岡野岬石の資料蔵

岡野岬石の作品とテキスト等の情報ボックスとしてブログ形式で随時発信します。

画中日記

【画中日記】2018年

投稿日:2020-04-30 更新日:

【画中日記】2018年

『画中日記』2018.01.01【新年に】

 新しい年を迎えた。パソコンに向かっているアトリエの窓から快晴の空の朝陽が目に飛び込んできている(時間は7時40分)。

 今年の干支は戌で、私は6回目の年男を迎えた。色んな事が、自分にも、自分の周りにも、国にも、世界にもこれまで起こったが、絵を描くことだけでよくぞここまで生き続ける事が出来て、感慨深い。今日のこの時を迎えられるのは、実存の煩悩に振り廻され、迷い道に何度も入り込んでも、美への信仰心の強さとベクトル(進む方向)が正しかったという証拠だろう。

 仏教用語に八正道という修行の実践の徳目がある。正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定(しょうじょう)の8つ、すべて正という字が頭に付いている。行き先も方向も決めないで、ブラブラ歩いても、せいぜい自分の身の周りをぐるぐる廻るだけでどこにも行き着けない。地図や海図と、磁石や羅針盤無しに、なんとかなるだろうとガムシャラに進んでも道に迷う。

 世界は、「正」という文字を頭に付けると全ての物事がキッチリと見えてくる。それは、正しいのか間違っているのか、だ。行き先は正しいのか間違っているのか、持っている地図は正しいのか、持っていく物は正しいのか(余計な持ち物は反って邪魔になる)。

 この先、日本はますます世界中から尊敬される国になるだろう。どうしてかというと、仏教的『全元論』の世界観を、仏教の伝来する以前から持ち続け、その世界観を国民一人一人が持ち、生きていて、間違いを国民全体で正して現成している、昔から現成していた、奇蹟のような国だから。日本人の世界観が、世界の存在の法(ダルマ)を、身の内に持って生きているから、つまり、地図と、磁石が正しいから。

 新年から明るいね、今年も頑張るぞ。

『画中日記』2018.01.03【(続)新年に】

 元旦は、朝、雑煮とお屠蘇、地元の神明社に初詣をして、年賀状の返信で一日が終わり、私としては珍しく絵に関わる仕事をしなかった。昨日は、以前の作品に加筆して完成したので、今日投稿します。私にとって絵を描くことは、生きることと直結している。休日も出勤日も、仕事納めも仕事始めも、趣味と本業、本音とタテマエの別なく、いつも美に向かってガチンコで生活することを心がけているので、絵以外の生活はいたってシンプルだ。それでも、お屠蘇を飲んで、初詣や年賀状で一日がつぶれてしまうのだから、お正月だけは別としても、いかに多くの余計なものに時間もエネルギーも費やしているのだろうか。

 この『画中日記』を書くことは余計なことではないのかというと、去年の暮れに『山中湖だより』が終わったので、今年は『画中日記』を書くことが増えるだろう。たまたま、今日は朝、絵を描くのに、光がまだ暗かったので時間つぶしにこの文章を打ち込んでいたら、時間がかかってしまった。現在、時間は午前8時12分これから、この文章をフェイスブックに投稿して、制作にかかります。

『画中日記』2018.01.13【個展の準備終了】

 16日(火)からの、銀座での個展の準備が、すべて終わった。今日は、出品作品のキャプションのラベルを、新たに2年前から使っているパソコンのワードで始めて作った。DMの宛名書きも、今回初めてウィンドーズ10のこちらのパソコンで処理したのだが、思いの外無難にクリアーできた。10年ほど前にブラウン管のマックG3を一人でたどたどしくやり始めたころは大変だった。使ったのは、年賀状を含めた葉書の文章と宛名印刷、DMのラベル印刷(すべて、新たに購入してインストゥールした『宛名職人』のソフトで)、ホームページ作り(ソストはページミル2,0だったかな)。ネットもまだまだ揺籃期でおまけにまだ光通信が出来ていないので、読込みが遅く、なおかつ当時の通常の電話回線を使うので、料金がすぐに高額になるし、検索(グーグルはまだない)もおいそれと使えなかった。おまけに、パソコンの容量は小さいし、フリーズしたり情報を消してしまったり、だから、ホームページは自力で作ったが、載せた作品の情報量が重く、読込みに時間がかかるという苦情を受けたが、そこまで、手がまわらない。他人が見ようが見まいが、自力で発信できる喜びと、面白さにはまり込んだ。また文章も作品の写真(フィルムカメラで撮ってスキャナーでフォトショップに取り込む)も保存がコンパクトで簡単、といってもフロッピーディスク(そんなもの知らないでしょう)でしたが。

 それが、今では何でも検索すれば、瞬時に、簡単に遣り方のプロセスが出てくる。検索する技術、方法さえ慣れれば、昔の様にパソコンの前で泣くことはない。

 iマックに買い替える前の、私の最初期のホームページにアップした文章は、プリントアウトしてどこかにあるはずだから、今度さがして出て来たら、フェイスブックに新たに投稿して、フラッシュメモリーに保存しておこうと思う。

 個展の事を書こうと思っていたのに、老人のパソコン自慢になってしまった。

『画中日記』2018.01.16【個展初日】

 1971年の日本橋画廊での初めての個展から、全国各地でもう何度個展を開いてきたのだろう。いち時は、本業画家、趣味は個展と豪語していた時期もあった。

 画家が絵を描き、その作品がそのままアトリエから出なければ、画家も作品も、世の中に関係しないで、消え去ってしまう。つまり、画家も作品も他者の眼に関係して、初めて存在の理由が生まれるのです。……文章がまたいつもの難しい方向に行っている。

 かっての多くの個展のなかで、いくつかの個展は、私の人生や世界観の上で、ドラスティックな分岐と出会いがあった。これは、過去を振り返れば「ああ、あの時がそうだった」と解るのだが、未来の分岐はいつ起こるか分からない。今日からの個展が、そうかも知れない。こういう格率の薄い期待を持って、これからの若い画家から私のように古希を過ぎた老人の画家まで、毎回同じように個展に臨むのです。

 毎日、会場に出ています。ご高覧お願いいたします(個展初日の朝)。

『画中日記』2018.01.29【個展が終って】

 27日(土)に個展が終わって、昨日(日)作品が届き、倉庫に詰め込んだ。今日は、午後手賀沼の『満天の湯』に入って、ビールを飲んで帰ってきた。柏の銭湯の『旭湯』が閉じたので、仕方なくこちらに廻ることになった。ここも、出来た当時はよく通ったが、『旭湯』の方が入浴後のオプションが豊富なので、自然と足が遠のいていた。

 柏のアトリエは住む事を考えて作らなかったので、いまだにシャワーしかなく、冬は週に一度は風呂に入りたくなる。子供の時は、造船所の社宅の集合風呂に入って育ったので、風呂は銭湯が一番好きだ。回数券を買ったし、往復も大津丘団地からバスで往復できるので、これから、週に一度のルーティンにしようとおもう。

 これで、明日からまた、いつもの生活に戻るのだが、やはり一番やりたいことは、外でイーゼルを立てることで、寒く枯れ色で条件は悪いが、来週は手賀沼か鵜原に描きに行こうとおもう。イーゼル画、アトリエ画、抽象画と、描くタネは次々と浮かんでくる。日帰り温泉に入って、一杯飲んで、『画中日記』を書いて、幸せな画家の晩年だなァ。

『画中日記』2018.02.01【1971年日本橋画廊DM】

1971年:4月日本橋画廊にて個展。前年の暮れあたりから予兆のあった第一次絵画ブームの波にシンクロして在庫も含め完売だった。ちなみに、第一次絵画ブームは新人ブームだった。

 日本橋画廊との契約は独占契約で、絵の販売から額縁、個展のDM、広報まで一切画廊のオーナーの児島さんがやってくれたので、私は絵を描くだけでよかった。しかし、バイトはまだ続けている。
 この時のDMは、当時立派なもので嬉しかった。だから、ポートレイトの写真も凝って、大学院の友人だった宗形恒明君(故人)に、当時まだ使われていた、京成電鉄の上野公園地下にある博物館前駅構内で撮った写真を使いました。この時に撮った多くの写真は、大版の紙焼きにしてもらったのだが、なくしてしまった。一部では、絵より写真の方がいいじゃないかという評もあったくらいで、その頃の実存主義の青年の雰囲気が表現された優れた写真だった。この写真はトリミングしてあるのだが、切り取る前の全体の写真は、本当に素晴らしいものだった。当時、パソコンがあれば、保存できていたのに残念だ。
 若い時は、目の前に起こる出来事に手一杯で、後々の人生全体の中の情報の価値判断がつかないが、生きてきた72年を振り返ってみれば、日々(にちにち)の薄い行為の積み重ねが、この72年の現在の厚みになっているのであり、また、これからも死ぬまで毎日積み重ねて、厚みを増していかなければならない。

『画中日記』2018.02.02【1972年日本橋画廊DM】

 1972年:3月、東京芸術大学大学院修了。前年から絵で生活できるめどが立ってきたので、アッサリと大学を離れる。5月、日本橋画廊にて個展。完売。個展の後に北海道札幌市西区手稲西野に転居。日本橋画廊とは独占契約なので断わるのだが、絵画ブームの本格的な到来で、南浦和のアパートにも画商が押し掛けてくる。以前の生活に比べて、あまりにも異常な状況に画家としての本能的な防御だったのかも知れない。北海道は前年の9月に取材に訪れ気に入った。

 前年、画材を求めて、北海道に約一月間旅行した。画のための取材旅行は初めてで、何をどうしていいのか分からず、とりあえず札幌と釧路に宿だけ予約して、あとは行き当りばったりで路線バスと鉄道を使って、歩き廻った。その後の取材はだんだんうまくなるのだが、この取材は何せ効率が悪く、ひたすら、歩いてばかり。

 それでも、本州とは違う北海道の光と、植生や牧場や家などの風景に魅せられ、個展後北海道に転居した。画廊との契約は1年だが、10号5点買い取ってくれるので、北海道から絵を送れば、生活の心配はない。

 南浦和のアパートに、迷って飛び込んできた、青いセキセイインコの「ゼンマツ」を入れた鳥かごをぶらさげて、上野で買った米軍の放出品の大きなショルダーザックを肩にして津軽海峡を渡った。ちょっと芝居掛かっていて恥ずかしいが、当時の社会全体がそういう風調の時代だったんだネ。本人もその当時は、現在の私の世界観と違って、実存主義者を自認していたので滑稽に見えるのも仕方がない。実存主義者は他者からみれば、独りよがりで世間とズレるということです。

『画中日記』2018.02.03【1973年日本橋画廊DM】

 1973年:5月、日本橋画廊にて個展。完売。

 北海道札幌市西区手稲に住んで1年が過ぎ、1DKのアパートから、一軒家の借家に移った。画料も、北海道に引っ越す前に、児島さんに掛け合って、売値のパーセンテージにして貰ったので、絵画ブームが沸騰するなかで収入も増えていった。

 絵の方は、北海道の空を描くのに、リトグラフのグラデーションの技法をヒントにして、キャンゾールに絵具を入れてベージュ色を作り地塗りをしたキャンバス上に、油絵具を直接塗ってローラーを使う「ローラーボカシ」の技法を思いつき、始めた。(今は、ローラーを使う事も、地塗りもまったくやっていない)

 今ではありふれているが、当時青空の風景画は油絵では斬新で、たちまち、人気作家の一人に仲間入りした。

『画中日記』2018.02.04【初めての作品集】

1974年:オイルショックの影響で第一次絵画ブームはいっきに終焉する。日本橋画廊から買い取り契約の解除を言い渡される。僕の契約点数では3年間は予約で埋まっていると聞いていたのだが、今はすべて消え去ったという。フリーになる。

 日本橋画廊に絵を送っても買い取ってくれない。東京に発表のルートが切れると、このまま北海道にいてもお金が入らないので、生活上ジリ貧で腐ってしまう。東京近郊に帰る予定で動いている時に、タイミング良く、札幌での知り合いの同級生の画商から、札幌三越での個展の話を持ちかけられた。フリーになって、日本橋画廊以外の画商との取引は初めての経験だが、条件は日本橋画廊と同じ、ただし展覧会の作品集を作ってくれるのならやる、ということでこの作品集ができた。展覧会は成功。こうやって、かかわってきた人達は、今どうしているのだろう。そしてこの時の作品はどこでどうなっているのだろうか。

『画中日記』2018.02.06【市原市能満に転居】

1975年:千葉県市原市能満に転居。茅葺きの農家を借りて手を入れ住み始める。6月、飯田画廊(銀座)にて個展。

 フリーになったからといってこのまま何もしなければ、以前私の絵を欲しがっていた画商の人達には分からない。どこかで「フリー宣言」をしなければと、銀座の画廊を廻った。最初に訪れた飯田画廊で個展の話が出て、話がドンドン進み、そのまま6月に個展になった。条件は委託以外は日本橋画廊と同じ。

『画中日記』2018.02.07【赫陽展】

1976年:田島英昭氏、三栖右嗣氏と「赫陽展」を企画。名前の由来は、僕がまず各人各様で「各様展」はどうだと提案して、三栖さんがそれに赫陽と漢字を変えて決まった。12月、第一回展を資生堂ギャラリー(銀座)にて開催。赫陽展は資生堂ギャラリーで、1978年5月第二回展、1980年10月第三回展を開催し、1984年3月第四回展を最後に解散する。

 美術雑誌の編集者だったS氏のつながりで『赫陽展』が企画、展覧された。

 フリーになってみると、人間関係が横に広がっていく。今まで、日本橋画廊にまかせっきりだったことを、全部自分でやらなければならない。他人(ひと)にやってもらおうとするから頼った分、自分の決断、生き方にアレコレ言われ、影響を受けるのだ。人生のリスクは全部自分が背負う、と決断すれば、他人に負い目がなく生きられる。その頃の私は、ガチガチの『実存主義者』だったのだ。

(今は私の世界観は、当然『仏教的全元論』です)

『画中日記』2018.02.08【赫陽展】

1977年:札幌(今井)、岡山(天満屋)、酒田(清水屋)、の各デパートで個展。

 この頃の地方都市のデパートは、町の中心的存在だった。第一次絵画ブームの時の東京で、デパートで絵を買うことが定着して、それが地方に及びつつある状況のなかで、新興の企画画商(画廊を持たず、デパート等の展示場で絵を売る画商)にとって、フリーになった東京の人気画家の絵は、うってつけの目玉商品であった。

 来る企画は、全て引き受けた。

画像は、札幌今井デパートでの個展の時作った作品集の画像です。

『画中日記』2018.02.10【芸大1年生の時の作品】

 ポジフィルムの資料があったのをアップし忘れていたので、1964年にいったん戻ります。

1964年:3月、県立千葉高校を卒業。4月、東京芸術大学油絵科に入学。8月、同級生で同じ寺田教室だった小田君と、四万十川の上流の村の彼の親戚の医者の家で一夏を過ごす。

 この作品は、芸大の夏休みに実家で描いた。1970年11月の市原市辰巳団地集会所で開いた個展で売れて手元にはない。後に、画集を作る時に、持主から借りて撮影した。今はデジカメで、絵の撮影は簡単だが、後に自分で撮影をするようになって、6×7のマミヤのフィルムカメラで、照明をセットして、絵を何枚か集めて撮影するので、今のように、完成のたびに手軽に1、2枚撮るのは面倒なのだ。

『画中日記』2018.02.11【1965年~1969年】

1965年:8月、同級生で寺田教室だった田島君の熊本の家で一夏を過ごす。彼の親戚の家がある天草に行ったり、阿蘇にも帰るまぎわにあわただしく一人で行ってきた。

1966年:2年生から3年生への進級時に小磯教室を選ぶ。3年生のコンクールで芸大の学内賞である安宅賞を受賞。

1968年:3月、東京芸術大学卒業。卒業制作の作品がサロン・ド・プランタン賞を受賞。卒業後、何とかなると思っていたが、どうにもならず新聞広告の求人広告で出版関係の会社に応募して就職したが3日でやめる。ガックリきて自分は絵以外の仕事は無理だと思い知らされた。改めて、美術教育の関係で生活を立て直そうと思い芸大の大学院に入り直そうと思う。美術研究所の講師のバイトで食いつなぐ。

1969年:4月、東京芸術大学大学院基礎デザイン研究室に入学。油絵科の大学院を受験しなかった理由は、大学にしがみつかずに飛び出した手前、おめおめと引き返す事が恥ずかしかったから。

 芸術を志した人が、その道から外れる一番危険な時期は、美大卒業後の4、5年間で、その時の実存上の分岐の決断が、人生そのものを変えるし、自分の描く絵の内容も変える。そのことは、私も同じで、芸大卒業後から大学院に入りなおし、大学院修了までの数年間が、もっとも苦しい時期だった。なにしろ、山中で道に迷った状態で、自分の進むべき、努力すべき、生きるべき方向が見えないのだから、次々と襲って来る実存上の出来事に翻弄された。

 もっとも、波瀾万丈の人生は望むところなのだが、竿の先まで上って、自らの意志で手をはななすのと違って(竿頭進歩)、いままでしがみついていた竿が無くなってしまうのだから、あるいは、他の竿に移れと他者に要求されるのだから、その頃の私は実存主義者だったので、苦しさと喪失感は極みだった。

 今になって、イーゼル絵画に出会い、道元に出会い、世界存在は『全元論』であると判ると、過去の全ての歩みの過程が因となって、現在の自分の「いま、ここ」に現成しているのだから、だから、今、正しい道を歩いていれば、過去の歩いてきた過程の道も、全て正解になるのだ。『全元論』は人生、存在、全肯定なのだ。

『画中日記』2018.02.18【このデッサンについて】

●他の教室に行って描く

 他の画家の描いているところを直接見て勉強になったもう一つは、佐藤照雄(1926-2003)という先輩の話。もうお亡くなりになったけれど、リアリズムの大家で、デッサンがめちゃくちゃ上手い人だった。特に『地下道シリーズ』という、戦後の上野の地下道に暮らすホームレスの人達を描いたデッサンはすばらしい。佐藤さんは終戦後京城から引き揚げてきた後、芸大の裏に掘っ立て小屋を建てて、学生何人かと住んでいたという事で、芸大の先輩である。その人がその頃近くの上野の地下道に夜になると通って描いたのが「地下道シリーズ」で、じつにすばらしいデッサンだった。また、一時期池袋で似顔絵描きもしていて、似顔絵もじつにうまかった。

 僕はそのころ(1975年、千葉に転居する頃)まで、パステルがどうしても使えなかった。使い方を知らなくて、恐る恐るふあふあと、おっかなびっくり使っていた。

 それで佐藤さんに「パステルを、佐藤さんはどうやって使ってるの?」と聞いた。

 「ああ、それなら、僕と一緒に描きにきなよ。デッサン描いているから」

 それで、練馬区の公民館だったか、西武池袋線で行って、僕はそのころ千葉県の市原市に住んでいたから、通うのにかなり時間がかかったけれど、週一回二ヶ月くらい通った。

 ところが、そこは佐藤さんが主催している教室じゃあないんだ。他の人が、女性の日本画家の先生が教えている教室だった。佐藤さんは、その当時一回千円だったかを払って参加していました。自分のアトリエで専用のヌードモデルも使っていたけれども、千円でヌードが描けるならという事で、そこで描いていたわけ。

 「岡野君、来なよ」と言うから行ったら、佐藤さんも生徒。でも、別格で誰も何も言わない、言いようがない。

 佐藤さんと僕と、めちゃくちゃうまいのが二人。他の人と、特に先生はやりにくそう…。悪いなと思いながらも、佐藤さんのデッサンを見ながら描いて、すぐにパステルを使えるようになった。

 パステルとかコンテは、ギシギシ使わないとね。パフパフと恐る恐る使うものじゃあないんだ。ゴリゴリ描いて、擦筆(さっぴつ)で紙にこすりつけ、色が濁ってきたらフィキサチーフをかけて粉を定着し、ホワイトや明るい色で形を決めていくのがコツなんだ。それ以後、パステルも随分使えるようになった。今でも、エスキースにかかせない画材だ。だから、一緒に描くというのが一番ためになる方法である。もっとも、一緒に描く相手にのみこまれてしまう危険性はあるが、それはそれで教わる側の才能の量なので、仕方のない事だ。(『芸術の杣径』より)

写真のデッサンは、上記の文章の後、千葉駅の裏にあった美術研究所のヌード教室に通って、描いたものです。カラーの作品は、その時に描いた同じモデルのデッサンから、1981年に、顔の部分を切り取り、水彩絵の具で色を付けたものです。

こうやって、過去の作品を整理、反芻(はんすう)すると、一点の作品がこの世に現成するときの因と縁は、「全元論」でなければ説明がつかない。

『画中日記』2018.02.20【第二回赫陽展、個展】

1978年:5月第二回赫陽展、10月日本橋画廊にて5回目の個展、11月那覇のデパート、リウボウ6階催物場にて個展。

 第一回赫陽展の出品作のモチーフは北海道風景がメインだったが、第二回赫陽展に向けての、新しいモチーフを求めて、前年からこの年の春まで、沖縄の八重山諸島、長崎県の福江島、島根県の隠岐を取材旅行。

 この年の、新たなモチーフへの挑戦で、海の描画の新しいアイデアとその結果に自信がつき、今だにその技法を使っている。加えて、海と空との微妙な青の色相と明度と、植物の緑との関係を、作品で試行し研究し、スキルを磨いた。

『画中日記』2018.02.21【今秋生まれ故郷を描く予定】 

 最近の固定電話は、メールや携帯電話の関係か、ほとんどが各種勧誘の電話で、めったに個人的な電話がないが、先々日は私の生まれ故郷の玉野の同級生(大阪在住)からの嬉しい電話だった。電話後のメールのやり取りで内容が解ると思うので、下記にペーストします。フェイスブックに転載するので、名前はイニシャルにします。 

 

日時: 2018年2月20日 17:25:51JST

岡野君

  先程の件、妹に伝えておきました。「一階がギャラリーカフェで二階は寝泊まりや絵画制作可能なスペースになっています。布団なども用意出来るので遠慮なく使って下さい」との事です。一階はギャラリーカフェになっていますが、玉野なので客は殆ど来ませんが、郷土画家の岡野君の個展などであれば皆さんが見に来られると思います。時期や期間なども遠慮なくマイペースで自由に使って下さい。

返信;日時: 2018年2月21日 07:07:57JS 

I様

早速の手配有難うございます。昨年の暮れに、柏のアトリエと行き来して描いていた富士山も一段落して借りていた山中湖の借家を引き払い、今年の秋からは、年に一回、1ヵ月くらい、現地に泊まって今まで描いた所でイーゼルを立てて描いてみようと思っていたところでした。

セザンヌの絵に、エクス(セザンヌの故郷)の石切り場を描いた絵が数点あります。その絵を画集で観た時に、大仙山の山頂や、王児ケ岳にイーゼルを立ててみたいと思っていました。写真やスケッチと違って、現在は直接イーゼルを立てて描いているので、旅館では仕事がし辛いので、東京のFさんに、同級生に空き家を持っている人はいないかと声をかけたら、Y君の家の話が浮かび、その件は立ち消えになったのですが、今回この話が、突然現実化したのです。

具体的な話は、まず今年の9月から1年間使わせてください。1ヵ月づつ、柏のアトリエと行き来しようと思っています。家賃の代わりに、貴方と妹さんにお好みの絵を一点づつ置いていきます。

この話のお礼に、ちかく、小品の絵を貴方と妹さんに送ります。額は私の自作の仮枠に入れて送りますが、それでよければそのままで、ガラス入りの本額がよければ、私のデザインした額を作っている額屋と、通販の額縁屋を紹介します。

貴方の住所と電話は、メールで分かりますが、妹さんの送り先の、名前と住所と電話をメールで教えてください。そして、まだ先ですが、玉の「M」の住所を教えてください。

貴方のHPは、後で訪問します。私のHPは、今は岡野岬石の名前でフェイスブックを使っています。検索して見てください。フェイスブック内の『画中日記』でこの件のことも近日アップしようと思っています。

日時: 2018年2月21日 10:54:20JST

岡野 君

下記のメールをありがとうございます。

「今年の9月から1年」の予定で想い出の玉野の岩山をカンバスに切り取る創作活動をなさるとの事で大変楽しみです。玉野の幼友達も喜ぶと思います。

古いあばら家で、二階は父が歯科診療室として使っていた「畳の小部屋1と板張りの作業部屋大1小2室」です。板間は汚れを気にせずに作業することも可能です。一階はトンボ玉のガラス工房+ギャラリー喫茶+庭」です。妹はボケ防止を兼ねた重役出勤で週3~4日程のペースで気楽に喫茶店を楽しんでいます。何の御構いもしませんので両階とも気兼ねなくお使い下さい。

Mの場所は岡野君の旧実家から玉小学校へ行く道路上(映画館の太陽館や岡野君が描いた看板娘の八百屋があった道)で2ブロック西へ行くと玉姫神社です。2階の窓から大仙山の一部を展望可能です。

華やかな進水式があった頃からシャッター通りと化した玉野に文化の香りをお裾分け頂ける今秋が待ち遠しいですね。

返信日時: 2018年2月21日 18:26:50JST

I様

今朝、妹さんヘのCcアドレス(貴方にメールした後に気付く)にメールして、お返事も貰いました。9月にグループ展があり、終ったら玉に行こうかと思っています。近くになりましたら、妹さんに連絡して画材を送り、そして、玉野の風景を描くことが現実になります。自身、とても楽しみにしています。

貴方の家には、中学生時代何度か行った記憶があります。妹さんにも、そちらで会ったこともあります。N君や、I君の妹と同級生ではなかったかな(2級下)。貴方とは、熊本で私と友人の岩田屋で2人展の時に、3人で飲んだ事もありましたね。玉に行けば、貴方と会って、そんな話も出来る機会もあるでしょう。

Y君の実家を使わして貰う話が立ち消えになって、もう玉野との縁が切れたと諦めていた糸が突然繫がって、私の中の、古い記憶もよみがえります。そして、大仙山に限らず、あちこち歩き廻って描くのを、今から想像してワクワクしています。

近く(1ヵ月以内に)小さな絵を、送ります。ささやかな、感謝のしるしです。ご笑納ください。

 ということで、今年の『イーゼル画会』展が終ってから、玉野に行こうと思っています。昔から、旅行、転居が好きなので、また私の場合、空間の変化は絵画上での結果もいいので、そして、実存上のノスタルジーは画面の上にはどう出てくるのか、出ないのか、……アァ、楽しみだ。

 ノートパソコンを買って、玉野からもフェイスブックにアップしようかな。

『画中日記』2018.02.25【1979年】

1979年:2月福岡・天神博多大丸にて個展。

 この個展は、私の実存上の大きな、危険な分岐であった。外商も動き(外商と美術のNさんと一緒にお客の家に訪問もした)、出品作はほぼ完売、閉店後は連日中州のクラブに連れていってもらい、飲んだ翌日は、その店の女性達が画廊に来てくれた。この個展の成功で、博多大丸では1982年催事場で大個展をやることになるのだが、この楽しい体験の裏側の構造が、お金の原理で動いていることに気が付いていなかった。感違いのまま、浮かれてこの路線で人生を過ごせば、マンネリズムで、早晩芸術の世界から消え去っていただろう。

 とにかくこの時は、画も人生も、やることなすことすべてがイケイケで、楽しかった。

「真・善・美」という超越は、この世を貫く法である。この軌持のおかげで、後に、画のベクトルと、併せて人生のベクトルをも修正出来たのだが、芸術をやっていてよかった。

『画中日記』2018.03.01【1980年】

1980年:2月名古屋・松坂屋で個展、10月第三回赫陽展。

 武蔵野風景に始まり、北海道風景、沖縄風景、岬と海の風景、田園風景と、転居、旅行する度に、新しく出会うモチーフの描写にチャレンジし、そうやってできた絵の個展は成功する。72歳になった今になって思えば、道元の言う「修証一等」でそれで正しい行為なのだが、その当時は、自分の絵を証(悟り)の世界に至る前の修行の段階だと考えていた。だから、相撲取りの稽古場を興行にして、それが大当たりしているので、有難いことだという思いと、自分ならば当然だという実存主義者(私の当時の世界観)の自信とが交錯していた。

 10月の第3回赫陽展の出品作は自信作であり、後の分岐のキッカケになった作品だった。

『画中日記』2018.03.02【1981年】

1981年:4月、国立近代美術館にてマチス展を観る。自分の絵のベクトルとモネやマチスの絵のベクトルの違いに気付く。第24回安井賞展に前年赫陽展で展示した「風景(M100号)」を出品、その年に安井賞を取った有元氏と賞を争う。千葉県柏市に転居。

 前年、同じ岬の風景を描いているモネと、自分の絵の違いを見にブリジストン美術館に行った。実物の絵の前で、印象派の画の為していること、為そうとしていることを、私の眼が追体験する。その絵を描いた画家の眼と、鑑賞者としての自分の、眼が共鳴するのだ。この年の4月のマチス展の絵の前で、同じ現象が私の眼に起きた。

〈この眼の中の現象は、今自分が描いている絵の方向と、脈絡が違う。この先、一生かけてどんなに努力しても、自分の今の絵のベクトルとは方向が違っているので行き着かない〉

 この年から、翌年にかけて、大きな分岐と、まだ何の目算も結果も見えない方向に舵をきった。その前に、今まで作品化していないアイデアを全て出し切ろうと思う。

『画中日記』2018.03.03【1982年】

1982年:4月、月刊美術画廊(銀座)で個展。それに合わせて最初の作品集『岡野浩二作品集1964~1981』を刊行。月刊美術画廊は以前画材屋の月光荘があったビルの一階から三階まで各フロアーを貸していて、それを全階借りて100号の風景画20数点を展示した。今までのベクトルの仕事の総括のつもりだった。マチス展から一年、画集作りと大作の制作に掛かりっきりだった。そうやって今までの暖めていたアイデアを出し尽くして、その後、心置きなく新たな方向で挑戦をしようという計画だ。

5月、(新宿)京王美術画廊・9月、(博多)大丸催事場・10月、ギャラリー都留満喜(銀座)・11月、(渋谷)西武美術画廊・12月、(八尾)西武ギャラリーにて個展。

 フェイスブックにアップした作品は、月刊美術画廊での個展後に製作したもので、正しい方法論がまだ見つかっていない状態で歩み出す。後年、抽象印象主義(私の造語)の概念が固まるまでの糸口を見付かるまでは、あちこちやみくもに、過去の画家達の歩んで来た踏み跡を研究した。そのころ好きでよく聴いていた、モダンジャズの演奏方法を手掛りにして、まずはフォービズムで歩み始めた。それまで描いていた作品も、画商からオファーがあれば描き続けた。

 芸術で生きることは素晴らしいね。絵を描いていられればなんのストレスもない。

『画中日記』2018.03.04【1983年】

1983年:8月、杏美画廊(新宿)にて個展。開廊記念展。以後1988年まで毎年個展。このころの絵は、フォービックで偶然性が強く、悩み多き時期だった。柏市塚崎にアトリエを建てる。

1月、(沼津)西武美術画廊・3月、(広島)天満屋美術画廊・4月(上野)松坂屋美術画廊・6月、(豊橋)西武美術画廊・7月、(新潟)三越ギャラリー・現代日本の美術②〈風景との出会い展〉宮城県立美術館に「風景」M100号を出品・8月、(札幌)今井美術ギャラリー・9月、(八尾)西武ギャラリー・10月、(新宿)京王美術画廊・12月、(船橋)西武美術画廊にて個展。

 作画の方向を変え、これだけの展覧会をこなし、この年アトリエを建て、私の周辺の状況は、人も環境もあわただしく動き変化してゆく。周りの人には、あっけにとられられ、S画廊のIさんには説教もされた。もちろん自分の考えはキッチリと反論したけれども、なにしろ、キャンバスを前にして自分の進むべき方向に、一歩でも押し進めることが切実な課題で、絵を描いていればなんの不満もない。

 この頃の私の行動は、周りから見れば、文字どうり「傍若無人」に見えたろうなあ。でも、まだ私の世界観がまだ実存主義だったので、仕方がないのです。

『画中日記』2018.03.04【1984年】

1984年:3月、第四回赫陽展に『横たわる女』(100F)を出品。ピカソとマチスの絵の研究により、やっと行き先に光明を見い出す。5月、銀座・野村画廊にて個展。6月、渋谷・西武美術画廊にて個展。2冊目の作品集『岡野浩二WORKS DOCUMENT(1)1974~1984』を刊行。

 1982年から、フォービズムの描画方法で絵を描いていたのだが、この方法では何枚描いても一タッチごとの描写の真偽が判定できない。絵画の方法論はイーゼル絵画をやり始めた、2010年5月(64歳)まで変転が続いた。しかし、その当時の私の世界観そのものが、実存主義だったので絵画や人生の変転は当然だと思っていたので、自分は間違っていない、と自信満々である。キャンバスの前では真摯に取り組んでいるが、人生上の行為や他者への態度は、ふり返ると恥ずかしい。

 フェイスブックへの、1984年製作の作品資料は別途の枠で投稿します。それと、子供の時に見付けた方法論(『芸術の杣径』方法論(二))も別枠で投稿します。

『画中日記』2018.03.23【1990年】

1990年:10月、オンワードギャラリー日本橋にて個展。線の使い方にいいアイデアを思い付いて、ピカソ、マチスの影響から抜け出せる自信が湧く。

 2010年(64歳)からのイーゼル画の体験まで、自分の生き方は実存主義、絵画は自分の力で眼前のモチーフを造形するのだと間違って認識していたので、この頃の私に、現在の私が会えば、「お若いの、君は頑張っているが、世界の認識が違っているよ」と注意するだろう。しかし、その正しい意見も、その頃の私は「ウルセー、すべて自己責任でやっているのだから、オレの行く道はオレが決める。横から勝手な指図をするな!」と言い返すだろう。実存主義の世界観そのものが間違っているので、「真・善・美」の軌持を理解するまで、老人の私は、肩をすぼめて両掌を前に広げ「セ・ラ・ヴィ(それも人生だ)」でオシマイ。

『画中日記』2018.04.03【旧作の加筆を終る】

 昨年の暮れから描き続けていた、旧作への加筆完成が、昨日全点終了した。次は山中湖のアトリエから持ち帰った、途中の絵の完成だ。

 今年の、第3回『イーゼル画会』展は9月に開催する予定だったが、ギャラリー仁屋の止む終えぬ事情で取り止めになり、来年の2月に藤屋画廊の展覧まで延期になった。そのため、9月以降に玉野に描きに行く予定を、早めようとおもう。山中湖の作品の完成は1ヵ月もあればできるだろうから、5月には玉野に行けるかな。

 天のオファーを身に感じれば、暇な時間はない。 

『画中日記』2018.04.16【『全元論』ー画家の畢竟地ー】

 2016年に録音し文字起こしをしたまま、途中で頓挫して眠っていた『全元論』(副題ー画家の畢竟地(ルビ、ひっきょうち))の出版が、偶然のめぐり合わせで息を吹き返した。その本の「まえがき」の原稿を今日書いたので、投稿します。本の原稿は、以前フェイスブックに投稿してあるので、面倒でなければ(グーグルで「フェイスブックの過去のタイムラインの記事を探す」、で検索)そちらを見てください。本が出来あがったら、その時に改めて案内します。アマゾンのネット販売もする予定です。

『画中日記』2018.04.17【感謝状を】

 去年描いて、今年の藤屋画廊での個展で展示した『青天白日富士』(F100号)の作品は、個展展示後、元自衛隊第一空挺団の西東さんの紹介で、自衛隊習志野駐屯地に寄付をした。その感謝状の贈呈式が4月8日、第一空挺団創立60周年記念行事の中で行われ、感謝状を贈られる多くの人のなかの一人に、私もそこに招待されていたのだが、行けなかった。

 その時の感謝状を今日、先日記念写真を届けにアトリエを訪問してくれた大隊長の富永將文氏に代って新たに大隊長に任命された吉永憲太郎氏が代表して届けに来てくれた。私は普段着(式服は家を出た時に置いてきたので、持っていない)ですが、一応胸に、富士山と日の丸のピンバッチを付けて、あらたまった気持を表わしたつもり。写真左より、吉永憲太郎氏、竹下一敬(かずのり)氏、私、渡邊信一氏です。

 記念品や竹下さんの個人的なおみやげの八女茶(竹下さんは熊本県出身なのか)などをいただき、その後は、やはり私一人が自衛隊最強論をしゃべり続けてしまった。老人は、残り時間が少ないので、反省などしないのだ。時はいつでも一期一会なのだから録音しておけばよかったなぁ。

『画中日記』2018.04.29【『水辺(一ノ砂川)』で】

 今朝、完成した『水辺(一ノ砂川)』(P10号)で、山中湖から持ち帰った風景の作品はすべて描き終わった。あと残りの作品は、野の花の小品が10点前後あるが、これらは、一旦、風景作品のニス掛けと仮額とダン箱を作ってから取り掛かろうとおもう。『全元論』の本も、もうすぐ出来るだろうし、天から配られた私のトランプのカードは、捨てたり、無駄にしたり、死蔵せずに使い切っている。

 若い頃からの、自我を羅針盤にして人生をおくる実存主義から、64歳の時からのイーゼル絵画への取り組みと、同時期の道元との出遇いで、実存主義の間違いに気付き、その結果、世界観が「全元論」に変わり、現在のこんな畢竟地で晩年を生きられる。修行は死ぬまで積むもんだ、たまんないネェ。

 額作りと、小品を描き終えたら、次は、抽象印象主義の作品に取り掛かろうとおもう。イーゼル画は、6月12日から故郷の玉野に行って大仙山の岩塊を描く。時はビュンビュン飛び去るけれど、耳に聞こえる存在の風の音は、秩序立っていて心地良い。

『画中日記』2018.05.06【柏ふるさと公園】

 今日は、16号沿いの『島忠』に仮額用の木工材を買いに、久しぶりに40年前に買った、キャンピング用サイクリング自転車を出して、出かけた。この自転車はミヤタのルマンで、近所の自転車屋でカタログで注文したものだが、今はネットオークションで買った値段よりも高値がついている。この自転車は、前後4つのキャンバスバッグを装着でき、そこに水彩とパステルを入れて、小豆島を描いて廻るために購入した。しかし、当時はフットワーク(ダックスフンドのマーク)しか、自転車の運送を扱っていなくて、自転車を送り、送り返しに苦労した。そのためだけではないが、取材に使ったのはその時の1度きり。

 その自転車で、ついでにデジカメを持って、手賀沼の周辺を取材して、裏から島忠に行く予定で午前中アトリエを出た。

 柏ふるさと公園と大堀川をはさんだ北柏ふるさと公園は平成2年に開園したそうで、前回この辺りに来た時はできていなかったので、それならば、約30年ぶりに来たことになる。以前は芦原だった川口に釣り人の踏み跡で道がつき、水辺の木も大きくなってすっかり風景が変わった。それも良く変わっているので、これは絵になりそうだ。朝陽も画面に入りそうなので、これは予想外のビューポイントになるかもしれない。近いうちに、ママチャリにキャンバスとジュリアンボックスを積んで、イーゼルを立ててみよう。

 島忠は家具とインテリア用品に全店が変わっていて、品物は買えなかった。明日、いつもまとめて注文している浜松の木工所に、連休が終ったので電話注文しよう。

『画中日記』2018.05.22【『なぜ日本はフジタを捨てたのか?』静人舎 富田芳和著 を読んで】

 先日、上記の本を、著者からご恵贈いただいた。アトリエでは、本は寝る前にベッドで読むのだが、2晩で一気に読み終えた。

 〈真・善・美〉の超越を羅針盤にして生きる人たちの生き方は、実人生では、家族や肉身や友人を含めて、様々に問題が起る。天の忖度に付き合う幸せを味わえば、他者の卑俗な、欲望を羅針盤にした忖度に付き合う気は起きない。

 数学者は数学の話が一番面白いのだし、それは哲学者や画家も同じだ。しかし、他分野の人は、〈真・善・美〉の超越本体そのものは理解できないのだから、超越に関わって生きている、その人の行為しか理解できない。だから、この本のような、画家を、ジャーナリスティックな視点から書いた本は、今まであまり読まなかったが、美術ファンや、直接この時代を生きた画家には、自分の生き方の分岐と重なるので、面白さは尽きないだろう。

 この本は、大東和戦争後の隠れていた、ジャーナリズム、画壇の動きの謎が次々と明かされる。ちょうど、政治も経済も、全世界的に大きく潮流は変わってきている。この本が、今刊行されるのも象徴的だ。戦後のパラダイムを支配して来たグローバリズムに洗脳された画家には、自分のイズムが問われるだろう。

 この本で、ベン・シャーンと国吉康雄の関係が判ったし、フジタを尋ねた画学生の岩崎鐸は、私が芸大生時代の、小磯教室の助手だった。益田義信は芸大3年の時の、デパートの「美術家連盟」展のアルバイトで顔を見ている。

 フジタは『新制作美術協会』の創立メンバーには濃く関わっているが、猪熊源一郎と芸大の同級生で、おなじく『新制作美術協会』の創立画家の小磯良平先生の名前が出てこないが、これはどうしてだろう。この解釈は、私には想像はつくが、いつか、機会があれば書くこともあるだろう。

『画中日記』2018.05.29【山中湖の作品を終える】

 先の25日にフェイスブックにアップした『野の花(F4号)』で、山中湖から持ち帰った、全ての作品を描き終わった。旧作も、同時に加筆完成していたのだが、それも終えた。『朝の光(F6号)』の題名の2点の絵は、ながいあいだ完成、加筆を繰返していたのだが、顔がどうしてもうまくいかないので、今日、廃棄を決める。

 6月11日に玉に行く切符も取り、宅急便の荷造りも終わり、明日発送。11日の出発時までは、仮額とダン箱作りと、このところ一時中断している、過去の作品や個展のデータの保存とフェイスブックへの投稿をしようとおもう。

 トラブって、改設してすぐに解約した、他のラインでの電話も、元のNTTのフィレッツ光に戻し、新しい電話番号と新しいルーターで、回復した。これで、心おきなく玉野で絵が描ける。

 歳をとると、生活は、よりシンプルにやるべき、やれるべきことだけに全力を尽くさないと、余計なトラブルや苦しみを背負ってしまう。だから、玉野に、パソコンを持って行くのは止めた。その代わり、32ギガバイトのデジカメのメモリーを用意して、テキストはUCレコーダーに吹き込み録音するか、らくらくフォン(文章の打ち込みが面倒だが)から、自宅のパソコンに送信するかで、柏に帰ってから『玉野だより』を順次投稿する予定です。6月11日からは、当分フェイスブックは新規投稿はありませんが、帰ってきたらすぐに投稿をはじめます。

『画中日記』2018.05.30【旧作の】

 昨日、片隅のダンボール箱から、旧作の小品が10数点出てきた。これらは、旧作を数年前に加筆したもので、今見てみると、やはり加筆すべきところが目につく。今朝、灯油でルーツーシェを拭き取り、加筆完成させようとおもう。玉野に行く11日まで、絵具をいじれる仕事ができて、かえって嬉しい。

『画中日記』2018.06.02【ギャラリートーク】

 今日は、15時から我孫子の『けやきプラザ第2ギャラリー』でギャラリートークをがあるので、昼頃の『東我孫子車庫』行きのバスで我孫子に行く予定だ。

 話す予定の題目は『なぜ、日本人は印象派の絵が好きなのか。なぜ、印象派の画家は日本に憧れたのか』ということを、芭蕉の句を例にして両者の世界観(全元論)の特殊性と普遍性の共鳴(シンクロニシティー)を語ろうとおもう。いつもなら、話出せば何時間あっても話が終らないのだが、時間が短いので、要点だけ早目に話して、最後に近々に出来あがる『全元論』の本の予告をしようとおもう。

 日頃、絵ばっかり描いている引きこもりの独居老人なので、外で私の芸術論を話すことはめったにないし、おまけに、私の話をわざわざ聞きにきてくれる人も少ない。歳をとると、世界観の異なる人との話は、私の方に付き合って話すタネが無いのだから、聞くのは苦痛だし、人生の残り時間も少ない。そんななかで、芸術の話ができるので嬉しいし、私にとっては貴重だから、録音して、ユーチューブに投稿するつもりだ。(追記;録音は録り忘れた)

『画中日記』2018.07.18【玉から帰って(1)】

 玉での最終日、大仙山への2度目の画材を背負っての登山で、藪でまたもや道を外れ、背筋を酷使したために、柏に帰ってから腰痛に今日まで悩まされた。すぐに治るとおもって、シップを張って自然治癒にまかせていたのだが、あまりに長引くので、筋肉が炎症を起していると判断して、昨夜からアスピリンを服用する。アスピリンは1日3回1錠づつ服用が限度だが、今回は12時間ごとに1錠づつを服用することにした。

 この見立てが、当たったらしく、今朝の腰痛の状態は格段に良くなった。これで、このトラブルは解決した。

 人が生きていく上で、色々のトラブル、ハザード、トラップを避け、自分自身の身体の修理や精神、世界観の修正を一つ一つクリアして、何事かを為す(私にとっては美しい作品を描くということ)ということは、そしてそれが現実に成されるということは奇跡的なことなのだ。

 誰もが「日日是好日(にちにちこれこうじつ)」を願っているのだが、八正道の努力なしには、この境地は味わえない。

『画中日記』2018.07.23【玉から帰って(2)】

 玉で、王子が岳の岩塊の風景を何点も描いてきたが、また、これから何度も通うことになるが、何故これほどまで熱中する理由を書きたいとおもう。

 描写絵画の大きな2つのファクターは、光と空間だが、日本の風景では空間が目に引っかかりにくい。地面は下草に覆われ、木も幹が見えない。部分や、近景は空間が結構複雑でも、少し離れると大きなフォルムや空間は、植物に覆われてしまう。大仙山では、予定していたポイントはすでに大きく育った植物に埋没していた。

 王子が岳は私が出会った、空間が主題の最高のモチーフだ。堅く大きなミカゲ石が、白く明るい砂の地面の上に、むき出しに天の差配で存在している。こんな、理想的なモチーフに、日本の、私の故郷で、この齢で出遇うなんて、私はなんて幸せな画家なのだろう。

 私は、2010年の5月からイーゼル画を始めたが、イーゼル画のおかげで、空間の問題、空間の描写スキルに悩まされ、そしてその問題を超克することを楽しんできた。下記に、過去の『画中日記』をペーストします。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 2011.11.26 【セザンヌの絵画空間と日本の風景】(1)

 今、トップに載せている作品は、今年の2月17日の「片瀬白田だより」に載せてある写真の作品で、途中までうまくいっていたのに、その先がどうしていいか分らず、永く描きかけのままでおいておいたものを、先日手を入れたら、Ⅰ日であっという間に完成した。

 光だけで描いていると、セザンヌの画のような複雑に入り組んだ空間のモチーフは、そもそも目に止まらないが、光に空間をプラスして風景を見る訓練を積むと、この作品のような風景が、画の対象としてやっと目に入ってくる。空間の問題は目に引っ掛かりにくく、現場でイーゼルを立てて描く体験を積まなければ、セザンヌの作品の素晴らしさや、絵画空間の美しさやその表現方法も生涯気付かないでおわるだろう。記号には空間が含まれていないし、写真を絵画制作の最初から使うと、写真は2次元平面で空間がもともと抜け落ちているので、ワイエスの画のようにイラストレーターの描いた作品と似かよった空間になってしまう。(続く)

 2011.11.27 【セザンヌの絵画空間と日本の風景】(2)

 かって私はセザンヌのような画を描きたくて、三陸海岸に3度、小豆島にはサイクリング車に画材を積んで行き当りばったりで一周したことがありました。結果は惨憺たるもので、その時の作品は偶然残ったものを除いてすべて廃棄した苦い経験があります。その時は、どうして自分には描けないのか口惜しい思いでいっぱいでしたが、今、ここにきて、ようやくその時の失敗の原因が分りました。

 失敗の原因その1;空間が見えだしてはじめて、その描写スキルも試行錯誤の後に少しづつ身についてくるのだから、私のその頃の眼は光しか追っていないのに、結果だけセザンヌのように空間を描こうしても無理があった。

 失敗の原因その2;日本の風景は空間が平板で、そもそも単純な空間をセザンヌの石切り場の絵のような複雑な空間に作り変えようとしても無理な話である。

 2011.11.28 【セザンヌの絵画空間と日本の風景】(3)

 前日の推論の結論は、――日本でセザンヌのような画を描きたければ、複雑な空間のモチーフを見付けて、光と空間の描写で対象を追って行けばいい。その際間違いやすい分岐は、決して絵作りの方向で画を進めるのではなく、あくまで描写(写真的ではない)の方向に進めていくべきである。逆に、日本の風景を光と空間で描写する場合に、セザンヌの画のような空間にならなくても一向にかまわない。日本の自然の風景の、光と空間を描写すればいいのだ。

 ゴッホは日本の浮世絵に影響を受けたが、浮世絵を作ろうとしたわけではない。ボナールもドガもピカソも写真を使ったが、写真のように描いたわけではない。日本で制作している私が、画のモチーフに人物ならば外人のモデルを、静物ならば外国の果物や調度品を、風景ならばフランスの風景等でなければ絵が描けないとしたら、それは自分の眼が他者のソフトで見ているということで、借り物の自分である。写真のソフトを自分の描画のソフトにすると、これもまた、欠陥がある。結局は自分の裸眼で、一歩一歩歩みを進めるしか道はないのだ。

 自分の生きている世界の中から、無理やり絵にしたり創作するのではなく、自然に出会い生まれでる美の感激を、ハイテンションにならず、自我意識を入れず、淡々と描写に撤する。私の好きな画家は皆そうやって描き、生きてきた。私もそうやって描き、生ききりたい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

『画中日記』2018.07.29【玉から帰って(3)】

 昨日、フェイスブックに毎日アップしていた『玉野だより』が、いったん終った。次回は玉に行くのは、9月の10日過ぎから一ヵ月間の予定だから、帰柏する予定の、10月中頃から続きを投稿します。

 毎朝『玉野だより』をフェイスブックに投稿する時間が空いたので、今日から『画中日記』を書くことが増えるだろう。身体も老いるけれども、脳も老いる。竜安寺の石庭も、毎日手を入れなければ諸行無常の法に呑み込まれてしまう。

 老いは、現状維持するだけでも、付加をかけた修行が必要だ、身体も脳も。

『画中日記』2018.08.13【玉から帰って(4)】

 玉で描いた作品は、大仙山の山頂で途中まで描いた1点のみを残すに至った。この作品も、今日キャンバスを絵具で埋めたので、近々完成するだろう。早めに、予定の仕事が終わったので、明日からは、抽象印象主義の作品の小品を、大作のエスキース代りに描き始めようとおもう。

 玉での最終日に大仙山で痛めて悩まされた腰痛が、まだ完治しない。昔買って、倉庫に眠らせていた、光線治療器を取り出し、ネットで検索して、カーボンと故障していた部品を取り寄せて、やっと、ジリジリと良くなってきている。9月11日に再び玉に行くので、それまでには治らないと、王子が岳で絵具箱を背負って、山道を歩けない。

 四苦とは生・老・病・死のことをいうが、腰痛という、全ての立ち振る舞いに障害をもたらす部位にトラブルを抱えると、食事や睡眠まで、生きることそのものが、苦になる。たまたま、偶然今日『読書ノート』に打ち込んだ、文章が今の私の状態にシンクロするので、下に、貼っておきます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

■それゆえに、ドゥッカ(岡野注;苦)の原因、芽は、ドゥッカ自身の中にあり、外にあるのではないということを、はっきりと、注意深く理解し、認識しなければならない。同様に、ドゥッカの消滅、破壊の原因、芽も同じくドゥッカのうちにあり、外にあるのではない、ということをよく認識する必要がある。これが「生起する性質のものは、消滅する性質のものである」という、有名なパーリ語定言の意味である。存在、ものごと、システムは、うちに生起の性質をもっていれば、同様にそのうちに消滅、破壊の原因、芽をもっている。こうしてドゥッカ(すなわち五集合要素)は、自らのうちに生起の性質をもっており、同じく自らのうちに消滅の性質をもっている。(『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ 著 今枝由郎 訳 岩波文庫、84~85頁)

『画中日記』2018.08.21【芸術書簡】

 2009年9月5日から2010年1月9日まで、千葉日報の学芸欄に隔週土曜日、『芸術書簡』という題で、読者からの手紙との往復書簡を5回(往復で10回)紙上に掲載した。この原稿を書く過程と、相手の説との討論のおかげで、私の芸術観、世界観はよりクリアーに現成してきた。

 全ての期が熟したのか、2010年の5月には、東伊豆片瀬白田に借家を借りて、「イーゼル絵画」を約半世紀ぶりに始め、現在に至っている。

 『芸術書簡』連載中も、終ってからも美術界からは、何の反応もなかったけれど、昨日、その当時録音した音源を再編集して、ユーチューブにアップした『デュシャンとネオダダの現代美術史の齟齬』と同じように、当時と世界状況も美術界の状況も大きな変り目を迎えている。たった一人で、泳ぎ渡ってきた、美術界の「はぐれガラス」の私の羅針盤の方が正しかったという状況になりつつある。

 フェイスブックという、個人の発信ツールを持てる現在、眠っていた情報を再度公開します。

『画中日記』2018.08.26【北氏が来柏】

 9月1日から始まる第三回イーゼル画会展の出品作を持って、北直人氏が常滑からアトリエに来る。この時の作品は、去年の10月18日に、山中湖村で夜明け前の紅富士を二人同じ場所でイーゼルを立てて描いたものだ。グリュでの展示には、私もこの時の作品を出品します。

私のもう1点の作品は、やはり去年の11月14日に、イーゼル画会メンバーの浜田さんと道志村で同じ場所でイーゼルを立てたときの絵を出品します(浜田さんも出品)。二人共どんな絵に仕上がったのか見るのが楽しみだ。

『画中日記』2018.09.02【第3回イーゼル画会展】

 第三回イーゼル画会展が昨日から始まった。出品作家は、全員ではなかったが、多く出てきてくれた。正式には会としてパーティーはする予定はなく、集まったらかるく、ワリカンでコンビニで軽食と飲みもので済まそうとおもっていたのだが、従来通り、出品作家であり、アトリエグリュのオーナーである天野さんが、パーティーの食事と飲みものを用意してくれた。展覧会の出品作の動画はユーチューブに、パーティーの写真は、「イーゼル画展」と私のフェイスブックにアップします。

画廊が近いので、私は毎日午後会場にいます。昨日もそうだったが、日頃話を聞いてくれる人がいなくて、展覧会場では画の話ができるが楽しみで、トグロを巻いて待っています。

展覧会は9月9日までで、終れば、11日には再び玉に一ヵ月行く予定だ。

『画中日記』2018.09.10【第3回イーゼル画会展が終った】

 第三回イーゼル画会展が昨日終った。目に見える大きな成果はなかったが、紙一枚の厚さも、何枚も重なれば分厚い立体になる。カオスではバタフライ効果といって、蝶の羽ばたきの小さな分岐が台風になったりする。分岐の種は、常にオールオーバーに平等に誰にも用意されているのだから、今回のイーゼル画会展での微細な出遇いと作品が今後どんな変化に結びつくか天のみが差配するのだ。その天の法(ダルマ)の軌持は「真・善・美」が貫いているのだから、いつどこでも手を抜かずに同じ態度で行動しなければならない。もちろん、その行動原理は八正道だ。

 明日から、再び玉に行くのでフェイスブックは一ヵ月休みます。一ヵ月後は『玉野だより』を再開しますので楽しみにお待ちください。遅れている、『全元論』の出版も着々と進んでいますので、近々上梓できるでしょう。時は過ぎ行くけれど、天のオファーは忙しい。

『画中日記』2018.10.29【一段落】

 第三回イーゼル画会展が終って、9月11日に玉に再訪、10月8日に帰柏。帰柏して、フェイスブックにアップするために、今回玉野で滞在中に描いた作品の写真に、『玉野だより』の文章を付ける仕事が昨日終わった。27日には、出来上がった『全元論』の本が届いた。一度出来あがり、今回再度手直しをして完成させた6月の玉野での作品も全点完成させ、仮枠も作った。

 明日から、やっと今回玉野で描いた作品を、完成に向けて手を入れる作業にはいれる。来月の15日に玉野に第三訪予定で、それまでに、何点完成することができるか、20点あるのでとにかく頑張ろう。今日は月曜日なので、恒例の、散髪を自分でして、10時13分のバスで手賀沼の日帰り温泉に行く。

『画中日記』2018.11.08【今年の中秋の名月】

 今朝、いつもの通り、フェイスブックに私の「読書ノート」からの抜き書きをアップしたが、たまたまその文章が、道元の、中秋の名月にちなんだ文章だった。

 今年の中秋の名月は、パソコンで調べると9月24日。玉野に滞在中だったので、私の惟一の外からの情報源であるパソコンがなかったので、確認出来なかった。お花見やお月見は、ちゃんと出来なくても、毎年確認しているが、今年は、多分月の出は雲に隠れただろうが、残念だった。玉野での月の出は、描きたい所もあるので惜しかった。

 それにしても、道元の言葉は身に沁みるなぁ。言葉に「物感」がある。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

■中秋上堂。雲開いて胡餅(こびょう、胡麻入りの餅)天辺(てんぺん)に掛く、喚(よ)んで中秋の夜月(やげつ)円かなりと作(な)す、睡(ねむ)り覚(さ)め起き来(きた)って覔(もと)むるに処(ところ)なし、頭(こうべ)を擡(もた)げて忽地(たちまち)に晴天を見る。(98頁)〔『道元禅師語録』 鏡島元隆著 講談社学術文庫〕

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

『画中日記』2018.11.14【明日から玉野に第三訪】

 昨日は父親の命日なので、近年恒例の、市原の満光院に墓参。今日は、明日からの玉野行のための宅急便の荷物の梱包と発送。明日の早朝家を出て、お昼には玉のアトリエに着いている。

 毎日ブログ代わりにアップしているフェイスブックも、今日から約一ヵ月間休載します。今回は12月の10日過ぎまで滞在予定で、帰柏してから第三回目の『玉野だより』で再開します。

『画中日記』2018.12.11【今日帰柏】

 今日の2時半頃玉より帰柏。明日から、溜まっているこちらでの雑用をこなし、二訪目の作品と今回の玉で描いた作品を完成させなければならない。とりあえずは、第4回『イーゼル画会』展のDM作り。玉ではパソコンもないので、毎日絵を描いているだけで、楽しく充実していた。明日から『玉野だより』で玉での制作ぶりを投稿します。

『画中日記』2018.12.12【パソコンのおかげ】

 第4回『イーゼル画会』展のDM作りと校正が今日終った。これも、入稿から連絡、校正がパソコンで可能になったおかげだ。玉で描いた作品も今日届いたし、頼まれていた『全元論』も今日これから、郵便局で発送するつもりだ。明日からまた、絵が描ける。

 もう年末で、すぐに正月だ。来年の年賀状もそろそろ用意しなければならない。歳をとると1年があっという間に過ぎてしまうけれど、画家は時間の流れを証明する証拠を作品が現物として目の前に残る。おまけに、今はフラッシュメモリーとデジカメで簡単に保存と引き出しができる。保存した作品と、「画中日記」や「玉野だより」や今年描いた作品の写真を見れば、今年も充実した年を過ごした。来年は1月の中頃4度目の玉行の予定で、その後、2月5日から第4回イーゼル画会展が銀座の藤屋画廊で展覧。幸せな老画家だ

なぁ。

『画中日記』2018.12.28【iMacを購入した】

 新しいiMacが26日に届き、その接続や、立ち上げ、データの引き継ぎ、などに時間がとられ、ルーティン通りに絵が描けない。でも、昨日で全部クリアし、スッキリした。

 何度もアップルケアに電話して助けを借りたが、以前と違って電話もつながりやすく、応対も丁寧で、おまけに、パソコンを繋いで、画面上で教えてくれる。

 旧パソコンは10年以上前のもので、その頃は、本を読みながら、まず接続、立ち上げから苦労したものだ。折角自分で作った、ホームページも昔の検索エンジン(古いね)の大手はヤフーしかなく、審査があって(それも他人からの推薦で選ぶ)私のホームページは載せて貰えなかった。だから、私はいまだにヤフーは敬遠している。

 日本は、ネットでも世界一になるだろう。これだけ、きめ細かくフォローしてくれて、またフォローする人材がいて、だれでもネットに参加できるようになったことは驚くべきことだ。以前、本で、地方の山岳会のグループが、チッペットの村にパソコンをプレゼントしたということを書いてあったが、日本のように、ネット環境の隅々まで、きめ細かく、サービスとフォローがなければ、使いこなせないだろう。

 これは、私のいう「全元論」で、世界は円錐形のように尖らせてはだめなのだ。一点豪華主義や、全体と部分に差があっては永続きしないのだ。

-画中日記

執筆者:

関連記事

no image

画中日記(2012年)

画中日記(2012年)  2012.03.25 【「抽象印象主義」その後】 2010年5月からのイーゼル絵画への取り組みから、ギャラリー絵夢での東伊豆風景の個展と、近年すっかり具象の作品を中心に制作し …

【画中日記】2020年

【画中日記】2020年 画中日記(2020年) 『画中日記』2020.01.01【新年に】  新しい年を迎えた。パソコンに向かっている。まだ夜は明けていない。(時間は5時45分)。  今年の干支は子で …

『画中日記』2009年

『画中日記』2009年  2009.03.31 2007年にPCを買い替え、電話回線も光に替えたので以前に比べ格段にPCの使い勝手が良くなり、そのせいで操作にも慣れてきました。私は日頃日記はつけません …

『画中日記』2014年

『画中日記』2014年  2014.02.18 【私のフェイスブックより】  現在、私のフェイスブックには『ブッダの真理のことば(ダンマパダ)』(中村元訳 岩波文庫)の抜き書きを投稿しているのだが(サ …

【画中日記】2016年

【画中日記】2016年 2016.01.03 【新年に】  新しい年を迎えて、今日で3日目だ。私の場合、画は美神への信仰なので、新年といえども、やる事はおなじで絵を描いている。それでも、年がかわると、 …