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(38)世界観

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(38)世界観(118頁)

大切なことは世界観の問題だ。大体どんなに複雑にみえても、およそ哲学史を通観しても、何を言っているかというと、基本的な命題は三つくらいしかないんだ。「世界とは何か」「自己とはなにか」「どう生きるか」およそこの三つの問題を、どう解釈するかに尽きる。

それで「世界とは何か」という問題だが、もちろん一筋縄ではいかない。これも見渡してみると、見解は大体三つの見方に分類される。すべての個人の世界観を一人ひとり分類すると、あるいは歴史を分類すると、世界のアルケー(もとのもと、初め、原理)を自然、神、人間、の三つのいずれかに考えるのに分類される。世界のアルケーを、何に置くかという事を自覚しないと、常識的な考えでは、ナチュラルなままでは、どうしても解釈しきれないという、いろいろな体験が出てくるんだ。

その第一の体験は、札幌の住んでいた時、時々釣り道具を担いで一人で釣りに行っていた。石狩の浜に、投げ釣りでカレイを釣りに行ったとき、浜辺にロシアのほうの針葉樹の丸太が打ち揚げられていた。貨物船の荷崩れなのか、よくは分らないけれど、立派な材木なんだ。

「もったいないな。針葉樹の、すばらしい材木だ。いやぁ、もったいない」と思った。しかし、これは救えないんだ。これ一本の材木を救うために、トラックやクレーンを使って、助っ人も頼んで、製材所に持ち込んで…となると難しいし、費用も引き合わないので、そのままうち捨てるしかない。昔だったら、近くの住民が小さく切って薪にして再利用したのだが、ストーブも風呂釜も灯油なので薪の使い道がない。だから、そのままうち捨てられて、朽ち果てるにまかせるほかない。

それはそれで終って、その何年か後に、沖縄の西表島に行ったときに、似たような第二の経験をした。船浮という半島状の突き出たところがあって、陸続きだけど、船浮湾を迂回する道がないので、向いの白浜から渡し船で行った。

そこに渡って写真を撮ったりスケッチをしたりして、歩き回っていた。歩き回っていたら、半島の東側に分校と集落と港があって、半島の西側、集落の裏側で、世にも美しい小さな白い砂浜に出会った。

子供のときに玉(僕の生まれ育った町)の三友会館(造船所の娯楽施設)で観た、不思議な教育映画の風景を思い出した。

(三友会館では、入場料を取る各種の興行もやっていたけれど、ダムやトンネル造りの会社のPR映画や教育映画を時々無料でやっていた。すでに、各家庭にテレビはあったし、無料映画のときはとりたてて広報もしないので、いつもガラガラだった。僕は、造船所の社宅から近いし、タダなので毎回観に行っていた。その映画は不思議な映画だった。会社のPRでもないし、教育映画でもない。映画の意図が何であるかが分らない。映画監督が、クライアントをうまく言いくるめて自分の作品を勝手に作りあげたといったような作品だった。南の島の、若くて健康的な美しい海女の姉妹(双生児?)と漁師の父親との、とりたててストーリーのない、ドキュメンタリー映画で、水面に向かって下半身を隠しただけの半裸体の二人を水中カメラで捉えるシーンが、まるでそれがその映画の目的であるかのように繰り返されるのだ。僕も、最初は性的な興味で「今日ハ、モーカッタ」と思って観ていたのだが、そのうちに、マイヨールの彫刻のような裸体の美しさに、性的なモードは薄れていった。いったい、あの映画は何だったんだろう。)

小さな白い砂浜、珊瑚礁の海、青い空、南国の植物が生えている。そこには誰もいない。誰もいない空間に、僕がたった一人、美しい風景の真ん中にいる。そこで、不思議な感覚におそわれた。

誰も知らないんだ。その風景を知っているのは、僕と船浮の住人くらいしか知らない。誰も知らない美しい風景とは、どういうことなんだろう。もし、僕さえも気づかなくて、船浮に誰も住んでいなかったら…。そういう風景は当然ある。あるけれども、誰も知らないものすごく美しいものというのは、どういうことなんだ。ここ(アトリエ)に僕がいて、ものすごく美しい作品を描いても、誰も知らなかったら、これはどういう存在なんだ。アトリエで、一人絵を描いている画家にとって、これは切実な問題だ。

白い砂浜の風景と石狩浜の流木とが結びついて、当時は人に会うとその事についてよく話した。

それはどういう事かというと、国が崩壊したり、大企業が倒産したり、放置自転車があったりするこの世のすべての存在者(存在する物)は、関係の輪から外れると、無(ゼロ)どころかゴミ(マイナス)になってしまうという事。木は、森の中では自然のサイクルの中にあるが、伐採すると木場に運んで、製材して、加工して、建物に使われる、という関係の鎖の輪の中にあってこそ価値があるのであって、輪から外れると、物でも人でも、全部ゴミになってしまう。放置自転車もそうだ。

 会社が倒産してなくなったら、社員も資材もすべて処分するために、一旦ゴミとして処置しなくてはならない。そのうえで、再利用できる物は、リサイクルして、再び関係の輪に入る。

 関係の輪の中で見るから、僕がその美しい風景に出会って、その美しさの価値が生まれるのであって、もし誰も知らなかったら、これはどういうことなのかなぁ。

 そうすると、価値や意味は物の中すでに存在しているのではなくて、物と人が出会って関係した現象の場において、始めて立ち上がるものなのか。金(ゴールド)は金であり続けるのか。諸行は無常なのか。存在は、実体ではなくて関係なのか。

 (この考えは、かつての考えであって、現在は客観世界の実在を信じる超越的実在論に変わる。誰も知らない美しい風景も、認識する者のいない生物の誕生以前の地球も、その存在は無意味ではなく、常に意味や価値が立ち上がる時を待って待機している、可能存在なのです)

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