(15)恥を知る(77頁)
「恥を知れ」と言うが、今はおよそ恥がない。恥ずかしさを知らない生き方は、多くの有名人や政治家のように、晩節を汚(けが)して悲惨な結果になる。真善美があるから真があり偽があり醜がある。しかし真善美はないとおもっている人にとっては、真善美は人それぞれ時々によって変わるという世界観の人にとっては、恥ずかしさもなくて、何をしても平気になる。
僕は子どものころの体験から、恥を知るということに付いて、薄々感じることがあった。何度か話した体験談だが、、父の勤務先の造船所に児島荘(現在は名前が違う)という宿泊所があり、船会社の高級船員やクライアントが泊まったりする贅沢な施設だった。その高級船員用宿泊施設の管理人兼コックとして、僕が小学校の3年生の時に転勤してきた家の子どもがA君という同級生で、僕はよく遊びに行った。昼間はだれもいないから、ロビーにテレビがあってビリヤードをしたり、その上にさらに台を置くと卓球台になったりで、僕たちはそこで自由に遊んでいた。
その頃の造船所は、タンカーの受注で舟も大きく、景気もよくて、その船が完成しての進水式は華やかなものだった。6年生の時、セレモニーを見学する他の小学校の児童を乗せた貸し切りバスが児島荘のすぐ前に止まった。僕と同じくらいの年齢の子どもたちであるが、バスの窓からは、ちょうどブロック塀の上からロビーの中が見えていた。すると、男の子は敵意の眼差しだが、女の子たちは「ネェ、見て見て!」とささやきあっている。どこのお坊ちゃま?というような目で僕たちを見る。子どもなのにビリヤードをしているから、ホテルのロビーのような室で、同じ年ごろの男の子が自然に遊んでいるのを、憧れの目で見るわけだ。
たしかにそんな目で見られたら、もの凄く気持ちがいい。しかし僕は、本当は違うわけだ。住んでいるところは社宅だし、そこにたまたま遊びに来ているだけで、お坊ちゃんでもなんでもない。A君もその施設の従業員の子供だ。この状況はかなり恥ずかしい。自分はそうでないことを知っている。しかし向こうの目は、同じくらいの年齢の男の子なのにビリヤードをして、こんな生活をしていて、いったいどんなお坊ちゃまだろう?という視線なのだ。この時の複雑な、恥ずかしさと気持ちよさの入り交じった気持ち…。すなわち自分の本当の姿とバスの中の女の子に写っている姿とにはギャップがあり、それに気づいている。人の目から見た姿と、僕の本来の姿とには大きな違いがある。これに気づくとたいへん恥ずかしい。
ところが、ベンツに乗ると急に偉くなる人がいる。あるいは高級腕時計をつけると偉くなった気がしたり、女性にしても旦那が偉くなると、あるいは偉い人と結婚すると急に自分が偉くなった気分の人がいる。「お前、お前が偉いわけでないだろう」と言いたいが、そのギャップに自分では気づかずに、そうなりきってしまう人が多い。もともとの真の自分の姿の認識がなければ、ギャップもないのだから、恥ずかしさも起こりようがない。恥ずかしさを知らない人たちである。
子どもの頃に、僕はそこに気づいた。僕は40代に、髪の毛が薄くなっても自分がカツラをつけるという選択肢は、まったく頭に浮かばなかった。だって本当の自分を知っているのだ。カツラをかぶったら髪がふさふさして見えても、本当の姿を、僕は本当は知っている。よく平気でいられるな、と思うのだ。ブランド品を着ると平気で急に態度を変えたり、整形手術をしたり、カツラをつけたり、タトゥーを入れたりとか、そういった発想はまったく思い浮かばない。だって、本当の自分を知っているだろう。よく恥ずかしいと思わないな…ということだ。
本来の真善美がある。真善美のダルマ(法)は世界存在を貫いている。しかし、ウソは百編ついたら本当になると思っている人もいる。百編ついても千編ついてもウソはウソなのだ。お金と、権力でいくらごまかしても、ウソはウソなのだ。一方でウソを平気でつけない人もいる。ウソをつくと良心がとがめる。ウソと本当の概念がない人は、すぐにその姿になってしまうことが出来る。だからブランド品が好きだったり、車なら高級車に乗りたがったり、そうすると人の目が違うといってトクトクとしている人がいるのだ。