(3)学生時代(22頁)
学生時代は、不満がなかった。自分でやればいいことだから、そのようにやってきたし、教わろうとは少しも思っていなかった。環境は大学が全部揃えてくれている。おまけに、美大生というモラトリアム状態の無責任さと、大学生ということで周りの人からも認められ、将来の自分の可能性を含めて、非常に楽しかった。(今から考えるとあたりまえなのだけれども、大学を卒業して、社会に出て裸になってみると、会社や学校や美術団体に所属していないと周りからの視線は冷たいもので、その頃にずいぶん一般社会に鍛えられた)
当時、周囲の美術状況は、世界の美術の中心がヨーロッパからアメリカに移り、アメリカの美術運動がリアルタイムに日本に紹介され激動の時代だった。互いに矛盾するコンセプトのイズムが月替りに若い画家の間を駆け巡るのだ。シュールレアリスム、抽象表現主義、アンフォルメル、壁派、反芸術、ポップ・アート、オプティカルアート、ネオ・ダダ、ミニマル・アート、シュポール・シュルファス、美術運動に留まらず風俗にまで拡がったアングラ、サイケデリック、ハプニング等々。
世の中が、政治も文化も反体制、反権力、美術もアヴァンギャルド(前衛)に向かっていると「自分の今やっていることは間違っているのかなあ」と不安になったこともあった。(当時の流行語、自己批判、サブカルチャー、カウンターカルチャー)
特にその頃は、僕の好きなマチスやピカソが、とくにマチスはむしろ否定的に捉えられていた。
かといって、美大生になっても、マチスやピカソはまだまだ理解できていない。セザンヌも理解できなかった。モネやベラスケスも、すごく惹かれるけれど、結局理解できていなかった。当時の絵の見方というのは、どうしても感傷的、文学的にみてしまう。松本竣介とか、佐伯祐三とか、モジリアニだとか、ある意味では感傷的で、青春の甘酸っぱい、ロマンチックな、そういうものに非常に反応するわけだ。しかし、造形的なものには、どうも確かに良さそうだとは理解できても、分析できない。自分がそれだけのスキル(技能)を持っていないから。
ただし、マチスを否定されると「僕はマチスに惹かれているんだけれど、間違っているのかな…」という気持ちになる。世の中全体がそんな傾向だったので、その当時の代表的な意見ではマチスは「保守反動」に見られていた。マチスは第二次世界大戦中、フランスがドイツの占領下で、自分の娘が抵抗運動の嫌疑で拘束された時も、彼の作品の上にはまったく影響しなかった。
ピカソは『ゲルニカ』を描いたり、第二次世界大戦後共産党にはいったりと、かなり社会状況に反応していくのだけれど、マチスは唯美主義というか、芸術至上主義的で、絵はそういう周りの状況と一切関係なしにやっていた。
マチス的な唯美的世界は、時代に遊離した、女性をソファーに座らせて、ヌクヌクと心地のいい美しい絵を描いている、保守反動のきわみだと攻撃された。その風潮が当然、僕の近辺にも影響してくる。
「今の時代にまだヌードなんか描いて、そういうのはアナクロだよ…」と、ちょっと先走った同級生にいわれた。「造形とか、美とか、もうそんな時代ではないよ…」と。僕はそういう絵が好きだし、いわゆる描写の仕事だから、主観表現とか、政治的メッセージなんかは、一切絵に考えていないのだから、不安になるのは当然だ。
それからデュシャン。一時期、美術ジャーナリズムはデュシャンがいい、いいと神様みたいに言っていた。デュシャンは、目を喜ばせるための「網膜的絵画」を否定した。「…何だ、これは。美味しいものを出さない料理屋があるのか、美を目指さない絵描きがいるのか。こんな絵が本当にいいのか。僕が間違っているのか…」
今になってみれば僕のほうが正しいと自信を持っていえるが、当時は自分の進むベクトルがあやふやなのだから危なく道に迷うところだった。デュシャンの有名な『大ガラス絵』とセザンヌやマチスの絵を同時に並べて比べてみれば、絵と図の違いがよく解る。デュシャンの絵は、まるで設計図を見ているようだ。(【参照】…「私の実存と世界が出会う所」)