(21)参照文「私の実存と世界が出会う所」(68頁)
私が印象派以後の絵を見て感じることは大別して二つに分かれる。一つは個別の表面の向こうに作家の本当に表現したい内容が透けて見える。つまり画面の表現内容に距離のある作品であり、もう一つは画面上で意味内容と意味作用がぴったりと一致している作品である。
簡単に言えば図と絵の違いと言えばよいだろうか。図は表面の向こう側に本質があって表面のありようは問わない。ピタゴラスの定理の三角形はフリーハンドで描こうが、黒板にチョークで描こうがすべての表面の向こう側にイデアとしての三角形を想定している。だからイデアは個々の三角形の表面のありようを問わない。(例としてはデュシャンの「ガラス絵」は図的な作品だと思う)
しかし、絵はそのありようこそがすべてで、イデアを画面と一致させようとする。たとえばゴッホのひまわりやセザンヌのリンゴは。記号、シンボルとしてのひまわりやリンゴではなく、ましてやリンゴを作者の深層心理と結びつける類の解釈は間違った解釈法だ。そしてもちろん現実の見える通りのひまわりやリンゴの再現を目指しているのでもない。極論すればひまわりやリンゴでなく画面上の黄色い集合体、赤く丸い空間でも構わない。その対象世界を画面の表面に定着させる在りようこそ画家の描くという行為なのである。
私の絵の画面の向こうには何もない。私の内面や深層心理の表現でも記号でもない。ましてやメッセージのたぐいでもない。画面の表面の光のありよう、画面の上の空間のありようがすべてで、それが私の実存と、世界というこの不可思議な存在が出会い定着する場所であるのだ。(2002年)