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(57)原因と結果

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(57)原因と結果(202頁)

たとえば、飛行機事故が起きたとして、事故の原因と結果をどのように解釈し、責任をだれがとるかという事を考えるには、どうしたらいいか。こういう場合は事故の原因と結果のみに限定して考えなければならない。両サイドに因果律を延ばしてはいけない。「原因の原因は何だ」とか「結果の結果は」と、問うては駄目だ。原因の原因を問うと、「ライト兄弟が悪い」とか、「引力が悪い」となっていく。あるいは、仮に操縦士のミスだとしたら、操縦士の「親が悪い」とか「社会が悪い」となって、それを認めると親の親、そのまた親とキリがなくなる。

話がそれるが、僕は量子力学の「シュレージンガーの猫」のパラドクスにはもともとの思考実験自体に欠陥があると思うのだが、誰か教えて欲しい。まず第1の疑問は、何故、一匹の猫で結果を打ち切るのか。猫を百匹集め、それをひとまとめにするのと、別々にするのとでは結果が違ってくる。別々にすれば、ふたたび確率が浮上するのではないのか。第二は、「猫」で結果を打ち切らないで、最終的に人類が破滅するような装置にまで結果を延ばすとすると、観測者も実験した人も何も知らない人も、人間の文化も「シュレージンガーの猫」のパラドクス自体もなくなって、ナンセンスな思考実験になってしまう。第三は、これが最も僕の関心がある問題だが、論理自体に問題がないのか。A=B、B=C、ゆえにA=C、この三段論法は両辺を入れ替えても成立する円環的で完璧な論理学的定理だが、Aの原因はB、Bの原因はC、ゆえにAの原因はCである、と言う推論は成り立ち証明されているのか。この推論を定理として事象の証明に使ってもいいのか。

たった一つの事象の原因と結果を特定する事も、突き詰めて考えれば大変困難な作業だ。たとえば殺人事件が起こったとする。その場合、まずAがBを殺したという事を立証しなければならない。「Aとは何か」「Bとは何か」「殺したのは、意識的か、無意識的か、過失か、虚偽か…」。Bの死体がなければ、AがBを殺したという事件そのものが成り立たない。そのうえ、AがAであるのか、という問題がひかえている。酔っていなかったのか、精神が正常な状態だったのか、判断力は。そして、BをBと認識していたのか、過失かどうか、Aは嘘をついているのかどうか、嘘を自覚しているのか。これらを、神ならぬ人間が判断するのだから、簡単な事件も立証するのは大変だ。おまけに、誰が誰を何の根拠によって裁くのか、という問題がある。日本のように、昔から変わらずあり続けた国の方が珍しいのであって、世界のほとんどの国は、歴史相対的だ。そういった国の国民は、裁判の判決をそのまま天の声として承服する気持ちは少ないだろう。

このように「AがBを殺した」という事象も、突き詰めて考えれば、とても事実は一つなどと簡単にはいえない哲学的な問題を含んでいる。(前に書いたように、芥川竜之介『薮の中』、それを映画化した黒沢明監督『羅生門』がある)

美術もそうで、人があるものを見て美しいと感じる現象が心の中に起こったら、その両サイドをエポケーして、その一事象の原因と結果のみを詳細に分析すべきだ。絵の表面の有り様が原因なのだから、絵の原因の画家本人や、画家の人生を切り離し、コンセプトや表現内容もエポケーする。意味作用に注目して、意味内要をエポケーする。「絵の表面がどうなっている事によって、自分は美しいと感じるのだろう」と設問するのだ。

美とは何かという事はエポケーして「何が美しいのだろう」「何が、僕を美しいと感じさせるのだろう」という事が問題なのだ。僕は、描画についてはいつも帰納的に、具体的に考える。自分が美しい感じたり世間に美しいと認知されている事例を無作為に列挙した。たとえば、夕焼け、宝石、金、花、新緑…。あるいは逆に、醜いものとは何だろうかと考え、そういう事を列挙していく。美しいといえば、感動した絵もあるし、お金を出して旅行してでも見たい風景もある。人は、わざわざ観光をするしお金を出して芸術作品を見たりする。そうまでするものが僕だったらどういうものか、自分が見たいとか欲しいとか思うものを列挙していって「あぁ、こういう所だな」という共通項を見つけ、分析する。そうしないと、直接「芸術とは何か」などと問うていると、方法論として成り立たない。列挙することで「あぁそうか。僕の場合は、光と秩序ある空間のものが、美しいと感じるなぁ」という結論に行き着いた。

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