(39)認識論(123頁)
そういうテーマを考えていた頃に、ちょうどカント哲学や、現象学の周辺の考え方が絡まってきた。
そのころ、考えていた事は、この宇宙のどこにも世界の存在を認識する観測者、生物がいないとしたら、そのような宇宙は存在しているといえるのか。
そして、次の思考実験。もし、この宇宙にこうもり一種類しか生物がいなかったら、世界とはどういうものか。こうもりの脳の中に表象された世界が、即、世界か。
そうすると、世界にこうもりと僕の二人しかいなかったら、どうなるのか。二人しかいなくて、こうもりが目の前に座っていて、目の前のコップをこうもりと僕とが見ていて、このコップは同じ一個のコップであるのか。ある出来事は、客観的な一つの事象になりうるのか。こうもりと僕は、同一のものを見ているのか。目の前の一個のコップと、僕の認識するコップと、こうもりの認識するコップ、その三つのコップはぴったりと一致するのか。
そのようにいろいろ組み合わせて考えていくと、事実は一つというのは、薮の中だ。芥川竜之介の小説「薮の中」(1922年)。その小説を黒沢明監督が映画化した「羅生門」(1950年)の世界。
世界は認識する人それぞれの現象の場において初めて立ち現れる。外側の世界は暗黒である。…その辺りから、現象学から実存主義の方に傾いて行った。それで五〇歳を過ぎてから、実存主義を抜け出て、結局、現在の超越的実在論者になるんだけれど、一番最初に哲学に興味を持ったのは、その辺から。僕だけでなく、皆がナチュラルに当たり前だと思っているこの世界とは、そんなに単純じゃないぞ、とそのように考えていった。