岡野岬石の資料蔵

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(注)夢の現象学

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(注)夢の現象学(92頁)

 夢は、自分の脳の内部で起きている現象だ。さて、「夢の中に出てくる他人は誰が話しているのか?」。

 他人の出てくる夢は誰でも見るだろう。誰もが見る夢なのに、この本の『虚数』の章でも話したが、僕のこういう疑問の立て方が非凡だろ。最初の単純な疑問、それは夢の中の他人は誰かということ。他人が僕の頭の中に居着いているのか?

 ところで僕は、単純な疑問があると解けるまで放っておけない。中学生の頃の疑問は「生まれつき目の見えない人は夢を見るのか?見るとすれば、どんな夢をみるのか?」ということ。こんな疑問が次々に続いて生まれ、まわりまわって結局現在の僕の絵のコンセプトにまで影響している。子供の頃から、世界は不思議なことだらけだった。そういう疑問から入っていって「動物は夢を見るのか?」「昆虫は夢を見るのか?」とサツマ芋のように疑問がずるずると連なってわいてくる。

 僕が出した結論だけ言うと、夢は「見る」のではなくて、夢の空間の中で「生きている」。夢を「生きている」とすると、生まれつき目の見えない人は当然夢を見る。動物も夢を見る。昆虫も夢を見る。

 夢の中の他人の話に戻ると、夢の中の他人は、誰が話しているのか。夢を、映画を見ているように見ていると仮定すると、自分が観客席で見ているとして、では映画を映している人はだれか?自分の中の一部が観客で、一部が映写している人で、では、映画を撮ったのはだれか? これも自分。

 そうすると、脚本を書いて台詞を指示したのは自分だし、カメラマンも自分だし……。では俳優はだれ? 台詞を全部指示したとしても、台詞をしゃべっているのはだれ? 俳優そのものはどうするの? 俳優だけはどうこじつけても後ろに自分がくっつかない。どこかから連れてこなければならない。俳優を連れてこなければ成り立たない。すべて自作自演だとしても、夢の中の他人だけは純粋な他者だ。他人だけでなく、風景や、物も。つまり自分の中に他者が住みついている。風景や物も住みついている。起きて、生活している空間が、そっくりそのまま頭の中に映りこんでいる。これをどう考えたらいいか? そこからフラクタルという考えに入っていく。

 ものごとを、こういうふうに考える。こちらに自我があってそちらに社会があって、ここに境界線があって、自分と世界、内部と外部が境界線のもとにはっきりと分け、自我の存在、世界の存在というように、これを対立させて闘わせるから矛盾が生じる。また夢の中の他人のことも、説明がつかなくなる。このようにイメージしたらどうだろう。磁石のように、外側の世界をN極自分の内側をS極だとすると、磁石を折るとまた磁石になるように、外部世界N極と自分S極の関係が、そのままスッポリと自分の内部にもあると考えると、夢の中の他人についても説明がつく。全体と部分が相似形(自己相似形)の構造、境界線のない構造、それがフラクタルなので、マンデルブロー集合の図像には境界線がない。有機物はそもそも外部空間と内部空間の境界がないので、だから水や空気や食べ物を取り込み、またはき出すことができる。外部の存在であるリンゴを自分が食べて消化吸収して一方は内部の血となり、一方は外部に便となって排泄される。この全課程で、自分がリンゴを認識した時から、食べて排泄する時までのリンゴは外部から内部に移る境い目はどこにもない。人間は肉体も精神もフラクタルになっているのではないか。つまり、自分の中に外部が開かれ、取り込まれている。人間の膨大な数の細胞の一つ一つにまで血液は供給され、時間と空間と個体の全体の情報が詰まって、全体も部分も同時に生きている。空間の概念が、外側の大きな世界の中に小さな部分の自分がいるという、こういう構造が、脳の中にもあって、細胞の一個一個がまたそういう構造になっている。ハイデガーは人間の在りようを、箱の中の石のような存在のしかたで存在していないとして、人間のことを実存(現実存在)と呼び、その様態を世界=内=存在と名付けた。

 人間は実存で目一杯ではない。実存が世界を、内部に飲み込むかたちで認識(フロイドの認識)しているのではない。世界の中で自分は部分だ。同じように自分の中(脳)でも自我意識は部分なのだ。脳の中の自我意識の周りには、あらかじめ身体にインプリントされたパースペクティブが広がっている。人間だけでなく、有機物はすべて外に向かって世界=内=存在であるが、内に向かっても世界=内=存在である(内~であるに丶)。

 高度な自我意識がなくても、動物や昆虫も、外部と内部がフラクタルな構造で生きている。植物や単細胞の微生物も、脳はなくても細胞の中に、外部の時間と空間のパースペクティブの情報は持っている。自我意識に近い、「今、ここ」「自他」の情報は細胞の中に入っている。

 無機物は内部が世界=内=存在になっていないので、そこが有機物とは違っている。だから機械の事故は情け容赦がない。森や林の植物を見てみると、きれいに住み分けている。隣り合った木同士が生存競争しても、無機物の接触と違って、隣の木の幹を突き抜けるというようなことは無い。

 犬はしゃべれないが、飼い主のしゃべる夢をみる。犬がごちそうを前にして飼い主に「待て!」と命令されてうなされる、こんな夢はきっとみるだろう。飼い主の「待て」という言葉は起きている時は外部のできごとだが、夢の中では犬の脳の内部での出来事だ。犬はしゃべれないのに、飼い主のしゃべる夢をなぜみることができるのか? それは、犬の自己意識の外側に犬の身体を通して外部が、意識に関わりなくインプリントされているからだ。飼い主(外部)の形象は、意識(犬の知性)が解釈するのではなく犬の身体が写し込むのだ。

 さて、夢を見るという話の結論は、夢は見る(見る、の横にヽ)のではない、「夢の中の空間を生き(生き、の横にヽ)ている」のだ。だから目の見えない人も夢を見る。日常の覚醒時の空間が、スッポリ夢の中の空間になっている。その夢の中の自我が生きている。自我意識のない夢はない。夢の中で自分があちら側(見られる対象の方)に出てくることはめったになく、ほとんどいつもこちら側(見る主体の方)にいる。自分がライオンになったりする夢は見ない。時系列はとんだりしても、夢はビデオテープのように逆回りの時間はない。これらはすべて、夢の中の空間を「生きている」証拠。つまり、肉体は眠っていても脳の中の自我意識だけは、完全にではないが覚醒している(レム睡眠)。だから苦しい夢を見ると、夢の中でも苦しんでうなされるのだ。覚醒時は脳と身体は繋がっていて、身体は意志どおりに動くが、睡眠中は脳と身体の間のスイッチが切れていて身体が反応しない(たまにスイッチがONのままの人がいて、夢の中の動きを睡眠中にする人がいるのをテレビで見たことがある)。逆に、スイッチが切れたままなのに、脳が完全に覚醒した状態がいわゆる「金縛り」で僕も寝入りばなに時々かかる。睡眠中は覚醒時の空間が、スッポリ頭の中にあって、その頭(脳)の中の自我意識が、その夢の中の空間を生きている。「夢の中の空間を生きている」、そういう構造になっていると思う。

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