(19)薪が灰になるのではない(注)(96頁)
シャケが川を上ってくる。途中で捕まるシャケもいる。卵の中でイクラにされるのもある。シャケの卵から作ったイクラは、シャケの卵が原因だと言ったら、きっとシャケは怒るだろう。イクラになるためにシャケは腹に卵を抱えているのではない。薪が灰になるのでないと同じように、卵には卵そのものに意味がある。たとえば僕の母親も、初潮から閉経まで多くの卵を産むのだが、その中のたった一個の卵が僕になったわけで、妊娠しないとサッと流れる。
卵子といってもそれが全部人間になるのではない。シャケなら卵をかかえて来て、全部が受精して全部が卵として散ったとして、一つずつの卵から孵った一匹一匹の稚魚は、人間なら僕であり、弟であり、妹であり…というようにずっと連なる。一匹、一匹違う世界が現成するわけである。
人間から見たらシャケの卵はみな同じだが、個体から見たらそれぞれに散るわけである。一匹一匹が新たな縁で、食われたり、病気になったり、餌があったりなかったり、一匹一匹の世界が、今、今、今と続くのである。あるものは、卵や稚魚の時に他の魚に食われるし、途中で釣られるのもいるし、せっかく成魚になって産卵のために生まれた川に戻ってきても、途中で網にかかったりで多難である。仮に、一腹(ひとはら)の卵から二匹が成魚になった帰ってくれば種は循環する。しかし、よく考えてみたら、前の個体とは違う。人間から見たら同じシャケでも、シャケ本人からしたら四年前の二匹のシャケは、あれは親父とおふくろだったのだという話だ。本人はいろんなことを乗り越えて、そこまで来たのだ。
つまり薪が灰になるのではないのだ。春になったら毎年桜の花が咲くといっても、桜の花は個体が違うのだ。去年の桜とは違う。今年はまた新しく現成していくわけで、運命的にすでに決まっているわけではない。過去のすべての存在は運命的に流れて今に現成しているのだが、今からの未来は、今、今、今、今と各個体の因と縁で物の在り様(よう)は分岐してゆくのだ。もし僕がイーゼル絵画に入るという決断をしていなくて、今のところから別れるとしたら、また新しいページが開いてく。
だから決して、自分をどうするこうするという問題でなく、世界のことをしっかりと見ていくと、翻って自分の行動が何をすべきかが分かる。そんな世界観には、表現主義も実存主義もフロイドの人間観(シュールリアリズム)も何も出てこない。人間が新しい世界を創造する云々はないし、ゆとり教育もない。自由意思もない。真理の前には自由はないし、美は人それぞれ百人百通りではないし、善は恒常普遍でコロコロ時代によって変わったりはしない。世界存在の法の中に含まれて、すべてのものが存在していて、その全体の在り様が真善美、真であり善であり美であるという、三様で世界に現成公案しているというということを認識すると、生き方も、画家がどういう作品を描かなければならないかも、おのずから導かれる。
それから所有の問題がある。近代は所有を巡ってことごとくやり合ってきたとも言える。しかし全元論のなかに私のものという私有権などはない。特許もない。そもそも真理に特許権を取らせたら大変なことになるのだ。僕が見つけたから僕のものだと主張したらそれは、ピタゴラスの定理を見つけたでピタゴラスが所有権を主張するようなものだ。ピタゴラス以外はピタゴラスの定理を使用してはならないとなったら、それはとんでもないことになる。だから今でも、数学の証明、物理、科学の発見者は名誉以外になんの権利もない。
それが薬になると、新薬の開発などは問題が大きい。特許権を取らせたらいけないが、研究費の問題があるから何とか対応しないといけない。薬は、全世界の人の命に関わるから特許を取らせたら大変だが、報奨金のようにするとか、それで全世界が助かるなら何かしなければ…。
私有権の問題は、芸術において真似した真似されたという問題が起きる。絵でも音楽でもそう。研究費がないといけないという面もある。しかし本当はただでもいいのだ。あのペルリマンも報酬を求めなかったし、お釈迦さまでも道元でも、ケチケチしないで惜しみなく太陽が地球を照らすように全部与えた。それでいいのだ。
西洋近代哲学およびポストモダニズムの世界観は、お釈迦さまの説いた、人間が壊滅(えめつ)すべき三つの煩悩である貧・瞋・癡(とんじんち)をすべて認め、むしろそれを人間の権利として戦いとるものだと主張した。この世界観では、紛争はなくならないしむしろ紛争を生みだす。そして、この世界観で生きれば、この世界観の国で生きれば、人間の一生は四苦八苦で終わる。
(注;たき木はひとなる、さらにかへりてたき木になるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪(たきぎ)はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位(ほうい、物のありよう)に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。
しかあるを、生(しょう)の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり、このゆゑに不生(ふしょう)といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり、このゆえに不滅といふ。
生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば冬と春とのごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。道元『正法眼蔵』「現成公案」の章より一部抜粋)