■しかし、かいた絵は(私)です。私そのもので、自然ではありません。私は一生絵をかいて生きてきたことを、しあわせに思っています。(90㌻)
■物の存在を認める事に依って、自分も始めて存在する。(131㌻)
■小生自身は制作につき人の言葉を要求した事がないので、恐らく神様の言葉でも聞き入れないでしょう。制作は自分の状態それ丈けが全部ですから。(133㌻)
■絵画に於ける物感は凡そ画である限り何程かは必ず裏付いて居るに相違ないが、人によりて物感の厚薄は甚しい相違がある、中には殆んど物感など無視されたものもある、しかし其いかによき色彩の趣味性であり、明確らしい線条が引かれてあるとしても、それに物感の裏付いて居るものがないならば、それ丈け物足らぬものであり作家の趣味又は主観的意志以上の生活感は希薄となる、(略)物感はそれだけ画家個人的生活感の実証が裏付いて居る、時代思想や趣味やを超越て、尚且つ今日の人にも働きかゝるものをもつ古代作品の如きは作家の偉らかつた本能物感の働いて居る力に因るところが深いのである。永遠性の如きは物感の裏にあるものとも云へるであろう。(「硲君について」昭和五年)(133㌻)
■新しいと云ふ事それ自体、明日は旧くなる約束にある。平面的に新しいのである斗りでは意味をなさない。本質的の高度深度、即ち永遠性が具はる事によりて、新しさも意味をなす。(「当面ヒ語」昭和二一年)(133㌻)
■それから作家の理性の問題であるが、ピカソの如き露骨なのは別として、西洋流は概して理知的であるところから、歩み方だけは尤も至極に道理に叶って居り、究学としては一応西洋流はよいと思ふ。東洋流の神韻幽玄は具体的に掴み処がはかり難く研学に不便である。然し芸術の行きつくところは東洋流の方が必然であると思う、何処迄も理を伴ふ西洋流は折角高度な作品でありながら、冷たい理知に反発されて東洋流の心にぴったりしないものが多い。理は何処迄往つたところで理以上にはあり得ない。芸術と科学は違う。(同前)(133㌻)
『坂本繁二郎』画集 集英社より2006年12月20日