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(7)時間も空間も〈今、ここ〉とズレてはいけない

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(7)時間も空間も〈今、ここ〉とズレてはいけない

一般には、ブラーフマンとアートマンを分けたほうが考えやすい。ブラーフマンとアートマンの一致同調した世界は、西田幾多郎は「主客合一」「絶対矛盾の自己同一」といっているし、坂本繁二郎は「捨身本能覚」といっているし、道元は「身心(しんじん)脱落」といっているが、主客合一の世界を、身心全体で理解体感するのは難しい。禅では「不立文字(ふりゅうもんじ)」といって、悟りの世界は言葉ではいい表わせないといっている。だから、ブラーフマンとアートマンを分けた世界で説明します。世界と自己を分けて、世界はそうなっているのだから、自分はこう生きるしか仕方ないだろうと考えるほうが分かりやすい。たとえば、昆虫の話がある。これはフェイスブックの他の人の話だが、ある人のベランダのプランターに、キアゲハの縞模様の大きい幼虫がいて、サナギになりかけていた。鳥に見つかると食われるという危険もあるが、幼虫がそれくらい大きくなると、鳥でなくむしろ寄生蜂に体内に産卵されたりする。また、食草のパセリが足りなくなって、買ってきて与えたりすると、死ぬ場合があるので、無事に蝶になるのはけっこう難しいものである。

アゲハ蝶は、春に一回夏に一回と、年に二回蝶になる。夏に羽化した蝶は、産卵しその幼虫が大きくなって、秋サナギで冬を越して翌年に飛び立つ。その話では秋口の時に、大きくなった幼虫を家の中に入れてしまい、サナギになり、やがて蝶になり「良かった!」と言って外に逃がしたとのこと。

しかしそれは、蝶にとってはありがた迷惑なことだ。そんなふうにして外の世界に送り出されても、自分が生きていくにあたって花がない。交尾する相手もいないし、卵を産むのに適した草もない。僕はもともとファーブルや虫の話が好きで、関連本も読むのが大好きだった。しかし、この話は世界の構造に合っていない。そうやってズレていくのだ。

芋虫の時は食草をモリモリ食べて、食べること(口と消化器)に特化して虫は成長する。やがてサナギになり次は蝶々になるが、こういうのは完全変体。ちなみにバッタは、小さいバッタが大きいバッタになり、こちらは不完全変体である。なぜ、芋虫から蝶になるというような、ドラスチックな完全変体をしなければならないのかというと、単に芋虫がその場で成虫になるだけなら、交尾相手は自分の兄弟になるから、やがて種が劣化する。だから今度は交尾に特化する。交尾する時点で羽があるとチャンスが多くなる。つまり飛んでいって種の違う交尾相手を見つけるので種が新しくなるし、卵を産むときにも色んな場所に産卵することができる。

そのように頑張って、結果として子孫が二匹が成虫になったら、種としてはOKだ。大発生も絶滅もあるが、ともかくそうやって維持できる。問題はサナギだ。サナギというのはたいへん危ない。人間も同じで、外は硬く中が柔らかい。人間もたとえば今は男も女も、社会に出るにあたり、しっかりと完全変体しなければいけない。大人になる直前に危ない時期があるのだ。外は硬いけれど中はものすごく微弱で、なおかつ激烈な変化が内部で起こっている。サナギと同じような時が、人間にも思春期にある。

次は羽化。蝶は、羽化のときの場所の設定がけっこう微妙なのだ。サナギになった時と、羽化する時と、周囲の状況が変わったら、縮んだりきちんと広がらなかったり、けっこう危ないのだ。体液を翅脈(しみゃく)に送り込んで小さくたたまれた羽をきっちりと広げる。それをしっかりと乾かして一人前の蝶になる。だから仮にサナギを本来と違う場所に置いても、脱皮まできちんと上手にさせてやらないといけない。それらのプロセスの全部の面倒を見ないといけない。

何を言いたいかというと、外の環境と本来の時間・空間とがズレてはいけないということ。時間的にズレても、空間的にズレても、昆虫は生きてはいけない。空間的にというのは、違うところに、たとえば周りの環境と気温や湿度等が違う場所に持って行ってはいけない。時間的にというと、本来の羽化の時間でない時に家の中で羽化させても、その後、花の蜜くらいはあったとしても交尾の相手もいないし、食草もないし、蝶にとってはじつにありがた迷惑になる。

人間も同じである。天の理、本来の律に従わないといけない。律でも構造でも、ゲシュタルトでもいいが、全体から切り取って、ぱっと横に置いても人間は生きてはいけない。そこを敢えて、金と力で無理矢理に横車を押しても、すべては諸行無常だ。そうでなく、全体のなかの自分の位置で、しっかりベストを尽くす。そうすれば全体も部分も、国家も国民である自分も悪くなるはずがない。

分けていくということ、対立的に考えるということが、すでに根本的に間違っているのだ。神と人間もそうだし、心と身体(からだ)もそうだし、自分と他人もそうだし、善と悪もそうだ。そもそも悪は分けられない。磁石が、N局とS局を分けられないように、仮にそこだけ囲っておいて、これを抹殺すればあとは良い世界になるかというと、そんなことはない。他者の悪がなくなることはない。仏教と違う教えを信じる人のことを「外道(げどう)」というが、お釈迦さまは外道とは争ったり、戦ったりはしていない。道元は『正法眼蔵』の「諸悪莫作(しょあくまくさ)(注)」という章で、見事な論旨でこの点について書いている。

(注)諸悪莫作;七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ) 過去七仏がともに守り続けてきた戒めの偈(げ)。 諸悪莫作,衆善奉行,自浄其意,是諸仏教 (あらゆる悪をなさず,もろもろの善を実行し,みずからその心を清らかにすること,これこそ諸仏の教えである) 」という意味の詩。

 

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