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(19)芸大という所

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(19)芸大という所(60頁)

思い通りにストレートで芸大に入学できて、最初に描かされたのが、モリエールの石膏像の木炭デッサン。その僕のデッサンに対して、先生に否定的な意見を言われた。その時に思ったことは、その先生の意見は、正しいかどうか分らない。正しいかどうか分らない意見を聞くわけにはいかない。だから、自分の納得できる方向にのみ、自分の絵の努力をする。それに、絵画上の目下の問題が次々と出て来て、ほかの方向からの意見にかまける暇がない。語弊があるけれど、芸大に入ったとき、先生というより、この人達は僕が卒業したらライバルになるんだなあと思った。不遜だけれど、そういう感覚は高二の二学期から芸大受験を決め、一足飛びにストレートで入学した自信過剰がそうさせたのかもしれないが、今考えても間違ってなかったと思う。

美校生時代を思い返すと、教わった思い出はほとんど無く、すべて自分で試行していった。記憶に残っているのは、先生というより、一人一人の絵描きの姿。昔の教授は良かった。一、二年生の時は、脇田和、久保守、寺田春弌先生で予めクラスは決められていて、僕は寺田教室。三年生になるとき、学生が自分で選んで、小磯良平、山口薫、牛島憲之、久保守先生の教室に別れて進級した。僕は小磯教室だったが、僕達の年は、小磯教室と山口教室の人数が多かった。小磯先生は、こちらから質問すれば答えてくれるけれど、いわば自由放任で後に抽象や前衛、ヴィジュアル・デザインなど多方面に進む生徒が集まっていた。山口教室は、いわゆる絵描きらしい生徒が多く、僕の一、二年の時の仲の良かった友人は大半が山口教室に別れて行った。僕も、二年生の終わりのコンクールの四人の教授が全員揃っての合評会(三年に進級時の教室選択の参考にするため)で山口先生に随分ほめられ、山口教室か小磯教室か迷ったけれど、結局自分の性格を考えて、自由に自分の好きなように制作できるだろうと考え、小磯教室に進んだ。いくら教授だといっても、本人にとっては、学校にいる時の自分よりも、アトリエで絵を描いている、一人の画家としての自分が一番大事なのはいうまでもない。だから、時折垣間見える一人一人の絵描きの姿、それが、たまらなく興味深かった。

四年生の時、上野の広小路の小料理屋の二階で小磯教室のコンパをやった。その店は今でもあるが、おなじクラスの比留間君が見つけて来た店で、山口先生もよく来る店だったらしい。小磯先生は、居酒屋なんかに飲みに行くような人ではなかったけれど、学生のコンパに先生を呼ぶと、一次回には大抵来てくれた。それで、一次回の終わる頃になると「僕はこれで失礼する。後はみんなで」と言って、二万円を幹事だった僕に渡して帰っていった。当時の二万円は、大卒の初任給を少し越すくらいだったから、今でいうと一五万前後だろうか。お金を残すわけにはいかないから、みんなで「肉を喰おう」と、クラス全員でタクシー(まだ都電が走っていたが)に乗って、秋葉原の万世橋の肉料理屋に行って、一五人位ですき焼きかなんかを食べた。それでもお金が余ってしまう。それだから、もう一回上野に帰ってきて、広小路のケ-キ屋の喫茶店で、お茶と洋菓子でも…。学生は皆一様に貧しく、選択肢が少なくて、喫茶店で、コーヒーなんか飲んで、それでもまだ余る。それでクッキーの詰め合わせを、女性にお土産に買って、それでやっと全部使い切って解散した。そんな風で、小磯教室では、冗談で毎月コンパをやろうという話が出たりしたけれど、返ってやりにくいものだ。

小磯先生は、若い時から画家としては順風満帆で、金銭的苦労は未経験のように外からは見られていた。そういう感じで、二階を貸し切りで小磯教室のコンパをやっていたとき、一階で山口薫が飲んでいた。山口先生は、最晩年にやっと絵が売れだしたが、当時はお金に潤沢ではなかった。それで僕達が盛り上がっているときに、階段を上がってきて、「やあ小磯君」といって部屋に入ってきた。少し酔っていたのだろうか。小磯先生は当然、自分の席の横に山口先生の席をすすめた。山口先生は座るといきなり「小磯君500円貸してくれない?」と頼んだ。

「ああ、いいですよ」と小磯先生は千円札を一枚出して「はい」と渡す。ところが、そこから…。

「五〇〇円でいいんだよ」

「五〇〇円だから、千円」

「今度会った時に、必ず返すから」そんなやり取りが延々と続く。いつまでもグダグダと、みんなの雰囲気がしらけるほどそんなやり取りが続く。僕の解釈だから、本当の所は分らないが、山口先生は小磯先生に、酒の席と五〇〇円にかこつけてカラんでいるように見えた。そもそも五〇〇円を借りにくること自体がおかしい。山口先生のなじみの店なのだから、たまたまお金が足りなくてもどうとでも対処できるはずだ。

つまり、本当に言いたいことは「小磯君はいいよな。分かり易い絵を描いて、売れて。僕は君よりもいい絵を描いているのに、売れなくて」というようなことだ。皮肉や、自分の経済的な屈託を込めてカラんでくるので、小磯先生も困っていた。小磯先生というと、神戸に住んでいて、西洋料理とワインが似合いそうな瀟洒な雰囲気の人で、一方山口先生は居酒屋でジタジタと飲むようなタイプ。

その二人が、よくぞ学生の前でそんな姿を見せてくれたものだが、ほんとうに面白かった。大学の教授ではなくて、生身の絵描きどうしが目の前でやりとりしていたのを、いまだに覚えている。教授でなく、絵描きが二人。僕も一人の絵描きとして、横で見ていて、面白かった。多分今はそういう教授もいないだろう。

梅原龍三郎も、こんな逸話がある。当時の助手だった画家から聞いた話だが、梅原教室で何かの展覧会に先生が学生を連れて行くという。教授が「学生の名簿を持ってきて」と言って、助手の人が名簿を持っていくと、名簿を見てチェックする。こいつと、こいつと、こいつと・・・。後は連れて行かなくていいと言った。それ以外の学生は、連れて行っても無駄だと言ったという。連れて行ってもらえなかった人には残酷な話だ。

そのように、美術大学という所は平等で明るく楽しいカジュアルな学校というのではない、と思った。今はどうか知らないけれど、昔はそうだった。

傷つく人は相当傷つく。「ああ、駄目」なんて言いかねないから。ほんと、「君は駄目だよ。画家はあきらめた方がいいよ」なんて言いかねない。特に女性は駄目という先生がいた。「君達が一人入るおかげで、一人落ちるんだから、どうせ将来結婚して主婦になるのなら、最初から受けないでほしいな」などと言っていた。

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