(9)個展(36)
個展をしたのは、日本橋画廊と知り合うちょっと前あたりの事だ。芸大の大学院在学中で一九七〇年の一一月だ。どうしてもお金が必要なので、高校時代に住んでいた所(市原市、辰巳団地)の集会所を借りて個展をやって絵を売ってお金を作ろうとしたのだった。
その個展が結果的に、ドラマチックな個展だった。その個展の案内状で日本橋画廊の児嶋徹郎氏(故人)と知り合った。カラ-印刷ではなく、白黒の、全部自前で作った案内状。お金がないので、全部自前だった。写真も自分で撮って、タイプ印刷にして、新聞の折込みに入れたり、ポスターを電柱に張ったりして…。でも、それだけ頑張ったせいか随分売れた。
せっかく苦労して作った案内状だから、駄目もとだからと銀座の、それまで目に付いていた画廊に送ったわけだ。まるで小説のようだけれど、そんな事もあるのだろうか。そのモノクロのDMを見て、児嶋さんから「絵を持って、画廊に来てくれ」という葉書がきた。
その前に、その自前の個展の時に、いざそうなると当然絵を描かなくてはならない。どういう絵を描いたらいいか、ということを考えた。いわゆる売り絵では満足できない。しかし、日頃学校で描いているような絵では売れないだろう。いったい絵描きで生きていくのには、どのような絵を描けばいいのだろう。そこで、僕はアイデンティティーの危機に陥った。
その時に、僕がとったそれを打開する方法は、大学の図書館で、時代、ジャンル(写真、デザイン、イラスト、漫画)、イズム等を度外視してあらゆる平面作品を、少しでも自分の眼に引っ掛かれば無作為にスライドに撮ったのだ。そのスライドをマウントして、白い模造紙に直交する二本の線を引き、交点を自分の現在の立っている位置と仮定して、スライドを一枚一枚その紙面上に置いていった。Y軸線の上の方向には無条件に感動する作品、Y軸線の下方には無条件に否定する作品、一部心惹かれる(いわゆる、面白い)作品はY軸の左右の紙面に。もちろん、すんなりと簡単には行かない。何度も並べ変えたり、また、何処に置いたらいいのか分らない作品もたくさん出て来た。そういう作業を何日かやっているうちに、現在(2005年)の自分のコンセプトをも決定する重大な糸口を見付けたのだった。
Y軸線上のスライドはほとんど動かない。動くのは、線上外の作品だ。僕のY軸線上外の作品の作者は、各々のY軸をその方向に設定して仕事をしているのだ。そのY軸のベクトルが各々の作家のコンセプトの違いなのだ。
その事に気付いた後に、僕のとった行動は、Y軸線上の作品を残して、線上外のスライドを全て一括して「判断停止」のジャンルにまとめたのです(パソコンでいえばゴミ箱フォルダー)。
僕の一生を賭けてやるべき事は、自分のY軸線上を少しでも上に這い上がるように努めるのみだ。そして、他者の作品のコメントに、「面白い」という言葉を使わない。他者の作品が僕のY軸線上にない場合は、判断停止(エポケー)、つまり見ない。エポケーした作品群はその後自分の位置が上がったら、取り出して評価し直し、評価出来ない物は又ゴミ箱に一括する。こうやって、自分の絵画制作のベクトルを定めたのです。そのようにして、その次点で、自分(原点)のすぐ上にあったのがコローとバルビゾン派、特にドービニー等の画家達。それで彼らの作品を参考にしながら、武蔵野近郊の風景を描き始めたのである。