岡野岬石の資料蔵

岡野岬石の作品とテキスト等の情報ボックスとしてブログ形式で随時発信します。

テキストデータ

【パラダイス・アンド・ランチ】(父の叙勲)

投稿日:2020-10-27 更新日:

 2012.11.11 【パラダイス・アンド・ランチ】(序)

「Paradise and lunch」という言葉は、ライ・クーダーのCDの題名です。今はもう人にあげて手もとにはないのだが、FMラジオをを聞いていて、この曲の題名の由来を知って、すぐに検索して買いました。

「パラダイス&ランチ」はライ・クーダーがアメリかの田舎で出会った、道路沿いの軽食堂の名前で、その名前の意味を店主から聞いて自分のアルバムの題名にしたそうです。その意味とは――天国でランチを食べているのだから、食い物が旨いの不味いのなんて贅沢言うな、ということだそうです。

それにプラスして、私のもう一つの解釈は、天国にいるのに、そのうえ美味しいものが食べられるなんて「豪勢なもんだゼ」というものです。つまり、生きていることは、そもそも天国にいるのだからマイナスのポイントは「ブチブチ不平不満や文句を言うな」、であり、プラスのポイントは「豪勢なもんだゼ」ということです。

同じような意味で、私の以前作ったアフォリズムに「代貨はアトリエ(今は現場)ですでに支払われている」というのがあります。ということは、貸借対照表からいえば個展前にプラマイ0、貸し借りなしなのですから、当然個展の喜びは全べてプラスのカウントになります。

ですから、当然個展での新たな出会い、喜びの時間は「パラダイス・アンド・ランチ」、「豪勢なもんだゼ」ということになります。

 2012.11.13 【パラダイス・アンド・ランチ】(パレスホテル-1)

父の祖父は岡野弥三郎という人で、岡山県の児島で回船業をやっていた。「興福丸」という船を持って裕福に暮らしていたそうだが、その身代を、父の父親の岡野岩太郎という人がファンキーな人で、潰してしまった。

父は、高等小学校を卒業するとすぐに神戸か大阪の小企業の鉄工所に丁稚奉公をし、そして、三井造船所が岡山県の玉野市に出来たときに、造船所に就職した。そこで、工員の現場から最終的にはブルーカラー400人を部下に持つ、職場長にまで叩き上げていった。定年後に移った千葉工場では、勲六等旭日瑞宝章の勲章を貰い、大学生(1年と2年の間の春休みだった)だった私が皇居の中まで、都会と受勲を心細がった両親に付き添って行ったことも懐かしい。

私のネクタイを買うために東京駅の八重洲側に降り、駅の売店の吊るしの比較的ジミなネクタイを買って丸の内側に廻り、田舎から出て来た借り物のモーニングを着た父と、黒っぽい着物(留袖というのか)の母と、1着しかない背広に初めて絞めたネクタイ姿の、都会で下宿している息子の3人が、東京駅の連絡通路を歩く後ろ姿は映画のワンシーンになるネ)、皇居には3人で歩いて行った。もちろん皇居内は初めてで、両親が昭和天皇と集団で謁見の間、付添人は屋外の東屋のようなところで待っているのだが、付添人のなかでは一番若い私は、叱られそうもない範圍で附近をブラブラしながら待っていた。

天気がよくて、大きな石の城壁の内堀は、鯉か鮒が産卵のため岸辺でバチャバチャしているし、野鳥の声も聞こえる。大都会の真ん中で、異次元の世界が昨日も、今日も、明日も、明後日も存在し続けている。まるで、白昼夢のような世界だ。(つづく)

 2012.11.14 【パラダイス・アンド・ランチ】(パレスホテル-2)

陛下(昭和天皇)への謁見が終り、勲賞の授与は役所の小ホールのような部屋で、宮内省の役人の取り仕切りでおこなわれた。壁際に付添人が立ち、各受勲者は名を呼ばれると前へ出て賞状と勲賞をおし頂く、それをカメラマンがバチバチ写真を撮る(カメラマンの動きが目立ったが、このとき撮った写真は、後で注文の申し込みが郵送され、有料でしかも高価なので、父は余裕のお金がないため1枚も注文しなかった)。まだ二十歳前の付添一人と心細げにしている老夫婦の家族は、ハレの舞台で上気している他の家族に比べ、いかにもひそやかで頼りなさげだ。

勲賞の授与は人数の多いせいか、盛り上がりもなく事務的に、淡々ととり行なわれた(映画なら、父親に受勲の瞬間、壁の隅に立っている息子が両親の耳に届くように突然パチパチと大きな拍手をするシーンなんていいなァ)。(つづく)

 2012.11.15 【パラダイス・アンド・ランチ】(パレスホテル-3)

恩賜されたものは、七宝焼の勲賞と賞状とカン入りのタバコ(ゲルベゾルテという名の切り口が楕円形の匂いの強いタバコ)ひとカン、その包みを持って、3人はまた東京駅まで歩く。時間はまだ午前11時頃だろうか。東京駅の丸の内側に着くと、まだ時間はタップリあるし、せっかく東京まで出て来たのだから、三井造船の本社の◯◯さんに挨拶をしてから千葉の家に帰ろう、と父親が言い出した。予定したことではなくて、本社の住所も電話番号も知らないし、アポイントもとっていない。東京の大学生のお前が頼りなのだから連れていってくれ、というのだ。父親のおぼろげな記憶で、たしか三越本店の裏のビルだった、という手がかりだけで、3人は東京駅から日本橋三越まで歩いていく。よく歩く。タクシーはお金の問題もあるが、乗り馴れていないので予定を変更してサッさと気軽に使えないし、そもそも選択肢のひとつに浮んで来ない、バスや都電は複雑でよく知らないので、とにかく、大した距離ではないだろうと東京駅の、朝一度通った北口連絡通路を八重洲側に廻り、3人は日本橋三越まで歩きだした。(つづく)    

 2012.11.16 【パラダイス・アンド・ランチ】(パレスホテル-4)

広い日本橋の交差点を渡り、橋の欄干に青銅の高欄を付けた広く大きな石造りの橋を渡って百メートルくらい歩くと三越本店だ。当時は車も少なく、周囲のビルの高さも低いので、迷わず三越に着いた。皇居から日本橋三越まではかなりの距離があるが、昔の人にとって、また若い私にとっては歩くのはなんでもない。三井造船所の本社のあるビルを少し探したが外からは見付けられず、両親を道端に待たせてビルの裏口にいた守衛に聞いてみると、その聞いた当のビルだという。おまけに、事情を話すと守衛室から電話を入れてくれて、両親はエレベーターで面会に向った。私は外(道路)で待っていた。

ほどなく、両親は下りて来て、これから役員と会食することになり、私も同席して3人の昼食をご馳走してくれるという。近くのレストランに歩いていくのかとおもったら、タクシーに分乗して(あれェ、5人乗ったのだから、ハイヤーだったのかな。もっとも、当時はタクシーとハイヤーの違いも知らなかったが)、たしか朝、皇居に歩いていった時にその前を通ったホテルの玄関に横付けした。(つづく)

 2012.11.17 【パラダイス・アンド・ランチ】(パレスホテル-5)

人数は5人で、私の家族3人と、私も子供の時に玉野で何度か会ったことがあるKさんと、もう一人は、父もあまり懇意でないような、Kさんと会社での上下関係が不明な人(今この文章を書いていて想像するのに、予定外の会食の費用を会社から出させるための員数合わせだったのだろう)。5人はホテルのフロントを通り、エレベーターに乗って最上階の展望の良いレストランに向った。

じつは、私は、前日実家に泊まり今日父母に付き添って、帰りは途中の市川駅で別れ、間借り先に帰ろうとおもっていた。だから、母が用意した食料品や洗濯した下着などを詰めたカバンを持っている。エレベーターのドアが開いて、5人はレストランに向う。持っているカバンはどうすればいいのだ。

するとK氏は場馴れしたようすで、カバンはクロークに預けなさいという。クロークの女性に、大きさのワリに食料品でズシリと重くみすぼらしいカバンを手渡したとき、この同年輩の女性の視線で、彼女の目の中に写ったこの5人の集団の構造が分かる。

つまり、田舎者の両親とその祝い事に付き添ってきた息子の3人が、会社のお偉方に連れてきてもらっている。おまけに、息子はおそらく初めてのホテルのレストランにアガってドギマギしている、というシーンだ。

さて、そのような構造のもとに、今回のパラダイス・アンド・ランチのテーブルにやっとたどり着きました。(つづく)

2012.11.18 【パラダイス・アンド・ランチ】(パレスホテル-6)

 テーブルは予約され、皇居の見える窓のそばに、すでに5人分席がセットされていて、そこに案内される。父とKさんが席の上下(かみしも)のことでちょっとやりとりがあったが、今日はお祝いということで私たち3人が窓側を背にして座った。

椅子に座ろうとすると、ボーイが椅子を引いてくれるし、テーブルの上にはお皿、グラス、ナイフ、フォーク、などが整然と置かれている。私たち家族3人は、生れて初めての場の雰囲気に気圧(けお)されて、気持がすっかり萎縮してしまった。おまけに、これから始まる食事の進行の行程や、テーブルマナーも知らない(今では考えられないが、当時のテーブルマナーはこっけいなくらい食べ方に正式な型を要求され、そのためそれを知らない人は周囲にひんしゅくを買い、ホテルや高級レストランは入るのに敷居が高かった)。美しく折られて鎮座まします目の前のナプキンは、いつ拡げて膝の上に置けばいいのか、メニューはどう選べばいいのか皆目分からない。おまけに、父母はもっと分からなくて萎縮している。そういう場に遭遇した時、私はどうすればいいのか、どういう態度でこの先の進行に臨めばいいのか、一瞬のうちにさまざまな思いが渦巻いた。(つづく)

 2012.11.19 【パラダイス・アンド・ランチ】(パレスホテル-7)

 今から考えれば、Kさんにしてもサラリーマンなのだから、会社の接待では使っても、普段日常的にこんなところで食べ慣れているわけではないのだろうと分かるが、そのときは、メニュー選びからテーブルマナーまでさりげないアドバイスがあればその場はもっとリラックスできたのにとおもったので、ホスト側の態度が冷たく映りうらめしい。その時は逆に、こちらのひがみ根性で、都会のエリートサラリーマンが何も知らない田舎者の家族をバカにしたがっている、意地が悪いひとだなあと誤解した。ひがみ根性は恐ろしいネ。

これまでの成行きは、予定された出来事ではない。突然の状況が待った無しに次々と進んでいく。とにかく、せっかくのご馳走がこのままでは惨たんたる食事になってしまうので、この状況に陥っている原因は気持の萎縮である、これをなんとか解きほぐすことが一番のポイントである、と結論した。心の萎縮を解くためには、縮こまった原因を認めることである。つまり、ひらきなおり。窮鼠猫を噛む、「ハイ、私たちは何も知りません。ソレガナニカ問題デモ・・・」。

知っていることを奢らず、知らないことを恥ずかしがらない自然体、平常心で対処することがベストな態度だが、それにはまだまだ程遠い。修行が足りない。(つづく)

 2012.11.23 【パラダイス・アンド・ランチ】(パレスホテル-8)

 その場に気圧されて、視界が狭くなった状態は変わらないが、自分のこの場での行動のフォームを決めたので少し気持の動揺が落ち着いた。つまり、“初めてのホテルの食事に、何も知らない青年は物怖じするどころか、喜んでハシャイでいる”、という役作りで行動すればいいのだ。

メニューは銘々の前にあり、父親から順に聞かれたが、母親の横から私が口をはさみ、Kさんにメニューの選択をお願いした。Kさんは、昼食なのでフルコースではなく、それでもアラカルトではない、昼食用のコース料理を5人前オーダーしている。その際、肉料理のコースにするか魚料理のコースにするか父親に聞いてきたが、これも私が横から、両親の食生活から、魚料理にしてほしいと口をはさんだ。パンかライスかは、私一人がパンであと全員はライス、食後の飲み物は、私たち3人が紅茶、Kさんたち2人はコーヒーに決まった。さて、やっとこれからパラダイスランチの始まりである。5人は、目の前の、王冠のように折られて鎭座まします、口を拭くのをためらわれるような白いナプキンを膝の上に拡げて料理を待った。

〈書いているうちにディテールを思い出し、最終回をもう1回延ばします〉

 2012.11.24 【パラダイス・アンド・ランチ】(パレスホテル-最終回)

スープやサラダやパンやライスが、いつどんな順序でテーブルに出たのか憶えていないので略するが、Kさんが選んだ5人前のメインデッシュの料理には驚いた。シェフ(当時はコックさんと言っていたと思うが)と助手の2人が料理用のワゴンをテーブルの脇に引いて来てストッパーをかけ、鉄板の上で調理を見せながら料理をし始めた。5人分の数種類の魚介類の具材を手際よく調理すると、最後に見せ場のフランペで鉄板の上が一瞬炎に包まれた。もちろん、フランペなんて言葉もしらないし見たこともないので、炎の出た瞬間、素直に、そして少しおおげさに「スゲェ~!」と声をだした。シェフは得意げな顔で私に目で頷く。

パンは私だけだが、ウエイター(当時はボーイさんと言っていた)がやはり見たこともない数種類のフランスパン系のパンのピースを銀のトレイにのせてきた。お好みのパンを選べ、というのだ。私は意識的に「1個だけですか」と聞くとボーイさんは「何個でもお好みで」と答える。最初は3種類くらい選んだだろうか。

魚の料理が5人のお皿に取り分けられ、パンも一緒にべ食べると、ホテルのパンは小さいのですぐになくなる。ボーイさんは、こちらがたのんだわけではないのにお替わりのパンを、やはり数種類持って来た。パンが美味しいのと、ボーイさんに何度もお替わりに気を使わせるのは気が引けるのとで、これも少し意識的に「ワー、お替わりがきた……全部もらってもいいですか」と聞いた。

父親は、さすが気骨のある明治生れの男で、息子のこのようなやりとりを見て、視界ゼロのホワイトアウトの状態から見事に抜けだした。

フォークの背にナイフでライスを乗せて食べているKさんたちを真似てぎこちなくごはんを食べていたのだが、ボーイを呼んで「わしラ-(私たちは)ナイフとフォークは食い慣れんケン(食べ慣れないから)箸を持って来てくれんかノー」と頼んだ。その後の食事は、Kさんの自慢話(娘がこのホテルで結婚式を挙げた)を聞きながら、途中のトイレも余裕をもって(席を立つ時ナプキンの置き方なんか気にせずに)すませ終えた。

ホテルを出ると、私たちの帰りの足に、これも乗るのは初めての黒塗りのハイヤーが用意されていた。初めての東京のハイヤーは、運転手の方がお客の私たちより偉くみえる。途中の市川で私が降り、千葉県の市原まで両親は帰るのだが、この車の中で父が私に向って言った、「ホテルで食事をして、ハイヤーで家まで帰るんカー(帰るのか)。豪勢なもんじゃノー(豪勢なものだなー)」。ハイヤーの運転手の背中が上下に揺れたような気がしたが、これはもう、こちらの田舎者のひがみ根性が消えているので、運転手の「よかったですね」という共感のサインに見えた。(終り)

【パラダイス・アンド・ランチ】(追記)

両親とはこの出来事について、後に、特に話しをした記憶はないが。父は、「岡野のオッサンの息子自慢・パレスホテル篇」を会社で会う人ごとに吹き捲くり、辟易されているのに当人は気付かず、周囲のヒンシュクを買っていたらしい。

父の葬式の通夜の席で、私が知らない三井造船所千葉工場の人から、「あんたが、コージさんか」と話かけられた。工場(こうば)内の父の周囲では、〈コージ〉さんは知らない人はいない、という。岡野のオッサンの息子自慢は嫌になるくらい聞かされたが、特に、このパレスホテルでの食事の話は何度も聞かされた、ということだった。若い時の私が、そのことを知ったならば「この先、自分の将来がどうなるか分からないのに、カッコ悪いから、やめてくれ」と父に言っただろうが、受勲当時の父の年齢を越えている、今の私には、微笑ましい話だ。

その場で、私が「周りの人にご迷惑かけました。聞いてくれて、有難うございました」と言うと、席の周りの人からも「岡野のオッサンの息子自慢」はキカン(聞いていない)人はオラン(いない)」とのことで、通夜の席が、父の思い出話で盛り上がった。

-テキストデータ
-,

執筆者:

関連記事

(37)自分でわかった十進法

(37)自分でわかった十進法(115頁) 僕は十進法を、子供のときにひとりでに理解した。それはいくつのときだったのだろう。 当時社宅は、家の中に風呂はなく、銭湯のような集合の浴場だった。毎日ではなくて …

(9)個展

(9)個展(36) 個展をしたのは、日本橋画廊と知り合うちょっと前あたりの事だ。芸大の大学院在学中で一九七〇年の一一月だ。どうしてもお金が必要なので、高校時代に住んでいた所(市原市、辰巳団地)の集会所 …

千葉日報『芸術書簡』

2009年9月5日から2010年1月9日まで、読者との往復書簡形式で5回、計10回「芸術書簡」の題名で千葉日報紙上に連載された、文章及びカット。(全文テキストは下部にアップしています) ■全テキスト …

(57)原因と結果

(57)原因と結果(202頁) たとえば、飛行機事故が起きたとして、事故の原因と結果をどのように解釈し、責任をだれがとるかという事を考えるには、どうしたらいいか。こういう場合は事故の原因と結果のみに限 …

 (18)セザンヌもゴッホも見えている通りに描いている

 (18)セザンヌもゴッホも見えている通りに描いている(88頁) 一生ただ、絵だけをやってきた僕が、こんな世界観の所まで来ることができたのは、つまり「世界がそうなっている」ということである。今伝えたい …