽく語りました。進化を山登りにたとえ、アイガー北壁のような切り立った斜面を一挙に登ることは不可能だが、迂回して1歩1歩ゆっくりと進めば頂上に立てることを、繰り返し説いていました。

 自然界を支配する真理を理解し、それを応用することのできる生命体は、たとえ肉体的にみすぼらしくても、自然選択の中で生き抜くことのできる強者です。神経系の一部を脳へと発展させ、さらに大きな大脳を持つことにより、人類は最強の存在になったのです。アインシュタインの疑問である、「なぜわれわれは、世界を認識できるのか」に対して、「真理を知り得る生命体は自然選択の中での強者であり、人類が世界を知ることができるのは進化の必然である」とも答えることができます。(59~60頁)

■私たちの近くの宇宙から見ていきましょう。私たちは、太陽系の第3番目の惑星である地球に住んでいます。地球と太陽までの距離を普通、「1AU」といいます。Aはアストロノミカル、Uはユニットで、光で約8分かかる距離のことです。日本語では天文単位といい、およそ1億4959万7870キロになります。(63頁)

■今や、大宇宙の地図ができあがりつつあるのですが、宇宙全体を議論できるようになったのは、やはり1916年、アインシュタインによる一般相対性理論が発表されて、宇宙の「時空の構造としての科学」が始まってからだと思います。

 アインシュタイン以前には、時間や空間は、はじめからあるものとしてしか考えることができませんでした。時間というのはよくわからないけれども、無限の過去から無限の未来にかけて、何か流れいっているもの……という程度の認識でした。(96頁)

■言い換えれば、この方程式は、左側の項が時間や空間の幾何学を決める量になっていて、右の項がその場所にあるエネルギーや運動量という物質の性質を表わしています。したがって、時空は物質の存在によって決められていて、時空が決まると、その中で物がどう動くかは物の動きを決める方程式で計算することができます。このように物質と時空は一体として考えなければならないことがわかってきたのです。(98頁)

■物質があれば、そのまわりの空間が曲げられるともいえます。そして、エネルギーがあることによってどの程度空間が曲げられるか、その強さを示しているのが右辺の係数8πG/C(4乗)は光速、Gはニュートンの万有引力定数です。ニュートンの万有引力定数Gが、ちゃんと組み込まれています。(99頁)

■アインシュタインは1917年、「アインシュタインの静止宇宙モデル」という方程式を考えました。それは人類の歴史が始まって以来、初の化学的宇宙モデルでした。アインシュタインは、とりあえず宇宙が一様であると仮定しました。「何十億光年、何百億光年彼方の宇宙でも、私たち地球の近くの宇宙と同じである。それをまず、仮定しなさい」といったのです。そして次に、宇宙には特別な方向もないということも仮定しました。この2つの仮定は後年、観測でも裏付けられるのですが、現代宇宙論はこの2つの仮定を、「宇宙原理」と呼び、宇宙総体を考えるときの大前提にしています。

 ただし、彼は宇宙が膨張していることは考えなかったので、アインシュタインの方程式だけでは、宇宙は重力により縮んでいってしまいます。それを防ぐために宇宙定数(宇宙項)(-Agij)というものを自分の方程式の右項に足してやって、これによって万有引力で物が縮むのを押し返すという役割を持たせたのでした。

 しかし、のちに宇宙が静的ではなくて膨張していることを、アメリカの天文学者E・ハッブルが示したことによって、アインシュタインは、あの有名な「人生最大の不覚だった」という言葉を残し、宇宙項を取り消したのでした。(99~100頁)

■さらにハッブルは、助手のM・ヒューメイソンの協力をうけて、距離と遠ざかっている速さの関係を、定量的に調べました。遠ざかっている速さは、ドップラー効果から比較的簡単に測定できます。水素や、ナトリウムなどの元素が出すスペクトル線が赤いほうにずれている度合いから、速度は測定できます。難しいのは距離です。彼は変光星を用いて、距離を測定する方法を編み出しました。

 セファイド型変光星(30に値から200日で明るさが時間的に変化する星)の明るさは、周期が長い変光星ほど明るく輝いていることが観測からわかっています。つまり、距離を測定したい銀河の中にまずセファイド型変光星を見つけ、その周期を測定します。すると、その変光星の絶対的明るさがわかります。つまりその星は、何ワットの電球と同じということがわかります。電球を遠くに置けば置くほど、だんだん暗くなっている度合いから距離が計算できるのです。(102~103頁)

■これだけ一般化されたビッグバン理論ですが、現在の物理法則、実験、測定などをもってしても、解けない困難がありました。それは、次の4項目です。

(1)銀河、銀河団などの大構造の種を宇宙の初期に作るためには、地平線を超え

   たゆらぎをつくらなければならない。

(2)宇宙はなぜ、地平線を超えて一様なのか?という地平線問題。

(3)宇宙はなぜ、観測でわかったように平坦なのか?という平坦性の問題。

(4)宇宙はなぜ、ビッグバン(火の玉)として生まれたのか?という宇宙創世の

   問題。

 (1)(2)の地平線問題について、簡単に説明します。これは、私たちの宇宙は、どちらの方向を見ても一様なのはなぜか、という問題です。宇宙の地平線とは、「因果の地平」のことを指します。宇宙のはじめのころ、ある地点Aから出た情報は、そこから発した光が伝えます。ただし、Aの情報が伝わるのは、この光の領域内だけです。量域の外にあるB点は、A点とは何の関係もない点です。このように、因果関係を持つ(情報を伝える)ことのできる空間的な領域を、「宇宙の地平線」と呼んでいます。

 ・・・(中略)・・・。宇宙が始まって30万年後の晴れ上がりの時刻には、A、B、C、Dの領域には互いに関係なく存在していました。ところが驚いたことに、宇宙からの背景放射は宇宙のあらゆるところから、まったく同じ強さでやってきているのです。情報交換もしていない、因果関係のないそれぞれの領域の宇宙背景放射がなぜ、示し合わせたように同じ温度なのか、というのが地平線問題です。

 一方、現在の宇宙には、超銀河団とかグレートウォールというような巨大な構造が存在します。これらの構造は、宇宙の初期に仕込まれた物質密度の凸凹が次第に重力で成長し、つくられたと考えられています。しかし宇宙初期では地平線ははるかに小さく、地平線を超えた大きな凸凹を作ってやらねばなりませんしかしこのような大きなスケールの凸凹を作るには、「物質エネルギーを地平線の向こうから運んでこなければなりなりません。しかしそれは、実際には不可能です。

(3)の「平坦性問題」とは、この宇宙がなぜ、曲率をゼロとみたしていいほど平べったく見えるのか、という問題です。・・・(中略)・・・。

 10(-44乗)秒とはプランク時間と呼ばれるものです。時間や空間も量子論的な不確定性原理に支配される時間で、これ以上細かな時間は意味がなくなります。観測結果では宇宙が平坦だという結論が出ているのに、ビックバン理論では、説明できないのです。(109~111頁)

■自然界にはいろいろな出来事、現象が起こります。たとえばリンゴが地面に落ちる、空を月が27日間で1周するなど……。そうしたときに、1つの法則でさまざまなことが説明できる、そのような法則を見つけるということが、ある意味では物理学だと思います。

 つまり、何かが起こったときには、ある法則をもって説明し、また何か違うことが起こったときには、また別の法則で説明するという方法では、何の予言性もないということになります。そんな法則は、あっても意味がありません。何か1つの法則があることによって、いろいろなことを説明できる。知らないことも、こんなことがおきるのではないかと予言できるのは、簡単な法則がさまざまな現象を説明できるからです。いろいろな出来事が起こりますが、できるだけ1つの簡単な法則で説明したいのが、私たち物理学者の夢といえます。(115頁)

■実際、物理学の歴史は、天体の間に働く「天上の力」とリンゴを地面に落下させる「地上の力」を、ニュートンが統一し、重力という理論を作り上げたように、またマックスウェルによって電気や磁気、電流などの法則を統一し、電磁気力の法則が作り上げられたように、力を統一する歴史でした。物理学の歴史は、統一理論の歴史だったともいえます。そうして統一を重ね、4つまではまとめあげることができました。(116頁)

■磁気単極子とは、正確には「マグネティック・モノポール」と呼ばれますが、普通は略して、モノポールと呼ばれます。電気の世界では、プラスの電荷を持った粒子(たとえば陽子)とマイナスの電荷を帯びた粒子(たとえば電子)は、独立に存在できます。ところが、これが磁気になると、磁石をいくら分割していっても、N極の粒子とS極の粒子といったものを別々に取り出すことはできません。マックスウェルの電磁気学の方程式が電気と磁気に関して〝非対称〟に書かれるのは、このためです。(124頁)

■一番重要な問題は、真空が相転移することです。私たちは普通、真空を空っぽの空間だと思いがちです。しかし相転移の状態とは、物質が性質を変えることを指すのですから、何もないのに相転移を起こすことはおかしいと思うでしょう。

 私たちが量子力学とか量子論を知らないときには、真空といえば何もない、空っぽの空間と考えていました。

 ところが量子論という立場で真空を見ると、それは決して真空ではなく、あるところから電子と電子の反物質である陽電子がペアでポッと生まれては、また消えてしまう、対生成と対消滅を繰り返している状態なのです。〝量子論的真空〟は、決して何もない状態ではなく、激しく〝ゆらいでいる〟状態なのです。(128頁)

■「真空の相転移は、統一理論を作るための方便として作った理論で、一度、統一理論ができあがってしまえば、そのタネ、道具に使った真空の相転移は忘れていいのです。あなた方は真空が相転移を起こすようなイメージで宇宙に応用したりしているけど、宇宙論屋さんの素粒子を知らないゆえの誤解ですよ」

 と批判されたものです。それは、ある流れでは自然な立場かもしれません。

 しかし世の中というのは不思議なもので、方便として導入したものでも、結局はあとで見ると、それが物質の本質であったというようなこともあるのです。

 ホーキングに「無境界仮説」は、この先どう評価されるかわかりませんが、計算のテクニックとして虚数の時間が導入されたことは確かです。今後もずっと計算のための方便に終わるのか、あるいはホ0キングが主張しているように、本当に虚数の時間は存在することになるのか。それは、さらなる学問の発展を待たないと結果は出ないでしょう。(139~140頁)

■水が氷になるときは摂氏0度です。そのときは水の状態と氷のエネルギーの状態は同じになりますから、どちらでも構いません。そして温度が摂氏0度以下に下がってマイナス4度ぐらいになったとき突然、水や氷になり始めます。これは「過冷却」という現象です。行きすぎてしまうということです。このときは本来の臨界温度のときよりも、さらに相転移が我慢をするのです。つまり、エネルギーの高い状態のまま、長くいるといえます。

 同じことが、宇宙でも起こるのではないかとかんがえてみました。温度が下がってきても、相転移はすぐには起こらず頑張るのではないか、と。それは真空のエネルギーが高い状態で、しばらく我慢するのではないかということです。そして水が氷になるばあいでいうと、ある程度、温度が下がったところ(水の場合はマイナス4度)で、この水の状態が急に相転移し、一挙に氷ができるわけです。(146頁)

■この1次の相転移でとても大事な点は、このときに〝潜熱〟というエネルギーをたくさん出すことです。単純になめらかに変わっていくケースだと、我慢していませんのですぐに転げ落ち、ほとんど熱は出ません。ですから、この潜熱を出すことが、のちにインフレーションのときには、とても本質的で重要なことになったのです。そういった相転移が、このシナリオから出てきたわけです。

 このシナリオをもう少し詳しくいうと、しばらく相転移が起こらないで我慢しているということは、真空のエネルギーがあると同じことで、宇宙は急激におおきくなるのです。(146~147頁)

■重要なのは、このように問題を単純化させて考えることです。あらゆる科学の分野はそうであり、複雑な現象があったときに、その本質をつかまえたモデルを作り上げることで、ものごとが解けるのです。それは科学者としてのトレーニングの中から可能になることだと思います。(180頁)

■古典物理学の世界から、一般相対性理論を超えて、今、私たちは「超ひも理論」の入り口にたどり着いた。私たちの住んでいる3次元の空間と1次元の時間の世界は、11次元の空間に浮かぶ3次元のような、驚くべき奇妙な世界だという。(242頁)

■高次元の空間にいるとして、この2次元の紙を、縦、横、高さと全部入っている膜だと思ってください。そしてあらゆる物質はこの膜の内部に閉じ込められていると考えてください。物質を表わすひもの両端は、必ずこの膜に固定されていて、その上で輪っかになっていると考えるのです。電磁気力を媒介する光子(フォトン)も、弱い力を媒介するボソンも、また強い力を媒介するグルオンも同様に、その両端は膜に固定されているので、膜の外に、これらの力はしみ出すことはできません。

 ただ1つこの膜から飛び出すことのできるりゅうしは、重力子(グラビトン)です。図にあるように重力子は閉じた輪になっているひもで、膜に留められてはいません。ですから、膜の外にも出て行くことができるのです。重力子は、万有引力を媒介する素粒子です。つまり重力は膜の外にも伝わるのです。(243~244頁)

■その後も超新星を使って、宇宙の膨張速度を測る観測は続いています。すでに、このアメリカのグループのデータでも、私たちの宇宙にあるエネルギーの70%は、実は真空のエネルギーであり、あとの30%ぐらいが暗黒物質で、残りの4%が普通の星や私たちの体を作っている、すでによく知られている普通の物質なのだという結果が出ています。つまり、宇宙の中の4%程度の物質が、いわゆる天体や私たちの体を作っていることがはっきりしましたが、実に96%以上は、私たちが正体をあまりよく知られない〝もの〟である、ということがわかったのです。(252頁)

■そもそもインフレーション理論は、宇宙と「真空のエネルギー」は、切っても切れない関係にあります。インフレーション理論は、宇宙のごく初期に、水が氷になるように真空の状態が変化(相転移)するときに、信じられないほど急激な加速膨張(インフレーション)が起きて、その終了と同時に解放された膨大な真空のエネルギーが、現在の宇宙を満たす光(放射)や物質の元になったと主張しています。

 観測でわかったのは、宇宙の土台を作った「真空のエネルギー」が、現在でもある程度残っていたということです。というよりは、実は私たちの宇宙は依然として、物質や光を合わせた量を上回る膨大な「真空のエネルギー」で満たされているというのです。

 そして加速膨張が確認されたということは、今の宇宙は、誕生後のごく初期に経験したインフレーションに続いて、第2のインフレーションの時代に突入したことを意味します。もしそれが事実とすれば、これから宇宙はどのような進化の道筋をたどることになるのでしょうか。(256頁)

■認識主体たる知的生命体が生まれない宇宙は、存在しても認識されません。認識される宇宙は小さな宇宙定数を持った宇宙のみであり、私たちの住む宇宙はそのような宇宙です。人間原理という考えは、宇宙は人が必然的に生まれるようにデザインされたなど誤った解釈で紹介されることも多く、私自身もかってはあまり好きな概念ではありませんでしたが、量子宇宙論やインフレーション理論が必然的に、無量宇宙(Multiverse)を予言していることを考えれば、受け入れるべき考えではないかと思っています。(262頁)

■知の世界が広がるにつれ、新たな謎もうまれます。真空のエネルギー問題はまさに、インフレーション理論を支持しつつも、新たな謎を作り出しました。この真空のエネルギー問題をさらに遠方の超新星観測から迫ろうとする、SNAP衛星も計画されており、それが定数なのか、クインテッセンスのように時間変化するものなのかも、近い将来に解明できるかもしれません。(264~265頁)

■現在の観測は、時間的に変化しない「真空のエネルギー」に対応するアインシュタインの宇宙定数と矛盾しませんが、微小なものであれ、もし時間的な変化が発見されれば、ダークエネルギーの正体を解明する大きなヒントとなるでしょう。

 理論的には、ブレーン(膜)宇宙論の立場からも面白いアイデアが提案されています。それは、現在の加速度膨張をダークエネルギーの存在によって説明するのではなく、100億光年というような大きなスケールでは、今、私たちが知っているアインシュタインの相対論が変形を受け、そのことによって加速度膨張が起こるのだとする説です。ダークエネルギーは実は存在せず、重力の法則、相対論が変形を受けるためだとするこの説は興味深いものですが、このような理論が他の宇宙論的な観測と矛盾しないのかどうかは、まだ分かっていません。(273~274頁)

2009年5月6日

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『旅する巨人』 佐野眞一著 文春文庫

■「小さいときに美しい思い出をたくさんつくっておくことだ。それが生きる力になる。学校を出てどこかへ勤めるようになると、もうこんなに歩いたり遊んだりできなくなる。いそがしく働いてひといきいれるとき、ふっと、青い空や夕日のあって山が心にうかんでくると、それが元気を出させるもとになる」(57~58頁)

■いくつもの文章や歌が宮本の心をうったが、とりわけ慰めをおぼえたのは、松尾芭蕉の「奥の細道」とファーブルの「昆虫記」だった。

〈……遥かな生末をかかえて、斯かる病覚束なしといへど、羈旅(きりょ)辺土の行脚、捨身無常の観念、道路にしなば、是天の命なりと、気力聊(いささか)とり直し、路縦横に踏で、伊達の大木戸をこす……〉

 旅に生き旅に死んだ芭蕉に、宮本は強い感動と憧れをもった。もし万が一、生を得ることができたなら、芭蕉のように生きてみたい。寝返りひととできない身体で、宮本は切実にそう思った。

 1日百ページと決めて読んだ「昆虫記」で心うたれたのは、驚異に値する昆虫の世界ではなく、その昆虫をじっと観察するファーブルの老いた孤独な姿だった。(62頁)

■平山は民族調査の旅に同行したことがある。平山はそのつど、宮本の聞きとりのうまさにうならされた。

「田んぼのあぜ道を歩きながら、野良仕事をしている人に気安く声をかける。『ようできてますなあ。草はどれくらいいれましたか』と宮本さんがいうと、のらしごとをしていた人が手を休め『まあ、一服するか』とこっちへやってくる。

 あとのやりとりは、蚕に糸を吐かせるように実にみごとなものでした。まったく無駄なく話がつづいていく。宮本さんは学校の先生をやりながら、学校休みには島に帰って百姓仕事を手伝っていた。それだけに、相手も宮本さんを、民俗学者でなく、同じ百姓仲間として扱ってくれた。あんな聞きとりのうまい人はあとにも先にもみたことがありません」(67~68頁)

2009年5月10日

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『先を読む頭脳』 羽生善治 伊藤毅志 松原仁著 新潮文庫

■人間はコンピューターのように高速に大量な情報を正確に扱うことは苦手ですが、状況に応じて臨機応変に対応したり、正確でなくても的確な判断を直観的に下したり、経験的な知識を用いて常識的に考えることなどには長けています。

 この二つの研究の違いは「鳥のように空を飛びたい」という目標のために、鳥のしなやかな羽ばたきのメカニズムを調べるのか、羽ばたきの代わりにジェットエンジンを積んだジェット機を作って空を飛ぶのかという違いに似ています。もちろん、前者が認知科学的アプローチで、後者が人工知能的アプローチに対応します。(4~5頁)

■特に驚かされたことは、自分の思考を極めて客観的に捉える能力と、それを包み隠さず理路整然と説明する能力の高さです。自分の思考を客観的に捉える能力を「自己説明能力」と呼びますが、この能力の高さが羽生さんのずば抜けた将棋の強さに関係しているように思えます。(11頁)

■それは例えば、非常に難しくてどう指せばいいのかわからないような場面にちょくめんしたちき、何時間も考え続けることができる力。そして、その努力を何年もの間、続けていくことができる力です。

 一言でいえば、継続できる力ということでしょうか。プロになる上では、先天的な頭脳のさえというようなこととりも、その『継続力」が大事な要素になってくると思います。(39頁)

■この自分を見つめる視点のことを認知科学の用語では「メタ認知」と呼んでいますが、学習において、このメタ認知能力を持つことが重要な意味を持っていることがわかってきています。自分の行動や学習内容を一段高いレベルから眺めることができなければ、自分の悪いところ良いところはわかりませんし、それを改善して最適の学習法を見つけることはできません。

 羽生さんの言葉を見ると、非常に冷静に自分の行動を眺め、そして的確な言葉で説明する能力を持っていることがお分かりいただけると思います。自分の行動や思考を自分の言葉で説明することを「自己説明」と呼び、この説明能力を磨くことで、効果的な学習ができるようになるという研究が、近年認知科学の分野で行われています。

 羽生さんの卓越した将棋の能力とこの自己説明能力は決して無縁ではないと私は思っています。(40~41頁)

■しかし、羽生さんの思考の様子を見ていると、自分で新しい課題を見つけ、貪欲に「考える」ことを厭わない姿勢が伝わってきます。「考え続けること」は「新しい課題を見つけ続けること」でもあるのです。

 新しい課題を見つける能力を、認知科学の分野では、「問題発見能力」と呼びます。――(中略)――

 どの分野でも同じことだと思いますが、その世界で成功を収めている人は、その分野のことが好きで、その分野について掘り下げて考えて、その分野で何かを達成するために、「自分でテーマを見つけ、考え続けることが出来る人」だと思います。(48~49頁)

■私は、パソコンの画面でマウスをクリックしてうごかすのと、実際の盤上で駒を動かすのとでは、蓄積される記憶の質が違うように感じています。その理由は、一つにはパソコンの画面で動かすとどうしても早く手を進めていってしまうので、結果的に長く覚えていられないという点にあると思います。

 ――(中略)――

 どれが本当に正しい方向性なのか、この棋士がこの展開を選んだ理由は何なのか、これ以外にも新たな手の可能性があるのではないか……自分で駒を動かして、時折ちょっと止まって考えてみたりしながら、そんなことをあれこれと模索していきます。そしてその思考の過程が、重層的に記憶されていくわけです。(57~58頁)

■我々多くのアマチュアは、ルール上指せるたくさんの手の中から、最も良くなるだろう手を必死に探して次の一手を決めていますが、羽生さんの目には、ルール上指せる手の中で評価に値する手というのは、ほんの数手しかないように映っているようです。さらに、羽生さんの将棋観では、将棋というゲームはマイナスの手ばかりであり、局面が進むにつれて、マイナスにならない手がなくなっていくゲームと捉えているようです。(114頁)

■羽生さんのようなトッププロ棋士は、将棋に関する膨大な経験的知識を持っていて、それを「使える知識」として蓄えているのです。

「使える知識」というところが肝心で、単に記憶しているのとは意味が違います。図9のような局面に関しても、たくさんの実戦例を単に覚えているだけでは駄目で、どのように指したらどういう将棋になって、どちらが有利になるのか、というところまで整理されていることが必要です。これは勉強や学習でも同じことで、例えば、数学の公式を丸暗記しても、その公式の持つ意味を理解して使った経験がないと、応用問題が解けないのと同じような意味です。意味を理解し、その上でたくさんの経験を積むことで、見た瞬間にどうしたら良いかという見通しが立って、無駄な探索をせずとも解答にたどり着けるようになるのです。これがプロ棋士の持つ「直観」であると言えます。(120頁)

■このような情報のまとまりの単位を認知科学の分野では、「チャンク」と呼んでいて、集約化して記憶する認知メカニズムであると考えられています。

 私たちの実験から、将棋のプレーヤーは、棋力がアップするにつれて、徐々にチャンクのサイズが大きくなり、ひとつの局面をひとつの絵のように捉えられるようになることがわかってきました。(128頁)

■また、それだけでなく、羽生さんクラスのトッププレーヤーでは、チャンクは時間軸にも広がっていることがわかってきました。その局面がどのような手順でそこに至ったのか、さらにこの後、どういう展開になるのかといったぜんごかんけいまでも同時に想起されるようになるのです。このように、チャンクが空間的に時間的に広がることで、ひとつの局面から非常に多くの情報を同時に処理することが可能になり、先読みをしなくても、次の一手が自然と想起されるようになるのだと考えられます。(129頁)

■羽生さんのような達人たちが、我々素人が想像も出来ないほどの速さで正確な手を指せるのは、この「順算」の能力が大きく関わっていると考えられるのです。そしてこの「順算」を支えているのが、「時間的チャンク」であり、これが「大局観」の正体ではないかと考えています。(132頁)

■本章の最後で羽生さんは、「言語化の重要性」について言及していますが、思考の言語化が学習に非常に有効であることは、近年の認知科学でも注目されていることです。自分の考えを言語化するという作業は、自分を客観的にモニターして、考えをまとめ、理解したことに対して言語というラベルを貼るということを意味します。その結果、ラベル付けしたその事柄に改めて気づかされ、さらに理解が進むのです。この作業を繰り返すことで、知識が精緻化し、定着していくのです。(186頁)

2009年5月26日

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――『東葛流山研究 第17号』 流山市立博物館友の会

■「精華幼稚園(野田市)園歌」 作詞 三越左千夫、作曲 横山太郎 

 さいたはなはな チューリップ

 きれいなコップの せいくらべ

 ちょうちょう ひらひら

 みつばち ぶんぶん

 すずめもはとも きているきている

 みんなのー みんなの ようちえん

 せいか ようちえん

 ぴいぷう ぴゅんぴゅん はしってく

 かぜと かけっこ まけないぞ

 ボールが ポンポン

 からだも ぴょんぴょんぴょん

 じめんを けってー はずむよはずむ

 みんなのー みんなの ようちえん

 せいか ようちえん

 うたが とぶとぶ にぎやかに

 まどから かわいい こえがとぶ

 ひーとみ きらきら のびのびすくすくと

 なかよく げんきで あそぼう あそぼう

 みんなのー みんなの ようちえん

 せいか ようちえん(16頁)

■道造(岡野注:立原道造)と同じ新川小学校に学んだ伊藤氏によると、恩師の布留川賢良教諭が新川小学校に赴任して間もない昭和4、5年頃、校舎の見回りをしていた時、誰が書いたのかわからないが、校舎の裏手の下見坂に白墨で書かれた妙な落書きが見つかり、それを記憶に留めていたというのである。それは、次のようなものであった。

 十六はかなしき年ぞ灰色の

 壁にもたれて泣くことを知る

 この話を聞いて30年も経て、道造と旧新川村との関係を知った伊藤氏は、はたと気がついた。あれは道造の歌で、書いたのも彼自身ではないかと。(「立原道造と流山」辻野弥生)(29~30頁)

■流山は江戸川に添ふて長く悠々閑々たる町だ。酒屋のおかみさんに屋号のことを訪ねると、「先祖が古着屋だったのでせう」と笑った。酒と目刺を買って、川べりに出て火を焚いて飲んだ。

 春の水をガシャガシャと外輪船が掻き廻して行く。対岸は埼玉県、見渡すところ真っ平な野だ。足許には土筆が群生している。焚火のわきでこんがり焦げた土筆を採って食って見たりする。

 船頭さんのゆったりした動き。その船に干した赤ンぼのもの。どての上を行く馬士の腕組み、其のあとから随いてゆく車輪の音、家並の間の桃の花。

 流山の町を歩いて行くのは春の風ばかり萬物悉く春風に融け込んでいる。〈添田知道〉(『利根川随歩』を書いた反骨の作家 添田知道 山本鉱太郎 より)(57~58頁)

2009年6月14日

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『ホフマンスタール詩集』川村二郎訳 岩波文庫

■ 人生

 陽は沈む 生の消え失せたうつろな日々に別れを告げて

 陽は沈む 町を金色に染めながら 壮大に

 多くのことを語り 多くの贈り物をした

 一つの多彩な時代に 別れを告げたと同じように

 そして金色の大気は 沈み去った日々の

 蒼ざめたほのかな影をはこび行くかのよう

 そして流れ過ぎるすべての刻(とき)を

 輝きにひたされたさまざまな可能性の息吹が包みかくしている

 冷えびえとした霧とわびしさのみちわたる

 蒼ざめた広い園に朝がおとずれた

 陽はのぼり 仲間たちが姿をあらわす

 園の亭(ちん)から 生命(いのち)ある樹々の作ったアーチから

 そして きらめきながら数を増し

 わびしさから美を綴ったもろもろの思念(おもい)が

 解き放たれて舞い狂う一群となってそそぎ出る

 唇をあけ 常春藤(きづた)を髪にからませて

 そしてものみなはわれらの前に生あるものとなる

 風の中にはバッコスの巫女たちの吐息がただよい

 暗い池からは銀色の手がさし招き

 夢見心地の木の精たちは

 あこがれにそっと身をふるわせながら ささやきつづける

 あたたかい黄色の月 静かな輝き

 今ははるかへ移ろい過ぎた 多くの美を含む

 夜のふしぎな恵みについて きりもなく

 しかしやがて われらは園から歩み出る

 金色の潮のうえには 笛のひびきにみちあふれ

 白い帆に風をはらんだ船が 待っている……

 そして 華やかな緋と銀の喇叭をつらねた

 広やかな階段の 大者にふさわしい儀容が……

 そして名も高いギリシャの遊女たちが

 鬱金の衣 淡紅の衣に身を装って

 バルコンの格子にひしめいている

 暗碧の波をすばやく滑りながら

 金色の船は島へとむかう

 船の前に浮びただよう笛の歌

 そして 劇場の黒大理石のアーチを抜けて

 華咲きみだれる道の上を

 合唱隊が おごそかに歩みを進める

 陶酔から悲劇を創りだした

 バッコスと美神たちに呼びかけるため

 影という影がゆらめく 松明の光の中で

 悲劇は壮麗な終末を迎え

 重く熟した緋色の思念を抱きながら

 われわれは夜道を帰途につく

 もろもろのものの形が 闇へ沈むにつれて

 地上のすべても終わりを告げる

 静かな波の律動にゆすられる眠りのように――

 今は心おきなく歩みくるがよい 死よ(95~98頁)

【岡野注;ホフマンスタールはロマン派の詩人で、実在論者の私とはイズムを異にする。ロマン派は〈事〉を描こうとするが、上記の詩の内容を実在論者が〈物〉の描写で歌を詠めば「ひんがしの 野にかぎろひの立つみえて かえりみすれば 月かたぶきぬ」となる】

■印象が彼を襲った時はすでに表現となっていた……幻視はそのまま告知、秘密はそのまま形作られた啓示。そしてそのために彼は誰よりも激しく切実に、おそらく誰よりも誠実に苦しんだのだった。舌は滑らかで目はしもきくが、才能の乏しい同時代者たち、定められた職業上の義務や回避できぬ任務を遂行する者たちの誰よりも。ヴァーグナーとニーチェ以後の世代のうちで、おのが天才の宿命を、恐るべき明視でもって、感じ取ったばかりでなく、はっきりと認識した人、精神に対する罪を精神の恩寵として認識した人があるとすれば、それが若いホフマンスタールだった。(「ロリス」 フリードリッヒ・グンドルフ)(194頁)

■完全な夏の日の哀しみを、熟れた葡萄の哀しみを、「金色の朗らかさ」を――死に先立つその味わいを。ホフマンスタールは天才的な個人として、この過去の風土から、歴史の重圧を負い科学に魔力を剥奪され、経済の目標に向かって邁進し、時として信仰に荒れ狂うかと思えば、時には懐疑にのめりこみ痩せ細る、われわれの風土(このような総括は不充分と承知の上だが)へたどり着いている。(「ロリス」 フリードリッヒ・グンドルフ)(195頁)

■ホフマンスタールの幻視的世界認識は、その近代と多くかかわりを持たない。思い切って簡単に区別するなら、近代とは個への、近代以前とは全体への執着にほかならない。

の世界認識はいつも全体を相手取っている。(「解説」 川村二郎)(223頁)

■「チャンドス卿の手紙」は、直接詩について述べているわけではない。むしろ、十七世紀イギリスの文人貴族に仮託して、詩の書けなくなった詩人の苦悩を吐露しているような気味が、濃くにじみ出ていると読む人は読むだろう。さらには、「言葉が、ぼくの口中で腐った茸のように砕け散る」とか、「言葉がちりぢりばらばらにぼくの周囲を浮びただよう」とかいった文中の言い廻しを踏まえ、たまたま二十世紀の最初の年に書かれたということもあって、現代文学の最も深刻な問題性を予感し告知した記念すべきエッセイとして、この文章を評価することも、かなり常識化しているだろう。

 「手紙」の書き手は、初め「世界全体を、一つの大いなる統一と観じていた」。そしてその直観を首尾相応した言葉で表現することができると信じていた。この信がゆらぎ、言語表現の真実性が根本から疑われるようになった、というのが、いかにも手紙全体の主題であるとも読める。しかし言葉を失ってからもチャンドス卿は、存在の一切を感受する恍惚を折にふれては経験するので、ただそれを表現し得るのは未知の言語のみだと感じているにすぎない。つまり存在の連関の神秘にふれる限りにおいては、この書き手は何も変化していないのであり、ホフマンスタールの詩の本質も、煎じつめればこの書き手の、変化を知らぬ感性に密着しているのである。(「解説」 川村二郎)(228~229頁)

【岡野注;ホフマンスタールはロマン派の詩人で、実在論者の私とはイズムを異にする。ロマン派は〈事〉を描こうとするが、実在論者はあくまで〈物〉の写生、描写に徹する。この本は、世界を〈内在〉と考えるロマン派の詩的表現と対比してリアリズムから印象派の表現を見ればクッキリと私の表現方法が炙りだされてくる】

2009年6月28日

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『わが生涯の芸術家たち』ブラッサイ(岩佐鉄男訳)リブロポート

■(岡野注;ジョルジュ・ブラックが、セザンヌの絵にワニスをかけたことについて言ったこと)「(中略)あんなにワニスを嫌っていた彼なのに!ぎらぎら輝きもせず、くすんでもいない健全な絵があるとすれば、それはまさしく彼の絵だったのに!彼の絵は絵の具がしっかりと均一につやけしで塗られていて、フレスコ画みたいなんだ。それにワニスを塗るなんて、冒涜もいいところだ!時間がたてばワニスで色がくもるし、古くなれば絵が黄ばんでしまう恐れだってある。取り除いてしまわなくては!」

「セザンヌの絵のような健全な油絵は、どんな保護もワニスも必要としないんだ」(21頁)

■(ブラック)「なんと強く、つりあいのとれた画家なんだ、サザンヌというのは!すばらしい個性だ!私は絵と同じくらい彼の人物に感心している。みごとなお手本だ!彼にはまったく深く感謝している……」

(ブラッサイ)「それでも彼はふしあわせでした。セザンヌのたったひとりの《生徒》、唯一の《親友》が、彼の意図も絵もぜんぜん理解しなかったのですからね」と私は言った。「エミール・ベルナールのことです。たしかに彼は頭はいいし、才能もありました。しかし神秘思想にかぶれ、中世にとりつかれてしまっていたために、セザンヌの対極に立つことになってしまいました。モティーフにつきすぎる、自然を模倣するといって、彼はたえずセザンヌを批判したのではないでしょうか?彼に言わせれば、画家は自分のカンヴァスを発明し、そこで《霊性》を表現すべきでした。セザンヌにむかって、あなたは創作者ではない。俗悪な模倣者だ、と繰り返すことで、彼はこの老人を《打ちのめした》のです。それでもまったく運のいいことに、エミール・ベルナールはその反感と無理解ににもかかわらず、巨匠の言葉をとても忠実に伝えてくれています」(21~22頁)

■(ブラッサイ)「そしてある日、画家になる決心をした」

(ブラック)「いや、決心なんてなんにもしていない!何かが私をそっちの方へ押しやったんだ。それがたぶん、人のいう天命というものだろう。意志よりももっと深いところから噴きあげてくる衝動があって、それについてはほとんど意識しない……。そもそも私の絵というのがそんなふうに生まれている。あっちではなくこっちをやるようにと、何かが私を押しやるんだ。だから、ピカソと私とで《キュビスム》を始めたと言う人がいるけれど、それはまったくのでたらめだ。大変動を惹き起こそうと意図的に考えたことなんて、全然ない。カンヴァスは実はわれわれの霊気の発散なんだ。根底にはひとつの神秘がある。人生の神秘と同じものが……」(24~26頁)

■(ブラッサイ)「しかしピカソの気質から考えると、彼はどうしてそんなにも長い間、そのような規律に従っていられたのでしょう?造形作家ではなく写真をやっているといって、彼が私を非難したことがあります。彼の考えでは、写真は個性の完全な放棄を必要とするものなのですね。そのとき私はこう答えてやりました。あなただって何年にもわたってキュビスムのきびしい教義に従っていたじゃないですか、と」(27頁)

■(ブラッサイ)「彼(岡野注;マイヨール)は心の動揺のために死んだのですね。トルストイと少し似ています。ヤースナヤ・ポリャーナの家を逃れたトルストイは、そこへ連れ戻そうとしたときに、興奮のあまり死んでしまったのです」(57頁)

■(ジャコメッティー)「シュルレアリストたちと私の間には、誤解による溝ができていた。彼らは私の彫刻をひとつの成果と見なしていたんだ。でも私にとって、それは生成にすぎなかった。袋小路に入りこんでしまっていた。だから私は身を引いて、戦争前の最後のグループ展にも参加しなかったんだ」

 アルベルト(岡野注;ジャコメッティー)の精神には何が起こったのであろうか?彼はまったく単純に、平凡とも思える事実を発見したのである。つまり、彫刻にとっての大問題とは、常に変わらず人間を、動かぬにせよ、動いているにせよ、人間の姿を表彰することにある、ということである。彼はまた同時に、古代の芸術原理をも発見する。それは模倣である。そのために彼は自然にもとづいてのモデリングを再び始める。それはブールデルのアトリエ以来放棄していたものだが、この誇張した修辞的表現を弄する巨匠が彼のうちにかきたてたのは――反動としての――禁欲的なはぎとりでしかなかった。(65頁)

■(ジャコメッティー)「(中略)奇妙なことだが、そもそも私は、現代美術の中では、彫刻家のつくった彫刻より、たとえばピカソやマティスといった画家のつくった彫刻の方が好きだ。とくにピカソが木を削ってつくった一連の小像が気にいっている……」(68頁)

■(ジャコメッティー)「ブランクーシは偉大な彫刻家だった。それは確かだ。でも彼はまた、この世でいちばん無常な、いちばん意地悪な人間でもあった。私は彼のことをよく知っている。ロンサン小路の奇妙なアトリエにしょっちゅう行っていたんだ。ある日、ピカソ、ローランス、それに私といっしょに展覧会をやらないかと誘いに行くのを頼まれた。彼がなんと答えたと思う?この私が?こんな連中といっしょに展覧会をするのかい?絶対に御免だね!〟偉大な彫刻家だよ、それはいい!でも、あのポーズ、あの気取りはなんだい!」(74頁)

■(カーンウェイレル)「ローランスの性質には戦闘的なところが全然なかった。彼はすすんで党派や社交界から遠ざかっていたんだ。ところが、誰が何と言おうと、現代においては、ある種のスノビズムは芸術家にとって、けっして精神的・物質的成功と無縁ではない」

(ブラッサイ)「ピカソはそのことがわかっていました。自分の作品の創造のために、あらゆる面での成功がどれほど必要であったかということを、私は何度も聞かされました」(91~92頁)

■(ブラッサイ)「私にはよくわからないのですが、どうしてあなたは30歳にもなって、しつこくアカデミーに入ろうとしたのですか?」

(マティス)「たしかに逆説的に見えるだろうね。でも授業を受けるためじゃなかったんだよ。先生に教わることはなんにもなかったけれどね、実際のところ。でも、アカデミーの生徒になれば、生身のモデルがただか、わずかなお金で使えるだろう。自分だけのためにモデルを雇うことなんて、とてもできなかったからね。ところが、私はモデルなしではやっていけないんだ。モデルを見ることによって私の中に呼び起こされる官能的な喜びは、今でも私にとって必要不可欠なものだ。人間の姿はいつでも私を夢中にさせる。それは風景や静物を前にしても起こらないことなんだ。それにピカソと違って。私はモデルという支えなしでやれるほど、フォルムの記憶力がよくないんだ。だから、私は執拗に美術学校に行こうとしたんだよ」(146頁)

■(マティス)「実のところ、私の芸術全体はたった1語にまとめられる。つまり〈光の探求〉ということだ。どんな地方にもそれぞれ固有の独特の光がある。でもそれは旅をしないかぎり、とらえられないものではないだろうか?比較する手立てがあるだろうか?北フランスの生まれである私にとって、地中海の光の発見はなんとすばらしい出来事だったのだろう!それ以来、私はずっと魅せられつづけている。まずコルス島で、1898年に新婚旅行でアジャクシオに行ったとき、それからサン=トロペ、カシス、コリウール、タンジェ、セビリア、ビスクラ、モロッコ。そしてもちろんニースだ。あは1916年にははじめてあそこで冬を越したときのことを、けっして忘れないだろう。そのおかげで私はそれから毎年そこへ行く病にとりつかれてしまったのだからね。あの銀色の空はとくに冬にはクリスタルの輝きをもつ。ところがアメリカに3度旅行するうちに、それとは違った光、もっと澄みきった光があることがわかった。たとえばニューヨークの空だ!あの空は明澄で、純粋ですばらしい!あれを利用しようとする偉大な画家がひとりもいないなんて、まったく不思議だ。1930年になってようやく、私は熱帯に対する郷愁を満たし、赤道地帯を支配している光を知ることができた。私が行きたかったのはタヒチではなく、ガラパゴス諸島だった。そこには当時、ドイツの男爵夫人が住んでいたんだ。でもパナマからそこへ行く船はなかった。だからタヒチへ行くことになったんだ。ゴーガンのタヒチ、原住民の小屋とパレオをまとったタヒチ女の島にはほとんど興味がなかったけれどね。唯一この島の光だけには私も惹かれた。空と水の透明さにね。アバタキ礁湖の翡翠色の水の中で泳いでいるときに、私は2つの風景を同時に見ていた。ひとつは水面の上の風景で、ヤシと鳥たちがくっきりと浮びあがっていた。もうひとつは明るい海中の風景で、赤や紫のサンゴにイシサンゴ、さまざまな藻や原色の魚たちがベージュ色の地の上を動いていた。私の絵の精神的な光は、私が一生の間に吸収したすべての光から生まれたものなんだ」(150~151頁)

■(ルオー)「(中略)私はいつもセザンヌの言葉を繰り返していた。〝恐ろしいものだ、人生とは〟。どうしたら生きていけるだろうと思ったことさえある。みんなに見離されていたんだ。そして何だって起こるのがいつも遅すぎるんだ。(中略)」(215頁)

■(モレル神父)「でもあなたはアンブロワーズ・ヴォラールとは仲がよかったのでしょう」

(ルオー)「ああ、でも私が彼と知りあったときには、もう46歳になっていたからね。ヴォラールは私にとって天佑であり、不幸なんだ。私は彼のおかげで生きてきたけれど、彼の奴隷になってしまった。22年間にわたって、彼の囚われ人だったんだ。彼が私に接触して来たころ、私は、700点以上の制作中の絵をもっていた。大部分は未完成で、サインモ入っていなかった。ところがヴォラールはそれを全部もっていこうとした。全部かゼロか、なんだ!それが彼のやり方だった。こんな申し出をどうして断れる?私はどうしようもない困難の中でもがいていたんだ。結局、私は譲ることにした。ヴォラールは絵を全部とって、私に高額の小切手をくれた。5万フランだ。当時としては、たいへんな額だよ。絵が完成し、サインが入るまでは売ってはいけない、と私ははっきり行っておいたのに、そんなものは道義的な取り決めにすぎなかったから、ヴォラールが死ぬと、彼の相続人たちはまったくおかまいなしになってしまった。いやいやながら、私は裁判に訴えた。4年間も私の生活はめちゃくちゃになった!イザベル(岡野注;ルオーの娘)がいなかったなら、気が狂っていただろう。イザベルが重荷を背負ってくれたんだ」(217~218頁)

■(ヴォラール)「セザンヌの作品をいくつか買うように私にすすめてくれたのは、モーリス・ドニとエミール・ベルナールでした。そのとき私はこの画家のことを知りませんでした。でも、いっさいがっさいをそっくり画家から直接買いとってしまうように強く押したのは、やはりクレオルのカミーユ・ピサロでした……。〝あれはたいへんな画家だ〟と彼は断言しました。〝絶対いい商売になる……〟。私は半信半疑でした。世紀末のころ、フランス絵画の栄光をになっていたのは、ブーグローであり、ダニャン=ブーヴェレであり、デタイユ、ムンカーチ、メッソニエだったのです……。印象派がようやく売れはじめたころです。セザンヌのような革新者は気違いかペテン師あつかいされ、デュラン=リュエルやベルネムのような前衛的な画商でさえ、彼のことは無視していました。それでも私はセザンヌの探索に出発しました。彼は当時パリ近郊で仕事をしているという話でした。しかし疑い深い彼は、誰にも住所を教えなかったのです。彼を探しに、フォンテーヌブローにも、バルビゾンにも、ブージヴァルにも行きました。でも無駄でした。ついに見つけだした彼の隠れ家は、なんとパリ市内だったのです。それはサン=ポール界隈のデ・リヨン街2番地でした。こうして私は彼から150枚ほどのカンヴァスを買い上げることができました。それは彼の作品のほとんどすべてだったのです……。これはたいへん危険な商売でした。私がもっていたものすべて、私の全財産が、そこに投入されたのです。こんな冒険をしたばかりに身の破滅をまねくのではないかと、私は不安にかられたものです。セザンヌのカンヴァスをきちんと額に入れる金さえ残っていなかったのですからね。大部分は、安物の額に収めててんじするしかなかったのです」(232頁)

■そしてしばしば彼はまちがった。だからこそ、ファン・ゴッホの作品を安い値段でひと山そっくり手に入れ、またラフィット街6番地の新しい店のオープニングに彼の展覧会をやっていながら、その死から9年たった1899年には、売上げに不満で、無分別にも、手持ちのファン・ゴッホをすべて投売りしてしまったりしたのである。もっとも彼はレイモン・エショリエにこう告白している。「ファン・ゴッホに関しては、私は完全にまちがえていた!彼には全然将来性がないと思っていた。それで彼のカンヴァスをただ同然で処分してしまったんだ」。ファン・ゴッホを精神異常と見なしていたセザンヌの影響を彼が受けた、ということもありうる。「まったく、あなたがつくっているのは気違いの絵だ!」と彼はゴッホに言ったのである。(232頁)

■ヴォラールはモディリアーニやユトリロ、そして1904年に展覧会を開いているにもかかわらずアンリ・マティスに関しても、まちがいを犯した。マティスはいつも最大級の軽蔑をこめて、彼について私に語ったものだ。フォランにとってのあの《ずる賢いキツネ》、セザンヌにとってのあの《奴隷商人》は、マティスにとっては《ラフィット街の古着屋》だった。彼はヴォラールの無礼さ、トリック、ばかげたやり口をまったく毛嫌いしていた。(232頁)

2009年7月4日

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【創文】520号/2009・6

■《現象を救う》 ――ハイデガーのプラトン―― 後藤 嘉也

 古代ギリシャには「現象を救う」という定式があった。惑星の不規則運動という現象を数学的理論によって規則的運動として説明するプログラムのことである。新プラトン主義者のシンプリキオスによれば、これはプラトンが弟子たちに与えた課題です。この現象を救う種々の企ては中世を経て近代に至るまで続けられた。さらに、天体の運動に限らず現象一般について、また数学的理論以外にちうて語られることも少なくない。

 晩年のハイデガーも、1965年に、デカルトの方法が数学的明証性に基づいてものの存在を確保するのに対して、ギリシャでは現象を「救う」ことが根本動向だと述べた。現象を救うとは、自らを示す現象が純粋に現前して存在するようにさせることだという。(1頁)

――(中略)――

 『存在と時間』によると、現象学とは「現象を語ること」、すなわち「自らを示すもの[現象]を、それがそれ自身のほうから自らを示すとおりに、それ自身のほうから見させること」である。現象とは、描く別な意味で隠され続けている事象、つまり存在者が存在するということである。存在するという隠された現象を救うこと、存在が隠されていることさえ忘れている人間の在りようを、そのつどの仕方で洞窟の外(岡野注;プラトンの『国家』篇の洞窟の比喩)へと解放すること――これは、ハイデガーなりの現象学であった。(5頁)

2009年7月7日

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『饗宴』プラトン著 久保 勉訳 岩波文庫

■アポロドロス 「(中略)そこで僕達(岡野注;アポロドロスと彼の友人)は歩きながらその事について語り合ったのだった。だから、初めにもいった通り、僕は下稽古ができていないわけではないのだ。で、ぜひ君達にもそれを話せというのなら、そうせねばなるまい。それに僕にとっては元来フィロソフィヤに関する談論でさえあったら、自分でそれをするにしろ、他(ひと)のを聴くにしろ――それからいつも受けると信じている利益などは論外にしても――、この上もなく嬉しいのだ。反対に何か別種の話を、――とりわけ君たち金満家や金儲熱心家の話を聴くと、僕は自分でも不興に襲われるし、また僕の友人の君達も、気の毒になるのだ、何もしないくせに何かひとかどの事をしていると自惚れているのだからね。ところが、君達の方ではまた恐らく僕を不幸な者と思っているのだろう、そうして僕も君達がそう信ずるのは正しいと信ずる。ところが僕は、〈君達〉については、単にそれを〈信ずる〉のではなくて、たしかに〈知って〉いるのだ。」

友人 「君はいつも相変わらずだなあ、アポロドロス。君はいつも君自身をも他の人達をも悪罵している。察するに、君はソクラテス以外の人は無造作にすべて悲惨だと思っているらしいね、しかも君自身をその筆頭に置いてさ。それにいったいどうして君が『弱気男(マラコス)』という綽名を取るようになったのか、少なくとも僕には分からない。話をするとき、君はいつでもこうなんだから、君自身に対しても、他の人々に対しても、ソクラテスは別だが、君は憤慨するのだ。」(45~47頁)

■「それでは、ディオティマよ、愛智者(フィロソフーンテス)とはいったいどんな人なんですか、智者でもなくまた無智者でもないとすると、」と私(岡野注;ソクラテス)は訊いた。

 「それはもう子供にでも明らかなことではありませんか、愛智者が両者の中間にある者にほかならぬということは(と彼女は答える)、そうしてエロスもやはりその一人なのです。なぜといえば、智慧は疑いもなくもっとも美しいものの中に数えられています。ところがエロスとは美を求める愛なのです。そうすると、エロスは必然愛智者(フィロソフオス)であるということになり、また愛智者として智者と無智者の中間に位する者となる訳です。この事もまた彼の生れから説明されます。彼はすなわち賢明で多策(富裕)な父と無智で無策(貧乏)な母との間の子なのです。この神霊(ダイモーン)の性質といえば、親しいソクラテスよ、まあこんなものです。もっとも貴方があのようにエロスを解したことは、それは少しも不思議なことではありません。さっきのお話から推して考えると、貴方はどうも、エロスとは愛される者のことで、愛する者のことではないとお思いだったのでしょう。それだからこそ貴方にはエロスがあんなに絶美に見えたのだろうと思います。実際、愛すべき者とは真に美しく、きゃしゃで、完全で至福な者ですからねえ。ところが愛する者はこれとは違って、私がお話ししたような、ああいう姿をしているのです。」

 (24) そこで私はいった。「御もっともです、外国の友よ、貴女は実際立派に語られました。さてエロスがはたしてそういう性質を具えているとすると、それは人間にどういう利益をもたらしてくれるでしょうか。」

 「ソクラテス、ちょうどその事をこれから貴方に説き示そうと思っているのです、」と彼女はいった。「そういうわけで、エロスはこういう者であり、こういう生れであり、またそれが美しい者に対する愛であることは貴方も認められるのです。ところが今かりに誰かが、ソクラテスとディオティマよ、美に対する愛とはいったいいかなる点に存するのか、とこう私達に訊いたとしたら?あるいはこの問いをもっとはっきりといえば、愛する者が美しき者を愛する場合、彼は〈何〉を欲求するのか。」

 「ところが(と彼女はいう)、その答に対してはさらに次のような疑問が起こって来ます。美しきものを手に入れると、その人はいったい何の得るところがあるのか。」

 そこで私は、その質問に対しては即答することがとうていできぬ旨を答えた。 「では(と彼女はいう)、かりにこうしましょう。誰かが問題を換えて、美の代わりに善を置き、さあソクラテス、いって下さい、愛する者が善きものを愛する場合、その求めているのは何ですか、と、こう訊いたとしたら?」

 「それが自分のものになることである、」と私は答えた。

 「では善きものを手に入れると、その人はいったい何の得るところがあるのでしょう?」

 「それならもっと容易く答えることができます(と私はいう)。その人は幸福(エウダイモーン)になるでしょう。」

 「実際(と彼女はいう)、幸福な者が幸福なのは、善きものの所有に因るのです。また幸福になりたい人はいったい何のためにそうなりたいのかとさらに尋ねる必要ももはやありません。むしろ私達の答えはもうこれで終極に到達したように見えます。」

 「本当にそうです、」と私も同意した。(110~112頁)

■「では、もっとはっきり話しましょう(と彼女はこたえた)。いったいあらゆる人間は、ソクラテスよ、肉体にも心霊にも胚種を持っている。そうして一定の年頃になると、私達の本性は生産することを欲求する。もっとも生産は醜い者の中では駄目で、ただ美しい者の中でだけできるのです。男女間の結合もつまり一種の生産であります。ところがそれは一種神的なものであります。またそれは滅ぶべき者のうちにある滅びざるものなのです、懐胎と出産とは。もっとも調和せぬ者の間ではそれは行なわれません。ところが、醜い者はあらゆる神的なものと調和しないが、美しい者はこれと調和する。したがって産出に際して運命(モイラ)の女神や産の神(エイレテユイヤ)の役を勤める者は美の女神(カロネー)なのです。それゆえに、生産衝動の漲れるものが美しい者に近づき行くとき、彼は心勇みまた歓喜に溢れる、そうして生産し受胎させる。けれども反対に醜い者に近づくとき、彼はいつも面貌憂鬱となり、不機嫌に内に籠り、身をそらし、引き退り、受胎させずにただ苦しき重荷としてその生産慾を持ち続ける。それだからこそ生産慾と胚種に充ち溢れている者は美しい者に対して強烈な昂奮を感ずるのです。これを領有せぬ者は恐ろしい苦悶を脱することができるのですから。ソクラテスよ、本当のところ愛の目指すものは、貴方の考えるように、必ずしも美しいものとはかぎりません。」

 「ではいったい何でしょう?」

 「美しい者の中に生殖し生産することです。」

 「そうかもしれませんね、」と私も同意した。

 「そうですとも、全然(と彼女は答えた)。ではいったいなぜ〈生殖〉を目指すのでしょうか。それは、滅ぶべき者のあずかり得るかぎり、生殖が一種の永劫なるもの、不滅なるものだからです。ところが不死は必然に善きものと共に欲求されなければならぬ、もし私達のすでに容認して来た通り、愛の目指すところが善きものの〈永久〉の所有であるとすれば。この考察から必然に出て来る結論は、愛の目的が不死ということにもあるということであります。」(116~117頁)

■さて(と彼女は続けた)、肉体の上に旺盛な生産慾を持つ者はむしろ婦人に向かう、そうしてその恋愛の仕方はこういう風なのです。すなわちこういう人達は子を拵えることによって、不死や思い出や幸福やを、その信ずるところでは、『未来永劫に自分に確保しようとする。』ところが、心霊に生産慾を持つものは――というのは、肉体における以上に心霊において、そのものの受胎と生産とが心霊にふさわしき一切のものに対して、生産慾を持つ人もたしかにあるのですから。では、そのふさわしきものとはいったい何か。智見(フロネーシス)やその他あらゆる種類の徳。それを産出するものは一切の詩人と独創者(ヘウレテイコイ)の名に値するすべての名匠達(デーミウールゴイ)とであります。(121頁)

■それを聴くと、彼(岡野注;ソクラテス)は例の非常に独得な皮肉な調子でこういった。「愛するアルキビヤデス、僕が本当に君の主張する通りの男だったら、そうしてもし僕の衷(うち)に君を向上させるような何かの力であるのだったら、君は実際馬鹿じゃないということになるだろう。すると君はきっと君の美貌よりもはるかに勝れた名状し難き美を僕の衷に看取しているに違いない。もし君がそういうものを看取して、僕とそれを共有しよう、そうして美と美を交換しようとするのなら、君は僕から少なからず余分の利益を得ようと目論んでいる訳だ。それどころか、君は単に見せかけの美を代価として真実の美を得ようと試みる者、したがって実際君は青銅をもって黄金に換えようとたくらんでいる者だ。がとにかく、優れた人よ、もっとよく考えて見給え、僕には何の価値も無いということに君が気付かないといけないから。実際、理知の視力は、肉眼の視力がその減退期に入ると、ようやくその鋭さを増し始めるものだ。が、君は、そこまでにはまだ遼遠だ。」(142頁)

2009年7月11日

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『ルノワール』ウォルター・バッチ著 富山 秀雄訳 美術出版社

■ある教師にルノワールはこう言ったと伝えられている。「絵を描くことが楽しくなかったら、私が絵など描くことは決してないと思っていただきたい」と。(カバー裏)

■彼がベラスケスを尊敬したということのうちに、ルノワールが進んで巨匠たちから学ぼうとする態度を再びみてとることができる。かって彼は私に、伝統が独創性を邪魔したことは一度もないといいきった。そして彼は最高の美術家を手本として利用したのである。「ラファェルロはペルジーノの弟子だった。しかしそのことが、神のごときラファェルロになることを妨げはしなかった」と、彼はいう。この伝統への信仰は、今日昔の巨匠たちの作品を模写しようとする学生がほとんどなく――それは過去から学ぶもっともいい手段の一つであるのに――そして近代美術は本質的に過去の美術と異なるもので、それと接触すればそこなわさえするという馬鹿げた考えが広まっている時にあって、とりわけ貴重なものである。(29頁)

■ルノワールの言葉を読むと、芸術に時間はない、ひとたび正しかったものはつねに正しいという彼の信念をあらためて確かめることができる。彼はその原則を、私との別の会話の中でも述べていた。

「古典以外には何物もない。生徒、それももっとも高貴の出の生徒を喜ばすためだからといって、音楽家は七音階にもう一つ音階を加えることはできない。彼はいつでももう一度最初の音階に帰らなくてはならない。ところで、それは美術でも同じことだ」。しかしこれとともに、七つの音は二度と同じ組み合わせにならないことを知らない人たちに対して警告がなされた。「人はティティアンの作品をもう一度作ることはできないし、またノートル・ダムを模作することもできない。――中略――それぞれが森の木々のように違っているからである」。(40頁)

■ルネサンスの画家たちにとっては、「美しい作品を作るという名誉が、報酬の代わりをしていた。彼らは天に達するために働いたのであり、金を得るためではなかった」と。

 自分自身の生涯や底に秘めた信念を書こうというような考えはなかったが、ルノワールは自分が生まれた偉大な職人階級のことを述べることによって、彼自身の創作の本質に分け入る重要な洞察を与えてくれる。彼は単にすばらしい職人であったばかりではなく、芸術的目的の達成が「報酬の代わりをしていた」人として、今日の世界に認識されなければならない人なのである。(41~42頁)

■もし線のリズムの波動が肉体のある部分を取り除くことを要求すれば、またもし、光と色の流れや動きが写真的な映像に合わないような前景と後背の関係を要求するとするならば、ルノワールはそうした現実の実物主義よりも彼の構成が要求する側に優先権を与えることを、ほとんど躊躇しなかっただろう。(44頁)

■「必要なのは主題の『感触』そのものをとらえることである。絵画はものの品名目録(カタログ)ではない。わたしは、もし風景画であるならその中を歩きまわりたくなるような、またもし女性を描いたものならそれらを愛撫したくなるような絵がすきだ」。(45頁)

■われわれがいかなる美術にも求めるものは、個人的で永続的な視覚であり、ルノワールのなかにあんなにも豊かに表わされていると感じるものは、若々しく喜びにあふれ、生き生きしたすべてのものの肯定、われわれを取り巻く世界の中の秩序と均衡の感覚なのである。(46頁)

■ルノワールは、この絵に関連したつけられた《ラ・パンセ(瞑想)》という題名に抗議した。「わたしの絵に、どうしてこんな題がつけられたのだろう。わたしは美しい魅力的な若い女性を描こうと思っただけで、モデルの心の状態を描き出そうとしたと考えられるような題はつけなかったのだが……あの少女は考えごとをしたことなどありはしない。鳥のように生き、ただそれだけなのだ」と。(72頁)

2009年8月12日

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『ペンローズの〈量子脳〉理論』ロジャー・ペンローズ著 竹内薫・茂木健一郎訳 ・解説 ちくま学芸文庫

■ 量子場の理論の守備範囲→素粒子論などのミクロの世界

  一般相対性理論の守備範囲→宇宙論などのマクロの世界

 さて、ここで問題になるのが、この2つの基礎理論の関係だ。最終的には、1つの基礎理論ですべてを説明したいから、この2つの理論が、うまく融合してくれれば好都合だ。そうすれば、われわれはいわゆる「万物の理論」(Theory of Everything 略してTOP)を手に入れることができる。量子場の理論と重力理論の融合なので、「量子重力理論」というわけだ。

 ここで、ニュートン理論の立場を考えてみると、非常に奇妙なことが起こっていることが判明する。今述べたように、ニュートン理論は、一般相対性論の一部であるが、実は、量子場の一部でもある。だから、ニュートン理論は、二つの基礎理論の共通部分だということができる。イメージとしては、

 二つの基礎理論のツインタワーがそびえ建っているが、二つのタワーの行き来 

 は、一階部分の細い渡り廊下でしかない。(43頁)

■量子論は確率の理論なので、個々の出来事が起こる確率が計算できる。ユニタリティーの大原則というのは、すべての出来事が起こる確率を足したら1になるということだ。確率の計算では、すべての可能な場合の確率を足して100パーセントになってくれないと困ってしまうから、このユニタリティーの大原則は基本的だ。ところが、ブラックホールは、あらゆる物質を吸い込むが、何も吐き出さない「黒い穴」であるから、ユニタリティーが破れてしまう。つまり、物質が中に入っていく確率と外に出ていく確率を足してはじめて100パーセントになるのに、入る一方で何も出てこないのだから、物質が外に出ていく確率の分だけ足りないのである。そこでホーキングは次のように考えた。

 量子論のユニタリティーの原則からすると、ブラックホールからも少しは物質が

 出てこないと困る。

 つまり、量子論の原則からすれば、ブラックホールではなくて、グレーなのである。「グレーホール」でなくてはいけない、ということである。(47頁)

■量子力学には根本的に欠けているものがあるわけだから、それを完成するためには、現在の理論にはない何かが必要です。そこで、私は、「非計算的」な要素を付け加えるというのは、それほど悪い考えではないと思うんです。

 もちろん、現時点では憶測にすぎません。ですが、そのような方向が正しいと信じる十分な理由があると思います。つまり、私の考えは、意識を説明するには量子力学が必要だということではないんです。意識を説明するには、量子力学を超える必要があるんです。(79頁)

つまり、私たちの心が物理的世界からいかに生じるかというのが唯一のミステリーではないということです。実は、ミステリーは三つあります。つまり、物質的世界、心の世界、そしてプラトン的世界の3つの世界の間の関係が謎なのです。

 このように言うと、カール・ポパーの考えに似ているように聞こえるかもしれません。でも、実際には少し違うのです。まず、ポパーの言う、「第三の世界」は、私の言う「第三の世界」、すなわちプラトン的世界とは違います。さらに、私はポパーのように3つの世界が線形につながっているのではなく、一つのサイクルをなしていると考えているのです。(84頁)

しばしば、ゲーデルの定理は、人間の証明できない定理があることを意味すると考えられていますが、そうではないんです。ゲーデルの定理が証明していることは、私たちは常に新しいタイプの理屈を探し続けなければならず、ある一定の、固定したルールの集合に頼ることはできないということだけです。

 「洞察力」さえあれば、すでに存在しているルールの外に出て、新しいルールを見いだすことは可能なのです。そして、このような「洞察力」を、実際私たち人間は持ち合わせています。ですから、私が言いたいことは、原理的に、人間の知性にとって到達できない真理などないということです。

 随分回り道しましたが、あなたの質問に対する私の答えは、意識は、必ず物質的な基礎をもたなければならないということになります。(87頁)

■「物質主義者」とか、「イデア主義者」というような言葉が最初に考えられたとき、「物質」のイメージは、非常に具体的で、まさにそこに「ある」ものだというものでした。それに対立するものとして、人々はミステリアスな「心」というものを考えたわけです。

 ところが、今では、物質そのものが、ある意味では精神的な存在であるとさえ言えるのです。(88頁)

■そのように考えていくと、そこに「ある」、堅固な存在という物質のイメージが、どこかに蒸発していってしまうのです。ですから、もう少し世界のことが深いレベルでわからないと、ほんとうのところはつかめないでしょう。「物質主義的」かどうかとか、そういう言葉で議論していると、世界観がどうしても制限されてしまうように思います。(89頁)

■原注1 ゲーデル型の議論(ゲーデルの定理とアルゴリズム)……アルゴリズムは、問題を解くための機械的な規則や手続きのこと。アルゴリズムは数学のあらゆるレベルに登場する。単純な例は、学校で教わる長除法(long division)と乗法。

 どんな数学的証明も論理的なステップの連続の形をとり、機械によってチェックすることができる。1920年代にドイツの数学者ダーフィット・ヒルベルトは、数学的命題の真偽を解釈ぬきに決定するアルゴリズムが存在して、原理的には数学を形式化することが可能だと提案した。この数学の形式化によって、19世紀以来、数学の基礎をゆるがしてきた哲学的諸問題を一掃することができるとヒルベルトは考えていた。もしヒルベルトの予想が正しいとすると、たとえば、幾何学や算術に関する命題を適当に符号化して、判定機械に入れさえすれば、その真偽がわかるはずだ。

 1931年にオーストリアの数学者クルト・ゲーデルがヒルベルトの夢が不可能なことを示した。ゲーデルの定理は、数学の真理を決定するアルゴリズムがどんなに精巧なものであっても、真理を決定できない命題が存在してしまって完全でない、という内容だ。ゲーデルは、そのような決定不可能な命題(ゲーデル文)を実際につくってみせた。

 実際、特定の健全なアルゴリズムについてのゲーデル文は真だ(正しい)が、アルゴリズム自身は、その真偽を決定できないのである。ところが、人間の心は、その真偽がわかる。ペンローズ教授は、このことが、人間の心が単なる以上の能力を持っている証拠だと考える。(91頁)

■ペンローズの意識の物理学に関する二冊目の本『心の影』は、『皇帝の新しい心』と同様に、一つの寓話から始まる。洞窟を探検している少女ジェシカとその父親の物語だ。二人は、生まれたときから洞窟に閉じ込められていて、外の世界を見たことがない人に、外の世界の存在をどのように説得するかという問題を話し始める。洞窟の住人が見られるのは、外の世界の鳥や木の葉が洞窟の壁に投げかける「影」だけだ。「影」だけしか見えない人に、どのようにして「外の世界」の存在を確信させるのか?この説得はあんがい難しいと、ジェシカの父親は言う。というのも、洞窟の住人は洞窟の壁に投げかけられた「影」だけが世界のすべてだと思っている。洞窟の外に、さまざまな色や形に満ちた豊かな世界が広がっているなどとは、想像もつかない。自分に見えるものだけがすべてだと思う頑迷さが、洞窟の住人が真理に導かれるのを妨げている。

 これは、もちろん、有名なプラトンの洞窟の比喩を踏まえている。

 私たちが、洞窟の住人の愚かさを笑うのは簡単だ。だが、ペンローズの辛辣な批判は、実は心と脳の関係を解明するときに、人間の知性が、「意味」の理解に支えられていることを受け入れない人工知能の研究者たちにむけられている。そして、人間が「意味」を理解できるということは、人間の意識が、意味の棲む「プラトン的世界」の実在に接触できることを意味すると主張する。

 本は二部に分かれている。

 第一部では、ゲーデルの定理やチューリング機械を例に取り上げて、人間の知性には、計算不可能な要素があることを検証する。テーマになっていることは『皇帝の新しい心』に向けられたさまざまな批判に対して、細かく反論しているのが特徴である。特に21節にわたって、批判の一つ一つを細かく「つぶして」いくところは、ペンローズの知性の緻密さを表わしていて、圧巻だ。

 第二部では、人間の知性の計算不可能な要素を理解するためには、新しい物理学が必要であると論じられる。量子力学の不完全生が指摘され、量子力学と重力理論が統合された量子重力において、われわれは初めて新しいより完全な理論を得るとする。そして、意識の作用は、量子重力的な効果、すなわち波動関数の自己収縮と関連していると主張する。ここまでは『皇帝の新しい心』でも論じられた点だが、ペンローズは、具体的に、ニューロンの中にあるマイクロチューブルが量子重力的効果による波動関数の自己収縮の起こる場所だと提案する。

 全体として、『心の影』は、『皇帝の新しい心』に寄せられた批判に反論しながら、ペンローズの世界観に基ずく議論をさらに深く進めた本だと言うことができる。(117~119頁)

健全(sound)と完全(complete)……大まかに言って、「健全」な理論は「証明や計算が間違った結果を出さない」。その反対に(ママ)、「完全」な理論は「正しい結果は必ず証明あるいは計算できる」。ペンローズがこの健全性を強調するのは、そもそも不健全な理論を論じてもはじまらないからである。(中略)健全は「証明できる」、完全は「真」に対応する。(122~123頁)

■アインシュタインの理論によれば、重力は、物理学において、非常にユニークな役割を担っている。その理由の中で最も重要なものは、次のとおりだ。

(1)重力は、時空間の中で起こるイベント間の因果関係に影響を与える唯一の物理現象である。

(2)重力は、何の局所的な実在性も持たない。なぜならば、適当な座標変換をほどこせば、局所的な重力は、いつでも消してしまうことができるからだ。重力は、むしろ、空間のグローバルな性質に関係している。そして、すべての粒子と力を含む、時空間自体の持つ曲率を決定している。

 以上のような理由により、重力は、他の物理的効果から導き出される、2次的な現象とはみなされえない。重力は、物理的実在の最も根本的な因子であると考えなければならないのである。

 アインシュタインによる一般相対論と、量子力学を統一すること、すなわち、量子重力をつくることは、未だに成功していない物理学の最重要課題の一つだ。そして、量子重力理論が完成した場合には、一般相対論と量子力学の両方が、根本的な変化を余儀なくされるだろうと考える強力な証拠がある。

 そして、何よりも、量子重力理論は、物理的現実について、全く新しい理解をもたらすことになるだろう。じゅうりょくの大きさはきわめて小さい(たとえば、電気的力に比べると、40桁ほども小さい)。それにもかかわらず、重力は量子的状態がミクロなレベルからマクロなレベルに発展する上で深い影響力を持つと信じる理由がある。量子重力を生物学と結びつけること、少なくとも、神経系と結びつけることによって、「意識」という現象の、全く新しい理解がもたらされる可能性があるのである。(156~157頁)

■現代物理学の描像によれば、現実世界は、3次元の空間と1次元の時間が組み合わされた、4次元の時空の中に埋め込まれている。この時空は、アインシュタインの一般相対論に従って、少しだけ曲がっている。空間の曲がりは、質量密度の分布を重力場が反映することによって引き起こされる。質量分布があるかぎり、たとえどんなに小さくとも、時空の曲率に影響を与える。

 以上が、古典的な物理学の下での標準的な描像だ。一方で、量子的なシステムが物理学者によって研究される際には、このような、質量の存在によって引き起こされる時空構造の小さな曲がりは、全くと言ってよいほど無視されてきた。その理由としては、重力の効果は、量子力学が対象としているような問題においてはほとんど微々たるものであるということが挙げられた。しかし、驚くことに、時空構造のこのような小さな違いが、実際には大きな効果を持つことがありうるのだ。というのも、時空の曲がりは、量子力学の法則自体に、デリケートだが根本的な影響を及ぼすからだ。

 重ね合わされた量子的状況が、異なる質量分布を持つ場合、それぞれに対応する時空の幾何学も異なることになる。こうして、重ね合わせられた量子的状況が存在するときには、同時に、異なる時空構造の重ね合わせも存在する。量子重力理論が完成していない現状では、このような時空の重ね合わせを扱うための信頼できる方法は存在しない。(158~159頁)

■私たちのモデルでは、コヒーレントな量子的状態が、脳の中のマイクロチューブルの中で発生し、環境から隔離された状態に置かれる。そして、このような量子的状態が、重ね合わされたチューブリンの状態の間の質量―エネルギー分布の差が量子重力的なしきい値に達するまで維持されると考える。結果として生じる波動関数の自己収縮、すなわち「OR」が、時間的に不可逆なプロセスとして起こる。これが、意識における心理的な「今」を決定する現象なのである。このような「OR」が次々と起こることによって、時間の流れと意識の流れが作り出される。

 私たちは、マイクロチューブルと結合したマイクロチューブル関連蛋白質(MAPs)が、量子的な振動を調節すると考える。その結果、「OR」の性質が決定される。以上の理由で、私たちは、マイクロチューブル関連蛋白質が結合したマイクロチューブルで起こる自己組織的な「OR」を、調節された客観的収縮、「Orch OR」(Orchestrated Objective Reduction)と呼ぶのである。「Orch OR」は、このようにして、基本的な時空の幾何学の中での自己選択的なプロセスであると考えられる。もし、経験が真の意味で基本的な時空の要素であるとするならば、「Orch OR」は、クオリアをはじめとする、意識をめぐる困難な問題と深く関係しているはずだ。(172~174頁)

■「Orch OR」と、その結果生ずる意識に至る変化の可能なシナリオとして、「細胞視覚」(cellular vision)がある。G・アルブレヒト=ビューラーは、1992年に、単一の細胞が、赤ないしは赤外の光を検出し、それに対して方向性のある反応をするということを報告した。この際、細胞骨格が関与しているらしいという。M・ジブらは、1995年に、このようなプロセスは、マイクロチューブルおよびその周囲の秩序だった水分子における量子的にコヒーレントな状態を必要とすると提案した。一方、S・ハーゲンは、同じ年に、量子的な効果や、細胞視覚を通して、量子的にコヒーレントな状態になることのできる配列したマイクロチューブルは、進化上有利な位置を占めてきたと示唆した。量子的にコヒーレントな状態がどのような理由で生じたかはわからない。だが、ある時、ある生物体が、「Orch OR」を起こせるだけのマイクロチューブルにおける量子的コヒーレントを実現し、「意識的」な経験を獲得したのであろう。(185頁)

■だが、その際に、強調されがちなのは、意識の問題が、従来の物質を記述してきた自然法則のアプローチでは、解けないであろうという一種の悲観論だ。特に、私たちの感覚の持つ、「赤」の「赤らしさ」、水の「冷たさ」といった質感、クオリア(qualia)は、自然法則の対象外であるという考えが根強い。意識は、宇宙の中で特別な存在だと考えてしまうわけである。

 一方、ペンローズは、精神現象も、自然法則の一部であると考えている。たしかに、現在知られている自然法則では心の問題は理解できないかもしれないが、将来、クオリアや自意識といった心の属性も、電子の持つ電荷や質量と同じように、自然法則で理解できる日が来ると考えているのである。(201頁)

■ペンローズが、意識と量子力学の関係を論ずるときに、ペンローズの頭の中にあるのは、現在ある形での量子力学ではなく、「波動関数の収縮問題」などの欠陥を克服した、新しい量子力学なのである。ペンローズは、量子力学の革命が起こって初めて、意識の問題を理解することも可能になると考えている。ペンローズが、「意識も自然法則の一部である」と言うときには、そのようなイメージがあるのである。(202頁)

■ペンローズの意識の問題に関するアプローチは、物理的、ないしは数学的アプローチに基づいている。このようなやり方に対して、生物学の研究者、とりわけ実験的研究者から、「そんな抽象的な考え方で、生物が理解できるはずがないよ」という反論がよく聞かれる。先きに挙げたナンシー・カートライトの「なぜ物理学なのか?」という批判もそのような例だ。実際、ペンローズの説に対する反論は、しばしばその議論の細部に入った技術的なものであるというよりは、そもそも、物理的ないしは数学的アプローチの意識の問題における有効性に対する懐疑に基づいている場合が多い。

 たしかに、生物は複雑なシステムであり、複雑な環境の中で、複雑なふるまいをする。だからといって、そのような複雑なふるまいを一つ一つ取り上げて、それについて常識的な知識をいくら積み上げても、それで意識の問題が解けるわけではない。生物学的常識論では、意識の問題は解けないのだ。(210~211頁)

■1960年代の後半から1970年代の初頭にかけて、人工知能の分野は、ブームと言ってよいほどの盛り上がりを見せていた。

 約20年後、ペンローズのことを、

「人工知能が意識を持つのは当たり前だ、人工知能にできないことなどないのだ。だが、一部の馬鹿ものは、どうしてもそのことを理解しようとしない。あの、ペンローズとかいう輩は、自分が他の人よりも頭の良いことを鼻にかけて、人の仕事を中傷しているのだ……」(竹内薫、茂木健一郎共著『トンデモ科学の世界』参照)

 とこき下ろすことになる人工知能の総大将、マーヴィン・ミンスキーは、まだまだ意気盛んで、「問題は、単に、いかにして1000万個の知識のカタログを作るかということだけだ」と豪語していた。(213頁)

■(a)「知性」(inteligence)は、「理解」(understanding)を前提とする。

 (b)「理解」は、「覚醒」(awareness)を前提とする。

 ここに「覚醒」は、「意識」(consciousness)の受動的な側面を表わしている……ということになるのである。ペンローズの議論は、非常にクリアカットだ。簡単に言ってしまえば、

*コンピューターには、計算可能なプロセスしか実行できない

*意識は、計算不可能なプロセスが実行できる

*したがって、意識は、コンピューター以上のことができる(244頁)

■「意識はアルゴリズムで、ただ、その複雑性が大きいだけではないか?」と言う。

 このような意見に対して、ペンローズは、ある問題がそもそもアルゴリズムで解決できるかという、計算可能性の問題に比べれば、アルゴリズムが実際に存在したとして、問題解決にどれくらいのステップ数がかかるかという複雑性の問題は、本質的ではないとする。ペンローズにとっては、あくまでも、計算可能性が、意識とアルゴリズムを分ける分水嶺なわけである。(245頁)

■ところで、量子力学は、従来、しばしば人間が自由意志を持つかどうかという問題と関係すると言われてきた。そして、その際に重要なのは、量子力学が決定論的か、非決定論的かということだった。ここで、決定論的とは、現在の状態が決まれば、未来の状態が一つに決まってしまうことを言う。

――中略――

 だがペンローズが意識との関係で注目している量子力学の性質は、それが決定論的か、非決定論的かということではない。ペンローズに関心があるのは、量子力学、特に波動関数の収縮の過程が計算可能なプロセスか、計算不可能なプロセスかということなのである。そして、ペンローズは、その直感に基づき、波動関数の収縮は、計算不可能なプロセスだと主張する。そして、意識の本質は、量子力学における波動関数の収縮過程が計算不可能であることと関連しているとするのである。さらに言えば、ペンローズは、環境から孤立した系の波動関数の収縮は「決定論的だが計算不可能」なプロセスだと考えている。この点は、ペンローズのすべての仮説の中でも、最もぶっとんでいる点だと言ってよい。ここには、ペンローズの数学的直感の、最も深い部分が顔をのぞかせているのだ。(252~253頁)

■もう一度、ペンローズが、意識に量子力学がかかわっているとするときに根拠とする論理構成を振り返ってみよう。

 意識には計算不可能なプロセスがかかわっている。

        ↓

 古典的法則には、計算不可能なプロセスは含まれていない。一方、量子力学の波  

 動関数の収縮の過程には、計算不可能なプロセスが含まれている可能性がある。

        ↓

 他に計算不可能なプロセスがある可能性がないのだから、意識には、量子力学が

 かかわっていなければならない。(257頁)

■量子力学では波動関数というのを考える。これは、複素数の値をとる。波動関数は、シュレディンガー方程式に従って時間発展する。この過程を「U」と書こう。一方波動関数から、いろいろな結果が生ずる確率を計算することができる。そのためには、波動関数の絶対値を計算する必要がある。イメージとしては、いろいろなことが起こる可能性がある状態から、一つの結果に波動関数が「縮んでいく」のである。この過程を、波動関数の収縮と言う。この過程を「R」と書こう。以下の議論で重要なのは、「U」の過程は過去と未来が対称であるが、「R」の過程は、過去と未来の区別がある。すなわち、時間反転について非対称であるということである。(274頁)

■何よりも重要なことは、最も基本的な自然法則である量子力学が、時間反転に対しては非対称だということだ。つまり、過去と未来に区別があるのである。この点についてはしばしば誤解されていて、波動関数の時間発展を記述する「U」の部分だけを捉えて、「量子力学は時間反転にに対して対称な理論である」と言われることもある。だが、量子力学は、あくまでも、「U」と「R」が一緒になって、はじめて完全な理論なのである。「U」だけを取り出してみても、何の役にも立たないのだ。それどころか、「U」と「R」という区別さえも人為的なもので、本来は一つのプロセスで書かれるものを、不完全に分離したものである可能性さえある。量子力学は、過去と未来が非対称な理論なのだ。これはとても重大なことで、決して忘れてはいけない!(275頁)

■アインシュタインの有名な言葉に、マックス・ボルンに宛てた手紙の一節がある。

  たしかに、量子力学は印象的な成功を収めています。しかし、私の内面の声 

 が、これはまだ本物ではないと伝えているのです。この理論は、多くの成果をもたらしますが、まだまだ神様の意図するところの近くには来ていないと考えます。私には、どうしても神様がサイコロを振るとは思えないのです。

 ここで、サオコロを振るといっているのは、波動関数の収縮過程のことである。現在の量子力学の標準的な解釈によれば、この過程は全くランダムである。つまり、「神様はサイコロを振っている」のであって、その結果をあらかじめ知ることはできないということになっている。これを、「コペンハーゲン解釈」と言う。(278頁)

■たしかに、現在の量子力学の体系の下で、ある瞬間の量子的システムの状態が与えられても、観測の結果は確率的にしか予測できないかもしれない。しかし、実際には、世界は、次の瞬間にはちゃんと一つの状態に収束するのである。ということは、どんなプロセスを通るにせよ、何らかの形で、世界は次の瞬間の状態を一つに決めているのである。そもそも、世界の時間発展が、「ランダム」に決まるというのは、何を言っているのだろうか?どうも、きちんと定義できないことをごまかして言っているにすぎないとしか思えない。アインシュタインの言うように、量子力学の観測の過程が、「神はサイコロを振って」、「ランダム」に決まるというのは、どうにも訳のわからない考え方なのである。(279頁)

■ペンローズもアインシュタインと同様、「コペンハーゲン解釈」に違和感を持つ人である。そして、ペンローズの提案する解決法は、大胆かつ過激だ。ペンローズは、孤立している系の波動関数の収縮過程は、「決定論的だが、計算不可能な過程」だとするのである。このような波動関数の収縮過程の解釈が、すでに見たように、意識に量子力学がかかわっているとするペンローズのアイデアの核になっている。(280頁)

■ところで、数学の基礎については、プラトン主義と、形式主義という二つの対立する思想がある。

 プラトン主義の立場では、数学的真理は、最初から客観的実在として存在する。人間の知性は、単に最初から存在する真理を「発見」するだけだ。昔は絶対的な幾何学の真理だと考えられていた「ユークリッド幾何学」が今は絶対的な意味はないとしても、それはプラトン主義の立場を危うくすることはない。単に、ユークリッド幾何学しかないと思っていたときには、人類に見えるプラトン的世界の範囲が狭かっただけで、非ユークリッド幾何学が見えるようになった今、視野が広がったということだけなのである。一見神秘主義的に聞こえるプラトン主義の考え方だが、実際には多くの数学者が実感として持っている感覚だろう。ペンローズは、言うまでもなくプラトン主義者である。

 一方、形式主義の立場では、絶対的な数学の真理をどうこうすることは意味がない。数学のすべてを、シンボルの操作という形式的なものにかんげんしようとするのが、ヒルベルトに始まる形式主義の目標なのである。形式主義の立場では、シンボルなどの「意味」を問うことはしない。したがって、変な話しだが、それが研究できる唯一の「価値」は、その形式的な体系の中に矛盾があるかどうかだけだということになる。ここに、矛盾があるとは、あり命題の肯定と否定が、両方とも証明されてしまうような事態を指す。もちろん矛盾があっては困るわけで、「ある形式的体系の中に矛盾がない」ことを示すのが形式主義にとって重要な目標になる。形式主義は、論理学や集合論、数論などの公理化とともに発展してきたが、幾何学などの分野にはそれほどのインパクトを及ぼしていない。ペンローズが『皇帝の新しい心』の中で攻撃した人工知能は、その精神において形式主義の子孫であると言うことができる。(288~289頁)

■つまり、一定の手続き(=「論理的整合性」や「実験による検証」などの条件)にさえ則っていれば、どんなに革命的な理論でも、科学は、それを自分のシステムの中に取り入れてしまう。

 たとえば、量子力学と相対性理論の二大革命を経た現代の「科学」は、ニュートンの時代の「科学」とは全く内容が異なる。それでも、両者を同じ「科学」という名前で呼ぶのは、革命によって内容がどんなに変化してしまったとしても、どちらも、「化学的方法論」という、同じ手続きによってその存在が保証されているからだ。「科学」は、どのように激しい変化が起こったとしても、ある手続きさえ満たされていれば、変化の前後で同じものであり続ける。

 このように、変化しても同じものであり続ける概念を、「メタ概念」(metaconcept)と呼ぼう。

 科学は、変化にもかかわらず自己同一性(identity)を保つ、「メタ概念」なのである。科学は、「メタ概念」だからこそ、今日に見られるような高度の進化をとげたのだ。(298~299頁)

■私は、「プラトン的世界」は、今後の科学が間違いなく取り入れていく方向性の一つだと思う。

 科学は、「プラトン的世界」を取り入れることによって、新しい展開を見せうるはずなのである。それが、意識の問題にあくまでも科学的に取り組もうとしている人(その中にはもとろんペンローズも含まれる)の「現場感覚だ」。(300~301頁)

■ゲーデルの定理の本当の意味(スティーン流の)を聞いて、私は狂喜乱舞したものだ。なぜなら、そのような心配は無用であることが判明したからだ。ゲーデルの定理は、人間理性の限界ではなく、むしろ人間の理性が事前に用意された形式的規則のシステムにせいげんされないことをしめしていたからだ。ゲーデルがしめしたのは、(規則自体が信頼に足る場合)いかにして、その規則体系を超えることができるか、についてであった。

 加えて、明らかに形式体系とチューリングの実効的計算可能性との間に親密な関係が存在した。私にはそれで十分だった。人間の思考力と理解力は、明らかに何か計算以上のものだ。にもかかわらず、私は科学的方法と科学的な実在論(realism)強い信者であり続けた。私は、どうやら、当時、現在の私の見解に近い和解点を見いだしていたにちがいない。その詳細はわからなかったが、少なくとも、その精神においては。(349~350頁)

■私の数学的プラトン主義に(訳者――数学的プラトン主義は。数学の対象をあたかも実在するかのごとく扱う。もちろん、プラトン主義には、より哲学的な側面もあり、ペンローズはあくまでも「数学的」プラトン主義である)ついて一言。実際に、前記6節で提出した「間違い」に関する私の主張のある点は、ある人にとって不適切な「プラトン主義」とうつったことだろう。なぜなら、観念化した数学的議論をまるで特定の数学者の思考と無関係な実在として扱っているから。しかしながら、抽象的な概念を他のどんな方法で論じることができようか。数学的証明は抽象的な観念――一人のひとからもう一人へと伝達することができ、特定の個人に固有のものではない観念――である。

 私が主張するのは、ある個人がたまたま都合が良いと考える特定の具象的実体と無関係に、数学的な「観念」を実在(もちろん、物質的な実在ではないが)として話すことに意味がある、ということだけだ。このことは、「プラトン主義的」哲学への傾倒を意味するものではない。(384~385頁)

■したがって、古典的なレベルと量子的レベルを結びつける新しい物理理論も計算不可能な理論になるだろうと私は主張する。もちろん、私はここでは不利な立場にある。なぜならこの理論は未だ発見されていないからだ!しかし総体的な話の核心は変わらない。

 (訳注17:古典的なふるまい……「古典的」という言葉は、「量子的」という言葉の反対語。すなわち、量子力学の発見以前の物理学(ニュートン!)が古典物理学なのである。古典物理学と量子物理学との大きな違いは、理論が決定論的かどうかである。量子論は、確率的な予言しかできないが、ミクロの世界を扱うことができる。古典論は、決定的な予言ができるが、マクロの世界しか扱うことができない。そこで、問題は、ミクロとマクロの境界がどうなるか、ということになる。)(396頁)

私はマイクロチューブルが実際に、現在のところ行なっていると信じられている仕事、そしてその他もっと多くのことを行なっていることを疑ってはいない。しかしそれは、私がそれらに要求する付加的な目的の役に立って「も」いることへの反証にはならない。

 自然が同一の構造を多くの違った目的のために用いているたくさんの実例をわれわれは知っている。たとえば、われわれは哺乳類の鼻が(嗅覚への重要性は言うまでもなく)空気中の物質を肺に届く前に濾過することを知っている。しかし、これは象が地面から物体を拾うために彼らの鼻を繊細に使い「も」することへの反論とはならないのだ!(425頁)

私はいかなる意識も個々の細胞に存在していると主張しているのではないことをはっきりさせておかなければならない。しかし私が唱えてきた見解に従えば、〈実際の意識に必要とされる〉構成要素のいくつかはすでに細胞レベルに存在しているにちがいまいことになる。個々の細胞は著しく精巧な方法で作用することができ、それらの作用を完全に伝統的な(古典的な)筋道にそって説明して納得するのは、非常に困難であることがわかった。(433~434頁)

■意識には、能動的な側面、すなわち、さきの13節で考察した「自由意志」の問題がある。また、きづいていること(awareness)と「クオリア」の議論のやかましい問題に関係する、受動的な側面もある。理解力はその二つの間のどこかに位置する。私の意見では、「物理的体系がどのように理解力を示すことができるのか」という難問にすこしでも光をあてるものは何でも、必然的に「自由意志」と「クオリア」の難問に光をあてるはずだ。さらに言えば、「理解力」の問題は意識のより具体的な側面の一つであろうと私には思われる。「自由意志」あるいは「気づいていること」の質についてそれが化学的に有益な方法でどのように議論すれば十分なのか私にはわからないが、「理解力」はわれわれが取り扱うことのできる何かである。(437頁)

■そういえば、最近、やたら「科学インタープリター」ということばが目につく。このことばは、私(岡野注;竹内)の記憶では、本書の出たころには、まだつかわれていなかった。当時は、新聞社や科学雑誌以外のところにサイエンス・ライターなる生きものは存在しなかったし、ましてや、「難解な科学を一般向けに翻訳する」という意味の科学インタープリターもほとんどいなかった。(454頁)

■複雑になりすぎた科学の世界を一般の人々に正確かつ平易に伝えるためには、だから、「橋渡し役」を専門とするプロ集団が必要になってくる。

 それが、科学インタープリターなのである。(455頁)

■私(岡野注;茂木)が子供の頃、科学者になろうと志した理由はいろいろあるが、科学をやっていればどんな変人でもチャーミングになれると思ったことも大きかった。

 二人の科学者が、黒板の前で難解な数式を書きながら議論をしている。髪の毛はぼさぼさで、服装もだらしなく、手を振り回しながら何やら虚空を見つめている。周囲の人間にとっては、何のことやらさっぱり分からないが、二人にとってはこの世で一番重大な真理についての大切な議論である。ふと気付くと、何時間も経っていて、お昼を食べるのを忘れている。

 金も社会的地位もいらないから、そんな科学者になりたいと、子供の頃ぼんやりと思っていたが、実際に大学院に入って研究を初めてみると、学会というのは案外常識人ばかりの場所だと失望した。しかし、ペンローズだけはいつも「変人科学者」への期待を裏切らない。何も本人がもの好きで変人になろうというのではない。自分にとって大切なこと集中しているうちに、知らず知らずのうちに普通の人とは違った方向に行ってしまうのである。(459~460頁)

2009年8月24日

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『哲学は人生の役に立つのか』木田 元著 PHP新書

■ギリシャの哲学者は、ソクラテスにしても、プラトンにしても体力はすごくありました。プラトンは、少年時代にレスリングの試合に出たと言われています。プラトンというのは「広い」という意味の形容詞で、肩幅が広いので、体操の先生がつけた綽名なんですね。本名はアリストクレースというのですが、「ひろし」とでもいう綽名で歴史に残ったわけです。(岡野;浩二の「浩」はおおきい、ひろい、という意味)(93頁)

■このあたりは、アメリカの文芸評論家のジョージ・スタイナーの請け売りなのですが(ジョージ・スタイナー『マルティン・ハイデガー』生松敬三訳、岩波現代文庫所収)、「黙示録」というのは、ユダヤ教やキリスト教で、現世の終末と来たるべき新しい世界についての神の秘密の教えを告知する文書のことです。(122~123頁)

■しかし、『存在と時間』が当時一般にそう思われていたようないわゆる実存哲学の本でないことだけははっきりしてきました。ハイデガー自身が、ここでおこなっている人間存在の分析は、本論である「存在一般の意味の究明」をおこなうための準備作業であって、それがこの本の本来の意図ではないと行っているのはそのとおりだと思いました。

 実存哲学というのは、自分にとってかけがえのない自分自身の存在と向き合い、それをいかに引き受けていくかということを主題とする哲学なのですが、『存在と時間』はそうしたことを企てているわけではない。たしかに、そうした角度から人間存在を分析してはいくのですが、ハイデガーのやり方はかなり形式的で、たとえばキルケゴールのような切実さはありません。私も、自分がこの本に「わが身一つをいかにすべきか」という問いの答を求めたのは、どうやら間違いだったということに気づきはじめてはいたのです。(166頁)

■72年(岡野注;1972年)と言えば、いわゆる学園闘争が一段落したころです。。あの闘争の最中に、大学院の学生たちが、「もう欧米の哲学書を原書で読んで満足している時代ではない、自分たちの言葉で自分たちの思索を展開すべきだ」などと言い出して、自主ゼミなるものをはじめました。なにをするのかなと思って見ていると、ルカーチの『歴史と階級意識』を翻訳で、それも途中を飛ばしながら読むだけなのです。要するに外国語の読解でいじめられるのはもうゴメンだ、ということだったのでしょう。

 「自分で考える」などと言っても、そう簡単にできるものではありません。深く考えるにも、深く感じるにも、それなりの訓練が必要なのです。深く感じることができるようになるためには、深く感じることができた詩人や作家の作品を読んで、その感じ方に共感し、学びとる必要があります。深く考えることができるようになるためにも、よく考えて書かれた本を、はじめの一行から最後の一行まで丹念に読んで、その思考を追いかけながら学びとる訓練をしなければならないのです。だまって眼をつぶれば、ひとりでに思考が湧いてくるというものではありません。(187~188頁)

2009年10月21日

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『セザンヌの手紙』ジョン・リウォルド篇 池上忠治訳 美術公論社

■ジョアシャン・ガスケに対して彼は述べているではないか、「その私生活に他人の注意をひきつけずとも人は充分すぐれた絵画を描きうると私は信じてきました。たしかに芸術家は可能なかぎりの知的向上を望みはしますが、しかしその人柄は世に知られないままにとどまるべきなのです」と。(編者序)(1頁)

■36 カミーユ・ピサロへ (エクス) 1874年6月24日

――先日エクスの美術館長に会いました。彼は協会(註2)記事を載せたパリの新聞に好奇心をそそられ、絵画の危険が奈辺にまで及んでいるかを自分の眼で確かめたいのだそうです。私の作品を見るだけでは悪の進展の度合いを充分に認識できないから是非パリの大罪人たちの絵を見る必要があると私が主張したところ、彼は「いや、君の暴行ぶりを見るだけで絵画がいかなる危機にひんしているかがよくわかる」のだそうです。

(註2)いわゆる印象派のグループのこと。正式には「画家彫刻家版画家協会」という。この年に第1回の展観を、パリのキャビュシーヌ大通りで開いた。セザンヌはピサロの強い推薦によって入会を認められ、『首吊りの家』、『モデルヌ・オランピア』、『オーヴェール風景』の3点を出品した。これらは一般にきわめて不評だったが、レオン・ド・ローラは『ゴーロワ』紙で『首吊りの家』を〝最もすぐれた風景画の1つ〟と誉め、アルマン・ドリア伯がこれを買うことになった。

(107~108頁)

■39 カミーユ・ピサロへ (エスタック) 1876年7月2日

 土地の者が私をじろじろ眺めます。もし視線が人に危害を加えるものだとしたら私などはとっくに眺め殺されているでしょう。どうも私の顔つきが気にくわないようです。(113頁)

■43 エミール・ゾラへ (パリ) 1877年8月28日

昨夜クローゼル街にある行きつけの画材店(註2)へ行って、ばったり懐かしいアンプレールに会った。

(註2)いわゆる〝タンギー親父〟の店のこと。ジュリアン・タンギーは普仏戦争前は画材の行商人でフォンテーヌブローやパリ近郊をまわり歩き、パリ・コミューンの後はクローゼル街にささやかな店を持った。ピサロに紹介されて、セザンヌは作品と交換にここで画布や絵具、絵筆などを受けとることができた。1880年代の前半、若いゴーギャンやシニャックはタンギーの店でセザンヌの作品を買うことになる。

(118頁)

■68 カミーユ・ピサロへ (パリ) 1879年4月1日

 私のサロン応募のことで反対の声があがっている折ですので、私は印象派展への出品を見あわせたいと考えます(註1)。

 また他方、私が作品を運搬すると必ず騒ぎが起きますので、それをも避けたいと思います。それに数日後にパリを発つのです。

(註1)1879年春の第4回印象派展にはルノワール、シスレー、ベルト・モリゾも参加しなかった。ルノワールはシャルパンティエとの関係によってサロン合格の可能性があり、またシスレーも「あまりに長いあいだ孤立」しないためにサロンに応募する方がよいと考えた。ベルト・モリゾは間近に迫っていた出産のため近作がなかった。(138頁)

■ポール・ゴーガンからカミーユ・ピサロへ (パリ) 1881年夏

……セザンヌ氏は万人に認められる作品を描くための正確な方式を発見したでしょうか。彼の様々な感覚の度外れの表現を唯一の方法のなかに圧縮するやり方をもし彼が発見したのでしたら、どうか彼に同種療法の神秘的な薬を与えて眠っている間にそれをしゃべらせ、できるだけ早く私たちに報告しにパリまで来てください……(154頁)

■107 ある女性(註1)へ (下書) 1885年春

 私はあなたにお会いし、あなたは私に接吻を許してくださいました。あの時以来、私の心は深い混乱に動かされています。不安にさいなまれる一友人(註2)がこうしてあえて手紙を書くことをどうかお許しください。あなたはこれを不躾だとお思いになるかもしれませんが、私はこれを形容するすべを知りません。私を圧倒するこの想いを黙って語らずにいられるでしょうか。感情をかくすよりはむしろ明らかにするほうが良いのではないでしょうか。

 お前の苦しみをなぜ黙っているのだと、私は自分に言いました。苦しみを表明すれば、それだけ悩みが和らげられるではないかと。肉体の痛みがそれを訴える叫びによって多少とも紛れるものだとしたら、心の悲しみは心の憧れの存在に対する告白のうちに和らぎを求めるのではないでしょうか。

 こうして突然にお手紙をさしあげるのがはしたなく思われるかもしれないことはよく承知しております。しかし、それはあなたに対する……

(註1)この下書きはウィーンのアルベルティナ美術館が蔵するセザンヌのデッサンの裏に記されている。後半部は発見されていない。この女性が誰かはなお明らかにされていないが、ジャン・ド・ブッカンはエクス郊外のジャス・ド・ブッファンの若い女中ファニーかと推測している。

(注2)リウォルドが〝一友人〟un ami と読んだこの語を、アンリ・ベリュショは〝一つの魂〟une ame と読むべきだとしている。

(168~169頁)

■ポール・アレクシスからゾラへ 1891年2月13日、金曜

 彼は女房のことをかんかんに怒っている。1年もパリにいた後、女房は去年の夏5ヶ月のスイス旅行、それも大名旅行という打撃を与えたのだが、多少とも共感にめぐまれたのはあるプロシャ人の家庭においてのみという始末だ。スイスのあと、女房はブルジョア的な息子に付きそわれてまたパリへ逃げてしまった。

 しかし、生活費の送金を半分に削って、彼は女房と子供と、おまけに400フランかけて持ってきたパリの家具まで着くのだ。ド・ラ・モネ街に部屋を借りて、ポールはすべてをそこへ入れる気でいる……しかし彼の方はというと、彼は母親と上の妹の所から離れようとしないのだ。郊外の彼女らのところで彼は大いに居心地がよく、こっちの方が絶対に女房よりいいのだ。こうして女房と子供がこちらに根をおろしたら、今度は彼が時々パリに行って6ヶ月暮らすことをさまたげるものは何もない。〝美しき太陽と自由よ、万歳!〟と彼はわめいている。(183頁)

■ピサロからエステル・ピサロへ (パリ) 1895年11月13日

 親愛なるエステル(註1)

 ヴォラール(註2)のところでとても完全なセザンヌの展覧会が開かれている。驚くほどよく仕上げられた静物画、未完成だが実に異常な野生と性質をもつ作品が並んでいる。これはほとんど理解されないだろうと私は思う……

(註1)エステルはリュシアン・ピサロ(岡野注;ピサロの息子)の妻。

(註2)アンブロワーズ・ヴォラールは画商だが、1894年1月にラフィット街に小さな画廊を開いたばかりで、当時まだほとんど知られていなかった。彼はジョフロアに勧められ、ピサロ、モネ、ドガ、ルノワール等にも鼓吹されて、1895年の11月から12がつにかけセザンヌ展の開催に成功する。しばし躊躇した後セザンヌは大量の作品を送るが、画廊の狭さのため同時に50点しか陳列できなかったという。セザンヌはエクスにいて、会場を訪れなかった。ヴォラールの後年の著書『ポール・セザンヌ』『画商の想い出』などを参照。

(191~192頁)

■ピサロからリュシアン・ピサロへ (パリ) 1895年11月21日

……私はまたセザンヌ展のことを考えていた。すばらしいものが並んでいる。文句のつけようのないほど仕上げられた静物、描きこんであるか、あるいはまだプランのままに残されていて、しかも他の作品以上に美しいもの、風景や裸体や顔など未完成ではあるが全く雄大でいかにも絵らしく実にしなやかなもの……なぜだろう?そこには感覚(サンサシオン)があるからだ!……おもしろいことに、ずっと前からセザンヌについて感じているあのふしぎな、面くらわせるような彼の一面のことを嘆賞していたら、そこへルノワールがやってきた。私の熱中もルノワールの熱狂の前ではキリストの前のヨハネみたいだった。ドガでさえこの種の洗練された野人の魅力に引きこまれている。モネもそうだ……私たちは皆間違えているのだろうか。私はそうは思わない。芸術家だろうと愛好家だろうと、この魅力を感じないものはある感性が自分に欠けていることを示すことになるのだ。むろん連中はわれわれの気がついているさまざまな欠点をきわめて論理的に述べたてることはできる。それは一目でわかる。だが、連中はこの魅力を見ていないのだ。――ルノワールが実にうまく言っていた、何だか知らないが同じような魅力がポンペイのものにあるのだと、実に粗野で実にすばらしいものが。――アカデミー・ジュリアン(註1)みたいなところは全然ないのだ。モネとルノワールは〔セザンヌの〕すばらしいものを買った。私はルヴシェンヌを描いたまずい習作をやって、交換にセザンヌのいくつかの小さな『水浴の男たち』と肖像を受けとった……

(註1)アカデミー・ジュリアンは当時のパリでコルモンのアトリエとともに最も有名だった。ここでは、エミール・ベルナール、モーリス・ドニ、エドゥアール・ヴュィヤールなどアカデミー・ジュリアンの門下生でナビ派を形成する若い画家たちの洗練されてはいるが、教養主義的にすぎて野性味に欠ける絵画を、ピサロはセザンヌのせんれんされてしかも力強い絵画に対比している。

(192~193頁)

■ピサロからリュシアン・ピサロへ (パリ) 1895年12月4日

 ……印象派の愛好家や友人たちにセザンヌのたぐい稀な特質を理解させるのがどんなにむずかしいことか、お前にはわからないだろう。人々が正当に彼を評価するまでに幾世紀もかかるのではないかと思う。ドガとルノワールはセザンヌの作品に夢中だ。果物をいくつか描いたデッサンをヴォラールが示して、籤引きで当てた人にあげましょうという。セザンヌのクロッキーに情熱をかたむけているドガがこの幸運を引きあてた。1861年の私は正しかったのだ、下手くそな連中の嘲りをあびながらアカデミックなデッサンをやっていたあのふしぎなプロヴァンス人に会いにアカデミー・スイスまでオレルと一緒に出かけていった私はね。……(193頁)

■ピサロからリュシアン・ピサロへ (ルアン) 1896年1月20日

 ……パリを発つ前に友人のオレルに会ったら、彼とセザンヌとの間に起きた異常なことを語ってくれた。セザンヌが軽度の精神異常をきたしていることがわかるのだ……

 あの南方的な開放性でセザンヌが大いに親愛の情を示したので、オレルはすっかり信じきって、エクス・アン・プロヴァンスまでセザンヌについて行ってもいいのだと思った。翌日のパリ・リヨン・地中海線の汽車で待ちあわせることになった。「3等で」とセザンヌおじさんは言った。そこでオレルはプラットホームできょろきょろと四方を見まわすが、セザンヌはいない。汽車が出そうになる。見つからない。僕がもう乗ったと思ってセザンヌも乗ったのだろうとオレルは自分に言いきかせ、意を決して乗りこむ。リヨンのホテルで彼は財布のなかの500フランを盗まれてしまう。帰るに帰れないので、彼はセザンヌに電報を打ってみた。セザンヌは家にいた(エクスの)。彼は1等に乗ったのだ!お前も後学のために読んでおくがいいような手紙をオレルは受けとる。セザンヌは彼を戸口で追いかえし、人を馬鹿だと思うと……などと言う。実際すごい手紙だ。ルノワール宛のと大して変わらない。――「ピサロは老いぼれ、モネはずる賢い奴、奴らは腹に何も持っていない……気質(タンペラマン)のあるのは俺だけ、赤い色の出し方を知っているのも俺だけなのだ!! 」というわけだ。

 アギナールも同様の場面に出くわしたことがある。医師として彼はオレルに言った。セザンヌは病気なのだ、気にすることはない、オレルに責任はないのだと。あれほど美しい気質にめぐまれている男がかくも均衡に欠けているとは、何と悲しくまた残念なことだろう……(193~194頁)

■138 ジョアシャン・ガスケへ (エクス) 1896年4月30日

 私は今夕クール・ミラボーの端であなたにお会いしました。あなたはガスケ夫人と御一緒でした。私の誤りでなければ、あなたは私に対して大変立腹されているようでした。

 もしあなたが私の内なる人間を見ることができたら、そんなにお腹立ちにはならないでしょう。私がどんなに悲しい状態にあるかをあなたはご存知ないのです。自分を制御できないときは、人間として存在しないも同様です。あなたは哲学者として私に止めを刺そうとお思いなのでしょうか。しかし私はジョフロアその他、50フランの文章を書くことが目的で大衆の注目を私に引きつけたような輩を忌み嫌うものです。生涯私は絵で生活できるようになろうと努めてきましたが、しかし、自分の私生活に注意を引きつけずとも充分すぐれた絵を描けると信じて来ました。たしかに芸術家はできうるかぎりの知的向上を望みます。しかしその人間としての満は曖昧なままにとどまらざるをえないのです。喜びは研鑽のうちに存すべきものです。もし研鑽の目的が実現されたとしても、私はやはりアトリエの仲間たちとともに自分の片隅にとどまり、彼らと一杯飲みに行くだけのことでしょう。私にはこうした昔ながらのよい友人が一人ありますが、たしかに彼は成功しなかった。しかし賞牌や勲章を手に入れたやくざな連中より彼の方がよほど画家らしいのです(註1)。勲章などはうんざりです。私の年齢になってまだ何かを信じているとあなたはお思いですか。もっとも私はもう死人も同然です。あなたは若い。あなたが成功しようとお思いなのはよくわかります。しかし私には、私の状況でなすべき何が残されているというのでしょう。自分の糸をやんわりつむぐだけのことです。私がこの地方の風光を大いに愛してさえいなかったら、私はここにはいないでしょう。

 以上であなたを大分手こずらせたことと思います。こうして私の立場を説明したあとでは、あなたもまるで私があなたの身の安全にかかわることをしでかしたかのように私をごらんになることはないものと思います。

 どうか親愛なるガスケ様、私の老齢を考慮されて、私のあなたに差しあげる最良の気持と願いとをお受けとりください(註2)。

(註1)おそらくアシル・アンプレベールをさすものと思われる。

(註2)この後まもなくセザンヌは『ジョアシャン・ガスケの肖像』を描きはじめる。なおその父の『ジアンリ・ガスケの肖像』はこの4月から着手されている。

(194~195頁)

■154 ジョアシャン・ガスケへ (ル・トロネ) 1897年9月26日

 芸術は自然と平行する一つの調和なのだ――芸術家は常に自然より劣るなどという馬鹿者どもが何と考えようとね。(206頁)

■ポール・アレクシスからゾラへ (パリ) 1899年5月5日

 驚いたことに昨日の朝は、ボクの5点のセザンヌを見にラフィット街から来た画商(註1)に起こされた。彼はそっくり2千フランで買うという(ピサロの習作とルノワールのアルチショを描いた絵も含めて)。これらを売るかもしれないと知って女房がびっくりして大声をあげたが、正直なところ、この金額は僕をしばらく夢想にふけらせた。2千フランの値を僕がつけたのでは全然ないから、3千フランにだってなりかねないのだ。

(註1)アンブロワーズ・ヴォラールのことと思われる。(210頁)

■ピサロからリュシアン・ピサロへ (パリ) 1899年6月1日

 芸術上の大事件が起きようとしている。ショケ親父が死に、未亡人も死んだので、そのコレクションが売立てに付されることになった。32点の第一級のセザンヌがある。モネもルノワールもある。私のは1点だけだ。セザンヌのねが上がりつつある。もう4000から5000フランしているのだ(註1)……

(註1)この売立ては7月初めに行なわれ、32点のセザンヌは合計5万1千フランに達した。最も高額だったのはカモンドが『首吊りの家』のために払った6千2百フランである。モネの勧めによりデュラン・リュエルが15点を買い、残りをベルネーム・ジュヌ、ヴォラール、ヴィオ、ペルラン等が争って買った。(212頁)

■ピサロからリュシアン・ピサロへ (パリ) 1900年4月21日

 われわれ、つまり印象派は万国博覧会で一室を与えられる。われわれは非常によく扱われるらしい。ついにデュラン・リュエルがこの仕事を引き受けた。ベルネーム兄弟も、それはとても良いことで、センセーションをまき起こすだろうと昨日言っていた。われわれは1830年派(註1)に続けて陳列されるのだ。セザンヌの作品も出るだろう。もっとも彼は今流行している。驚くべきことだ!私の絵5点が買われてベルリンへ行くという話を昨日きいた。シスレーは6千から1万フランでよく売れ、セザンヌは5千から6千、モネは6千から1万だ。

(註1)いわゆるバビルゾン派の風景画家をさすものと思われる。

(213頁)

■175  シャルル・カモアンへ (エクス) 1902年2月3日

 今やあなたはパリでルーヴルの巨匠たちに引きつけられるのですから、ヴェロネーゼやリュベンスなど装飾的な巨匠たちに即して習作をおやりなさい。ただし自然に即してやるようなやり方で――この点を私は不完全にしかやれなかったのです。――しかし自然に即して研究すればなお良い。(222頁)

■177 ルイ・オランシュへ (エクス) 1902年3月10日

 自分がこの世で最も不幸な者の一人ではないことを認めざるをえません。どうか自分に自信をもって仕事をなさい。決して芸術を忘れてはいけません。これによってわれわれは星の高みにまで達するのです。(224頁)

■182 アンブロワーズ・ヴォラールへ (エクス) 1902年4月2日

ささやかな土地にアトリエを建てさせました。その目的で土地を買ったのです(註1)

(註1)ジャス・ド・ブッファンの売却以来、ブールゴン街のセザンヌの家には小さなアトリエしかなかった。前年11月、セザンヌは郊外から町を見下ろすローヴの丘に地所を買い、大きな2階建てのアトリエを建てさした。この年にアトリエが完成すると、以後彼は周囲の風景のうちの多くのモティーフを描き、またここで多数の肖像、静物、水浴の構図等を制作することとなる。この建物は1954年以降エクス・マルセーユ大学の所有に帰し、現状のまま一般に公開されている。

(226~227頁)

■186 ジョアシャン・ガスケへ (エクス) 1902年7月8日

 私は仕事による成功を追究しています。私はモネとルノワールを除く現在の画家をすべて軽蔑しており、仕事によって成功をおさめたく思うのです。(228~229頁)

■189 アンブロワーズ・ヴォラールへ (エクス) 1903年1月9日

 私は一心不乱に仕事をしています。約束の土地がかい間みえるような気がします。私はヘブライの偉大な予言者のようになれるでしょうか、かの地に足をふみ入れることができるでしょうか。―中略―

 私は多少の進歩をなしとげましたが、それがなぜかくも遅く、かくも辛いのでしょう。芸術は結局のところ、司祭職のように、身をあげて自分に帰属する純粋な人々を求めるのでしょうか。(230頁)

■190  シャルル・カモアンへ (エクス) 1903年2月22日

 今度お会いしたら、絵画について誰よりも正しくあなたにお話しましょう。芸術においては私は何ら隠すべきものをもたないのです。

 必要なのは原初的な力、つまり気質(タンペラマン)のみです。これが人をして達すべき目的にまでいたらしめるのです。(231頁)

■193 ジョアシャン・ガスケへ (エクス) 1903年9月5日

今やりかけの絵を今なお6ヶ月続けないといけないのです。これをサロン・デ・ザルチスト・フランスに出すつもりなのですから(註1)。―中略―

ルージョンのいわゆる猛獣(註3)、ポール・セザンヌ

(註1)この応募はやはり落選に終わった。これまでの官選のサロンは1890年に分裂した。旧勢力はブグロー、ジェロム、ボンナ等の率いるサロン・デ・ザルチスト・フランスで、これがセザンヌのいわゆる〝ブグローのサロン〟である。もう一つの多少ともよりリベラルなサロンはサロン・ド・ラ・ソシエテ・ナショナル・デ・ボ・ザール(通称ラ・ナショナル)でメッソニエをリーダーとし、他にカロリュス・デュラン、J・E・ブランシュ、ベナール、メナール、シモン、コッテ、カリエール等がおり、メッソニエが1891年に死ぬとピュヴィス・ド・シャヴァンヌがリーダーとなった。

(註3)ルージョンは美術学校の校長を経て当時美術局長だった。オクターヴ・ミルボーがセザンヌにレジオン・ドヌールを得させようと画策したが、結局ルージョンの反対にあって実現しなかったという。

(233頁)

■197 ルイ・オランシュへ (エクス) 1904年1月25日

 お手紙であなたは絵画における私の実現(レアリザシオン)について書いておられます。多少苦労しながらではありますが、私は日々ますますこれに達しつつあると思います。というのは、もし自然の与える強烈な感覚――たしかに私は生き生きしたこの感覚を有しています――があらゆる芸術創造にとって欠くべからざる基礎であり、未来の作品の偉大さや美しさがこの基礎のうちに存するのだとしたも、われわれの感動を表現する諸手段についての知識も、これに劣らず本質的であって、きわめて長い経験によってのみ獲得されるものなのです(註1)。

(註1)感覚はサンサシオン、感動はエモシオンの訳語である。これらは最も適切な訳語ではないかもしれないが、他により適当する言葉が見当らない。サンサシオンは自然(あるいはモティーフ)が画家に与える感覚の意味に用いられる場合と、画家が生まれながらに有する芸術的感覚の意に用いられることとがある。後者の場合は気質(タンペラマン)の意味により近いわけである。またより普通に感動の意で用いられることもあり、この場合はエモシオンに一致する。サンサシオンとタンペラマンの二語は19世紀後半のフランスにおける芸術的創造の心理的基礎を解明すべき鍵となる言葉であるが、これらを用いる主体が画家であって文学者や学者ではないだけに、厳密性を欠き、なかなか真意をとらえがたいことがある。

(235~236頁)

■198 エミール・ベルナール(註1)へ (エクス) 1904年4月15日

 こちらであなたにおはなししたことを再び繰りかえすことをお許しください。自然を円筒形と球形と円錐形によって扱い、すべてを遠近法のなかに入れなさい。つまり、物やプランの各面がひとつの中心点に向かって集中するようにしなさい。水平線に平行する線はひろがり、すなわち自然の一断面を与えます。お望みならば、全知全能にして永遠の父なる神がわれわれの眼前にくりひろげる光景の一断面といってもかまいません。この水平線に対して垂直の線は深さを与えます。ところでわれわれ人間にとって、自然は平面においてよりも深さにおいて存在します。そのため、赤と黄で示される光の振動のなかに、空気を感じさせるために必要なだけの青系統の色を導入する必要が生じます(註2)。

 申しそえますが、アトリエの一階であなたがおやりになった習作(註3)をもう一度見ました。とても結構です。あなたはこの道をお進みになるだけでよいのだと思います。やらねばいけないことをすでに御存知なのですから、やがて間もなくゴーガンやヴァン・ゴッホの作品などには背をお向けになることでしょう(註4)!

(註1)タンギーの店でセザンヌの作品を見、ピサロやゴーガンにエクスの巨匠の重要性を教えられて、すでに画家エミール・ベルナール(1868–1941)はセザンヌ論(1891年5月2日ピサロの手紙の注1を参照)をあらわしていたが、これはまだ個人的にはセザンヌを知らなかった。この年彼は妻子とともにエジプト旅行の帰途エクスを訪れ、2月から3月にかけて約1ヶ月滞在してセザンヌに会い、しばしば長い理論的な会話をかわし、エクスを去った後も手紙でこれを試みようとする。

(註2)この最も有名な手紙に始まるセザンヌの幾通かのベルナール宛の手紙は、初め『オクシダン』誌(1907年10月)とにベルナールによって発表され、当時起こりつつあったキュビスムの有力な理論的根拠のひとつとなった。ここでセザンヌが言う円筒形、球形、円錐形はいずれも丸味(モデュレ)を持つ形態であり、キュビスムはこの丸味を小さな平面の集積に置きかえようとするわけで、その意味でキュビストはセザンヌの真意を理解しておらず、また続いて述べられる遠近法や色彩の処理をも無視する。しかしこのことによってキュビスムの重要性が減ずるわけではない。キュビストはただ自分たちの芸術を支援しうるものをあらゆるよころに求めたのである。

セザンヌ

(註3)セザンヌはベルナールのためシュマン・デ・ローヴのアトリエの一室に静物をしつらえて描かせた。彼のアトリエはその2階にあった。

(註4)ベルナールはすでにパリ時代のヴァン・ゴッホを知っており、またポン・タヴェンその他でゴーガンと親しく交わっていて、すでに亡くなったこの二人の声価は、このころ上がりつつあった。しかしセザンヌは〝支那の影絵〟のように平らなゴーガンの絵やヴァン・ゴッホの〝気狂い〟じみた絵の重要性を決して認めようとしなかった。

(236~238頁)

■199 エミール・ベルナールへ (エクス) 1904年5月12日

 すでにお話したように、ルドンの才能は大いに私の気に入っており、また私は彼と心をあわせてドラクロワを感じかつ讃えるものです。私の心もとない健康のため、ドラクロワ礼讃の構図を描こうという多年の夢はおそらく決してかなえられることがないでしょう(註1)。

 私はきわめてゆっくりと仕事を進めます。自然は私にとって実に複雑で、またなしとげるべき進歩は無限にあります。モデルをよく見、きわめて正しく感じとらねばなりません。そしてさらに、品位をもって力強く自己を表現しなければなりません。

 趣味は最良の判定者で、これを持つ人はめったにありません。芸術は実に数少ない人々にのみ呼びかけるものなのです。

 芸術家は、性格の知的観察にもとづかぬ意見を軽視せねばなりません。文学的精神をも疑う必要があります。これは実にしばしば画家をしてその真の道から――つまり自然の具体的研究から遠ざけ、触知できない思弁のなかに長い間迷いこませるのです。

 ルーヴルは参照すべき良書です。しかし、これも単なる仲介物であるにとどまらねばなりません。とりあげるべき本物のすばらしい研究対象、それは自然という絵画の多様性なのです。

(註1)青年時代以来ずっとセザンヌはドラクロワを賛美して、『ダンテの舟』『化粧』『メディア』等を模写しており、1894年に彼のアトリエを撮影した写真では、制作中の油絵『ドラクロワ礼讃』が画架にかかっている。この作品のための水彩画の裏にエミール・ベルナールはセザンヌの書いた詩まで発見している。

 ここにあり、若い女の丸い尻、/草むらに彼女のくりのべる/しなやかなる体、すばらしい開花。/クールーヴルもかほどに柔軟でなく、/輝く太陽は嬉しげに投げる/金色の光線を、この美しい肉に。

(238~239頁)

■200 エミール・ベルナールへ (エクス) 1904年4月15日

 『オクシダン』誌のための文章であなたが展開される思想を私はだいたい承認いたします。しかし結局私は次の点に帰着します。すなわち、画家は自然の研究のために一身をささげ、ひとつの教えとなるような絵画を作りだすよう努力しなければならないのです。芸術についてのお談義はほとんど無用です。自分固有の職業において仕事が進歩を実現させてくれるならば、それだけで充分、世の馬鹿者どもに理解されないことの埋めあわせになります。

 文学者が抽象的な思想によって自己表現を行うのに対し、画家はデッサンと色彩によってその感覚を、その知覚を具体化します。自然に対してどんなに綿密、誠実かつ従順になっても、そうなりすぎるということはないのです。自分のモデルに対して、特に自分の表現手段に対しては、多少ともつねに主人なのですから、眼前のものに深く入ること、そしてできうるかぎり論理的な自己表現を忍耐強く行うことです。(239頁)

■201 エミール・ベルナールへ (エクス) 1904年6月27日

 数日前ヴォラールが夜会を催して皆盛大な御馳走にあずかったそうです。――若い世代の画家が全員いて、モーリス・ドニやヴィヤールもいたようです。ポール(岡野注;セザンヌの息子)もそこでジョアシャン・ガスケに会いました。最も良いのは大いに仕事をすることだと私は思います。あなたは若い。実現し、かつお売りなさい。

 シャルダンの美しいパステル(註2)を覚えておいでですか、眼鏡をかけ、帽子の庇が光をさえぎっている絵を?実に賢い男です。この画家は、鼻と交叉させて軽く斜めのプランを走らせることによって、色価の関係がよりよく確立されているではありませんか。このことを確かめて、私の誤りかどうか言ってください。

(註2)ルーヴルにあるシャルダンの自画像(パステル)をさす。

(240頁)

■202 エミール・ベルナールへ (エクス) 1904年7月25日

 私たちが肩を並べて一緒にいないのが残念です。私は理論的ではなく、自然に即して正しくありたいと望むのですから。アングルは、その様式と多くの賞讃者とにもかかわらず、小さな画家にすぎません。最も偉大なのは、あなたは私以上によく御存知ですが、ヴェネツィア派とスペイン派の画家たちなのです。

 進歩を実現するためには、自然しかありません。自然との接触によって、眼がしつけられます。眺め続け働き続けるおかげで、眼は集中力をもつにいたる。すなわち、オレンジでもリンゴでも球でも顔でも、そこには一つの頂点がある。そしてこの点は、光や影や彩られた感覚がおよぼす恐るべき影響にもかかわらず、われわれの眼に最も近い。物の周縁部は水平線上におかれた一中心に向かって逃げてゆく。ささやかな気質(タンペラマン)さえあれば、人は立派に絵描きになれるのです。調律がうまいとか色の出し方がすぐれるとかいうことはなくとも、充分立派なものを描ける。芸術的な感覚を持つだけで充分です。――そしておそらくこの感覚というものがブルジョアどもの嫌悪の的なのです。だから学校とか年金とか勲章とかは、白痴や道化者ややくざ者のためにのみ作られているのです。美術批評家などにはならず絵をおやりなさい。ここにこそ救済があるのです。(241頁)

■206  シャルル・カモアンへ (エクス) 1904年12月9日

 芸術家にとって、モデルを読みとくこと、そしてそれを実現することが非常に時間のかかることである場合があります。――あなたのお好みの巨匠が誰であろうと、あなたにとって必要なのは方向づけだけです。これがないと、模倣者にしかなれません。それがどんなものだろうと自然に対する感情さえあれば、そして多少の天賦の才があれば、あなたは必ず抜きん出ます。他人の与える忠告や他人のやり方があなたのものの感じ方を変えてはいけないのです。時としてあなたより年長の者の影響を受けることがあるとしても、どうか、あなたが何かを感じた瞬間には結局つねにあなた固有の感動があらわれて陽の当たる場所を占めるのだと信じてください。優位に立つこと、自信をもつこと、これがあなたのついには獲得せねばならない構成に到達するための良い方法です。デッサンはあなたが見るものの外形であるにすぎません。

 ミケランジェロは構成家です。ラファエロは実に偉大ではあるが、しかし、つねにモデルにしばられています。――熟慮反省しようとすると必ず彼はその偉大なライヴァルに劣ってしまうのです。(244頁)

■207 エミール・ベルナールへ (エクス) 1904年12月23日

 ナポリからのお便りをいただきました。あなたとともに美学的考察にふけるのは止めておきましょう。ヴェネツィア派中最も雄々しい画家に対するあなたの賛嘆むろん私も認めます。ティントレットを祝福しましょう。必ずしも超越できない作品のうちに精神的知的な拠りどころを求めようとすると、あなたは必ず永久の誰何の立場に立つことになり、互いに食いちがう手段を間断なく追究することになります。その結果、あなたはたしかにあなたの表現手段を自然に即して感じとることになる。そして表現手段を手に入れた日、必ずあなたは4、5人のヴェネツィアの偉人たちが用いた手段を、自然に即して、そして今度は努力せずに、再発見することになるのです。

 疑いもなく確かなのは次のことです。――私はとても断定的ですね――われわれの視覚器官のなかである視覚上の感じがおきる。すると、彩られた感覚によって示される諸プランがハイライト、半調子あるいは4分の1調子に分類されます。したがって画家にとって光は存在しません。あなたが不可避的に黒から白へと行っているかぎり、この最も抽象的な階梯が目にとっても頭脳にとっても支点となりますから、われわれはまごつき、自分を制御し所有するにいたりません。この期間中は(多少止むをえず繰り返して言うことになりますが)、われわれは過去が残してくれたすばらしい作品へとおもむき、そこに激励や支持を見出します。水泳する人にとっての浮袋のようなものです。――お手紙にお書きのことはすべて全く真実です。(245頁)

■216 エミール・ベルナールへ (エクス) 1905年金曜

 あなたのお手紙の諸項目のいくつかに簡略にお答えします。おっしゃるとおり、あなたのごらんになった最新の作品で、私は実にゆっくりした幾ばくかの進歩を実現したと思います(註1)。しかしながら、絵画と表現手段の発展との見地からする自然に対する理解力の進歩が年齢の増加と体の衰弱を伴うのだと言わざるをえないのは大変悲しいことです。

 官選のサロンが依然として実に劣弱だとしたら、それは彼らがすでに多少とも流布した手法のみを作品に示すからです。個性的な感動、観察、性格等をもっと作品に与える方がよいのです。

 ルーヴルはわれわれが読方を教わる本です。しかし、有名な先人たちの流麗な画法を覚えるだけで満足していてはいけません。それから抜け出して、美しい自然を研究しましょう。自然から精神を引きだし、われわれに固有の気質に従って自分を表現することに努めましょう。また一方、時間と反省とが少しづつ視覚を整理し、そしてついに理解力がもたらされます。

 しかし、こうした正しい理論も、近ごろのように雨がちだと戸外で実行にうつすことができません。しかし忍耐すれば、屋内のものも他のもの同様に理解できるようになります。古い画法の滓だけがわれわれの知性を曇らすのであって、知性はつねに鞭うたれ刺激されている必要があります。

(註1)エミール・ベルナールはこの年の3月ナポリからエクスへ来てサザンヌを訪れている。したがってこの手紙はそれから間もないころのものかと思われるが、ここではジョン・リウォルドの与えた順序にしたがっておく。

(250頁)

■217 エミール・ベルナールへ (エクス) 1905年10月23日

 あなたのお手紙を私は二重の意味で大変有難く思います。第一に、これは私の純然たるエゴイズムなのだが、唯一無二の目的の間断なき追究がもたらすあの単調さから私を引きだしてくれる。この単調さは肉体的な疲労の時期に一種の知的な無力状態まで生みださせてくれる部分(註1)を実現することに対する私の執拗な追究を、おかげであなたに、おそらくくどいほどにだろうが、くりかえし述べることができるのです。さて、展開すべき主張は、――われわれの気質や自然を前にしての能力の形式が何であろうと――われわれ以前にあらわれた一切を忘れてわれわれが見るところの姿(イマージュ)を描くことです。そうすれば芸術家は、それが大きかろうと小さかろうと自分の全個性を作品に与えることができるはずです。

 ところで、70歳に近いほどの高齢になると、光明をもたらすはずの彩られた感覚が逆に呆然自失の状態を引き起こし、画布を絵具で覆うことを許さず、物の接触点が細かくて見定めがたい時には物の境界線をたどることもできません。私の絵が完成されない原因はここにあるのです。

 他方、各プランは互いに重なりあっている。そこで新印象主義は輪郭を一本の黒い線で決めてしまおうとするのだが(註2)、これは全力をあげて排除すべき欠陥です。自然を参照すれば、この目的に達するための手段が得られるのです。

 あなたがトネールにおいでのことを忘れてはおりません。しかし私はふだん家にいないため一切家族の言いなりになっており、彼らは時には私を忘れて自分たちの便宜を追いかけるのです。これが人生なのでしょう。私のような年では、もっと、経験を積んで全般的な幸福のためにそれを役立てていなければいけないところなのですが。あなたには絵画における真実をお話しするやくそくですから、今度またそれについて書きましょう。―中略―

 視覚はわれわれにおいては研鑽によって成長し、われわれに見かたを教えます。

(註1)自然のすべてが絵になるのではない。絵になる部分がモティーフと呼ばれ、画家はモティーフを探しに自然のなかへ入ってゆく。

(註2)太い線によって物の輪郭を強調するのは、スーラとシニャックの新印象主義であるよりもむしろ、ベルナールやアンクタンが一時的に行った区劃主義(クロワゾニスム)で、これがやがてゴーガンの芸術のうちに吸収されることになる。

(252頁)

■225 息子ポールへ (エクス) 1906年9月2日

ペンキ屋みたいな画家連中が私に近づいて、自分たちも是非同じような絵をやりたいのだが、デッサン学校で教えてくれないのだという。ポンティエ(註2)は鼻もちならぬ奴だと私が言ったら、彼らも賛成だったようだ。新しいことはちっとも起こらないということがお前にもわかるだろう。

(註1)オーギュスト-アンリ・ポンティエは彫刻家で、1892年から1925年までエクスの美術館長の地位にあった。自分が生きているかぎり絶対にセザンヌの絵をエクスの美術館に入れないと公言していたといわれる。

(259頁)

■228 エミール・ベルナールへ (エクス) 1906年9月21日

 近ごろ頭の工合が悪く、ひどく混乱することもあって、一時は私の頼りない理性が失われてしまうのではないかと危ぶんだほどでした。先日までの恐ろしい暑さのあと、ようやくより穏やかな温度にかえって、心にも多少の落着きを取りもどしましたが、この時候の訪れも決して早すぎはしません。今は前よりよく物事がわかるようになり、より正しい方向に仕事を進められると思います。あれほど長く探し、追究してきた目的に私は到達するでしょうか。そうありたいものです。この目的が達せられないかぎりある漠然とした不快感が続き、これは私が目的の岸に達した後でしか消えないことでしょう。目的を達するとはつまり、過去における以上によく発展し、それによって理論をも立証するような何らかの作品を実現することです。理論そのものはつねに容易なのですから。問題は頭で考えていることの証拠を出すことで、これが実に困難な障害を課するのです。そこで私は仕事を続けるわけです。

 あなたのお手紙を読みなおしましたが、私の答え方は的をはずれていますね。どうかお許しください。達成すべき目的が常に私の心を占拠していること、これがその原因なのです。

 私はつねに自然に即して仕事をしており、ゆるやかな進歩を実現しているようです。傍らにあなたがおいでならよいのに、と思います。いつも孤独が少し重すぎるからです。しかし私は年老い、また病気です。五官の衰えにひきずられる老人たちをおびやかすあの忌むべき耄碌状態に落ちこむよりは、むしろ絵を描きながら死のうと自分に誓いました。

 もしまたお会いできることがあれば、私たちは肉声でよりよく説明しあえます。いつも同じことの繰りかえしになるのはお許しねがうとして、私は自然に即して私たちが見たり感じたりするものの論理的発展の存在を信じます。手法に取組むのがその次になるのは止むをえません。われわれにとって、それは単に、われわれ自身が感じることを大衆に感じさせ、われわれを受け入れさせるための手段にすぎないのですから。われわれの嘆賞する偉人たちもこれを実行したにすぎないのにちがいありません。

 年老いた頑固者の思い出をお受けとりください。ねんごろな握手を送ります(註1)。

(註1)エミール・ベルナールは『メルキュール・ド・フランス』の247、248号(1907年10月の前半号と後半号)に発表した文章を1912年に単行本として刊行する。この限定500部のうちの1冊(第274番)を当時パリにあった島崎藤村が求め、先に帰国する小山内薫に託して有島生馬のもとへ届けさせる。有島はこれを翻訳して大正2年11月から翌年5月まで『白樺』に『回想のセザンヌ』と題して連載した後、大正9年に叢文閣から一本として上程する。本書は昭和3年に岩波文庫に収められ、昭和27年には三たび体裁を改めて美術出版社から刊行される。有島生馬は1907年のサロン・ドトンヌにおけるセザンヌの大回顧展を実見しており、日本に初めてセザンヌの芸術を紹介した功績は彼に帰せられる。

(261~262頁)

■230 息子ポールへ (エクス) 1906年9月26日

 サロン・ドトンヌから手紙が来た。署名しているラビジーは多分この展観の偉い組織者の一人なのだろう。私の絵が8点出品されていることを知った(註1)。昨日、マルセーユからきた好漢カルロス・カモワンに再開した。絵を一荷物かかえて、私の意見をききに来たのだ。彼の絵は良い。もっと進歩するだろう。彼はエクスに何日か滞在し、ル・トロネの小道(註2)へ制作にゆく。気の毒なエミール・ベルナールの描いた人物を撮った写真を私に見せてくれた。彼がインテリであり、美術館の思い出をいっぱい持っており、しかし自然に即してものを見ることを充分にやっていないという点で、われわれの意見が一致した。学校(エコル)から、あらゆる流派(エコル)から抜けだすこと、これが最も肝要なのだ。――だからピサロは誤っていなかったのだ、芸術の墓場(註3)を焼いてしまえとまで言ったのは多少言いすぎだったにしても。――芸術上のあらゆる職業人やその同類と一緒にやるのでは、奇妙な家畜小屋ができあがること間違いなしだ。

(註1)実際には10点出品された。

(註2)かってセザンヌがしばしば制作した場所。ここからシャト-・ノワールの方へ登ってゆく。

(註3)美術館、特にルーヴルのこと。

(263~264頁)

■234 息子ポールへ (エクス) 1906年10月15日

 若い画家たちは他の連中よりずっと頭がいいと思う。年とった連中は私のうちに不幸なライヴァルを認めることしかできないのだ。

 では、/ポール・セザンヌ

 もう一度言うが、エミール・ベルナールは大いに同情に値すると思う、彼は心の悩みを持っているのだから(註1)。

(註1)この日の午後セザンヌはモティーフに出かけて雨にうたれ、しばらく人事不省におちいった。次の手紙の(註1)を参照。

(267頁)

■235 ある画材店へ (エクス) 1906年10月17日

 ラック・ブリュレの7番を10本注文してからもう1週間になりますが、お返事がありません。どうしたのでしょうか。どうかお返事をいただきたいと思います。ではよろしく。/ポール・セザンヌ(註1)

(註1)これがポール・セザンヌの最後の手紙となった。みっか後の10月20日、画家の妹マリーは甥のポールにあてて次のように書く。「月曜からずっとお前のお父さんが病気です。……彼は何時間も雨にうたれていて、洗濯屋の二輪馬車に乗せられて帰ってきたのです。床に入れるのに男二人の手を借りねばなりませんでした。その翌日は朝早くから庭の菩提樹の下へヴァリエの肖像を描きに出、死にそうになって戻りました……」。

 この手紙は10月22日にパリのオルタンスとポールの許に着き、すぐ続いてブレモン夫人からの電報も届いたが、しかしセザンヌは同じこの日に歿した。葬式は2日後の24日にエクスのカテドラル、サン・ソヴールで行われ、旧友の上院議員ヴィクトル・レイデが告別の言葉を述べたのち、画家の遺体はエクスの古い墓地に、父母と並べて埋葬された。

(267~268頁)

■ポール・セザンヌの年譜

1871年~73年 32~34歳

71年秋オルタンスとともにパリに出る。72年1月4日,息子ポーツが生れる。やがてオーヴェールに移り住み,ポントワーズその他でピサロとともに制作。印象主義を教えられる。オーヴェールで医師ポール・ガッシュと親しくなる。

1874年 35歳

年頭パリに移り,春の第一回印象派展に『首吊りの家』その他計3点を出品。なつをエクスに送って,初秋パリに戻る。

1886年 47歳

2月パリに過し,他のほとんどをエクスとガルダンヌに送る。3月,ゾラが小説『制作』を出版,これを贈られたセザンヌは4月4日ゾラあての最後の手紙を書く。同28日,オルタンス・フィケと正式に結婚。春,第8回(最後)の印象派展が開催される。10月23日,父が88歳で死に,セザンヌは邦貨にして約2億円の遺産を相続する。

1892年 53歳

エクスとパリに住む。フォンテーヌブローでも制作。デュラン-リュエルの催したルノワール展とピサロ展がいずれも成功をおさめる。

1893年 54歳

エクスとパリに住み,フォンテーヌブローにもでかける。ヴォラールが画廊経営を計画する。

1895年 56歳

11月~12月,約150点の作品を集めてヴォラールがセザンヌの個展を開催する。1903年 64歳

新築のアトリエで制作。5月にゴーガン,11月にピサロが死ぬ。

1905年 66歳

7年を費やした『大水浴』を含む10点をサロン・ドトンヌに出品。フォーヴィスムが興る。

1906年 67歳

1月,ソラリが死ぬ。エクスで庭師のヴァリエを描き,また水彩を多く描く。エクス芸術友の会展とサロン・ドトンヌに出品。制作中,嵐に打たれて人事不省に陥る。一時回復に向かうが,10月22日,ブールゴン街23番地で妹マリーに看取られ永眠する。『ジュールダンの小屋』が絶筆となった。

1907年 68歳

6月,ベルネーム–ジュヌ画廊で“セザンヌの水彩”展,10月,サロン・ドトンヌで“セザンヌ回顧”展がそれぞれ催される。キュビスムが興りつつある。

2009年11月2日

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