(7)パラダイム(32頁)
そう、物を見るパラダイム(世界を認識する時の枠組み)の違いだ。写実的なデッサンを教えるのはかんたんだが、このパラダイムの違いを教えることは容易ではないのだ。同じリンゴを見てセザンヌはどうして、ヒマワリを見てゴッホはどうしてあのように描くのか。ゴッホもセザンヌもマチスも想像で画面を作ってはいない。目の前の対象を見ながら絵を描いている。でも僕にはそう見えない。ゴッホやセザンヌやマチスの目には世界が各々の絵のように見えるのだろうか。
世界はみんな同じように、目に写っているはずである。では、同じように目に写ったものを描写してどうしてゴッホやセザンヌやマチスのように描けるのか。
二〇〇五年の正月に、テレビで有名なピアニストが若いピアニストにピアノを教える番組に偶然出会った。少しだけ見てすぐにテレビを消してしまったが、その時の教え方が見ていられなかった。生徒のピアニストの弾くフレーズ毎にダメ出しをするのだ。生徒には、そうしなければならない、そう直さなければならない理由が解らないままに、先生の言う通りに弾こうとしている。これでは、ピアノの演奏が手と記憶力の勝負になってしまう。楽譜どうりに楽器を弾きこなせる段階を過ぎたら、次は音符の背後の音楽空間、どうしてそのように弾かなければならないかの理由を生徒に理解させなくては、生徒は職人の域を出ないだろう。絵画で言えば、名画の模写や絵画組成の研究をいくらやっても本人は肝心の芸術家にはなれないのだ。セザンヌはともかく、マチスの絵を正確に模写することは、比較的たやすい。しかし、画学生の眼前のモチーフをマチスならどう描くか、と設問を変えると途端に途方に暮れるだろう。私が山口薫の「愛犬クマ」の色紙を描いているところを見て驚いたのは、手(技術)の違いではなくて、画面への行為の美的判断力の基になるスケール(物指し。画家でいうと画面の空間と画面の光)の違いに気付いたからなのである。
今(【注】二〇〇四年一二月のこと)、週に一度柏の画材店のヌード教室に通っている。マチス展を観て、また人物がやりたくなって、ヌードは、アトリエに直接モデルを呼んでも簡単には作品にはならないだろうから、トレーニングしようと思って、チケットを買って生徒として通っている。芸大出の後輩が教えている。
一生懸命描いていると、隣の婦人が私のデッサンを見て、聞く。
「それは、デフォルメという事ですか。デフォルメしているんですか?」
「いや、これはデフォルメではなくて、一生懸命、見て描いているんですよ。でも、そういうふうに見えないでしょう。見ているところが違うんですよ」
はぐらかすつもりもなく、チャンと答えてあげようと思うのだが、何か禅問答のようになってしまう。「はぁ…?」と言われて。
丁度僕が山口薫の絵を見たときと同じです。他の人からは「どうして?」となる。見て描いているのに、何でこうなるのだろう、と。
子供と将棋をすると、子供の考えていることが手に取るように分るように、概念内に納まる他人のそれは「この人は、ああ、この人はこういうふうに見ているな」と僕には、よく分る。